第三話 檸檬の灯

恋人が死んだ。
交際していた一年間、毎日が幸せだった。彼とは波長みたいなものがぴったり一致していて、一緒に過ごす空間はどこまでも穏やかだったし、分かち合うすべてが面白おかしくて仕方なかった。
それなのに、悲しいお別れが唐突にやってきた。
彼を失ってから二週間、私は一人暮らしのアパートを出られずにいる。引きこもっている間に、十二月に入ったらしかった。日に日に気温が下がって暖房の効きが悪くなっているし、室内の空気は乾ききっていて、唇にできたひび割れから血の味がする。一緒に祝うはずだった二十一歳の誕生日は気づけば過ぎていた。
ほんとうに、好きだった。
『好き』という感情を余すことなく彼に向け、それ以外のすべてから興味を失った。彼がいなくなった今、日常はどうしようもない暗闇に包まれ、私はベッドに積もる埃の一部になった。
最後に会ったときの態度が脳裏に蘇る。いつだって私をお姫様みたく大事に扱っていたのが嘘のように、ひどく面倒くさそうな低い声で話した。本当は既婚で、しかも娘までいたことを非難すると、彼は開き直って『騙していたのはお互い様だろ』と言った。私のアルバイト先がカフェではなく、本当はガールズバーで働いていたのを知っていたらしい。
でも、そんな些末な嘘で釣り合いが取れるはずない。彼は明確に私を裏切っていたんだ。自分でも抑えが利かなくなって、ひたすら叫んで、暴れて、彼に取り押さえられた。振りほどこうともがき続けたら頬を張られた。逃げるように去っていった彼とは連絡がつかなくなった。住んでいたアパートは単身赴任中の仮の宿だったらしく、もぬけの殻になっていた。
――ちがう。
これは消し去ったはずの記憶だ。私を裏切って、今も苦しませ続けているくせに、あいつはきっともう全部忘れている。最低なやつ。地獄に落ちればいい。
呪う言葉はいくらでも湧いて出たけど、暗い部屋で恨み続けるのはあまりにも惨めだ。だから、嫌な記憶は変えてやる。どうせ二度と会わないのだし、真実に気づく前まで時間を巻き戻して、悲しい死別をしたのだと思い込むことにした。
彼の最期はどんなだったか、たびたび想像する。
――なるべく痛くて、苦しくて、孤独だったらいい。
でも、そんな風に願っている時点で記憶の改ざんはなんにも上手くいっていない。途端にむなしくなって、思考を放棄した私はまた埃の一部になる。
室内物干しに、からからに乾いたバスタオルがぶら下がっている。買ったときは薄いピンクのかわいいストライプ柄だったのに、数年使い続けた今はくすんだ白色になり、端のほうが柄に沿って少し破れている。元々あまり片付けが得意ではないけど、生活がままならなくなってから、すべての物の定位置がわからなくなっていた。床に転がったクッションはずっと前にこぼしたカフェオレのシミが残っているし、ハンディクリーナーのすぐ脇には特大の蜘蛛と見紛う綿埃が落っこちている。本当にこの部屋には、いつ捨ててもかまわない物しかない。
喉の渇きに耐えられなくなって、私はベッドを出る。暖房の効いていないキッチンは底冷えがひどく、行方不明になったスリッパが恋しくなる。冷蔵庫の中には調味料しか残っていなくて、買いだめしていたペットボトルの緑茶がなくなっていた。仕方がないので温かい紅茶を淹れるべく電気ケトルでお湯を沸かす。
食器棚からマグカップを取り出そうとした拍子に、青い抽象画が描かれた丸皿が視界に入った。二枚もあるそれは、美術館のショップで見かけたときは可愛く思えたのに、今は場違いで滑稽に見える。
