第二話「夜道を駆けて、おやすみ」


 肩まで布団を被ったまま、手のひらを見つめる。常夜灯でぼんやりとオレンジに照らされた手相の線を意味もなく指でなぞっていると、廊下の方から足音がした。
 ゆっくりと近づいてきていた足音が分厚いドアの前で()んだあと、コンコンコン、と意識しないと聞こえないくらい控えめに、三回ノックされる。人の気配がドアの前に留まったまま少し経って、また足音が遠ざかっていった。
 四つ並んだ布団のうち、入り口に一番近いところに敷いた布団に寝転んでいるから、部屋の外の音は案外はっきりと聞こえる。枕元にあるデジタル時計を見ると、時刻は午前一時半を回ったところだった。消灯時間を過ぎてから、先生たちが見回りに来るのはこれで二回目。だいたい二時間に一回は各部屋を回っていることになる。さすがに交替制だとは思うけれど、先生たちも休むに休めないだろうなぁ、と考えながら寝返りを打った。一度目の見回りのとき、まだみんな起きて話に花を咲かせていたら、担任の(やま)(した)先生が「寝なさいよ!」とドアを開けて突撃してきた。その直後、日付を越えたあたりから脱落者が出始めて、今やすうすうと規則正しい寝息しかしない。
 みんな寝ちゃってつまらない。それなのに、私はまだまだ眠れない。これは別に普段から夜更かししているからだとか、ショートスリーパーだからだとか、そういう理由ではない。むしろ中学三年生にしては、私はよく寝るほうだし、いつもどんなに遅くとも日付が変わる頃には健やかに爆睡している。早朝から(から)()(けい)()があるから、自然とそんな生活リズムになった。だけど今眠れないのは、単に周りに人がいるとなんだか落ち着かなくて眠れない、というただそれだけ。怖がりな()()が、真っ暗は嫌だ、なんてごねたので、常夜灯が()いたままだというのも一因なのかもしれない。普段は部屋を真っ暗にして眠っているから、小さなオレンジの灯りが薄いまぶたを透かしてくるのも、気になって仕方がない。
 でもこんな修学旅行も明日、いや今日で終わる。最終日はバスで帰るだけだし、寝不足でも大して困らない。明日の今頃には愛してやまない自室のベッドの上で、三日ぶりの熟睡を(おう)()していることだろう。そんなわけで無理して寝ようとするのをやめていた。
 もう何回目かもわからない寝返りを打ったとき、横から布団が()れる音がした。擬音語にすると、ガバッとかバサッとかそんな感じで、明らかにだれかが寝返りを打った程度の音ではない。ほとんど反射的に音のした方を見ると、四つ隣り合わせに敷かれた布団の一番奥に、起き上がっている人影があった。そこで寝ているのは、たしか。
(あお)()ちゃん?」
 (ひじ)をついて上体を起こしながら精一杯の小声で話しかけると、青唯ちゃんはゆっくりこちらを向いてじんわりと笑った。その(かん)(まん)な表情の変化が、常夜灯に照らされているからか、夜に目が慣れたからか、やけにはっきりと見える。
「やっぱり(ふみ)()ちゃん起きてた」
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん。寝てなかった」
 眠っている二人を挟んで小声で会話をしていると、なんだかおかしくなってきてしまって、どちらからともなくクスクスと笑い合った。間で寝ていた()()ちゃんがうぅん、と(うな)ったから、慌てて口元に手をやる。その仕草がシンクロして、なぜかそれすら面白くなって、また二人で笑った。
 青唯ちゃんの後ろには大きな窓がある。そこのカーテンがほんの十センチほど開いていることに、たった今気がついた。一度気がついてしまうと、なぜかその隙間から(のぞ)く黒い外の空間が気になってしまう。
 青唯ちゃんがそうっと布団から抜け出して、二人を踏まないように気を付けながら私の枕元まで来る。しゃがみ込んで手招きした。耳を貸せということらしい。今度は完全に上体を起こして、青唯ちゃんの顔に耳を近づける。青唯ちゃんの綺麗な長い髪が、すだれのように細かい束になって肩からこぼれる。そこからデパートの化粧品売り場みたいな良い匂いがして、思わず息を止めた。青唯ちゃんは、そんな私を気にする素振りもなく、いつも通り楽しげな可愛い声で言った。
「ね、ちょっと抜け出さない?」

 迷いなくホテルの廊下を進む青唯ちゃんが、私の手を引く。結われていない栗色の艶々とした髪は、腰のあたりで真っ直ぐに切り揃えられていて、癖一つない。その髪が、青唯ちゃんが歩くたびに緩やかに揺れて、思わず()()れてしまいそうになる。こんなに綺麗な髪を持つ女の子を、私は他に知らない。普段は校則に従ってポニーテールにしているから、髪を下ろした姿は初めて見た。
