俺だけの星

その美容院に入ったのは、ガラスのはまった木製のドアがこぢんまりとして、一見するとぬくもりのある民家のようだったからだ。ドアの横には大きなガラス窓があり、シザーバッグを腰に提げた男が、なかで暇そうに突っ立っていたので、すぐに美容院だということはわかったのだが。
「いまあいてますか」
と俺はドアを開けて男に声をかけた。美容師の男は笑顔になり、
「はい、すぐにできます。どうぞ」
と、ひとつしかない施術椅子を掌で指した。短髪を透きとおるような金色に染め、つんつん逆立てている。三十になったかならないかぐらいだろう。
「当店ははじめてですよね」
男は俺が脱いだスーツの上着を壁に吊るし、代わりにバインダーに挟まったカルテのような紙を差しだしてくる。俺は鏡のまえの椅子に腰を下ろし、名前やら年齢やらを適当に書いた。そのあいだにも男は、俺にてるてる坊主のようなケープを着せかけたり、髪にやわらかく触れたり、鏡越しに俺の顔を眺めたりした。
「整髪料は……、つけていませんね。本日はどのようにいたしましょう」
俺はふだんなら月に一度は美容院か理髪店に行き、できるかぎり短くしてもらっている。セットの手間が面倒だからだ。髪も染めていない。
「三カ月ぶりなんです。のびたぶんぐらい切ってください。なんかいい感じになるように」
「かしこまりました」
と男は微笑み、俺の髪にコームを入れた。「切り終えてから頭を洗いましょう。切っていっちゃいますね」
しばらく会話はなかった。鋏を操る小気味よい音が店内に響く。俺は少々所在ない思いで、真剣な眼差しで俺の頭を見る男の表情や、窓から差しこむ光が壁で揺れるさまを眺めていた。
「ここに美容院があること、気づかなかったな」
と俺は言った。取引先が近くにあるので、たまに通る道なのだが、ビルの狭間にある小さな店は視界に入っていなかった。
「そうでしょう」
と男はうなずく。「以前に勤めていた美容院から独立して、三カ月まえにオープンしたばかりなんですよ。ここは理髪店だったそうですが、閉じてから長かったらしいですし、外装も内装も自分でけっこう手を入れたんで、雰囲気も変わったと思います」
「道理で」
「お客さま、なにかスポーツしてます?」
「学生のころにラグビーを。でも卒業してからはまったくです」
ラグビーと口に出すのもひさしぶりで、柄にもなく胸がきしむ思いがした。忘れようにも忘れられない。俺が俊介に会ったのは大学時代、ラグビー部の先輩後輩としてだった。
決して強豪校とは言えなかったが、それでも合宿生活を送り、日々厳しい練習に打ちこんでいた。団結、熱血。休みの日には合コンをしたり彼女と遊んだり。でも俺は、そのノリにはいまいちついていけなかった。ガタイのよさを買われて高校時代にラグビーをはじめただけで、スクラムを組むとなればさすがに血湧き肉躍って、だれにも負けるものかと思ったものだが、ふだんは一人で本でも読んでいるのが性に合った。
俊介は足が速く、パスを受けて鮮やかに敵陣に切りこんでいく花形のウィングだったが、なぜか俺を慕ってくれた。学生時代からいつも彼女がいたのに、たまの休みに、「先輩、映画でも行きましょう」と誘ってくることもあった。なにを見にいくかといえばホラーで、見終わって俊介は必ず、
「でも俺、ビデオで見た『呪怨』がやっぱ一番こわいっす」
と言うのだった。
「おまえ、いつで時間が止まってんだよ。まあ『呪怨』はこわいけど」
と俺も返し、ホラーは短編のほうが効果的なんだろうか、などと飽きず語りあった。
創作物について話せるのなんて、俺のまわりでは俊介だけだ。俺にとってかけがえのない、後輩で友人で……。
「え?」
と俺は我に返った。
「この近くにお勤めなんですか」
と美容師の男は繰り返した。
「ああ、いえ、取引先が近くにあるんで、たまに来るんです」
「そうですか」
男は少しがっかりしたようだった。「いえ、独立して三カ月でしょう。これまでの店でついてくださっていたお客さまも一巡してしまいましたし、このへんでそろそろ、新規のお客さまも獲得していきたいところなので」
