2024年ノベル大賞 選評/似鳥 鶏
自分の「好き」を読者の「面白い」に変えるためには。
今回も激戦でした。選考委員ごとにいち推しの作品が違い、三作品が準大賞で並ぶという形で決着。それじゃ決着してないじゃないか、というご意見もあるかと思いますが、新人賞はスポーツやゲームと違い、絶対に勝敗をつけなくてはならないものではありません(まあ相撲ですら「引き分け」は存在しますがそれはさておき)。参加者同士による「競争」ではなく、編集部による「宝探し」であり、時々ホンビノス貝※[1]みたいのが出てきたりする潮干狩りに近いです。肉厚ハマグリが大量に出れば編集部はただ喜ぶだけで、無理に順位はつけないです。相対評価ではなく絶対評価なので。
ちなみに小説を書く作業も同じで、「競争」ではなく「宝探し」です。決まったコースを同じ条件で走って誰が一番早いかを決めるのではなく、全員が好きな場所を好きに掘り、ヒットという宝を探す。「誰が一番先に宝を見つけるか」や「誰の宝が一番大きいか」で「競争」の形式にすることは一応できますが、それは後付けで仮に順位をつけてみているだけで、本質的には他人が成功しようが失敗しようが、自分の掘っている穴には関係ないです。どこをどう掘るかは誰も指示してくれないし、他の人が宝を見つけたからといって自分の掘っている穴の先に何もないことが確定するわけでもなく、場合によっては全員の穴から宝が出たりもします。マイペースかつマイルール。そこが楽しいところでもあります。
今回の候補作を概観すると、面白いぐらいにジャンルにもテイストにも「特定の傾向」がなく、バラバラでした。選考終了後に各作者のプロフィールを教えてもらったのですが、全員、作品と読書歴が見事にぴったりで、これはつまり作者全員、真に自分の好きなもの、やりたいことをやったという証拠です。原稿を読んでもそれが分かりました。大変嬉しく思います。まず書いている本人が楽しまなければ、読者を楽しませることはできないので。
以下、読んだ順に。読む順についてはランダムに選ぶことにしているので、つまりランダムです。注意点として、選評という性質上、ある程度本編のネタバレになる部分があることをお断りしておきます。それとは別に「どうしても書き方が偉そうになる」という点もあるのですが、そこはもう諦めました……。
*[1]千葉でよく獲れる、ハマグリに似たでっかい貝。最近出現した外来種なのだが、肉厚で濃厚でおいしいため皆に愛されている。
『春になれば、桜は』
重いシリアスな話なのに頁をめくるのがしんどくなく、するすると読めていく感がありました。波留の家にお邪魔したら玄関に「南京錠」がかかっている異様さもさることながら、「どうして、わたしとゆみちゃんが仲良くするのに、ゆみちゃんのお母さんが出てくるのか」とか、「なにより、枯らしてしまっても、死んだことにならないのがよかった」といった、子供ゆえの視野の狭さのようなものを表現する言い回しもうまく、十代が主人公の小説が得意なのだろうな、と思いました。冒頭の「カチ。」から始まるパートは賛否ありましたが、個人的には「読者の視野を狭くする」→「広げてみるとこうなっている」という演出は小説の強みを活かしており、評価できると思いました。
一方で、冒頭いい雰囲気で始まったわりに咲良パートがわりとあっさりと終わり、後半、一般的な感覚からいえばそれよりはるかに深刻な波留パートが始まり、前半の悩みは何だったんだ……というぐらい重くなるのが、ややバランスが悪い印象を受けました。派手に演出した前半の方がぜんぜん軽いじゃん! という。いえ、こちらも世間一般からすれば相当重いのですが。
また、「文章」「設定」「ストーリー展開」いずれの面においても「掘り下げが足りない」という弱点があったように思えます。
まず文章。本来ならば表現に工夫を加えて演出すべき「腕の見せ所」という場面なのに、よくある言葉や平板なイメージで済ませてしまうところが散見されました。雨が降っている場面で「ザー。」と書いてしまったり、「心の深いところをナイフでえぐられた気がした」等。本来なら書きながら立ち止まり、「この表現で本当にいいのだろうか?」と悩んで言葉を探すべき部分を、ありきたりな言い方で流してしまっているような感じです。また、短いセンテンスが多く、擬音・擬態語を多用する書き方は、横書きでスクロールさせるウェブ媒体には相性がよいのですが、縦書きでじっくり入り込みつつ読める「本」の形式だと軽く見えてしまいます。
設定に関しても掘り下げ不足、というより単純な取材不足がありました。原稿に出す以上、たとえワンシーンしか出さないものであっても、ひととおりはそれについて調べ、知っていなければなりません。家族介護の問題が題材になっているのなら、介護についてひととおりは調べるべきでした。「訪問介護」と「デイサービス(通所介護)」を取り違えていたり、訪問介護で入浴介助をしていないように描かれていたり(訪問介護の時に最優先でされるのが入浴介助です)、介護サービスを利用しているなら要介護認定がされてケアマネージャーがついているはずなのに中学生が殴られながら介護をしている状況が放置されていたり、どうにも取材が足りていない部分が目につきました。現実には行政その他のあらゆる援助から漏れてしまう子供もいるわけですが、「普通は助けてもらえるはず」なら「なぜ主人公は、普通は助けてもらえるはずなのに助けてもらえなかったのか」を書くと、説得力とリアリティが出ます。ばあちゃんの症状にしても、よくあるものではありますがベタで、認知症について解像度が高いとは言い難いです。こういう部分の調査はしっかりやるべきだと思います。「神は細部に宿る」です。たとえば波留の色覚異常ですが、心因性視覚障害の場合、視野や視力に影響が出ることが多く、色覚異常はまれです。もちろん、こういうことを具体的に知っている読者は少ないでしょう。でも、「ん? そうなの?」と違和感を抱く読者はそこそこの割合でいるわけです(最初は赤緑色盲であるかのような書かれ方をするのでなおさら)。これ一つでは小さな違和感でも、重なっていくと作品全体に「?」の評価がつくところまで積み上がってしまうわけで、無視できるものではありません。
取材不足は「細かな減点」だけでなく「得られるはずの加点を逃す」という形での損にもつながります。たとえば本作では園芸がキーとして扱われているのですから、もう少し園芸について具体的に書いた方がいいのでは、とも思いました。「ナスは下の方のわき芽を取り、一番花のまわりにある元気な側枝二本と主枝に絞って育てていく」とか「トマトによくつく害虫はタバコガの青虫」とかいった具体的な内容を少し書き込むだけで、実際に園芸をやっているというリアリティが出て(たとえば少しでも植物を育ててみると、害虫に対する意識もすごい変わります)、咲良がこれまで知らなかったことを知っていくという変化が描け、読者も「へえ、そうなんだ」という形で身を乗り出して感情移入してくれるわけで、ここをさらりと流してしまうのはもったいないです。これと同様に、咲良が兄としていた釣りについても「魚釣り」で済ませてしまうのではなく、どこで何を餌に何を釣ったのか、くらいは書き込んだ方が、兄とのエピソードがしっかり印象付けられるところでした。
