第二話 食べきれないピオーネ


 地図で上から見たら()(れい)な直方体の自動車工場。更衣室のある事務所から指定駐車場までの道のりは、真っすぐな一本道だ。馬鹿みたいに敷地が広いせいで、一キロメートル以上歩き続けなければならない。九月に入ったにも(かか)わらず、今日の気温は三十五度を超えている。目的地の手前で陽炎(かげろう)が揺れている。時刻は午前十一時を回っていた。そもそも無事に夜勤を終えられていれば、これほど気温が上がる前、遅くとも午前八時には家に帰れていたんだ。
 昼勤の別班が()(そう)したロット。仕様ミスですべて不良品扱いになったという知らせがあったのは、朝六時を過ぎた頃だった。製造工程に遅れがないよう、そのとき出勤していた者たちに残業の指示が出された。仕事の終わりが近づいていたところに最悪の知らせがきて、疲労がどっとのしかかる。工場内の(よど)んだ熱気に頭がぼんやりする中で、ひたすら手を動かしながら、ミスをした顔も知らない同僚たちを憎み続けた。
 どうにか残業を終えて、一刻も早く帰宅するために急ぎ足で駐車場を目指していた。
 歩道沿いに建てられた背の高い白色のパネル。その奥で、大型のクレーンが巨大な鉄骨を()り上げていた。元々は駐車場だったスペースに新しい生産ラインを立ち上げるらしい。工事が始まる前までは、ここに車を停めていた。追いやられる形で敷地の(はし)の駐車場を使う羽目になり、徒歩の移動距離は倍近くになった。誰に腹を立てたらいいかわからないので、最近はここを通るたびに、パネルの内側にいる全員を恨めしく思うようになった。
 駐車場で車に乗り込み、すぐにエアコンの風量を最大にする。()だった頭に強い冷気を浴びて、ようやく息をつける。反射的にタバコを触ってしまうが、さすがに敷地を出るまでは我慢しなければならない。今年から工場内は全面禁煙になった。煙の味を(のど)に思い出して、気がはやりだす。
 車を発進させようとしたとき、ルームミラーに映った、ひどく不機嫌そうな男の顔に息を()む。ぼさぼさに伸びた髪、黒ずんだ肌に、うっすら(ひげ)が伸びて青くなった口周り。わずかに充血した目は、()(けん)の深い(しわ)のせいで(にら)んでいるみたいだ。
 死んだ父がいると(さっ)(かく)した。
 それがハンドルを握った自分だと気づいた途端に、全身の疲労が何十倍にも濃度を上げる。大嫌いな父にそっくりだという事実を受け入れたくない。タバコが吸いたかったことを思い出し、急に我慢が()かなくなってくる。すぐに車を発進させるが、場内のルールで大した速度が出せない。(いら)(いら)(つの)らせながら長い道路をだらだらと走る。
 まだ若いつもりだったのに、鏡には老けたおじさんが映っていた。大学を卒業して、最初に入った会社は四年で辞めた。一年ほど無職の日々を過ごしたあと、契約社員として今の工場で採用された。二年近く働き、正社員に(とう)(よう)されてから、さらに二年が()つので、今年で三十二歳になる。自分の年齢が瞬時に思い出せなくて、無駄に長い計算をしてしまう。
 正門を抜けて敷地外に出たと同時に、タバコを口に(くわ)える。見た目が老いていくのは、タバコの吸いすぎと、酒の飲みすぎが原因だとすぐにあたりがついた。だけど、控える方法はまったく浮かばない。今夜もまた夜勤だ。日中はどれだけ疲れていても目が()えてしまう。うまく眠りにつくのに、どうしてもアルコールの力が必要になる。
 いつまでこの生活を続けるんだ。
 そう思った拍子に、強い吐き気がこみ上げる。
 車内で()()()わけにはいかない。ぐっと息を止めたが、そもそも昨晩からなにも食べていない。吐き出せるものなんてないはずだ。
 胃や喉元の不快感を(やわ)らげるため、また深くタバコの煙を吸い込む。


 コンビニで酒と食料を買い、家に着いたのは正午を回った頃だった。さっとシャワーを浴び、食事をとって早く眠りたい。車を降りると、また乱暴な熱気に身を包まれる。アパート裏手の駐車場から急ぎ足で自室の209号室を目指す。
