思い出は優しい味
全国的に晴れ渡った、秋のある日。
東京近郊の山間の町・山王町は、紅葉シーズンを迎え観光客でにぎわっていた。町の人気洋食店・キッチンハルニレもいつになく盛況だ。
「お待たせいたしました。ローストポーク丼セットと、バラ肉丼セットです」
ホールスタッフの葵は、ランチセットを女性二人組のテーブルに置く。花びらのように盛られたローストポークと豚バラ肉が、照明の下でおいしそうに輝いた。
歓声を上げて写真を撮る女性たちに「ごゆっくりどうぞ」と言い残し、葵はキッチンへ戻った。洗い物を始めた店長の坂下に声をかける。
「オーダー、今ので最後ですよね? 俺、そろそろ仕込み入ります」
「いや、今日は俺やるよ。葵くんは洗い物よろしく。いやー、今日も盛況でありがたいね」
坂下は言って、店内を満足げに見回した。
窓から差す陽光が、ナチュラルウッド調の内装をやわらかく照らしている。ヒノキ材が使われた、四つのテーブル席と五つのカウンター席はすべて満席だ。そこかしこから、写真を撮る音や「おいしいね」という声が聞こえてきた。
その声に、葵の頬は自然とゆるむ。まだ働き始めて半年のアルバイトにすぎないが、自分が働く店がにぎわっているのは嬉しいものだ。
「すいませーん、お会計を」
洗い物を終えた時、レジ前から声がかかった。葵は「はーい」とフロアに出る。
レジ前に立っていたのは、常連客の老夫婦だった。ランチセットの支払いを終えると同時に、
「あのね、昨日私たち箱根に行ってきたんだけど。これ、葵くんにお土産」
と、奥さんが小さな紙袋を差し出した。
「俺にですか?」
紙袋を受け取り、葵は首をかしげる。
「最近、親戚の子の面倒見てるって聞いたから。よかったら、その子と食べて」
「わ、わざわざすみません……」
いたわりに満ちた眼差しを向けられ、葵はあいまいに微笑んだ。
確かに葵は現在、ある子どもの面倒を見ているが、彼女は決して親戚ではない。――厳密に言えば、人間の子どもでもないのだ。
そのあたりの事情を説明して納得してもらうのは困難だろうから、周囲には「親戚の子」で通しているのだが。こうして気にかけてもらうと、騙しているようで少し心苦しい。
「ありがとうございます、いただきます」
何はともあれ、二人の気遣いがありがたいことに変わりはない。葵は紙袋を胸に抱いて頭を下げた。
あいつは、無類の甘いもの好きだから。あの、ビー玉みたいなキラキラの目をもっと輝かせて喜ぶだろうと、葵は思った。
午後三時、ランチタイムを終えたキッチンハルニレは休憩時間に入った。
葵は片付けと掃除をしてから、いつもどおり店の二階へ上がる。二階の休憩室で待たせている「親戚の子」を呼ぶためだ。
「テンコ、昼だぞ」
休憩室の襖を引く。部屋の中央には、赤いワンピースを着た幼い少女が、葵に背を向けて座っていた。
「テンコ」
もう一度呼ぶと、少女――テンコは振り向いた。金色の瞳が、葵をとらえる。
「うむ、今日も腹が減ったのう」
テンコはまばたきをして、小さく頭を振った。毛先だけが銀色をした、不思議な金の髪が揺れる。
「今日は何が食えるのか、楽しみじゃ」
テンコの期待を表すように、頭に生えた狐の耳がぴこぴこと動いた。――作り物ではなく、本物の狐の耳だ。
「ほら、行くぞ」
テンコにニット帽をかぶらせ、一階へ下りる。狐の耳は、葵とテンコだけの秘密だ。坂下に見られるわけにはいかない。
テンコと出会ったのは、約一カ月前のことだ。
仕事帰りの葵は、傷付いている狐を偶然助けた。その狐は一晩経つと幼い少女に姿を変え、あっけに取られる葵の前で言ったのだ。
――わしは山主じゃぞ!
