第三話「雨音を喫んで、おやすみ」


 七月六日生まれなんだって言ったら、だいたい「惜しかったね」って言われる。あと一日遅かったら、七夕(たなばた)生まれだったのにって。小学生の頃に出たピアノコンクールは金賞でも次に進めなかったし、部活で始めたバドミントンも、この間は区でベスト8だった。
 そんなのばっかりだから、わたしって、全体的にちょっと惜しいんだと思う。
「えー、じゃあ惜しかったね」
 ()()がヨネックスのラケットケースにラケットをしまいながら、顔を目いっぱい(ゆが)めて言った。思わず、ピロティの柱にもたれていた背中が少しだけ浮く。
「そうかなぁ」
「惜しいって! だってあと三点あれば、(あお)()が学年一位だったんでしょ?」
「うーん、まあね」
 (あい)(まい)(うなず)いたついでにつま先を眺める。粗めのコンクリートでできた地面に、砂で薄汚れたスニーカーが乗っているのが見えるだけだ。NIKEのスニーカー、今週下ろしたばっかりなのに、もうこんなに黒くなっちゃって。柚子はまだなにか言っているけど、一旦靴の汚れに気がつくと、そこにしか目がいかなくなる。
 この前の日曜日、珍しくお父さんが出かけようって声をかけてきた。(たく)()が生まれてからのこの四ヶ月くらい、口を開けば「拓真が」「拓真は」ばっかりだったのに、「たまには二人で出かけよう。青唯が行きたいところに行こう」と言い出した。お父さんが()()さんと再婚してからは、二人で出かけることなんか全くなかったのに。香枝さんと拓真はお留守番だったから、とりあえず瀕死だったガットをゼビオで張り替えてもらって、ついでにこの新しいスニーカーを買ってもらった。「次はどこに行く?」と言いながら、香枝さんからの連絡を気にしているお父さんに気づいちゃったから、もう帰ろうと言った。
 そこからはいつも通りの、ただ部屋でミクチャとYouTubeを見るだけの日曜日だった。拓真の泣き声も聞きたくなくて、耳にイヤフォンを押し込んで、面白くもない動画を見続けた。
「青唯、聞いてんの?」
「あ、ごめん。聞いてない」
 パッと顔を上げると、さっきより近いところに柚子のタレ目があった。中学生になって、バドミントン部に入って、柚子とペアを組んだ。組んでからまだ半年も経っていないけど、結構いい相性だと思う。バドミントンにおいては、の話だけど。
 柚子はほんの一瞬だけ「ちょっと、聞いてよ」と暑さで赤らんだ頬を膨らませてみせたあと、すぐにいつもの顔に戻って「体育館前、戻ろう」と立ち上がる。
「え、なんで? まだ五時半だよ」
「ほら、夏休みも期末も終わったから。今日から完全下校時刻、早くなったでしょ」
「そうだっけ」
「帰りの会でマーシーが言ってたじゃん。話聞いてなさすぎでしょっと、ほら、早くしないと柚子まで先輩に怒られる」
 肩にタオルをかけた柚子が、シャツの(すそ)をハーフパンツに入れながら体育館の方へと向かう。一年生が「シャツ出し」してるのが先輩に見つかったら、外周がプラス二周される。
 おかしな話だけど、わたしは先輩に見つかっても「こら、青唯ー」って言われて終わる。何でだろう、とこぼしたら、柚子に「青唯はそういうキャラじゃん」と言われた。そういうキャラがどんなキャラなのかわからないけど、なんかちょっと得したような、でもちょっと残念なような気がしたから、それ以上は黙っておいた。
 無駄に長い髪を払ってから、わたしも体育館前へと続く駐車場に足を踏み出した。九月も中旬だというのに、外はジメジメ暑いし(せみ)はまだまだ元気よく鳴いている。こんなに明るくても、もう完全下校時刻は早まっちゃうみたいだ。近頃はPTAがうるさいのなんのってよく()(もん)()()ってるから、文句も言うに言えない。だけど、家に帰りたくなくて部活をしてるわたしとしては、もう少し長くてもいいんだけどなぁ、と思う。
「あーおーいー、早くー!」
「はぁーい」
 後ろから差す日の光が、ジリジリとわたしのふくらはぎを焼く。夏は嫌いだ。暑くて、息がしにくい。目の前に長く伸びた影は、(りん)(かく)が少しオレンジがかっているせいで、真ん中の方が青っぽく見える。もうすぐ夜が来るんだ、と頭の一番柔らかいところで思った。

