2024年ノベル大賞 選評/三浦しをん

登場人物たちに寄り添いつつ、きちんとストーリーを構築しようという作者の姿勢は、書くうえでものすごく大切な資質だ。


『Decksハンティングエリア』を推し、僅差で『いつか忘れるきみたちへ』を次点とした。

『Decks』は、三つの要素で成り立っている話だと言えるだろう。
 1、「選択子」と「非選択子」という近未来設定。(※ここでは詳細は省くが、生まれながらに「特権階級」と「その他大勢の庶民」に分断された世界だと思っていただけばよい)
 2、洋上密室サスペンスミステリ。
 3、ラブストーリー。
 特権階級だからこそ、豪華客船に乗ることになるのだが、そこで連続殺人事件が発生する。船に乗りあわせた特権階級の、庶民に対する差別意識や本性が、事件発生という危機に直面して、どんどんあぶりだされていく。主人公の女性は特権階級に属しているが、作中世界の社会構造に以前から疑問と違和感を抱いており、夫との仲も冷えきっている。そんな主人公が、船内で庶民の男性と知りあい、互いへの理解を深めつつ、共闘して危機に対処する。つまり主人公にとって、「危機からの脱出=差別意識満々の息苦しい特権階級社会からの解放」という構図になっている。
 といったように、三つの要素が見事に絡みあってストーリーを推進させるので、「主人公のマイラと庶民のテグは、無事にピンチを切り抜けて自由を獲得できるんだろうか」と、手に汗握ってぐいぐい拝読した。
「1」の近未来設定については、作中の結婚制度や生殖への考えかたなど、非常によく練られていて、なるほどと思った。こういう社会だと、そりゃ分断も進むだろう。遺伝子レベルで子どもを「選択」するといったことは、いかにもありそうで、現実の半歩先を行く、リアリティのあるディストピア世界を作中に現出させている。
「3」のラブストーリーについては、便宜上、「ラブ」と言ったが、「恋愛」という狭い意味にとどまらない。マイラとテグは、生まれ育った環境も、使用する言語も異なる。そのため、言葉が通じないのだが、それでも二人は、徐々に互いへの理解と信頼を深めていく。特権階級の社会になじめず、苦しい思いをしてきたマイラが、自分とはまったく異なるひとと出会うことによって、世界と人間への愛を取り戻す(もっと言えば、自分自身を愛し大切にする気持ちも取り戻す)話だ、と私は読んだ。一人の女性が、自分の足で新たな一歩を踏みだすための、真の強さを獲得するまでの話と言い換えることもでき、とても胸打たれた。
 問題は、「2」の洋上密室サスペンスミステリ要素だろう。いろいろ「はてな?」と首をかしげる部分が多い。
 といっても、三つの要素がうまく絡みあっているため、ストーリーに勢いがあり、個人的には楽しく読み進められたのだが、後半になるにつれ、「はてな?」の度合いが高まったのは否めない。「3」の要素のお膳立てに、そもそも穴というか無理があるため、その皺寄せが後半で目立ってしまったのだと思う。サスペンス小説やミステリ小説を愛好し、読み慣れている読者は、私よりももっと引っかかる部分が多いのではいかと推測する。
 サスペンスミステリ要素のどこをどう修正すれば、より端正になるのか、詳細に分析できるだけの知見が私にはなく、申し訳ない。そこはほかの選考委員のかたにお任せする。
 個人的に気になったのは、描写がうまくいっていない(情報提示の段取りにやや問題がある)シーンが散見されることだ。
 たとえば冒頭、グランがマイラ夫婦の客室のドアをノックするが、「ドアを開ける」という行為がどこにも書かれていない。そのため、ドア越しに会話しているのか、グランは客室内に顔を覗かせて(あるいは客室に入ってきて)いるのか、判然としないまま読み進めることになる。
「真剣な顔して、僕らのことを担ごうとしているのかな」とマイラの夫・フレイが言うので、「表情が見えたということは、やっぱりグランはドアを開けたんだろうな」と思うものの、確信を抱けるのは、「先に部屋を出たグランの向こうから」という地の文があった段階だ。現状だと、「状況が正確にわからないな」と読者がモヤモヤを抱える時間が長すぎる。
