ハンティングエリア ~光の草原~

初夏の風が吹き渡り、牧草地の斜面で草が揺れる。緑の絨毯が波打つ様を眺めながら、バージルは一か月前に行われたテグの母親の葬儀の様子をぼんやりと思い出していた。
ここは大陸南部の高原地帯で、シュナイの街から伸びる幹線道路を長いこと西に移動すると現れる、静かな村の一角だ。羊飼い達は数人でフェル(牧草の生えた放牧用の山)を共有し、自分が放牧権を持つフェルの麓に共有地とは別の小さな土地を所有している。個人の家や納屋はそこにあり、用がある時だけ商店のある村の集落まで足を延ばす。
この地域では、羊飼いやその家族が亡くなると同じフェルを共有する羊飼い達が集まり、フェルの中腹で死者を弔うための鎮魂歌を歌う。歌詞などない、たった四つの音階からなるシンプルな旋律が、悲しみを乗せて優しく丘をくだっていく。
あの日も、朝のうちにすべき急ぎの作業だけ済ませて、みんながこの辺りに集まっていた。同じ場所に生きる羊飼いには、ある意味共同体としての強い絆がある。
――テグは今頃、どこでどうしているのだろう。
母親の葬儀を終えた二週間後、夏を迎える前の一連の作業を終えたテグが「父親を捜しに行く」と言い出した。彼の父親は前年の冬に出稼ぎに行ったまま予定の春になっても戻らず、母親の危篤や訃報の知らせをやってもまったく音沙汰がなかったのだ。そしてテグが農場を不在にする間、バージルは初めて羊達の世話を丸々一人で預かることになった。
かつて地球を襲い大陸面積を半減させた大規模な気候変動以降、人々は科学技術や富を持つ者とそうでない者に二分され、その間には埋めることのできない溝が横たわっている。
テグが向かった遠方の大都市には「選択子」が沢山いるはずだ。体外受精の着床以前、受精卵の段階で「遺伝子の選択」というふるいにかけられた彼らは、自然妊娠で生まれる者よりも優れているとされ、社会的地位の高さと裕福な生活環境から「非選択子」に対して高飛車で横暴な態度をとると聞いている。テグは選択子に会ったことなどないだろうし、都会では街中に溢れているという機械類にも触ったことがないはずだ。父親が行った場所の住所はわかると言っていたが、そもそもそこにいないから連絡がつかないのだろうに、公語が話せないテグが無事に人を捜すことなどできるのだろうか。
「バージルゥ――!」
子羊を呼ぶ母羊達の鳴き声に混じって、バージルを呼ぶ澄んだ声が響く。
振り向いて麓を見下ろすと、少し盛り上がった土地に建つ古い石造りのファームハウスの脇を、モイが早足で歩いてくるのが見えた。その周辺は石垣や柵、灌木、小川などによってパッチワークのようにいくつかの小さな土地に仕切られている。
「お茶持ってきたからー、休憩にしよ――」
モイはいつも近くまで来ないうちから話しはじめる。朗らかな娘だが、少しせっかちだ。
「どうせまたちゃんとしたお昼、食べてないんでしょう。慈愛に満ちた女神様が、残り物のパンを持ってきてあげたわよ。テグが帰ってくる前にあんたが倒れたら、困るのはテグと羊達なんだからね」
バージルはつい先ほど地面の亀裂に足がはまっていたのを救出した子羊にもう一度目をやり、近くの草地に腰を下ろした。助かった。実は朝食を兼ねてとった食事が足りなくて、腹がぺこぺこだったのだ。モイの家のパンは少し固めだが味がいいし、間にチーズかベーコンが挟んであることが多いのでボリュームがあって腹持ちがいい。
バージルがテグの家の農場を手伝うようになってもう六年経つが、今のところはまだ自分の羊を持っていない。そのうちここで自分の羊を飼い、品評会で賞をとって高く売れるようになったら、いつか自分の農場を買えばいいとテグは言ってくれている。
「テグはいつになったら帰ってくるのよ。やっぱり何かあったのかしら」
予定では一週間、長くて十日ほどと言っていたのに、今日でもう丸々二週間だ。
正直なところ、バージルは「何もないわけはない」と思っていた。通いから住み込みになって三年。その間にもテグの父親が出稼ぎに出たことは何度もあったが、こんなふうに連絡がつかなくなったことはない。テグの父親は朴訥とした人柄だが、賢く、物知りな人で、この村では珍しく世界の共通語である公語を話せるし、若い頃は大きな街で電気だか鉄だかの何かを作る仕事をしていたらしい。声を荒げることはめったになく、テグがこの農場にバージルを連れてきた時も黙って頷いただけで、感想らしい感想もないままいつの間にか受け入れられていた感じだった。
テグからは、万が一自分がふた月経っても戻らなかったら、床下の隠し戸を開けるようにと言われている。何が入っているのかは聞いていないが、できれば開けたくない。
早くテグが帰ってくればいいのに……。そう思う気持ちが、二人の間に束の間の沈黙を落とした。
自分も草の上に直接座り、水筒のとうもろこし茶をコップに注ぎながらモイが言う。
「それで、困ってることはない? ちゃんとやってる?」
