亡き王女のオペラシオン 第七回
【二幕 ふたりのイストワール・二】
世にオペラを産み落とした芸術勃興の地イタリアには、かつてファリネッリという伝説の歌手が存在した。彼は三オクターブ半もの音域をもち、その声はトランペットよりも長く遠く轟いたという。
「まず、いまのきみは根本的にまったくの素人だ。全然ダメなのは自分でもわかっていると思うけど、いちばんの問題は、きみが頭に思い描いている理想形がそもそも間違っていることだね。昨日セーヌ川で歌った時、誰かの真似をしようとしてたでしょ」
ジョアキーノの個人指導は翌日からはじまった。
どこで練習するのかと問えば、いつも通り店番をしながら、客のいない時に教えてくれるという。店先で発声練習もないと思うが、最初の一日くらいは座学で理論を学ぶものなのだろうと、ベアトリスはひとまず納得した。
「それはもちろん、あれはマルトが舞台で歌ってたマルトの曲だから、同じように歌おうとしてるつもりだったけど」
「それがダメなんだ。おそらくきみが聴いたのは、典型的なウルロ・フランチェーゼ。力まかせに声を張り上げる、フランス流の絶叫と揶揄される歌い方だよ。それを習得したところで歌い手としての寿命を縮めるだけ、いずれ喉を壊す。それに何より聞き苦しい」
「ちょっ、いくら何でも聞き苦しいってことは」
ベアトリスはマルトのあの歌声に圧倒されたのだ。観客も皆、拍手を送って彼女の歌を讃えていた。
「ああ、いまのフランスではその歌い方が正解なんだろう、国立音楽院でも教えてるくらいだからね。けどあれは遠からず時代遅れになるよ。僕がきみに教えるのは、イタリア式の歌い方。ドイツ式もあるけど、身体の小さいきみにはイタリア式がいい。肉体に負担をかけず、柔らかく、かつ遠くまでしっかり響き渡る歌唱法だから」
「そんな歌い方があるの?」
こくりと顎を引いたジョアキーノは、「さあ立って」とベアトリスを促す。
肩を下げたり顎を引いたり、あれこれ言って姿勢を直すと、「じゃあはじめよう」と手を叩いた。ベアトリスの身体に心地好い緊張が走る。
「ゆっくり、静かに息を吸う。アーン……、ドゥー……、トロワ……、キャトル、止める! そのまま、アーン……、ドゥー……、トロワ……、キャトル、今度は吐く。決して音は出さずに、ゆっくり四まで……違う、胸を動かさない。横隔膜だけを使って呼吸するんだ」
「ふぅ、苦しいー。横隔膜ってなに」
「ハラミだよ。焼いて食べると美味しい」
「お肉で言われても全然ぴんとこないんだけど」
「それでよく恥ずかしげもなくシャルキュトリの店番をしていられるね」
わからないベアトリスの方がいけないらしい。「ここだよ、この奥!」とみぞおちの辺りを摑まれて、ぐえっと変な声が出る。
その後も何かというと肉の部位で説明してくるので、ベアトリスはいつか自分も食べられそうで怖くなった。
「もう一度、アーン……、ドゥー……ああ違う、吐く時だんだん細くなってる。息の太さは最後まで一定に。スースーうるさい! 音を出しちゃだめだってば!」
ジョアキーノはなかなか厳しい先生らしい。声を荒らげるのもそれだけ真剣に教えてくれているからだと思えば、ベアトリスも気が引き締まる。
客のいないあいだはもちろん、いてもしゃべる時以外はずっとこの呼吸を続けるように言われたので、ベアトリスは時折客から変な目で見られながらも無心で頑張った。
ジョアキーノは厨房と行ったり来たりで、結局この日は、こうして四まで数えて吸ったり吐いたりを繰り返しているうちに一日が終わってしまった。
最後にもう一度ベアトリスの呼吸を確認したジョアキーノは、うんと頷く。
