馬場先輩はどうしようもないばか

1
『お風呂上がりました』
深夜十二時過ぎ。簡単なメッセージを送る。すぐに既読マークが付き、一分とたたず返信が来た。
『バイトお疲れ。今日も遅くまでえらいな。体調崩すなよ、みおちゃん』
俺はインスタのDM画面を見つめながら、はっ、と鼻で笑って乱暴に髪を拭いた。
胸がきりきりと痛む。怒っているのか、悔しいのか、苦しいのか、それとも嬉しいのか。喉の奥がせき止められたかのように息苦しい。この二ヶ月の間、自分で自分の感情がよくわからない。いや、馬場先輩に会ってからずっとこうだ。
『ありがとうございます。馬場先輩って、優しいんですね』
みおのふりをして、今日も返信を打つ。
『だろ? でも、誰にでもってわけじゃねぇから。みおちゃんだからだよ』
かすかに甘さをにじませたメッセージ。舌打ちして、スマホをベッドに放り投げた。ただ文字が並んでいるだけなのに、優しげな先輩の声で再生されて、どうにも頭から離れない。
どうして俺はこんなことを始めてしまったんだろうか。どうして今もこんな無駄なことを続けているんだろうか。
最初はちょっとした仕返しのつもりだった。同じ高校のひとつ年上の先輩――馬場凪への、小さな復讐。
俺と馬場先輩との奇妙なやりとりが始まるきっかけは、二ヶ月前まで遡る。
「見ろよ、神木。昨日、みおちゃんって子から手紙もらった」
もちろん知っている。なぜならば、そのみおちゃんは俺だからだ。
中学からの腐れ縁である馬場先輩は、とにかく恋愛脳だった。なまじ見た目がよくて、チャラくて、すぐに人を好きになって、「今度こそ運命の相手だわ」なんて毎回浮かれては別れて、そのたび俺に泣きついて失恋話を聞かせてくる。
中学一年の時、委員会で初めて馬場先輩と一緒になった俺は確信した。明らかに苦手なタイプだと。本当は近づきたくなかったのだ、俺だって。
しかし、馬場先輩はかなりの陽キャで、警戒心というものがまったくなかった。初対面の人間にも平気で個人的な話をするし、俺に対しても、まるで長年の親友のように何でもかんでも話してくる。恋愛の相談から、家族の愚痴、将来の不安まで。俺が聞きたくもないのに、一方的に。
本人がべらべらしゃべるおかげで、いつからか当たり前のように馬場先輩について何でもわかるようになっていった。校内の食堂に行かない日は、昼飯にコロッケパンと焼きそばパンを買うこと。自販機で迷った挙句、いつもレモンの炭酸ジュースを選ぶこと。彼女ができるとうざったいくらい彼女優先になること。そのせいで「重い」とか「なんか怖い」とか言われて振られていること。好きな食べ物も、嫌いなものも、今ハマっているドラマも、毎日何時に風呂に入って、何時に起きているのかさえも。
前の週に、馬場先輩はまた彼女と別れたらしく、俺は延々と愚痴を聞かされていた。よくよく聞いてみれば、どちらかが一方的に振ったのではなく、お互いに合わないという結論になったらしい。だけど先輩はうじうじと、「寂しい」だの、「早く運命の相手に会いてぇわ」だの、うるさくてかなわなかった。
長年にわたって先輩の愚痴を聞かされていた俺は、いい加減腹が立っていた。この人が俺の話を聞いてくれたためしはない。いつも一方的に話すだけで、俺の返事なんてどうでもいいのだ。
その翌日、完全にブチ切れていた俺は『みお』という架空の女の子のフリをして、馬場先輩に手紙を書いた。靴箱の中に、そっとルーズリーフの紙切れを忍び込ませる。
〝直接会って言えないけれど、ずっと馬場先輩が気になっていました〟と。俺からだとバレないように、女子が書きそうな丸文字をまねた。慣れない字体に悪戦苦闘しながら、時間をかけて、丁寧に。
