第一話 水蜜桃の朝

エリちゃんの住む208号室は、私の住む210号室から一部屋挟んだ隣にある。彼女はこのところ夏バテみたいで、208号室の外に出ることは一度もなかった。代わりに毎日、ジャケットを着た若い男の人が、生活に必要なものを差し入れているらしい。自宅の窓からその男の人が歩いてくるのが見えて、数分経って反対方向に帰っていくのを確認した直後、部屋の外に頭だけ出してみると、208号室のドアノブにふっくらと膨らんだビニール袋が律儀にかけられている。同じ光景を二度確認したので、直接聞いたわけではないけれど、私はそうだと確信している。
朝七時に目が覚めて、何よりも先に玄関扉を開いてみる。むわっとした熱気が鼻孔や肌にねっとりとまとわりついて、途端に息が苦しくなる。208号室のドアノブに、昨晩はなかったビニール袋がかけられている。
夏バテのエリちゃんでも食べやすいように、冷蔵庫で実家から届いたばかりの水蜜桃を冷やしておいた。ずっしりとした果実の重みを確かめていると、細かい産毛が手のひらにちくちくと触れる。こそばゆい感触を彼女は嫌がるかもしれないから、水蜜桃を流水にさらして撫でるように洗う。次第に皮の表面がつるつるしてきて、ようやくお見舞いに相応しいものになる。
胸のあたりがどくどく弾むのを感じながら、みすぼらしい寝巻きから、持っている衣類の中で最も小綺麗に見えるベージュのサマーセーターに着替える。鏡に映った肩までの髪は、毛先がぱさぱさに傷んでいる。慌てて後ろで結ぶと、どこかすっきりした姿になる。万が一エリちゃんと出くわしても、野暮ったい恰好をしている奴だと思われたくなかった。
強い日差しはアパートの外廊下にまで容赦なく降り注ぎ、外に出た瞬間に首筋や背中や腋にじっとりと汗が滲む。208号室のドアノブのビニール袋には、レトルトのおかゆと野菜ジュースと、果物ゼリーや栄養補助食品のクッキーが数種類入っている。それらに押し込まれるように、一冊の文庫本がわずかに湾曲して収まっている。長編ミステリー小説の下巻で、新品で買ったらしく少しも日焼けしていない。私は物語の内容を猛烈に知りたくなり拝借することにした。
目を覚ましたばかりのエリちゃんがどうしても本を読みたくなったら困るだろうから、代わりになるものを探そうと一度自宅に戻る。背の低い本棚にいる文庫本たちはどれもカバーがくすんでいたり、折れ目ができていたりとみんな仲良く草臥れている。仕方がないので一番大切にしている短編小説集を水蜜桃と一緒に208号室のビニール袋に納める。私の好きな本をもしも彼女が好んでくれたらと思うと、お腹のあたりに不慣れな力が入り、そのあとで攣りそうになる。
エリちゃんはお昼頃まで差し入れを回収しないことがほとんどだから、それまでに本を読み終えて、こっそりと返しておくのが得策に思えた。クーラーの効いた部屋で数ページめくってみるも、上巻を読んでいない私には状況がまるで摑めなくて退屈だった。そもそもこの本はあの男の人の推薦本で、彼女はさほど関心がないかもしれない。だんだん眠たくなり細かい文字に目が滑る。次第に文章が意味を結ばなくなっていく。
仮眠から目覚めて本を返しに行ったけれど、208号室のドアノブにはもうビニール袋はかかっていなかった。
エリちゃんと一度だけ同じクラスになった小学三年生の頃、私は『レーズン』と呼ばれていた。机をくっつけて班で勉強をしていたとき、ふとした拍子に、着ていたパーカーのフードからレーズンが一粒ころりと出てきたせいだった。同じ班の男の子たちが、きたね~、フケツ! と口々に言い、その波紋が教室中に広がっていった。転がり落ちた黒い粒の正体をみんなが特定しようと眺める。誰か一人が干からびた果実であることを理解すると、その単語をなぞるようにみんなが呟き、私はめでたく『レーズン』になった。誰かが私を「レーズン」と呼んだとき、教室中にくすくすと小さな笑い声が響く。前はもっと直接的にブスとか言われていたから、いくらか婉曲的な表現になったものの、ゆるやかに、けれども徹底的に笑いものにする空気にはうんざりした。