 学校を出てから五分ちょっと、十字路で柚子と別れて十分ちょっと。大通りの交差点を通学路とは反対側に曲がると、住宅地の中に(たたず)む小さな公園に着く。滑り台と砂場、あとは()びた鉄棒くらいしかないような公園は、「なかよし公園」なんて名前をしておきながら、周囲をぐるっと木が覆っていて日陰になりやすい。人目が少なくて危ないから、ここは昔から日が傾き始める時間帯にはもう人が寄り付かなくなる。わたしも小さい頃は、お母さんから「なかよし公園は子どもだけで行っちゃダメ」と口酸っぱく言われていた。
 そんな薄暗い公園の、二つ並んだベンチの右側に、いつも通り黒いパーカーを着てフードを被ったお姉さんが座っている。車止めの横を通り抜けると、途端にタバコの匂いがした。
「お姉さーん!」
「げ、今日早くない?」
 お姉さんはわたしを見て顔を(ひそ)めて言った。それから、ポケットからピンクの金属でできた小さい(つぶ)れた筒のようなものを取り出して、手に持っていたタバコを押し込んだ。まだオレンジに燃えていたのに、なんの(ちゅう)(ちょ)もなくタバコ全体を突っ込んで、筒を閉めてポケットに戻す。前にそれ何、と聞いたら携帯灰皿だと教えてくれた。
 あからさまに嫌そうな顔をするお姉さんにはお構いなしに、お姉さんの横に腰掛けてスクールバッグとラケットケースを地面に下ろす。
「完全下校時刻、早くなったから」
「ふーん。じゃあ早く帰んなよ」
「ヤだ。ねえ、聞いてよ。テスト返ってきたんだけどね、学年二位だった」
「あ、すごいやん」
 お姉さんがフードを外して犬みたいに頭を振った。軽めのロングボブの金髪をした毛先が、黒地のパーカーにパラパラ当たる。
「また一位じゃなかったー。しかも三点差!」
「その割にあんま悔しそうじゃないね」
「別に悔しくないもん。わたしが一位取れるだけの勉強してなかったってことでしょ」
「そういうもん?」
 わたしにとってはそう、と答えたら、お姉さんは「じゃあいいやん」と言って立ち上がった。キラキラしたビジューのついた真っ白いサンダルを引きずって、自販機の前で伸びをする。パーカーの裾からデニムのショートパンツが見えた。
「大学もテストの順位、出るの?」
「出ない出ない。全員の点数、一気に貼り出す先生とかはいるけど」
「うわ、最悪じゃん」
 お姉さんはポケットから小さな財布を出して、ストーンがギッチリ敷き詰められた長い爪で、掴みづらそうに小銭をチャリチャリと摘み上げて自販機に投入する。
「お姉さん、テスト終わった?」
「おねーさんはもう夏休み」
 ピッ、ガコン、の音が二回繰り返されたあと、お姉さんがおつりのレバーを押した。ジャラジャラジャラジャラ音がする。いくら突っ込んだんだろう。
「九月なのに?」
「九月いっぱい休み。でも、人生最後の夏休みももう終わんだよねー」
 お姉さんは屈んで長い爪でおつりを小さい財布にしまってから、ようやく取り出し口を上げた。レモンスカッシュとファンタのメロンソーダを拾い上げてこっちに戻ってくる。
来年も学生したらいいんじゃない?」
「縁起でもないこと言わないでよ。あたし、ちゃんと今月卒業すんだから」
 どっちがいい? と、お姉さんが缶を二つ、わたしの目の前でぶらぶら揺らした。
「え、いいよ」
「いいから。テスト頑張ったんでしょ」
じゃあ、メロンソーダ!」
「ん」
「ありがとう」
 またわたしの隣にどかりと座ったお姉さんと、「乾杯」と軽く缶を合わせて開ける。ひんやり冷たい缶は、もう汗をかいている。指で(ぬぐ)ってからあおると、口の中でパチパチ弾けて、メロン香料の味がした。桃味の飴とか、スイカ味のアイスとか、そういうガツンと香料が出てくる感じのチープな味は結構好きだ。
 隣を盗み見ると、お姉さんは手の中で、黒に白いドット柄がプリントされた缶を、ゆらゆら揺らしていた。
 お姉さんと知り合ったのは、ホトケノザもピンクの花をつけているような、春の真っ最中だった。部活はまだ仮入部期間で、四時半には帰されてしまうから、やっぱり帰りたくなくて遠回りした。人もいないでしょ、と思ってなかよし公園に行くと、ベンチにタバコを吸っているお姉さんがいた。
 わたしがお姉さんについて知っていることは、お姉さんが大学生だということと、半年留年したけど、今月で大学を卒業するということ。この二つだけ。根元が伸びた金髪で、大人にしては背の低いお姉さんは、不健康なくらいに肌が白い。「外出てないから」と言っていた。それに、いつもお化粧はバッチリしているのに、髪の毛は()(ぐせ)が付いていたり、鳥の巣みたいにモシャモシャになっていたり、起きてそのままみたいな状態をしている。そのチグハグさがわたしには不思議に思えて、でもどこか安心した。