いつも馬場先輩に振り回されていたのだ。今度は俺が、先輩を振り回す番だ。
案の定、馬場先輩は目を輝かせ、『みお』という謎の女子に夢中になった。翌日には自分の靴箱の扉に、『みおちゃんへ』と書いた手紙を貼りつけていた。誰が見てもわかる場所に、堂々と。恥ずかしくないのかと呆れたが、おかげで俺は何食わぬ顔で回収できた。その日から、馬場先輩の靴箱にお互いが手紙を入れ合う形で、奇妙なやりとりが始まった。
先輩は『みお』を校内で探しまくっていたが、見つかるはずもなかった。休み時間のたびにきょろきょろと周囲を見回したり、女子に声をかけては首を傾げたりしている。その姿を眺めながら、俺は久しぶりに胸がすく思いだった。いつも振り回されてばかりだったのに、今は俺が先輩を振り回している。ざまあみろ、と思った。『なぁ、かみきー、なんでだと思う?』と聞かれた俺は、『さぁ? 恥ずかしいから偽名でも使ったんじゃないですか』ととぼけて返事をした。ばかな馬場先輩は、その言葉だけで納得したらしい。ふたりのやりとりは続き、一週間後、ついにインスタのIDを求められた。
今思えば、そこでやめておけばよかったのだ。けれど俺は、『みお』用のインスタアカウントを新しく作ってしまった。プロフィール画像は適当にネットで拾ったフリーの素材。名前は平仮名で『みお』。最初のメッセージを送る時、少しだけためらった。けれど、能天気に笑う先輩の顔を思い出したら、罪悪感はすぐにたち消えた。
「なぁ、神木! 祝えって! 初めてみおちゃんとDMしたわ!」
翌日、嬉しそうにスマホの画面を見せつけてくる馬場先輩に対して、ひどいことをしているなんて思わなかった。むしろ、もっと振り回されればいいとすら感じていた。
「それは……よかったですね。だけど、なんでもかんでも俺に言わないでくださいよ。先輩なら、いくらでもほかに友達いるじゃないですか」
あまり『みお』のことを話してボロを出したくなかったし、先輩に友人が多いのもわかっていた。馬場先輩は生意気な口を聞いた俺に怒ることなく、にやにやとした笑みを向けてくる。
「まぁ、たしかにお前は、全然愛想なくて、かわいくねぇけどさー」
「……はぁ?」
「でも、神木がいいよ、俺は。つうか、神木じゃなきゃやだ」
「どうして……」
「だって、お前は噓つかねぇじゃん。愛想はないけど、その分、俺に媚びたりしねぇから」
本当にばかな人だ。たしかに俺は先輩に媚びたりしない。けれど、今この瞬間にも、噓をつき続けているのだ。
俺は馬場先輩のことなら何でも知っている。でも、馬場先輩は俺のことなんて何も知らない。俺がどんな想いで、『みお』になりすましているのかも。
2
「かみきー」
馬場先輩は二年の教室に来て、甘ったるい声を上げた。明るい気質の先輩は違う学年の教室に入ることも、大勢の人がいる中で大声を出すこともまったく気にしない。周りの視線を集めても平然としていて、むしろそれを楽しんでいるようにさえ見える。俺にはとてもまねできない。そもそも、馬場先輩と俺は、根本的に違う種類の人間なのだ。
窓際にいた女子たちが、馬場先輩を見て小さく手を振った。
「あっ、馬場先輩だー! 髪切りました?」
「お、気づいてくれた? 昨日切ったばっか」
馬場先輩が嬉しそうに笑い返す。女子たちは頰を赤らめながら、顔を見合わせてくすくすと笑っている。「めちゃくちゃビジュいい!」なんて軽い言葉を受け、先輩は冗談ぽく受け流していた。
