亡き王女のオペラシオン 第六回
【二幕 ふたりのイストワール・一】
「ほら、じっとおし。暴れると水がこぼれるじゃないか」
「痛い痛い! そんなに強く擦らないで!」
ル・アーヴルから帰ってくるや否や、マルトは「あんたの身柄は預かった」と宣言した。
そしてベアトリスをアパルトマンの中庭に引っ張っていくと、ぼろぼろの服を引き剝がし丸洗いをはじめたのだ。
「痛い痛い痛い! 目に入った、沁みる!」
「本物のマルセイユ石鹸だよ、高級品なんだから全身で存分に味わっとくれ」
石鹸もろとも、自分もなくなるまで擦られるんじゃないか。そんな恐怖と痛みに苛まれる時間が終わると、綿布でわしわし、ごしごし拭かれ、ようやく服を着せてもらった。擦られすぎて、肌に布が触れるだけでもひりっとする。
「はぁー、やっとキレイになった。あんた、ブロンドだったんだね。ちゃんと手入れすりゃ、きっと見事な髪になるよ」
自分の腕を鼻に近づけてくんくん嗅ぐと、石鹸のいい匂いがする。
それからマルトはベアトリスを連れて、アパルトマンの螺旋階段を上りはじめた。
店舗部分を地階として、その上から一階、二階……と上っていった五階、つまり六階分の階段を上ったところで空き部屋の中に案内すると、ベアトリスの手に鍵を落とした。
「ピトゥが帰ってくるまでだからね」
願掛けでもするかのように、そう、来るとも知れぬ期限をつけて。
「朝晩は食堂におりて、弟のギヨームと一緒に食事するんだよ。出された分は残さず食べること。肉屋の上にダシも取れないような鳥ガラが住んでたんじゃ、店の評判にかかわるからね。ここで暮らすからには、降誕祭の七面鳥みたいにまるまる太ってもらうよ」
「ギヨームさんと? マダムは?」
「あたしもいる時は一緒に食べるけど、ここにはたまにしか帰ってこないんだ。夜は仕事で、その後はだいたい……いい人んとこさ」
「いい人」
妖艶な笑みを返され、どぎまぎしてしまう。
もしかしたらマルトとピトゥは恋仲か、そうでなくともマルトはピトゥを好きなのだろうと思っていたけれど……ただの勘違いだったのだろうか。
実の兄にそうとも知らず求婚してフラれるという初恋を経験しただけのベアトリスには、大人の男女の機微などわかるはずもないが。
「あの、仕事って? マダムはシャルキュトリのおかみさんじゃないの?」
マルトはふふんと豊満な胸を張る。
「あたしはね、女優なんだよ。これでもリズドー座ってとこの看板さ。いわゆるヴォードヴィルとかオペラ・コミックとか、まあそういう歌の入った芝居をやってる小さな劇場だけどね」
(――歌! 劇場!!)
「わ、私もそれ、やる! 私も入れて!」
「あのねぇ、子どもの遊びじゃないんだよ」
「わかってる、人前で歌いながら演技するんでしょう」
全身の痛みも忘れて、勢い込んで飛びつく。するとマルトはベアトリスを突き返すように腰からのけ反り、大げさに天井を仰いだ。
「ああ、やだやだ! はじまったよ。これだからね若い娘ってのは、ちょいと見てくれがよきゃ自分も簡単に舞台に立てると思ってんだから。あんたまでそんな浮ついたことを言い出すとは思わなかったよ」
「そんな軽い気持ちじゃないの、本当よ。単なる憧れとも違う、私は歌手になるって決めたの。ピトゥにもそうしろって言われたし……有名な歌手になって、この世の中を変える。私の力でピトゥを流刑地から取り戻すんだから!」
口に出した瞬間、ベアトリスの中にあった決意が、くっきりと輪郭をもって浮かび上がってきた。そしてそれは、一度自覚してしまえば自分でも止められないほどの推進力をもって少女を突き動かす。
「おお、そりゃすごい。夢を見るのは恥じゃないよ、あんたの歳ならなおさらね」
しかし、マルトはまったく相手にしてくれなかった。
「本当に、本気なの。お願いしますマダム、私何でもするから」
「だったらまずは、その骨と皮しかない身体を何とかするんだね。こんな痛ましいのが舞台に出てきたんじゃ、喜劇も笑えやしないよ」
「じゃあ、太ったら出してくれる?」
「そうだね、立派な七面鳥になったらドレミを教えてあげるよ」
「そんなのとっくに知ってるって! ねえ、本当にお願いだから……」
「はいはい、あたしはもう行かないと。何か困ったことがあったらギヨームに言うんだよ」
「マダム!」
「それからその、マダムってのもやめとくれ。マルトでいいよ、それじゃあね」
「マ」ばたんと扉が閉まる。「ルト……」
足音が階段を下りていった。
ふぅと息をついたベアトリスだったが、逃げられたことに落胆するよりも、いまはまず、この天の配剤のような巡り合わせに感謝する気持ちの方が大きかった。
マルトが女優だったなんて、奇跡のような偶然だ。
(ううん、ただの偶然じゃないよね)
ピトゥが歌声を磨けと言い残したのも、マルトに教われという意味だったに違いない。
断られたなら、承諾してくれるまで説得し続けるだけのこと。
よしと意気込んで、ベアトリスは室内を見回した。長く使われていなかったらしい部屋は埃っぽくてあちこち蜘蛛の巣も張っているが、必要最低限の家具は揃っていて、一人で住むにはもったいないほどだ。
まずは掃除。換気をしようと窓に近寄った時、視界の端に映り込んだ人影に、はっと振り返った。
見開かれた蒼い瞳と、黄金色に輝くざんばらの髪。
「シャルル……」
それは鏡に映った自分の姿だった。壁掛けの埃でくすんだ鏡の中にいるその人物を、一つ違いの兄と一瞬見間違えたのだ。
こんなにも似ていたなんて。
ベアトリスは首にかけていた麻紐を引っ張り、鏡の向こう、もう一人の自分に見せるように、服の中から小さな巾着を取り出した。ついさっき服を剥ぎ取られて全身洗われた時ですら死守した、これまでずっと、肌身離さず身に着けてきたものだ。
中に入っているのは姉の火打ち金と、ユードの壊れたブローチの台座。たったこれだけが、ベアトリスの荷物とも呼べない持ち物で全財産だった。
一流の大歌手になり、世界で活躍するようになれば、ウィーンにいるマリー・テレーズとも再会できるかもしれない。
鏡の中の自分に、ベアトリスは誓った。
与えられたこの命で、きっと望みを果たしてみせる。
シダの葉で飾られた大皿には、大輪の赤いバラ肉の花が咲いている。豚の腸が詰まった巨大ソーセージのアンドゥイユは渦巻き模様の断面が木の切り株に似ているし、このシャルキュトリはさながらお肉の森だった。天井にぶら下がるソーセージの輪っかや生ハムの原木も、鬱蒼とした感じに一役買っている。
お世話になりっぱなしでは心苦しいので、ベアトリスは毎日ギヨームの手伝いをして過ごしていた。いまは厨房で豚肉にパン粉をつけているギヨームに代わって店番をしているところだ。
貧民屈をうろついていた頃はパリ中でバケツ一杯の食糧を奪い合っているように思えたものだが、この通りには豚肉屋の他にも鶏肉屋やパン屋、菓子店などが軒を並べて、毎日腐らせるほどの食べ物を売っている。
ここに来てからというもの、ベアトリスは『あるところにはある』という現実を目の当たりにしていた。
この辺りで店を構えているのは、いわゆる小ブルジョワジーということになる。かつての貴族さながら豪勢な暮らしをしている大事業主とは違うが、庶民でも私有の財産を持つ比較的裕福な商人たちだ。
お腹が膨れるほどの食事、暖かい部屋、ぐっすり眠れる柔らかい寝具。全部姉さんのおかげだとギヨームは言うけれど、女優の稼ぎとはそれほどすごいのだろうか。
いや、そうでなくては困る。
これから歌で権力を摑み、ひとかどの地位に上らなくてはならないのだから。女優にそれくらいの将来性がなくては、ピトゥを救い出すなんて夢のまた夢。