 登場人物がどんな動作、行為をしているのかを頭のなかで思い浮かべ、どこを文章ですくいとれば的確に伝わるかを、もう少しだけ精密にジャッジするよう心がけてみてはいかがだろう。このシーンで言えば、「何かを言いかけたフレイを遮るように、客室のドアがノックとほぼ同時に開けられた。室内に入ってきたのは、フレイの友人であるグランだった」といった感じにすれば、問題はすぐに解消できる。
 また、「先に部屋を出たグランの向こうから、コツコツと廊下を打つ足音が聞こえてくる」も、描写がうまくいっていない。足音の主は、グランの妻・イエリーなわけだが、イエリーの足音がこちらに向かっているのか、ラウンジに向けて遠ざかっているのか、この一文からは判然としないのだ。前後の文脈から、たぶんラウンジに向けて遠ざかっているのだろうと推測するも、確信は抱けず、読者はまたもモヤモヤを抱えることになる。
 くどくどと説明しすぎてはいけないが、ビシッと的確に描写するところはする。作者の脳内に浮かんでいる「絵」を、文章によって読者の脳内に映す/移すために行うのが、描写だ。そういう観点から、「なにをどういう順番で、どんなふうに書けば正確に伝わるのか」を考えるといいと思う。
 とはいえ、船内の構造やアクションシーンは、描写を通してスムーズに伝わってきたし、マイラとテグの関係性に、ときめかずにはいられなかった。新婚当初のフレイとの、一瞬のあたたかい記憶をマイラが思い起こすところなども、ものすごくうまくて胸に迫る。マイラが「悲劇のヒロイン」的でなく、客観性と公正さを失わない人物として描かれているのが、本当にいい。
 たしかに穴もあるが、社会に対する登場人物の批判的眼差しと自由を希求する静かで熱い志が、作中に充満している。てんこ盛りの要素をギリギリのラインで統御して、読者を楽しませようとする作者の思いと力量も感じられる。忘れがたく、好きな一作だ。

『いつか忘れるきみたちへ』は、文章がうまく、ときに詩的ですらあり、登場人物たちの心情の変遷がエピソードの積み重ねと絶妙に絡みあって描かれるため、説得力があった。
 片づけ会社で働く(うい)の一人称で語られるのだが、文章にいい塩梅(あんばい)の距離感と客観性があるというか、批判と思わせずに、実はさりげなく登場人物や事象を批判している視線が感じられる(その批判は、内省という形で、語り手である憂自身にもちゃんと向けられる)。それゆえ、すべての登場人物を多層的/多面的な存在として描くことに成功していると思う。人物の内面を丁寧に描写し、深く潜っていくだけで、大事件が起きなくても読者は心をつかまれ、小説は成立するものなのだと、改めて実感した。
 私は当初、憂はどうしてなにもかもを選べず、他人の判断にすべて委ねてしまうんだろうと疑問だったのだが、読み進めるうちに、「なるほど、自分の発言や判断を否定されたくないし、責任を取りたくないから、なにも選べないし決められないんだな」と得心がいった。私自身は、どちらかといえばズバズバ発言、さっさと判断、しかし責任に関しては尻をまくるという最低人間なので、「なんと奥ゆかしく繊細な」と驚くも、たしかに憂のように思っているひとは多そうだ。フィクションである小説を通して、私とは異なるひとと出会い、その思いに触れられた気がして、今後は現実で、「ええい、考えをはっきり述べんか」と内心ちょっとイライラしてしまうのを控えよう、と反省した。すぐ嚙みつく獣のような人間(私だ)すらも、思いやりの精神を少し獲得できるほどの説得力。とにかくうまい。