テンコと名乗った少女は、この町にある飛田山を見守る「山主」だという。山のために力を使い果たしてしまったテンコは、自身の回復に必要なあるものを求めて山から下りてきた……ということらしかった。
葵はなりゆきで、その「あるもの」を探すのを手伝っている。
それだけでなく、テンコが居候するのを許し、新しい服を買って、三食用意する……と、衣食住の面倒まで見てやっていた。ちゃっかり家に居着いたテンコを放置することもできず、なんだかんだ世話をしているうちにそうなってしまったのだ。
「我ながら押しに弱いっていうか、流されやすいっていうか……」
「なんじゃ、何か言うたか葵」
「……なんでもない」
葵は首を振る。そして、この流されやすさをどうにかしたい、とため息をついた。人からは「優しい」と言われることが多い葵だが、自分としては、こんな調子ではいつか詐欺被害に遭いそうだ、とも思う。
フロアのテーブルに着くと、すぐに坂下がまかないの皿を持ってきた。
「はい、お待たせ。今日はチャーハンだよ」
芳香を立ち上らせるチャーハンを前に、テンコがぱあっと顔を輝かせる。レンゲを手に取り、ぱくぱくと嬉しそうに食べ始めた。
「いつもすみません、テンコのぶんまで」
恐縮する葵に、坂下はひらひらと手を振る。
「いいよ、二人分も三人分も変わらないし。あ、もらったお菓子持ってくるから、あとで食べな」
「なんと、今日は菓子があるのか?」
テンコが嬉しそうに言う。坂下は「今持ってくるね」と微笑み、キッチンへ向かった。
葵はますます頭が下がる思いがした。仕事中、テンコを家に一人にするのも心配で店に連れてきているのだが、坂下はそれを快く受け入れてくれている。
「はい、お待たせ」
戻ってきた坂下は、まんじゅうがのった小皿を二つテーブルに置いた。
パンダの顔の形をしたそのまんじゅうを、テンコはしげしげと眺める。
「……たぬきケーキに似ているのう」
「そう、益子さんたち、旅行先でたぬきケーキ探してくれたんだって。テンコちゃんが探してるからって。でも見つからなくて、似たようなやつ買ってきてくれたんだってよ。まあ、これはケーキじゃないけど」
葵たちの向かい側に座り、坂下が言う。
「なんで益子さんたちが知ってるんですか?」
驚く葵に、坂下はチャーハンをかきこみながら「俺がしゃべったから」と笑った。
邪気のない笑顔に、葵はちょっと脱力する。坂下はいい人だが、どうも口が軽い。別に、重大な秘密をバラされたわけではないからいいのだが。
葵たちの会話をよそに、テンコはまかないを食べ続けている。見ていて気持ちがよくなるような食べっぷりだが、テンコが本当に必要としているものは別にあった。
山主としての力を取り戻すために必要なあるもの――それが、「たぬきケーキ」というケーキだ。
かつて日本の洋菓子店で見られたそのケーキは、今は「絶滅危惧種」などと言われるほど珍しいものとなってしまったが。テンコは、山主に選ばれたばかりの頃、偶然それを食べたのだという。
そのたぬきケーキはテンコの力をみなぎらせ、体を癒やした。だから、同じケーキを食べればきっと、弱ってしまった山主の力を取り戻せる、というのがテンコの主張だった。
――どうやら、本当の理由は他にあるようだが。とにかく、葵はその話を聞いて以来、休日はテンコと一緒にたぬきケーキを探し回っている。
今もたぬきケーキを作っている店は珍しいため、テンコがかつて食べたものも、すぐ見つかるだろうと思っていたのだが。未だに、目的のケーキにはたどり着けていない。
だから、常連の益子夫婦の気遣いはとても嬉しかったのだが。
「なんか最近、常連さんたちが妙に優しいっていうか……『あの子と一緒に食べて』って、よくケーキとかお菓子とかくれるんですよね」
「小さい子の世話なんて大変だろうって、みんな葵くんのこと気にしてるからね」
「別に、そんな大変なことはないんですけど」
なんか俺、すごい苦労人みたいになってるな、と葵はいたたまれない気持ちになる。
「葵、これはとてもうまいぞ。食うてみい」
いつのまにかパンダまんじゅうを食べ始めていたテンコが、嬉しそうに言った。空になったチャーハンの皿の隅には、にんじんが寄せられている。
「お前、また野菜残して……ちゃんと野菜も食べろって言ってるだろ!」
葵が詰め寄っても、テンコは涼しい顔だ。
「ふん。こんなもの、わしには必要ない」
「だからって残すなよ。せっかく作ってもらったのに……」
葵たちのやりとりを見ていた坂下が、しみじみと言った。
「うん、大変そうだね」
……確かに食事に関しては、テンコとの生活には苦労が多い、と葵は思い直した。