ストーリー展開に関しても、勢いがあるのはいいのですが、立ち止まってもう少し考えるべき部分があったように感じました。
たとえば、フィクションではしばしば「大人は何をしていた問題」「行政は何をしていた問題」というものが生じます。近年で話題になったのは『竜とそばかすの姫』でしょうか。クライマックスで、主人公の少女が虐待されている少年を助けにいくのですが、そこにいた大人は警察にも児相にも通報せず、それどころかついて行くことすらせず、主人公の少女を「虐待者」の男性の下に送り出してしまっている、というやつです。
本作においてもその問題が見え隠れしています。たとえば露骨に兄と比較して咲良の努力を頭ごなしに否定する母親の発言は立派な精神的虐待なのですが、父親は何もしてくれません。ヤングケアラーの波留が一人で祖母の介護を担い、それゆえ進学先を変えようとまでしているのに、理解者であるはずの養護教諭は行政につながず、ただ園芸を勧めるだけ。職員室の教員たちも「暖かく受け容れる」だけで何も具体的に動こうとしないのは教員失格でしょう。主人公たちを辛い境遇に置くために周囲の大人を木偶の坊にしてしまうのは悪手というべきで、同じ境遇にある子供たちに対し「行政は助けてくれない」「自分で立ち向かわなければならない」という嘘のメッセージを発する結果になることを避けるためにも、何か周囲の大人が「通常の手段で援助しようとしたができなかった」理由を示すべきでした。波留が過去、飼育小屋のウサギを死なせてしまうシーンにしても、ダメな教員はああいうこと言いそうだな、とは思いつつも「なんで世話してない他の子は責められないの?」という点が疑問で、ちょっと無理がありました。波留の「『見ていないせいで死なせてしまう』ことに対する恐怖感」という設定がよかっただけに、最初の原因となるこのシーンに詰めが足りなかったのは残念なところでした。
また、ストーリー的には「主人公に立ちはだかる障害」であるはずの、二人の「母との関係」も、少々あっさり解決しすぎな気がします。咲良に関しては母親がなぜあそこまで兄と比べたのかの理由付けもないまま、あっさりと謝罪してきて終わっていますし、波留の方も母親が突然話をしてきて解決してしまっています。二人の母親が子供にしてきたことは立派な精神的虐待であるにもかかわらず、あまりちゃんと反省して謝罪している場面もなく、こんなに簡単に解決してしまうものなのだろうか? と首をかしげてしまいます。結末にしても、これでは波留の依存先が咲良になっただけなのでは……という不安があり、やはり「本当にこう解決していいのか?」と立ち止まっていただきたかったところですし、その前提として「二人の母親はどういう背景があって、なぜこう振舞っているのか」を掘り下げていただきたかったです。掘り下げていれば、もっとはっきりした解決方法が出てきたかもしれないわけで。
一方で「ウミガメは海の中でも泣いている」という挿話や、五時に流れる市民の歌(ここも著作権の切れた唱歌とか、具体的な何かの曲を設定していいところでした)を聞いて「家に帰りたくない子だっているのにね」と言うところなど、ところどころに「普通」を超えたいいエピソードが入っていることを考えれば、「普通」以外が思いつかないのでなく、勢いのままに書き上げてしまって掘り下げたり調べて確認したりをしていなかったのが原因ではないかと思えます。
なので是非次作では
①プロットを事前にしっかり作り、必要になるであろう事柄は調べておく
②書きながら少しでも気になるところがあれば立ち止まり、表現や書き方を「これでいいのだろうか?」と再考する
③全体を書き上げたら少し間をおいてから再読し、場合によっては書き直す
を(できればこのすべての工程を、どうしても合わなければできるものだけでも)、時間をかけてやるのがよいのではないかと思います。これは「センスがズレている」とか「変なこだわりがある」のと違い「その気になれば直せること」なので、伸びしろがある、という評価でもあります。
『いつか忘れるきみたちへ』
人物造形が圧倒的によく、文章力や心理描写といった「小説の力」をもっとも感じる作品でした。すずり(と表記しますが)のキャラクターが面白く、「憂さんに、おれのこと片付けてほしいんだよね」という言い回しや、「知らない人たちの飲み会に紛れ込む方法」など、なんじゃそれは、という、いい意味で常識を揺さぶられる異様なものが描かれています。やはりプロの小説家というのは、こういう「他では目にしないもの」を読者に提示できてなんぼです。
とにかくうまいのが人物の書き分けで、主人公、奈々さん、すずり、さわら等主要人物は登場時に背景がメンカラに染まる感覚があるほどくっきりしており、一人一人の考え方の違いがはっきりしているので、同じものを見せてもみんな違う反応をするだろうな、と思えるような、立体的な人物造形ができていて見事でした。それでいて無理矢理なキャラ付けでわざとらしくなったりなどはしておらず、そこらにいる人っぽい、というリアリティもありました。
また、片付けアドバイザーである奈々さんの提示する片付け術が、ある一つの考え方に貫かれた納得のいくものである上、「だって最初から夫は理解ある人でした、なんて言っちゃうと、うちとは違うと思われて、家族への説得をあきらめちゃうかもしれないから」等、仕事上のとっさの言い方の工夫なども説得的に書かれており、仕事ができる人なんだな、という納得感がありました。主人公にしても「選択肢があるということ自体がストレスになる人もいる」という視点が面白かったです。
ただ一方で、説明不足というか「何かあるんだろうけど、なんでこうなんだろう」と分からなくなる部分もありました。たとえば主人公がなぜそこまで「選ぶ」ということを負担に感じる性格なのか(と、「憂」という名前を誰がどうしてつけたのか)。すずりの兄が交通事故を起こし、責められただけで引きこもってしまうのはなぜなのか。他の部分の人物造形がしっかりしているため「おかしくない?」ではなく「何かあるんだろうけど」程度の違和感で済んではいるのですが、やはり極端な性格や行動には何らかの理由を求めてしまうのが人情です。