十七歳のモイはテグの家から一番近い隣家の羊飼いの長女だが、バージルより一つ年下のくせに姉貴のような口を利く。幼い妹弟達の面倒を見ているせいなのかもしれないが、テグに対する態度とはずいぶんな開きがある。隣家といっても歩けばゆうに十五分はかかる距離を、彼女が足繁く通ってくるのには理由があった。
「やってるさ。ちゃんとどころか立派に頑張ってる。少しは見直してくれていいんだぞ」
「馬鹿じゃないの。あんたなんかテグの足元にも及ばないんだから」
モイは、テグに恋心を抱いている。だからいつもはテグに会うため、今はテグの大事な農場に問題がないことを確かめるために、ここに来る。実際のところ、テグは顔だけでなく性格もいい。多少鈍感なところはあるが、面倒見がよく、とにかく優しいのだ。しかしモイはいつも、もう年頃の娘なのに子ども扱いされていると拗ねている。
今年の春、テグにもっと近づきたいと考えたモイは、ある秘策をひねり出した。
「ねぇ、あたしの髪を、こうして耳に掛けてくれない?」
目をしばたたいているテグに、モイはもっともらしい顔で説明した。
「あたし、将来はかわいい子どもをたくさん産みたいの。それでね、『家族以外の男性に髪を耳にかけてもらうと、将来元気な子どもを産める』っていうおまじないがあるわけ。言っておくけど、バージルじゃ駄目。あたし双子が欲しいから、テグにあやかりたいのよ」
また胡散臭い話を、と途中まで聞き流していたバージルは、最後の一言に動きを止めた。
テグは元々双子だったが、出生時に自分より三分早くこの世に出た兄を亡くしている。元から病気がちだった彼の母親は、双子を二人とも無事に産むことができなかったのだ。
言うにこと欠いて「双子が欲しいからあやかりたい」とは。テグでなければならないとするための苦肉の策なのだろうが、一人は無事に生まれなかったことをテグがどう感じているのか、彼女は考えたことがあるのだろうか。
結論からいえばどうやら考えてはいたようで、実のところ決死の賭けだったのかもしれない。モイは口を横一文字に結び、ひどく緊張した面持ちでテグの返事を待っていた。
テグは一瞬何かを言いかけたが、結局は口を閉じて静かに微笑み、一言だけ「いいよ」と言った。
もちろん、このまじないはモイがでっち上げたいかさま話だ。しかしこれなら、テグに接近できるどころか、向こうから自分に触れてくれる。頰を染め、期待に目を輝かせながらモイが顔を突き出すと、テグは「そんなまじないがあるんだね。知らなかったよ」と言って素直にモイの長い髪を小さな耳にかけてやった。
テグは少しばかり鈍いところがあるので、至近距離で向き合ったモイがどれだけ熱く見つめても、何も気づかず「いい母ちゃんになれよ」とでもいうような顔をしている。
バージルはこの間、ふと思いついて、おそるおそるテグに聞いてみた。
「……まさかと思うけど、他の女の子にも例の『まじない』をしたりしてないよね?」
テグは無駄に顔がいいので、何も知らない村の娘たちにそんなことをして回ったら、大変な混乱を引き起こしてしまうかもしれない。
「それが、まじないに関わる双方とも、『一日に一人まで』と決まってるらしいんだ。いつモイに頼まれるかわからないから、他の娘にしたことはないよ」
その答えを聞き安堵の息をついたバージルを、テグは不思議そうな顔で見ていた。
モイからは「もしテグに余計なことを言ったら、差し入れの軽食はあんたの分だけ一生ないからね」と脅されている。それは困るので、いらぬ干渉はしないことにした。
バージルはテグほど朴念仁ではないつもりだが、恋愛というものに関してはまだよくわからない。その人をどのように求めることが愛なのか。恋と愛とは、どう違うのか。
母親の葬儀があった日の夜、テグは唐突に言った。「俺は、そばにいたい」と。
将来の話になると「俺の夢はもう、叶ってるからなぁ」と笑うテグが、「愛する女性ができたら、俺は離れずにずっとそばにいたい」と真剣な顔で口にした時、連絡がとれないままの父親のことを考えているのは明らかだった。
テグの両親に愛情が足りなかったわけではない。二人は仲が良く、尊敬し合っていたが、他の仕事を兼業することはこの辺りではごく普通のことで、妻が外で働くこともあれば、ファーマー本人が一定の季節のみ出稼ぎに出ることもある。ただテグの母親は体が弱く、父親は事故で足を怪我してから農場の仕事が思うようにできなくなって、昔の知り合いから割のいい話がくると農場をテグに託して家を空けることが多くなった。バージルを雇うことを許可したのも、そういった事情があったからだろう。
いつか、テグも心から愛し合える女性と巡り会うのだろうか。ここでの暮らしで会えるのは、村の女の子か、羊の競売会や品評会で紹介されるよその農場の娘くらいだ。それもよほど遠方の大きな品評会に行かない限り、初めて会う顔に出会えることはそうそうない。今のところテグにとって一番身近な娘といえばモイなわけだが、「モイは妹みたいなものだから」と言うテグにその気はまったくなさそうで、残念だがモイがテグの「決して離れたくない女性」になれる見込みはかなり薄そうなのだった。