 本作では、憂の生育歴、バックグラウンドについてはまったく言及されておらず、憂はどうして「選べないひと」になったのか、もうちょっと知りたい気持ちも生じた。しかしそれは、私が次第に、憂を自分にとって身近なひとのように感じ、彼女に思い入れを抱いたからこそだし、育った環境などとは関係なく、憂の生来の性格なだけかもなとも思う。また、憂のようにまだ若いひとは、繊細で、自分の意見をはっきり言って波風を立てることを避ける傾向にある気もする(さしもの獣(私だ)も二十代のころは、いまよりもいろいろと尻込みする局面があったような遠い記憶がよみがえる)。なので、バックグラウンドがまったく描かれていないことについては、現状のままでもいいだろうと(勝手に)結論づけた。
 気になるのは、せっかく文章がいいのに、誤字脱字が多いことで、つまり作品を書きあげたあと、冷静に読み返す作業がたりていない証だ。推敲は、登場人物の心情面、行動面での矛盾を修正し、作品をより精緻にしていくために行う。その過程で自然と、誤字脱字も発見されるはずなので、原稿に誤字脱字が多いと、「ちゃんと読み返してないんだろうな。道理で、整合性の取れていないところなどがあるわけだ」とわかってしまう。
 たとえば終盤、ダイキがすずりをおぶって帰ってくれるが、憂のアパートは駅から徒歩二十五分の距離にある。酔っ払って脱力した男性をおぶって帰るのは、ダイキが屈強だとしても、なかなか大変なのではないかと思う。途中ですずりを道に転がして一休みとか、しなくて大丈夫だろうか? 
 また、アパートにたどりついたダイキは、「玄関のとびらを閉め」、憂は「ダイキを見送った」のに、直後にダイキが「あー、クビキリギリスが元気だなー」と言う。ダイキ、まだいたの⁉ と思ったのだが、これはつまり、すずりのことは室内に放りこみ、憂とダイキはアパートの外廊下にいるということなのだろう。だとすると、「玄関のとびらを閉める」あたりの描写がたりておらず、人物たちの位置関係が判然としないのが、読者に混乱をもたらす原因だ。
 こういうところを的確にジャッジし、より精緻にしていくのが推敲だ(ちなみに、すずりが部屋から持って出たはずのショルダーバッグが、居酒屋のシーン以降消え、帰宅後に突如出現するのも気になる。ダイキがショルダーバッグもついでに運んでくれた、などのさりげない描写が必要だと思う)。
 しかしまあ、推敲する癖をつけ、描写を練りあげていくことは、本作の作者であれば、自覚的になればすぐに達成できるだろう。そこは今後、気をつけていけばいいだけのことで、描写の(あら)や矛盾を補ってあまりある、感度の高い文章と登場人物たちへの洞察が、本作の魅力だと思った。
 たとえば、自分をサナダムシのようだなと思う憂が、そのとき食べているのがパスタだという、さりげない呼応。心の微細な動きを積み重ねて、ついに到達するラスト一文の素晴らしさ。タイトルに反して、本作もまた、私のなかに忘れがたい余韻を残した。いつか細部は忘れてしまったとしても、この小説を読めて、登場人物たちと出会えて、よかったなという思いは、ずっと響きつづけるだろう。これが小説の醍醐味なんだよなと思わせてくれる一作だった。

『みなと荘101号室の食卓』は、それぞれに痛みを抱えた主人公の(あかね)と男子高校生の()(ひろ)が、「食事」を通して距離を縮め、自分の過去や思いと向きあう勇気を得ていく話で、心癒やされるひとが多い作品だと思う。私は、「再婚した直後から小学生の娘の元気がなくなっているのに、『変だな』と気づかない母親、ぼんやりしすぎだろう。犬の件も含め、どう考えても悪いのは義父と、ぼんやりな母親であって、茜にはなんにも落ち度がないんだから、そんなに自分を責めないで!」と、作中世界に乱入して茜に言いたくてならなかった(思い入れ)。しかし、それでも自分を責めてしまうのが茜の優しさと繊細さであり、獣のごとく獰猛な感性しか有さない私とのちがいなんだなということが、とてもよく伝わってくる。