 わたしの頬は熱くなって、心臓は別の生き物みたいに()ねている。悪いことをしているという背徳感からか、先生たちに見つかったら大変なことになるというスリルからか、それとも私の手を引くのが青唯ちゃんだからか。理由はわからないけれど、繋いだ手からこのうるさい鼓動が伝わっていないでほしい。
 耐えられなくなって、小さな声で「青唯ちゃん」と話しかけると、青唯ちゃんは首だけこちらを振り返って、それから口元に人差し指を当て「しぃー」と言った。目は弧を描くように細めて、足は止めないまま。その仕草が妙に大人っぽくて余計に心臓が跳ねるので、思わず繋いでいない左手で肩まで伸びた自分の髪を触った。切ったばかりの私の髪は、どれだけ伸びても青唯ちゃんみたいにならないことを知っている。だって、私の髪は茶色くないし細くない。それに少しだけ癖がある。
 見回っているはずの先生たちと一度も鉢合わないまま、ホテルのロビーにたどり着いた。私と青唯ちゃんしかいない。フロントにもスタッフらしき人はいなくて、二階か三階くらいまでの吹き抜け天井が、昼間よりずっと高く見える。なにも投影されていない真っ白なプラネタリウムの天井を見たときみたいな気分で、意味もなく上を見つめながら歩いていると、青唯ちゃんが「ここまで来ればわたしたちの勝ち」とニッと笑った。
「勝ったね」
「ロビーって、こんなに広かったんだ。なんか変な感じ」
 青唯ちゃんは、私の右手を離す気配もない。正面のドアは()(じょう)されていなくて、案外あっさりとホテルから外に出られた。途端に温められた水辺の空気が私の周りに膜を張ったようにくっついて、「暑」と声が()れ出た。まだ梅雨(つゆ)が明けた直後だというのに、夜でもちゃんと暑くて嫌になる。
 正面には湖が広がっているはずだけど、暗い上に一メートルほどの堤防があってよく見えない。アスファルトには私と青唯ちゃんの影がいくつも重なってぼんやりと伸びていた。
「暑いねー。史佳ちゃん、暑いの好き?」
「全然好きじゃない。疲れるし、汗かくし」
「わたしも」
「もうすでに汗かいちゃってんだけどね」
「ね、どうせならさ、もっと汗かいちゃおうよ」
「え? わっ⁉︎」
 私が言われたことを()(しゃく)し終わる前に、青唯ちゃんが走り出した。私も右手に引っ張られて走り出す。走り始めに足がもつれそうになったけれど、持ち前の体幹でどうにか(こら)えて体勢を整えた。足を一歩踏み出すたびに、青唯ちゃんの髪がまとまったまま左右に揺れる。振り子みたいに一定のリズムで波打って、私にはそれがコマ送りに見える。やっぱり綺麗だと思った。揺れる髪が、青唯ちゃんそのものを表しているようで目が離せなかった。こういうのを「(たお)やか」というのだと知ったのは、ちょうど先週あたりの国語の授業中だ。暇つぶしに眺めていた辞書で見つけた「嫋やか」の項目は、たぶん青唯ちゃんのために用意されたのだろうとすら思った。言葉の響きも丸くてどこか可愛らしくて、それでいて(りん)としている。
 繋いだ手に力を込めると、青唯ちゃんも握り返してくれたような気がした。
 次に意識がはっきりしたときには、目の前に交差点が現れていた。歩行者信号が赤だったから、自然と足が止まって手も離れる。車通りはほとんどない。でも、青唯ちゃんの前で赤信号を渡るのはなんだか(はばか)られた。
 走っていた時間は多く見積もっても五分程度だったはずだけど、息が細かくなっている。深く息を吐いて、呼吸を整える。青唯ちゃんは結構しっかり疲れたようで、膝に両手をついて上がった息を抑えていた。バドミントン部って、意外と体力づくりとかしないんだろうか。吹奏楽部の絵未が、「外周走るの嫌だぁ。六周だよ? 女バスでも五周なのに!」とぼやいているのはよく聞くけれど、私は放課後になった瞬間に道場へと直行するタイプの帰宅部だから、部活動事情には詳しくない。
「青唯ちゃん、大丈夫?」
「全っ然平気っ!」
 あまり平気そうではない青唯ちゃんが、私たちの走ってきた道を振り返る。つられて私も後ろを向くと、ホテルはもう見えなくなっていた。走っている間は全く気がつかなかったけれど、橋を一つ渡っていたらしい。湖に沿って等間隔に置かれている街灯が遠くまで続いているのが、ビーズのアクセサリーみたいだった。
「すごいね、先生たちと鉢合わせなかった」
 青唯ちゃんは「ふふん」と得意げに胸を張って見せて、それから堪えきれなかったようにふっと笑いだした。青唯ちゃんは、飾らない笑い方をする。
「本当はね、見回りのルート知ってただけ」
「え、なんで知ってんの?」
「学級委員だからさ。会議のときに、こう、マーシーが持ってる資料が見えたの」