 ふいにお姉さんの視線がわたしに向けられて、バチッと目が合った。「あ、何」と片眉だけ吊り上げられたから、慌ててお姉さんのパーカーを指差して言葉を捻り出した。
「それ、暑くない?」
「暑い。けど、日に焼けるよかマシ」
 ふーん、と返事をして缶をあおる。その割に脚は惜しげもなく出されている。やっぱりチグハグだ。
 お姉さんがわたしの制服をじっと見て、「それ夏服?」と聞いた。
「そうだよー」
「へえー。可愛くていいね」
「これが?」
 白い半袖のブラウスに学年カラーの青い紐リボンを結んで、下は真っ黒のプリーツスカートだ。どこにでもあるような、普通の制服だと思う。一方で、隣の中学の制服は区内で一番と言われるくらい可愛い。学区の区切りからして、わたしの家があと五十メートル東にあったら、わたしもその制服を着ていた。だから、やっぱり「惜しかったね」と言われる。
「可愛い。てかあんた、制服のままじゃ補導されんじゃないの」
「平気平気。だって、まだ六時だよー? 小学生でもないし」
「似たようなもんでしょ。まだ帰んないならこれ着ときな」
 お姉さんがなんのためらいもなくパーカーを脱いで、わたしに投げかけた。お姉さんはパーカーの下に黒いタンクトップを着ている。剥き出しになった二の腕に、蝶のタトゥーが見えた。せっかく脱いでくれたから、素直に肩へ引っ掛けておく。
日焼け防止なんじゃないの」
「もう日ィ暮れた」
 お姉さんは片足だけサンダルを脱いで、素足をベンチに上げた。
 梅雨(つゆ)が明けてすぐの頃、半袖でタバコを吸っていたお姉さんの二の腕に、初めてタトゥーを見つけた。そのとき、たぶんわたしは結構驚いた顔をしちゃったんだと思う。それから、お姉さんは腕を出す服を着ていない。
 だから、意外と優しいお姉さんなのだ。見た目はちょっと派手で怖いけど。
「ねえ、お姉さん。今日こそ名前教えてよ」
「あー。あんたなんだっけ」
「青唯! 覚えてー!」
 お姉さんは考えるような素振りをして、レモンスカッシュに口を付けた。
「じゃあ、あたしもアオイ」
「何、『じゃあ』って。絶対嘘じゃん」
「これ、美味いな」
 お姉さんがわたしの主張なんか聞こえていないみたいに呟くから、むっとしてみせると、お姉さんがおかしそうにケタケタ笑った。
「あんたさー、さっさと家帰った方がいいんじゃないの? 日も短くなんだから」
「あっ話()らしたでしょ」
「帰り遅すぎるって思われてない?」
「んー、どうだろう。でも香枝さん見てると、わたしがいない方が、やりやすいんじゃないかなぁーって思うよ。気まずそうにするし」
 二年前、お父さんと再婚した香枝さんと、わたしはちゃんと仲良くしようと思えなかった。だって、わたしはたぶん邪魔になる。拓真が生まれてから、余計にそう感じることが増えた。三人家族プラスわたし、みたいな構図に思えちゃって、家に帰りたくない。香枝さんはわたしとどう接したらいいのかわかんないんだろうし、わたしも香枝さんとどう接したらいいのかわかんない。
 お姉さんがパチ、とまばたきをした。バサバサのつけまつ毛が、一緒になって上下する。それからため息をついて、呆れたように言った。
「そういう(まま)(はは)いるよねー。わかってて結婚したくせに、実子が生まれたら『連れ子とどう接したらいいかわかんなーい』とか言い出すの」
 そんなことないよ、とは嘘でも言わないでいてくれる。だから、お姉さんになら何でも話せた。
拓真ね、もうすぐ寝返り打ちそうなんだって。それで、お父さんも香枝さんも、絶対初めての寝返り見るんだーって張り切って」
「付きっきり?」
「そう」
「アホらし」
 お姉さんは大して興味もなさそうに吐き捨てた。わたしはそれが、思わず目いっぱい息を吸っちゃうくらいに嬉しい。お姉さんは、わたしがアホらしいと思ってした話を、ちゃんとアホらしいって受け取ってくれる。
 柚子にだって、こんな話はできない。家も近くないのに毎朝十字路で待ち合わせて登校する。学校でも四六時中一緒にいるし、部活だってペアだ。帰りも十字路まで二人で帰る。お互いもっと家が近い子だっているのに、柚子は「親友だから」と言って常に一緒にいたがった。それでもわたしは、柚子には家の話なんかできない。
 お姉さんが立ち上がって、わたしの肩から黒いパーカーを抜き取ると、モゾモゾと羽織り始めた。
「あっどこ行くの」
「仕事ー。(かせ)がにゃ」