男の口調に卑屈さはなく、あっけらかんとしていた。だから、
「まあ、気が向いたら、また立ち寄ってください」
とほがらかに言われ、俺は黙って軽くうなずいた。この男、少し俊介に似ているなと思った。嫌みがなく、若々しい頰をしている。
俊介も生来のひとなつっこさを発揮し、大学卒業後は俺のあとを追って、同じ広告代理店に入社してきた。
「真似すんなよ」
と言ったら、
「いつかホラー映画を作れるかもしれないでしょう」
と無邪気に笑った。「先輩だって、俺と一緒に働けてうれしいくせに」
「馬鹿言え」
と言いつつ、俺たちはまた休日につるむようになった。今度の行きさきは映画館ではなく、岸壁だった。俊介は車を買い、男二人でただドライブをするだけでは能がないということで、俺たちはなんとなく釣りをはじめたのだ。と言っても道具に凝るわけでもなく、朝焼けの海を眺めながら、岸壁から糸を垂らすだけなのだが、釣れても釣れなくても、ぼんやりと並んで過ごすだけで楽しかった。少なくとも、忙しい日常から浮遊して息をつくことはできる。遠まわりして日帰り温泉に立ち寄ったり、漁港近くの店で海鮮丼を食べたりと、釣りのあとにもお楽しみはあった。
広告代理店も激務かつ体育会系の気風で、焼肉、赤ワイン講習会、女という感じだったが、俺はまたしてもノリについていけず、黙々と取引先との調整役に徹した。「なんだなんだ、図体のわりに小心だなあ」と会社の先輩や取引先のおじさん連中にいじられることもあったが、相手の話をよく聞き、最善を尽くすように努めていたら、地味な俺でも買ってくれるひともいて、仕事はわりと順調だった。
そうなると今度は、「だれかいいひといないのか」とお節介を焼かれることもある。べつに世話をしてもらわなくても、自分がなにを求めているかは把握している。俺はいつでも、「はあ、まあ」と曖昧な笑みで応えた。
昨今はコンプラとやらがようやく浸透してきたからか、あからさまに結婚やらなんやらについて尋ねてくるひとも減ったが、それでも四十近くになって独身の俺は、会社では少数派だ。相当こだわりが強いのか、趣味に忙しいのか、ほの暗いなんらかの事情でもあるのかと、ひそかに好奇心を抱いているやつらもいるんだろうと気配で察せられた。
家族がいて当然という価値観が俺にはピンと来ないが、それなりの給料をもらって、妻は専業主婦という社員もいまだに多いのだから、いたしかたない。女性の社員は独身のままバリバリ働くか、既婚でも家事の大半を受け持ちつつバリバリ働いているひとばかりで、せめて彼女たちの足を引っぱらぬよう、なるべく協力して仕事を引き受けていたら、社内での居心地が年々向上した。「ほんとに気持ちをわかってくれる」と同僚の女性からたまに言われるが、俺はただ自由の利く身で、時間を融通できるというだけだ。
俊介は同じ部署のちがうプロジェクトチームで働いていたが、学生時代と同様、俺になにも聞いてこなかった。「彼女は」とも「結婚は」とも。休日につるむだけの俺の私生活には、特に関心がなかったのかもしれないし、先輩だからと遠慮していたのかもしれない。俊介本人はといえば、彼女がいない時期のほうが少ないぐらいで、ほがらかさと清潔感のある外見は私生活でも仕事でもプラスに作用し、だれからも愛される。
彼女がいても、土日のどちらかは俺と釣りに行くことが多く、
「いいのか、こんなことしてて」
と、俺は釣り竿片手によく尋ねたのだが、
「先輩といると楽しいんで」
と言ってくれた。「視野が広いっていうのかなあ。なんか勉強になるし、リラックスできるんですよね」
気心が知れていて、仕事上の直接のライバルでもないから、気をつかわなくて済むということだろう。俊介は多数派だった。そつなく仕事をこなし、良識があり、女性とつきあう。はみだしたところがなにもなく、だからこそ、鷹揚で鈍感だった。俺はその罪のない鈍感さをいつも見ていた。まばゆくもあり、少々憎らしくもあると思いながら。