「マーシー、戦犯じゃん」
 担任の山下先生は、みんなからマーシーと呼ばれている。たしかに、学級委員は修学旅行の実行委員も兼ねるから、放課後にいろんな会議をやっていた。でも、初めて行くホテルのルートが描かれた図を、ほんの少し見ただけで完璧に覚えることなんて普通はできないと思う。それにマーシーも、まさかあの青唯ちゃんが見回りの目を()(くぐ)って抜け出すとは夢にも思わないから、きっと油断していた。
 信号が青に変わった。青唯ちゃんが歩き出して、私もその隣に並ぶ。青唯ちゃんは、まるでよく知った場所みたいに、家の近所みたいに歩く。青唯ちゃんが寝巻きとして着ているTシャツとハーフパンツのセットアップは、里沙ちゃんとお揃いで買ったものらしい。青唯ちゃんが淡いグレーで、里沙ちゃんがネイビーだ。それまでやっていた「ナンジャモンジャゲーム」から派生して、それぞれの胸元にワンポイントとして付いた犬の()(しゅう)に、勝手に名前をつける遊びが始まった。絵未が「ジョンソンと(とめ)()だね」と命名して笑い転げたのはもう数時間も前のこと。絵未は笑いすぎて布団に沈んだ私たち三人を見て不思議に思ったらしく、至って真面目な声色で「あっ留子よりステファニーが良かった?」と重ねるものだから、しばらくは視界に犬の刺繍が入るだけで吹き出していた。今はさすがに笑いの波は引いたけれど、修学旅行ってなにが起きても笑えてくる。たぶん数年経ってもジョンソンと留子の名前は忘れないと思う。
「ね、コンビニ行こうよ。わたし、アイス食べたい」
「いいね」
 コンビニどこだろうね、と言おうとして、青唯ちゃんの顔が青白い光に照らされているのに気がついた。青唯ちゃんの右手の中で、スマホが(こう)(こう)と光っている。修学旅行はスマホ持ち込み禁止だから、隠れて持ってきた人は初日の夜に(てき)(はつ)、没収された上で保護者に連絡までされていた。私たちの部屋は四人とも持ってきていなかったから、「ロビーでマーシーがガチギレしてるらしいよ」「珍しいじゃん。見に行く?」「()(よし)が泣いたって」「あの三好が? マーシー、さすが二児の母だな」なんて対岸の火事のように、話題に上がっただけだったはずだ。私の視線に気がついたのか、青唯ちゃんはパッと顔を上げると、「ふふ」と笑った。
「バレなかったの。これも学級委員特権かな」
 向こう側から来たトラックが道路の段差にガタン、ゴトンと音を立てながら通り過ぎた。私はふと思ったことを口にしてみた。
青唯ちゃんって、もっと優等生タイプかと思ってた」
「がっかりした?」
「まさか」
 泊まっている部屋は同じだけど、私と青唯ちゃんは特別仲がいいわけではない。私と絵未、青唯ちゃんと里沙ちゃんの二人組がそれぞれくっついただけの部屋割りで、昼間の活動班も違う。とはいえ、同じ部屋になるくらいだから、もちろん仲が悪いなんてこともない。
 でも、私はきっと青唯ちゃんに(あこが)れていた。私とは似ても似つかないけれど、たしかに青唯ちゃんみたいになりたいと思っていた。頭が良くて愛嬌があって、嫋やかな髪を持つ青唯ちゃん。当然みんなから好かれているから、学校中探し回ったって、青唯ちゃんのことが嫌いだなんていう人を見つけるのはなかなか骨が折れるだろう。そんな青唯ちゃんを目の前にすると、自然と背筋が伸びる。
 クラスが違った一年生の頃から、なんなら青唯ちゃんの名前すら知らなかった頃から、廊下で見かけるたびに「髪が綺麗な子だな」と思って見ていた。今考えると、当時から妙な憧れを抱いて、心のどこかで(すう)(はい)していたような気がする。だって人づてに「(さかき)(ばら)青唯」の名前を知ったとき、こんなに美しくてぴったりな名前があるのかとハッとしたほどだったから。
 だけど、青唯ちゃんもルールを破ってスマホを持ってきていたり、こうして夜にこっそりホテルを抜け出したりしている。青唯ちゃんは、ちゃんとただの中学生だ。その姿を私に見せてくれているのだと思うと、それだけでまた息が上がりそうになる。
 こんな私の腹のうちなんか知らない青唯ちゃんは、肩を上げてふふっと笑ってみせた。
「よかった。史佳ちゃんにがっかりされちゃったら、どうしようかと思った」
なにそれ、どういう意味」
「そのまんまの意味だよー。お、真っ直ぐ行ったら道沿いにセブンあるって」
 ゆっくり歩く私たちを、時々車が照らしては暗闇の中に突き放す。遠くで虫の鳴き声がした。
 事前学習とやらで調べた情報によると、()()()は断層湖とか構造湖とかいうやつらしい。大昔、地震でできたくぼみに水が溜まったもの。こんなくぼみができるほどの地震なんて、当時の人たちはとてもびっくりしたんじゃないのか、と言ったら絵未に「人類の登場以前だよ」と微笑まれてしまった。