私はまったく興味がなかったけど、美術館には何度か一緒に行った。この丸皿は、私が可愛いと言ったら彼がペアで買ってくれた。与えてくれるもののすべてが愛おしかったし、喜ぶ私の姿を見て彼もなにもかも満たされたような表情をしていた。笑ったときに目じりにできる皺が好きだった。浮き出た鎖骨としっとりした肌、綺麗な形の爪と、やたらに長い生命線。学生の頃に野球をやっていたらしく、手のひらにはマメが残っていてゴツゴツしていた。やさしく語りかける低い声。驚いたときにだけ出るまぬけな叫びも、聞くたびに大笑いした。
――どうして好きだったところを思い出してしまうんだろう。
手に持っていた丸皿を棚へ戻したとき、つーっと水滴が頬を伝う。
いつからか、かなしいと思うよりも先に、音もなく涙が出るようになった。
もう過去なんだし、すっぱり忘れるか、別れ際に現れた本性と一緒に彼のすべてを嫌いになればいい。なのに、中途半端に記憶の改ざんを試みたせいで、消したい思い出ばかりが蘇る。
いい加減うんざりしてきた。いつだって私は考えなしで、後になって自分の愚かさを思い知る。
しばらく閉じっぱなしになっていたカーテンを見て、杏奈から貰った檸檬の鉢植えをベランダに放置していたことに気づく。引きこもっていた二週間、檸檬の存在をすっかり忘れていた。当然一度も水やりをしていない。春から育て続け、深緑色の実が少しずつ大きくなっていた。黄色く熟せば収穫ができたのに、檸檬は寒さに弱いらしいので、きっと台無しにしてしまっただろう。しおれて小さくなった姿を想像して、胸が苦しくなってくる。
檸檬の木が枯れたと知ったら、杏奈はさらに私を恨むかもしれない。今以上に強い恨みを受けたりなんかしたら、埃の一部と化した日々を一生抜け出せなくなる気がした。
だって、私のせいで杏奈は、大学を辞めて地元に帰っていた。
『七菜ちゃんって近くに住んでいるんだね。ごはん食べに行こうよ』
杏奈が連絡をくれたのは、新年度を迎えてすぐの頃だった。
彼女は中学時代の同級生だ。二人きりで遊んだことはたぶんない。『大人数グループの仲間のうちの一人』といった程度の友人だった。積極的にたくさん喋る子ではなく、いつも聞き役に回っていた。誰にでも分け隔てなく接していたけど、悪口も文句も言わない杏奈は、私には我慢して良い子ぶっているだけに見えて、正直あまり好きではなかった。
私と違って勉強ができたので、高校は偏差値の高いところに進学し、そこから疎遠になった。二十歳になって誘いがあったのは、私が通う歯科衛生士の専門学校と、杏奈の通う大学が近所で、生活圏がほぼ同じだということを、彼女がSNSで知ったからだそうだ。
杏奈に誘われて一緒に来たのは、スパイスカレーが人気だという喫茶店だった。
「来てみたかったんだけど、あんまり外食しないし、タイミングがなかったんだよね」
中学卒業以来に会う杏奈は、五年分の空白なんてないかのように、真っすぐに私の目を見て話した。親しげな笑顔は、一緒に過ごしている今この瞬間を楽しんでいるみたいだ。
ストレートの黒髪に、ぱっちりした大きなタレ目。大人になった彼女は物静かそうな美人に育っている。服装はシンプルなファストファッションで、指にはガラス製のリングが嵌められている。水色のそれはぷっくりと膨らんだフォルムをしており、華奢な彼女の細い指には大きすぎて、少し不恰好な感じがした。
杏奈は大学で英会話とフットサルのサークルに入っていて、さらに生活費と学費の一部を自分で稼ぐため、居酒屋と弁当屋でアルバイトをしているそうだ。かといって、多忙を理由に勉強をサボる子ではないだろう。
「大変じゃないの?」
「たしかに忙しいけど、バイトもサークルも、いい人ばっかりで楽しいよ」
はにかむ杏奈を見て、改めて思う。
――そういうところ、ずっと嫌いだった。