 お姉さんが上を見るから、わたしもつられて見上げる。公園に設置された時計は、六時半を指していた。お姉さんはいつも、これくらいの時間になると「仕事」と言っていなくなる。何のお仕事をしているのかは知らないけど、こんな時間からお仕事するの、と聞いたら「店の中でも遅く出勤してる方だから」と言っていた。何となくだけど、繫華街のギラギラしたお店で働くお姉さんなんじゃないかと思っている。
「明日もいる?」
「あー、明日は同伴」
「ドーハンお仕事?」
「そう。だからいないよ。真っ直ぐ帰んな」
 お姉さんがレモンスカッシュの缶を片手にサンダルを引きずりながら、公園を出て薄暗くなった住宅街へと出ていく。わたしはその背中をぼーっと見つめたあと、ハッとして大きく息を吸った。
「あっ、お姉さーん! ジュース、ありがとー!」
 ブンブン手を振りながら叫ぶと、弾かれたように振り向いたお姉さんが笑いながら手を振り返した。振り向いた拍子に少しフラついて、でも足は止まらずに駅の方へと進んでいく。お姉さんが見えなくなるまでベンチの前で手を振ってから、わたしもようやく公園を出た。
 家の輪郭が見えるより前に、手前に止まった白いヴォクシーが見える。あ、お父さん帰ってきてる、と特に意味もなく空を仰いだ。
ただいまぁー」
 できるだけ小さな声で玄関のドアを開ける。鍵はかかっていなかった。たぶん、わたしがまだ帰ってきていなかったからだと思う。音を立てないようにドアを閉めて、二か所のロックとU字ロックまでちゃんとした。玄関に電気をつけないまま、そろりと靴を脱いで、白いNIKEのスニーカーをしまおうとシューズクローゼットに手をかける。
 頭の中で、お母さんの声がした。
 ここは青唯、ここはお父さんで、ここはお母さんの場所ね。みんな、ちゃんと自分の場所に靴しまってよね。
 この家に越してきてすぐ、だから、わたしが幼稚園児だった頃。ちょうど扉三枚分のシューズクローゼットがあったから、お母さんがそれぞれの扉にあおい、おとうさん、おかあさん、とひらがなで名前シールを貼った。あのシールは、もう跡形もなく綺麗に剥がされている。「あおい」のシールがあったはずの扉を開けると、香枝さんのパンプスと、まだ歩けもしない拓真の靴の箱が詰まっていた。
「青唯ちゃん、帰ったの?」
 リビングに続くドアが開いたと同時に、玄関の電気がパッとつけられる。慌ててシューズクローゼットの扉を閉めて、顔を出した香枝さんに「あっうん!」と笑いかける。
「ただいま」
「おかえりなさい。遅かったね」
「ちょっと友達と喋ってて」
 香枝さんがドアを大きく開けて待っているから、肩にスクールバッグとラケットケースを(かつ)ぎ直してリビングに入る。香枝さんの腕の中で指どころか手全体をしゃぶる拓真にも「ただいま」と声をかける。拓真は香枝さんによく似たまん丸い目で、笑うわけでもなく、ただわたしをじっと見ている。
「手洗っておいで。お風呂は今、パパが入ってるから、先にご飯でいい?」
「うん、ありがと」
 ダイニングテーブルの、わたしの場所にだけラップをかけられたトレイが置かれているのを見ると、お父さんと香枝さんはもう食べたみたいだ。拓真はお風呂上がりだから、お父さんと香枝さんの二人でご飯を食べた後に、お父さんが拓真をお風呂に入れて、香枝さんに受け渡した直後っぽい。わたしがいたら、せっかくの親子水入らずが台無しになるところだったから、真っ直ぐ帰らなくてよかった。
 洗面所で手を洗うついでに、二階にある自分の部屋に戻って荷物を置く。締め切っていたわたしの部屋は蒸したように暑い。夏は嫌いだ。お母さんがいなくなった季節だから。部屋のドアを閉めた途端、一階のリビングから拓真の泣き声が聞こえてきた。頭の中がぐわんぐわん揺れる。嫌だ。聞きたくないなぁ、と思っちゃうわたしも嫌だ。今日も、いつも通り眠れない夜が来ちゃったみたいだ。

「三者面談あったじゃん。夏休み前の。あれさ、パパとマーシーvsみたいになったんだよねー」
 里沙ちゃんが、右手に軍手をつけて、試験管を挟んだ木製の試験管ばさみをガスバーナーにかざしながら不満げに言った。試験管の中では、血みたいな色をした赤ワインがフツフツ沸いている。
 (さかき)(ばら)青唯と(すず)()里沙で出席番号が前後、ただそれだけの理由で、赤ワインの蒸留実験でペアになった。時々、こうしてグループとかペアとかが同じになることがあるから話す程度だけど、里沙ちゃんは誰に対してでもよく笑うし、よく喋る。
「面談、お父さんが来たんだ?」
「あ、里沙、ママいないんだよね」
 里沙ちゃんが、なんてことないようにしれっと言ったから、わたしの動きはピタリと止まる。