馬場先輩は誰に対してもこんな調子だ。分け隔てなく、自然に、人懐っこく。俺は自分の机に向き直って、無意味に鞄の中身を整理した。胸の奥がもやもやする。別に俺が特別扱いされたいわけじゃない。ただ、馬場先輩の軽率なまでの気安さが、時々やけにまぶしくて、苛立つのだ。
「なぁなぁ、神木。お前今日バイトあんだっけ?」
屈託ない笑みを浮かべながら、馬場先輩が勝手に前の席に座る。
高一の頃から、近所のコンビニで週三回バイトをしていた。時給は安いが、自宅から近くて融通が利くので長く続いている。馬場先輩には何度も月・水・金がバイトの日だと教えているのに、一向に覚える気はないらしい。『みお』のバイトの日はちゃんと覚えていて、『今日バイトだろ、がんばれ』なんてメッセージまで送っているくせに。
かみき、かみき、かみき。そうやって何回も嬉しそうに俺の名を呼ぶけれど、この人の目には俺が映っていない。そんなことずいぶん前から知っていた。
「……バイトはないですけど」
「やった。じゃあ、付き合えよ。ほら神木、行くぞ」
強引に肩を抱かれると、かすかに先輩の香水の匂いがした。柑橘系の、少し甘い香り。馬場先輩らしい、軽やかで人懐っこい匂い。その匂いをすっかり覚えてしまっている自分に気づいて、深いため息がこぼれた。
地元のハンバーガー店で、いつものように馬場先輩は俺の向かい側に座った。注文したフライドポテトを無造作に口に放り込みながら、また例の話を始めようとしている。
「ぜったい今度こそ運命の相手だって。なんかさ、マジでいい感じなんだよね」
「へぇ、……そうなんですか」
できるだけ平淡な声で答える。
「みおちゃんてさ、ほんとかわいいんだよ。返事もおもしろいし、なんかノリが合うっていうか」
それはぜんぶ俺ですけどね、と心の中で毒づいた。実際の俺にはかわいいなんて言ったことがないくせに。
「しかも即レスだし、俺がしつこくDMしてもちゃんと相手してくれるし、優しいし」
馬場先輩の顔が緩んでいる。この表情を俺は何度も見たことがある。新しい女の子に夢中になった時の浮かれた顔。またか、と思った。また馬場先輩は俺を置いて、勝手に前へと進んでしまう。ポテトを乱暴に取り、口の中に放り込んだ。嚙んでも嚙んでも、なんだか味がしない。
「昨日、ダチとカラオケ行ったって言ったら、みおちゃんなんて言ったと思う?」
馬場先輩が嬉しそうに俺にインスタのDM画面を見せてくる。そこには『女の子はいたんですか?』という短いメッセージが表示されていた。
「これ、明らかに嫉妬だろ? かわいくね?」
はっと息を詰める。なんの気なしに送ったDMを指摘されて動揺してしまった。別に嫉妬したわけじゃない。ただ、なんとなく気になって聞いただけだ。
「会ったこともないんだし、……かわいいかなんて、わからないじゃないですか。それに束縛が強い女の人かもしれませんよ」
「全然、平気だって。俺も束縛したいタイプだから、そんくらいがちょうどいい」
何を言ってるんだこの人は。苛立ちなのか、失望なのか、わけのわからない感情で押しつぶされそうになる。
「つーか、お前は好きなやついねぇの?」
ふいに話を振られて、俺はポテトをつまむ手を止めた。
「……別に」
「えー、つまんね。青春しろよ青春」
「人を好きになるって感情が、……俺にはよくわからないので」
「マジかー。でもさ、好きになったらわかるよ。ずっと目で追っちゃうとかさ、相手のことばっか考えちゃうとかさー」
馬場先輩はへらへらと笑いながら、メロンフロートをストローでかき混ぜていた。
「ある意味、……気になる人ならいますよ」
思わず口から出た言葉に、馬場先輩はぎょっとしたようだった。
「は? 言えよ! お前はそういうこと、全然俺に言ってくんないからさぁ!」