 階段の下に集合ポストがあって、季節感のない(なが)(そで)のTシャツをまとった女性が郵便物を取り出そうとしている。後ろで結わえた髪と、赤いフチの眼鏡(めがね)で、彼女が隣室の210号室に住む人物だと気づく。たまに顔を合わせてもぎこちなく()(しゃく)をするだけで、話したことはない。二十歳(はたち)前後に見える子で、きっと近くの大学に通っているのだろう。夏休みなのか、最近は日中にも210号室から人の気配を感じるときがある。
 熱心に郵便物を取り出そうとする彼女に、ふと違和感を覚える。
 このアパートの101号室から210号室まで、二十部屋分の集合ポストは、部屋番号が若い順に五個ずつ四段に並んでいる。210号室の彼女のポストは右上端であるはずなのに、その二つ左、208号室のポストに手をかけていた。しかも、ダイアル(じょう)を解かずに差込口に手を入れて中を物色している。
 そんな姿に、ある疑惑が思い浮かんだ。
 彼女は配達物を盗もうとしていて、うちのポストはすでに物色されているかもしれない。
 途端に喉の奥が熱くなる。
「おい!」
 四、五メートル先に呼びかけるには大きすぎる声が出て、彼女は(あわ)てて振り返る。
 (おび)えた目は一瞬だけこちらをとらえると、すぐに足元へ視線を落とす。他人のポストに手を突っ込んでいたくせに、被害者じみた態度だった。
 彼女を見下ろしているうちに、今日浴びてきた様々な不遇が(よみがえ)ってくる。顔も知らない同僚のせいで残業をする羽目になり、帰りが遅くなったため日中の炎天下を歩かされた。自分には一切恩恵がない拡張工事で駐車場は遠くなったし、ストレス発散の(きつ)(えん)も簡単にはできなくなった。
 それらはすべて、自分と遠いところで決められた事柄なので、誰に不平をぶつければいいか分からなかった。でも、目の前の彼女は違う。
「あんた210号室の人だろ? なんで人ん()のポストの中身を(あさ)ってんの? なんか盗もうとしてんの?」
 彼女は眼鏡の奥の視線を(せわ)しなく泳がせているが、身体(からだ)を固くしたまま言葉を発さない。なにを考えているかわからない。へんな女だと思う。
「俺209号室に住んでいるんだけど、うちのポストは触ってないよね? もしなんか()ってたら、警察に通報する。言っていることわかるよね?」
 クレーマーにでも絡まれているかのように、彼女は泣き出しそうなほど眉尻を下げている。()(しゅく)して小さくなった(たい)()も、季節外れの地味な色の長袖も、すべてが(しゃく)(さわ)る。
「なんか言えよ」
 腹立たしさが声色に表れてしまい、彼女はまたびくりと反応して(うつむ)く。
 しばらく沈黙して、返答を待ってもキリがないので去ろうとしたとき、彼女の小さな口がわずかに動く。ぼそぼそと(つぶや)いた声を聞き取れず、「なに?」と返す。彼女は深く俯いたまま、しごく小さな声を発する。
 あの、エリちゃんが
 なにか言い訳でもすると思ったのに、誰かの名前を出しただけで言葉を続ける気配はない。目の前の彼女はほとんどお辞儀(じぎ)をするみたいにしおれて小さくなっていて、今さらになって罪悪感が湧いてくる。
「とにかく、うちのポストには触るなよ」
 居たたまれなくなり、そう言い残して階段を上る。
 折り返しの踊り場で階下を盗み見ると、彼女はまだ棒立ちのままだった。
 途方にくれた姿が、喉の奥にいやな後味を残す。


 ぽーん、という音が耳元で響き、ハッと目が覚める。
 アパートの玄関チャイムが鳴っていた。昼寝をしている間に日が暮れたようで、すっかり暗くなっている。慌てて起き上がり、ドアフォンのモニターを確認する。
 訪問者の正体は配達員で、クール便の小さめのダンボール箱を届けていった。差出人は母だった。そういえば、『ブドウを送りたいんだけど、いつ家にいる?』と連絡が来て、今日の宅配の一番遅い指定時間で届けてくれと頼んでいた。毎年ブドウ農家の知り合いが分けてくれるらしく、子供の頃から秋になると食卓にブドウが並んだ。大人になった今も、母が郵送してくるので秋になるたびに食べている。普段まともな食事をしていないと(かん)()されているのか、母はたびたび家庭菜園で()れた野菜や、どこのスーパーでも買える合わせ調味料などの食材を送ってくる。あまり()(すい)をしないからと断っても、いつだって母は聞く耳を持ってくれない。食材が腐らないよう注意を払うのは少し面倒だが、普段は口にしないものが届くのは悪くない。