ともあれまずは、マルトを説得して劇団に入れてもらうか、個人的にでも弟子にしてもらわなければならないのだが……あれからひと月以上が経ち、年も明けたがマルトとは一度も会えていない。
たまにしか帰ってこないとは聞いていたものの、こんなに会えないものとは思いもしなかったベアトリスは、さすがに焦りを感じはじめていた。
一日でも早く、舞台に立って歌いたいのに。
「お嬢ちゃん、今日は一人で店番かい」
「あ、いらっしゃいロジェじいさん」
大皿が並ぶ棚の奥で考え込んでいたベアトリスは、はっと顔を上げた。
この店に立つようになって知ったのだが、いつもピトゥの歌を聴きに来ていたあのおじいさんは、以前ここにピトゥの流刑を知らせにきていたロジェの父親だったのだ。
父子そろって妻に先立たれた男やもめで、二人とも時々ここに夕飯を買いに来たり、何も買わなくても世間話をしに来たりしている。
「それにしても見違えたの。あの嬢ちゃんが、すっかり小綺麗になって。うんうん、磨けば光るとはこのことじゃ。ちょいと肉もついてきたんじゃないか」
「本当? 私太った? 女優になれそう?」
棚に身を乗り出すと、大ロジェことロジェじいさんは及び腰になった。
「うーん、ま、前よりはマシ程度にはの……しかしこの調子でマルトみたいな身体つきになったら、年頃にはパリ中の男たちが放っておかんようになるぞ。うむ、女はあのくらい肉づきのいい方が色っぽくていい」
七面鳥への道はまだまだ遠いようだ。
それにマルトのあの調子では、多少太ったところで、まともに取り合ってくれるかどうかも怪しいものだった。
「ねえ、ロジェじいさん。ポン・ヌフでの私の歌、どうだった?」
「ん? おお、そりゃよかったぞ。可愛らしゅうて、小鳥のさえずるようでな。心が洗われたわい」
「ありがとう! 私、絶対諦めないからね!」
「おう、なんだか知らんががんばれ」
王妃であった実の母や、タンプル塔の人たちも褒めてくれていた。ピトゥだって認めてくれたのだ、マルトにも実際に歌を聴いてもらえさえすれば、きっと道が拓けるはず。
そんな思いが通じたのか、その日ようやくマルトが帰ってきた。
実は朝のうちに戻っていたのだが、夕方まで自分の部屋で寝ていたので、いるのに気がつかなかったのだ。
ベアトリスが再会を果たせたのは、夕飯の食卓でのことだった。
「おやまあ、本当にあんたかい? この間は全身擦ったから真っ赤っかでわからなかったけど、ちゃんと垢を落としたら真珠みたいに綺麗な肌じゃないか。顔色もよくなって、別人みたいだよ」
マルトやロジェじいさんにも言われた通り、いまやベアトリスは、ドブネズミのようだった以前の姿とはくらべようもなくなっていた。
まばゆいほどに白い肌。毎日肉を食べているおかげか血色もよくなり、唇は薔薇のように赤くみずみずしい。身体つきこそ痩せぎすのままだが、ぼろ布を直接身に纏っていた頃とは違い、きちんと肌着を着てスカートや上衣を重ねていれば、それほど貧相にも見えなかった。
「ほんとにね。いきなり姉さんがうちに連れてきた時には、正直どうしようかと思ったけど……ベアトリスはすごいんだよ。読み書きだけじゃなくて、計算までできるんだ。ちょうど下働きの子が兵隊に取られてまいってたのが、おかげで大助かりだよ」
「へえ、そりゃ驚いた。案外毛並みのいい子だろうとは思ってたけど、ひょっとして元は貴族かい」
「違うよ。元王女」
「ほらね。冗談のセンスもあるから、お客さんにも好かれてるんだ。すっかりうちの看板娘さ」
「こりゃいい拾い物をしたねぇ。紹介料をもらわなくっちゃ」
テーブルを囲む姉弟は、あははと笑い合う。
そんな二人に割り込むように、ベアトリスは身を乗り出した。
「でも、いちばんの特技は歌をうたうことです。では一曲、聴いてくださ……」
「あー、やめやめ、よしとくれ! まったく、そんな話をされるんだったら帰ってくるんじゃなかったね」
マルトは大げさに両耳を塞ぐ。
「マルト! お願いだから……せめて一度でいいから聴いてみてよ。私本当に真剣なんです、見習いでも何でもいいから、私も一座に入れてください。お店のお手伝いもちゃんと続けるから」
「ああもう、勘弁しとくれ。あたしは疲れてるんだよ、この話はおしまい。勝手に歌いだしたりしたら怒るからね。あんまりしつこくすると、この家からも叩き出すよ」
「そんな……」
「姉さん、なにもそこまで言わなくても。ちょっとくらい聞いてあげればいいじゃないか」
「どうしてあたしが子どもの我が儘に付き合ってやらなきゃいけないんだい、もう充分すぎるほどよくしてやってると思うけどね。ほら、余計なこと言ってないで、さっさと食べないとスープが冷めちまうよ」
そう言われてしまっては、ベアトリスも引き下がらずを得なかった。
マルトは翌朝も頑なな態度を崩さず、結局交渉もできないままに「じゃあまたそのうち」と出ていってしまった。
弟子にしてもらうどころか、居候の身分さえ剥奪されかねない危機である。
だからといって諦めるわけにはいかないし、諦めるつもりもベアトリスにはさらさらないが。
しかし、あれほど面倒見のいいマルトが、こればっかりは話を聞いてさえくれないというのはどうも不思議に思えた。
やはり熱意が伝わっていないのが問題か。けれど真剣さを伝えようとすれば怒ってしまうし、いったいどうしたものか。
今日も今日とて店番用の椅子にちょこんと座っていたベアトリスは、ぐるぐると堂々巡りに頭を悩ませていた。
「ん?」
ふと、小さな男の子が外から覗いているのに気がついた。板硝子にべったりと張りついて、店内に置かれた食品の一つひとつに視線を定めては、じっくり観察している。
骨つき肉が載った大皿に目を輝かせ、小さな紙の旗を突き立てたリエットの壺に舌なめずりし、テリーヌの皿を見つめているうちに口からヨダレを垂らす。
身なりはそれほど悪くない。庶民的な長ズボンに短い外套を羽織っていて、ボロでもちゃんと靴を履いているが、あれだけ食べ物に執心しているからには、相当お腹を空かせているのだろう。もしかしたら何日も食べていないのかもしれない。
それにしても綺麗な坊やだなと、ベアトリスはまじまじその子を眺めていた。大きな瞳にぽちゃっと丸い頬、くるんとした巻き毛が可愛らしくて、まるで教会の天井画から舞い降りてきた天使そのものだ。
その愛くるしい坊やは、ひとしきり店内を眺め終わると何やら小さく頷き、張りついていた硝子から離れたかと思うと、横の戸を引いた。
そして入ってくるや、うっとりと目を瞑って鼻をひくつかせている。
「この匂い……ソーセージ……黒ブーダンかな」
独り言のようにこぼしたつぶやきに、ベアトリスはぎょっとする。
たしかに厨房ではギヨームが豚の血入りソーセージを茹でていた。しかしそれはとっくに茹で上がっていて、いまはもう中庭に干されている。熱々を竿にぶら下げて厨房から運び出していった時こそ、店の方まで美味しそうな匂いが漂ってきていたが……まさかその残り香を嗅ぎ分けたというのか。
これは余程の空腹状態に違いない。飢えると本能が研ぎ澄まされるのか、ベアトリスも浮浪児だった頃は食べ物の匂いに敏感だった。
「ねえ、坊や、お腹減ってるのよね……?」
気の毒になって声をかけると、少年ははっと目を開けた。そしてベアトリスの顔を見るや、大きな榛色の瞳をこぼれんばかりに見開く。
「――お姫さま」
「え……」
どくり、心臓が嫌な脈を打った。
見ず知らずの少年が、ベアトリスを見てお姫さまと、確かにそうつぶやいたのだ。
(私のことを――――私が王女だと知っている?)