「ねぇ、リミーが街に行ったっていう話、聞いた? 二十歳になったお祝いに、お父さんが商用に連れていってくれたんですって」
食事を済ませてきているモイは、バージルがパンを頰張っている間、好きなようにしゃべる。バージルを相手に言いたいことを言うのがモイのストレス発散なのかもしれない。
車で行っても三時間かかるシュナイの街は、都会といえるほどではないが、少なくともこの村よりは数十倍「都会的」だ。職種によっては定期的に物を売り買いしに行く者もいるが、子ども達はめったなことでは連れていってもらえない。現にバージルやモイの周りで街に行ったことがあるのは三歳の頃に難しい病気にかかったモイの末の弟くらいなもので、それにしてもここより大きな病院を受診することだけが目的だった。
「食事をする店にテレビが置いてあってね、注文してお金を払う人は誰でも見られるの」
バージルがテレビの実物を目にしたのは一度きり。二年ほど前に村長の息子が手に入れてきた見るからに古いテレビは、フライパンよりも小さな画面に大きなヒビが入っていた。人工衛星からの電波を受信するとかで村中の大人達がアンテナを囲んで大騒ぎしたが、ようやく映るようになったテレビはたった三日で本体の電源が入らなくなった。
「テレビではニュースや面白い番組の間に宣伝が入るのだけど、そこで、海を渡って旅行するとっても素敵な豪華客船の映像を見たんですって。夢のように綺麗な船だったそうよ。すごいと思わない?」
うっとりした顔で目を閉じるが、モイもバージルと同様、海を近くで見たことはないはずだ。フェルの頂上から西側を向けば、遠くに輝くヴァンスタン湾を見ることはできる。しかしそれは遥か下に見える道路や森よりずっと遠く、実際に行くとなれば大変な距離だ。
「それでね、その店の店主の従兄弟の娘が、公語を勉強して選択子のお屋敷でメイドとして働くことになったんですって。ねぇ、メイドがいて家事を全部やってくれる生活って、どんなかしら?」
「お前が想像するとしたらメイドとして働く方だろ? なんでメイドを雇う側なんだよ」
「何よ、想像するだけなら勝手でしょ」
たしかに勝手だ。誰にも迷惑はかからない。四人姉妹弟の長女であるモイは、家族六人分の洗濯を任されているらしいので、洗って干して片付けて、きっと毎日忙しいのだろう。
「でも、誰かが必要なことを全部やってくれるとしたら、その人達は家で何をするのかしら? 子どもの教育?」
「馬鹿だな、都会には立派な学校があるんだよ」
この村にも一応学校と名の付く場所はあるが、建物はボロボロで、先生はよぼよぼだ。毎日通うわけでもなく、子ども達は自分の都合のついた時に行って、各自のペースで読み書きや計算を教わっている。
「やっぱり、公語が話せれば都会でお金を稼げるのかな……」
バージルはわざわざしなくていい勉強をしようなどと考えたことは一度もない。だいたい、テグが必要としない知識をこの先自分が必要とすることなどないと思っている。テグは五歳か六歳の頃、父親に「公語を学びたいか」と訊かれ、「いいや」と首を振った。そしてそれ以降、その話題は親子の間に上ったことすらないのだと聞いたことがあった。
農場での仕事や羊飼いとしての知識は、すべてテグから教わった。
言ったことだけさせることもできるのに、テグははじめからなぜそうするのかを丁寧に説明してくれた。直接的な羊の世話だけではない。石垣の補修方法や良質な羊の見分け方、様々な作業の準備や注意点、要領よく進めるコツまで、やることのすべてを惜しみなく教えてくれた。そして彼のそばにいれば、周囲の人達から信頼を得る振る舞いも、羊飼いとしての彼の哲学も、全部丸ごと目にすることができた。自分とたった二つしか違わないはずなのに、父親に代わって農場を取り仕切っている彼は、まだ少年の頃から大人と遜色ないほどの知識を持っていた。
バージルもそれに応えようと励んできて、去年はついに夏の毛刈りでテグのお墨付きをもらった。効率よく作業するために同じフェルを使う羊飼い達が集まって一斉に毛を刈るのだが、バージルのスピードと仕上がりに、周囲の羊飼い達も驚いて手を止めた。
この地域において羊の扱い方を熟知しているということは、自分の農場はなくとも臨時収入を得る道があるということだ。毛刈り、出産、干し草作り、その他もろもろ。時期的に忙しく人手が欲しい時、単発で手伝いを頼める人物はとても重宝がられる。
本当のところ、不思議で仕方なかった。バージルをいっぱしの羊飼いに育てたところで、テグには何の得もない。訊いてみたこともあるが、「信頼できる羊飼いに手伝ってほしいから」という一言だけで、テグはすべて説明がついたような顔をしていた。初めて競売会に連れていってもらった時、テグが顔見知りに「弟みたいな存在」だと紹介してくれたのを聞いて、バージルは感極まって手洗いに飛び込んだ。嬉しくてありがたくて涙が出て、赤い目をごまかしながら出てきたバージルを、テグは体調が悪いのかと本気で心配した。