「史佳ちゃんたちは班行動、善光寺行ったんだっけ? どうだった?」
 こんな夜更けでも、いつもの可愛らしい声に明るい色を乗せて聞いてくれる。
「楽しかったよ。でもチェックポイントに行くの遅れてマーシーにめちゃ怒られた」
「えー! 時計見てなかったの?」
 見てたんだけど、となんとなくそこで言葉を区切って、右隣をチラリと見たら、少し下にある顔がちゃんと私の方を向いていた。街灯の頼りない光のもとでも、青唯ちゃんのなだらかな頬の膨らみはしっかり見える。大きくて(くず)(もち)みたいにつるんとした目と、バチッと視線が絡んでしまったから、慌てて()らして続きの言葉を探した。
「それがさぁ、三好がタピオカ買うって言って聞かなくて。長野来てまで並んだわけよ。あいつ、美味しくないとか言ってたけど」
 タピオカってブニュブニュした食感だし、見た目もなんか気持ち悪い。三好は「これ流行(はや)ってんだよ」とかなんとか言っていたけど、そんな話は聞いたこともないしこんなカエルの卵みたいなのが流行るとか正気の沙汰じゃない。
「三好くん、言いそうだなぁ。あ、ていうか(もん)(ぜん)(まち)で木刀買って没収されたのって結局だれだったの? 四班の人なんでしょ?」
「あぁ。それも三好」
「三好くん!」
 青唯ちゃんがおかしそうに笑った。その拍子に少し前屈みになったから、さらに頭が下にいって、髪が糸みたいにふわりと舞った。青唯ちゃんの周りだけ重力がないんじゃないかと思うほど、その髪の一本一本がゆっくり散らばったように見える。
 三好、あんたちょっとは脈あるかもよ。と今頃健やかに寝ているであろう三好に念を送っておいた。
「絵未に止められてたし、わざわざしおりにも『木刀は買わない』って書いてあったのにさ。でもまあ、買うよね。三好だし」
「史佳ちゃんは止めなかったんだ」
「うん。だって、面白いじゃん」
 夕食前に目撃した「先生四人に囲まれて木刀を抱える三好」という図は、さながらいたずらがバレた犬だった。スマホを持ってきていたら絶対に動画を撮ってたのに。
「たしかに。わたし、史佳ちゃんのそういうところ大好き」
 青唯ちゃんの口から発せられた「大好き」に、やっと落ち着いてきていた心臓が思いっきり跳ねた。大した意味もないのだろうということくらいわかっているけれど、頭の中で青唯ちゃんの声がぐるぐる回る。なんて返せばいいのかわからなくて、「あ!」と不自然に話を変えることにした。
「あっ、青唯ちゃんたちは、松本行ったんだよね」
「そうそう。お城見てきたよ」
 青唯ちゃんは松本城の話をしてくれた。黒かったこととか、里沙ちゃんがこんなことを言っていたとか、一つ一つ思い出すように丁寧に聞かせてくれているのに、私は青唯ちゃんの話の内容なんてほとんど頭に入ってきていなかった。
 ただ、青唯ちゃんの小さな口が楽しげに細かく動くのを、あえかな光をツヤツヤと反射させているのを眺めながら、時々青唯ちゃんに合わせて笑うだけ。
「あ、あった」
 右手に見慣れた看板が見えた。もう着いてしまったのか、と少し惜しい気もする。
「スイカバー、もうあるかな!」
 青唯ちゃんがまた無邪気に駆け出した。私はその髪が踊る背中を追いかけて、無駄にまばたきを重ねた。私の目がカメラだったら、まばたきのたびに青唯ちゃんの背中を写真に残すことができたのに。

 店員の「あっしたぁー」という間延びした(あい)(さつ)を背に、また湿度の高い外に踏み出す。こんな夜中に中学生が来たら怪しまれるのではと思ったけれど、推定二十代前半の男性店員は、一度も私の顔を見なかった。客に一切興味がないのか、特に(せん)(さく)はしないタチなのか。私のアイスモナカに「(はし)、お付けしましょうか」と聞いてきたから、むしろあの人の疲れすぎが心配になる。どちらにせよ運が良かった。世界は案外、私たちを見逃してくれるらしい。
 青唯ちゃんは外に出た瞬間に、「ふふ」と言いながら近づいてきて、私の腕に自分の腕を(から)めて引き寄せた。今までにないほど近い距離に何事かと思えば、「今の店員さん、めっちゃジョンソン見てきた」と耳打ちしてくる。私は反射的に青唯ちゃんの左胸に目がいって、気の抜けた犬の刺繍を見てコンビニの駐車場に崩れ落ちた。さっきまでの、なぜかとんでもなくおかしかった波がまたやってきてしまった。青唯ちゃんはそれを見てケタケタ笑って、二人で笑い転げながらもつれるように目の前の公園に飛び込んだ。
「ヤバ、腹筋()りそう」
「もうさ、全然面白くないのに笑っちゃうよね」