「驚いた、呑み込みが早いね。じゃあ予定をぐっと繰り上げて、明日からは」
「いよいよ歌える?」
「五まで数えよう」
がくっ、とベアトリスが肩を落とす。
「今日一日、息しかしてないよ! 明日も同じ呼吸の繰り返し? いつになったら歌うの」
焦れてわめきだした生徒を、小さな師が叱りつける。
「呼吸ができずに歌えるか! 歌なんてものは、音をつけた呼吸なんだ。文句があるなら息をせずに歌ってみなよ、それができたらすぐにでも歌わせてあげるから」
「い、息せずにって…………ん、んぐ……、……、、……!!」
顔を真っ赤にしたベアトリスは、ぜいぜいと息をして降参の白旗を揚げた。
「ほらね。完璧な歌唱は、完璧な呼吸なくしてありえない。基礎がいいかげんな建物はすぐに倒れるよ」
ぐうの音も出ないとはこのことである。
「つまらなく感じるかもしれないけど、本当に大切なことなんだ。これは大歌手ファリネッリが行っていた呼吸法だよ」
「ファリネッリ……ってあの」
「そう、あの。前世の僕もわざわざ会いに行ったことがある。男でも女でもない去勢歌手だけど、重要なのはそこじゃない。彼はまさに努力する天才だった」
奇跡の歌声で世界中にその名を轟かせたファリネッリは、スペイン王室に招かれ、国王の側近として政治にも影響力を持ち、影の宰相とまで呼ばれた。
彼のように伝説といわれるほどの歌手になれれば、一国を動かすことも夢ではない。
そうなれるのはほんの一握り、いや、長い歴史の中でもまだたった一人で、女性歌手の前例はない。その道を切り拓くための最初の一歩が、この地道な呼吸練習だというのなら。
「わかった。もう文句は言わない、真剣にやるから、厳しくお願い」
ジョアキーノは口の端を持ち上げた。
「少しずつ数を増やしていって、正確に十まで数えられるようになったら発声練習をはじめよう」
それから二か月ものあいだ、パリのとあるシャルキュトリでは、音もなく規則正しい呼吸を続ける少女が、訪れる客をゾッとさせることになった。
よく食べ、ほどほどに眠り、息を吸って、止めて、吐くだけの日々。
生きることだけに必死だった頃とくらべれば贅沢な生活に違いないが、明確な目的地があるのに、その場で足踏みしているような状態が続くとさすがにもどかしくなってくる。
募る焦りに圧し潰されそうな思いだったが、ベアトリスはそれでも必死で喰らいついていた。
「さて、きみもいいかげん焦れてきてる頃だろうし、呼吸もだいぶよくなった。そろそろ発声をはじめてもいいかと思うけど、そうなると店ではできないな」
小さくも偉大なる師は、ベアトリスの精神状態までお見通しだったようだ。音を上げる寸前ぎりぎりのところで、ようやく次の段階へと進む意向を示してくれた。
「やった! ちょっと待ってて!」
ジョアキーノの気が変わらないうちにと、ベアトリスはすぐさま厨房へ走る。
「ギヨームさん、ジョアキーノと一緒に出かけてきてもいい?」
二人で外出してしまったら店番がいなくなる。働かざる者食うべからず、仕事を放棄するようで恐縮しながらお伺いを立ててみると、
「もちろん。どうぞどうぞ、ゆっくりしておいで。二人が来てからついつい甘えちゃって、遊びたい盛りの子どもたちに毎日手伝ってもらってばかりで、僕も悪いと思ってたんだ。そうだ、いまサンドイッチを作ってあげるから、外で食べてくるといいよ」
二つ返事に、軽食までついてきた。
ギヨームの親切に感謝して、二人は店を出る。ジョアキーノは思いもよらず持たされたお弁当に子どもらしく足取りを弾ませて、まるでピクニックのようになってきた。
「発声練習は当面ここで行おう」
ジョアキーノが向かったのは、見慣れたセーヌ川のほとりだった。