モイの父親に「お前はまだまだだが、テグが見込むだけのものは持っている」と言われたことがある。今のところそれは、バージルにとって最大の誉め言葉だ。
傾いた西日が、馬に乗った二人の影を長く落とす。夕方、日暮れまでに帰れる時間に、バージルはモイと二人で村へとやって来た。農場から村までは歩けば一時間ほどかかるが、馬なら三十分もかからない。一人で来るつもりだったが、用事があるというモイが「一緒に乗せていけ」とちゃっかりついてきたのだ。バージルは食材の他に、犬小屋を直すための釘と麻袋の穴を繕うための太めの木綿糸を買うつもりだった。
フェルの羊達は放っておいても問題ない。春の出産シーズンは大変だったが、夏の間はあまり手をかけず自由にさせるのも放牧の大事な過程だ。それに、テグの相棒である牧羊犬のランがついている。ランは薄茶と白の毛が美しいコリー犬で、とても賢く、三十匹ほどの羊の群れをいつも一匹でスマートに操る。しかもテグが信用する人物なら言うことを聞いてやってもいいということなのか、バージルの指示もよく聞き、その意図を的確に汲み取ってくれる。本当に頼もしい仲間だが、もしかするとランの方では、自分こそがテグの留守を預かっていると思っているかもしれない。
バージルはモイを降ろして馬のホルスを店の前につなぐと(馬もテグの大事な財産だ)、茜色の空にのしかかられているような大通りを振り返った。人口が五百人弱しかいないこの村にも、見れば様々な生業がある。羊飼いをはじめとした農業従事者ばかりではなく、食料品店、材木屋、建具やレンガの職人、床屋……郵便局や診療所だって、ちゃんとある。
テグが初めて声を掛けてきたのは、村のはずれの池のほとりを一人でぶらぶらしている時だった。まだバージルがここに来て間もない頃、何度か顔を見かけただけのテグがいきなりつかつかと歩み寄ってきて「体は丈夫か?」と訊いたのだ。もしかしたら、父親が事故で亡くなり、母親の親戚を頼ってこの村に来たという事情を誰かから聞いていたのかもしれない。
「たいした金は払えないが、実は仕事を手伝ってくれる人を探してるんだ」
そう言われ、バージルは心底驚いた。テグは当時十四歳だったはずだが、十二歳のバージルと同じくらいに見えたし、子どもが子どもを働き手として雇おうとしていることがすぐには信じられなかった。
「だって、年上や経験者だと俺から指示を出しにくいし、互いに気を遣うだろ」
どちらも兄弟のいないテグとバージルだったが、不思議とうまが合い、一緒にいると心地よかった。暑い日も寒い日も土砂降りの日も、バージルは歩いてテグの元へ行った。
そして三年間通い続け、十五歳になったのをきっかけに村を出てテグの農場に住み込むようになった。親戚が経営する雑貨店の二階の奥、廊下の一部ではないかと思うような狭いスペースで共に寝起きしていた母親は、住み込みの話を聞くと寂しがるどころか手放しで喜んだ。今でもバージルは週に一度は村に行き、買い出しのついでに母親の顔を見るようにしているが、幸いなことに体は丈夫で、いつも店で忙しそうに立ち働いている。
「この間の山火事で焼け出された野犬が、東の集落で羊を襲ってるらしい。狩りを急いでると言ってたが、お前の所も気を付けろよ」
母親の叔父にあたる雑貨店の店主が、ついさっき聞いたのだといって教えてくれた。こうして村で情報を得ることも、大事な仕事のうちだ。「お前の所」という何気ない一言が、バージルにとっては少しくすぐったくもあり、誇らしくもある。
モイの買い物が済むのを外で待っていると、村の入り口から見慣れない車が入ってきた。この村で見かけるのは数人ごとに共同で持っているトラックがせいぜいで、知らない車を目にすることはほとんどない。ましてや荷台のないセダンタイプとなると、年に一、二度あるかどうかだった。
土埃にまみれた濃紺の車は、狙ったようにバージルの前に止まった。屋外を歩く者は他にも数人いたが、たまたま通りから目につく場所にいたバージルのところに敢えて寄せてきたのかもしれない。ちょうど店から出てきたモイが、紙袋を抱えたままするりと隣に並び立った。
「……なんか、『シュッ』とした人ね」
まだ車の中にいる人物を、覗き込むようにして観察する。「シュッとした」というのはおそらく、「垢抜けた」とか「洗練された」とかいうような意味なのだろう。いずれにせよ、この村にはいないタイプだ。
車から降りてきた三十代くらいの男は、暗いこげ茶色の髪に引き締まった身体をして、短い顎髭を蓄えていた。カジュアルだが上等そうな衣服を見てピンときたバージルは、無意識のうちにモイの半歩前に出て、少しでも自分を大きく見せようとさほど厚くもない胸を張った。挨拶代わりに笑顔で片手を上げた男がバージルに向かって何かを言い始めたが、どうやら公語のようで内容はわからない。