親しげな態度も、私だけに向けているものではなく、誰が相手でも変わらないのだ。いつだって善人ぶって、喋っていてもなにも楽しくないような地味な子にも優しくする。どうせ内心では思ってもない綺麗ごとを抜かしつつ、心から楽しそうな顔で笑っている感じが、見ていてイライラした。
私は彼女とは真逆だ。勉強はそもそも苦手な上に頑張ったことがないし、専門学校ではサークルに入っていない。高校一年のときにやっていた陸上部のマネージャーは、同級生の部員と付き合って別れて気まずくなって辞めた。
陸上部を退部してからは、色んなところでアルバイトをしていた。ファミレスに薬局、スーパーに焼き肉屋。掛け持ちをしていたわけではなく、どこもあまり長続きせずに働く場所を転々としていた。バイト代はインディーズのビジュアル系バンドの追っかけのために使った。あまり人気がなくて、グッズをいっぱい買ってあげないといけない。そのせいで、どれだけバイトをしてもお金が足りなかった。専門学校に進学すると、より時給がいい夜職をはじめた。熱心に推していたバンドが解散したショックで放心していた時期もあったけど、新しい推しができるとすぐに忘れて夢中になった。
『好き』という感情の総量は決まっていて、どう配分するかの割合があるだけなんだと思う。新しくなにかを好きになると、それ以外に関心がなくなってしまう。前にハマっていたはずのバンドの映像を見返してみても、なにがいいのかちっともわからなくなっていた。
ひたすら消費をして、後になにも残らない日々は、他人からは無意味に見えるかもしれない。
でも、愛情を注げる先があるというのは、それだけで幸せなことなのだ。
年上の恋人ができてからは、バンドの追っかけ自体に興味がなくなった。
中学卒業以降の私の変遷は、呆れられる気がして杏奈に説明しなかった。だから恋人が連れていってくれたレストランからの夜景や、彼がいつも乗せてくれる愛車の写真を見せた。杏奈は高級なお店やドライブに行く機会があまりないらしく、大げさに羨ましがりながら私の話を聞いていた。その無邪気な姿がどこか嘘っぽくて、やっぱりこの子が嫌いだと思った。
一緒に食べたスパイスカレーは、水っぽくてやたらと辛く、全然おいしくなかった。
杏奈と再会してひと月も経たないうちに、同じ職場で働くことになった。
『時給がいいよ』と、自分の働くガールズバーに誘ったからだ。彼女と一緒に働きたかったわけではなくて、友人紹介料が欲しいだけだった。バンドの追っかけをしていた頃と比べたら出費は減ったけど、彼氏が喜んでくれるようにいつも可愛い恰好をしていたい。できるだけお金が必要だった。
お店に紹介するのは誰でもいいわけではない。客とまったく喋れない子や平気でバイトを飛ぶような子を紹介すれば私が白い目で見られる。それなりに可愛くて、まじめな杏奈は適任だった。
ガールズバーの衣装には安っぽいコスチュームを支給される。杏奈の初出勤の日はチャイナドレスを着る予定になっていた。私服の雰囲気がおとなしいので抵抗があるかもしれない。でも、杏奈は案外乗り気でチャイナドレスに袖を通し、「似合う?」と尋ねてきた。メイクがうすいせいで着せられている印象が強く、ぎこちない態度も相まってあどけない感じがする。でも、そういうのを全部含めて、人気が出るんだろう。私はすでに、彼女をお店に誘ったことを少し後悔していた。
予想は的中して、杏奈には入店してすぐに客がたくさんついた。彼女を指名するのは、あまり夜のお店で遊び慣れていない男性が多かった。現実世界では異性に相手にされないけど、誰にでも同じ態度の杏奈にだけは心を開いている。若い客の中には、ここがお店だってことを忘れて、本気で恋をしているんだろうなって人もいた。あの子の親しげな態度なら、勘違いする客が湧いても無理はない。