聞いてこなかったのはそっちだろ、と思う。俺は馬場先輩を見つめた。陽だまりのような笑顔。人懐っこい瞳。俺より高い身長。無邪気で、屈託がなくて。俺とは正反対な。
「……どんな子なんだよ、神木の気になる人って」
どこか不機嫌になった馬場先輩が、唇を尖らせて言う。
「そばにいるだけで腹が立って、見たくもないのにずっと目で追ってしまうんです。殺したいくらい憎いのに、その人のことばかり考えています」
馬場先輩の顔が一瞬ぽかんとなって、それから真顔で口を開いた。
「お前、怖ぇな……」
先輩はそうつぶやくと、堪えきれなかったように、「ほんとやべーやつだわ」とけらけらと笑い出す。
「でも、そんだけ愛されたら幸せかもなぁ……」
愛されたら? 愛ってなんだよ。この苛立ちと憎しみと、でもどうしようもなく追いかけてしまう気持ちが愛? そんなわけない。だって、そんなわけ……。それじゃあ、まるで俺が馬場先輩を――。俺はそこで思考を止めた。じわじわと頰が熱くなってくる。
「なんだよ、お前。気になる人の話だと、そんな顔できんのな。かわいいとこあるじゃん」
馬場先輩にからかわれて、思い切り顔を背けた。どうしてこんなに動揺しているのか、自分でもよくわからない。
「……ちょっと、お手洗いに行ってきます」
「えー、お前の気になる子のこと、もっと教えろよ」
「いやです」
「かみきー、照れんなって」
「そんなんじゃないですから!」
「戻って来たら、ぜったい教えろよな」
誰が教えるもんか。逃げるように席を立ち、個室のトイレに入る。洗面台の鏡に映った自分の顔は、予想以上に赤かった。冷たい水で顔を洗いながら、ため息を吐いた。馬場先輩といると、いつもこうだ。先輩のペースに乗せられて、苛立って、でも無視できなくて、気がつくと自分を見失っている。なんでこんなにも振り回されてしまうんだろう。苦手なタイプだとわかっているのに、どうしても離れられない。
心臓がうるさい。かわいい、なんてあの人が言うから――。
数分後、ようやく鼓動が落ち着いてから席に戻ると、馬場先輩が妙な顔をして俺を見ていた。驚いたような、困惑したような表情。いつもの人懐っこい笑顔とは明らかに違う。
「……どうしたんですか?」
怪訝に思って俺が聞くと、馬場先輩は一瞬言葉に詰まった。
「お前さ……」
そう言いかけて、ふっと目を逸らす。
「いや、なんでもねぇわ」
馬場先輩の表情に、小さな違和感を覚えた。まさか、気づかれた? 俺がいない間に先輩が『みお』に何かメッセージを送ったかもしれない。もしその時、俺の鞄の中でスマホが鳴っていたら――。
いや、でも鞄のファスナーはちゃんと閉まっているし、通知音だって切ってある。大丈夫だ、バレるわけがない。それでも……。
「……先輩、俺がいない間、何かありました?」
念のために聞いた。馬場先輩は俺をじっと見たあと、すぐにいつもの軽い調子に戻る。
「べつに? お前のポテトちょうだい。腹減ってて、全然足んねぇわ」
へらへらと笑う顔は、いつもの馬場先輩だった。やっぱり気のせいだったのかもしれない。俺は小さく息を吐いて、「太りますよ」と席に座り直した。大丈夫だ。馬場先輩はどこまでも鈍感で、ばかな男なのだから。
3
それから二週間、馬場先輩は俺のところに来なくなった。いつもならなんの用事もなく教室にやってきて、勝手に俺の時間を奪っていくあの人が、ぴたりと姿を見せない。廊下ですれ違っても、軽く挨拶するだけで、必要最低限の会話しかしない。
最初の数日は、せいせいすると思った。これでようやく静かになる、と。けれど一週間が過ぎた頃から、廊下で先輩の姿を探している自分に気づいた。見つけたところで話すことなんてないのに、ただ確認しないと気が済まない。まるで中毒みたいだった。