 ダンボール箱を開封してみると、甘い香りが()(こう)をくすぐる。中には四房のピオーネが入っていた。黒紫の大きな粒は、はちきれそうなほど(みず)(みず)しい。せっかくなので、夕食のデザートにいただくことにした。一房取り出して、流水にさらす。ほとんど気休め程度の雑な洗い方で、たぶんもっとマシなやり方があるんだろうなと考えつつ、そのまま平皿にのせる。
 普段食事をするワークデスクに、昼食と一緒に買っておいた弁当と小さいサイズのカップ(めん)、そしてピオーネを並べる。新鮮な果実があるだけで、いつもの夕食よりもずっと(ごう)()に見える。
 ピオーネを(くき)から一粒ちぎり、皮ごと口にする。直径三センチほどの大粒で、()んだ瞬間に果汁が口内に(あふ)れる。強い甘味と(さわ)やかな香り。フルーツは高いし(ひつ)(じゅ)(ひん)ではないので普段は買わない。一年ぶりにブドウを口にしたが、こんなに美味(うま)いものだったのかと驚く。
 種がない品種で、夢中になって味わった。でも、次第に皮のわずかな苦味や渋み、口の中に残る(せん)()が気になってくる。皮ごと食べられるはずだけど、ないほうがおいしいだろう。爪の先で軸がついていた(くぼ)みを引っかき、皮をめくる。果汁がこぼれて、手がベタベタになる。苦労して()いたピオーネは、純粋な甘みと香りがさらに強く感じられた。
 包丁や(つま)(よう)()を使ったほうが楽だと考えたとき、台所に立つ母の背中が(よみがえ)る。丁寧に一粒ずつ皮を剝き、品種によっては中心部まで切り込みを入れて種を取り(のぞ)く。そこまでやらないと、父が食べないからだ。
 車のルームミラーに写る()けた自分の姿が蘇る。父と同じになるのが嫌で、ピオーネを皮ごと口にする。不思議と、さっきまでは感じなかった酸味やえぐみが不快に思える。
 父はいつも不機嫌で、人の言うことを頭ごなしに否定して、機嫌の悪さを周りに主張するかのように大きな音を立てる人間だった。家の中では常に横柄(おうへい)で、酒に酔えば酔うほど口調が荒くなった。意にそぐわない行動や口答えをすれば、固く握った(こぶし)で、ごつん、と頭を(なぐ)られた。
 幼少期は恐怖の対象でしかなかったけど、中学に上がる()(ぶん)には父の正体に気が付いていた。父は家の外でも偉そうに振る舞ったが、必ず、気が弱そうで、声が小さくて、なにも言い返してこなさそうな人を相手に選んでいた。(かん)(ろく)がある人や(こわ)(もて)の人間相手には、へらへらと(へつら)う態度になり、それを目撃すると後で八つ当たりを受けた。要は(わい)(しょう)な人間なのだ。純粋に恐れていた子供の頃のほうが、父への嫌悪感はうすかった。
 父のような人間には絶対にならないと固く誓った。でも、容姿は自分でも見間違えるほどだし、昼間の出来事を思い返すと強い自己嫌悪に襲われる。
 集合ポストの前で怪しい動きをしていた隣人。もしそれが気の弱そうな女の子ではなく、大柄な成人男性だったら、きっとあれほど強気に出られなかっただろう。(しょ)(せん)自分も、父と同じで相手を選んで態度を変えているんだ。
 どうしてこうなってしまったのだろうか。

 大学を出て最初に勤めた会社は、複合機や通信機器をリースする会社で、営業職として採用された。同期は自分を含めて二人しかいない中小企業だった。
 商品の提案をして見積もりを作り、(あい)(さつ)回りや飛び込み営業をして自社のカタログを配って、とにかく息つく暇もなく働いた。型落ちでもなんでもいいから複合機を一台持ってこいと言われれば、ハイエースを運転して納品しに行くこともあった。
 外回りをサボってパチンコに行くような同僚もいたから、もっと手を抜いてもよかったのだろうけど、目の前に積み重なった仕事をどんどん消化していく日々は(しょう)に合っていた。多少の理不尽を浴びても、苦労を()いられても、自分の働きが誰かの役に立っているのだと思えば、乗り越えられた。(こん)()にしている取引先の担当者が自分を頼って電話をくれたときは、どれだけ納期が無茶でもうれしかった。