私が『レーズン』になってから一週間ほど経った日、お昼休み後の掃除の時間に、エリちゃんと同じ班で教室を掃除していた。他の子たちと違って彼女がホウキをかければ、床の升目には細かい埃や砂粒さえ残らない。仕事のやりがいを失い、雑巾を足で踏みつけて並行移動させていると、一緒に雑巾掛けをしていた女の子が物凄い剣幕で叱ってきた。女の子は真剣に掃除をしない私を散々詰ったあと、「レーズンが」と小さく呟き、その単語に反応して教室にいた何人かが笑った。本当は無言で清掃をしなければいけないけど、指摘したらさらに悲惨なことになりそうだったから私はきちんと黙っていた。
教室の隅に寄せていた机を元に戻していたとき、背後にすっと身を寄せてくる人の気配がした。
「あの日、給食にレーズンパンが出たでしょ。誰かがいたずらでレーズンをちぎってフードに入れたんだよ、きっと」
耳元で息を吐くように言い残し、声の主は気配を消した。振り向くと、そこには淡々と机や椅子を並べ直すエリちゃんの背中だけがあった。
それまで彼女のことを、嫌みを言ってこない、大人しい、けれどもけっして孤立していない、ただのクラスメイトの一人だとしか認識していなかった。でもその瞬間、半袖の体操着から突き出た手足の細長さや色白さ、つるりとした肘の形に目を奪われ、彼女が最も親しい友人になってくれないかと心から祈っていた。給食はレーズンパンではなく揚げパンであったし、当時の私にはレーズンのみならず細かい食べ物があると上に放り投げて口でキャッチするという悪癖があったため、誤ってパーカーのフードに混入してしまった気もした。だけど、彼女が言うならあの日の給食はレーズンパンだし、フードに入れた犯人はいたずら好きの誰かであった。真実なんてどうでもよかった。エリちゃんが私にそう信じろと言ってくれるならなんだって信じた。
励ましの言葉にお礼を言えないまま、学年が上がりクラスが変わってしまった。あどけなさのベールを一枚ずつ脱いでいくエリちゃんは、掃除中の教室で私と会話をしたことを、そもそも私と同じクラスだったことさえ覚えているか分からない。誰かと並んで歩く姿を見かけるたび、隣にいるのが私になることを夢想した。
大学生になった今でも、相変わらず彼女に話しかけられずにいる。昨年の春にアパートへ引っ越してきてすぐ、二つ隣の部屋に住む女子大生がずっと憧れていたエリちゃんだと気が付いた。あの頃の彼女を、私が重ねてきたのと同じ年月分だけ成長させた存在は、いつだって脳裏に存在していて、私に励ましの言葉を投げかけてくれた。違う中学校に通ったため実際に顔を見るのはかなり久しぶりだったけれど、すくすく大人になった彼女は、想像上の姿とぴったり一致していて、もう一度会えた偶然を奇跡だと思った。
遠くから眺めるだけでまともな挨拶もできずに一年以上が経ち、今は二度目の夏休みだった。エリちゃんは私と同じ大学に通っていて、このところアルバイトから帰ってくるのが遅く、たくさん働いているせいか大学のサークルにはあまり出ていないみたいだし、体調も崩してしまった。『レーズン』だった私を励ましてくれたように、彼女のためになにかしてあげたいけれど、208号室の呼び鈴を鳴らして直接顔を合わせる日は永遠に来ない気がした。小学生時代と同じで、大学を卒業してから後悔するだろうと分かっていた。
水蜜桃はあんまり日持ちしないので、実家からクール便で届くのは一人でも食べきれる量だった。エリちゃんに分けているから傷ませる心配はなさそうだけど、追熟した水蜜桃は表面がわずかにやわらかくなっていた。これ以上ないほど香りが濃くなった果実を持って、私は208号室を訪れる。