「いまさらですけど、これぐらい切っちゃっていいですか?」
と美容師の男が言った。
「はい、耳のとことか、もう少し短くてもいいです」
「よかった。お客さまの三カ月ぶんって、どんぐらいなのかわからなくて」
「けっこうのびるの速いです」
「みたいですね。いつもはもうちょっと頻繁に美容院に行くんですか?」
「月に一度は」
「じゃあ、最近はお忙しかったんですね」
「そうですね……、ちょっとバタバタしていました」
美容師の男はそれ以上はなにも聞いてこず、黙ってうなずいた。少しかがみこむようにして、俺の襟足あたりに慎重に鋏を入れている。頰にわずかな笑みが浮かんでいる。美容師という仕事が楽しくてならないといった様子だ。やはり俊介にどことなく似ているなと思った。俊介も、仕事で追いこまれれば追いこまれるほど、「なんとかなりますよ」と笑みを絶やさなかった。俺に対しても、同じチームのメンバーに対しても。俺はいつも、隣のチームで笑ったり真剣に交渉したりする俊介の姿を見ていた。
俺がどんな気持ちで、どういう目で、俊介を見ていたか、俊介は知っていたのだろうか。なにか気づくことはあっただろうか。もちろん、聞いたことはない。俺は黙っていた。
釣果があると、そのまま俊介の家に行く。隅田川沿いの古いマンションの台所で、俊介は器用に魚をさばいた。東京湾で釣った魚は、「オイルくさそうですよねえ」ということで焼き魚になり、伊豆のほうで釣った魚は刺身で食った。だいたいビールから白ワインに移行し、夕方には、俺は歩いて二十分ほどの自分のマンションに帰った。家も近所なのは、「先輩んちの近くのほうが、なにかと便利でしょ」と俊介が広尾から引っ越してきたからだ。実際のところは、そのときつきあっていた彼女との結婚を視野に入れ、手ごろな賃料で間取りの広い物件を見つけたからだと思う。
俊介はいい塩梅に酔いがまわってくると、
「先輩、髪のびてきましたね。切ってあげますよ」
と言った。
「やめろよ、魚をさばいた手で。しかもおまえ、酔っ払ってんだろ」
と抗議しても、俊介は「まあまあ」といなし、俺をベランダに連れだして、リビングから運んできた椅子に座らせる。ゴミ袋の底に穴をあけたものをズボッとかぶらされ、俺は俊介のなすがままだ。
酔っていても俊介の器用さは変わらず、紙切り鋏でちょきちょきと俺の髪を整えた。言葉にならなかった文字の切れ端みたいに、黒く短い髪が俺のズボンの膝やゴミ袋に散り、風に舞って隅田川のほうへ飛んでいく。川面は夕日に照らされて薄いオレンジ色に染まっていた。
「いい風ですねえ、先輩」
「うん」
「どうですか、こんな感じで」
「うん、さっぱりした」
こんなふうに過ごせる時間もあと少しだろうと俺にはわかっていた。
俊介が結婚したのは五年まえ、俺とはふたつちがいだから、たしかやつが三十二のときだ。「かわいがってた後輩にさきを越されたなあ」と同僚にも学生時代の友人たちにもからかわれたが、「まあな」と俺はまた曖昧に笑った。めでたいことなんだから、さきもあともないだろうと思った。
俊介の結婚相手は取引先の女性で、俺も俊介と一緒に一、二度飲んだことがある。明るくしっかりしたひとで、結婚後ももちろん仕事をつづけると言っていた。表参道の結婚式場というのが、なんだか浮かれた感じで俺はにやにやしてしまったが、新郎がわの友人代表ということでジョークも交えつつ真剣に挨拶した。俊介は花嫁の隣で幸せそうに微笑み、俺の祝福の言葉に何度もうなずいた。元ラグビー部員たちの出し物として、俊介も加わってハカを踊ったが、学生時代にそんなのしたことがない。付け焼き刃で練習したものだったが、新婦がわの友人や親族にも受けがよかったようで、胸を撫でおろした。
「では、ご移動をお願いします」
と言われ、俺は鏡を見た。美容師の男が鋏をシザーバッグにしまい、俺の頭を軽く撫で払って、切った髪を落としているところだった。
俺は立ちあがり、美容師に導かれて洗髪台のほうへ移る。椅子が仰向けに倒れ、首のうしろが台のくぼみにはまった。顔に薄い紙をかけられ、適温のシャワーが頭皮を濡らしていく。
