第一話「火花を掬って、おやすみ」

寝転がったまま手のひらを重力に逆らって伸ばしてみても、天井にぶら下がったまん丸い蛍光灯にすら届かない。空気を掴んだだけの腕からふっと力を抜いたら、ドサッと鈍い音を立てて畳に着地する。
い草の匂いには鼻が慣れた。仏壇の線香の匂いにはまだ慣れない。空港と畑と海しかないような田舎では、畳に横たわって縁側から吹き込む熱風を恨みがましく眺めることしかできない。
意味もなく色紙を手に取るのは、今日これで五回目。中央に「晃生、今までありがとう」と太字で書かれているのを、指でなぞる。みんな揃いも揃って「また遊ぼう」とか「帰ってきたら連絡しろよ」とか書いて、それしか言葉を知らないみたいだ。どうせそのうち僕のことなんか忘れて、連絡すら寄越さなくなるくせに。こんなこと思うだけ無駄か。だって、多分もう会うことはない。
両親が離婚する。
予感はそこかしこに転がっていた。それも、結構前から。だから、聞かされたときも「いよいよか」という感想しか出てこなかった。二人とも隠していたつもりだったみたいだけど。
母ちゃんはこれを機に他県に転職する。助産師だからか、転職活動は結構あっさり終わったらしい。九月になったら、僕は縁もゆかりもないようなところに引っ越す。中学二年生の二学期という中途半端な時期の転校になるけれど、少し抜けている母ちゃんに、ついていかないという選択肢はなかった。
引っ越しの準備だとか、色んな手続きだとかで僕は一時的に邪魔になるらしく、夏休みの間はじいちゃん家に預けられることになった。それは別にいい。普段から長期休みはじいちゃん家に行くから。でも、じいちゃん家はすることがなさすぎるのだ。地元から県庁所在市を経由して、電車に一時間半揺られるだけで、こうも風景が変わるらしい。なんなら、時代すら違うみたいだ。だって、庭に名古屋コーチンがいる。春から令和になったというのに、一般家庭の庭先でニワトリの鳴き声がするのだ。
転校生の特権とでもいうべきか、宿題はない。かといって自主的に学習しようなどという意欲は全く起こらない。本も重たいから持ってきていない。暑いから外に出たくないし、出たとて冗談みたいに駐車場が広いスーパーくらいしか行くところがない。せめて眠れたらよかったのに、目を閉じると不安に押し潰されそうになって、ろくに寝れやしない。となると、毎日畳と戯れるしかないのだ。そうして、日々を浪費しながら微塵も来てほしくない九月が来るのを待つしかない。今の僕は「ない」ばかりだ。
突然、襖が「スパーン!」と開けられた。下手したら襖が外れそうな勢いだ。こんなことする人間には一人しか心当たりがない、というか何人もいてたまるか。寝転んだまま視線をそちらにやると、向こう側には案の定、いとこの史佳ちゃんが立っている。盆だし、そろそろ来るような気はしていた。
「あ、コウこんなところにいた」
「…………出たな、都民」
「出たなとはなにさ、愛知県民」
「来月には神奈川県民だけどね」
「そうだった。なにしてんの? ここ暑くない?」
史佳ちゃんは和室の中心で大の字に寝転ぶ僕をさも当然かのように飛び越えて、仏壇の前に座る。手を合わせに来たらしい。じいちゃん家に着いたらまず仏壇に手を合わせる。小さい頃から言われ続けた習慣は、中二と高二になっても、まだ僕らに染み付いている。大した意味も信仰心もない。
「何……何だろう。感傷に浸っている?」
「なんだそれ。中二病かよ」
「中二だよ」
「そうだっけ。てか聞いてよ。間違えてミュースカイ乗っちゃった」
聞いておいてさほど興味はないみたいだ。それに文句を付けようとも思わない。どうしてか、僕は昔から、この三つ上のいとこに逆らうことができないのだ。
「ねえ、あんた一人? 亜矢子ちゃんは?」
「仕事・引っ越し・離婚準備」
「あぁ。あんた邪魔なのか」
「ご名答」
史佳ちゃんは暑いのか、Tシャツの襟元をパタパタして扇いでいる。そうしたって起こせる風なんてたかが知れている。
「お土産でプレスバターサンド買ってきたけど。食べない?」
「今プレスバターサンドって名駅の高島屋に期間限定店舗あるんよな」
「マジ?」
「マジ。ちなみに来月には常設店できる」
「うわぁ。東京ばな奈にするんだったな」
