2024年 ノベル大賞受賞作文庫化!
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2024年ノベル大賞 準大賞受賞作
ハンティングエリア ~船上の追跡者~
羽良ゆき(装画:蔀シャロン)
気候変動で国家の枠組みは破綻し、巨大資本を持つ者が絶大な権力を握るようになった近未来。富裕層に属するマイラは、意に染まぬ結婚を強いられ、鬱屈した日々を送っていた。ある日、夫であるフレイが豪華客船の試験航行を兼ねたクルーズに招待されたことから友人夫婦たちとともに旅立つことになるが、航海の途中、目を覚ますとクルーは姿を消し、乗客8名だけが波間に漂う船に取り残されていた。緊迫した状況下でしだいに夫の酷薄な本性への嫌悪を募らせていったマイラは、ひとり離れて船内を探索し、船倉で手錠に繋がれ衰弱した青年を発見する。言葉のまったく通じない青年と過ごす中、正体不明の処刑人により、ひとりまたひとりと乗客が殺されていき……。
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マイラ
意に染まない結婚を強いられ、鬱屈した日々を送る女性。
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フレイ
マイラの夫。一見、妻の事を気にかける良き夫に見えるが……?
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グレッグ
フレイの友人。筋肉質で長身。朗らかに見えるが……?
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イエリー
グレッグの妻。プライドの高い美女。
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惺
40代半ばの女性。女帝として幾つものグループ企業を率いている。
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藻洲
惺の夫。にこやかで人当たりが良い。
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メイヴィル
おとなしそうな雰囲気をした青年。薬の研究をしているらしい。
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ミア
メイヴィルの妻。無口で人柄も性格もつかみにくい。
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テグ
マイラが船倉で見つけた青年。
気持ちが悪い。
フレイが窓を開けてくれたのは、どうやら完全に逆効果だったようだ。
テーブルに置かれた果物の盛り合わせが主張する甘ったるい香りが、部屋に入ってくる潮風とごっちゃになって、なおさら胸を悪くする。
絶え間なく襲う吐き気に、わたしは先ほどからスカートの裾をきつく握りしめていた。意識して深呼吸を繰り返すものの一向に改善される気配はなく、吐き出した息は大きなため息のようになってしまう。
「マイラ。まだ顔色が悪いようだね。大丈夫かい?」
椅子に座ったわたしの正面にしゃがみ、フレイは下から顔を覗くようにしてそっと手を握った。
心配そうな顔をしている時も、フレイの口角はわずかに上がっている。人当たりがいいと言われる彼の、いわば癖のようなものだ。どんな時でも冷静でにこやか、育ちがよくて物腰が柔らかく、顔だちも整っている夫。結婚前に知った情報では、彼の三つの特性(ネイチャー)は「理想」、「社交」、「戦略」。そして容姿のスコアは五段階のうちの四だった。親から継ぐことが決まっている事業も安定しており、かつての同級生達は声を揃えて羨ましがった。
「ええ、大丈夫よ」
答えた声は情けないほど掠(かす)れている。そもそもこの旅の準備をしている時からずっと胃が痛かった。気が進まない旅行に、それ以前の問題……。
ありもしない救いを求めて室内に視線を巡らせると、ソファテーブルに出しっぱなしにしてあった本が目に留まった。主人公が広大な砂漠を行く物語。わたしは昔から本が好きだ。頭の中で想像する世界では、完全に一人きりになることができるから。
モスグリーンのキャンバス地のブックカバーはだいぶ前に自分で縫ったもので、封筒などに使われる円盤状の留め具と細い紐で本を閉じておけるようになっている。それを付けたことに別段深い意味はなかったが、その姿は見ようによっては中身を覗かれたくないと外界を拒否しているようにも見える。
――私みたい。知っているのは、本人だけで充分。
生理が遅れていることは、フレイにも誰にも言っていない。初潮を迎えた少女の頃から毎月正確に訪れていた月経がこんなふうに遅れることなどめったにないのだが、確かめてもいないうちから余計なことを口にすべきではないだろう。
「酔い止めの薬が、わたしにはあまり効かなかったのかも……」
つわりというものがいつ頃から始まるのか知らないが、まだそうと決まったわけではない。体全体をねっとりと包み込む気分の悪さは、もしかすると本当にただの船酔いかもしれないし、夜中から一人で抱え続けている不安と恐怖のせいかもしれない。もしくはほとんど一睡もしていないので、寝不足のせいという可能性もある。
微笑んで見せた唇の端が引きつっているような気がしたが、あまり心配されたくないので無理にでも笑っておく。そうしておいた方がいい。とりあえず、今のところは。
時計はすでに朝の七時半を回っている。そろそろみんなが起きだしてくる頃だ。
- 羽良ゆき(はら・ゆき)
神奈川県在住。B型。『Decks―ハンティングエリア―』で2024年ノベル大賞準大賞受賞。同作を改題・改稿した『ハンティングエリア~船上の追跡者~』でデビュー。

『ハンティングエリア
~船上の追跡者~』
- 著者
- 羽良 ゆき
- 装画
- 蔀 シャロン
- 2025年4月発売予定
三浦しをん
社会に対する登場人物の批判的眼差しと自由を希求する静かで熱い志が、作中に充満している。
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今野緒雪
マイラとテグ、言葉が通じないところを含めて、ぎこちないその関係は読者心に刺さります。
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似鳥 鶏
一般に「コバルト文庫の系譜」とみられているノベル大賞にこうしたハリウッド映画のごときノリの作品で挑戦してきたその意気や良し! と、まず好感度が高かったです。
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丑尾健太郎
作品の持つパワーや熱量は、候補作の中でも群を抜いていると感じました。
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※リンク先の選評では、物語の結末に触れている箇所があります。