加えて、登場人物の行動等についても、「本当にそうなるか?」と怪しい部分がいくつかありました。一番目立ったのはすずりが主人公の部屋に居付く場面で、そもそも酩酊した女性を初対面の男性と二人だけで送り出してしまう友人たちは如何なものかとか、すずりは簡単に言うけど「単身者用のワンルームに異性を住まわせる」というのはペットを飼うようにはいかないはず、という点が気になりました。ただスペースをとる、というだけでなく、「一人で住んでいたパーソナルスペースに、常に他人の目がある」ことになるわけで、風呂上がりに半裸で歩き回ることも、テーブルに足を乗っけてごろんとすることもできなくなります。それが毎日で、気の休まる暇がないわけです。このストレスというのは相当なものであるはずで、そういう「他人と一緒に暮らしている生活感」が描かれていないところは、やはり首をかしげてしまいました。文章がうまいので、現実的に考えてみるとおかしい点があっても「気付かない人は気付かないまま通り過ぎてしまう」可能性があり、そうやって現実にはありえないことをなんとなく雰囲気と勢いで通してしまう、というマジックリアリズムが可能なあたりが小説ならではなのでは、といった意見も出ましたが、少なくとも「本来ならこれは異常なことである」と「作者は分かっている」ような書き方がないと、読者は首をかしげてしまうでしょう。この点を考えれば、すずりが他人の家に居候するのは「家賃を払うから」では済まないはずで、すずりに対して余計なところで悪印象を抱かれかねないのも勿体ないところでした。
また、交通事故の扱いについても一方的なのが気になりました。作中では「赤信号を無視して出てきた被害者をすずりの兄がはねてしまい、そのことについて責められたためすずりの兄が引きこもってしまう」という流れですが、社会一般の常識からいえば、これは車(明記されてはいませんが、書き方からしておそらく四輪自動車)の方が悪いのであって、居酒屋ですずりがしている喧嘩は、無関係の人からすれば「逆ギレ」に見えてしまいます。すずり側である主人公やさわらが作中のように言うのはむしろ自然なのですが、それに対する反論が作中で全く提示されず、「これはあくまで彼らの意見である」ということが示されないと、読者は違和感を覚えるでしょう。
交通事故では、歩行者側の「赤信号無視」の事例でも過失割合が通常「3:7」つまり運転者は歩行者側に発生した損害について3割は賠償しなければならない(左折時なら5割)、ということにされていますが、それにはちゃんと理由があります。「自動車の運転者は、事故のリスクを他人に負わせて運転という危険なことをし、自分は便利さという利益を得ている」のだから、強い立場である自動車側は、弱い立場である歩行者側を保護する義務がある、という、「優者危険負担」の原則です。「もし車を運転する人がいなければ交通事故の被害者はゼロであり、信号も必要なく、道のすべてを歩行することができたはず」であることを考えれば、歩行者は常にけっこうな負担を強いられていることになるわけで、そこもすべて考慮した上での「公平」なのです。こうした情報は過失割合というシステムについて調べていれば自然と目にしていたはずでして、被害者側が賠償金を払ったかのような言い回しをしているところなども合わせ、交通事故を題材にするならば、もう少し交通事故について取材をするべきでした。
対して、とにかく不要と判断したものは捨てる、という奈々さんの考え方についてはきちんと掘り下げられており、主人公と一緒に読者が「あれ?」と首をかしげるように上手に描かれていました。本作の面白いところは、奈々さんの考え方を「おかしいもの」と決めつけてしまわずに、主人公が「それは一つの考え方だけど、自分は違う」と理解する方向にしていることで、奈々さんが「嚙ませ犬」の印象にしなかったのは、絶妙なバランス感覚だと思います。主人公がすずりとさわらの「二人に会うことはきっともうない」としつつも連絡先を残しておく、というラストもすっきり決まっていました。
問題は「はっきりしたジャンル小説ではないので、売り方が難しい」という点ですが、これは作者でなく編集部が悩めばいいことで、作品の質とは関係がないことです。ですので、あとは編集部のがんばり次第。読めば面白いけど分かりやすいジャンルがない本作を、どうやって手に取ってもらうか。腕の見せ所です。
『みなと荘101号室の食卓』
作者の情熱と読者の(予想ですが)要求がうまくマッチしていそうな、候補作中最も「商品」としての展開が期待できる作品でした。過去の不幸で傷を負った女性が新たな出会いで癒され、また相手のことも癒していく……という、近年では凪良ゆうさんや町田そのこさんらが立て続けにヒット作を出している、ホットなジャンルです。このジャンルはまだ「公式に」呼び方が定まっておらず、「関係性もの」「夜明け小説」とでも呼ぶしかない状態(恋愛要素があるものとないものがあるので「疑似家族もの」では漏れが……)ですが、とぼけて明るいトーンのほっこり系、わりと壮絶な不幸系など、それぞれに市場があり、活況です。
本作も読者層が求める要素を上手に押さえてあり、心理描写が巧みであったりと小説としての手並みもすぐれていて、刊行してうまくいってベストセラー、という未来が想像しやすい作品でした。メインとなる千裕との心の交流も丁寧に繊細に描かれており、「味覚障害の主人公に対し、食べられるメニューを一所懸命に考えてご飯を作り、持ってきてくれる男子高校生」というキャラを書いていながら「こんな子いるわけない」「妄想じゃん」と鼻白む感じにならないよう自然に描けているのが見事でした。
ただ一方で、このジャンルには「宿痾」とでもいうべき、このジャンルで書くならもう構造的に避けようがない問題点が存在します。それが「まず主人公が傷を負っているところから始まらなければならないので、主人公を不幸にさせる必要がある」という点です。このジャンルではほとんどの作品で虐待やDVが描かれますが、それらは本質的に、主人公を不幸にさせる「道具」として出すことになるため、現実の社会問題に対する真摯さが足りないのではないか、という批判は常にありえます(加えて「泣ける」が魅力になる作品が多いので、「他人の不幸で気持ちよく泣きたいのか」と怒られます)。本作もその例に漏れずで、このジャンルの弱点を突きつけられる形になりました。