シャンプーの香りがあたりに漂った。しゃこしゃこと泡にまみれる感触がする。俺の髪の毛のどこにも、俊介が鋏を入れた痕跡はとっくに残っていない。俺は俊介と握手すらしたことがない。学生時代、ラグビーの試合で勝ったときは、俊介が飛びかかるように抱きついてきたこともあると思うが、そんなのはノーカウントだろう。
俺は俊介とそれなりに長い時間をともにしてきたが、その皮膚も、うちがわも、本当には触れたことがない。触れようとしたことがなかったからだし、それでよかったのだと自分に言い聞かせている。
俊介を一番よく知っているのは、やはり彼の妻だろう。
シャンプーを終え、再び鏡のまえに戻る。美容師の男はドライヤーを取りだし、俺の髪を乾かしだした。手首を小刻みに揺らしながら、やや離れた位置から温風を当ててくる。鏡に映る美容師の姿はなかなかさまになっていて、いつでも見られることを意識しているのがうかがわれ、俺はちょっと愉快な気持ちになった。美容師の男はすまし顔で、髪が短くなった俺の頭を撫でまわしつつ、あらゆる角度から風を当てる。
生まれた子どもを見に俊介の家へ行ったとき、俊介もすました顔をしていた。うれしく誇らしいくせに、「晴花、先輩が来てくれたぞ」などと乳児に話しかけ、「なにかっこつけてんの。いつもはもっとでれでれしてるくせに」と奥さんに笑われていた。
俺がそっと人差し指を寄せると、赤ん坊は小さな手できゅっと握ってきた。小さな小さな爪が生えている。かわいらしかった。こんなにかわいらしい生き物が新たにこの世に生じたのかと思って、俺はなんだか不思議で厳粛な気持ちになった。俊介と奥さんがなにをどうした結果、この生き物が生まれたのかについては、なるべく考えないように努めた。植物のように種が地面に落ち、雨を受けて芽をのばすさまをイメージした。
赤ん坊がふぇぐふぇぐ泣きだし、奥さんが別室でおむつの交換か授乳かをしているあいだ、俺はダイニングで俊介がいれたコーヒーを飲んだ。
「かわいいな」
「こんなにかわいいとは思いませんでした」
俊介は照れくさそうに微笑んだ。「結婚するなら、先輩みたいなひととしてほしいなあ。じゃないと俺、『そんな男、パパは許さんぞ』って言っちゃいそうです」
「気が早すぎるだろ。それに俺みたいな臆病な男、やめといたほうがいい」
「臆病? 先輩が?」
俊介は不思議そうに首をかしげた。「先輩は優しいんですよ」
おまえは本当に俺のことをなにも知らないんだなと、笑ってしまいそうになった。
俊介は子煩悩ぶりを発揮し、毎週のように行っていた釣りは数カ月に一度になった。それはそうだろうなと思った。俺には俺の生活がある。休みの日は築地で魚を買ってきて家で料理したり、ちょっとした出会いを求めて街に繰りだしたりと、自分なりに充実した日々を送った。
俺にとって俊介は冬の星のような存在で、うつくしく透きとおった輝きを放っているが、決して触れることはできないし、声が届く距離にもない。見つめつづけていたら寒さで凍えてしまう。ただ見上げれば、いつでも暗闇のなかで光っている。それだけでよかった。
ごくたまに俊介に誘われ、家に遊びにいった。晴花ちゃんは会うたびに大きくなり、おしゃまにしゃべるようになった。俊介の真似をして俺のことを「しぇんぱい」と呼び、「しぇんぱい、ういんな食べりゅ」と子ども用のフォークに刺したウィンナーを差しだしてくれた。ちらし寿司を運んできた奥さんが、「まあ、よしなさい食べかけなのに」と制し、「晴花のことは気にせず、トンカツのほうを召しあがってください」と勧めた。俊介は笑いながらその様子を見ていた。いまと同じ季節で、部屋には小さな男雛と女雛が飾られていた。