ドアノブには今日もビニール袋がかけられている。カップ麺やお菓子がちらほらと見える。消化が良いとは言えないものも食べられるなら、快復は間近なんだろう。
水蜜桃を袋に入れかけた瞬間、固いなにかが脈絡なく額にぶつかり、視界がちかちかと白く光る。208号室のドアがゆっくりと開く。悲鳴にも似た声が短く聞こえる。
エリちゃんがそこに立っていた。彼女に見つかってしまった衝撃で、意識だけがすっと後ろに引いていく。化粧をしていない彼女の顔はわずかにむくんでいて、表情は得体のしれないものを見たように引き攣っている。
「なんですか、なにか用ですか?」
長い沈黙を破ったエリちゃんは硬質な声を私にぶつける。彼女を困らせていることにどうしようもなく悲しくなる。悪意なんてないと示したいのに言葉が出てこない。私はただ、右手に持った水蜜桃を小さく差し出す。彼女は不気味そうに眉を顰める。
「その桃、あなたが持ってきていたの?」
こくこくと、私は首を何度も頷かせる。誰かに気味悪がられるのは息苦しい。他でもないエリちゃんにそう思わせてしまうのは、頸動脈を強く締め付けられるほど切実な苦痛だった。
あの、私、小学校のときの同級生で、それで、お見舞いがしたかったんです。
ぼそぼそとしたか細い声を出すだけで身体の内側にあるエネルギーを使い切ってしまい、もう立っているだけで精一杯だった。じりじりと照らす日差しが皮膚を炙る。
桃を食べてほしかったんですけど、ごめんなさい、迷惑でしたよね。帰ります。
立ち去ろうとすると、「待って」と短い声が聞こえる。あまりにも情けない私を気の毒に思ってくれたのか、エリちゃんはどこかあやすような笑みを浮かべている。
「せっかく持ってきてくれたなら、一緒に食べようよ」
208号室は210号室とまったく同じ間取りだったけど、初めて足を踏み入れるエリちゃんの部屋に、異空間へ迷い込んだ気持ちになった。部屋の中は荷物、とりわけ衣類やバッグが多く、収納に入りきらず床や棚の上に散乱している。お世辞にも整頓されているとは言えないけど、彼女がいるだけで確かな明るさを持った空間に思える。
「散らかっていてごめん。テキトーに座って」
促されるまま、私はベッドを背もたれにしてローテーブルの前に座る。床にはカーペットが敷かれ、真向かいに小ぶりなテレビがある。
「そういえば、名前は?」
ふいに顔を向けられ、私は一言一句間違えないよう丁寧に発音する。気安い口調で、時間がかかってもきちんと聞いていてくれるのが分かって、過度な緊張をしなくなっていた。
「三年生のときに同じクラスだったよ」
エリちゃんは私の名前を呪文でも唱えるみたいに数回呟いたあとで、「ごめん、思い出せない」と申し訳なさそうに笑った。
剝いてくれた水蜜桃は見るからに量が多かった。どうやら昨日持ってきた分も一緒に出してくれたらしかった。
「最初に桃を食べたときに、びっくりするぐらいおいしくて、お見舞いをくれた友達にメッセージを送ったんだけど、『桃なんて入れてない』って返信がきて、怖すぎたから昨日届いたのは食べなかったの」
「ごめんなさい。体調悪いときでも食べやすいかなって」
「ストーカーか変態のどっちかだと思った」
エリちゃんは非難がましく眉を顰めながらも、とっても愉快そうに声を弾ませる。
「あと、本を勝手に取って、代わりの本を入れたでしょ? 友達に頼んでいたのと違うのが入っていてびっくりした」
「うん。どんな本を読んでいるのかなって知りたくって」
「きもちわるいなー。で、面白かった?」
「全然。下巻だけだと理解できなくって途中で止めちゃった」
「へんな子ねぇ」
気持ち悪い、とか、へん、という言葉を、これまで幾度となく言われてきた。小学生の頃に私を『レーズン』と呼んでいた子たちや、中学生の頃に同じクラスだった態度のきつい女の子、高校生の頃に二日で辞めたファミレスのバイトの先輩や、駅で隣り合った若い男の人。顔をしかめて冷たい言い方をした彼らと違って、彼女の口から出たその言葉は、親しみだけが含まれたものに思えた。