夕飯は葵が作っているのだが、野菜は食べないし、かといって肉料理ばかりにしても「飽きた」と言われる。一人で甘いものを食べていると「わしにもくれ」と強奪されることも多かった。基本的に、テンコは遠慮がなく態度がでかいのだ。
だが、こんな生活もたぬきケーキを見つけるまでの辛抱だ。目的のたぬきケーキを見つけさえすれば、テンコは力を取り戻し、飛田山に帰る。
「うまいが、やはりたぬきケーキでなければのう」
葵の考えを読んだかのように、テンコは言った。まんじゅうの最後の一口を食べてから、なぜか葵の皿のほうへ手を伸ばす。
「……それ、俺のだけど」
「今日は腹が減っているのじゃ」
言うやいなや、テンコは葵のまんじゅうをつかんで素早く口に運ぶ。
葵は思わず腰を浮かせて叫んだ。
「いくらなんでも食いすぎ!」
「あれじゃ、お前たちが言うところの食べ盛りというやつじゃ」
「そんな都合のいい食べ盛りがあるか! 野菜食べないくせに!」
ぎゃーぎゃー言い争う葵たちの前で、坂下が笑った。
「楽しそうだねえ。葵くん、俺も同じやつもらったからさ、食べていいよ」
「えっ、いやそんな……大丈夫ですから……」
坂下の提案に、葵はしどろもどろになる。大人なのにまんじゅう一つでわめいたことが、途端に恥ずかしくなってきた。
テンコはというと、素知らぬ顔で葵のまんじゅうを食べている。
山主だかなんだか知らないが、少しは遠慮というものを知ってほしい。こんな奴と一緒に暮らしている俺は、優しいというより、ただの損な性分なのかもしれない。
すっかり冷めたチャーハンを口に運びながら、葵はひそかにため息をついた。
次の休日。葵は例によって、テンコとたぬきケーキを探しに出かけたのだが……。
「なんと」
店を前にしたテンコは、呆然とつぶやいた。その顔には、驚きと落胆の表情が浮かんでいる。葵も同じ気持ちだった。
電車に乗り、家から一時間ほどで着いたその店には、シャッターが下りていた。そのうえ、「店舗募集中」の紙まで貼ってあったのだ。
「閉店か……」
「葵。例のブログとやらには、何も書いてなかったのか?」
テンコは、葵の上着の裾を引いて問う。葵たちは、たぬきケーキの情報がまとめられたとあるブログを参考に、県内のたぬきケーキの店を回っていた。
ブックマーク済みのそのブログを、葵はスマホで開く。目の前にあるはずの「お菓子のモリノ」の記事を確認したが、閉店したという情報は書かれていなかった。
「この記事、最終更新が三年くらい前だから、その間に閉店しちゃったんだろうな」
「なんと……そういうこともあるのか……」
テンコはがっくりと肩を落とした。ニット帽の下ではきっと、狐の耳もしおしおと垂れているだろう。
絵に描いたような落胆ぶりに、葵も悲しくなってきたのだが。テンコはすぐに顔を上げ、てきぱきと言った。
「どうにかして、この店の店主に会うほかないのう。頼みこめば、一つくらいは作ってくれるかもしれぬ」
「……本気か?」
突拍子もない提案に、葵は驚く。テンコは葵を見上げ、「当然じゃ」と眉を寄せた。
「何も得ずに帰るわけにはいかぬ。わしが探しているたぬきケーキが、この店のものかもしれないのじゃ」
切実さをたたえた金色の目を見るうちに、葵は思い出した。テンコがたぬきケーキを探す理由が、自分の力を取り戻すためだけではないのだと。葵も、それを打ち明けられたのはつい最近のことだ。
テンコには、かつて自分が味わったたぬきケーキを食べさせたい人がいる。しかも、その人に残された時間はあと少ししかないのだ。切実になるのも頷ける。
「そうだな。諦めちゃだめか」
葵の言葉に、テンコは「うむ」と笑った。
「とは言っても、実際どうすれば……」
つぶやいて、葵は目の前のシャッターをにらんだ。
店の店主を探し出すことは可能かもしれない。しかし、引退したであろう店主に「たぬきケーキを作ってくれ」と頼むのは、事情があるとはいえ不躾がすぎるだろう。
いや、そもそも店主が健在とも限らない……と、葵が顔を青くした時だった。
「あの……もしかして、キッチンハルニレの山名さんじゃないですか?」
突然の声に、葵は我に返った。振り向くと、近くに立っていた女性と目が合う。
葵と同年代の、二十代半ばくらいだろうか。分厚い眼鏡が印象的だ。
「えっと……」
誰だっけ、と葵は焦った。キッチンハルニレの名前を出してきたということは、常連客だと思うのだが。
戸惑う葵に、女性は笑って眼鏡を外した。
「すみません、突然。彩央不動産の橘です」
「あ、橘さん!」
眼鏡のない顔を見て、ようやく思い出した。キッチンハルニレの近所にある不動産屋のスタッフで、葵がよく言葉を交わす常連客の一人だ。