想像もしなかった事態に、頭が真っ白になる。
ベアトリスが茫然と声を失っていると、榛色の瞳がぱちぱちと瞬き、その目から徐々に驚きの色が失せていった。
「あ、すみません、知ってる人に似てたから。そんなわけないのに……」
「あ……そ、そう。なんだ、人違い……」
ほっと気が抜けたベアトリスは、ぎこちなく笑った。
まったく、知り合いに紛らわしいあだ名をつけてくれるものだ。自分と見間違えたということは、ちょっと年上の女の子をお姫さま呼ばわりしているのだろうか。この美貌といい、まだ幼いのに末恐ろしい少年だ。
ベアトリスが感心半分でいると、坊やは遠慮がちにリエットの壺を指差した。
「それ、少しもらえますか? あ、でもお金が……」
そう言ってごそごそとポケットを探りはじめる。
ベアトリスはリエットの端を木ベラでさっと掬い、どうぞ、と差し出した。
「お金ないんでしょ。いいよ、少しだけなら」
死と隣り合わせの空腹のつらさは、身をもって知っている。それもこんなに小さな子どもを、無下に追い返すことなどできなかった。
「え、いや、そうじゃなくて」
「ほら、見つからないうちに早く。私もここの家の子じゃないんだから、ほんとは勝手にあげたりしちゃいけないの」
「あ、じゃあ……どうも」
少年は指でリエットを掬い、ぱくりと口に含んだ。すると「むっ!」と眉を寄せ、目を閉じて何やら考え込んだ様子になる。
「あの、ちょっと? 早く食べちゃってほしいんだけど……」
「……これを作った人を呼んでくれませんか」
「だからその人に見つからないうちに帰ってほしいの」
困り果てたベアトリスが必死で急かしていると、話し声が厨房まで聞こえたのか、ギヨームが顔を出した。
「ベアトリス? 騒がしいけどどうかしたの、お客さんかい?」
「あ……」
終わった。これだけお世話になっておいて、商品に手をつけている現場を見つかったのだ。
絶望に暮れるベアトリスの前を、すっと少年が進み出た。
「あなたがこのリエットを作ったシャルキュティエですか」
「うん、そうだけど?」
調理服のギヨームは、下から背伸びで差し出された手を、思わずといった様子で取る。少年はその手をぎゅっと握って続けた。
「香り、豚肉のうまみと脂のコク、ほぐした肉の食感とペーストのなめらかな舌触りの融合……すべての調和がとれた素晴らしい作品です。臭みがないのは肉を煮込む前に軽く焼いて最初の脂を取り除いているのではないかと推察しましたが、いかがでしょう? もちろんローリエやセロリの臭み消しも利いています」
「そ……そう、その通りだ! どうしてそれを? 僕が何年も考えて辿り着いたやり方で、誰にも話してないのに……」
「独学でこのレシピを? 恐ろしい才能ですね。塩味もバゲットに塗った時に最適になるよう絶妙に計算されているのには脱帽せざるを得ません」
「そう、そうなんだよ! それに気づいてくれるなんて……ああ、どうしてそれだけで食べてしまったんだ。いまバゲットを切ってくるから、今度はちゃんとつけて一緒に味わっておくれよ!」
ギヨームが厨房に駆け込んでいく。
ベアトリスは唖然としてその場に立ち尽くしていた。
「お代はこれでいいかな? フランスのお金を持ってなくて、ソルドしかないんだけど」
そう言って、少年は見たことのない硬貨を差し出してきた。
少年は北イタリアのペーザロという港町の生まれで、政変の影響で両親が投獄され、親戚を頼ってどうにかパリまでやってきたという。
たしかに北イタリアは常にフランスとオーストリアがせめぎ合う地で、フランスが優勢になれば親オーストリア派が、逆にオーストリアが優勢になれば親フランス派が弾圧されてしまう政情の不安定な地域ではある。
しかし、まだ五、六歳程度にしか見えない小さな子どもがたった一人で外国まで逃げてくるなんて、なかなかできることではないだろう。
フランス語も流暢で、それこそ高等教育を受けた貴族の子かと思えば、父親は平民で食肉工場の監督官をしていたという。
「そうか、きみが肉料理に造詣が深いのはお父さんの影響なんだね。なるほどどうりで。それにしても、こんなに幼い身空ではるばるパリまでやって来たっていうのに、頼りの親戚が引っ越していただなんて……ああ、神さまはなんて残酷なことをなさるんだ」
料理談義に花を咲かせているうちに日が暮れてしまい、ギヨームはそのまま少年を夕食に招いた。いまは三人でテーブルを囲んで、少年の身の上話を聞きながらギヨームが同情の涙を浮かべているところだ。
「まだ小さいのに苦労したんだね、気の毒に。そうだ! きみさえよければ、親戚の行き先がわかるまでのあいだここにいたらいいよ」
「いいんですか?」
「ああ。いまは屋根裏部屋しか空いてないんだけど、それでも構わないかい」
「もちろん。助かります」
こんなに小さな子を、本人の話を聞いただけで簡単に住まわせてしまっていいのだろうか。ベアトリスは心配になるが、身元の不確かさを問題とするならば、明確に素性を偽っている自分の方が分が悪い。
「うん、うん。きみの舌は確かだ、これから意見をもらえたら僕も助かるよ。ここまで僕の料理を深く理解して味わってくれた人はいない。いや、みんな美味しいとは言ってくれるよ? けどこんなふうに、料理を哲学的に語れる相手とは出会ったことがなくて。どんなに時間と手間をかけて作っても、食べてしまえば一瞬で消えてなくなるからね」
「料理とは身体で感じる芸術です。作り手に敬意を払い、一皿の裏側に隠された知恵と努力まで味わい尽くさないともったいないじゃないですか」
「ああ……こんな日がくるなんて! 今日は何て気分がいいんだ。さあ、きみも飲んで」
やけに饒舌だと思ったら、ギヨームはすでに酒が回っているようで、少年のコップにワインを注ぎはじめた。それをためらいもなく口に運ぼうとする少年の手からコップを取り上げて、ベアトリスは二人を叱りつける。
「ちょっと何やってるの、坊やはだめでしょ。ギヨームさんも飲みすぎよ、もうその辺で終わりにして」
「あー……、ベアトリスまで、姉さんみたいになっちゃった……どんなに可愛い女の子でも、みんないつかはこうなっちゃうんだね……」
すっかり酔っぱらったギヨームに、ベアトリスは呆れてため息をつく。
もしここにマルトがいたら、「あんたが情けないからあたしらがこうなるんだよ!」とでも言っていただろうか。
「うーん、眠くなってきちゃったなあ……ベアトリス……彼を、上に案内してやって……鍵は、そこ、うん、その引き出しに……」
ベアトリスが鍵を取り出すと、ギヨームはこてんとテーブルに突っ伏してしまった。
「おいで、こっちだよ。屋根裏部屋は階段が別なの」
手燭を片手に、狭い裏階段を上る。後に続く少年は可愛らしく膨れたお腹を重たそうにして、えっちらおっちら交互に足を持ち上げていた。
「ねえ。ご両親が捕まったって本当なの?」
やはりどうも釈然としない。
ベアトリスがこのくらいの頃――まだソフィーだった頃も、ませているとか、子どもらしくないとか言われたことがあるが、そんな自分から見ても、この子はあまりにも大人びている。そもそも年齢不相応なベアトリスがそばにいるせいでギヨームの子どもに対する認識がおかしくなってしまったのか、彼はまったく疑っていないようだが。
「どうして。そんな嘘ついて、僕に何の得があるの」
「そうね……たとえば、同情してもらえて住むところを確保できるとか?」
ぴた、と少年の足が止まる。
俯いて黙り込んでしまった坊やの頭を見下ろしていると、ベアトリスは何だか自分が悪いことをしているような気になってきた。こんなに小さな子を問い詰めるなんて大人げないのではないかと、子どもながらに心苦しくなったのだ。
「えっと、べつに責めてるわけじゃないの。さっきも言ったように、私もここに居候させてもらってる身で、偉そうなことは言えないんだけど……ただちょっと気になるのよね。なんでパリだったんだろうって」
投獄されたにしても両親は健在なのだ、もっと近くに頼れる人はいなかったのか。