目の前にいるエリちゃんが、過去に優しい言葉をくれたときの姿とぴったり重なった。夢想し続けた積年の願いが叶っている現実に泣きそうになり、私はタガが外れたみたいにたくさん喋った。
お見舞いの水蜜桃は実家でおじいちゃんが作っている川中島白桃で、幼少期から食べ続けてきたこと、隣県とは言え、地元の長野ではなく群馬の大学で一緒になったこと、しかもアパートが同じで、それはとてつもない確率なんだってことを私は勢い任せに話した。
エリちゃんは勉強もアルバイトも頑張っていて、友達も多くて、なのに私みたいな人間にも優しくしてくれて、私はずっと……、小学三年生の頃からずっと、うれしくてうれしくて仕方がなかった。ありがとう、ほんとうにありがとう。私が何度も口にすると、エリちゃんは少し困った顔で笑う。久しぶりに会ったばかりなのに馴れ馴れしいと思っているのかもしれない。喋りすぎている自覚はあった。エリちゃんって、呼んでもいい? 私は尋ねる。ずっとそうやって呼ぶのが夢だった。興奮状態にあった私は彼女が驚いていることも、もっと言えば引いてしまっていることにも気づきながら、自分を止められなかった。
「好きに呼んでいいよ」
目を丸くしていたエリちゃんは表情を綻ばせたあと、今晩からアルバイトに復帰するための準備をしなければいけないと言った。
「桃、また持ってきてね」208号室の玄関から顔だけ出した彼女は部屋を出ていく私にそう声をかけてくれた。「いつでもいいからね」と、ひらひら手を振る。
自宅に戻ってからも酩酊したように私は興奮していて、エリちゃんの最後の言葉にバカみたいにうれしくなって、うふふ、と一人で笑い、二人で水蜜桃を食べた、泣きたくなるぐらい甘くて潤った時間を反芻する。夏が終わっても、これから先何度でも、今日という日を思い出して幸せな気持ちになれるのだろう。また一人で、うふふ、と声を上げる。
桃を追加で送ってください。なるべく早く。と、実家に連絡したところ、翌日の午前には一つ一つ丁寧にネットキャップと新聞紙で包まれた、売り物として出せるほど上等な川中島白桃と、無機質な白い封筒に入ったおじいちゃんからの手紙が郵送されてきた。拙筆か達筆か判別がつかない、読むのに苦労する字で埋められた便箋には、これからも勉強を頑張りなさい、友達を大事にしなさい、と書かれていた。収穫の繁忙期でも気にかけてくれるのはうれしかったけれど、おじいちゃんが何年も前から言い続けている二つの訓示を、私はちっとも守れていなかった。
大学で板書を消すのが恐ろしく早い教授がいて、毎回ノートを取るのが間に合わなくなり、出席を止めた講義がいくつかあった。ノートを写させてくれたり教えてくれたりする友達が一人もいないので、勉強についていけなくなると挽回する気が起きなかった。二年の夏の時点で単位の状況が厳しく、卒業までに足りなくなるかもしれない。それでもおじいちゃんは私を可愛い孫だと思ってくれている。私が友達に囲まれながら熱心に勉強していると信じ、枯れ木みたいに固くて乾いた大きな手のひらで水蜜桃を包装し、手紙を書いてくれる。末文に、お盆に家で待っている、とあって、帰省が億劫になっていた私は背筋を正される思いになる。
お昼頃に届いたばかりの水蜜桃を箱ごと持って、私は208号室の呼び鈴を鳴らした。エリちゃんは扉の向こうでばたばたと騒がしい音を立て、少し経ってから迎え入れてくれた。
「桃、実家から届いたの」
「そんなにたくさんは悪いよ。というか、食べきれないし」
私が両手で抱える箱を見ると、エリちゃんは息をこぼして笑った。寝起きだったらしく、長い栗色の髪の毛は三倍の体積に膨らんでいた。まだうっすらと眠そうな彼女の代わりに二玉分の水蜜桃の皮を剝く。カーペットの上にぺたんと座るエリちゃんはスマートフォンと熱心に向かい合っていた。部屋にいくらか水蜜桃を置いていこうと冷蔵庫を開いたら、レトルトのおかゆや紙パックのジュースが無造作に横たわっている。近頃、男の人は姿を見せなくなり、彼女は外で時間を過ごすことが増えた。