「眼鏡だと全然わからなかった……って、すみません」
「まあ、そうですよね」
眼鏡をかけ直す橘を、葵はまじまじと見てしまう。こんな場所で常連客と出会うなんて、なんだか不思議な感じだ。
橘も同じように思ったのか、
「ていうか山名さん、なんでこんなところにいるんです?」
と尋ねてきた。
「すごい思い詰めた顔してたから、つい声かけちゃったけど」
「あの、ここのお店に用があったんですけど、閉店しちゃってて……」
葵は元・お菓子のモリノを指す。すると橘は、思いがけないことを言った。
「ああ、モリノね。ちょっと前に移転しましたよ。あ、私ここが地元で、今ちょうど帰省中なんですけど」
「移転?」
葵はぽかんと口を開けた。なりゆきを見守っていたテンコも、驚いた顔で橘を見る。
「……そういえばご実家がこのへんだって、前に言ってましたね……?」
こんな偶然があるのだろうかと驚きつつ、葵はやっとそれだけ言った。
橘は葵のとなりにやってきて空き店舗を眺め、「移転先、書いてないし」と苦笑する。
「ていうか、めっちゃ偶然。私もそこ行くとこなんです。一緒に行きます?」
「ぜひお願いします」
葵が勢いこんで頷くと、橘は「じゃ、行きましょ」と歩き始めた。葵たちも、彼女に続く。空き店舗のあった住宅街を通り抜け、線路を越えると、川沿いの道に出た。
澄んだ川面が、日差しを浴びてきらきらと輝いている。それを眺めるうちに、葵はだんだん喜びがこみ上げてくるのを感じた。
「橘さんに感謝だな」
「そうじゃな」
葵の声に、テンコも笑った。
川の匂いを含んだ秋風を感じつつ、歩くこと約五分。たどり着いた店は、確かに「お菓子のモリノ」と文字看板が掲げられていた。
ガラス戸越しに見える内装は、白と淡いグリーンが基調になっている。壁にはドライフラワーのスワッグがいくつも飾ってあった。
「おしゃれなお店ですね」
葵が言うと、橘は笑った。
「前はもっと古ーい店でしたよ。私も、移転してからは初めて来るなあ」
「移転前はよく来てたんですか?」
「そうなんですよ。うちはもう、誕生日ケーキも、お客さんに出すケーキも全部モリノのって感じだったんで」
言葉を交わしつつ、店内へ入る。ケーキが収められたショーケースに沿って、四人の客が並んでいた。
列の最後尾に付くと、テンコが「葵」と嬉しそうな声を上げる。
「見ろ、たぬきケーキじゃ」
ショーケースの下段に、つやつや輝くチョコレート色のケーキが二つだけ並んでいた。
円柱型の台座に、愛らしく、それでいてとぼけたようにも見える、たぬきの顔がのっている。まさしくたぬきケーキだ。
「しかし、あと二つしかないのう……」
テンコはつぶやき、並んだ四人の先客と、残り二つのたぬきケーキをそわそわと見比べた。葵も少しずつ不安になってくる。
先に並んでいた橘が振り向き、「どうかしました?」と尋ねた。
「あの、けっこう人並んでるし、売り切れちゃわないかなって」
「そんな、大丈夫でしょ。みんながみんな、同じケーキ目当てじゃないだろうし」
「そうか……うむ、そうであろうな」
橘の言葉に、テンコはやっと安堵の笑みを浮かべた。
……しかし、その直後のことだった。
「すみません、たぬきケーキを二つ」
「はーい、ありがとうございます」
聞こえてきたやり取りに、葵とテンコは息を呑んだ。二人同時に、列の前方を見る。
聞き間違いであってくれ。葵の願いもむなしく、ショーケースを開けた店員が、ビニール手袋をはめた手でたぬきケーキをつかんだ。
「な、なんということじゃ……」
絶望に満ちたテンコのつぶやきが、店内にむなしく漂う。しかし、どうしようもない。
最後のたぬきケーキが箱に収められ、そのまま他の客の手に渡るのを、葵たちはただ見守るしかなかった。
少しの間、二人の間に重い沈黙が落ちた。
まさか、目の前で買われてしまうとは……と、思わず天を仰いだ葵だったが。「葵!」とぐいぐい上着の裾を引かれ、視線を下に向けた。
「なんだよ」
「まだ、あの客がそこにおるぞ。なんとかして、たぬきケーキを譲ってもらえぬかのう」
「そんな無茶な……」
こそこそ会話をする間に、たぬきケーキを買った男性は店を去っていく。
「ああああ……」
悲痛な声を上げ、テンコは男性の後ろ姿を目で追った。恨みがましさが半分、悲しみが半分、そういう目だ。
葵の胸もつきんと痛んだ。目当てのものが目の前で売り切れた時の悲しみややるせなさは、葵にもわかる。
どう励ましたものか、と考えあぐねていた葵だが。テンコがキッと顔を上げ、
「こうなったら、わしが狐に戻ってあのたぬきケーキを奪うしかあるまい……!」