唯一の親戚だったとしても、引っ越していたのも知らなかった程度の付き合いを当てにして、こんな小さな子ども一人で外国まで危険な旅をするなんて割に合わない。ましてフランスはいま、ヨーロッパ中と戦争状態なのだ。政情の不安定さではイタリアに勝るとも劣らない。
考えれば考えるほど腑に落ちなかった。そんなベアトリスの心中を悟ったのか、少年は観念したように、「料理」とつぶやく。
「パリの料理を、この舌で味わいたかったから。パリは昔とすっかり変わったって聞いた。レストランが流行って、料理が文化になりつつある美食の街に、どうしても来てみたかったんだ」
彼の言う通り、パリはレストラン勃興の時代を迎えている。それはまさにフランス革命の産物ともいえるもので、貴族お抱えの料理人たちが勤め先を失い、相次いで自分の店を開いたことや、それまで食材や調理法ごとに細分されていた組合が廃止され、一つの店で多様な料理を提供できるようになったことなどが影響している。
だから何も間違ってはいないのだが。
「僕は料理人になる。でもただの料理人じゃない、生きてるうちにちゃんと評価されて、大金を稼ぐ成功者になるんだ。そのためにパリに来た」
やはり、とても子どもの言うこととは思えない。
けれどこの言葉は嘘ではないと、燃える大きな瞳を見ればわかった。
「そう」
ベアトリスは前を向き、また階段を上りはじめた。
「じゃあ、私と一緒だね。私も野心家だから」
屋根裏部屋までは狭くて急な階段を七階分上らなくてはならなかった。小さな身体ではそれだけで一苦労だ。
「部屋、代わろうか? って言っても私の部屋も五階だから上り下りは大変だろうけど、屋根裏部屋よりはずっといいはずよ」
「いい。ここにいつまでいるかわからないし、上の階の足音がないだけ屋根裏の方が落ち着けると思う」
「そう……やっと着いた。はい、ここがあなたの部屋」
細い廊下に並んだ三つの扉、そのうち一つに鍵を差し込む。
扉を開くと、狭苦しい室内のすべてが見渡せた。天井とも壁ともつかない斜面に、小さな屋根窓が一つついているだけの空間だ。
「ほんとにここでいいの?」
「うん。ふわぁ……だめだ、もう眠い。子どもの身体にはかなわないな……」
小さなお口を大きく開けた少年は、靴をぽいぽい脱ぎ捨て、備え付けの布団に吸い寄せられていった。
「寝る前にちゃんと鍵をかけてね。それじゃおやすみ、えーっと」
そういえば、ちゃんと名前を聞いていなかった。
少年はもう一度大きなあくびをしながら言う。
「ジョアキーノ。ふぁ……ジョアキーノ・ロッシーニ」
「おやすみなさい、ジョアキーノ」
「おやすみベアトリス」
さてと、とベアトリスは肩を回す。
これから下におりて、テーブルと酔っぱらいを片づけたら、また五階まで上らなければ。これだからパリのアパルトマンは上階ほど家賃が安いのだ。
「おっ、何だ、子どもが増えてる。このちっこいのはベアトリスの弟か?」
「違うよロジェさん。全然似てないでしょ」
「うーん。でもまあどっちも可愛らしいなぁ、姉弟みたいでいいじゃないか。姉の方はちょいと痩せすぎだけどな」
ジョアキーノはほとんど厨房に入り浸っているが、短く非力な手足では手伝えることにも限界があり、調理の工程によっては危険もある。そういう時はギヨームの邪魔にならないよう店の方に出てきて、陳列してある料理に乾燥を防ぐ布をかけたり、売れた分だけ減った肉を皿の上で美しく盛りつけ直したりと、甲斐甲斐しく商品の世話を焼いていた。時折つまみ食いさえしなければ完璧な働きぶりだ。
ロジェがおしゃべりだけして帰っていくと、すっかり暇になってしまったベアトリスは、棚に頬杖をつき、ぶら下がるハムをぼうっと眺めながら考えていた。
マルトを説得するにはどうしたらいいのか。
やはり、生半可な気持ちではないということをわかってもらわないと。熱意のほどを見せるべきだ。
そしてそれは、ここでこうして待っているだけでは伝わらない。
「よし」
ベアトリスは店番用の椅子から立ち上がった。
「ジョアキーノ、一人で店番できる? お客さんが来たらギヨームさんを呼ぶだけでいいから」
こくりと頷く坊やが、やたらと頼もしく見える。
ベアトリスは厨房に行き、ギヨームにマルトの劇場、リズドー座の場所を尋ねた。
タンプル大通り――かつてテンプル騎士団の寺院だった敷地に沿うその通りには、多くの劇場や常設の芝居小屋、見世物小屋などが立ち並び、活気ある劇場街を成している。
路上にあふれる呼び込みの芸人や役者、見物客。ベアトリスは雑踏の中、周囲を見回しながら歩いていた。
顔を上げれば目に入るのは、このパリのど真ん中に残る中世暗黒時代の塔。
とんがり帽子の屋根や石壁はいかにも陰鬱に黒ずんでいて、その姿は直立不動の古兵たちが背中を寄せ合い、不吉なまなざしで街を見下ろしているようだった。
あの要塞の内部をベアトリスは知っている。そこで最後に見た光景が蘇り、ぞくりと震えが走った。
タンプル塔には近づくなと、アンは言い残した。
あの頃にいた役人や使用人が、まだあそこに残っているかはわからない。けれどもし誰かと会ったとしても、いまのベアトリスがあのソフィーだと看破されることはないだろう。
(大丈夫。堂々としていよう)
胸を張って歩いていたベアトリスは、『リズドー座』の看板を見つけて立ち止まる。
通りに面して庇を張った入口には、色刷りの公演ポスターが貼りだされていた。『わたしの夫マルタン・ゲール』という演目の題字に、主演マルトの名が大書されている。
間違いない、ここだ。よしと意気込んで、ずんずん進み入る。
「ちょっとちょっと、待ってお嬢ちゃん、切符は? まだならあっちの人から買ってね」
「あ、ごめんなさい。私はお客じゃなくて、マルトに用があって来たんです」
「何だそうか、届け物のおつかいかい? 楽屋に行くならあっちだよ、もうすぐ幕が開くから手短にね」
「メルシー、ムッシュー」
案外すんなり入れたことにほっとしつつ、開演直前とは間が悪かったかなとも思う。
それにしても、とベアトリスは視線をめぐらせた。マルトからは小さい劇場だと聞いていたけれど、想像よりずっと立派な建物だ。
木造とはいえ、大理石風の化粧漆喰で装飾された空間は宮殿の内部のよう。入ってすぐのホワイエも広々として、労働者から紳士淑女まで、開演を待つ客で賑わっている。
ベアトリスは吸い寄せられるように大階段のなめらかな手摺りにそっと触れると、階段を上り、好奇心のまま客席への通路を進み劇場内を覗き込んだ。
「わぁ……」
鍋の底にあたる平土間席は緩やかな階段状になっていて、二百人以上は座れそうだ。それを三方からぐるりと囲む桟敷席は二階まで、つまり三層にもなる。アポロンとミューズたちの描かれた天井画からは、彼らの手にする楽器の音がいまにも降り注いでくるようだ。
舞台には幕が――たっぷりとドレープをつけた繻子が重なっているようなだまし絵の緞帳が下りていて、その舞台と客席の間では楽団が音合わせをしている。
(すごい……マルトはいつも、こんなところで歌ってるんだ)
想像しただけで胸がうずき、甘い興奮が込み上げてくる。私もここで、あの楽団の伴奏で歌えたら。
「ちょっと、こんなところで立ち止まらないで」
「あっ、すみません」
本来の目的を思い出したベアトリスは、慌てて楽屋口へと向かった。
きらびやかな表側と打って変わって、舞台裏は木材剥き出しの小屋のような造りで雑然としていた。楽屋が並ぶ狭苦しい通路は、開演前だけあって人でごった返している。
動きの確認をしている踊り子や、発声練習をしている役者、衣装や小道具を手に慌ただしく走り回る裏方、その喧騒も我関せずといった顔で優雅に佇んでいる何の関係もなさそうな紳士まで、ありとあらゆる人間が出入りしている。
「あの、すみません」
そんな中で、ベアトリスはどことなく親近感の湧く、同じ年頃で痩せっぽちの少女に声をかけた。
「はいっ、なんでしょう?」
にこやかに振り返ってくれたので、やはりこの子に声をかけてよかった、と思ったのも束の間。
「マルトの楽屋はどこですか」
少女の顔がさっと曇った。
「マ、マルトさん、ですか……?」
楽屋の場所を知らないのだろうか。しかし少女はそうとも言わず、そばかすの顔をしかめてもじもじするばかりなので、ベアトリスは首を傾げる。