『みお』としてのDMは順調に続いていた。むしろ前より頻繁にメッセージが来ている。馬場先輩は相変わらず『みお』に夢中で、毎日欠かさずメッセージを送ってきていた。
馬場先輩が新しい彼女に夢中になって、俺をないがしろにすることはいくらでもあった。今回もそのパターンだ、きっと。
ただ、時々『神木って知ってる?』とか、『俺の後輩にさ』みたいな話題が増えていた。俺は『みお』として、徹底的に知らないふりを続けた。
『神木って、マジで愛想ねぇし、生意気だし、何考えてんのか全然わかんねぇんだよな』
ある日の夜、馬場先輩から『みお』宛てにそんなメッセージが来た。
『でも、なんかさぁ、あいつのこと気になるっていうか。昔から妙に放っておけねぇの』
心臓が、どくんと大きく跳ねる。
『ごめん、変なこと言ったわ。忘れて』
すぐに送られてきた打ち消しのメッセージ。俺は『後輩思いなんですね』と短く返した。馬場先輩が俺のことをどう思っているのか、もっと聞きたいような、聞きたくないような。こうやって『みお』として関わるのは卑怯だとわかっていても、やめられなかった。
だって、馬場先輩が悪いんだ。そう自分に言い聞かせる日々が続いたある日、馬場先輩が久しぶりに俺の教室にやってきた。
「かみきー、今さ、お前が好きそうな映画やってるから、一緒に観に行かね?」
唐突な誘いに、少しだけ驚いた。いつもなら「暇だから付き合えよ」みたいな強引な誘い方をする馬場先輩が、なぜか今日は俺の好みを気にかけてくれている。
「……いい、ですけど」
ふっと馬場先輩が笑う。その顔はいつものへらへらとした表情で、俺はなぜか泣きたくなるくらいほっとしてしまった。
一緒に観に行った映画は、想像以上におもしろかった。馬場先輩が俺の好みを考えて選んでくれたSF映画で、ふたりでポップコーンを分け合いながら、久しぶりに先輩とゆっくりとした時間を過ごした。
「最後のシーン、愛があってよかったよな」
「ですね。バッドエンドに行くかと思ったら、救いのある感じで終わって……。好きです、こういう映画」
帰り道も、先輩は『みお』の名前を一回も出さなかった。映画の感想をふたりでわいわい話しながら歩く。なんだか、普通の友達になれたみたいで悪くなかった。
ふと視線を感じて横を見ると、馬場先輩がじっとこちらを見つめていた。
「……なんですか」
「いや、お前が楽しそうでよかったなって」
先輩は静かに笑って、前を向いた。その横顔がいつもより優しく思えて、妙に落ち着かない気持ちになる。まるで知らない人と歩いているみたいだ。
その日、馬場先輩と別れて自室に戻ると、先輩から『みお』にメッセージが来ていた。
『今まで付き合った子たちは、俺の何を好きになったんだろうな。やっぱ顔かな(笑)』
冗談めいてはいたけれど、馬場先輩らしくないメッセージだと思った。自分を卑下するような言葉。やっぱり今日の先輩はどこか変だ。
先輩が言うように、顔だけで好きになった女の子はたくさんいるだろう。そして、彼女たちは、結局先輩のそばから去ってしまった。たしかに先輩は、嫉妬深くて、そのくせ格好つけで、チャラくて、人をすぐ好きになって、重くて、騙されやすくて、どうしようもないばかだ。このとおり、俺だって馬場先輩の悪口を百個言える。けれど……、ひとつだけ感謝している瞬間があった。
あれは、中学一年の秋。俺がたちの悪い上級生に絡まれた時のことだった。
――お前、いっつもガンつけてくるよな? 何? 俺らにケンカ売ってんの?