「……やっぱり。こいつ、選択子だな」
「本当に? あたし、初めて見た」
男は人の好さそうな顔で何やら自分の窮状を訴えているようだったが、二人の反応からまったく通じていないことに気が付くと、ポケットから何やら小さな機械を取り出した。それで翻訳ができるのかと思ったが、あっという間に画面が黒くなり、うんともすんとも言わなくなる。電池切れなのか、男はいよいよまいったというように大きく眉尻を下げた。
「モイ、とりあえずノーマンさん呼んでこい」
「わかった」
ノーマンとケイトは二十年以上前にこの村に来て住み着いたという五十代の夫婦で、今は靴や服を型取りから作ったり、持ち込まれたものを修理する店をしている。詳しい事情は知らないが、この夫婦は二人とも公語が話せる。モイはかつて妻のケイトの方に公語を教えてくれと交渉したことがあるが、「この村を離れることはあなたのためにならない」とはっきり……というより、ばっさり断られたと言っていた。たしかに、通常この村で必要となることはないので、公語を習うという時点でいつかこの村を出るというのが前提だ。ケイトは「平和や幸せをわざわざ捨てないで」とまで言ったらしいが、モイが村の外の暮らしに憧れているのは、元々この辺りの地域には選択子がおらず、権力や地位や階級といった概念が希薄だからだろう。ここで人間を測る物差しといえば仕事の腕と信頼できる人間性といったところで、大都会のように非選択子であるというだけで「たかが非選択子」と見下されることも罵られることもない。バージルにしても聞いた話でしか知らないが、モイは見知らぬ世界に思いを馳せるあまり、その辺りの認識が甘いのだ。
すぐに姿を現したノーマンの表情は穏やかだったが、バージルは彼の腰の後ろが不自然に膨らんでいるのを見逃さなかった。もしやノーマンが未登録の拳銃を所持しているという噂は本当なのだろうか。そして選択子というのは、そんなにも危険な存在なのか……。いつも一緒にいるはずのケイトの姿は、なぜか見当たらなかった。
最大級の警戒を知ってか知らずか、公語が通じる人間が出てきたことに安心したらしい男はほっとした顔でノーマンと話しだした。ノーマンが首を傾げて言葉少なに何かを問うと、男はおもむろに着ていたシャツを脱ぎ、何かを証明するように背中を向けた。その真ん中とやや右下の二か所に、ケロイド状に盛り上がった色の違う不自然な皮膚が見える。バージルはひっそりと息を呑んだ。隣でモイも目を丸くしている。見たことがなくても何となくわかる。あれはおそらく、銃創の痕だ。男が再びシャツを着て言葉を継ぐ。ノーマンはしばらく渋い顔をしていたが、最後のジェスチャーは「仕方ない」と言っているように見えた。そしてじっと見守っていたバージルとモイの方を振り返って言った。
「この人は、大陸の南端を目指してるんだそうだ。少し前に、オソプからシュナイに南下する道で土砂崩れがあったのを知ってるか? とりあえずの迂回路が作られてはいるが、途中の分かれ道がわかりづらくて、この村への道に迷い込んだらしい」
「要は一晩どこかに泊めてくれ、ってことか」
バージルはちらりと空に目をやった。まだ明るさは残っているが、今からここを出てもシュナイに着く前に真っ暗になってしまうだろう。しかしこの村には宿などないし、空いている建物もない。第一、言葉が通じないと何かと困るだろう。「仕方ない」の内容が何となくわかったところで、ノーマンがそうだよ、と言いたげに頷いた。
「うちに泊めてやるしかないだろうな。まったく、ケイトが何て言うか……」
複雑な表情は歓迎していないことを物語っているが、本当に危険が及ぶような人物なら断固として拒絶するだろう。どうやら腰に隠し持つ物騒な物に出番はなさそうだった。
「とにかく、お前らはあまり関わるんじゃない」
ノーマンは、とくに目を輝かせているモイに向かって念を押すと、自宅兼店舗を指さして場所を教え、準備をするといって一足先に戻っていった。
モイと目が合うと、その男は頰をキュッと上げて笑い、手招きした。車の窓に手を突っ込んで取り出した三色遣いがきれいな飴のような菓子は、目的地にいる子ども達への手土産なのかもしれない。嬉しそうに受け取るモイに、バージルは慌てて声を掛けた。
「おい、そんなもん食うなよ。毒でも入ってたら……」
バージルの言葉に振り向いたモイは、はっとするほど尖った視線をぶつけてきた。
「目の前にこんなに素敵なお菓子があるのに、『安全かわからないから』ってだけでそれを食べないことを選ぶの? あたし、そんな人生なら、今すぐ終わっても惜しくない」
当然の注意をしたつもりだったバージルは、モイが一瞬でここまで感情を高ぶらせたことに驚いた。彼女が都会に対して抱いている想いは、思ったよりも根強いのかもしれない。
バージルがひるんだことを見てとったモイは、さらに強気な顔で持論を展開した。