「もしかして、劇場の人じゃなかったですか? ごめんなさい」
自分が簡単に入れたくらいなのだから、他にも部外者がいておかしくはない。
「あ、いえ、そういうわけじゃないんですけど……わたしはカロリーヌさんの付き人なので、マルトさんのお客さんを案内したりすると、カロリーヌさんに怒られちゃうので……」
思わず「なんだそりゃ」と言ってしまいそうになった時、怒声が飛んできた。
「フィグ! ラ・フィーグ! そんなところでなに油売ってるの、あたしの飲み物は?」
そばかすの少女がびくりと首を縮める。見れば廊下の先に、イングランドのエリザベス女王かくやという襞襟のドレスをまとった女が仁王立ちしていた。
「カロリーヌさん! す、すみません。あの、この人に、マルトさんの楽屋はどこか訊かれて……」
「マルトですって?」
女優らしきその女は平素美しいであろう顔を歪め、つかつかと詰め寄ってきた。
「まさか、またマルトの付き人志願? あんたもあんな落ち目のおばさんなんかより、あたしについた方がいいわよ」
「は?」
いきなりの言い草に唖然としていると、背中に聞き慣れた声がした。
「ベアトリス? あんた、こんなところで何をしてんだい」
「マルト!」
確信して振り返ったが、そこにいたのはマルトであってマルトでなかった。
十六世紀の絵画から飛び出してきたような、美しい女性。スペイン様式を取り入れたらしい衣装は黒や臙脂の深みある色づかいで、袖が膨らみ、切り込みで装飾されている。頭頂部から後ろの髪を覆う布の頭飾りは真珠で縁取られていて、舞台上で映えながらも役どころを逸脱しない、ぎりぎりの華やかさを演出しているのがわかる。
エリザベス女王はチッと舌打ちすると、「行くよフィグ!」と少女を伴い去っていった。
「カロリーヌと話してたようだけど、あいつに何かされなかったかい」
「え? ああ、うん、べつに何も……」
何かされたというほどでもないが、マルトの悪口を言っていたような。
つい目を逸らすと、マルトは察したようにため息をついた。
「まったく、こんな子どもにまで絡むなんて。あの根性悪の顔だけ女が」
「顔がいいのは認めるんだ」
悪態ついても、こういうところがマルトだなとつい微笑ましくなる。が、マルトは「違うよ、本当に顔だけって意味さ」と心底不快そうに吐き捨てた。
「革命前までは、オペラ座みたいな王立劇場には独占権があってね。民間の劇場が演劇をやるには、馬鹿高い上納金を払わないといけなかったんだよ。だからそれが払えない劇場は、条文の抜け穴を使うしかないんだけど」
マルトはおもむろに、おどけた道化師のようなパントマイムをしてみせた。
「舞台で台詞を言うのを禁じられれば、マイムだけの無言劇をやったり、舞台上の役者のマイムに合わせて舞台脇で別の役者が台詞を読み上げたりしてたんだよ。パリっ子はたくましいからね、そこからマイムに磨きをかけて、無言劇専門の劇場になったとこもあるくらいなんだけど」
そこでぴたりとマイムをやめて脱力したマルトは、一緒に表情も抜け落ちたような顔をした。
「カロリーヌはべつにマイムが上手いってわけでもなく、舞台上でニコニコしてただけの能無し女優なのさ。そんな奴が最近うちに移ってきて、実力派で鳴らしてたリズドー座の質を落としてくれるんだからたまらないよ」
なるほど、そう聞くと容赦のないただの悪口だったと理解をしたベアトリスだが、その心中は複雑だった。
いまのように多くの劇場が自由に公演できるようになり、庶民も演劇やオペラを楽しめるようになったのには、革命が一役買っているということだ。パリで美食の文化が花開いたのもまた、革命がなければ起こり得なかった。
しかしだからといって、ベアトリスの革命への憎しみが目減りすることはない。
ピトゥや、シャルル、アン、愛する家族たち。失ったものが多すぎて、もはや何をもってしても贖うことなどできそうになかった。
「ところで、あんたはここに何しに来たんだい」
ベアトリスははっとして、思い出したようにマルトにすがりついた。
「勝手に押しかけてきてごめんなさい! でも、私が本気だってことをマルトにわかってもらいたくて。私、どうしても歌手になりたいの。舞台に立ちたい、見習いでもいいからここで働かせてください、お願いします! マルトがどうしてもダメって言うなら、自分でここの偉い人に頼む。それも断られたらパリ中の劇場全部回って、入れてもらえるまで頼み込むから!」
鼻息荒く一気に捲し立てると、マルトは額を覆って大きなため息をついた。
「あの……本当に、開演前の忙しい時にごめんなさい。でも私」
「いや、かえって本番前でちょうどよかったよ。ちょいとついといで」
マルトはそこから狭い通路を進み、舞台袖まで行くと、幾重にも吊り下げられた袖幕の間にベアトリスを立たせた。
「もう間もなく開演だよ。ここなら誰にも見つからないから、じっとして隠れておいで」
「マルトの舞台、見せてくれるの? それもこんな近くで……ありがとうマルト!」
抱きつこうとして、せっかくの衣装を乱してはいけないと寸前で思いとどまる。
「しーっ。あたしはこの後忙しいから、終わったら一人で帰れるかい? 話はまた、あたしが家に帰った時にしよう」
うん! と最大級の感謝は込めて、けれど小声で返事をすると、マルトは「いい子だ」と頭を撫でて離れていった。
袖幕の襞の中に身を潜め、ベアトリスはどきどきして開演を待つ。
演目は『わたしの夫マルタン・ゲール』。
マルタン・ゲールとは十六世紀に実在した人物で、二百年以上経ったいまでも語り継がれている、有名な詐欺事件の当事者だ。スペイン国境にほど近いのどかな農村で起こったその事件は、世の人々を驚倒させるものだった。
舞台の奥、背景の布には雄大なピレネー山脈と、その手前の豊かな田園が描かれている。
田舎風の素朴だけれど立派な家の書き割りの前で、赤ん坊の人形を抱いたマルトが、床を踏み固めるように二、三足踏みして位置についた。
やがて楽団の演奏が聴こえてきて、ざわついていた場内が静かになる。
いよいよはじまる。期待に心臓が痛いほど高鳴り、ベアトリスは胸の辺りをぎゅっと握りしめていた。
ゆっくりと幕が開くと、マルトが片手を前に差し伸べた。
『待って! 待ってくださいあなた! わたしたちを置いていかないで……!』
がくりと膝を落とし、赤ん坊を守り抱いて打ちひしがれる。
すべてを歌で演じるオペラと違い、台詞部分は朗唱せずに演じるオペラ・コミックという形式だ。普段のマルトとは口調も声色もまるで違う別人のような台詞回しに、ベアトリスの肌がぞくりと粟立った。
『ああ、あなた……! 帰ってきて、どうか……』
マルトが演じるヒロイン、ベルトランドは裕福な農民で実業家でもあるマルタン・ゲールの妻である。
幼くして結婚させられた二人は、長いあいだ夫婦の愛情とは無縁の生活を送っていた。
ベルトランドは夫の無関心に何年も耐え続け、ようやく子どもを授かったのだが、その矢先にマルタンは自分の父親と諍いを起こして、家を飛び出してしまう。
置き去りにされたベルトランドは、生まれたばかりの息子を抱いて途方に暮れる。その後義父が亡くなっても夫は戻らず、いったいどこにいったのか、もはや生きているのかどうかさえもわからなかった。
まだ若く美しいベルトランドに、周囲の人々は再婚を勧める。特に熱心なのがベルトランドの母親で、これは先ほど楽屋口で会った、エリザベスならぬカロリーヌが演じている。言うまでもなく、フランスの片田舎を舞台とするこの物語にイングランド女王の出る幕はない。
それにしてもカロリーヌが母でマルトが娘とは、実年齢でいえばあべこべの配役だが、マルトが見事に初々しい若妻を演じきっているのでまったく違和感がない。
それよりも、いくら裕福とはいえ、とても農民には見えないカロリーヌのドレスの方がベアトリスは気になったが……舞台衣装とはこういうものなのかもしれない。
さて、そんな親族の圧力も数多の誘惑も跳ねのけ、ベルトランドは幼い息子と二人、けなげに夫の帰りを待ち続ける。
そして八年の歳月が経ったある日。失踪していた『マルタン・ゲール』がついに帰ってくる!