そういう客は、自分以外の客が杏奈と話しているとき、とんでもなく濃い憎悪を放っていた。でも、肝心の当人は会話に集中していて、まったく気づかない。視野の狭さにうんざりする。杏奈目当ての客があぶれて、私が相手をしなくちゃいけないときもあったけど、たいてい挙動不審な反応をされて、気に入らないならさっさと帰れよと怒鳴りたくなった。杏奈を指名する客の見た目は全員地味で、ダサかった。高身長で、最近ドラマによく出ている若手俳優にそっくりな私の年上の彼氏とは、比べ物にならないほど冴えないやつばっかりだった。
「興味ない話を一方的に聞かされて、キモくないの?」
杏奈に尋ねてみたときがあった。その日の客は三十代前半ぐらいで、聞いたこともない海外の映画監督の話を延々としていた。ガールズバーでは女の子のドリンクを客が注文する決まりになっていて、売り上げの一部が給与に上乗せされる。気を利かせてドリンクを注文してくれるならいいが、その男は二時間も店にいたのに杏奈のドリンクを注文しなかった。『私も飲みたい』と自然にお願いすればいいのに、彼女は男が帰るまでひたすらバリエーション豊富な相槌を打ち続けていた。
「自分が知らないことを教えてもらえるのは楽しいよ」
さらっとした調子で杏奈は言うけど、やっぱり疲れていたんだろう。こちらを一瞥もせずに、一点の曇りも見当たらないグラスを延々と磨き続けている。他人に対してネガティブな感情を抱いてはいけない縛りでも課しているのか、彼女が誰かを悪く言っているところをいまだに見たことがない。
杏奈につく客はたしかに多かったけど、長い目で見れば彼女は夜職にあまり向いていなかった。距離の取り方が下手なんだ。だから恋愛感情を抱かれ、過剰に執着される。ガールズバーで働き始めた理由だって、さらっとテキトーな嘘をつけばいいのに、学費を稼がなくちゃいけないとか、馬鹿正直に話して、そういう身の上話が好きそうな客の同情を意図せず買っている。次はお店の外でも相談に乗りたいとか言われて、どんどん粘着されて、抱えきれなくなってお店を辞める羽目になるんだろう。私が彼女を引き込んだのだけど、そうなればいいと思った。
杏奈が初めての給料を受け取ってから、次に出勤が被った日、彼女は満面の笑みで高さ三十センチメートルほどの植物を見せてきた。鉢の部分は水色の布で包装されていて、広がって伸びた枝には白い花が咲いている。
「お店に誘って、仕事の仕方も教えてくれたお礼」
笑顔を向けてくるのが、純粋に不思議だった。私が教えたのなんて呼び込みで外に出たときにスマホをいじっていてもバレないことと、厄介な客に疎まれる嫌みの言い方ぐらいで、彼女がまったく実践していないものばかりだ。むしろ、興味のない話を延々と聞くのが無理な私は、好きになれない客と一対一で話しているとすぐに態度に出てしまう。だけど、そういうときは杏奈が会話に参加して助け舟を出してくれた。彼女とシフトが被ると、『今日は楽ができる』と毎回思うほどだ。
お店の他の女の子たちとも、杏奈は仲良くなっていた。愛想がよくて、誰よりもまじめに丁寧に雑務をこなす彼女と一緒だと、仕事は減るし、ストレスが少ない。『あの子を引き入れてくれてありがとう』と、在籍期間が一番長い子に感謝された。わざとらしい言い方は『代わりにあんたはいなくなればいいのに』と声には出さずに伝えているみたいだった。その子はいつも私に突っかかってくるし、陰口を言いふらしているのも知っていた。ハイスぺ彼氏の自慢話ばかりしている私は、わかりやすくみんなに嫌われている。でも、好きな人以外からなにを思われようが、どうでもよかった。