「『選択子だから悪人に違いない』って決めつけるのは、『非選択子だから価値のない愚か者だ』って決めつける人達と同じやり方よ」
そこまで言われ、バージルは以前にテグが言っていたことを思い出した。
「市場で評価すべきは、今目の前にいる羊の純粋な価値だ。血統は参考にはなるが、それは付属情報であって決め手にはならない。どんなに美しく優れているように見えても周りの羊に対して攻撃的なら俺は買わないし、小柄だと笑われている子羊でもいい羊に成長すると思えば買う。観察に基づくにせよ直感に従うにせよ、自分の目で見極めろ。どうせ責任を負うのは自分自身だ。他人の意見に振り回される必要はない」
そもそもテグは、遺伝子選択についても「ある程度は理解できる話だ」と言っていた。
「自分だって、もしも生まれてくる羊の遺伝子があらかじめ選べるなら、見栄えが良くて優れた羊を選ぶ。それが安価もしくは無料であるならば」、と。
実際、人間にできるのだから羊でだって不可能ではないだろう。ただ畜産農業において何十何百といる家畜の一頭ずつにそこまで高額な投資をする者がいないというだけの話だ。だから羊飼い達はそれまでの経験と知恵を駆使して雌羊と雄羊の最良の組み合わせを探す。どこまで予想や期待に近い子羊が生まれてくるかは、後になるまでわからない。「『神のみぞ知る』ってやつだ。でもきっと、それでいいんだよな」とテグは最後には笑っていた。
バージルは本心では、生まれる前の命をどうこうするなどおかしいと思っている。だって、人間は神ではないのだから。それに、選択子が非選択子を見下すという話には腹が立つ。少なくとも羊飼いは、完璧な羊でないからといってその羊に対してぞんざいな扱いはしない。その一頭も群れの大事な一部で、財産であることに変わりはないからだ。人間は知性の代償に謙虚さを失い、自分が上位にいたがる者達は常に争いを起こす。どうせなら遺伝子の時点で「平和」という概念や意識を埋め込む技術を開発すればいいのに。
「選択子って、思ってたほど怖い人達じゃないのかも……」
モイがそう口にすると、いつの間にか二人の後ろにいたケイトが苦い顔をして言った。
「勘違いしてはいけないわ。彼が特別なのであって、みんながこうじゃないの」
いつもより声も硬い。前に出たケイトが何かを言い、男が言葉を返す。何度かやり取りする中で、男は再び背中を見せようと服を捲りかけたが、ケイトは首を振ってそれを止めた。ようやく納得したように振り向いた時には、いくぶん視線が和らいでいた。
「たしかに彼はいい人のようだけど、他の選択子はこうじゃない。彼は非選択子を奴隷か虫けらのように考えている悪い奴らと闘うために、仲間のいるコロニーへ向かう途中なの」
「虫けら……?」そう繰り返したモイの顔が、不安そうに強張った。
「待って……それって、選択子が選択子と闘うってこと? 非選択子のために?」
バージルが信じられないのはそっちの部分だった。そんなことは今まで聞いたことがないが、それでもノーマンやケイトがそう信じたということは、実際、そういうことがあるのかもしれない。
「選択子にもいろいろな人がいる。でも、本当に信頼できると確信が持てるまでは、決して気を許してはいけないわ。それだけは忘れないで」
そう言った厳しい顔を見て思う。やはり昔、二人は……ノーマンとケイトは、選択子との間に何かあったのだろう。
「ところで、あんたのこと、『いい眼をしてる』ってさ」
――ふん、何が「いい眼」だ。どういう立場で俺を評価するんだよ。上から目線か?
そう思ったものの、バージルは口には出さず、ただ黙って選択子の男を見返した。すると男の方でもそんなバージルの視線を真っ直ぐに受け止めて、そのうちに片眉をひょいと上げてみせた。そこに込められた親しみを感じてしまった気がして、戸惑ったバージルは思わず目を逸らした。だって、選択子だぞ。そんなことあるか……?
はっきりと刻まれた傷痕が脳裏に甦る。あれはバージルが今まで目にした中で間違いなく一番「タフな」傷痕だ。あの傷を負った時、彼は死にかけたに違いない。
――この人にはきっと、命懸けで護りたいものがあるんだ――。
そう思った時、ふいにバージルの中に感じるものがあった。何を護りたいのか。何のために冒さなくてもいい危険を冒すのか。理解することは一生ないだろうが、広い世界の中のこんなに小さな村で本当にそんな人に出会ったのだとしたら、それはなんだかとても大事な出会いのような気がした。
――自分の目で見極めろ――。
もう一度男を見据えたバージルは、首にかけていた雄羊の角を削って作ったペンダントを外し、男に歩み寄った。「やる」と胸元に押し込むと、彼は何かを言った。おそらく「俺にくれるのか?」とでもいう意味だろう。バージルが頷いて手を離すと、白い歯を見せて受け取った。
「――何? 急に、何で? 『いい眼をしてる』って褒められたから?」