「これ、ちゃんとジョーリューできてんのかな」
 お団子頭の里沙ちゃんは、固まるわたしを特に気にもせず、安全メガネをしたまま試験管を覗き込んだ。
「こっちに透明な液体が溜まればいいんでしょー? 溜まってるかなぁ青唯?」
わたしも、お母さん、いない」
 黒い机に肘をついていた里沙ちゃんが背筋を伸ばす。
「あれ? 授業参観にママ来てなかった?」
「お父さんの再婚相手」
「じゃあ、お揃いじゃーん」
 里沙ちゃんが、試験管ばさみを持っていない方の手のひらをわたしに向けてきた。軍手と軍手でハイタッチする。ポフ、と厚みのある音がした。里沙ちゃんがわたしの指と指の間に自分の指を滑り込ませて手を握る。軍手でモコモコした状態で手を繋ぎながら、ゆらゆら揺らした。
「里沙のパパも彼女いるんだけどさー、なんかママとは違うよね」
「そう、そうなの!」
 お揃いって言葉がこんなにフワフワするものに思えたのはこれが初めてだった。柚子がいつも「お揃いで買おう」「双子コーデしよう」と言ってくるのに対しては、特に何も思わなかったんだけど。
 試験管の中の赤ワインに含まれるエタノールだけが蒸留し終わるまでの間、里沙ちゃんはやっぱりよく笑ったし、よく喋った。
 きりーつ、気をつけー、礼ー。
 日直の号令に合わせて、ありがとうございました、と言い終わる前に柚子が飛んできた。黙ってわたしの腕を強く引くから、ちょっと転びそうになりながら慌ててついていく。
「柚子! ちょっと、止まって、柚子!」
 階段の踊り場まで来て、柚子がやっと止まった。何が何だかわからない。教科書もノートもペンケースも、下敷きも、全部理科室に置いてきちゃった。
「柚子? どうしたの?」
「さっき、何話してたの?」
「え?」
「里沙と何話してたの」
 柚子は、わたしが他の子と話していると嫌そうにする。さっきの授業中、わたしが里沙ちゃんと楽しそうに話していたのが例に漏れず気に入らなかったみたいだ。
「えー? 何って色々?」
「柚子には言えないの?」
「言えないっていうか
 言えない、言えないよ。毎日ずっと一緒にいても言えない。
 休み時間の階段はそこそこ人通りも多い。赤いリボン、青いリボン、緑のリボン、全部の学年がひっきりなしに行ったり来たりしている。わたしたちの横をすり抜けていく人たちはみんな不思議そうな顔をして、自分の進行方向に進みながら首だけこっちを向いている。
 あ、あの子、全校集会でよく表彰されてる子だ。いつも空手の大会で優勝している女の子。他の子と同じようにわたしと柚子を見ながら階段を降りていった。
「聞いてんの?」
 柚子が掴んだままのわたしの腕をまた強く引いた。
「んー、だって、本当に色々話してたから」
「もういい」
 柚子はパッとわたしの手を離すと、ポニーテールを揺らして階段を登っていった。追いかけた方がいいんだろうけど、そんな気にはならない。
 踊り場の窓からグラウンドが見える。空は曇っていて、数分後にでも雨が降ってきそうだ。そういえば、朝に香枝さんが「傘、持って行ってね」と言っていた。
 雨の日はちょっと嫌いだ。だって、公園にお姉さんがいない。昨日はドーハンでいなかったけど、今日ならいると思ったのに。お姉さんは、晴れた日の夕方にだけあのベンチでタバコを吸っている。
「青唯ー?」
 気がついたら、隣に里沙ちゃんがいた。わたしの教科書とかペンケースとかを全部持ってきてくれたみたいだったから、「ごめん、ありがとう」と受け取る。
「柚子は?」
「わかんない。上行った」
「相変わらずだな」
 里沙ちゃんが小さく呟いた。そういえば、柚子と里沙ちゃんは、同じ小学校の出身だった。
 教室に戻っても、柚子の姿はなかった。結局、柚子は次の授業の開始チャイムが鳴ってる最中に戻ってきて、一度もわたしの方を見ないまま席についた。

 放課後になっても、柚子はわたしの方を見なかった。部活でも、今日は体育館が使えない日だし、外はザーザー雨が降っていたから、ペアで何かするということもなくて、筋トレと素振りだけで終わった。わたしが柚子の方を見る度に、機嫌が悪そうにポニーテールが揺れているのが見えるだけだった。
 ジメジメと湿った空気の中、パステルブルーの傘を無駄に回しながら一人で校門を出る。柚子は他の誰かと帰るらしい。十字路を通り抜けて、大通りに出る。いつもの癖で通学路とは逆に曲がっちゃったと気がついたのは、交差点を通り過ぎて五十メートルくらい歩いた後だった。今更引き返すのもなんだかなぁ、と思って、とりあえずなかよし公園に向かった。