 仕事へのやる気をなくしたのは、同じ部署の先輩にミスの責任を押し付けられたからだ。先輩は、たいした仕事はしていない代わりに、飲みの席には必ず顔を出して、同僚や上司に取り入る能力に()けた人だった。ある企業のオフィス移転に合わせて、最新のセキュリティ機能付きの複合機を二十台近く導入したいという依頼があった。大口案件のため、先輩に頼まれて複合機の設置やネットワーク設定の人員確保と書類作成を手伝うことになったが、直前になって納品が間に合わないと発覚し、高額の違約金が発生した。
 予定通りであれば問題なく納品されるはずが、途中で仕様の違いに気づいて再手配をかけたせいで間に合わなくなったのだ。一連の流れを知らされていなかったのに、言われるがまま作成した書類には自分の名前が記載されており、先輩と一緒に上司の(しっ)(せき)を受ける羽目になった。
 先輩は巻き込んだことを謝るどころか、あたかも被害者であるかのような顔をしていた。思えば、手が回らないからとサポートを求められたが、実際にはさほど手間ではない雑用を頼まれただけだった。もしかして、最初から責任の所在を分散させるのが目的で()り出されたのではないかと疑いたくなった。
 上司に(しか)られている間も、三人で客先へ謝罪しに行っている間も、不思議と怒りは湧かなかった。憶測でしかないし、もし仮に悪意があったとしても、想像もつかないほど()(きょう)な人間に、真っすぐな感情をぶつけるなんて馬鹿らしかった。
 仕事への熱意は()(れい)さっぱりなくなった。地道にまじめに働いて、誰かのフォローまでした結果、責任を負わされるなら、やる気なんて出てくるはずがない。取引先から仕様の相談や見積の依頼が来ても、手間が増えたとしか思えなくなった。
 ある日の仕事中、ふっと思い立って退職願の書式をネットでダウンロードした。ワードで名前と日付を書き換え、職場の複合機で印刷し、そのまま上司に提出した。多少の引き留めもあったが、一か月後には晴れて無職になった。
 今の職場では、一人ひとりが決められた動作を時間内に確実にこなせばいい。人員の欠如で仕事量が増えるときもあるけど、担当している仕事以外に気を配って、余計な苦労や損をする心配はなかった。
 前の会社に居続ければよかったと思ったことは一度もない。ある種の使命感や愛情を持って仕事をしていた当時の自分は、もう現在の自分とかけ離れすぎている。時々昔を思い返しても、なにか別の人間の記憶を借りている感覚になる。
 なりたい将来像なんてなかった。けれど、唯一なりたくなかったものになってしまった。
 210号室の彼女からすれば、今の自分も生前の父も、どっちもどっちに思えるだろう。つい怒鳴ってしまったが、なにがそんなに気に障ったのか自分でもわからない。自宅のポストを(あさ)られていたわけでもないのに。
 日々の仕事では、理不尽な仕打ちに気分が悪くなっても、感情を外に出さずにいた。でも、けっして度量が広いわけではなく、はけ口が見つけられていなかっただけの、最低な人間だった。
 もしかしたら、彼女にも事情があったのかもしれない。目撃したときに漁っていたのは208号室だったけど、そこの住人から頼まれごとをしていたとか。最近はあまり見かけていない気がするが、たしかあの部屋にも女子大生らしき子が住んでいた。彼女たちが友人同士だとしたら、郵便物の回収を依頼していても不思議ではない。問い詰めたときに、彼女はたどたどしい口調で誰かの名前を口にしていた。『エリちゃん』というのが、208号室に住んでいた子の名前だったかもしれない。
 どうして話を聞きもせず一方的に責めるような真似(まね)をしてしまったのだろう。少なくとも急に怒鳴ったことは謝らなければいけないと思うものの、謝罪をするためだけに210号室の呼び鈴を鳴らすなんて気が引ける。彼女がまた(おび)えて(うつむ)いてしまったら、謝る前に心が折れてしまうだろう。普段の自分が絶対にしない行動は、うまくイメージできなかった。
 考えにふけっている間に、弁当はすっかり冷め、カップ麺は伸びて体積を増している。食欲は失せていたが、夜勤に備えてすべて胃に収める。せっかく洗ったピオーネは一房の半分も食べられなかった。冷蔵しても四、五日が限度だろう。全部は食べきれず、余った分を腐らせてしまう気がした。