と、店を飛び出していこうとしたものだから、あわてて肩をつかんで引き留めた。
「待て待て、それは犯罪だから!」
確かにテンコの正体は狐で、今の姿は化けている状態にすぎないが。狐だからといって、他人に迷惑をかけるのは見すごせない。
「しかし、他に方法がないではないか」
「でもだめだって!」
「あの、ご注文は……」
その声に、葵ははっと顔を上げる。ショーケースの向こうに立った中年の女性店員が、困惑した様子で葵を見ていた。
いつのまにか、先客は一人もいなくなっていた。橘も注文を終えたのか、店の隅に移動している。
「たぬきケーキを買いに来たんですが、もう売り切れですよね……?」
葵の問いに、店員はてきぱきと答えた。
「大丈夫ですよ。少しお時間いただきますが」
「まだあるのか!?」
葵を押しのけ、テンコが尋ねる。店員はかすかに笑って「ええ」と頷いた。
「ごめんなさいね、今日ちょっと人手が足りてなくて、製造が間に合ってないんです。冷却が終わればお出しできますから、あと十分ほどお待ちいただけますか」
テンコがぱあっと顔を輝かせる。葵も、ほっと胸を撫で下ろした。
「一時はどうなるかと思ったが、わしは幸運じゃのう」
「うん、テンコが早まらなくてよかった」
そんな会話をしつつ、壁際に置かれた椅子のほうへ向かう。二つ並んだ椅子の一つには、橘が座っていた。
「あれ、橘さんも待ってるんですか?」
「はい。ホールケーキを予約してたんですけど、まだできあがってないらしくて」
橘はそう言うと、少しの間を置いて続けた。
「たぬきケーキを買いに、わざわざここまで来たんですね。そんなに有名でしたっけ? ここのたぬきケーキって」
「わしは、以前食べたたぬきケーキを探しておる」
椅子にひょいと腰かけ、テンコが口を開く。
「へー、そうなんだ」
「うむ。どうしても食べさせたい奴がおるのじゃ」
たぬきケーキが手に入るとわかって安堵したからか、テンコはいつになく軽快に話し続ける。このままでは山主うんぬんまで話しかねないぞ、と焦った葵は、椅子の横に立ったまま「そういえば」と橘に話を振った。
「橘さんは、食べたことありますか?」
「そうですね。昔は町で一番食べてたかも」
と、橘は目を細めた。
「うち、親が忙しくてばあちゃんが面倒見てくれてたんですけど、おやつがいつもたぬきケーキで。ほら、おじいちゃんおばあちゃんって、一回『おいしい』って言ったものずっと買ってくるところあるじゃないですか」
「ああ、わかります」
葵が頷くと、橘は「やっぱり」と笑う。
「悪気ないってわかってるから、文句言ったことはなかったですけど。……大学受験終わった頃、進路のことで親と喧嘩したタイミングで、たぬきケーキを出されたことがあって」
当時のことを思い出したのか、橘の顔に苦いものがよぎった。
「ばあちゃん的には、なぐさめるつもりだったんだろうけど。大人たちの中で私はいつまでも子どもなんだ、だからろくに話も聞いてもらえないんだって思ったら、カッとなっちゃって。こんなのいらない! って、ばあちゃんにつき返しちゃったんです」
眼鏡の奥の目が、悲しげに伏せられる。気持ちを切り替えるように頭を振ると、橘は「すみません、こんな話して」と苦笑した。
「そのあとすぐ一人暮らしが始まって、ばあちゃんに謝る機会もなくて。なんであんなこと言っちゃったんだろうって思うのに、帰省しても気まずくてばあちゃんのこと避けて。ばあちゃんの家、実家の目の前なのに全然顔出してないんです。……たぬきケーキも、ずっと食べてません」
葵はあいまいに頷くしかできなかった。予想外の方向に話が展開した驚きもあり、なんと返していいのかわからない。
しかしその時、テンコがふいに声を上げた。
「悔いているなら、謝ったほうがよいのではないか」
浮いた足をぶらつかせながら、テンコは橘を見上げる。大きな金色の目にまっすぐ見つめられ、橘はややたじろいだようだが、
「……でも、今さらだよ」
と、うなだれた。
「あの時のばあちゃん、すごく傷付いた顔してた。私が会いに行っても、嫌だと思う」
その言葉が終わらないうちに、テンコがずいっと身を乗り出した。驚いたように体を引いた橘に、テンコは言う。
「そんなことを言っている間に、会えなくなったらどうするのじゃ!」
強い口調に、橘がびくっと体を震わせた。
葵は驚いた。テンコは横暴なところはあるが、他人に食ってかかるような物言いをしたのはこれが初めてだ。
「テンコ、言いすぎだって。……すみません」
テンコの肩を引き、葵は橘に頭を下げる。いえ、と橘は小さく答えた。テンコの勢いによほど驚いたのか、どこか呆然とした顔だ。