「何でいるの?」
「あ?」
「だって、雨の日はいつもいないのに」
 お姉さんがいる。透明なビニール傘を差して、鉄棒にもたれながらタバコを吸っていた。お姉さんはわたしを視界に捉えると、傘の柄を体と腕の間に挟んでポケットから携帯灰皿を出し、吸っていたタバコを押し込んだ。
「仕事、バックレようかなーって思ってさぁ」
「え、いいの?」
「良くはないだろうね。ま、そういうとこはひるしょくよりかはゆるいけど」
 お姉さんは鉄棒にもたれたまま、片足だけサンダルを脱いで足首をぐねぐね回す。ヒルショクが何かはわからないけど、地面を見つめて薄っすら笑うお姉さんの目は濁っていた。
お仕事、嫌になっちゃったの?」
「ずーっと嫌だよ。嫌じゃなかったときなんかない」
 そうなんだ、としか言えなかった。だって、わたしはお姉さんが何の仕事をしているのか知らないし、知ったところで働いたこともない中学生が言えることなんかない。お姉さんの真似をしてわたしも鉄棒にもたれようとすると、「制服汚れるよ」と止められた。
「あんた見てると、中学生のあたし見てる気分になる」
 そう呟いたお姉さんの横顔は、花のない花瓶みたいにどこか寂しそうに見える。これ以上続けたら、ほとんど知らないお姉さんの、知っちゃいけないところを知ってしまいそうだったから、わたしは話を変えたくなった。
「ねえ、お姉さん。名前なに?」
「あんたも飽きないねー。んー、仕事のときはカレンって呼ばれてる」
「あだ名ってこと?」
「あー、そう。でもあたし、もうすぐカレンじゃなくなるんだ」
 そう言いながら、お姉さんが今日初めてわたしの顔を見た。それから、ちょっと驚いたように目を見開いて、顔をずいっと近づける。
「あんた、顔色悪いよ」
「あー、うん。ちょっと寝不足かも?」
「ミクチャだかYouTubeだか見てないでさっさと寝なさいよ」
 寝不足な上に、理科の授業後から色々考えて頭が疲れた。部活で筋トレもしたし、足元はグラグラする。それなのに、家に帰ったらほとんど眠れない。
「拓真が、何ていうんだっけ、夜ずっと泣いてて」
「夜泣き?」
「そうそれ。それで、眠れない」
 拓真が泣く度に、わたしはわたしのいる意味がわからなくなる。とか言うと、ちょっと大げさだけど。
「香枝さんがね、お父さんのことパパって呼ぶの。そんでお父さんは、香枝さんのことママって呼ぶの。わたしには、パパもママもいない」
 パパとお父さんは全くの別人に見える。だから、新しい「家族」の中にきっとわたしは入っていない。
「お母さんに会いたい
 香枝さんが、わたしの中の「お母さん」を着実に塗り替えていっているのが嫌だ。それを受け入れられないわたしも嫌だ。へにゃへにゃ笑う拓真のことが、これっぽっちも可愛いと思えないわたしが嫌だ。
 お父さんも嫌だ。長いことプリウスに乗っていたのに、拓真が生まれるってなった瞬間ヴォクシーに乗り換えたところとか、特に嫌だ。いつもはわたしのことなんか構いもしないくせに、気まぐれで連れ出して物を買い与えて、それで父親の役目を果たしたと思っているところも嫌だ。
 柚子だって、わたしが誰と何を話していたってわたしの自由なのに、親友だからって言って縛ろうとするのが嫌だ。ていうか、親友って何なの。そういう契約でもしたわけじゃない。
 ちょっとずつ「惜しかった」わたしが嫌だ。わたしはたぶん、全部がちょっとずつ惜しかった。いつまで経っても一番にはなれない。もう全部嫌だ。
「青唯」
 お姉さんがわたしの名前を呼んだのは、最初で最後だった。お姉さんはわたしの右手を取って、手のひらを上に向けた。
「何?」
「おまじない。今夜はよく眠れるように」
 小指から順番に指先を摘まれる。ストーンがたくさんついたお姉さんのネイルが、どこかの光を反射してキラキラしていた。親指まで摘んだ後、わたしの手を握らせながらお姉さんが言った。
「手のひらに月でも乗せたげる」
 わたしの握った手のひらを、お姉さんが両手で包む。お姉さんのビニール傘についた水滴が、星みたいに輝いて見える。その中央に来るお姉さんの金髪は、それこそ月みたいだ。
何それ」
「あんたの手の中に閉じ込めちゃったから。ほら、空に月ないやん」
 今日は雨が降っていて、分厚い雲が空を覆っている。だから、最初から月なんか出ていなかった。でも、お姉さんが言うなら、きっと月はわたしの手のひらが握っている。
「これ、お姉さんが考えたの?」
「そう。今テキトーに考えた」