 無事に夜勤を終えて家に帰ってきたのは朝八時頃だった。簡単な朝食と、昨晩残したピオーネを三粒食べた。今朝は皮の渋みが気にならない。新鮮な果肉はたしかな弾力を持っていて、(かじ)ると(さわ)やかな果汁がはじける。生活の中に降って湧いた果実の甘味を、豊かなものだと思う。
 210号室にピオーネをお(すそ)()けしてみるのはどうだろう。
 どうせ一人では食べきれないし、()土産(みやげ)があれば昨日声を荒らげてしまったことも幾分か()びやすくなる。急に怒り出す不愛想な男が(となり)に住んでいたら彼女だって落ち着かないだろう。きちんと謝罪すれば、多少は不安も(やわ)らぐはずだ。
 いずれにせよ、人の家に訪問するには時間が早い。明日は休みだから、気が向いたときに行くとしよう。そう自分に言い聞かせてみるが、妙にそわそわして、なんとなく冷蔵庫を開けては、冷やしたピオーネをつまみ食いしてしまう。
 少し眠って目を覚ますと、時刻は正午を回っていた。ちょうど良い頃合いだと思い、ピオーネが二房入った小さなダンボール箱を手に部屋を出る。あまり関わりのない人物から生鮮食品を渡されるのは気味が悪いのではないだろうか。あくまで第一目的は謝ることだ。彼女が少しでも難色を示したらピオーネは持って帰ろう。
 明らかに早くなる自分の鼓動に驚き、呼び鈴を鳴らすかどうかためらう。そのとき、210号室のドアの鍵穴の上になにかが貼り付けてあると気づく。それは赤いチェック柄のマスキングテープで、ネームペンで『()(なか)』と書いてある。屋外にさらされているせいか、(すみ)がはがれていて、茶色っぽく変色している。気の抜けた手作りの表札になぜだか勇気づけられ、ボタンに指をのせる。
 ピンポーンと電子音が鳴る。おそらくうちと同じで室内にモニターがあるはずだ。昨日急に叱ってきた男が映っていたら、田中さんは出てきてくれないかもしれない。それならそれで仕方がないと思いつつ、応対を待つ。
 恐る恐る開かれたドアの(すき)()から、赤いフチの眼鏡(めがね)(のぞ)く。
 田中さんは案の定、不安そうにこちらを(うかが)っている。
「あの
 (いぶか)しげな視線を向けられ、言葉に詰まる。彼女はすぐに俯いてしまう。また叱られるかもしれないと怯えているんだろう。それをほどくために、慣れないことをしようと決めたんだ。
昨日はごめんなさい。自分のポストを触られていたわけではないのに、話も聞かずに一方的に怒ってしまって」
 声が少し上ずる。田中さんは、こちらに顔を向ける。緊張で固く(とが)っていた黒目の光が、やわらかく(にじ)んで見える。
「これ、お詫びというかお裾分けというか。実家から(もら)ったピオーネ、もし迷惑じゃなかったら
 嘘偽りがないと証明したくて、小さなダンボール箱の中身を見せる。直前まで冷やしていたので、黒紫の実の表面には結露が浮かび、ほんのり白く(くも)っている。
いいんですか?」
 小さいながらも、しっかり発声された田中さんの声を、はじめて聞いた気がした。平坦で(よく)(よう)が少なく、乾いた硝子(ガラス)みたいに澄んだ声だった。表情は心なしか(ほころ)んでいて、邪気なしに喜んでくれているように見える。
(じゃっ)(かん)渋みがあるけど皮ごと食べられるよ。冷蔵庫で三日ぐらいはもつから」
 ダンボール箱を差し出すと、田中さんは慎重な様子で受け取ってくれる。わずかに上がった口角で彼女は言う。
ありがとう、ございます」
 途端に全身の力がふっと抜ける。急に押しかけたらかえって迷惑だろうかと悩んだが、どうにか己を説得して210号室の呼び鈴を押した。普段なら味わわない緊張が(むく)われて、つい(ほお)が緩んでしまう。
「一人じゃ食べきれなさそうだったから、助かるよ」
 謝りにきてよかった。
 初めて見る隣人の和らいだ表情は、素直にそう感じさせてくれた。
 (あい)(さつ)をして帰ろうと思ったところで、そもそもの誤解の原因が少し気になった。
『あの、エリちゃんが
 ポストの前で詰め寄ったとき、田中さんは言い訳するみたいに(つぶや)いた。
 208号室に住んでいた子は、友達だったの?