 味覚を失った茜が、「食」をどう感じるのか、描写がうまいと思ったし、「花をそっと置くような、凪いだ言い方だった」といった的確な比喩も随所にあって、ハッとさせられた。ひとはいかにして、内面の傷から(完全にとはいかなくとも)(かい)(ふく)することができるのかが、登場人物同士のかかわりを通して丹念に描かれ、淡々としているようで根底にあたたかさの感じられる、いい話だなあと思った。
 やや気になったのは、ストーリーの推進力が弱い印象を受けた点だ。茜も千裕もトラウマ(という言葉で安直にくくるのは(はばか)られるが)を抱えているわけだが、その内実が明らかになるまで時間がかかるため、なかなか話がさきに進まない感じがする。もちろん、痛みの根幹に登場人物本人がさくさく触れたり踏みこんだりできないのは当然だ。しかし若干、「もったいぶってるなあ」という思いが生じた。
 その原因は、茜や千裕のトラウマの内実が明らかになるのが遅いからというよりも、むしろそこに至るまでの、周囲のひととかかわりあっていくエピソードの配置とタイミングにあるのではないか。
「アパートの住人であるハルカさんと、茜はそんなに親しかったっけ?」とか、「バイト先のひと、そんなにいいひとだったっけ?」とか、ちょっと後出しっぽいというか、場面場面で人間関係の距離感が都合よく伸び縮みしている気がする。たぶん、「茜は淡々としているようで、実際は悪い子ではないんですよ。過去の出来事によって、ひとと距離を置くようになってしまっただけなんです」と、さりげなく示すためだと思われるが、ストーリーの進展と、人物たちの性根・関係性がうまく噛みあっていないとも受け取られる可能性がある。
 たとえば、ハルカさんの初登場シーンで、「会えば挨拶する程度」ではなく、「土曜のゴミ収集の早さを嘆」きあうぐらいの仲ではあるし、ハルカさんと大家の(あや)()も親しいつきあいだということを、きちんと提示しておく。バイト先の()(づみ)さんが文鳥をかわいがっていることも、冒頭のスマホの待ち受け画像で示すだけでなく、もっと具体的なエピソードを通して、早めに印象づけておく、というのはどうだろう。
 そうすれば、後出し感や、ややご都合主義っぽくも思える人間関係の距離の伸び縮みが薄らぎ、主人公のひととなりもより見えてくるし、「最初はこういう感じの距離感だったひととのあいだに、変化が生じた」というドラマ性が明確になるのではないか。現状だと、場面によって、「ゼロ」だったものが急に「八」になったり「三」に戻ったりしているような感じがして、もったいないと思う。現実の人間関係においては、そういうことも充分にありえるが、繊細かつ微細な心情描写を重ねて、ついに主人公の内面の核心が明らかになる、というタイプの小説の場合、エピソードの積み重ねと連動させて、関係性や心情の距離感とうねりを段階的に高めていくという「設計」を、緻密に築いておいたほうが効果的なことが多い。そのほうがストーリーに緊張感が生じ(つまり推進力が生じ)、主人公の内面の核心が明らかになる瞬間のカタルシスが大きくなるからだ。人工的すぎると思われるかもしれないが、そこを人工的じゃなく見せるべく、すべての作者が日夜磨こうと努力しているのが、小説技巧というものなのである。
「小説における心情の変遷の段階性」をもう少し意識すると、茜の母親への思いや、作中のそれぞれの時点での母親とのエピソードも、より具体性とふくらみを持って描けるのではないかと思う。そうすれば、「茜の長年の物思いは、母親とちょっと腹を割って話しあったぐらいで、ある程度のふんぎりがつくものなのか? そもそも、こんなぼんやりな母親と話が通じるものなのか?」という、若干の唐突感と疑問がやわらぐ気がする。
 逆に、茜と千裕が子どものころにも出会っていたエピソードは、なかったとしても話は成立する気がするし、「小説という作り物感」が強すぎるのではないかと思ったが、作中の偶然をどこまで許容するかは読者(および作者)の感覚に委ねられる部分が大きいので、現状のままでももちろんかまわない。