目つきが悪い自覚はあったが、彼らのことなんて眼中になかった。ただ、普通に生活していただけなのに、難癖をつけられた。すれ違う誰もが見て見ぬふりをする中、馬場先輩だけが駆け寄ってきてくれた。
――神木、どうした? おい、何やってんだよ、お前ら。
その時の馬場先輩の声は、普段の人懐こさは封印され、低く、怒りを含んでいた。こんな声も出せるんだ、と驚いたのを覚えている。
――なんだよ、馬場には関係ねぇだろ。
――うるせー。下級生いじめんな。クソだせぇんだよ。
行くぞ、神木。そう言って、馬場先輩は俺を庇ってくれた。あの時の馬場先輩の横顔を、今でも鮮明に覚えている。普段はへらへらしているくせに、いざという時は情に厚くて、仲間を守ろうとする。
ほんの少しだけ尊敬した。きっと馬場先輩は、とっくに忘れてしまっただろうけれど。
『顔だけじゃないです。以前、上級生に絡まれて困っている後輩を、馬場先輩が助けたのを見ていました。そういうところ、すごく素敵だなって思います』
『みお』として返したつもりだが、なんだか気恥ずかしくなってしまった。
『ありがとな』
短い返信のあと、続けてメッセージが来た。
『俺、みおちゃんが好きだよ。冗談じゃなくて、本気だから』
はっとして息を呑む。いつかこうなるかもしれないって、心のどこかで感じていた。
この人が本当に俺を好きだったらよかったのに――。
今まで抑え込んでいた感情が一気に溢れ出す。
気づいてしまった。先輩に腹が立っていたのは、好きすぎて苦しかったから。殺したいほど憎かったのは、振り向いてもらえないから。目で追ってしまうのは、馬場先輩のぜんぶを知っていたいから。俺は先輩の声も、表情も、仕草も、何もかも自分の中に刻み込んでおきたかった。
でも、馬場先輩が好きなのは『みお』であって、俺じゃない。その事実が深く胸に突き刺さっている。俺だって……、俺のほうが先輩を……。
『俺のことどう思ってる?』
高揚した気持ちのまま、指先が勝手に動き出す。
『すき』
送信ボタンを押したあと、しばらく動けなかった。
『会おう、みおちゃん』
指先が氷のように冷たい。俺は震える手でスマホをぎゅっと握りしめていた。
4
駅前のカフェで、今日の午後三時に待ち合わせ。
もちろん行くつもりはなかった。その日のうちに『みお』のアカウントは削除し、普段はバイトをしない日曜日に、臨時でシフトを入れてもらった。きっと馬場先輩もようやく騙されたことに気づくだろう。それでぜんぶ終わりだ。
もう二度と馬場先輩の顔を、まともに見ることはできないかもしれない。でも、それでいいんだ。そう自分に言い聞かせているのに、胸の奥がばかみたいに痛くなる。
一秒一秒がありえないくらい長く感じた。なんとかバイトを終え、帰宅してから、妙に胸騒ぎがした。もしかして、まだ馬場先輩が待っているんじゃないかと。
いいや、そんなはずはない。約束の時間からもう十時間以上もたっている。いくら馬場先輩でも、そこまでばかじゃない。
何度も時計を確認しては息を吐いた。馬場先輩の顔が頭に浮かんでは消えていく。きっともう帰っているだろう。でも、もしも、万が一……。
いてもたってもいられなくて、自転車を飛ばして駅前まで向かった。途中から雨が降り始め、小さく舌打ちをする。最初は小雨だったのに、駅前に着く頃には本降りになっていた。カフェはもう閉まっている。夜の駅前は人通りもまばらで、街灯が雨に濡れたアスファルトを照らしていた。
ふと視線をずらすと、カフェ前のベンチに見慣れた横顔があって、息が止まるかと思った。馬場先輩は雨に濡れながら、じっと座っていた。