 石でできたオブジェを通り過ぎた先に、ベンチが湖の方を向いていくつか設置されていた。私たち以外だれもいない。ベンチに並んで座って、アイスの入ったフィルムを破く。青唯ちゃんは細い腕でスイカバーを取り出して「重ーい」と笑う。たまたま入った公園は、芝生に点々とベンチや石像が置いてある広場のような空間で、湖岸に沿ってずいぶん遠くまで細長く広がっている。
 モナカを袋から押し出して、一口(かじ)る。すでに少し溶けている部分がモナカの隙間からドロリと口の中に流れ込んでくる。隣から青唯ちゃんの「うま」という声が聞こえてきた。
 改めて、学校という決められた空間の外で、こうして青唯ちゃんといることが変に思えてくる。だって、学校でさえ私たちはこんなに近くに座らない。
「もう明日帰るの、早くない?」
「マージで早かった」
「帰りたくなーい。週末Vもぎじゃん。嫌すぎ」
「えっ。青唯ちゃんも、模試嫌だなとか思うの?」
「そりゃあ思うよ。テスト全般嫌いだもん」
 私のように前日の勉強時間がそのまま成績に反映されるような層がテスト嫌いなのは言わずもがな、青唯ちゃんみたいな成績上位者までテストが嫌いなんて思いもしなかった。だって良い成績しか取らないから、落ち込むことも、ママに(しか)られることもないだろう。
「名前が画数多いからね。テストって一日でたくさん名前書かなきゃいけないじゃん。それが嫌」
「あ、そっち?」
 やっぱり、成績云々(うんぬん)が理由ではなかったらしい。頭が良い人は私とは違うんだろうな、と思う。見えてるものも感じることも、テスト一つとってもこんなに違うのだから、他のものだってきっと違う。
 頭の中で「榊原青唯」の字をなぞる。実はすでに数え切れないほどなぞってきた名前は、何度思い浮かべても綺麗だ。
たしかに、青唯ちゃん、画数多いね」
「でしょー。わたし自分の名前嫌い」
「えっどうして?」
 思わず食い気味に聞いてしまった。青唯ちゃんはスイカバーを齧って、なんてことないように平然と言う。
「書くのが面倒だから」
 パチ、とまばたきをする。青唯ちゃんはふっくらと上がった頬を動かしてアイスを咀嚼してから続けた。
「名前ってさ、記号なんだよね」
「記号?」
「そう。ただ、個体を識別するためだけの記号。それならわたし、もっとわかりやすくて簡単なのが良かった」
 小学生のとき、自分の名前の由来を調べる授業があった。漢字辞典を引いて、名前に使われている漢字の意味を調べて発表する授業もあったし、名字の成り立ちと()(もん)について調べる授業もあった。「名前は両親からの最初のプレゼント」だなんて言われて、それが当たり前だと思っていた。青唯ちゃんは、その当たり前とは違う価値観を、自分で見つけて持ち続けているのだ。すごい人だ、と思った。今、私と話しているのが不思議なくらいに、すごい人だ。
 モナカを齧る。凍っているところより、溶けたところの方がずっと甘く感じる。
「史佳ちゃんは志望校、決めた?」
 青唯ちゃんに話しかけられて、「んー」とモナカを飲み込んだ。
「まだあんまり。道場通いやすいところならどこでもいいかなーって。選べる成績でもないし」
「やっぱ、そんなもんだよねぇ」
「青唯ちゃんも、志望校決まってないの?」
「うん。三者面談までには決めなきゃってのは、わかってんだけどね。塾の先生と学校の先生で言うこと全然違うから、どうしようかなって」
 青唯ちゃんが長い髪を撫でつけた。私もつられて自分の髪の先に触れる。
「正直、どうでもいいんだ。わたしは史佳ちゃんみたいに、得意なこととかないし」
そっか」
 得意なことがない、なんてことあるはずがない。だけど、こういうのを「そんなことないよ」と言われるのが一番ムカつくことはよくわかっているから、言わないでおく。
 青唯ちゃんが突然「あ」と言ったので、そちらを向く。青唯ちゃんがスイカバーを差し出して「食べる?」と聞いてきた。「いいの?」と聞くと青唯ちゃんが頷くから、私もモナカをずいと前に出して「青唯ちゃんも」と言う。
 青唯ちゃんは「わーい」と言って、私が手に持ったままのモナカを一口齧る。私も身を屈めてぎこちなく青唯ちゃんのスイカバーを齧った。シャク、と音がした。ミルクの甘さとは明らかに違う甘さが鼻まで抜ける。変に緊張したせいで、味がわからなかったらどうしようと思ったけれど、ちゃんと甘いことがわかって内心胸を撫で下ろす。青唯ちゃんが口元に手をやって「ふふふ」と笑った。
「わたし、一年のときから史佳ちゃんと仲良くなりたかったんだよね」
「え、私のこと知ってたの?」
「うん。そのときからよく全校集会で表彰されてたじゃん。空手で」
 青唯ちゃんは自分のつま先を眺めながら言う。私はそんなの見てたの、と一人で驚いていた。