リビングの方からばあちゃんが「フミちゃーん」と呼ぶ声がした。史佳ちゃんは「はぁい」と返事をしてさっさと立ち上がると「エアコンくらい付けな。死ぬよ」と言って出て行った。
途端に両手で掴んでいた色紙なんかどうでも良くなって、畳の上に放り投げる。
史佳ちゃんが来たなら、今日からしばらくは家が賑やかだ。毎年毎年、嵐みたいにやってきて嵐みたいに帰っていく。滞在時間とか諸々考えると、嵐というより、むしろ台風か。
「コウー! ちょっと来なー! お菓子ドラフトするよー!」
「…………そんなに叫ばんでも、聞こえとるってば」
よく通る高い声で呼ばれては、畳に別れを告げるしかない。
そんな台風だけど、今年に関して言えば、来てくれてちょっとだけ助かった。だって、その方が気が紛れるから。
バスタオルを洗濯機に放り込んで、洗面所から廊下に出る。一歩踏み出した途端に人感センサー付きのライトが足元でパッと光った。壁の両側に等間隔で設置されたそれらは、僕が歩くたびに点くから、足元が煌々と照らされる。あれは小学生の頃だったか、じいちゃんに「廊下が暗くて怖い」と泣きついたことがあった。古い日本家屋だ。そりゃ廊下も軋むし暗いだろう。その翌日にはじいちゃんがライトを買ってきてくれて、それがまだ現役ではたらいている。LEDってこんなに寿命長いっけ、と頭の中で理科の教科書を思い浮かべた。若干の居た堪れなさはある。
その足で水でも飲もうとキッチンに向かうと、先客がいた。史佳ちゃんがシンクの前で丸椅子に座って、黒い棒状の何かが入った袋を抱えて齧っている。
「…………何それ」
「ん? 黒糖。食べる?」
「要らん」
砂糖の塊を齧っているらしい。夏の風呂上がりに齧るにはなかなか重そうだ。おおかた、じいちゃんかばあちゃんに「食べやぁ」と渡されたのだろう。黒糖を渡してきそうなのは、ばあちゃんの方か。
「コウ、髪の毛くらい乾かしなよ」
「放っときゃ乾くでしょ」
食器カゴからグラスを一つ拾い上げると、史佳ちゃんが椅子ごと少し横にずれた。その隙間から浄水器と繋がった蛇口を捻る。
「自然乾燥したらどうなるか知らないの?」
「はぁ、どうなるん?」
「将来ハゲるよ」
「うち、全然ハゲの家系じゃないじゃん」
和室に並んだ遺影の数々を思い浮かべる。全員フサフサだ。
「馬鹿ね。毛根の強さが遺伝子だけで決まるとでも思ってるわけ?」
「遺伝するもんだと思うんだけど。違うと言いたいんですかね」
「何事も日頃の行いが大事ってことよ」
「……そんなん言うなら、史佳ちゃんこそ太るよ。こんな時間に砂糖の塊なんか齧って」
「なんか言った?」
「いいえ、何にも」
まだ命は惜しい。黙って水をあおる。
史佳ちゃんが、鎖骨あたりまで伸びた髪の毛を指に巻き付けながら「あんたさぁ」と言った。
「こっち来てから一歩も外出ないで、ずーっと和室にこもってんだって?」
「まあ、普通に。することないし行くとこないから」
「ふーん。たしかに行くとこないけど。不貞腐れてんのかと思ってた」
「不貞腐れる要素ある?」
「もうすぐ転校なのに地元にいられなかったから」
「……別に。豊田におってもすることないよ」
「そう、ならいいけど」
今の僕は、どのコミュニティにも属せていないような気がする。地元にいても、転校先にいても、どちらにせよアウトサイダーだ。それならここにいる方がいい。そんなことを考えながらグラスの縁をいじっていると、史佳ちゃんが僕の顔を覗き込んでいるのに気がついた。ほとんどまばたきもせずジッと見つめられては、スルーするというわけにもいかない。
「…………何?」
「コウ、あんた、眠れてないの?」
動揺で一瞬、呼吸が乱れた。どうして気づかれたのだろう。あぁ、そういえば目の下にはうっすら隈がある。でも、元の顔色が悪いから目立たないはずなのだけど。
図星だということを悟られないように、慌てて平静を装う。おかげで声が少し揺れた。
「気のせいじゃん?」
「めっちゃ眠れるおまじない、してあげようか」
「何それ。別にいい」
「可愛くなーい。いつからこんなんになっちゃったわけ?」
史佳ちゃんが手を洗う。黒糖齧りは満足したらしい。
「逆に聞くけど、僕が可愛い時代あった?」
「まあ、ないよね。ずっとこんなんだし」
だろうな。グラスを軽く洗って食器カゴに戻す。彼女は変なところが鋭いから、諸々勘付かれないうちに撤退するのが得策だろう。「じゃあ、おやすみ」と言おうとしたのに、史佳ちゃんが「あ、ねえ」とまた話しかけてきた。