たとえば主人公は可愛がっていた犬を目の前で継父に蹴り殺され、自身も継続的に暴力を受け続けていますが、この後、継父はどうなったのでしょうか。継父のこの行為は傷害罪及び動物愛護法違反という立派な犯罪であり、これだけの騒ぎになっていれば警察に通報され逮捕され、身体的虐待とあいまってニュースになる可能性もあるはずなのに、その後どうなったのかがよく分かりません。千裕の方も同様で、身体的暴力を継続的に受け続けていれば、就学前はともかく(保育園にも幼稚園にも行っていないのであれば発覚しにくいので)、小学校の教員は確実に気付いて児相に通報しています。通報義務がありますので。虐待者である母親にしても、その後どうやって息子の居場所を知ったのか(病院が漏らしたとすればこれは「不祥事」のレベルです)等、実際にはこうはならないんじゃないか、という部分がありましたし、主人公の味覚障害についても、何年もかけて名医を訪ねまわり、心因性だということまで分かっているのに、「児童」+「心因性」で誰も虐待の可能性を疑わなかったのはちょっと考えられないので、途中で治療をやめてしまった、とした方がよかったかもしれません。
これはつまり前出の「大人は何をしていた問題」でもありまして、もう少し「主人公たちがなぜこの状況に陥ってしまったのか」の設定をちゃんと詰めるべきでした。そもそも主人公と相手役が「不幸なところから始まる」ジャンルなので「そういうジャンルだから」で済むといえば済むのですが、蔑ろにすればするほど、やはり読者の中にノイズが生まれて没入しにくくなりますし、「虐待やDVを、『感動の話』のための道具にしている」という批判に抗しにくくもなります(※ミステリにも「犯罪を話のための道具にしている」という同種の宿痾がありまして、ミステリ作家が犯行動機やそれに絡む社会問題などを書き込むのはそのためでもあります……)。
また主人公の造形にも、このジャンルの弱点が出ている気がします。本作の主人公はゼミの友人たちにサプライズで誕生日ケーキを用意してもらい、綾乃さんと千裕にはいつも気にかけてもらって手間のかかる料理を振舞ってもらい、バイト先では後輩に好意を向けられ、ゼミの友人からも告白される……と、周囲から大変愛され、恵まれた状態にもかかわらず、過去のことと現在の味覚障害のため、いつも不幸な顔をしています。実際にこの過去があればそうなるでしょうし、主人公が不幸で傷ついていないと成立しないジャンルなので、むしろこの点は読者に対し「不幸な主人公を心地よく読ませる」という上手さと言えるのですが、やはりシンプルに「こんなに愛されているのになんで不幸ですって顔してるの?」と引っかかってしまう読者も多そうで(私は誕生日が春休み期間中なので、友人に誕生日を祝ってもらったことなんてほとんどありませんよ……?)、どうしても読者を選んでしまうところがあります。もともとこのジャンル自体が読者を選ぶので、むしろ潔くジャンルに殉じている、という評価もできるのですが。
技術面に関しては「解像度」という単語がキーワードになるようです。たとえば凪良ゆうさんなどはDV男の描写が気持ち悪く迫力があったりして、「暴力」や「不幸」の解像度が高いのですが、本作はその点、どうも暴力の解像度が低く、主人公も千裕も両方「根性焼き」をされている、という点に違和感があったり(それぞれの親が暴力の手段として、そういうものを選びそうな人に見えない)、加害者たる主人公の継父の人格がよく見えてこなかったり、千裕の母親にしてもそもそも身体的虐待をするような設定に思えなかったりと、「虐待者が必要だから出した」という、舞台裏が見えてしまっている感じになっています。主人公については母親が虐待に気付いていなかった、というのも無理があるので、母親は「気付いていたけど見て見ぬふりをしてしまった」くらいの方がリアリティがあったところで、やはり「家の中で継続的に暴力が振るわれている」という状況を具体的に想像できているかが気になりました。また、高齢者に対する解像度も気になるところで、現代で六十歳というと阿部寛さんとか薬師丸ひろ子さんとかでして、まああの人たちはとびきり若いケースだとしても、「御年六十歳」といったものではないです。というより、現代では六十歳はまだ「高齢者」ですらないでしょう。綾乃さんが活き活きと動いているわりに今ひとつイメージが固まらないのは、参考になるモデルが周囲にいなかったのかもしれない、と思いました。
もちろん逆に、解像度の高さが光る部分もありました。たとえば主人公は味覚障害で甘味だけが分からなくなっているのですが、ものを食べた時にまず「食感」を描写していたり、「美味しそう、よりも先に、食べられそう、という感想を抱いた」「『食べられるもの』と『好物』の境目がぼやけてしまっていた」という感覚や、甘味をわずかに感じた時の反応など、「経験したことはないけど、なるほど実際にはこうなんだろうな」と感じさせるもの、つまりリアリティがありました。「甘味が分からない」→「食事が楽しいものという感覚がない」という行動様式の変化なども描かれており、唸らされます。ただ、味覚障害時の感覚についてこれだけ実感的に描けていながら、終盤、特にきっかけになりそうなこともなかったのに悪化したり、最後には全快したりと症状が急に変化してしまっているのは、せっかく実感的に描いたものが軽く扱われているようで惜しいところでした。題材として味覚障害を扱っているのに、この流れで「主人公は治りました。めでたしめでたし」にして終わらせてしまうのは、現実の味覚障害の患者に対しても、寄り添っているとは言えないような。ここでもやはり「不幸を話の道具として扱う」という、このジャンルの宿痾が出てしまっているのではないか、と思います。
文章に関しては表現力が豊かで、何より、「文章を読むだけでも面白いものにしてやろう」という意気込みが感じられました。リズムもよく、ものごとを丁寧に描写しようとしているのが伝わります。
が、気になる点が一つありまして、どうも「攻めた比喩(直喩)」が過剰、という癖があるようなのです。
ここで言う「攻めた比喩」とは「通常の言い回しでない比喩表現」のことで、たとえば『こころ』で朴念仁と思っていたKがいきなりお嬢さんへの恋心を打ち明けてきた時の「私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。」みたいなやつです。こうした「攻めた比喩」は要するに「大技」のようなもので、ただ多ければいい、攻めていればいい、というものではありません。空振りすると滑るからです。前出の『こころ』にしても、
①Kが朴念仁であることを示す(+主人公が「お嬢さん」に密かに恋していることを示す)
②そのKが突然、主人公と同じ「お嬢さんへの恋心」を打ち明けてくる
③読者は衝撃を受ける
④その衝撃を「私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。」と表現する
⑤読者は「うおおその通りだ! すごい表現だ!」と感動する
という手順を踏んでいるから決まるのです。漱石のこれなどはかなりきっちり手順を踏んでいて奥ゆかしいケースだと思うので、毎回ここまできっちりとやる必要はないはずですが、基本的には「読者の感動がまずあって、それを後から、攻めた比喩で表現する」という順序です。①②③を飛ばしていきなり④をやっても読者はついてこれず、ただ単に「分かりにくい言い回し」「なんか引っかかる書き方」で終わってしまう危険があります。