 全校集会では部活動が表彰されている。私は部に属していないけれど、大会で優勝するたびにどこからかそれが学校にバレて、全校集会で表彰されていた。部活じゃないからいい、と言ってもマーシーに笑顔で「明日、賞状とトロフィー持ってきてね」と言われてしまうと従うしかない。大会関係者から授与された賞状とトロフィーを、全校生徒の面前でなぜかもう一度、全く関係のない校長から手渡されるのは結構嫌だった。
「かっこいいなって思ってたの。わたし、これって言えるような得意なものなんて、なにもないから」
 青唯ちゃんはなんでもできる。なにをやっても、きっと良い結果を残せる。去年はバドミントン部のダブルスで、二年生にして都大会ベスト8の成績を残していたし、勉強だって定期テストではいつでも十位以内に入っている。
「史佳ちゃん見てたら、わたし、そういえば一位って()ったことないなって思って。全部中途半端」
 青唯ちゃんは息継ぎをして、それからゆっくり私の方を向いて、目尻を下げながら言った。
「もしかしたら、史佳ちゃんみたいになりたかったのかもね」
 私はきっと青唯ちゃんに憧れていた。私とは似ても似つかないけれど、たしかに青唯ちゃんみたいになりたいと思っていた。
私はちっちゃいときから空手やってるから、当たり前っていうか。青唯ちゃんはバド始めたの、中学からでしょ」
 青唯ちゃんがうん、と頷いた。
「ある程度大きくなってから新しくなにかを始めてそこまでいけるって、めちゃくちゃすごいと思うよ。私は」
「ありがと。でも史佳ちゃんだって絶対他のこともできるよ。すごい人だもん」
 こんなことを面と向かって、しかも青唯ちゃんから言われてしまうと、くすぐったくてたまらない。
「えー。じゃあ、高校から新しい競技、始めちゃおうかな」
 思ってもいないことだった。笑いながら発した、照れ隠しの冗談のつもりで。
「いいと思う。史佳ちゃんらしくてかっこいい。わたし、応援してるから」
 それなのに、青唯ちゃんがまっすぐ私を見ながらそんなことを言うものだから、ぐっと喉が詰まった。また毛先を指に巻き付ける。
「戻ろう。雨の匂いがする。もうすぐ雨が降るよ」
 食べ終わったアイスの棒を袋に戻して、青唯ちゃんが立ち上がると、私に手を差し伸べた。私は「うん」と頷いて、その手の上に自分の手をそっと乗せた。

 湖に沿って、芝生の上を歩いていく。ソールの薄いスニーカーでは、足の裏に芝生の跳ね返る感覚まで伝わってくるような気がする。湖面に街灯の光が反射して、ゆらゆら揺れている。おもむろに口を開いた青唯ちゃんが、「ずっと気になってたんだけどさ」と私を見る。
「史佳ちゃんって三好くんと付き合ってるの?」
「だれとだれが、なんだって?」
「だから、史佳ちゃんと三好くん」
「そんなわけないじゃん!」
 想定の三倍くらい大きな声が出た。なにが楽しくて三好なんかとそんな勘違いされなきゃなんないのか。手もブンブン振って全身で否定する。
「えー? そうなの?」
「ないない。私、自分より弱い人に興味ないし。木刀持ってる三好と素手の私だったら、絶対に私の方が強いかんね」
「うーん。それは(いな)めないかも」
 たしかに三好と私は物心つく前、もっと言えば生まれる前からの仲だ。うちのママと三好ママは同じ病院で、しかも数日違いで我々を産んで、そのときからずっとマブらしい。つまり(おさな)()(じみ)とかいうやつ。ここまで来ると、もはやきょうだいだ。きょうだいなら、私が姉であいつは弟。異論は認めない。
「三好はむしろあー、とにかく、違うから」
「ふーん?」
「あー。青唯ちゃんは、好きな人とか、いないんですか」
「なんで敬語なのよ」
 昼間、タピオカの店に並びながら、三好がしつこく「榊原ってだれが好きなん?」と聞いてきた。「知らないってば」と若干キレながら答えると、「史佳、榊原と仲良くないわけ」と言ってきたから余計に腹が立ったのは記憶に新しい。自分で聞けと小突いたら「俺が榊原に話しかけられるわけなくね? 女子だし」と木刀をコツコツと地面に突き当てながら、逆ギレしてきた。なんなの、私には平気で話しかけてくるくせに。三好ママに言いつけてやろうか。
「いる」
 へ、と間抜けな声を上げた私に、青唯ちゃんがもう一度、今度ははっきりと言った。
「好きな人、いるよ」
だれ?」
「んー、史佳ちゃんが知らない人!」
 私が知らない、というと、他校の人ということだろうか。たしか、里沙ちゃんは他校の彼氏がいるとかなんとか言っていた気がする。
「塾の人?」
「違う違う」
「部活?」
「ううん。大学生だった」
 大学生なんて、そんな大人とどうして知り合いなんだろうか。少なくとも私には大学生の知り合いなんかいないし、周りでもそんな話は聞いたことがない。色々聞きたいことはあったけど、真っ先に口から出たのはどうでも良いような疑問だった。