マルタンの妹たちが喜んで彼を迎える中、ベルトランドは八年ぶりに会う夫を前に後退りしてしまう。戦地から戻ってきたという夫はたっぷりと髭を蓄え、肉付きもよく、すっかり勇ましい姿になっていた。
そこで『マルタン・ゲール』はベルトランドに歌いかける。
怒っているのかい 無理もない 長く不義理をしてしまった
ぼくは悔やんでいる 心の底から 鯨の潜るガスコーニュの海より深く
償うこともできやしないが 今日からはぼくが きみに尽くそう
だからどうか 思い出して ぼくらの愛を
きみとの生活の端々まで どんな些細なことでも ぼくは忘れていないよ
そう たとえばあの別れの日 大箱に入れた白いズボンのことさえも……
次々と歌い語られる、きわめて私的な二人の思い出話。そして何より、優しく真摯なその歌声にベルトランドは心を打たれて、夫に駆け寄り、八年越しの口づけを交わす。
そうして再会を果たした夫婦と八歳になった息子は、三人で家族の暮らしを取り戻した。
息子は父親によく懐き、父親はそれにもまして息子を可愛がる。ベルトランドはそんな二人を幸せそうに眺めるのだった。
『ところであなた、不思議ですわね。少し背が縮んだんじゃございません?』
『なにを言う、ベルトランド。きみの背が伸びたんだよ』
『まあ、わたしったら気がつきませんでしたわ!』
この演目は有名な実話を元にしているのだからして、すでに事の真相を知っている観客のあいだからは含んだ笑いが起こる。
置き去りにした八年間を埋め合わせるように、約束通り妻をこの上なく大切にする夫と、それに応える妻。美しく心映えの優れたベルトランドを心から愛するようになった彼は、以前とは人が変わったように真面目に働き、事業も拡大してゲール家はどんどん豊かになっていった。
そして仲睦まじい夫婦は子宝にも恵まれ、愛らしい娘が誕生する。
しかし、幸せな生活は三年で危機を迎えた。マルタンが不在のあいだ彼の財産を管理していた叔父のピエール・ゲールが、帰ってきた『マルタン・ゲール』は別人の偽者だと騒ぎはじめたのだ。
ピエールと再婚していたベルトランドの母親も加わって、ベルトランドに『夫になりすました男』を訴えるよう強要し、文字通り非難の大合唱を繰り広げる。
あの男は詐欺師だよ 牢屋に入れろ! 牢屋に入れろ!
正義をしめせ ベルトランド にせものを牢屋に入れろ!
いうことをきかないつもりか 法廷で裁かないのなら ここで裁いてしまおう
にせものは死刑だ! にせものを殺せ! にせものを殺せ!
ピエールと仲間たちは『マルタン・ゲール』を殴り殺そうとするが、ベルトランドはその身を挺して夫をかばったのだった。
そんなベルトランドを母親とピエールは軟禁し、とうとう告訴を承諾させてしまう。
しかし法廷に立たされたベルトランドは、声高らかにこう証言するのだった。
誓って真実を述べましょう
この人が誰なのか わたしは知っています
わたしの夫 マルタン・ゲール! ほかの誰でもありはしない
愛する夫を 間違える妻がいるでしょうか
もしも彼ではないとしたら 夫に化けた悪魔なのです
あなたがたが わたしから夫を奪い 子どもたちの父を奪ったなら
きっと地獄に落ちるでしょう
悪魔によってか あるいはあなたがた自身の罪によって!
一途に夫を待ち続けたけなげな女性、ベルトランドの稲妻のように烈しい叫びだった。
「お帰りベアトリス、遅かったね。さあみんなで夕飯にしよう」
帰りを待ってくれていたのだろう。食卓にはすでに三人分の料理が並んでいて、ギヨームとジョアキーノが席についていた。
「あ……ごめんなさい、私はいいや」
「姉さんと何か食べてきたのかい?」
「そうじゃないけど、いまは胸がいっぱいで」
「それはだめだよ。ちゃんと食べないと、太って女優になるんだろう?」
冗談めかして笑うギヨームから、ベアトリスは目を逸らす。
「ごめんなさい。明日食べるから」
そう言うと、逃げるように食堂を出て階段を駆け上った。
自分の部屋に入ると寝台に飛び込み、頭から布団をかぶる。目を閉じたとたん、ずっと頭の中に響いていたマルトの歌声がより大きく、鮮明に膨れあがった。耳が痛いと感じるほどに。
あれはまさしく、圧倒的だった。
ベアトリスとはまるで違う。人間が出せるとも思えないような、驚くべき声量。
高音でも声が細くなるどころか、より力強く伸び上がり、あの広い劇場の、いちばん遠い天井桟敷の後ろの客にまでしっかりと届いていた。
歌には自信があった。色んな人に褒められて、自分は歌が上手い、歌手になれるとベアトリスは思っていた。
けれど、あれは……物が違う。
マルトに無能呼ばわりされていたカロリーヌでさえ、マルトには遠く及ばないにしろ、高くて大きな声を出していた。
(私には、劇場で歌えるだけの実力なんかない)
思い上がっていた。
ロジェじいさんの言った通りだ。私の歌は、小鳥のさえずり――――後ろの席まで聞こえない。
「ベアトリス、ベアトリス?」
舌ったらずな幼い声に呼びかけられて、はっと顔を上げた。
「ん、なに? どうかした?」
「いや……最近どうしたの、ぼーっとして。元気ない、よね」
「べつに。そんなことないよ」
店番用の椅子に座って、頬杖をつく。こんな置物のような日々だけが徒に過ぎていた。
客がいない時間は余計なことを考えてしまうから嫌だ。気を抜くとすぐ、あの舞台の光景が脳裏に蘇って、そのたび打ちのめされる。
マルトは現実を見せつけたのだ。
本物の実力というものを間近で見せられたベアトリスは、自分も星の数ほどいる、夢見がちな娘たちの一人にすぎないことを思い知らされた。
いったいどうすればあんな声が出せるようになるのか、想像することさえできない。それほどに、越えられそうもない歴然とした差があった。
「そんなことあるよ。さっきからつまみ食いしてるのに、一度も注意してこないし」
「注意してほしいの?」
「そうじゃないけど……」
小さな少年が、大人のようにため息をつく。
「何かあった? この前出かけていってから、ずっとそうだよね」
彼なりに、居候の先輩であるお姉さんを心配してくれているのかもしれない。天使のような顔を曇らせているのを見ると、知らんぷりもできなかった。
「実は、ちょっとね……どうしていいか、わからなくなっちゃって。ジョアキーノは料理人になるって言ってたでしょ? それで成功したいって。私もね、同じようにでっかい夢があるの。私は歌手になりたいんだけど……」
ジョアキーノの顔がぴくりとこわばったので、ベアトリスは恥ずかしくなって棚に突っ伏した。
「ああもう、あなたまでそんな顔しないでよ。わかってる、ありがちな浮ついた夢だと思ったんでしょう。身のほど知らずだってこともわかってるわよ、それがわかっちゃったから落ち込んでるの! 自分にはきっと才能があるって、己惚れてたのを思い知ったから……」
言うんじゃなかった! と嘆くベアトリスに、ジョアキーノは慌てもせずこう返した。
「そう、それは……よかったね」
「はあ?」
いまの話の、どこに良い要素があったろう。
馬鹿にしているのかと睨むと、少年はいたって真面目な顔をしていた。
「きみが平凡で、なおかつこんなに若いうちにそうと気づけたのなら幸せだよ。才能なんか、持っている方が厄介なことになる」
まだ自分の半分ほどしか生きていないであろう坊やにそんなことを言われて、ベアトリスの出かかった涙も引っ込んでしまう。
「才能のない者の人生は喜劇だけど、才能という運命に翻弄される人生は悲劇だ」
ベアトリスが目を瞠っていると、ジョアキーノははっとして首を振った。
「ごめん。子どものくせに、生意気なこと言って」
「あ、ううん、ちょっとびっくりしちゃっただけ。慰めてくれたのよね、ありがとう。正直こんな相談ができるとは思ってもみなかったけど……こういう話のできる人が、身近にいてくれてよかった」
そう言うと、険しかった少年の表情がほっと緩んだ。
「それにしても、ジョアキーノには大人顔負けだね。さっきの台詞なんかまるで戯曲みたい。芝居で見たの? それとも本で読んだ?」
何かの引用にしては、実感のこもった重い口調に聞こえたが……さすがに人生はじまったばかりの坊やから自然と出てくる言葉ではないだろう。
「そんなんじゃないよ。誰かの受け売りなんかじゃ……」
口ごもり、逸らした顔がまた翳りを帯びていたので、ベアトリスは覗き込む。