差し出された鉢植えを受け取ると、ずっしりした重さに腕が引っ張られる。
――なんだこれ、いらない。
近所に住んでいるとはいえ持ち帰りたくないし、そもそも植物の世話なんてできない。
「檸檬の苗木だよ。七菜ちゃん、檸檬が好きだし、植物を育ててみたいって言ってたでしょ? 簡単に育てられるみたいで、ちょうどいいと思って」
まったく記憶になかったけど、接客中に会話の流れで話したことを覚えていたのだろう。無下にもできず、勧められるまま花弁を嗅いでみる。柑橘の香りではなく、ジャスミンに似た華やいだ匂いがした。
「実が生ったら教えてね」
とびきり楽しみな約束をするみたいに、杏奈は笑う。
友人紹介料の現金三万円が目当てだったから、余計な気を遣う必要なんて一切なかったんだ。テキトーなことばかり言っているせいで欲しくもないものを渡される羽目になる。
とはいえ、悪気がない杏奈に文句を言えるはずもない。重たい鉢植えを放り捨てたくなるのを我慢して、私はどうにか笑顔を作った。
梅雨の時期に入り、雨天が続いた。杏奈に貰った檸檬は、部屋に土が零れたら嫌なので、ベランダへ置いた。うっかり水やりをし損ねることもあったけど、深緑色の小さな実が一つついた。夏から秋にかけてどんどん実が膨らんでいった。黄色く熟したら収穫すればいいそうだ。三か月に一度、鉢植えとセットでプレゼントされた丸い粒の肥料を補充しなければいけないらしく、次回は忘れそうだなと思いながらテキトーに撒いた。少しずつ大きくなっていく葉っぱからは、檸檬のさわやかな香りがした。
杏奈には、これまでと雰囲気の違う客がつくようになった。二十代後半ぐらいのしゅっとした人で、いつも質のよさそうなジャケットを纏っている。必ず指名と延長をし、ドリンクもたくさん注文する気前のいい客で、彼女の売り上げはどんどん伸びていった。
杏奈と並んでカウンターに入っていたとき、その男の人が私たちに名刺を渡してきた。黒地に金色の文字で店名と源氏名が書かれた派手な名刺だった。
私は彼を知っていた。面識があったわけではない。だけど、田舎の狭い夜職界隈で、評判の悪いホストがいるのはなんとなく聞いていた。女の子がいるお店に行き、お金を遣って恩を着せて、自分のお店に客として引っ張ることを繰り返しているらしかった。
「今度はうちに遊びにきてよ」
軽い調子で彼が言うと、杏奈は少し困った顔で私を見る。
散々お金を落としてくれたから断れないんだろう。そういう律儀さを、しっかり見破られている。この場に出くわしただけの私まで名刺を渡されて、いい迷惑だった。
最高の彼氏がいるんだから、無駄な時間とお金を遣うつもりなんてない。特に今日は、ぐっすり寝たせいか肌がぴっちり冴えており、出勤用にメイクした自分がひどく綺麗で、ものすごく彼に会いたくなったばかりだった。
「行けばいいじゃん。いつも来てくれるんだし、たまにはもてなされてきなよ」
なるべく他人事みたいに言うと、頼みの綱を失った杏奈は彼に言われるがまま店へ行く約束をしていた。
一度ぐらいホストクラブで遊んでくるのも良い経験だ。そう思っていたけど、意外にも彼に入れ込んでしまったらしく、杏奈はホストクラブに通うようになった。
いつバイトに行っても、彼女は必ず出勤していた。まじめだから大学はサボっていないのだろう。代わりに睡眠時間を削っているのか、元々華奢だった身体はいっそう骨ばり、濃くなったメイクで目元を隠していた。髪色はいつの間にか明るい茶色に染まっていた。例のホストは、ガールズバーに来なくなっていた。
彼女は変わらず愛想よく振る舞っているけど、客と話をしているときに上の空になったり、注文を間違えてドリンクを作ったり、善人ぶる余裕を失っていた。春先に再会した頃と全体的に雰囲気が違っていて、私の知っている杏奈とは別人みたいだった。