そこをいくと本作の「攻めた比喩」はいきなりすぎたり回数が多すぎるきらいがあり、読みながらどうしても引っかかってしまいました。たとえば7頁で綾乃さんが「気分が晴れるような美しい黒のワンピースを着ていた」とありますが、「黒」は一般的には「気分が晴れるような」とは表現しません。これを成立させるなら、綾乃さんが黒が似合う人であるとか、主人公が「白は綺麗なもの」という決めつけにうんざりしているとか、そういうことを示して「下地」を作っておく必要がありました。13頁上段「その頬が冷えた金属を押しつけられたようにわずかに強張った。」からの「不安定な、その機能が錆びたような笑い方だった。」や32頁下段の「彼女の話し方はおろしたてのタオルのようにふわふわと角がなく」も表現対象の事前情報がない状態で出すにはやや派手過ぎると言うべきで、工夫して自分独自の文章にしようとしていること自体は評価できるとしても、「メインディッシュばかり出てくるコース料理」では胃がもたれてしまうし、「全楽章アレグロ・アパッショナートの交響曲」では聴衆が疲れてしまいます。ややサービス過剰というか、もう少しさらりと流す部分がないと読者が食傷してしまい勿体ないところです。毎回ハイキックや胴回し回転蹴りを狙う必要はないので、適宜ジャブやローキックを交ぜましょう。
また、構成上の癖として、どうも後出しになってしまっているところが多いのが勿体ないところでした。千裕がいい子すぎて高校生らしく見えない、とならないようにちゃんと高校で同年代の友達とわちゃわちゃしているシーンを入れたり、千裕が主人公を必死で助けようとする理由として「過去に出会っていた」というエピソードを入れたりと気配りがきいており(卒論のバックアップをちゃんと取っているとか)、読者が疑問を持ちそうなところはちゃんとフォローしているのですが、主人公も虐待を受けていた、という情報が後から提示されたり、前述の高校のシーンもかなり後半になってからだったり、後手を踏んでしまっているのが残念でした。「疑問に思う前に出す」と「疑問に思い、しばらく読んだ後、出てくる」では同じことをしていても印象がだいぶ違い、言い訳のように見えてしまって損なので、エピソードを出すタイミングは一考が必要かもしれません。
※ちなみに「いわゆるヒロイン側の性別のキャラクターを、ちゃんと人間として描けているかどうか」に関しては、具体的なチェック方法があります。「そのキャラクターが同性のキャラクターともちゃんと会話をしているかどうか」です。たとえば主人公の職場が女一男四だったとして、同僚の男の子たちがみんな主人公としか会話せず、男の子同士で会話をしていないなら、それは「愛でるために創られた不自然な男の子たち」ということになるわけです。ひと昔前のミステリにも「ひたすら主人公(年上の男性)とだけ会話をし、その場に他の女性キャラクターがいても一切会話をしない、若い女性アシスタント」がよくいました。勤務中のホステスだってもう少し「隣の人」と話します。本作で高校のシーンが書かれているのはそういう事態を避ける意図もあったはずで、これは作者の目配りができている証拠でもあります。
本作が高水準にできており、売れ行きが期待できそうなのにもかかわらず「準大賞」だったのは、これら惜しい点があるからですが、実のところこれらの点は担当編集者との共同作業でけっこう直せるわけです。なので刊行の暁にはわりと熱烈なファンを獲得するのでは、と期待できるところもあり、楽しみな作品でした。
『Decks ―ハンティングエリア―』
毎年「選考時や選考後の雑談の中で、いちばん長く話題にされる候補作」というのがありまして、今回はこれでした。タイトルから分かる通りゴリゴリのサスペンスです。一般に「コバルト文庫の系譜」とみられているノベル大賞にこうしたハリウッド映画のごときノリの作品で挑戦してきたその意気や良し! と、まず好感度が高かったです。昨年の受賞作のラインナップからも明らかなように、ノベル大賞はジャンル問わずに面白ければ何でもあり、の新人賞ですので。
また本作は「豪華客船のクローズド・サークル下で展開する殺人鬼から逃走劇」だけに留まらず、「逃走中に助けた少年との、極限状態で育まれる愛」と、「生まれで階層が固定化している社会で『押しつけられた人格』から主人公が解放されるドラマ」も入っており、サスペンスの縦糸とロマンスの横糸がしっかり織り込まれた華麗な作品です。
ロマンス部分については貴族階級である主人公が「公語」の話せない少年テグと必死で意思疎通をしようとするシーンや、狭い部屋で身を寄せあって隠れながら、貴重な食料を分けあうシーンなど、ドラマチックなものがたくさん織り込まれており、テグの純粋な善意と夫フレイの虚飾に満ちた「優しさ」がいい対比で、盛り上がります。またサスペンス部分においても、最後のポシェットを用いた逆転やテグと離れるシーンなど大変盛り上がりました。状況設定だけでなく文章での盛り上げ方も上手で、脱臼を自力で治すシーンは読みながら顔をしかめましたし、毒蜘蛛と対峙するシーンは緊張しました。毒蜘蛛についてはまた「サスペンスを盛り上げるためには、主人公に対する脅威を『同時進行で複数』用意するとよい」という、シナリオ作りのセオリーがきちんと実践されています。
何より、個人的に好きなのは夫フレイの圧倒的な気持ち悪さです。この男、終始「か弱い妻を優しく護るいい夫」を演じようとしているのですが、最初は「言動が嘘っぽく無神経で気持ち悪い」程度だったのが、人が死に、食料が減り、状況が切迫してくるにつれて「おい何するつもりなんだ」となり、徐々にまともな思考も壊れていって殺人鬼である「執行者」の側になってしまいます。しかもどうにもこのフレイ、本来の脅威であるはずの「執行者」を食うほどに存在感があり(「主役を食ってしまう脇役がいる」というのは、実は面白さにつながるケースが多く、問題ではないことが多いです)、「怖い、しぶとい、気持ち悪い」を備えた『チャイルド・プレイ』のチャッキーみたいな暴れ方をしてくれます(注:本作はホラーではありません)。そのため後半、フレイが登場するたび「出た」「ギャー」「怖い怖い怖い」と、『青鬼』の実況でも観ているかのようなスリルで読めました。最後の方の姿などは「名作映画怪物フィギュアシリーズ ①ジェイソン②レザーフェイス③貞子④フレイ」みたいな感じでフィギュア化してほしいぐらいです。いや、本作はホラーではないのですが。
と、このように強烈かつ多数の魅力を備えた本作がなぜ「準大賞」なのかといえば、その一方で本作が、凄まじい数の「つっこみどころ」を抱えた問題作だからです。