「『だった』って、じゃあ、今は社会人ってこと?」
「うーん。どうなんだろう。わかんない」
 わかんないって、どういうことなんだ。私が聞くより先に、青唯ちゃんがいつもと変わらない声の調子で続けた。
「全部わかんないの。名前も、どこに住んでるのかも、なんの仕事してたのかも」
「なにそれ」
 勝手に漏れた声は変に掠れていた。
「でもいいんだ。もう会わないから」
 そう言ってにっこり笑った青唯ちゃんが、あまりにもいつも通りすぎたから、私は「そう」と言うしかなかった。
ねぇ、どんな人?」
「クジラと牛って、同じ分類なんだって」
「え、クジラと牛?」
 てっきり「優しい」とか「イケメン」とかそういう答えが返ってくると思っていたから、急に生き物の話になって困惑する。青唯ちゃんはそんな私の困惑を余所に続けた。
「そう。クジラ(ぐう)(てい)(もく)っていって、()(にゅう)(るい)の一目」
クジラって、哺乳類なんだ」
「らしいよ。クジラも牛と同じように胃が四つあって、生物学的には結構近い」
 冷たくて深い海の中で暮らすクジラと、広大な牧場でまったり草を食べる牛。そう聞いても全く結びつかない。
「だからね、見た目は全然違っていても、住んでいるところは遠くても、実は仲間ってたくさんいるんだよって、教えてくれたの」
 青唯ちゃんは「そんな人」と締めた。
 やめておきなよと言うつもりだった。中学生を相手にする大人なんか危ないよ、と。でも、青唯ちゃんが丁寧に思い出すように言うから、私は拍子抜けしてしまった。
 勝手に、青唯ちゃんはそういうのと無縁なのだと思い込んでいた。恋とか愛とか、そういう同級生が夢中になるようなものたちから解放された存在なのだと思い込んでいた。それくらい青唯ちゃんは綺麗で()(さら)で、雲の上の存在に見えていた。これは、(らく)(たん)に一番近い(あん)()だ。
 ホテルに戻ったら、私たちは今度こそ眠る。当たり前に朝が来て、バスに詰め込まれて東京に戻る。修学旅行生からただの受験生に戻ってしまう。
「修学旅行終わったら、次の行事ってなに?」
 私の急な話題の方向転換にも青唯ちゃんはついてきてくれて、「うーん」と考える素振りをした。
「体育祭じゃない?」
「秋かぁ。去年の体育祭、マーシーが子ども連れてきてたよね」
「あ、来てた。三好くんに(おび)えてたよね」
 マーシーにどことなく似た小学生の女の子は、ふざけてクラス中の人たちから()(さら)ったハチマキ十五本を頭に巻いた三好にひどく怯えていた。あれはかなりのトラウマものだったし、マーシーの娘だと聞いてみんな構いたがったから、余計に怖かっただろう。
「そうそう。今年も来るかなぁ」
「三好に怯えてもう来ないかもしれない」
 青唯ちゃんはまた「三好くーん!」と笑った。三好、ごめん。やっぱりあんた、脈ないわ。クジラ偶蹄目なんか知らなさそうだし。
 公園を抜けてアスファルトの歩道に戻る。青唯ちゃんがくぁ、と欠伸(あくび)をした。
「眠い?」
「んー、さすがにそろそろ眠いかも」
 そう言って青唯ちゃんはポケットからスマホを出して「うん、いつも寝てる時間だ」と呟いた。
「こんな遅くまで起きてるの?」
「そう、体質かなー。弟が生まれたばっかのとき、ずっと夜泣きしてたから、よく寝れなくて。それからずっとこう」
 青唯ちゃんには歳の離れた弟がいる、というのはぼんやり聞いたことがあった。
「史佳ちゃんは? いつもは早く寝てるの?」
「うん。(あさ)(げい)()あるから。でも人がいると寝れないんだよね」
「ね、右手出して」
 青唯ちゃんが立ち止まった。私は首を(かし)げながら右手を差し出す。青唯ちゃんがその手をパシッと掴んで手のひらを上に向ける。青唯ちゃんの細い指が、私の指を小指から順につまんで折りたたむ。ガラスの工芸品でも触るかのような手つきだ。ああ、そういえば、この辺りはガラス工芸が盛んなんだったか。ママからガラスのなにかをお土産に頼まれていたことを思い出す。
 親指までたたむと、手のひらを上に向けて拳をつくる形になる。青唯ちゃんが、それを両手で包む。
なに、これ」
「おまじない」
「おまじない?」
「そう。よく眠れるおまじない」
 ふぅん、と言うと、青唯ちゃんがクスクスとおかしそうに笑った。
「さては信じてないなー?」
「どうだろう。でも青唯ちゃんがやってくれるなら本当に眠れるかも」
「ふふん。任せなさい」
 青唯ちゃんの手に触れるのは、今日これで何度目だろうか。眠れるどころか、私の心臓はまだ変に跳ねているのだけど、青唯ちゃんが得意げに言うものだから(うなず)いておく。