「昼間、納屋でいいもの見つけたんだけど」
「いいもの?」
嫌な予感がする。史佳ちゃんがカウンターからビニール袋を手繰り寄せて、わざとらしく中身を取り出して掲げた。
「じゃーん! 見てよこれ」
「…………花火」
「そう! めっちゃ懐かしくない?」
出て来たのは手持ち花火だった。それも、かなりの数だ。数十本、下手したら百本近くあるだろう。
昔、それこそ僕が小学生だった頃。夏にここの庭で花火をしたことがあった。あの頃はまだ、父ちゃんと母ちゃんも仲が悪くなかったので、三人でここにやって来ていた。史佳ちゃん一家も来ていたから、じいちゃんとばあちゃんを入れてかなりの人数だった。
たしか火を怖がる僕の代わりに、父ちゃんが花火に火をつけてくれた。色が変わる花火だった。それだけなぜかはっきりと覚えている。
あのときの残りだ。
「……あぁ、うん。懐かしいね」
「でしょー。もう見つけた瞬間に『これだ!』って思ったもんね」
「…………それ、どうする気」
「晃生くん」
史佳ちゃんが僕をそう呼ぶとき、だいたい碌でもないことを考えている。だいたいというか、ほぼ百パーセントというか。
「はい」
「今から海行くよ」
「はぁ?」
史佳ちゃんの主張はこうだ。こんな時間に庭で花火なんかしたら、じいちゃんばあちゃんに近所迷惑だと叱られる。そういえばここから海は近い。調べたら、花火をやっていい場所があるらしい。行くしかない。
「行かんよ」
「なんで」
「風呂入った」
「私も入った」
「史佳ちゃんは知らないかもしれないけど、普通の人間は風呂入ったら寝るんだよ」
叱られるとわかっていることをどうしてわざわざするのか。まあ、この人ならするだろうな。
「こんなか弱い女の子一人で海に行かせるつもり?」
別にか弱くはないと思う。見た目は可愛らしい女の子だけど、空手は黒帯だ。高校に入ってからは、更なる強さを求めてテコンドーに転向したとかなんとか。これ以上強くなってどうする気なんだ。つまり、軟弱な僕が五人くらいいたって太刀打ちできないくらいには強い。いつも、互いに手が出る前に僕が折れるから、今のところ挑んだことはない。それでも「か弱くないよ」と言ったらどうなるか、なんて想像するだけで恐ろしいので首を傾げておく。せめてもの反抗だ。
そんな僕の反抗に、史佳ちゃんは顎を上げて目を細めた。
「なんとか言いなさいよ」
「行きます」
僕の小さな反抗は、大きな力に屈した。
長いものには巻かれろ。寄らば大樹の陰。大昔の人たちの知恵だか教訓だか、そんな言葉がある。それなら、台風には巻き込まれるしかない。
リビングでテレビを観ていたばあちゃんに「コンビニ行ってくる」と声をかけて、二人で外に出る。史佳ちゃんは「正攻法」と宣っていたが、虚偽の申告が正攻法かどうかは要審議だろう。じいちゃんが「車出そうか」と言ってくれたけれど、散歩だから大丈夫だとやんわり断った。このときが一番ヒヤヒヤした。
仏壇から拝借したライターとロウソク、それから外の水道近くにあったバケツを抱えて、これまた納屋から発掘した錆びた自転車に跨る。と言っても僕がサドルで史佳ちゃんが後ろの荷台だ。「二人乗りなんて」と考えるオツムが残っていたらそもそもこんなことしない。
「で? どこの海行くん」
「大野の海水浴場」
「え、あそこって花火いいの?」
「調べた感じ、二十一時までなら」
あと一時間と少ししかない。
ペダルを思いっきり踏み込んだ。錆びた上に二人分の体重が乗っかって重すぎる。田舎らしく雲一つない空に星まで瞬いている。全部が嘘みたいだ。夜に抜け出しているのも、史佳ちゃんを後ろに乗せているのも、もうすぐ引っ越すことでさえも。嘘であってほしいという願望なのかもしれない。
でも、ペダルがあまりに重いから、踏み込むたびにこれが現実なのだと思い知らされる。それがいいのか悪いのか、そんなことすら判断できないくらいには、僕はどうにかなってしまったらしい。
「ねーえー、歩いた方が早くない?」
「む、無茶、言うなよ……っ! 坂道、なんだけど!」
「いやだって、ここ坂道っつったって五度くらいの傾斜よ?」
「そんなんっ……! 言うなら、か、代わってよ…………!」
「わかった、降りて。あんたはバケツ持ってな」