 初めて触ったお姉さんの手は、少しだけ冷たくて、骨ばった見た目よりずっと柔らかかった。
「クジラってさ、胃が四つあんの」
 お姉さんが急にそんなことを言い出す。傘に当たる雨の音が、さっきより強くなったような気がした。
「クジラ?」
「そう。そんで、牛も胃が四つあるやん。草ばっか食べるから、消化できるように」
 小さい頃、お母さんに買ってもらった図鑑に書いてあった。牛は、一番目の胃に入れた食べ物を何度も口の中に戻して噛み砕いて、二番目の胃、三番目の胃に送る。時間をかけてゆっくり消化して、四番目の胃に行く。こういうのを、はんすうどうぶつというらしい。
「クジラって反芻動物なの?」
「ハンスウ? 何それ。それは知らんけど、牛の仲間。遠い昔に、牛とクジラに別れたけど、元はおんなじ。だから、生物学的にはクジラ偶蹄目っつっておんなじグループなんだって」
 さらに強くなった雨が、スニーカーに当たるのがわかる。雨に濡れて、白いスニーカーはきっとぐちゃぐちゃになっている。でも、今はそんなの全く気にならない。
「だからさ、見た目は違ってても、住んでいるところが遠くても、実は仲間ってたくさんいるもんなんだよ」
 最初に頭に浮かんだのは、軍手と安全メガネをつけた里沙ちゃんだった。わたしと里沙ちゃんは「お揃い」だった。でも今日それを知ったのはほとんど偶然の出来事で、だから、わたしが知らないだけで「お揃い」の人たちは結構いるんじゃないかなぁと思う。それって、すごく息がしやすい。
「そんで、そういう『クジラ』は、あんたのこと大事にしてくれる人は、勝手にあんたのそばに寄ってくるもんなんだよ」
 お姉さんが「おまじない、終わり」と言って、わたしの手をパッと離した。お姉さんの長い爪のついた手は、傘の取手に添えられる。
「仕事行くわ。もう出勤もあと二回だし」
「え、二回?」
「次の金曜、卒業式だから」
 お姉さんの、人工的な金髪を朝日の光の下で見てみたいと思う。きっと、その金が透けたように見える。ちょうど、昼間に見える月が白く透けて見えるみたいに、手を伸ばしたくなるほど綺麗に違いない。
 わたしはお父さんが言い訳みたいに買ってくれたスニーカーより、お姉さんが自販機で買ってくれたメロンソーダの方がずっと嬉しかった。
 お姉さんが月を乗せてくれた手のひらは、家に帰ってもずっと温かくて、その日は不思議とよく眠れた。

 気がついたら首がすわっていた拓真は、椅子に座らされてテレビに夢中になっている。いってきまーす、と声をかけると、拓真の写真を撮っていた香枝さんが「いってらっしゃい」と顔を上げて返した。
 お父さんはもうお仕事に行ったから、駐車場は空っぽだった。大通りに出てから、道沿いをずっと歩いていくと現れる十字路に、柚子の姿はない。
「里沙ー、おはよー!」
 昇降口にお団子頭を見つけて駆け寄ると、里沙は振り向いて「おはよう」と言って、それから「長袖シャツ暑くない?」と眉間に皺を寄せた。
「そうかなぁ。でも、もう来週から(あい)(ふく)期間だし」
「うわぁ、クリーニング取りに行かなきゃ」
 青いラインの入った上履きに履き替えて、三階の教室まで上がる。ドアを開けると、柚子が教卓の前で「だから柚子は悪くないんだってば!」と叫んでいるところだった。わたしの話をしていたらしい柚子は、音に反応したのかこっちを見るとツカツカとドアに寄ってきて、またわたしの腕をぐいっと引いた。その拍子に少しよろけたのを、隣にいた里沙が支えてくれた。
「なんで里沙と来たの」
「なんでって、十字路に柚子いなかったし、下で会ったから?」
「最近ずっと里沙といるじゃん」
「ずっとじゃないよ」
 柚子はあの赤ワインの蒸留実験以降、ずっと怒っているような素振りをする。周りからも「(けん)()したの?」なんて聞かれちゃうくらいにあからさまに、たぶん周りも気まずくさせながら、わたしが謝るのを待っている。
 でも、わたしが謝らなきゃいけない理由ってどこにあるんだろう。
「青唯! 聞いてんの?」
 里沙がボソッと「めんどくさ」と言った。それが柚子にも聞こえたみたいで、わたしの腕を掴む手に、さらに力がこもった。この前のおまじないをしてくれたお姉さんの優しい手とはずいぶん違う。
「だって、青唯のペアは柚子でしょ!」
 ペアか。それが理由になるなら、そんなの別に要らないなぁ。その考えは、わたしの真ん中にストンと降りた。
「じゃあ、ペア解消する?」
「なっもういい!」
 もういいって言われたの、二回目なんだけど。でもなんとなく、三回目はないような気がする。