食事にも、会話をつづける俺たちにも飽きて、晴花ちゃんがぬいぐるみを相手におしゃべりをはじめると、「はるちゃん、髪切ってあげる」と俊介が抱きあげた。晴花ちゃんは、「ちくちくいや」と抵抗したが、俊介はうまくなだめすかしてソファに座らせ、チラシを受け皿に、器用に晴花ちゃんの前髪を整えた。やっぱりそのへんにある紙切り鋏を使っていた。「いつも夫が切ってるんですよ」と奥さんが言い、「へえ、うまいものですね」と俺は答えた。晴花ちゃんはつやつやの黒い髪をおかっぱにしていた。俺は月に一度は美容院か理髪店に行くようになっていた。
俊介は晴花ちゃんが三歳になってすぐ、病を得て入院した。半年後に復職したが、ひどく瘦せてしまっていて、一カ月もしないうちにまた入院となった。同僚たちはみな俊介を案じ、見舞いにいく算段をあえて明るい声でしていた。俺も、「ああ、そのうち行こう」と言ったが、不安ではらわたが引きちぎれそうだった。
どうすることもできないまま一カ月が経ったころ、俊介の奥さんから連絡が来て、俺は一人で病院へ行った。俊介はベッドのうえで身を起こすこともできないようで、けれど寝たまま俺のほうを見て、「先輩」と笑った。俺はかける言葉もないまま、「うん」と枕もとの椅子に座る。奥さんが静かに病室を出ていき、二人きりになった。
俊介は細くなった指で布団の縁を軽く握り、
「どうですか、最近は」
と言った。
「おまえのチームのみんな、俊介の復帰を待ってがんばってるよ」
「先輩は?」
「俺もぼちぼちやってる」
どうして俊介だったんだろうなと思った。病気になったのも、俺が惹かれてやまないのも。俺やほかのひとが病気になったのなら、ここまで心かき乱されずに済んだかもしれない。ずっとずっと俺にとっての輝く星が俊介でなかったのなら、俺はいま俊介の手を握り、もっと気の利いたことを言えたかもしれない。そんなふうに思った。でも俺は、
「退院したら、ひさしぶりに釣りに行こう」
と、愚にもつかないことしか言えなかった。
「そうですね、行きましょう」
と俊介はかすかにうなずき、笑ってくれた。
俊介は二日後に息を引き取った。
たった三カ月まえのことなのに、葬式の様子をよく覚えていない。学生時代の友人も、同僚たちも、みな泣いていた気がする。晴花ちゃんが遺影を指し、「パパ?」と聞いていた。奥さんは参列したひと一人一人に気丈に頭を下げていた。だが、俺がどう振る舞ったのか、だれとなにをしゃべり、涙のひとつもこぼれたのか、記憶は曖昧だ。
美容師の男は仕上げに、俺の前髪から耳のあたりにかけてを、ちょき、ちょき、と鋏で整え、てるてる坊主のようなケープをはずした。
「どうですか」
四角い鏡を、俺の頭のうしろにかざして見せる。店内に差しこむ光がやわらかく揺らめき、男の顔が一瞬、俊介の顔に見えた。俺はまばたきし、目のまえの鏡を慎重に眺める。まばたきするごとに、美容師の男の顔は俊介の顔に重なったり、また美容師の男の顔に戻ったりする。
不思議なこともあるものだ、と俺は頭の片隅で冷静に考える。振り返ってじかに美容師の男の顔をたしかめたい気もしたが、やめておいた。
もし俊介が本当に化けて出るのなら、俺の髪は切らないだろう。自分の家に帰って、晴花ちゃんの髪を切るはずだ。となると、いま目に映っているのは、光と俺の脳が出現させた俊介ということだろうか。
「はい、さっぱりしました」
と言うと、鏡のなかで俊介は微笑んだ。
俺の、俺だけの俊介の幽霊。
俺は施術椅子から立ちあがり、会計を済ませた。美容師の男は、「ありがとうございました。またどうぞ」と愛想よく俺を店から送りだした。
ビルの建ち並ぶ通りを、駅へ向かった。
星のない冬の夜道でも、雪明かりを頼りに歩くことはできる。俺はもう二度と夜空を見上げることはないだろう。失われた星の影が黒々と俺の足もとにのびている。
大切なものを失ったのだと、だれにも言わず、言えず、ただ歩くほかない。それはこのうえなくつらいことのようにも、これまでとなにも変わるところはないようにも感じられた。
またいつか、ふとした拍子に光と俺の脳の加減で、俺だけの幽霊が現れるかもしれない。ただそれだけを頼りに俺は黙々と通りを歩く。
春の風が無防備になった俺の首筋を撫でた。
【おわり】