ちょっとした坂道で息切れしまくって、ペダル係をクビになるという想定外の出来事が発生したものの、十分ちょっとで海にたどり着いた。空手とテコンドーで鍛え上げられた史佳ちゃんのヒラメ筋とハムストリングスが大活躍だった。
海は暗くて黒くて、よく見ないと水面すらわからない。ゆらゆら揺れて、大きなゼリー状の個体みたいだ。
空港が近いから、等間隔で離陸する飛行機が見える。至る所が光っているのは、夜空の中で自分の居場所を主張するためだ。陸では鴻大に見えても、空では主張しなければならないほどちっぽけな存在らしい。たまに僕らの真上を通過するものもあるから、その度につい見上げてしまう。
「だれもいなーい」
「盆だからじゃん?」
「あ、水の近くダメなんだっけ」
「とか言うよね」
僕らも口酸っぱく言われていた。ばあちゃん曰く、盆は水から死人の手が出てきて、引き摺り込まれて溺れるから海や川に行くな、らしい。立派な迷信だ。そんなこと言われたら死人だって不本意だろう。
「こわー。私が引き摺り込まれたらコウ助けてね」
「迷信……」
「そんなん言うなら水汲んできて。あ、コウが溺れても助けてあげないから」
「はいはい」
波打ち際に近寄ってバケツに水を汲む。浅いせいで砂ばかり汲めてしまって、水がなかなか入らない。顔を突っ込む勢いでバケツの中身を確認する。三センチほどしか汲めていないが、花火の残り火が消えればそれでいいか。
「コウー! そんな沖に行っちゃダメだよー! 危ないからー!」
「波打ち際なんですけど」
「ねぇ、早くして」
「情緒どうなっとるん」
足首まで海水に浸かった。ゴムサンダルで良かった。足とサンダルの間でキュ、キュ、と音を立てながら史佳ちゃんの元に戻る。史佳ちゃんは、しゃがみ込んでロウソクを砂浜に立てているところだった。隣にしゃがむ。
僕らの丸まった背を、飛行機が追い越していく。あれは、どこに行くのだろう。
「よし、立った。上手いわ」
「ハイハイ、上手い上手い。火、付けよう」
「コウ、火怖いんじゃないの。やったげようか」
「……もうさすがに平気」
いくつだと思っているのだろうか。ポケットに突っ込んでいたライターを取り出して、風で消えないように手で覆いながら火をつける。暖かい色の光と熱が手のひらに当たる。ずっとこうしていたら手が溶けそうだ。
「こわーいって泣いてたのに」
「……そうだっけ」
「そうだよ。火も、暗いのも、ぜーんぶ怖いって。廊下だって、コウが泣いたからじいちゃんが」
「あぁ、ライトね」
史佳ちゃんが頷いた。ライターの火が湿った風で消される。中のガスが少なかったみたいだ。
「夜中に『フミちゃんトイレついてきてぇ』って言うからついてったのに、私がいても泣くんだから」
そうだった。廊下が暗くて怖いとじいちゃんに泣きついたとき、史佳ちゃんがいた。その年は、父ちゃんと母ちゃんはここに来ていなくて、隣の布団に史佳ちゃんが寝ていた。だから、わざわざ起こしてまで史佳ちゃんについてきてもらったのだ。
暗い廊下を歩いている最中、ふざけた史佳ちゃんが「オバケいる」と言い出して僕は泣いた。大泣きだった。
「コウにも可愛い時代、あったわ。思い出した」
「……あれって、よく考えたら史佳ちゃんが泣かせたよね」
「さあ? ……お、ついた」
仏壇用の真っ白いロウソクに、オレンジの火が小さくついた。
史佳ちゃんがビニール袋から手持ち花火たちを取り出す。さらに種類ごとにポリ袋に入れられていて、それすらも一つずつ剥がしてしまう。
「湿気っとらんかな」
「みんなでやったの何年前だっけ」
「あれはたしか二〇一二年だから……。多分、七年前」
「七年かぁ。まあ、こんだけあるし。一本くらいは火つくでしょ」
空になったポリ袋を下敷きにして花火を並べる。暗いから種類ももうぐちゃぐちゃだ。気にするような人間はここにいないので特に問題はない。
立ち上がって適当に一本拾う。
「それなーにー」
「わからん。緑のやつ」
「じゃあ私はオレンジのにしよ」
ロウソクを挟んで向かい合ったまま史佳ちゃんが花火に火をつけようとするから、慌てて横に並ぶ。そのまま火がついたら双方大惨事だ。夏の寝巻きは丈が短い。史佳ちゃんが「あ、ごめんごめん」なんて言いながら僕を見上げて、それからバッと僕の足元を覗き込む。
「え、コウ、今身長いくつあんの」