「私の悩みを聞いてもらったお返しに、今度は私が聞いてあげる。ジョアキーノにも、あるんでしょ? 悩み事」
秘密は守るから。と念を押すと、坊やは小さな唇をわななかせ、何か言おうとしたが、やめてしまった。
「言ってもどうせ信じないよ」
「なにそれ。そんな言い方されたら気になるじゃない」
食い下がろうとしたその時、聞こえてきた声にベアトリスの背中がびくりと跳ねた。
「ちょいと。うちはいつから孤児院になったんだい」
聞き慣れたはずなのに、いまではどこか違ったものに感じる声。
振り返ると、マルトが腰に両手を置き、呆れたように立っていた。
「その子が新入りの坊やかい、さっきそこでロジェさんに会って聞いたよ。ギヨームったら、あたしに何の相談もなく……ギヨーム! ギヨーム! そっちにいるんだろ、出ておいで!」
「姉さん? おかえり」
厨房から慌てて出てきた弟に、姉の雷が直撃する。
「おかえりじゃないよ。あんた、知り合いでもないよその子を勝手に住まわせたりして、誘拐と疑われでもしたらどうすんだい!」
「ご、ごめん姉さん。でも姉さんだって、僕に相談もなくベアトリスを連れてきたじゃないか」
「うっ、それは、まあ……けどあんただって、ベアトリスのおかげで助かった、いい子を連れてきてくれたってあたしに感謝してただろう?」
「そうさ。だから姉さんだって、いつか僕がジョアキーノを連れてきてくれてよかったと思う日が来るかもしれないよ」
ぐっと唸ったマルトは、それ以上言い返せなくなる。
すると少年が二人の間に入るように進み出て、マルトに向かって礼儀正しく名乗り、およそ子どもらしくない挨拶をしてから釈明を始めた。
「誘拐なんかじゃないんです、ギヨームさんにはお世話になって、感謝しています。少し待っててください、父さんに持たされた手紙をお見せします」
屋根裏部屋との往復は大変なので代わりに取りに行こうかというベアトリスの申し出は固辞して、ジョアキーノは数十分後、件の手紙とやらを手に戻ってきた。便箋を開いたマルトは、顔を歪める。
「こりゃイタリア語だね。読めないよ」
「ペーザロの父さんが、パリにいたはずの親戚に宛てて書いたものです。『付き合いもなかったのに申し訳ないが他に頼れるところもない、息子をお願いします』と書いてあります」
「へえ、そうかい。子どもが自分でこんなもの書けるとも思えないし、親戚を訪ねてきたってのは本当みたいだねぇ」
「ね、言ったろう? その親戚がいなくなってたんだから、もう行くところがないんだよ。こんな小さな子を放り出すなんて、優しい姉さんにはできないよね、ね? ね?」
「ああもう、わかったよ、仕方ないね。ただしいつまでもってわけにはいかないよ、ちゃんと落ち着いたら国に帰るなり、親戚を探すなりするんだよ」
いちおう納得したらしいマルトは、ふとベアトリスに視線を向けた。
マルトと会うのは、あの日、劇場に押しかけて以来だ。話は家に帰った時にしようと言われていたけれど……。
ベアトリスの表情を読み取ったマルトは、ふっと眉を下げて微笑った。
――話す必要はもうないね。
そう、目で語っていた。
「私……ちょっと出かけてくる」
かっと頬が熱くなって、ベアトリスは立ち上がっていた。
「えっ、ベアトリス、出かけるってどこに? おーい!」
逃げるように店から飛び出す。行き先なんか決めていないのだから、答えられるはずがない。
あてもなくとぼとぼと歩いているうち、無意識にポン・ヌフまで来ていた。
橋の歩道、いつもピトゥが歌っていた半円形の小さな舞台で、いまは別のシャンソニエが歌っている。
それを見ていたらたまらなくなって、ベアトリスは駆けだした。そのままセーヌの岸辺に下り、無意識のうちにピトゥと過ごした橋の下まで来ていた。
ピトゥと寝起きし、肉料理や土くさいパンを分け合いながら食べて、夜は二人でクープレを書いた場所。流されたのか、誰かに持っていかれたのか定かでないが、荷車は跡形もなくなっていた。
ベアトリスは護岸の手前ぎりぎりに座り込むと、膝を抱えてセーヌの濁った水を見つめていた。
歌手になって、ピトゥを連れ戻すと決めたのに。外見は小綺麗になっても、ここで一人、ピトゥの帰りをただ待っていただけのあの頃の自分と、何も変わっていない。
相変わらず搔きむしりたくなるほどの無力感に苛まれながら、何もできないままだ。悔しくて、苦しくて、息もできなくなりそうなほどに。
立ち上がったベアトリスは肩をいからせ、無理矢理に胸を膨らませて、めいっぱい息を吸った。そして――
誓って真実を述べましょう
この人が誰なのか わたしは知って、います……
わた、しの、夫……! マルタ――
声がひっくり返って、げほっ、ごほっ、と咳き込む。
やっぱりだめだ。マルトのように歌ってみようとしたけれど、あんなに大きな声は出せないし、同じように高音を出そうとしても喉がついていかない。
膝からその場に崩れ、両手をついて、石積の表面に積もった川砂を握りしめる。もう一つ小川ができそうなほど涙があふれてきて、声を殺して咽び泣いた。息ができなくて、溺れているように苦しい。
諦めたくない。諦められない。なのに。
「そんなふうに泣いたら、喉を壊すよ」
びくりとして、嗚咽が喉の奥に引っこむ。
舌ったらずで幼い声なのに、妙に落ち着いた口調。振り返らなくてもわかった。
「ジョアキーノ……追いかけてきたの」
ぐすっと涙声で言うと、少年は気まずそうな沈黙を返すだけだった。
「……私に同情してるの?」
つい卑屈な言い方をしてしまったが、相手はたじろぎもせず「うん」と答える。
「ついさっきまで、きみがうらやましいと思ってたけど……たったいま、きみの歌を聞いてしまってからはきみに同情してるよ」
そこまで酷いのか、私の歌は。
本当に情けなくて、恥ずかしくて、みじめな気分だった。
「帰ろう。ベアトリス」
またうるっとした目を袖で拭う。こんな小さな子に心配されて、これ以上みじめでいたくない。立ち上がり、前掛けを手で払った。
小さな坊やの長い影に先導されて、とぼとぼと川沿いに歩く。空は茜に染まり、セーヌの中州、シテ島に建つコンシェルジュリーが逆光に黒く染まっていた。
店に戻ると、マルトはもういなかった。今日は荷物を置きに来ただけだったらしい。
「姉さんはいつも慌ただしいんだから、夕飯くらい一緒に食べていけばいいのにね。あ、二人とも悪いけどそこの荷物、姉さんの部屋に運んでおいてくれるかい。僕は食事の支度をするから」
はい、と鍵を受け取る。大きな鞄の中身は衣類なのか、見た目ほどには重くはなかった。小さい方には化粧品の類が入っているようだったが、ジョアキーノが持てないほどの重さではなかったのでそちらを担当してもらう。大きい方を持たせたら、鞄もろとも階段を転がり落ちてしまいそうだ。
「へえ、ここがあのお姉さんの部屋」
「私も中に入るのははじめてだけど……」
ベアトリスの部屋の真下がマルトの部屋だ。造りはほとんど同じだが、滅多に使われない家具たちには埃よけの布が掛けられていて、何の荷物もないベアトリスの部屋に負けないくらい殺風景だった。
「この辺に置いておけばいいかな……あ」
壁際で布を被っている、一見机のような台。しゃがんだ時に見えたのは、机にしては多すぎる猫脚の支柱だった。
「クラヴィーア」
そう惚けたようにつぶやいたのはジョアキーノだ。そのままふらふらと、吸い寄せられるように近づいてゆく。
「あっ、ちょっと」
止める間もなく、布が取り払われる。ベアトリスが思った通り、それは小型のクラヴサンだった。タンプル塔で、母が弾いていたクラヴサン。ベアトリスも少しだけ弾き方を教わった。そんなことを思い出しているうちに、ジョアキーノは椅子によじ登り、蓋を開けて鍵盤を叩きはじめていた。
「こら、勝手に遊んじゃだめだってば」
こんな子どもらしい一面もあるんだなと意外に思いつつ、窘めようとしたベアトリスは――動けなくなった。
「何、これ……何を弾いているの……?」
遊んでいるんじゃない。いや、遊びながら、ちゃんと曲を弾いている。
「いま作った。題して『ロマンティックなひき肉』」
驚きを隠せなかった。
はじめこそダダダダダと、それこそ包丁を叩きつけるようなふざけた打鍵に思えたが、そこからポロポロポロ……と細切れの肉のようにこぼれていく音符は、確かに美しいメロディーを紡いでいる。