本作はサスペンスでありミステリではないので、「執行者」の正体が某超有名作品と同じだったり、それを特定するロジックが乏しく無理があることについては、さほどの問題ではない、とします(それでも、この作品はミステリではなくサスペンスですよ、と早めに示す工夫が必要だったとは思いますが)。ですがそれを差し引いても本作には「そもそもこのストーリー自体が成り立たなくなる、という『大つっこみどころ』」も「細かいけど気になる人は気になる小つっこみどころ」もあまりに多く、さすがにこんなに多いと、「気にしないタイプ」の読者でもどこかで引っかかってしまい、のめり込めなくなってしまうのではないか、と危惧されるのです。
大ツッコミどころについては「そもそもいくら大富豪でも、船員全員を手下にして船ごとまるまる支配する、という方法は無理がありすぎる。一人ずつ拉致して私有地の地下室にでも閉じ込めた方が目の前で復讐でき、必要なスタッフも少なくていいため情報が漏れる危険性もなく、はるかにいいのでは?」「そもそもテグがなぜ殺されなかったのか。計画を知られたならとっくに『このことを誰かに話したか』と拷問された上に殺害されているはずでは?」「これだけの大計画なのに実行犯たる『執行者』がたった一人で、武器すら携帯していないのはなぜ?」等、いくつも出てきてしまう上、デザイナーズベビーが自由に造れるほど科学技術が進んだ世界、という設定なのに「船舶にAISのようなものが搭載されておらず、MEOSARのようなものもなく、船からSOSを出す手段があっさりなくなってしまう」「船内に『裸電球』があり、新造の豪華クルーズ船なのに『ネズミ』が入り込んでいる」等、20世紀前半くらいに思える場面もあり(そもそもこの技術がある世界なのに子宮で妊娠するだろうか、という点も……)、もともとの世界設定からして科学技術の水準がちぐはぐで、かなり粗の目立つものでした。小ツッコミどころについても「船内で殺人事件が発生したのに『全員で行動しようとする』『なんとかして救助を求めようとする』『最低限、武器になるものを探す』等、『こうした状況になった人たちがまずひと通りするだろうと予想される行動』をろくにしていない」「『執行者』はなぜ『藻洲の殺害』を、他人が入ってくるかもしれない場所でやったのか」「新たな死体が出たのに皆が状況の共有すらせず、主人公もずっとテグと二人だけで隠れている。少なくともイエリーの被害などは、主人公がすぐ新たな殺人事件の発生を共有していたら防げていたかもしれないのでは?」「金持ちが使う予定の船なのに客室のドアに手動のサムターンもないのか?」「テグがあの形で犯人と一緒の空間に残されたのに、いくら疲れているとはいえ主人公が眠ってしまうのはいかがなものか」「テグと『絵を描いて意思疎通する』という方法をなぜすぐに思いつかなかったのか」「テグと一緒に食事をしている時間があるなら、まずテグに対し何者で、犯人を知っているのか、といった大事なことを何としてでも訊き出そうとするものではないか」等、枚挙に暇がない、というレベルで多く、私の専門がミステリで、選考委員の中で最も「こういうことにうるさい読者」であることを差し引いても、さすがにこれは多すぎる、と言わざるを得ません。
しかし奇妙なことに、これだけツッコミどころがある一方、本作で描かれている頭脳バトルを見ると、作者は非常に気配りがきき、論理的思考が達者で、発想力があり、船舶のサイズ感がしっかりしていることや主人公の医学知識などを見ても、調査力もある方だということが分かります。私のように『ジョジョの奇妙な冒険』や『呪術廻戦』のような頭脳バトルが好きな人間というのは、頭に「この作者は頭がいいか」を判定する尊大なアンテナが立っているのですが、そのアンテナも「この作者は頭がいい」=「頭脳バトルが書ける人」だと判定しました。特に主人公が「これから先、どんな小さな違いが生死を分けないとも限らない」と読んで「通りかかった場所にある窓の鍵をなるべく開けておこうと思った」と判断するなど、部分部分ではかなり頭のいい行動をしており、毒蜘蛛をお湯で牽制したり、パラソルで攻撃したりと、かなり頭脳バトルのできる、ハリウッドのアクションもので主役を張れそうな人物に造形されています。性格的にもぐずぐずしているところがないのが好印象。
それでいながらなぜ数々のつっこみどころができてしまっているのかといえば、これは作者の癖というか、方法論が原因なのだと思えます。『荒木飛呂彦の漫画術』(集英社新書)において『ジョジョ』の作者である荒木飛呂彦先生が「主人公が間抜けな行動をとるが故に困難になる、というのは、それ自体がマイナスです」と書いています。「主人公がうっかり携帯を家に置いてきてしまったがゆえに、いつまで経っても110番できずにピンチになる」といった筋運びでは、読者は「いやなんで携帯忘れてるんだよ」というツッコミが先に来てしまい、主人公のピンチを他人事だと思ってしまうでしょう。主人公が、読者が考え得る範囲の最善を尽くし、できれば読者の想定を上回るファインプレーをし、それでもなおピンチになるからこそ読者も「絶体絶命だ!」とハラハラしてくれるわけで、主人公に当然とらせるべき行動をとらせないことでピンチにする、というやり方では、うるさい読者から順に離脱していってしまいます。本作ではこのやり方でピンチを演出している場面が多く(一番分かりやすいのは敵を倒したのにとどめを刺さず拘束も死亡確認もしないため、あとから復活されてしまう118頁など)、どうにも引っかかってしまう部分が非常に残念でした。
ただその一方で、本作については、落ち着いてゆっくり読まれると矛盾点が気になってしまう、というなら、とにかく勢いで強引に話を盛り上がるところまで進めてしまえばいい、という、なんだか「とにかく戦闘は全逃げでボスまで辿り着くこと優先」という、ゲームのRTAみたいな豪快なやり方が徹底されており、これは作者の手落ちや手抜きではなく意図的なものなのだと思えます。実は、書き手としては「矛盾点に気付き、修正できる」能力より「勢いを優先して矛盾点を無視できる」能力の方が希少で、才能が必要だったりするわけでして、本作でも経緯につっこみどころはあれど、作出されるピンチが実にドキドキで盛り上がり、終盤の二転三転する逆転劇なども鮮やかなことを考えると、「整合性」をどこまで重視するか、という点は非常に悩ましいところです。売れ行きの面から考えても、極端な話、現在の市場では「整合性は綺麗にとれているが、整合性のとれる範囲内で作劇したため小さくまとまっている作品」より「整合性はめちゃくちゃだが、とにかく派手で盛り上がる作品」の方がはるかに売れるし評価されるわけで、「面白いけど、そもそもこの状況が成立しないのだからルール違反でアウト」という読み方をする「うるさ方」の読者(私もそう)などは少数派なのです。そして実際、「うるさ方」であるはずの私も、最後の方は「この作品は『細けぇことはいいんだよ』で読むべき作品だな」と分かりました。ミステリ的な「死体の眼球をえぐり取る理由」についても、無理はある(誰かがよく見ればバレる)けど面白い、という感じでしたし。