「百六十……二か三か四。春測ったからもうちょい伸びとる気がする」
「うわ、私よりデカい。成長期だ」
「史佳ちゃん元からチビじゃん」
「はっ倒すよ」
小さな火を花火の先っぽにかざす。シュワ、と音がしたと思ったら鮮烈な光がついた。史佳ちゃんのにも数秒遅れて火がついた。割と出る煙をかき消すほどに眩い光だった。
花火は、炎色反応で色がついているらしい。緑の光はバリウムだ。オレンジはカルシウム。昔は魔法みたいだと思っていたのに、今は冷静にその光を眺めている。
「ついたー!」
「花火って一年でダメになると思っとった」
「意外といけるんだね」
史佳ちゃんははしゃいで花火で丸を描いている。史佳ちゃんの、くしゃりと鼻に皺を寄せて笑う顔がカラフルな光に照らされて、セロファン越しに見ているみたいだ。燃え終わった花火をバケツに入れるとジュウ、と小さく鳴き声を上げる。控えめなのに、波の音にはかき消されない。
「あ、これつかないや」
「やっぱ湿気ってるのもあるか」
「ねー。……こっちついた! なにこれ、パチパチしてる!」
飛び散る火花が稲妻みたいな花火だった。線香花火の火花に似ている。中心は黄色く光っているから全然違うけど、先ほどのものより持ち手が細い。種類がぐちゃぐちゃに配置されているおかげで、火をつけるまでどんな花火なのかわからないのが逆に楽しい。
「それなに? 綺麗」
「わからん。……あ、色変わるやつかも」
「いいな! 探そ」
半分くらいは湿気って火がつかなかった。
それでも、山ほどある花火を二人で全部消費するには、結構サクサクいかないといけない。だって、ばあちゃんたちに「コンビニ行ってくる」と抜かして家を出てきたのだ。田舎といえども、徒歩二十分のところにコンビニはある。つまり、どんなに遅くとも一時間くらいで帰らないとバレる。あとは、ルール的にも二十一時までに終わらせなければならない。
そんなわけで、早々に両手持ちに切り替えた。
「コウ、火ぃちょうだい」
「ん」
史佳ちゃんがなぜか、ロウソクじゃなくて僕の燃えている最中の花火から火をもらい始めた。もはや屈むのが面倒くさいのだろう。
ゆるっと会話はしているけれど、どうにも静かに思えて仕方なかった。花火って二人でするもんでもない気がする。前回が大人数で賑やかだったから、余計にそう思えるのかもしれない。
あぁ、そうか。僕は今、あのときの、父ちゃんと母ちゃんが離婚するなんて考えられなかった頃の残りを史佳ちゃんと二人で消費している。
あの頃の面影を、たった二人でなぞっているのだ。
そう思って、両手に持った花火を見る。右のはススキみたいに長い光を放って、左のは赤く弾けるように光っている。明るい、眩しい、綺麗だ。この光が終わっても、僕はしばらく残像を見続ける。もう終わってしまった光を抱えたまま、その明るさを忘れられずにまばたきを重ねる。このたくさんの花火たちがなくなってほしくない、と思った。もしかしたら、そう思ったのは昔の僕かもしれなかった。
遠くの方で、離陸した飛行機が空に向かって上昇していくのをぼんやりと眺めた。
別にそうでなければならないと決まっているわけじゃないのに、線香花火を最後に残すのは全国共通なのだろうか。短くなったロウソクに近づけて焼くように玉を作る。そこを中心に、パチパチと稲妻みたいな火花が弾ける。波が寄せて返す音がさっきより低く感じた。しゃがんだまま二人で横に並んで、山ほどある線香花火を次々に燃やしていく。これだけあるのだから、きっと前回は線香花火をせずに終わったのだろう。覚えていない。
「ねー、コウ」
「ん?」
横を見た拍子に、火の玉が落ちた。長い間燃やし続けるのは案外難しい。新しいものに手を伸ばすと、ちょうど史佳ちゃんの線香花火も落ちたので、一本手渡す。
「ありがと。コウが神奈川来たらさ、家、近くなるね。電車で三十分くらいじゃない?」
「まあ。でも、会う頻度はそんなに変わらん気がする」
「お盆とー……。あとは、お正月のスキーくらいか」
「うん、年二回」
「スキーもさぁ、たまには長野とか行ってもいいよね。コウも一人で電車乗れるし、私も来年には免許取れるし」
火がつかない。湿気っているみたいだ。燃やしてもいないけれど、水が入ったバケツの中に突っ込んでおく。また惰性で新しいのを引き寄せて、今度こそ火をつける。