ローテーブルに水蜜桃の盛られた白いボウルを置き、正面からエリちゃんを眺めていた。薄手の部屋着からは心許ないほど痩せた肩が覗いている。目を伏せていても、彼女の長い睫毛はふわりと揺れて見える。
「なに、人の顔じっと見て」
「真剣にスマホを見ているからどうしたんだろうって」
「バイトの人たちから連絡が来ていたの」
エリちゃんは水蜜桃を一口齧って、果汁を乾いた身体に浸透させていくみたいに、じっくりと時間をかけて咀嚼する。アルバイトは忙しいのかと聞こうとして、愚問だと気づく。エリちゃんは夏バテから快復したばかりにも拘わらず、深夜まで働いているらしかった。親に学費をすべて出してもらって、アルバイトもせずに一人暮らしをし、それなのに勉強についていけずやる気を失っている私は底抜けに甘えた人間だった。
「エリちゃんって成績良い?」
「あんまり。バイトばっかしているし」
「そっか。よかった」
「よかった? どうして?」
少し非難の響きを含んだ彼女の声に、誤解されてしまったと気づく。
「違うの。私も全然成績良くないから、一緒に勉強できると思って」
「だったら勉強できた方がいいんじゃないの?」
「私ばっかり教えてもらったら悪いし」
真剣に答えたのに、彼女は盛大に噴き出して「へんな子ねぇ」と言う。ひとしきり笑ったあと、「そうね。一緒に勉強しようね」と続ける。
彼女の言葉で、一緒に講義を受ける情景が鮮明に浮かんだ。並んで座る講義室、二人で覗く一冊の教科書に、分担して作り上げるレポート。同級生と交わした初めての約束で、不勉強な大学生だった私は今この瞬間、世界のどこにも存在しなくなった。うん、と返し、おじいちゃんの枯れ木に似た手のひらを思い出す。つん、と鼻の奥が少しだけ痛む。
夏休み、エリちゃんはアルバイトに専念するらしく、夜遅くまで働き、明け方からお昼過ぎまで眠りにつくという生活を続けていた。彼女からほんのりと饐えた臭いがすることが増えた。昨晩のアルコールの名残が、エアコンの効きが悪い部屋で湿った空気に混ざっている。カーペットに頬ずりしながら寝転ぶエリちゃんは、剝かれた水蜜桃がローテーブルに置かれると、溶けた蝋が変形するような速度で、のっそりと上体を起こす。まだ夏バテから快復していないのに、無理をして働いているんだろう。私が水蜜桃を差し出さなかったら、このまま干からびて死んでしまう気さえした。
エリちゃんは六等分のくし切りにした水蜜桃を一つ爪楊枝で拾い上げ、小さく開けた口で四回に分けて齧る。ゆっくり時間をかけて、その間に一言も口を利かず、おしゃぶりを咥える赤子みたいにもごもごと口を動かす。
つかれた。
ぽつりと呟く。子供みたく舌足らずな言い方で、エリちゃんはもう一度、つかれた、と言う。幼い吐息と、仄かに漂うアルコールの臭いの不釣り合いさに、かえって心からのものなのだと気づく。
「なにかあったの?」
尋ねると、エリちゃんは長い睫毛を鷹揚に動かして瞬きをし、そのままするりと微睡みの世界に旅立ってしまう。彼女は自分の口から出た言葉をすでに忘れていて、私の問いも届いていない。
なにかが決定的に損なわれてしまう気がした。視界に映り続けなければ、彼女はまたすぐ私のことなんて忘れてしまう。体操着から突き出た、エリちゃんの痩せた手足が鮮明に蘇る。
疲れたなら、面倒なことは全部私がやるよ。掃除も、料理も、洗濯も、アルバイトは代われるか分からないけど、でも、お金が必要なら、家賃を一人分にすればいいよ。私の部屋に一緒に住んでもいいよ。狭いかもしれないけど、エリちゃんが嫌じゃないなら私はいいよ。桃、もっと食べる? お盆に実家に帰るから、またたくさん貰ってくるよ。その間はここに来られないけど、剝いた桃を冷凍してすぐ食べられるようにしておくから。シャーベットみたいでおいしいよ。だから、だからエリちゃん、無理しないでね。