「なんか変わったね」
お店が開いたばかりで客もいなく暇をしていたとき、カウンターの内側でうとうとしていた杏奈に話しかけてみた。彼女はぱっと目を覚ますと、なぜだかうれしそうに笑みを作る。目を細めた拍子に、青紫色のクマがいっそう際立つ。
――ばかげてる。
嫌いだったはずなのに、今までの彼女に戻ってほしかった。
夏の終わり頃、杏奈とは連絡がつかなくなった。
檸檬の実はどんどん大きくなり、青く濃い香りを発していた。
杏奈と連絡が取れなくなってからも、私は檸檬に水やりを続けた。秋口に肥料をあげるのも忘れなかった。深緑色の檸檬は立派に膨らみ、ほんのりと黄色くなり始めていた。近いうちに収穫もするつもりだった。
それなのに、幸福だったはずの私の日々は、唐突に色を失い、暗がりに落ちた。引きこもっていた二週間で、冬の冷気を浴び続け、水も与えられなかった檸檬はきっと枯れてしまったに違いない。
最初は面倒で仕方なかったけど、日に日に大きくなっていく枝葉や実、濃くなっていく香りに心が和むようになっていた。ガールズバーで時々貰う花は生けたことがないのに、杏奈がくれた檸檬だけはどうしてかそれなりに大事にしていた。
『実が生ったら教えてね』
綻んだ杏奈の表情が蘇る。
もう少しだったのに、台無しにしてしまった。
――本当に私は、馬鹿な失敗をしてばかりだ。
あんな言い方をしなければ、やつれていく彼女を少しでも気遣っていれば、杏奈は今も変わらず、親しげな笑顔を見せてくれていただろう。
ベランダでしおしおに枯れた檸檬の姿を想像して、憂鬱な気分になる。忘れたフリをするか悩んだけど、意を決してしばらく閉じっぱなしにしていたカーテンを開く。
窓は室内との寒暖差でひどく結露していた。
指先で触れた水滴が、ぷっくり膨らみながら、音もなく流れ落ちていく。
――涙みたいだ。
今にも溢れ落ちそうな粒が、数えきれないほどたくさん張り付いていた。
曇ったままのガラスの向こう。
モノトーンのベランダに、ぼんやりとした灯がともっている。
檸檬の実が、鮮やかに色づいている。
慌てて窓を開くと、真冬の冷気が肌を刺した。見間違えでなく、檸檬はたしかに黄色く熟している。綺麗で頼もしい濃色を目の当たりにして、反射的に泣きそうになった。
鉢は温かな部屋の中に取り込んだ。やっぱり冬の寒さはつらかったのか、葉っぱはいくつか落ちていて、枝の一部は先が茶色っぽく変色していた。
黄色い実に触れる。強い香りが指先に残り、ぱっちりと目が覚める。
元気をなくした苗木が心配になって、ケアの仕方を調べた。変色した枝は傷んでしまっているという。近いうちに、生きている緑の部分まで剪定してあげないといけない。
ここまで弱りながらも、奇跡的に立派に熟してくれた果実を見ていると、本当のところ、杏奈は私をちっとも恨んでいないんじゃないかという気さえしてくる。……なんて、都合のいい解釈だろうか。
なるべく日光を浴びさせたほうがいいようで、基本的には室内で育て、比較的暖かい昼間だけベランダへ出すことにした。貰ったときと比べて苗木はたくましくなり、植木鉢がかなり窮屈な感じがする。春になったらもっと大きな鉢に植え替えをする必要があるらしい。どんどん大きくなっていく檸檬のために、部屋もベランダも掃除しないといけない。調べれば調べるほど、やらなくちゃいけないことが増えていく。
――『簡単に育てられる』って言っていたくせに。
今思うとあまりにもテキトーだった杏奈の言い草に、つい笑ってしまう。
――こんな面倒なものを寄越すなんて、善人でもなんでもないよ。