「長野ってスキー場あるの?」
「あるある。修学旅行で長野行ったんだ」
「あ、長野だったん」
「中学はねー。まあ、夏だからスキーしなかったんだけど」
ふぅん、と言いながらぼんやりと生まれたばかりの火花を眺める。
来年あるはずの修学旅行は、名古屋の学校だったら京都に行く予定だった。向こうはどこに行くかすら知らない。というか友達ができるかどうかでさえ、まだ不確定なことだというのに、修学旅行の行き先なんて気にしていられない。今から憂鬱だ。マイナスな想像しかできない。京都だった場合、自由時間は一人で鴨川の河川敷に等間隔に並ぶカップルを見つめることになりそうだ。長野だったらなんだろう、一人で諏訪湖でも眺めているのだろうか。なぜどちらも水辺なのだろうか。今、水辺にいるからか。
そんなおかしな想像をしていたせいで、頭にふと浮かんだことがポロッと口から溢れ出た。
「僕、来月から田中晃生だって」
言ったあとに「しまった」と思っても、もう遅い。史佳ちゃんを困らせる前に何か挽回できるような言葉を吐かないと。
「いいんじゃない? 田中って画数少ないし。名前書くとき楽そう」
僕の焦りなんか知る由もない史佳ちゃんは、あっけらかんと言って見せた。少しだけ拍子抜けする。嘘だ、結構拍子抜けした。その証拠に、さっき火をつけたばかりの線香花火はポトリと落ちてしまった。
「そういう問題?」
「違う?」
「……違ってはない、と思う」
「でしょ。ねぇ、これは受け売りだけどさ、名前って、識別のためのただの記号なんだって」
「ただの、記号……」
「そう。だから名字なんかどうでもいいよ。記号が変わるだけ」
淡い光で史佳ちゃんの顔が照らされている。鼻筋からなだらかな頬が辛うじて見える程度の光だ。静かだ。僕も史佳ちゃんも黙っているわけではないけど、やっぱりそう思った。いつもは台風みたいだから、余計にその静かさが際立つのかもしれない。
「…………僕は、かすがいじゃなかったな」
「カスガイ?」
「子はかすがいって言うじゃん。夫婦仲は子どもへの愛情で保たれるってやつ」
史佳ちゃんが「ふーん」と低く言った。
「去年の……冬かな。父ちゃんと母ちゃんが、僕の義務教育が終わるまでは離婚しないって話しとるの、聞いちゃったんだけど。結局卒業までのあと一年、保たなかったから」
「……嫌だった?」
「全く。むしろ安心した。僕のせいで二人が我慢するんだって思っとったから。僕はかすがいどころか呪いだったって話」
ロウソクの明るさが届く範囲だけ、砂の一粒一粒が朧げに見える。その影を見つめながら、たった今自分で発した言葉を噛み締めて勝手に息を浅くした。史佳ちゃんが「あんたねぇ」と呆れたような声を出して、その自傷じみた発言は遮られた。
「まーた小難しいこと言って。そんなわけないでしょ」
史佳ちゃんの声はよく通る。そのおかげか、はっきりと放たれた「そんなわけない」が僕の真ん中を穿ったから、自分の浅ましさを見透かされたような気になった。きっと僕は、その言葉を欲しがっていた。
誤魔化すように新しい線香花火を手繰り寄せて、次の言葉を急ぐ。
「でも、紙切れ一枚で父ちゃんと母ちゃんが他人になるのって、変な感じだ」
「怖がりはまだ直ってないか」
「怖いとか、言っとらんし」
「言ってなくてもわかる」
「……笑わないんだ」
「あんたにしかわかんないもんだからね」
怖い。家族ですら紙切れ一枚で他人になるのだ。なんの契約もしていない友達が他人になるのなんて一瞬だろう。それこそ引っ越しなんかしたら、生まれてから今まで僕の周りにいた人たちが他人になる。それがどうしようもなく怖い。新しい学校で友達ができたとしても、その人たちですらいつかまた他人になるのだと思うと全部が不安だ。
「周りが、僕を置いて変わっていく」
「それが怖い?」
「…………家族も、友達も、簡単に切れる。そしたら、何が僕を守ってくれるんだろう」
史佳ちゃんが肘で僕を小突いた。
「大丈夫。私が守ったげる」
「史佳ちゃんが?」
「強いんだよ、私」
「……さっき、か弱いって言ったじゃんね」
「そうだっけ? まあ、いいから。おねーちゃんに任せなさい」
ロウソクの火はほとんど消えかかっている。線香花火は、残り十本もない。
手に取った線香花火の先を焼く。オレンジに発光した先が丸くなって、小さく火花を散らしはじめた