 質問が喉まで出かかったけど、自分には関係がないので、やっぱりやめた。果物が好きなのか、箱の中のピオーネをうれしそうに眺める彼女を前に、疑う気持ちなんてさっぱり消えていた。
「急に押しかけて申し訳ない。それじゃ」
 田中さんは小さな声でもう一度お礼を言い、()(しゃく)をしてくれる。
 210号室の玄関扉が閉まったあと、マスキングテープの表札がもう一度視界に入る。今日謝りに来なければ、田中さんの名前を知ることもなかったのだ。
 小さなダンボール箱を渡しただけなのに、驚くほど身体(からだ)が軽くなった気がした。


 九月も中頃を過ぎると、日中の乱暴な暑さが和らいだ。
 仕事の内容はなにも変わらない。相変わらず夜勤はきつく、多少なりアルコールを()らないと昼間は眠れない。駐車場から作業場までの道のりは遠いし、職場でタバコを吸うのに必要な労力はすさまじい。
 それなのにどうしてか、誰かのミスや遅刻で仕事が増えても、さほど腹が立たなくなった。
『もしかしたら、なにかやむを得ない事情があったのかもしれない』
 相手に踏み込むつもりは一切ないけど、そんな風に考えてみるだけで心が()いだ。相手に(はい)(りょ)したり気遣ったりできるだけの余力を持つことは、食べきれないピオーネと同じなんだろう。ただ余らせておくより、誰かのために使うほうがずっといい。
 流水で洗ったピオーネを、今日も一粒ずつ食べる。濃い甘味や(さわ)やかな香りに、毎回新鮮に驚いてしまう。たまに(つま)(よう)()で皮を()き、純粋な甘みを楽しむ。でも、やっぱり面倒で皮ごと食べてばかりだった。だんだんと皮の渋みに慣れて、これはこれでいいものに思えてきた。ピオーネは新鮮なまま食べ切れそうで、食卓に果物の並ぶ豊かな生活が終わるのは名残(なごり)()しい。これまで気に留めなかったスーパーの果物コーナーに目を向けるようになった。梨もブドウも白桃も、値段が高くて驚いたけど、酒やタバコを減らせば買える値段だった。
 来年もブドウを送ってもらえるよう、母へお礼の電話をかけてみることにした。
 数回のコールで電話に出た母は、第一声で『珍しい。なんかあった?』と言う。頼み事があってもメッセージで済ませていたし、そもそもこちらから連絡をした記憶がほとんどない。
「なんもないけど、ピオーネ、おいしかったから、お礼言っておこうと思って」
『よかった。ちゃんと届いたんだね』
 久しぶりに聞く母の声は電話越しでも若干(はず)んでいるのがわかる。大した用なんてなくても、たまには連絡したほうがいいのだろう。
「お隣さんにお(すそ)()けしたんだけど、喜んでくれてた」
『うそでしょ。あんた一房いくらすると思ってんの』
 予想外に責めるような口調を浴び、たじろいでしまう。
「いや、ちょっと用事があって、()土産(みやげ)にちょうどよかったから」
『ふーん』
「知り合いのブドウ農家が分けてくれてるんだよね? 来年も貰えたら、また送ってよ」
『わかった。あんたが喜んでいたって伝えれば、たぶんまたくれると思うよ』
「え、なんで?」
『言ってなかったっけ? あのブドウは、あんたのためにくれているんだよ』
 それから母が語ったのは、思いがけない話だった。