――いや、違う。これは、痛いところを衝かれた人の顔だ。
葵がそう思った時だった。
「たぬきケーキのお客様、お待たせしました」
と、店員の明るい声が、レジのほうから聞こえた。
「……さっきは、なんであんなこと言ったんだ?」
持参した紙皿にたぬきケーキを移しながら、葵は尋ねた。秋の日差しを浴びたケーキが、つやつやと美しく輝く。
無事にたぬきケーキを手にした葵たちは橘と別れ、近くの森林公園に来ていた。ケーキの味をすぐに確かめるためだ。
快晴に誘われた人々で、園内はにぎわっている。木のテーブルが並んだ休憩スペースは親子連れや友達グループでいっぱいだったが、なんとか空いている席を確保できた。
「あの娘は、悔やむばかりで何も見えなくなっているようであったからのう。……少しばかり、腹が立ってしまったのじゃ」
テンコはむくれたように言って、箱から慎重にたぬきケーキを取り出した。
「祖母がたぬきケーキを出していたのは、ただ孫に喜んでほしかったからではないか。その思いをなかったことにして、たぬきケーキを勝手に後悔の味にしてしまうなど。祖母にも、店にも失礼であろう。……それに」
ふと遠い目をして、テンコはつぶやく。
「謝りたいと思った相手がいつまでも生きているなどと思うのは、とんだ思い上がりじゃ」
ひどく静かな声だった。たぬきケーキを渡したい相手――残された時間が少ないという、その人のことを思い出しているのだろうか。胸を衝かれたような思いがして、葵はうつむいた。
遠慮がなく横暴なところもあるが、テンコは存外、人の気持ちの在りようをわかっている。今までも何度かそう思うことがあったが、今回の言葉には、葵もどきりとさせられた。
謝りたいけど、謝れない――似たような経験は、葵にもあるからだ。
「テンコの言うことは、きっと正しい」
日差しの下で輝くたぬきケーキを見つめながら、葵は言った。
「橘さんも、謝ったほうがいいってわかってると思う。でも、動きたくても動けないことって、誰だってあるだろ」
俺だって、という言葉は呑みこんだ。重く苦しい過去がよみがえる前に、葵は続ける。
「自分がしたことの重さがわかってて、後悔してるからこそ怖い。きっと許してもらえない、傷付けたのに合わせる顔がない……そういうことばかり考えて、動けなくなる」
「わかっておる。わしも、出すぎたことを言ってしまったわ」
テンコは苦笑した。
「それでもやはり、生きているうちに伝えなければならぬと思うがな」
近くで、はしゃいだ子どもたちの歓声が上がる。
けれど葵の耳には、テンコの言葉がやけにはっきりと届いた。
お菓子のモリノのたぬきケーキは、残念ながらテンコが探しているものではなかった。
「どこにあるのじゃ、あのケーキは……」
肩を落として、テンコはつぶやく。公園を出て、駅に向かっているところだった。
住宅街の細い道を、冷たい風が吹き抜ける。寒さにやられたように、テンコはますます肩を落とした。
「大丈夫だって」
葵は強いて軽い調子で言った。たぬきケーキの店をめぐり始めて、これで五店舗目になる。はたして見つかるのか、と不安がよぎることもあるが、希望を捨ててはいけない。
「そうじゃな。諦めるわけにはいかぬ」
そう言って顔を上げたテンコは、急に足を止めた。曲がり角の向こうから、一人の女性が現れたところだった。
その顔を見て、葵も「あ」と声を上げる。
「あれ、また会った」
と、ほがらかに笑ったのは橘だった。重そうな買い物袋を手に提げている。
「ケーキ、受け取れましたか」
「はい、山名さんたちのすぐあとに。それで帰ったら、次は夕飯の買い出しに行ってこいって……実家帰ると、いっつもこれ」
買い物袋に目をやって、橘は「まったく人使いが荒いったら」とつぶやく。そんな彼女のことを、テンコがじっと見上げていることに葵は気付いた。
「何か言いたいこと、あるんじゃないのか」
「う、うむ」
葵にうながされ、テンコはゆっくりと橘の前に進み出た。
「……先ほどは、悪かったのう。出すぎたことを言ってしまった」
「え?」
突然の言葉に橘は目を丸くしていたが、それも一瞬のことだった。すぐに笑って、
「いいよ、気にしないで。それより、たぬきケーキはどうだった?」
と、テンコに尋ねる。テンコはぱっと顔を輝かせて言った。
「とてもうまかったぞ。バタークリームに干しブドウが入っていてな。洋酒のシロップが染みた生地が、そのクリームによく合うのじゃ。……それでも、探しているものではなかったのじゃが」
一転してしょんぼりとした顔になったテンコに、橘は「そう」と優しく言った。
「食べさせたい人がいるんだっけ。見つかるといいね」