モイが不思議そうに尋ねるが、この曖昧な気持ちをうまく言葉にすることはできない。
自分が属するのと違う側のために闘う男。いい車を汚しながら、下手をすればどちらからも睨まれる立場に自ら飛び込みに行く男……。
「んなわけあるか。お前がただで菓子をもらったのが気に入らないから、代金の代わりだ」
仕方ないので適当に答えると、「ふーん」とだけ言ったモイは、馬に乗る前にもう一度男を振り返り、笑顔で大きく手を振った。
*
羊飼いの生活は朝が早い。顔を洗って着替えただけのバージルがひんやり引き締まった外気の中で深く息を吸い込むと、早朝の澄んだ空気が肺に満ちた。山にいると、大きなものに包み込まれているようで気分がいい。同時に感じる自分の小ささすらも悪い気はせず、むしろこうして謙虚な気持ちになれることが自然からの恵みのようにすら思えてくる。
塗装の剝がれた金属ゲートと 摩耗してつるつるになった木製の柵が、朝の光を鈍く反射している。大きく伸びをしたところに、遠くから羊達の元気な声が聞こえてきた。この春生まれた時にはぬいぐるみのようだった子羊達も、だいぶ体がしっかりしてきた。
初めて目にした羊の出産を、バージルはきっと一生忘れないだろう。あれは今になって思い返してもかなりの難産だった。母羊の体から先に出るべき子羊の前脚は見当たらず、鼻先だけがすでに母体から飛び出していた。「このままじゃ無事に生まれない」と呟いた十五歳のテグは、少しの躊躇いもなく子羊の顔を母羊の腹の中に押し戻し、肘から先をほとんど埋めるようにしてその体の中をまさぐった。必死に前脚を探しながら、苦しそうな母羊に声を掛け続ける。「がんばれ!」「あったぞ!」「よくやった!」
バージルにしてみれば、もちろん誰よりも「よくやった」のはテグだった。まさか大人の助けもなくこんなことができるなんて。目の前の少年の持つ力に、大きな衝撃を受けた。
自分にももっと、何かできることがあるのかもしれない……。テグのすごさを見て自分に可能性を感じるのも変な話だが、その時のバージルは強烈にその思いに打たれていた。
それまでは、自分は子どもだから無力なのだと、ただ諦めていた。微笑みにみじめさが滲む母親の力になれないことも、未来が暗く閉ざされているようにしか感じられないことも。父親は死んでしまったが、もしも自分が変われたら、生き方そのものも変えられるのかもしれない……。いつの間にか涙を流していたバージルに気付いたテグは、命の誕生に感動したと思ったのか、優しい顔で笑いかけてくれた。
「いいもんだろう? 何度経験しても、毎回素晴らしいと思うよ」
その手にも顔にも、服にも血が付いていたが、汚いとは思わなかった。母羊が羊膜の剝がれた子羊をしきりとなめ、きちんと面倒を見られることを確かめると、ボロ布で手を拭ったテグは、もう当たり前のような顔をして次の仕事に移っていた。
バージルは何かに迷った時、「テグならどうするだろう」と想像することにしている。そしてそうすれば、だいたいの場合は正解がみつかる。もう何年もそうしてきたし、きっとこれからもそうしていくのだろう。羊飼いの子どもが自分の父親や祖父に憧れるように、バージルにとってはテグこそが憧れだ。あんな男になりたいと、昔も今も、心の底から願っている。
昼までの作業を終えたバージルは、腹時計に従い干し草を引っくり返すのに使った農業用フォークを納屋の中に立てかけ、穴を塞がなくてはならない数枚の飼料袋を手に取った。羊達は餌として牧草を食べるが、双子を抱える母羊だけは別に栄養を補強してやらなければならないため、分けた区画に毎日それなりの量の飼料を運び込む必要がある。
ファームハウスに帰る途中、ランが突然、灌木の茂みに向かって威嚇するような唸り声を上げた。一瞬モイかと思ったが、それならばランはこんな反応をしない。不穏な予感が前日に聞いたばかりの記憶を呼び起こす。
――山火事があって、焼き出された野犬が……。
野犬は狂犬病に罹っている恐れがあるので、嚙まれたら厄介だ。納屋にフォークを取りに戻ろうとした時だった。「あっちに行ってよ」と強がる、しかしか細い声が耳に届いた。
――モイ⁉
考える前に体が動いていた。弾かれたような勢いで茂みの裏へ回ると、汚らしい茶色の犬と一緒に視界に飛び込んできたのは、恐怖に固まって動けずにいるモイだった。
「――――っ!」
牙を光らせて飛びかかる野犬とモイの間にギリギリのところで割り込む。気付いた時には頭を守るように出した左の前腕に鋭い痛みがあった。体格はランの三分の二ほど。決して大きくはないが、野犬の痩せた体からは獰猛さが滲み出ている。
「ラン!」
呼び掛けとほぼ同時に、ランはすでに野犬に飛びついていた。左腕は自由になったものの、ここからどうすればいいのか、すぐには判断がつかない。今は牧羊杖さえ持っていないし、振り向けば、驚いて転んだモイはそのまま地面にへたり込んでいる。
モイを連れて走って逃げる? 十数メートル離れた納屋に武器を取りに行く?