 青唯ちゃんは私の手をジッと見ている。重めの前髪から覗くその目が真剣そのもので、吸い込まれたように目が離せない。目を縁取るまつ毛まではっきりと見える。こんなに近くで、それも正面から青唯ちゃんを見る機会なんて、この先もうずっと来ないかもしれない。突然、青唯ちゃんの顔がパッと上げられた。視線が絡んだかと思えば、弧を描くようにゆるやかに目の下が上げられた。それと同時に、目の下にある豊かな涙袋がぷっくりと起き上がる。青唯ちゃんがそのままの表情で「見過ぎ」と言うので「ごめん」と顔を逸らす。
 右を見ると相変わらず湖が静かに居座っている。はじめは真っ黒く見えていたのに、ずっと見つめていると黒ではなくて群青色なのだと気づいた。海が青いのは、空を反射しているからなのだという。じゃあ、湖が群青なのは夜空が群青だからだろうか。上を向いても、空は灰色に曇っている。
 青唯ちゃんの手はたぶん、私のとほとんど同じ温かさをしている。そのことも、今日抜け出すまで知らなかった。握った手のひらに汗が(にじ)んだのは暑いからだ、たぶん。
 今度は見ていることに気づかれないように、そうっと青唯ちゃんの顔を盗み見る。ちょうどそのとき風が吹いて、青唯ちゃんの長い綺麗な髪が揺れた。
 数分間そうしたあと、青唯ちゃんが私の手を離して「終わり!」と言った。
「ありがとう」
「もう超ー熟睡できるから。青唯パワー」
「青唯パワーか」
 私が「んふふ」と笑うと青唯ちゃんは「信じてないなー!」と不服そうに言って、それからまた歩き出した。
「アイス食べたけど、やっぱ暑いねー」
 青唯ちゃんが首と髪の間に手を入れて払う。
 今、青唯ちゃんのその髪を見ているのは私だけだ。私だけが、青唯ちゃんの嫋やかな髪を網膜に映して、脳みそを焦がしている。やっぱり、私のこの目がカメラだったら良かったのに。だって、こんな瞬間、もう二度と訪れない。
「青唯ちゃん、髪綺麗だよね」
「ありがと。史佳ちゃんは最近切ったよね。似合うよ」
 ぽそ、と漏れ出た本音に、青唯ちゃんは(くっ)(たく)のない笑顔で返してくれた。
 修学旅行で髪を乾かすのが大変になる、というだけの理由で髪を切った。少しだけ伸ばしてみていたけれど、どうせ伸ばしたところで青唯ちゃんみたいに綺麗に伸びてはくれないし、特に未練もなかった。
 まだ右の手のひらには汗が滲んでいる。この湿度ではなかなか乾かないかもしれない。
青唯ちゃんも、短いの似合うんじゃない?」
 青唯ちゃんが両手で髪の束を持って、毛先を肩の後ろにやって見せた。そうして擬似的に作り上げたボブカットを私に向けて「どう?」と言うから「うん、かわいい」と言った。
 短いの似合うんじゃない、なんて、微塵も思っていなかった。だって、私は青唯ちゃんの長い綺麗な栗色の髪に憧れていた。だけど、こんなことを言ったのは、落胆に一番近い安堵に対する、勝手な()(しゅ)返しのつもりだった。
「えー? じゃあ、切ろっかな」
 それなのに、青唯ちゃんは嬉しそうに笑いながらそんなことを言う。私は「絶対似合うよ」と言いながら、どうせ切らないんだろうな、と思った。急に眠たくなってきた。さっきのおまじないが効いたのかもしれない。欠伸のために息を吸うと、水の匂いがした。

 結局、私と青唯ちゃんがホテルを抜け出したことはバレないまま修学旅行が終わった。東京に戻って、振替休日も終わって、日常が戻る。あれ以降、私と青唯ちゃんは特別仲が良くなった、なんてこともなく、全てが元通りになった。あれは夢だったんじゃないかとすら思う。
「青唯ー、マーシーが呼んでる」
「はーい! マーシーじゃなくて山下先生でしょ。昨日も怒られてたばっかじゃん」
 席を立った青唯ちゃんにそんなことを言われた三好は「へへ」と頬を掻いている。
 青唯ちゃんが目の前を通り過ぎる瞬間、私はまばたきをする。私の目がカメラだったら、きっと今のがベストショットだ。肩のあたりで輝く毛先の一本一本までちゃんと捉えたから。
 青唯ちゃんは、本当にバッサリと髪を切った。あの腰まであった綺麗な栗色の長い髪は、今や切りっぱなしボブになっている。
 修学旅行が終わって、本当に全てが元通りになった。私たちはただの受験生で、卒業までの日数をカウントしているだけ。だけど、元通りになった上でいろんなものがいろんなふうに変わっていっている。三好はいつのまにか「青唯」なんて呼ぶようになっていたし、絵未と里沙ちゃんは同じ塾に通い出したらしく、土日はいつも一緒に勉強している。
 あれは、夢だったのかもしれない。
 だけど、青唯ちゃんの肩の上でまっすぐに切り揃えられた髪を見るたびに、やっぱりあの夜は夢ではなかったのだと思うのだ。

【つづく】