飛行機がまた僕らを追い越していく。どこに向かって飛んでいるのだろうか。あの大きな金属の塊の中に、多くの乗客が詰められている。
飛行機というのは、公共交通機関の中では少し異質だと思う。乗客は出発地の空港まで、いろんな場所からいろんな手段で吸い寄せられる。そうして、それぞれがそれぞれの飛行機に乗って運ばれて、到着地の空港からはまたバラバラに行動する。飛行機で移動している間そのものが、長いトンネルみたいだ。入り口から出口まで、誰もが一方向に通過する。途中で誰かが抜けることも、逆に合流するようなこともない。
そんなどうでもいいようなことを、頭のおかしなところで延々と考えた。手の中の線香花火は音を立てることもなく弾ける。肌にまとわりつくベタついた空気も、冗談みたいな暑さも全部、僕はこの先何度も思い出すのだろう。その度に、史佳ちゃんの横顔も頭の中で何度も一緒になぞることになる。
史佳ちゃんは、やっぱりどこか静かだった。昼間の、普段の台風みたいな史佳ちゃんが嘘みたいだ。そこで僕はようやく思い出した。台風には目がある。雲が渦巻いたものだから、中心付近は丸くピンホールみたいに穴が開いているのだ。そこはいつも凪いでいる。台風の目が通過するとき、それまでの嵐なんか初めからなかったかのような、静謐な青空が広がる。
僕は今、台風の目を通過している。史佳ちゃんに一番近づいて、その強かな真ん中を見ているのだ。
帰りは下り坂だった。そのおかげで史佳ちゃんを荷台に乗せていながら、ペダルはだいぶ軽い。吹く風は相変わらず生ぬるいけれど、そんなに悪い気はしない。もう鼻は慣れているはずなのに潮の匂いをきちんと感じ取ることができる。
「ねえー、働きアリの法則って知ってる?」
「ん? 知らん。何、アリ?」
おもむろに口を開いた史佳ちゃんは、何の脈絡もなくそんなことを言い出した。
「群れの中で、二割の働きアリはよく働いて、六割は普通に働いて、残りはほぼ働かないの」
「ふーん」
僕の後ろにいるからか、普段より声を張っている。元からよく通る声だから普通に喋っても聞こえそうではある。心地いいから、敢えて言わない。
「で、よく働くアリを別の場所に移すと、またそのうち二割はよく働いて六割はまあまあ働いて、二割はほぼ働かなくなるんだって」
「へぇー、だから法則?」
「そういうこと。だからさ、環境によって変わるって、生き物の本能なのかもね」
「僕ら、アリと同レベルってこと?」
「地球のサイズ考えたら、アリも人もそう変わんなくない?」
「そうかも」
ペダルを踏み込むと、ゴムサンダルと足の裏がベタついてくっつく。そういえば、海水は乾くとベタベタになるんだったか。そんなことも忘れていた。
「変わることって、そんな大袈裟なもんでも怖いもんでもないよ。自然の摂理」
「摂理か」
「それに、変わらないこともあるし」
「たとえば?」
史佳ちゃんが「んー」と唸った。考えてから言ったわけではないところが、らしいといえばらしい。
「あ、血縁関係。私とコウがいとこなのはずーっと変わんない」
「ずっと?」
「うん。どっちかが死んでも、両方死んでも」
「……それこそ、呪いみたいだ」
「ま、そうかもねー。でも言ったでしょ。私が守ったげるから」
史佳ちゃんは昔から変わらない。芯のあるしなやかな強さを持っているところも、花火ではしゃげるような無邪気なところも、言いにくいことを言うときに髪を指に巻き付ける癖も、笑うと鼻に皺ができるところも、全部。何も変わらない。
じゃあ、いいか。
変わっていくものはたしかにある。でも、変わらないものだってある。僕にとっては、変わっていくものより変わらないものの方が、よっぽど大切で失いたくないものたちだ。それなら、もういい。変わるなら変わればいい。僕だって、きっといつか変わる。
空港へと向かう飛行機が遠くの方に見えた。
「フミ、コウ! あんたら、どこ行っとったの⁉︎」
ばあちゃんが勝手口から顔を出した。自転車もバケツも片付けたあとだったから、確固たる証拠はない。
「…………どこってー……。コンビニ、だよねー? コウ」
「ウン、ソウソウ。フミカチャン」
「コウ、こっち見てみやぁ」
ばあちゃんが訝しげに言った。
ダメだ、僕は嘘がつけない性分なのだ。史佳ちゃんがばあちゃんから見えないように肘で小突いてきた。でもこれは、さっきの「小突く」みたいな可愛いもんじゃない。もはやエルボー・バットだ。プロレスまでできるというのか。