どうしてこんな時間まで……。俺は呆然として自転車から降りた。手に力が入らない。支えきれずに、自転車がガシャンと音を立てて倒れる。その音で馬場先輩がこちらに気づいた。
「よう、神木」
「なんで……」
胃の奥から、じわりと熱いものが込み上げてくる。馬場先輩の顔を見て、罪悪感と、激しい嫉妬に襲われた。こんなにも一途に誰かを待ち続ける馬場先輩を見たのは初めてだった。
「ばっ、ばかじゃないですか! なんでこんなに……なんでまだ待ってるんですか!」
声が裏返り、涙がじわじわと目尻に浮かんだ。雨粒と涙が混じって、頰を伝い落ちる。血管の中を、熱いものと冷たいものが同時に駆け巡っているみたいだ。
「なんでって、みおちゃんと約束したからじゃん」
普段どおり馬場先輩は笑っていた。いつもと変わらない人懐っこい笑顔。でもかすかに疲れの色が見えた。喉の奥から、嗚咽に似た音がもれそうになる。
「『みお』なんて、最初から存在しないんですよ……! 俺が騙してたんです! ぜんぶ噓だったんです!」
馬場先輩はじっと俺を見つめていた。
「いつもいつも聞きたくもない恋愛話を聞かされて! アンタは俺なんてこれっぽっちも気にしてなくて……! だから、先輩のこと、苦しめてやろうとしたのに……でも、苦しかったのは俺のほうだった……。先輩はいつだって、俺じゃない誰かを……!」
それ以上、言葉にならない。好きだなんて、今更言えるわけがない。
「気づいてたよ、神木」
「……え」
「途中でDMの相手がお前だって、気づいてた」
馬場先輩の言葉に、俺は絶句した。全身から血の気が引いていく。
「前に会った時、神木がトイレ行ってる間にみおちゃんにDM送ったんだよ。そしたら、お前の鞄から同じタイミングでバイブ鳴ってさぁ」
三週間ほど前。ふたりでハンバーガーのチェーン店に出かけたあの時。たしかに通知音は切っていたはずだった。けれどバイブ音まではどうだったのか覚えていない――。
「まさかと思って、お前の鞄開けてスマホの画面見たら、ばっちり俺からのDM通知来てて、すげぇビビったわ。……つうかお前、肝心なスマホ置いてくなよ。そういうとこ意外と抜けててウケるわ」
「……ひ、人のスマホ勝手に見るなんて、最低ですよ」
俺は羞恥心で死にそうになった。ぜんぶバレていた。こんなみっともないまねを、ぜんぶぜんぶ見抜かれていた。なのに馬場先輩は知らないふりをして、『みお』とのやりとりを続けていたのだ。
わからない。弄ばれていたのは、俺のほうだったのか。
「まったく、どっちが最低だよ。お前に比べたら、スマホ見るぐらい大したことねぇから」
馬場先輩はベンチからゆっくり立ち上がった。雨に濡れるアスファルトを歩き、俺の前に来て手首を摑んでくる。逃げたいのに、逃げられない。
「マジで、ばかにしてんのかと思ったよ。お前がみおちゃんだってわかってから、しばらくずっとムカついてたし」
ああ、そうだ。ばかにしていた。だって先輩なんて、どうしようもないばかじゃないか。
「でもさ、ムカつきながらDM読み返してたら、気づいた」
馬場先輩の声が、少しだけ低くなった。
「こいつ、俺のことすげぇ好きじゃんって。そうじゃなきゃ、何ヶ月も律儀に返事よこさねぇだろ」
雨粒が馬場先輩の顎先を伝い落ちていく。
「……お前が中一の時、あいつらに絡まれたことも、正直、俺は忘れてたよ。でもお前は、覚えててくれたんだな、ずっと」
「ち、ちが……」
一歩後ずさると、ぎりっと手首を強く握られた。速くなっていくばかりな俺の脈拍を、馬場先輩の指が感じ取っているような気がして、かぁっと頰が熱くなる。「痛い」とこぼしても、先輩は手を放してくれない。
「なぁ、好きなんだろ、俺のこと」