「うむ。……間に合うとよいのじゃが」
「大丈夫。きっと間に合うよ」
橘の顔に一瞬、寂しげなものがよぎったが。テンコから視線を外し、
「そうそう、帰りに電車使うなら、時間気を付けたほうがいいですよ」
と葵に言った時には、見慣れたほがらかな笑顔に戻っていた。
「昼はまあまあ出てるけど、この時間だと一時間に一本とかなんで」
「えっ、それはやばいかも」
あわててスマホの乗り換えアプリを起動する葵に、橘は「じゃ、また食べに行きますねー」と手を振った。買い物袋を重そうに持ち直し、葵たちが今しがた来た道を歩き出す。
アプリがなかなか開かず、葵はその後ろ姿をなんとなく目で追っていたのだが。橘が足を止めて、お菓子のモリノのほうを向いているのが見えた。
「葵、どうしたんじゃ」
テンコが不思議そうに尋ねる。その時には橘は、お菓子のモリノとは別の道をすたすた歩き始めていた。
その後ろ姿が角の向こうに消えるのを見て、葵は思わず「テンコ」と声を上げる。
「ここで待っててくれ」
返事を待たずに葵は駆け出す。角を曲がったところで、横断歩道を渡ろうとしている橘の姿が目に入った。
「あの!」
声を上げると、橘が驚いたように振り向く。葵は足を止め、息を整えてから言った。
「……橘さんも、まだ間に合います」
「へ?」
橘の顔に、困惑が浮かぶ。
俺は今、ものすごくおせっかいなことを言おうとしている。心の隅でそう思いながらも、葵は言葉を止められなかった。
「おばあさんに、たぬきケーキおいしかったって、伝えてあげてください。間に合ううちに伝えないと、きっともっと後悔します」
橘が大きく目を見開いた。唇の端が、かすかに震える。心の奥底に眠っていた感情が、今にもあふれ出るかのように。
橘さんも、やっぱりわかっていたんだ。額の汗をぬぐいながら、葵は思った。このままでは、もっと後悔することになると。
「差し出がましいことを言って、すみません。またぜひ、ランチ来てください」
葵は早口でまくしたてて頭を下げる。頭を上げ、踵を返そうとした時、「あの」と小さく呼び止められた。
振り向いた葵に、橘は目を細めて言う。
「わざわざ走って、それだけ言いに来てくれたんですか?」
「……あの、すみません。おせっかいかと思ったんですけど」
ごにょごにょと口ごもる葵を見て、橘はおかしそうに声を上げて笑った。
「山名さんって、いい人ですね。……ありがとうございます」
どこか、吹っ切れたような笑顔だった。
迷う背中を押す、とまでは言えなくても、手を添えるくらいのことはできたのだろうかと、葵はほっとする。
「じゃあ、俺はこれで。すみませんでした、帰るところを呼び止めちゃって」
「……あ、あの。ちょっと聞きたいことが」
「え?」
背を向けようとしていた葵は振り向く。橘は、ためらうように少しの間を置いて言った。
「モリノのたぬきケーキ、まだありましたか……?」
その後、橘を見送ってから、葵はテンコの元へ戻ったのだが。電車があと五分で発車することを知り、猛ダッシュで駅に向かうはめになった。
「ま、間に合った……」
ホームに停まっていた電車へと、葵たちは滑りこむ。
シートの端によろよろと座った葵に、テンコはあきれたように言った。
「若いのに情けないのう。ほんの少ししか走っておらぬではないか」
「う、うるさいなあ……」
となりに座ったテンコは葵を見上げ、
「葵は本当にお人よしじゃな」
と、金色の目を細めた。葵が橘に何を伝えたか、言われずともわかっているようだった。
ホームに発車メロディーが鳴り響き、ドアが閉まった。電車が動き出すのと同時に、テンコは再び口を開く。
「まあ、わしや葵が何を言ったところで、どうするか決めるのはあの娘自身じゃが」
「そうだな。でも、大丈夫だと思う」
電車はスピードを上げ、あっというまに橘の故郷を離れていった。
窓の外を流れる風景を眺めながら、葵は思い出す。先ほど見送った、お菓子のモリノへ向かう橘の後ろ姿を。
迷いのない足取りに見えたから、きっと大丈夫だ。
「絶対にたぬきケーキを見つけような。後悔がないように」
葵が言うと、テンコはわずかに目を見開いた。それからすぐに、
「当たり前じゃ」
と笑ってみせる。それに笑い返しながら、葵は思う。
テンコだって、まだ間に合う。だから絶対に、たぬきケーキを見つけてやりたい。――俺のように、後悔を抱えてほしくない。
葵の胸にきざした、過去の黒い影を振り払うように、窓の外で夕日が強く光った気がした。
橘がキッチンハルニレにやって来たのは、その二日後のことだった。
「山名さん、ありがとうございました。これよかったら、あの子と一緒に食べてください」