 長らくブドウを送ってくれていたのは母の知り合いか友人だと思っていたけど、父の地元の後輩だったらしい。その人物が親からブドウ農家を継いですぐ、大型台風の被害に()い、経営が厳しくなった。さらに先代が他界してしまい、頼れる人物もおらず、農園を(たた)むかどうかの()()(ぎわ)まで追い込まれたとき、父が相談に乗ったり、手を貸してやったりしたそうだ。
『当時は私も知らなかったけど、お金も()(めん)していたのよ』
 母は(あき)れたような声で言う。あの父が誰かを助けるなんて想像もつかない。他の誰かの手柄を横取りして自分が助けたと(ふい)(ちょう)しているだけじゃないのかと疑いたくなったが、毎年送られてくるブドウは、父がたしかに(した)われている証拠なのだろう。
「なんか信じられんな。でもそれがなんで俺のためにブドウを送ってもらっていることになるの?」
『そりゃ最初はお父さんに送っていただろうけど、もう亡くなっているじゃない? それでも送り続けてくれるのは、お父さんが、〝息子が喜ぶからありがたい〟っていつもお礼言っていたからなんだと思うよ。あんた、ブドウ好きだったもんね』
 あの父がそんなことを?
 記憶を呼び起こしても、不機嫌そうな父の姿が浮かぶばかりだ。お互いに無言でブドウを食べている間、父は俺が喜んでいるなんて思っていたのか。
『まあそういうことだから、ありがたく食べなさい』
「ああ、うん」
 通話を終えたあと、なんだか放心してしまう。あまりにも突拍子もない話で、母がなにか勘違いしているか、つまらない嘘をついている気がしてならなかった。
 ふと思い立って、冷蔵庫で冷やしているピオーネを一粒(かじ)る。シャクッと音がして、濃い香りと果汁が口に広がる。遠い昔、まだ幼かった頃、ダイニングテーブルに置かれた瑞々(みずみず)しいブドウに、大げさにはしゃいだことが、そういえばあったかもしれない。黄緑色よりも、濃い紫色の実が好みだった。夢中になって食べているうちに、パジャマの(えり)ぐりを果汁で汚して、母に(しか)られた。そのとき、父はなにを思っていたのだろうか。
 そうか、俺はブドウが好きだったのか。
 改めて自覚すると、これまでよりもいっそう甘みを強く感じた。
 仕事を辞めて実家に戻ったとき、無職になった息子に、父はなにも言わなかった。
 当時の父は、糖尿病が悪化し、何種類もの薬を服用していた。全身の筋肉が落ちて()せ細った身体(からだ)は、もう偉そうな態度をとる気力を残していないみたいだった。父の姿は全体的に小さく乾いて、髪もひげも皮膚(ひふ)も色が抜けて白っぽくなっていた。それから一年近く一緒に住んだはずなのに、まともな会話を交わした記憶が一度もない。相変わらず、母が皮を剝いて種まで取り(のぞ)いたブドウを食べていた。血糖値が上がるのでたくさんは食べられないらしく、二、三粒のブドウを()みしめるように味わう姿は、かつての父とはまるで別の生き物だった。契約社員として今の職場に採用されてすぐに、実家を出て住み込みの寮に引っ越した。それから一年も経たずして、父は他界した。
 どれだけ弱った最期を見せても、不機嫌に立てる音に(おび)えたり、理不尽に(なぐ)られたりしたことは、けっして変わらない事実だ。これから先も、父に対する嫌悪感は消えないんだろう。
 でも、自分には知らない一面もあって、大嫌いだったところだけが父のすべてではないのかもしれない。
 少なくとも今回ピオーネを(もら)えたのは、父のおかげだった。
 すこし(しゃく)だけど、お礼に線香をあげに帰ろうと思う。

【おわり】