 ポニーテールを揺らして廊下を走っていく柚子の後ろ姿を見ながら、「試合では結構いいペアだったけどなぁ」とぼんやり思った。でも、バドミントン以外ではそんなに相性も良くなかったんだと思う。
 里沙が自分の額に手を当てながら、「うわぁ」と言った。
「いいの? アレ放っておいて」
「うーん、クジラじゃなかったってことでしょ」
「えっ、クジラって言った? なんだそれ」
 教室に入って席に着く。室内は空気がこもって暑いから、スクールバッグから下敷きを出して仰いだ。
「やっぱり、長袖暑いんじゃん」
 同じく下敷きで仰ぎ出した里沙が、わたしのブラウスを指差して言った。
「半袖でも一緒でしょー」
「まあねー。暑くない? もう九月終わるっつの。里沙、冬生まれだから冬が好き」
 里沙の誕生日は一月一日。お正月だから、入学してすぐの頃に聞いたのをはっきりと覚えている。
「夏生まれだけど、わたしも夏嫌い。暑いし」
「青唯、夏なんだ。誕生日いつ?」
「七月六日」
「七夕の前日だ」
 惜しかったね。
 今まで何度も言われてきたから、この後続く言葉はだいたい知っている。
「惜しいでしょ」
「惜しくないよ。平等にある三百六十五日のうちの一日じゃん?」
 里沙は伸びをしながら言った。
 柚子とのペアは解消したし、相変わらず香枝さんとはどう接したらいいのかわからない。お父さんは口を開けば拓真拓真ばっかりだし、拓真は昨夜も夜泣きがひどかった。それに、まだお母さんに会いたいと思う。
 なにも解決していない。それでも、何とかなるような気がした。惜しくないよ、と一度言ってもらえるだけで、こんなにも頭の柔らかい部分が広がるのだと、たった今知ったから。
「んあ? 何?」
「なんでもなーい!」
 七月六日生まれなんだって言ったら、だいたい「惜しかったね」って言われる。
 そんなのばっかりだけど、わたしは別に惜しくない。

 すっかり薄暗くなった、なかよし公園のベンチに座ってタバコを吸うお姉さんは、わたしを見て「よっ」と手を挙げた。
「驚いた?」
びっくりした!」
 お姉さんの髪が黒くなっている。目を丸くしたわたしを見て、お姉さんは満足そうに笑いながら携帯灰皿にタバコを押し込んだ。いつもと同じ黒いパーカーも、全く違う服に見える。
「さすがに金髪の新入社員はヤベェかなって思ってさー」
「まあ、たしかに。ヤベーと思うけど」
 お姉さんは来月から、どこかの会社に就職するらしい。「今やってるお仕事は?」と聞いたら「上がる」と言われたから、たぶん辞めるということなんだと思う。
「似合う?」
「うん。ていうか、今日はメイクしてないの?」
 いつもはバサバサのつけまつ毛に大きくて茶色いカラコンをして、黒いアイラインを太く垂れさせていたけど、今はそのどれもない。メイクをしていないお姉さんは、見慣れた顔よりずっと優しい顔をしていた。
「明日卒業式だし。さすがに出勤しないかんね」
 じゃあ、お姉さんはわたしに会うためにわざわざここに来たんだ。
お姉さん、やっぱり名前教えてよ」
 お姉さんは「もういいやん」と顔を顰めて、一つ大きく呼吸をした。
文乃」
「アヤノ?」
「嘘だよ、バカ」
 嘘だなんて言うけど、アヤノと口にしたとき、今までにないくらいにしっくり来た。
 名前なんかどうでもいい。ただの記号だから。でもわたしは、一度でいいからお姉さんの名前を呼んでみたかった。口の中で、声には出さずにアヤノ、と反芻する。
「ねえ、おまじないして!」
 お姉さんは「おまじない」と呟いて、それからようやく合点がいったみたいに「あぁ」と頷いた。
「効いた?」
「まあまあ」
「マジか。会社員嫌んなったら、おまじないビジネス始めようかな」
 お姉さんがわたしの右手を取って、また手のひらを上に向けさせる。
 風が吹いた。秋の風だ。お姉さんの髪は、もう月のような金じゃない。わたしの制服だって長袖になった。日が暮れるのもずいぶん早くなってきたし、なにより肌に張り付く空気がどんどん冷たくなっていく。夏が、崩れるように、ゆっくりゆっくり終わっていく。
「卒業したら、もう会えない?」
たまにはここ来るよ」
 お姉さんは口の端をゆっくり上げながら言った。でも、たぶん来ないと思う。これが最後なんだって、何となくわかったから。
 もうすぐ夏が終わる。夏が終わったら、お姉さんに会えなくなる。大嫌いなはずの夏なのに、終わってほしくない。
 空には、爪で引っ掻いたような三日月が浮かんでいた。

【おわり】