馬場先輩が、まっすぐに俺を捉えていた。いつものへらへらした表情じゃない。真剣で、少しだけ怒っているような目。
唇を嚙む。答えたら終わりだ。でも、もう逃げられない。
「……はい」
長い沈黙のあと、ぎゅっと目をつむり、喉から声を絞り出した。
馬場先輩はなぜか嬉しそうに笑いながら、「やっと言った」とつぶやく。
「お前って、相当めんどくせぇよな」
けらけらと笑われて、俺はもう穴があったら入りたかった。このあと、俺はどうなるのだろう。怒られるのか、殴られるのか、それとも学校中に言いふらされるのか。どれも当然の報いだ。嫌な想像ばかりしていると、馬場先輩はぽつりと言った。
「めんどくさいお前じゃなきゃ、もう満足できそうにねぇんだわ、俺」
「……っ!」
ぱっと顔を上げる。馬場先輩は困ったように、大人びた表情で微笑んでいた。
「お前がみおだって気づいてから、お前のことばっかり考えてたよ」
こんな顔をする人だったんだ、と場違いに思う。
「それで、俺の運命の相手は、お前みたいに怖いくらいしつこく好きでいてくれるやつなんじゃないかって……思った。頭おかしいかもしんないけど」
本当に頭がおかしい。この人は本気で言っているのだろうか。散々俺に騙されたのに、許してくれるというのだろうか。心臓が激しく鼓動して、耳の中がどくどくとうるさい。
「馬場先輩、もし俺をからかって言ってるんなら、殺しますけど……」
「ははっ! お前さぁ、それやばいね」
馬場先輩は俺の頰に手を添えた。冷たい雨と夜気の中で、その手だけが温かい。
「『好きじゃないなら殺してやる』みたいな目で見られんの、マジでたまんねぇわ」
息ができない。頰が熱くてたまらない。
「なぁ、付き合おうぜ、かみきー。俺のことずっと愛してくれんなら、俺もお前のことずっとずっと愛してやるからさ」
ぐずっと洟をすすっている俺の顔を、雨に濡れた先輩が覗き込んでくる。
「なんとか言えよ」
やっぱり馬場先輩はどうしようもないばかだ。
「……先輩が……本当に俺のものになってくれるなら、俺だって大事にします。あの子たちよりも、死ぬほど大事にします……」
そして、そんなばかな馬場先輩を好きで、涙が出るほど嬉しいって思っている俺もどうしようもないばかだった。
「よし、じゃあ決まりな」
ふいに手首を引かれ、後頭部を押さえられた。雨の音が遠のいていく。驚いている間に、馬場先輩の唇が俺の唇に重なった。思わず目を見開く。慣れた様子で俺からそっと唇を離した馬場先輩の顔には、意地の悪い笑みが浮かんでいた。
「なっ、なんで、キ、キスっ……」
「お前さ、もしかしてキスすんの、俺がはじめて?」
何も言えず、赤い顔で小さくうなずいた。もういやだ。恥ずかしくて、でも嬉しくて、そんなふうに嬉しいと思う自分に苛立って、どうしたらいいかわからない。
「なんだよ、調子狂うわ……。ほんと、お前かわいい」
馬場先輩が、何も言えない俺の体を引き寄せてきた。濡れた先輩の体から、香水と雨の匂いがした。
かわいい、って本当は言われたかった。ずっと、ずっと、あの子たちみたいに。
「神木は、男だしさぁ」
何を言われるのかと思って、びくりと肩が揺れる。
「今までの彼女みたいに、遠慮して簡単に手放したりしねぇから。俺と別れたいなんて言ったら、地の果てまで追いかけてやっからな、覚えとけよ」
雨の音に紛れて、馬場先輩はいつもの軽い調子で俺の耳元にささやく。たまらなくぞくぞくした。俺は赤い顔のまま馬場先輩を睨みつけ、ゆっくりとうなずいてみせる。
「そっちこそ、……俺から逃げ出したら殺しますからね」
おかしそうに先輩が声を上げて笑う。ばかな馬場先輩。だって俺は、アンタだけがどうしてもほしかったんだから。
【おわり】