しっかり脇腹に入ったから「ぐぅ」と悶えていると、ばあちゃんが呆れて「早よ入り」と言った。一応、事なきを得たみたいだ。このまま時効を迎えるまでバレないでほしい。勝手口が閉まったのを確認してから、史佳ちゃんとハイタッチする。二人とも足が砂だらけだったから、外の水道で流してから家の中に入る。
「史佳ちゃん」
「んあ?」
それぞれの布団が敷いてある部屋に別れる前、廊下で史佳ちゃんを呼び止めた。あくびをしながら振り向いた史佳ちゃんは不思議そうに「どした?」と言う。
「……おまじない、してよ」
さっき、家出る前に言ってたやつ。と言うと、史佳ちゃんがニッと笑う。
「おー、いいよ。特別だかんね」
戯けたように言いながら、ペタペタと近づいてきた。
「手、出して」
「はい」
「そっちじゃない。右手」
「初めからそう言ってくれん?」
史佳ちゃんがスッと目を細めて「文句あんの?」と言うので、「滅相もない」と素直に左手を引っ込めて、右手を差し出す。
差し出した手を史佳ちゃんが両手で引き寄せて、「手も大きくなったね」と呟いた。
「まあ、成長期ですから」
手のひらを上に向けられて、小指から順に指先を摘まれる。爪が少し白くなるくらいの強さだ。痛くはない。親指まで摘み終えると、指を全部折りたたまれる。その拳を史佳ちゃんが両手で包み込んだ。
「んふふ。夜中に廊下怖かったら、起こしていいかんね」
「もう平気だってば」
「どうかなぁ」
史佳ちゃんが僕の手を握り込んだままゆらゆら揺らす。なんだか楽しげな仕草だ。今、僕らが立っているのは奇しくも幼い僕が史佳ちゃんに泣かされた場所だった。天井のシミが人の目みたいに見えたから、間違いない。ふと上を見上げてみても、今はただの木目にしか見えなかった。
史佳ちゃんの手は、僕のより少し冷たい。僕の手が熱すぎるのかもしれない。
足元のライトが煌々と光る中で、僕も史佳ちゃんも何も持っていない。それなのに、僕の目はたしかに花火を見ていた。橙赤色の火花が、僕と史佳ちゃんの手が合わさったところから炳として弾ける。楽しげに口角を吊り上げる史佳ちゃんが、その火花に照らされる。周囲に蔓延るぬるい空気さえも、海岸をなぞる潮風みたいだった。弾けて消えてまた弾けて、その幻覚を目で追っているうちに、史佳ちゃんの手の温度がわからなくなってきた。僕の体温が移ったらしかった。さっき波打ち際で水を汲んだときに感じた、夏の夜の海のぬるさが手のひらに伝わる。
しばらくそうしたあと、史佳ちゃんが「おしまい!」と言って、パッと手を離した。
「……ありがとう」
「いつでもやったげる」
今度こそ「おやすみ」と言って別れて、僕はまた線香の匂いがする和室の襖を閉めた。
畳の上に転がった色紙を手繰り寄せる。蛍光灯のもとだと、砂子紙に織り込まれた金箔が暗く映った。
多分、僕はこの色紙をもう見ない。新居で卒業アルバムだとか、賞状だとか、そんなようなものたちと一緒にまとめて部屋の奥の奥にしまい込む。そのまま日々をのうのうと生きて、色紙の存在をすっかり忘れ去ったころにそれを見つけるのだ。そのときにはきっと、もう胸は痛まなくなっている。こんな人いたな、とか、今ごろ何してるかな、とか、そんなふうにただ懐かしむだけ。でも、きっとそれでいいんだと思う。
自分で雑に敷いた布団の上に体を投げ出す。脚がじわじわと疲労を主張してくる。明日は筋肉痛にでもなりそうだな、と思いながらシーツとタオルケットの間に身体を滑らせた。まだ右手はじんわりと温かい。燃え終わった花火みたいだ。おまじないなんて信じていない。だけど、頭の中がやけにクリアだった。
台風のあとは晴れる。僕の悩みとか不安とか強情とか、そういう面倒なものを全部、史佳ちゃんが持っていってくれたのかもしれない。
照明からぶら下がった紐に手を伸ばす。寝転んだままでは届きそうもない。でも起き上がるのも億劫で、明るくてもいいかとそのまま目を閉じた。明日の朝、ばあちゃんに𠮟られるかもしれない。でも、今はそんなのもどうでもいいくらい眠いのだ。こんなの、いつぶりだろう。あぁ、考えるのはもうやめた。いつもは面倒くさいくらいによく回る頭も、今夜は史佳ちゃんが持っていってしまったから。
【つづく】