気づけば涙を流していて、散々目の前でまくし立てたにも拘わらず、エリちゃん見ないで、とバカみたいなことを祈っていた。彼女は真っすぐに目を向けて、けれども驚いた様子はなくて、ありがとう、と一言呟いた。
泣き止んだ私の背中を、エリちゃんはあやすように撫でてくれていた。本当は彼女こそ温もりを必要としているのに、優しすぎて損な性格をしているせいで、かわいそうな誰かを放っておけないのだろう。
エリちゃんは私が落ち着いたのを確認すると、「もうちょっと眠りたい」と控えめに笑う。きっと今夜もアルバイトに行くんだろう。ゆっくり休んでほしいけど、止める手立てがない。私は大人しく208号室を後にする。
お盆の帰省から戻ると、208号室は空室になっていた。
鍵のかかった部屋は何度呼び鈴を鳴らしても応答がない。向かいの道路から見上げてみても、窓際に吊るされていたカーテンは姿を消していて、覗ける限りでは室内に物が見当たらない。彼女はなにも言わずに去ってしまった。
私の時間は色を失い、ただ乾ききった日々だけが積み重なっていった。眠っていても、起きていても、優しい笑みを口元に湛えたエリちゃんが不意に現れる。何度も追いかけたけれど、指先が触れる前に決まって姿を消した。実家から貰っていたたくさんの水蜜桃はダンボール箱の中で一つ残らず腐っていた。夏の終わりが近づき、降り注ぐ容赦のない日差しはうっすらと和らぎ出していた。
徒歩四分のコンビニエンスストアで買い物をした帰り、集合ポストの210号室を確認すると、投函口に白いなにかが挟まっていた。無地の封筒に角張った文字で書かれた『エリより』という差出人名。視認した瞬間、それまでにしようとしていた全てのことへの記憶を失い、その場で手紙を読んだ。
学費と生活費のために続けていた居酒屋のアルバイトを辞め、より稼げる夜職を始めたのが去年の秋頃のこと。お客さんとして来ていた同業の男の人のお店にも顔を出すようになり、気づけばエリちゃんはその人を応援するために働いていた。すごく優しい人で、エリちゃんが体調を崩していたときにも毎日お見舞いに来てくれて、だから無理をしてずっと頑張っていた。頑張りすぎて、お金を借りるようにもなって、首が回らなくなり、もうアパートを引き払って実家に帰るか、もっと稼げる仕事に変えるかの二択になっていた。すっかり疲れてしまっていたので、実家へ帰ることに決めた。急にいなくなることと、これまで何も相談できずにいたことを、文中で謝ってくれていた。
手紙を三度読み返したけれど、どこにも実家の住所や連絡先は書かれていない。エリちゃんは本当に去ってしまった。ふと、208号室のポストからはみ出たカラーチラシが目につく。私は差込口に手のひらを滑り込ませ、中に入った郵便物を抜き出す。ほとんどはうちのポストにも入っていた、なんてことのないチラシだったけれど、一通だけ美容院からのダイレクトメールがあって、宛名には見たことのない名前が書かれていた……。
エリちゃんはもしかしたら別のことを謝りたかったのかもしれない。でも、真実なんてどうでもよかった。彼女が私に『エリより』と書いてくれたなら、その手紙はたしかに〝エリちゃん〟からのものだった。彼女がいなくなってしまったことを、初めての約束を果たせないことを、きっと私は一生にも似た長さで寂しく思い続ける。
封筒の文字がたまらなく愛おしくなって親指で撫でると、わずかに滲んだ炭素が陰を濃くする。
幸福だった朝を、何度でも思い出す。私の言葉を待つ、ふわりと揺れる長い睫毛。不意に出る気怠そうなあくび。笑みの混じった声。瑞々しさを纏った甘い香りを、小さな部屋を満たす温かな眩しさを。
【おわり】