どちらも野犬のスピードを考えれば現実的ではない。羊飼いはいちいち作業小屋や納屋に戻らなくていいように常にいろいろな物を持ち歩いているが、腰に巻き付けたポーチの中身を思い浮かべても、ロープや古布の端切れは役に立ちそうにない。武器になりそうなものといえば蹄を切るための削蹄バサミくらいだが、こんな小さな刃先では手負いにするだけで、ますます凶暴さを増すばかりだろう。固い鈍器のようなもので頭を狙った方がまだましかもしれない。
何かないのか、何か……? ちょうどよさそうな棒も石も、近くには見当たらない。
テグならどうする? テグなら……。頭の中が高速で回転する。
辺りを見回していたバージルは、モイの傍らに落ちていた包みを素早く拾い上げ、離れた所に放った。昼食のパンを巻いていた紙が開き焼いたベーコンの匂いが広がると、野犬は吠えたてるランを無視してそちらに行きかけたが、気が変わったのかすぐにまたこちらに向き直った。
しかしバージルは、野犬が迷いを見せたその一瞬で、あることをしていた。
飼料用の麻袋を拾い、自分の左腕を突っ込んだのだ。間に立ちふさがろうとするランをモイの所まで下がらせ、挑発するように野犬に歩み寄る。
「もう一度嚙んでみろよ。全然痛くなかったぞ。どうだ、お前はそんなもんか?」
野犬は落ち着きなく荒い息を繰り返し、口から粘り気のある涎を垂らしていたが、バージルが開き直ったように遠慮なく距離を詰めると、今度は迷うことなく跳躍した。
先ほどと同じ腕を袋の上から嚙まれたまま、バージルはさっと重心を下げる。
嚙まれている方の手を捻じって野犬の腹の皮をぎゅっと握り、すぐさま袋を裏返すと、野犬の頭が袋の中に入る形になった。左腕は嚙まれたままだが、右の拳で袋ごと野犬を殴る。背骨に当たりバージルの手にも痛みが走ったが、何度めかに野犬が「ギャン」と声を発すると、ようやく牙が腕から外れた。今や後ろ足を残して袋に体が入っている野犬は出ようとして暴れるが、バージルも必死に袋の口を絞りあげ、その腹にまたがるようにして上に乗る。必死に押さえ込んでいると、いつの間にか一番大きな麻袋を手にしたモイが、今度は野犬の足側から袋を被せようとしていた。その後は、二人ともただ夢中で袋の口を閉じ、ありったけのロープを使って「野犬入り」の袋をしっかりと縛り上げた。
ようやくもう大丈夫だと思えるようになり、バージルはモイに目をやった。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないのはあんたでしょ。あんたに何かあったら、困るのはテグだって言ってるのに……」
よほど恐ろしかったのか、モイは見たこともない子どものような顔で泣いていた。頭を撫でたついでに、顔にかかっていた髪を左の耳にそっと掛ける。
「しまった。双子じゃないから、俺のまじないは必要ないんだったな。しょっちゅう見てたから、自然と手が動いちまった」
するとモイは恨めしそうに目を眇め、湿った鼻声で文句を言った。
「ただのこじつけなの、わかってるくせに。……でも、元気な子どもが欲しいのは本当なんだから」
その時ふいに、ほんの微かにちらっとだけ、バージルの頭をよぎった考えがあった。
……その子どもが、俺の子だなんていう可能性は……?
いやいやいやと首を振り、正気を取り戻す。嚙まれたからにはなるべく早く医者にかかった方がいいし、野犬の始末やみんなへの報告もある。とりあえず一度、村へ行こう。
「ちょっとは見直した?」と問うバージルに、やっと笑ったモイが舌を出した。
モイを護り、テグの羊達を護ったのだ。今はそばにいないテグに、褒めてほしかった。
でも、大事なものをずっと護るには、もっと強くならないと。もっと……もっと。
村の診療所で傷の手当てを受け、狂犬病のワクチンを打ち終わる頃には、だいぶ陽が傾いていた。ありったけの麻袋に何重にも入れられた野犬はすっかり静かになっており、引き渡した後の処分は狩猟会のメンバーに任されることになった。治療とワクチンの代金は、モイの父親が出してくれるという。バージルはただでさえいつも世話になっているのに申し訳ないと言ったのだが、「俺の娘の命はこんなに安くない。生意気言わずに黙って出させろ」と一喝され、おとなしく甘えることにした。ついでに母親のいる雑貨店に顔を出すと、すでに野犬の話を知っていて「心配かけないでよ」と涙目で叱られた。
あの選択子の男は、とうに出発した後だった。背中でいびつに盛り上がっていた二つの傷痕を思い出す。
目の前のものを見ろ……。
きっと、そういうことなのだろう。自分で判断できない奴らが、他人の言うことに踊らされて一律な判断をしたがるのだ。自分の責任、自分の価値観。大切にしたいもの……。
バージルは農場に戻ろうと、柱に繫いであったホルスの手綱をほどいた。
遠くにフェルの斜面が見える。吹き渡る風が、もうすぐ本格的な夏を連れてくるだろう。空気と一緒にかき混ぜられて鼻先に届く、草や動物の匂い。それはきっと、街にいては感じられない、濃密な命の匂いだ。
この世には人の数と同じだけの生き方があり、広い世界には自分の知らない場所がある。
――それでも俺は、ここを愛している。この場所でこうして生きていることに、誇りを持っている――――。
ひと際強い風に髪をなぶられ、目を細めながら考える。
そう思わせてくれたテグのように、自分もいつかなれるだろうか。
雲の切れ間から差し込む光が、一条のライトのようにフェルに降り注いでいる。
夕陽に染まる草地は、緑にオレンジが重なって、輝くばかりの金色に見えた。
【おわり】