久しぶりに窓を開けたせいか、健やかな冷気があっという間に部屋を満たしていた。長いこと部屋の埃と化していた私は、その冷たさに背筋を正され、やっと人間に戻れた。
食べてしまうのが惜しくて、檸檬を収穫してから三日間、冷蔵庫に入れたままにしていた。時々匂いを嗅ぐと気分がすっきりしたけど、だんだんと表面から瑞々しさが減っていくから、消費しようと決めた。
料理はしないので、レモンサワーの飾りにすることにした。缶チューハイを氷が入ったグラスへ注いで、輪切りの檸檬を浮かべる。マドラーでかき混ぜると、からからと音を立てながら檸檬がくるくる踊る。
ふと、どうして『檸檬が好き』なんて言ったか思い出した。
お店で杏奈とドリンクを作っているとき、輪切りになった檸檬を見て、『断面が可愛い』という会話をしたのだった。杏奈は共感してくれて、檸檬柄の水筒を愛用しているんだとうれしそうに話していた。
彼女のことを思い返すうちに、ふと分からなくなる。
――私は本当に、あの子が嫌いだったのだろうか。
今思えば、一緒に働いているとき、楽しかった気がする。頭がよくて、常に他人を気遣って、たぶん時々嫌な態度になっている私にも優しくしてくれた。そんな私はただ、自分が彼女に劣っていると認めたくなくて、嫌うフリをしていたのかもしれない。
『檸檬を収穫するときは棘に気をつけて!』とネットに書かれているのを見て、うちの子は棘がない品種なのだと初めて知った。わざわざそういうものを選ぶところが、とても杏奈らしかった。
レモンサワーはほんのり甘酸っぱくて、爽やかな香りとアルコールに気分が和らいだ。切り終えた檸檬の残りは、気づけば青い抽象画が描かれた丸皿に載せていた。つい最近まで見るだけで悲しくなっていたはずなのに、無意識のうちに使っていた自分が可笑しかった。
元恋人が果てしなく好きで仕方なくて、裏切られた悲しみの大きさに人間をやめてしまいたくなった。きっと一生立ち直れないんだと、深く落ち込み続けた。それなのに今はもう、思い出の丸皿は、ちょっとダサくてありふれたものに見える。ルックスこそ良かったけど、がさつな人間だった。前歯に黄色い歯石がびっちり詰まっていて、大きく口を開けて笑うと目に付いた。若い店員にタメ口を使うのも恥ずかしかった。常に『いや』という否定から喋りだす悪癖もあった。いったい何様のつもりだったんだろうか。
『好き』が目くらましになって見過ごしていた小さな我慢が、今になって溢れてくる。なんであんなに焦がれたのだろうかと、ふっと不思議になってしまう。歯磨きがへたくそな人間なんて、信用できるはずないのに。
――まあ、なんだっていいか。
どうせもう二度と会わない、下らないやつだ。
檸檬の苗木は、できる限りを尽くして、丁寧に育てていこう。馬鹿な失敗をしてばかりだから、水や肥料をあげ忘れたり、勘違いや知識の乏しさで余計な負担をかけたりしそうだけど、また来年も、これから先もずっと、可愛い断面が見られるように、きちんと愛情を注いであげたい。
――もしかしたら、杏奈ともっと仲良くなれた未来もあったのかもしれない。
想像してみようとしたけど、嘘くさい感じがしてやめた。
なんだかんだ言って私は、一緒にいれば勝手に劣等感を覚えて、ありもしない悪い部分を精一杯に嫌うのだろう。事実、杏奈がいなくなっても寂しいとは思わなかった。
いつかまた同じ町に住んだとしても、今度は連絡をくれないだろう。向こうだって気まずいはずだし、彼女に避けられても仕方がない。でも、もしも叶うなら、もう一度どこかで会えたらいいなと思う。
そして教えてあげるんだ。
きちんと檸檬の実が生ったことを、ベランダで色づいたそれが、灯みたいでとびきり綺麗だったことを。
【おわり】