 いろいろ申しあげてしまったが、全体的に登場人物(と、たぶん作者ご自身)の優しさと繊細さが活かされた作品だと思った。茜と千裕がなれあいすぎないところ、()()くんのありようなど、従来の創作物だったら安易に恋愛関係にしてしまいそうな局面を的確に抑制し、ひとに本当の救いをもたらすものはなんなのかを丁寧に描こうとなさっていることに、ぐっときた。

『春になれば、桜は。』もまた、苦しみを抱えた(さく)()()()という中学生の男女が、互いにそっと手を差しのべあい、支えあう展開で、作者が誠実な姿勢で作品および登場人物に向きあっていることがわかった。
 前半は咲良視点、後半は波留視点と、構成を工夫することで、それぞれの事情が明らかになるまでの過程に、より高い劇的効果をもたらそうとしている意欲もいい。前半と後半で、波留が別人のように思えるというご意見もあったが、私はそこが本作のキモだと感じたので、まったく気にならなかった。成績優秀で、飄々(ひょうひょう)としているように見えた波留が、実はと、思いがけない事情が判明していくところにスリルがあるし、咲良が波留のために奮闘しようとするのも、前半の展開が効いているため、「そうだよな」と納得がいく。
 波留のように、苦境をだれにも訴えられず、助けを求める方法があることを知らないまま、なんとか平静を装って学校生活を送っている子は、現実でもかなりいるはずだ。実社会においても、福祉やサポートをもっともっと充実させていかなければならないし、本作のような題材を扱った小説の末尾に、相談窓口の情報を記載するなど、出版界にもできることはあるのではないか、と選考会でみんなで真剣に語りあった。
 作者がちゃんと登場人物に向きあって書いておられるからこそ、こちらも思い入れを抱き、現実の問題について真剣に考えることができたわけだが、小説としては、ややあらすじ感があるのが惜しいところだ。咲良の苦しみと波留の苦しみ、それぞれのエピソードがあっさりしているというか、少々具体性に欠け、踏みこみきれていないきらいがある。そのため、読者が登場人物の心情にのめりこみきれず、遠巻きに見守るしかない感じがするのだと思う。
『みなと荘101号室の食卓』と同様、本作でも問題改善の契機となるのが、「母親とちょっと対話すること」なのも、「それで済むの⁉」と納得しきれない。みんなのお母さん、そんなに話が通じる存在なのか? 私の母と交換してほしい。いや、この世には話が通じる母親も存在するのだと薄々承知してはいるが、しかし、そもそも作中の波留の母が、娘の苦境を放置し、娘にすべてをおっかぶせているから、この状況になっているわけで、そんな無責任な大人とちょっと対話したぐらいで、「あらまあ、大変だったわね。気づかなくてごめんなさい」といったように、物わかりよく問題解決に動いてくれるとは到底思えないのだ。つまり、起きている事象と苦しみの大きさに比して、解決法(=対話)の簡単さがちぐはぐなのではないか、という印象をどうしてもぬぐえない。
 本作においては、福祉や介護についての調べがたりていないのが、「それで済むの⁉」感を高めた一因だと思う。現実的にどんな解決法があるのかをもう少し調べておくと、「対話」に加えて、またべつの説得力ある対応策を提示できたのではないか。
 下調べ不足は、波留が色をうまく見分けられないのを、咲良だけは見抜いていた、と展開の隠し技的に使っていることにも表れている気がした。まず、ナスの実は小さいときから紫色である。食べごろかどうかは、色ではなくサイズで判断するものだと思う。そして、微細な色のちがいをどのぐらい識別できるかは、個人によっても差があるし、いわゆる「多数派」とは異なる色を認識するひとも、当然ながら相当の割合で存在する。昔は「色盲」「色覚障害」などと言われたが、現在は「色覚特性」「色覚の多様性」とされるようになっており、創作物のなかで、登場人物のなんらかの「傷」や「欠落」の象徴として扱うのは、実状にそぐわないのではないか。