この曲を、この坊やが作ったなんて、普通なら信じられない。けれど、いま目の前で繰り広げられている、とてつもなく高度な演奏自体が普通じゃない。
「……あ、この指じゃ届かない」
演奏を止め、ぷにぷにの小さな手を睨んでいた少年は、ややあって我にかえったように振り向いた。
驚愕しているベアトリスと目が合う。
「いったい……どういうこと」
ありえない。けれど、たったいまこの目で見たのは現実だ。
「あなた、何者なの? 料理人になりたいだなんて嘘でしょ。あなたがなるのは音楽家……ううん、あなたはもう、音楽家だわ」
震える声でそう言うと、少年は耳を塞いで叫びだした。
「違う! 本当だ! 僕がなりたいのは料理人だ、僕は料理の道を進むんだ! もう音楽なんかやらない、今度こそ幸せな人生を送るんだ!」
そのまま頭を抱え、わっと泣きだしてしまう。
「そう、決めたのに、なのに、どうして……勝手に、あふれてくるんだ…………音楽が、僕を手放してくれない……」
小さな身体をさらに小さくして、床にうずくまる。大粒の涙をこぼして泣きじゃくるその姿は、怯えているようにも見えた。
「ジョアキーノ」
決定的に子どもらしくないところを目の当たりにしたばかりだというのに、ベアトリスはいまはじめて、この子がまだ幼い子どもなのだと実感していた。
「ねえ、本当のことを話して。あなたは何か、大事なことを隠してる」
しゃくり上げていた声が止まる。
「これはクラヴサンでしょう? イタリアではチェンバロと呼ぶって教わったことがあるの。でもあなたはさっき、クラヴィーアって言った。それはドイツ語だったと思うけど」
いっぱいに涙を湛えた瞳が、不安げにベアトリスを見上げた。
「大丈夫、責めてるわけじゃないの。言ったでしょ? 私の悩みを聞いてもらったお返しに、私もあなたの悩みを聞いてあげるって」
洟をすすりながら、少年はかぶりを振る。
「でも……こんなこと、人に話したら……」
「安心して、絶対に秘密は守る。これも言ったよね」
笑顔を見せると、ジョアキーノはまた、ぼろぼろと涙をこぼした。
「絶対に、絶対だよ……」
それから少年が語ったのは、まさに奇想天外、摩訶不思議な、まったく現実離れした話だった。
いまから六年前の一七九二年、イタリアのペーザロで生を享けた彼は、その前年ウィーンで没した音楽家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生まれ変わりだという。
前世の彼は早熟の天才であり、五歳の頃にはすでに作曲をはじめていて、八歳で交響曲を書いたほどだった。
その才能にまず取り憑かれたのは、彼の父親だ。音楽家だった父は息子の持つ天賦の才に気づくと、すべてを彼に懸けるようになる。幼い我が子を連れてヨーロッパ中を旅し、その神童ぶりを各国の王侯貴族に披露して回りながら富と名声を得ようとしたのだ。
天才ゆえに成功を求められた息子は、成人後も父によって徹底的に管理されていた。父の束縛を逃れ、新鮮な自由の息を吸うことができたのもほんの束の間。音楽家はまだ芸術家ではなく、依頼に忠実であることが求められた時代にあって、彼の才能は必然的に持て余された。
不安、焦燥、傑作ほど理解されないことへの憤り。心はいつも荒れた海をさまよう舟のようで、波に弄ばれ、自分で舵取りができない。
生まれた時から運命づけられたように音楽の世界で生き、音楽の世界で死んだ彼の生涯において、幸せな時間はあまりにも短かった。
「……報われない人生だった」
晩年は借金にあえぎ、寂しく生涯を閉じた彼は、その魂に後悔を刻んだ。そして新たな肉体には、前世の不幸な記憶が引き継がれたのだ。
しかし、いかなる天の思し召しか。彼が生まれついたのは、またしても音楽を営む家庭だった。
ジョアキーノ・ロッシーニの父親は食肉工場の監督官として生計を立てていたが、役所のラッパ手や管弦楽団員の顔も持つ楽器奏者でもあり、その妻、つまりジョアキーノの母親は評判の美人歌手であった。
まるで音楽の呪縛。けれどなにより恐ろしいのは、他ならぬ自分自身の才能だった。
前世の記憶による知識や経験だけで、並外れた演奏や作曲をしているわけではない。ジョアキーノ・ロッシーニは、その新しい器に彼だけの才能を持って生まれていた。
「怖いんだよ。僕はもう、音楽に、自分の才能に振り回されたくないんだ」
だからというわけじゃないけど……と、少年は料理人になりたいという思いを切々と語った。
前世にはなかった、料理への強い関心と繊細な舌。今世の自分は料理人になるべきなんだ、いやならずにはいられない! と、それが本心からの言葉であることを訴えた。
けれどたしかに、嘘をついていた部分もあったと白状する。
「いまの僕は僕でしかなくて、前世の人格は別の人みたいに感じてる。けど三十五歳まで生きた外国人の記憶が、全部じゃなくても残ってるんだ。普通の子どもみたいには振る舞えない……つい大人みたいな言動をして生意気に思われたり、我慢できずに教会のワインを飲んで酷く叱られたり、とにかく窮屈で苦しかった。それでもただの問題児扱いされてるうちはよかったけど、両親が地方劇場の巡業に出て、おばあさんの家に預けられたら、悪魔憑きだって騒がれた。しまいにはヴァチカンから悪魔祓いを呼ぶってことになって、それで逃げ出してきたんだ……」
どうせ逃げるのなら、美食の街パリで料理を学ぼう。そう決意していまに至ったというわけだった。
「じゃあ、マルトに見せてたあの手紙は?」
「自分で書いた。両親が投獄されたっていうのも嘘だけど、どのみち父さんはそのうち捕まると思うよ。政治にのぼせあがって危ないことをしてたのは事実だし、地方巡業に出たのも逃げるためみたいなものだから」
「そうだったの……うーん、まあ、それなら仕方ないけど、いちおう無事で暮らしてるって手紙くらいは出しなさいよ。いきなりいなくなったんじゃ、おばあさんだってさすがに心配してるだろうし」
クラヴサンのかたわらでしゃがみ込み、長い打ち明け話を聞いていたベアトリスがそう言うと、ジョアキーノは濡れた瞳をぱちぱちさせた。
「いまの話、信じるの? 僕のこと、嘘つきとか、気持ち悪いって思わないの……?」
たしかに、にわかには信じがたい話だった。
けれど、人の生き死にを予言して煙のように消えてしまう魔女がいるのなら、モーツァルトの生まれ変わりもいたって不思議じゃない。
「信じる。ジョアキーノ、私はあなたを信じるよ」
少年の大きな目から、またぽろぽろと、透明な涙がこぼれた。
「うっ……ううぅ……」
子どもの人格に、大人の、それも波乱の生涯を送った音楽家の記憶。この小さな身体で、いったいどれだけのものを抱えてきたのだろう。
ジョアキーノが泣きやむまで、ベアトリスは丸まった背中を抱きしめるように撫で続けていた。
まず声が嗄れ、やがて涙も枯れ果てて、少年は赤くむくんだ顔を上げた。
そして一転、いつもの大人びた目つきに変わる。
「ベアトリス、僕もきみにお礼がしたい。きみがいま必死で求めているだろうものを僕はあげられるけど、それはきみを不幸にするかもしれない」
首を傾げるベアトリスに、ジョアキーノは続けた。
「セーヌ川で、ベアトリスの歌を聞いた時……歌い出しの二小節だけで、鳥肌が立った。もちろん技術はまだまだだ、いやそんなものないに等しい。だけど僕にはあれでわかったんだ、きみも人生を狂わせるほどの才能を秘めていると。だからきみに同情した」
昼間、彼が言っていたことを思い出す。
才能のない者の人生は喜劇だが、才能という運命に翻弄される人生は悲劇。
「神は無条件で甘い果実だけを与えはしない。天から才を与えられた者は、それに見合うだけの試練を課される。耕すたびに嵐に襲われて、何度でも試され続けることになる」
いつの間にかベアトリスだけが膝をつき、ジョアキーノは立ち上がって、視点が逆転していた。
「その生涯をかけて、悲劇を演じる覚悟はある?」
少女は少年を見上げる。そのまなざしは射貫くように強く、瞳はゆるぎない意志を宿していた。
「もちろん。どんな物語だって、最後まで演じきってみせる。どうせなら、国家を転覆させるような壮大な悲劇を演じたい」
迷うことなど何もない。
私の悲劇はとっくにはじまっている。幕は上がっているのだ、ならば命のかぎり歌い果てるのみ。
「わかった。なら僕がきみに、歌を教える」
差し伸べられた小さな手を取る。
それが二人の歴史のはじまりだった。
【つづく】