だとすると、この作者の超アクセル能力を「整合性」のブレーキで縛って殺してしまうのは避けなくてはならないところでして、前述したつっこみどころをどこまで気にするべきか、という点において、担当編集者の実力が試されそうです。ただ、全く直さなくていい、というわけにはさすがにいかないので、少なくとも「主人公が『執行者を特定して倒す』でも『なんとかして救助を求めるか、船から脱出する』でもなく、ただ隠れ続けているだけ」という点や、「デザイナーズベビーは皆『特性』という具体的な長所を持っている、という設定が特に活かされていない」「最終的に黒幕たる大富豪とは決着をつけないまま終わる」あたりは修正が必要かと思いますが。
とはいえ、実はこの作品に出てくる大小のつっこみどころは、けっこう解決可能なものばかりにも思えました。主人公たちが「執行者」に対しただ逃げるだけ、という点も、たとえば「乗り込んでいる『執行者』は『殺人技術』の『特性』を持っている人間で、まともに立ち向かっても敵わない」とすれば設定も活かせますし、「大富豪の復讐計画ではなく、偶発的事情により生じた漂流状態を『執行者』が利用して個人的な復讐を始めた」とすれば犯行計画の粗さもなくなります。もともと乗客全員がやばい人たちであり、それがさらに壊れていく様が迫力をもって描けていることからすれば(一方で、危機に際してもある意味「いつも通り」のイエリーも面白いです)、乗客たちが一致協力しないのも説得的に書けそうです。そしてこれら修正は「カットする」のではなく「書き足す」だけで可能で、サスペンス部分を減らさなくても解決できそう、というのも大事な点です。直せばよくなるし、直せる。そういった理由での準大賞となりました。作者におかれましては、今後もあまり整合性を気にして小さくならず、ブレーキは編集者に任せて好きなようにアクセルを踏んでいただきたいです。
『筆と踊る』
今回の候補作はどれも「作者自身が楽しんでいそう」だったのですが、その中にあってなお、最も作者自身が楽しんでいそうなのがこの作品でした。書道パフォーマンスという題材も、筆を操っている時の感覚など書き甲斐がありますし、完成した書は「文字」なので、クライマックスで「何を書いたのか」を表記することにより盛り上げられる、という点も小説向きで、いい題材を選んだと思います。また、実のところ候補作で王道の青春部活小説を見たのは初めてです。
ただ困ったことに、いかんせんノリが古い気がしました。ラッキースケベ的展開(実際はそうでもない)を仕組まれてヒロインに入部を要求される主人公。なぜか主人公に対してだけ「まぁ元気を出したまえよ栗栖少年」と話しかけてくる上、やたらと主人公の言動を性的に曲解してからかってくる女性教員。「モチのロン」「ちょっち」といった語彙を多用するヒロインの姉(高校生)など、なんだか『新世紀エヴァンゲリオン』の葛城ミサトさんみたいですが、TV版の旧エヴァって1995~1996年なわけです。顧問の八重桜先生が筆頭ですが、登場人物の口調とノリがどうにも「ひと昔前のライトノベル」のようで、主人公も地の文で「突然の事態にそりゃビックリしたさ。」「結局、咲はこの書展でどの賞にもカスることすらしなかったんだ。」等の変わった喋り方をしており、これが実直な体育会系、という主人公のイメージに合っていないのもあって、読みながら引っかかってしまう部分が多かったです。根岸も「ふぅン。まぁ別にいいけどよ」とか、これはひと昔前のヤンキーのコスプレをしているのかも、という感じに……。作者がこういうノリが好きなのは分かるのですが、これが現代で読者一般に受け容れられるか、というと、かなり厳しいのではないかと思います。
また、ストーリー展開も、どこかから借りてきたもののように見えてしまうのが残念でした。この手の青春小説、しかも部活ものは一種のお約束がありまして、
①中学時代別のことをやっていた(+そこそこ優秀だった)が、何か理由があって辞めた主人公が、
②高校入学ととともに別のジャンルに出会ってその魅力に気付きつつ、
③主人公をそのジャンルに誘った、そのジャンルにおいてはなかなかのエリートであるキャラを追いかけたり切磋琢磨したりしながら、
④自身の過去の問題に決着をつけ、
⑤誘ったキャラの抱える、多くはそのキャラの家に関わる問題を乗り越えるきっかけを与えたりもしつつ、
⑥ライバルとなる強豪校に挑む
という流れがあります。これに「⑦かなりの有力選手であるが、何かの理由によりトップ選手に敵わない部長」「⑧理解があり破天荒な顧問」「⑨諸事情があって部活を辞めているけど、あとで仲間に加わってくれる強力な助っ人」等が登場し、小異はあっても大筋はこれ、という感じで進みます(このジャンルが好きな方は自分の知っている作品を当てはめてみたり⑩や⑪を探してみたりすると楽しいかもしれません)。青春小説ファンはむしろこのお約束を喜んだりしており、殺人犯が異名を名乗ったり名探偵がさてと言うと喜ぶミステリファンみたいな感じになっています。
本作は完全にこの流れに乗っていて、それ自体はいいのですが、この「お約束」に乗るなら、面白く乗らなくてはならないわけです。たとえば①④主人公が中学時代やっていたことを辞めた理由が深刻で考えさせられるものだったり、②高校入学とともに別ジャンルに出会う経緯が面白かったり、③主人公をそのジャンルに誘った、そのジャンルにおいてはなかなかのエリートであるキャラが立っていて、⑤そのキャラ自身の抱える、多くはそのキャラの家に関わる問題が考えさせるものであったり、一つ一つにオリジナリティと迫力がなければ、ただお約束の展開をなぞって「青春ものでよくあるパターンをやってみた」を発表しただけの趣味的なものになってしまいます。残念ながら、本作はこの点において水準をクリアしてはいませんでした。また、書道パフォーマンスという題材は面白いのに、「本番中、何を舞台に広げて、どこに何人いて、何を持ってどう動き、どういう音が鳴ってどういう作品を作り上げるのか」という点を具体的に書いていないため、パフォーマンス中に「何をやっているのか」「そもそもどういう競技なのか」が分からないままである、というのが致命的でした。