2023年 ノベル大賞受賞作文庫化!
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天狐のテンコと葵くん
たぬきケーキを探しておるのじゃ
西東子(装画:サコ)
あらすじ
『キッチンハルニレ』で働く葵は、ある日、怪我をした狐を拾う。翌朝目を覚ますと狐は少女の姿をしていて⁉ 混乱する葵に「わしは御山を守る山主じゃ」と偉そうに話す少女。神通力を失ってしまい、回復するには「たぬきケーキ」が必要だという。葵は一緒に探してあげるはめに。しかし、彼女が本当に探しているものを知り、料理人としてある大事なことに気づく――。
キャラクター紹介
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- やまな あおい
- 『キッチンハルニレ』で
働く、25歳。
お人好しでまじめ。
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- 飛田の御山を守る山主。
狐から少女に変化できる。
- 飛田の御山を守る山主。
ためし読みマンガ
本編試し読み
夜の仕込み前、葵が店の裏に出ると、遠くに見える山の稜線は美しい赤に染まっていた。
冷たい風に吹かれながら、葵はしばらくその風景に見とれる。
夕日を背負った飛田山は荘厳だ。
溜まった段ボールをたたみながら、綺麗だな、と葵は感嘆のため息をつく。
「葵くん、俺そろそろ休憩入るわ。寒いから閉めてー」
「はーい」
店長の坂下の声に、葵は店内へ戻った。「キッチンハルニレ」と店名が書かれた裏口のドアを閉め、キッチンに立つ。
洗い物を片づけていると、フロアで休憩中の坂下が声をかけてきた。
「いやー、今日は混んだね。夜の仕込み終わったら上がっていいよ」
「あ、ありがとうございます。すみません、俺、ランチの米ミスっちゃって……」
「うん、次やったらまかないなしだから」
「えっ」
「ははは、冗談。炊飯器、なんか調子悪いしな。美奈ちゃんにも言っておくわ」
葵はうなだれる。今日はランチの客の入りが遅かったのだが、油断していたところに団体客が次々と来店した。あわてて米を炊いたら、今度はぱったり客足が途絶え、炊きあがった米一キロは誰の口にも入らなかったのだった。
反省しつつも手は止めず、葵は夜の営業に向けて仕込みをする。ネギを切っている間に、坂下は座ったまま眠り始めた。
昨日も遅くまでメニュー考案をしていたというし、疲れているのだろう。葵より十歳年上の坂下は三十五歳。この店─キッチンハルニレの経営者である。アルバイトの葵に比べ、やることが多くて大変そうだ。
三十分ほどで仕込みを終え、葵は「お先です」とメモを残して裏口から外へ出た。
秋の空は、すでに藍色に変わっている。
今日も一日が終わった。ほっと息を吐き、通勤用の自転車を漕ごうとした時だった。
「あれ?」
どうもうまく前進しない。まさか……とタイヤを見ると、見事にパンクしていた。
「げ、最悪……」
肩を落とし、仕方なく自転車をひいて歩く。大通りに出て、自転車屋へ向かった。さっそうと走る車たちがうらめしい。昼間のミスといい、今日は、とことんついてない日だ。
ここ、山王町に引っ越してきて、キッチンハルニレで働き始めてそろそろ半年。生活にも仕事にも慣れてきて、油断が出たのかもしれない。
明日から気をつけよう。そう思いながら、田んぼを見下ろす小さな橋を渡り始めた時だ。
街灯に照らされた稲の海の中に、風が止んでも波が消えない一角があった。ガサガサと、稲をかき分ける音も聞こえてくる。
野生の動物だろうか。葵が目を凝らすと同時に、稲の海から何かが飛び上がった。
「うわっ!」
飛び上がったそれが、街灯に照らし出される。
四本の足と輝く毛並み、尖った耳とふわふわした尾が葵の目に焼きつく。
あっけにとられる葵の前で、その獣は稲の海に落ちた。
書籍情報
- 『天狐のテンコと葵くん
たぬきケーキを探しておるのじゃ』 - 著者
- 西東子
- 装画
- サコ
- 2023年4月18日(木)発売
ページ数:256頁
価格:704円(税込み)
ISBN:978-4-08-680554-4