 とはいえ、大半のシーンにおいて、登場人物たちに寄り添いつつ、きちんとストーリーを構築しようという作者の姿勢が伝わってきた。これは、書くうえでものすごく大切な資質だ。より調べることを心がけ、もう少し小説を書き慣れたら、絶対にもっと作品がよくなる。のびしろは充分におありだと思うので、あせらず、誠実さを失わず、書きつづけていっていただきたいと願っている。

『筆と踊る』は、作者が楽しくお書きになっているのが文章から感じられ、こちらも自然と楽しい気持ちになって読むことができた。
 しかし、わりと明確な弱点が三つある。
 一、書道パフォーマンスがどんなものなのか、脳裏に浮かんできにくい。
 私は不勉強ながら、実際の書道パフォーマンスを見たことがなく、あえてYouTubeなどでも確認せずに、本作を拝読した。そういう身からすると、当初は、どれぐらいのサイズの紙に書くのか、メンバーが一枚の紙に協力して書くのか、それともべつべつの紙にいっせいに書くのかすら、よくわからなかった。せっかくいい題材なのに、これは非常に惜しい。
 競技物のセオリーとしては(特に、少々マイナーだったり特殊だったりする競技の場合)、まず最初にズバンと、どんな試合なのか、ルールはどういうものなのかを、文章を通して読者に伝える必要がある。主人公たちが到達、実現すべき理想の境地を、あらかじめ明確にしておくということだ。
 そのうえで、練習シーンをきちんと書く。「これだけがんばったんだから、上達するよな」という説得力を持たせるためだ。上達のための理論や理屈も、さりげなくまじえたほうがいいだろう。現状だと、徐々に上達していく具体的練習シーンが少なく、理屈も「重心の置きどころ」しかないため、主人公チームがなにを目指し、どうがんばったのかがあまり伝わってこない。「なんかよくわからんうちに、上達したんだなあ」と思えてしまって、読者が主人公チームを応援しようにも身が入りきらないので、段階的かつ理論的な練習シーンを織り交ぜるのは必須だと思う。
 二、視点人物の処理が洗練されていない。
 星印でだれの視点に切り替わったのかを表示しているうえに、表示基準の法則性が徹底されておらず、そのうち時間経過や場所についても、「二年後」や「車の中」と脚本のシーン設定のような表記になる。
 視点の切り替わりや、時間経過、どこにいるのかなどを、すべて文章(語り口、描写など)でさりげなく知らしめ、紡ぎあげていくのが小説だ。小説の技術と技法を先行作からもっと学び、分析して、自作に活かしていただきたい。
 三、女性の登場人物が、ほとんど全員同じ性格のように思える。
 キャラ立ちさせるのはいいことだし、私の場合、「こういうひとがいたらいいな」と思うあまり、似たようなタイプ(異性同性問わず)を、いろんな小説に登場させてしまいがちなので、えらそうなことはまったく言えないのだが、それにしても一作のなかで、女性キャラが似すぎていると思う。
 これに関連して、登場人物のだれかがストーリーの前面に出ると、ほかのだれかが引っこんでしまい、全員をうまく動かせていない傾向がある。性格が似ているがゆえに、作品内での役割分担がうまく機能しきっていないのだと考える。元気で魅力はあるのだが、女性の登場人物が画一的な「女性キャラ」になっているので、それぞれのひとに固有の性格や言動があるのだ、と心がけて書いてみてほしい。作品がより躍動する余地が絶対にある。
 以上のように、いろいろ気になるところも多かったけれど、登場人物たちが通常の書道をする描写はとてもうまく、映像が浮かんでくる。主人公の(くり)()のおおらかな性格と猪突猛進ぶりも、好感を抱いた。うまく書けている部分と、そうじゃない部分の落差が激しいなと思うも、全般的に文章に勢いがあり、たぶん作者は、小説を読むのも書くのもお好きなんだろうと推測する。その愛と勢いを殺さず、しかし落ち着いて、先行の小説をはじめとする創作物を研究、分析する姿勢をいっそう獲得できれば、長足の進歩が見られるはずだ。