実際、書道パフォーマンスというのはかなり独特で演劇に近く、近年のものを実際に見て知っている人間以外にはハテ何じゃろなとなるものなので、まずはそれを説明し紹介する中で魅力的に描き、読者を主人公と一緒に、未知の「書道パフォーマンス」の世界に引き込まなければならないところです。となれば序盤、部活動紹介で先輩たちのパフォーマンスを見ていいと思った、では工夫がなさすぎで、もしそれで通すなら、読者も「いい」と思わせるだけの描写が必要です。③のキャラである咲にしても、分かりやすく立ってはいますが、⑤超人で天才である姉の後をついてばっかりで伸びない、という設定はありふれすぎていて、しかもなぜ姉の後をそこまでついていくのかの理由が提示されていないので、首をかしげながら読むことになってしまいます。作者の「こういう話をやりたいんだ!」は分かりますし、それこそが創作の最も大切な第一歩なのですが、それを自分流に咀嚼し、他人がお金を払って読みたくなるような「商品」に変換して出さなければ二歩目に進めません。書展で出てくる、「こわっぱめ、ぬかしおるな」と、冗談でもなんでもなくこの口調で喋る偉い先生が八重桜先生の祖父で犬猿の仲、といった設定もベタですが、そもそもこの先生のこの設定は本編と関係がなく、これも漫画等でよくあるベタを「ただやってみたかったから出した」かのように見受けられます。①④では主人公が過去に起こした暴力事件が出てきますが、対立している根岸とも何もないままになんとなく和解してしまったり、⑤の咲の問題もどうなったのか分からないままだったり、⑨の猫本先輩も特に何もしないうちにすんなり復帰してきてしまったり、物語的な「障害→工夫→解決」というプロセスを経ていない部分が多く、残念でした。
また文章的にも、「順列をつけられる」といった誤用の他に「有原世羅先輩は」「せめてあとあと五日あれば」「まさかの展開そのニ(←カタカナです)」等、誤入力(消し忘れ?)誤変換がそのままになっている部分が多く、乾坤一擲の応募原稿のはずなのにちゃんと印刷して読み返したのだろうか、と気になります。それ以外にも、入学式の場面ではすべて書く必要のない新入生代表のスピーチは全文書いているのに、8頁ではいきなり放課後に時間が飛び、38頁でもいきなり「数日後」に飛んでいるなど、省略すべきところとそうでないところがちぐはぐでした。同様に、視点人物の変更や時間の巻き戻しなどは、やった瞬間にそれまで高めてきた読者の没入感がゼロに戻るので、映画の休憩時間と同様、できる限りやりたくないもののはずなのに、あまり気にせず連発してしまっている、という純技術的な部分の未熟さが目につきました。
また、入学式なのにいきなり教室に行き(クラスはどこに掲示されていたのか?)、当日の独特の感覚が全く描写されておらず始業式みたいだったり、部活動紹介で先輩たちのパフォーマンスがどういったものだったのか、咲が書き上げた九成宮醴泉銘を最初に見た主人公がどういう印象を受けたのか、といった、書き込んで面白く表現できるはずの状況を作っておきながら書き込まない、という勿体ない部分がありました。舞台が広島であり、広島のお祭りや風物が出てくるところも「売り」になりうるのに(首都圏本意のやり方ではありますが……)、前半の登場人物が全員東京弁で喋るため、「えっ? ここ広島だったの?」となってしまうのも残念なところで、どうも全体に、売りになるいい題材を掘り当ててはいるのに、掘り当てたことに気付かずそこらへんに置いたままにしてしまう、という残念さがありました(天然……?)。
キャラクターについては、主人公の姉と八重桜先生と雪乃さんが三人とも似ている……という点はさておき、主人公の、いい意味で体育会系のさっぱりした性格には好感が持てました。こういう奴ならみんなに可愛がられるのも分かるな、と思いましたが、その一方で、根岸に対する態度がどうにも気になってしまいました。理由があるとはいえ、主人公は大会中に部員に暴力を振るって大会を台無しにしている上、根岸は何もしていないのに怪我をさせられ、大会出場もふいにされたのであって、完全に被害者です。この主人公の性格からすれば少なくとも根岸に対しては「俺のせいだ」と申し訳なく思っていて然るべきなのに、ごめんの一言もなく対等に言い返しているのは行動としてちぐはぐで、あれ、こいつこんな他人のこと考えない奴だったっけ、と疑問に思いました。また八重桜先生が咲のことしか考えずに書展の締切日をわざと伝えなかったり(顧問の伝達ミスのせいで生徒が出品できなかった、というのは大問題で、ニュースにもなりかねません)、授業を「ビデオでも見せとけばいい」と済ませてしまったり、あまりに周囲が見えていないのが気になりました。これは教室の様子が全く描かれず、主人公と咲がいきなり親しげに話していても誰も注目しなかったりするのと同じ理由で、主人公たちの「周囲」の動きが意識できていない、という問題に思えます。やはりもっと具体的に、現実だったらどうだろう、と場面を想像しながら書いた方がよいのでは、と思います。また、高校を舞台に書くなら現代の高校のことも調べなければならないわけで、現在では「木造の古い旧校舎」が使えるような学校はほとんどなく、それ以前に「木造の古い旧校舎」というイメージ自体が古いです。そもそも学校建築で木造四階建ては建築基準法上ほぼありえない(耐火建築である必要がある)、といった点もあるので、モデルになる学校を決めてそこを参考に書く、というのも手かもしれません。
いいものを見つけているのに無自覚、というのは他の面でも出ており、タイトルになった「筆と踊る」は(書道パフォーマンス界隈においてよく出てくる語句とはいえ)いい言い回しであるのに最後に唐突に出てくるとか、クライマックスで主人公たちが「どんな語句を書いたか」で熱くも泣かせるようにもできるのに、特に本編と関係ない語句で終わっていたり、やはり天然なのだろうか……と思う部分がありました。ラストの終わり方は選考会でも皆、褒めていたところでして、いいネタを見つけることはできているので、あとはそれのどこが魅力でどこを見せなくてはならないのか、読者からして楽しいものになっているかどうかを一度、立ち止まって考える癖をつけられるのがよろしいかと思います。
こうして振り返ってみると、全体的に「取材不足」というキーワードが多かったように思えます。題材として出すものはきっちり調べ、読者の知識を上回りましょう(その上で不要なことは書かない、というバランス感覚も必要ですが)。これはセンス等と違って「誰でも、やりさえすればできること」で、確実に作品の質を上げられる安心のがんばりどころで、そういった「準備」の大切さが際立つ選考でした。自分の「好き」を読者の「面白い」に変えるためには、「俺が好きだからみんなも好きだろ?」と突っ走りつつ「これは果たして、初見の人から見ても面白いのだろうか?」と立ち止まる、冷静と情熱の両方が必要です。