ランチタイムのピークをすぎた午後二時。遅めの昼休憩をとってきたという橘は、帰り際、葵に大きな紙袋を差し出した。袋には、有名な洋菓子店のロゴが入っている。
「え、いいんですか? なんかすみません……」
恐縮しつつ受け取ると、橘は「そんなことないですよ」と首を振る。
「山名さんとあの子のおかげで、ばあちゃんと話そうと思えたんです」
穏やかな橘の表情を見るうちに、葵の胸の内が、あたたかなもので満たされる。
きっと、うまくいったのだろう。
「たぬきケーキ、買えましたか?」
「はい。ばあちゃんと二人で食べました。そしたらばあちゃん、泣いちゃって」
その時のことを思い出したのか、橘は眉を下げる。
「あの時、私が本当に傷付いた顔をしてたから。もう会いに来てくれないと思ってたって」
お互い様だったみたい、と橘は独り言のようにつぶやいた。それから、葵に向かって「本当に、ありがとうございました」と微笑む。
「もっと早くに話してればよかったね、ってお互いに謝って。……たぬきケーキも、すごくおいしかった。記憶の中の味より、もっとおいしく感じました」
すいませーん、と葵を呼ぶ声がする。それを機に、橘は「ごちそうさまでした」と店を出た。葵は紙袋をレジの後ろに置いてから、手を挙げている客のもとへ急ぐ。
橘がたぬきケーキを昔よりおいしく感じたのは、店主が年月をかけて、少しずつ味の改良をしてきたからだろうか。
それとも、祖母に謝ることができたからかもしれない。
どちらにしても、橘がその味を知ることができてよかったと、葵はあたたかな気持ちで思った。
「ふむ。まあ、良き判断をしたようで何よりじゃな」
まかないの稲荷寿司を食べながら、テンコは言った。
その目は、テーブルの隅に置いた洋菓子の箱に釘付けになっている。休憩時間に入り、テンコに橘のことを説明したところだった。
「あの子にもお礼を言っておいてください、って橘さん言ってたぞ」
葵はさりげなく箱を遠ざける。稲荷寿司の最後の一つを食べ終え、テンコは言った。
「礼には及ばぬ。迷う人間がおれば、手を貸してやらんこともないというだけじゃ」
ふふん、と得意げに胸を反らし、テンコはいそいそと洋菓子の箱に手を伸ばす。……が、ほうれん草のおひたしの小鉢が残っているのを、葵は見逃さなかった。
「だから野菜も食べろって」
「わしには必要ないと言っておるじゃろ」
テンコは箱の包装をばりばり剥がすと、中のフィナンシェを嬉しそうに手に取る。……やっぱり基本的にはえらそうで遠慮がなくて、勝手な奴だよな、と葵は思う。
「あーあ、店長が頑張って作った自信作なのにな」
大げさにため息をついて言うと、テンコの手がぴたりと止まった。追い打ちをかけるように、葵は続ける。
「新鮮で甘いほうれん草だから、テンコちゃんもこれなら食べられるんじゃないか、って言ってたんだけどな。食べないなら仕方ないな。店長、悲しむだろうけど」
「……」
テンコはしばらくむっつりと黙っていたが、
「……そういうことなら、仕方あるまい」
と、フィナンシェを置いて箸を手に取った。ほうれん草をつまみ、しぶしぶといったふうに口へ運ぶ。
あまりに嫌そうな顔をしているものだから、葵は思わず笑ってしまった。
「そこまで嫌いなのか」
「うむ。しかし無下にするわけにはいかんじゃろ。わしのことを思って作られたものじゃからな」
テンコはなんとか小鉢を空にすると、すぐにフィナンシェへ手を伸ばした。葵は「食べすぎるなよ」とだけ言って、空の皿をキッチンへ下げに行く。
戻ってきた時には、テンコは嬉しそうに二つめを食べていたが。葵の椅子の前には、ちゃんと葵のぶんのフィナンシェが置かれている。食べ尽くされることを覚悟していたから、少し驚いた。
――ひょっとしてテンコは、以前葵のまんじゅうを食べてしまったことを覚えていたのだろうか。
「ありがとな」
葵の声が聞こえなかったのか、テンコは何も言わなかった。照れくさくて、聞こえないふりをしたのかもしれない。
椅子に座り、フィナンシェの袋を開けながら葵は思う。
テンコは一見、遠慮がなくて、勝手で、横暴に思えるけれど。思いやりがないわけではないのだ。
そんなテンコとの日々も、テンコ自身のことも、葵はわりと気に入っている。
――たぬきケーキ探しが、このあと思いもよらない展開を迎えようとは、知るよしもなかったのだが。
【おわり】
2023年ノベル大賞<準大賞>受賞作
西 東子『天狐のテンコと葵くん たぬきケーキを探しておるのじゃ』
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