橋の下は実力以上に声が響いてしまうからと、いつもの場所から離れて岸辺を歩く。護岸は連なるように係留された舟に埋め尽くされていたが、なるべく人のいないところを選んで腰を落ち着けた。
川にはたくさんの舟に、薪や資材を運ぶ筏が行き交っている。裸で腰まで水に浸かって荷揚げをしている人足たちのかけ声や、洗濯船から聞こえてくる、棒で布を打ち叩く暴力的な音など、周囲は雑多な音であふれていて、いまから騒がしくする身としては心安い。
両足を踏みしめ、川に向かったベアトリスは静かに息を吸った。
誓って真実を述べましょう
この人が誰なのか わたしは知っ……
――どかっ! と体当たりされ、あやうく川に落ちるところだった。小さくてころっとしたジョアキーノに突進されると弾丸さながらだ。
「危な……」
「勝手に歌うな! 発声練習だって言ったでしょ、言葉を発するなんてまだ早い。舌根の使い方がわかるまで子音は禁止、当面は母音だけ……いや、アだけだ。それ以外の音を発しちゃいけない」
「ええー、久しぶりにちょっとくらい歌いたいよ。練習は練習として、息抜きに一回だけ歌っちゃだめ?」
いまほんの少し歌ってみただけでも、以前より気持ちよく声が出た気がする。呼吸法の成果が出ているのかもしれない。
「だめ。下手な練習はやらないより悪い。これまでの努力を無駄にしたくなければ、僕がいいと言うまで我慢して」
うう……と唸りつつ、ベアトリスは小さな先生に従い発声練習をはじめた。
「違う! そうじゃない! 胸の中心に空気の柱を感じて、その柱で自然なバランスを保つんだ。自分の身体が楽器であることを意識して。発声器官も楽器と同じ、振動体に圧力がかかって音が生まれる。弦が緩んでいたり、管楽器がぐにゃぐにゃしてたらまともな音が出ないでしょ。はい、もう一度」
「う、うん。アー!」
「違う違う! 力まないで、今度は身体が固くなってる。力じゃなくてバランスだってば」
「うう、難しい……」
それからああでもないこうでもないと、時折罵倒もされながらアーアー言うこと一時間。休憩を宣言するやいなや、ジョアキーノはいそいそとサンドイッチの包みを開けた。
「美しい。やっぱりギヨームさんは天才だね」
薔薇色のレースのような薄切りハムが襞になってたっぷり挟まったパンに、恍惚としてかぶりつく。ベアトリスも隣に座り、一切れ齧った。
「うん、美味しいね。それにこんなに大きなのを二切れずつ入れてくれるなんて」
「食べきれないなら僕が食べてあげるよ」
「そんなことは言ってないけど……」
伸びてきた小さな手から自分の包みを遠ざけながら、それにしても、とため息をつく。
「今日のところはギヨームさんが快く送り出してくれたけど、明日からはどうしようね」
これから練習を続けるにあたって、二人揃って毎日出ていくわけにもいかないだろう。
「そうだね。さっきも言ったように、間違った練習は毒なんだ。きみ一人で自己練習するのは危険だし……」
うーん、と二人で頭を悩ませる。
結局結論も出ないまま、もう一時間発声練習をして店に戻ると、マルトがまた大きな荷物を抱えて帰ってきていた。
「マルト! お帰りなさい!」
「ああ、ただいま。今日は二人でお出かけしてたんだってね。いつもここに閉じこもって働いてばかりで、あたしも気になってたんだよ。二人とも遊びたい盛りなんだし、これからは毎日外に行っておいで」
「え、でも店番は……」
「そんなのはあんたたちが気を回すことじゃないよ。必要ならまた人を雇えばいいんだから」
そうはいっても、実はこのところシャルキュトリは以前よりも忙しくなっていた。新しく人を雇うにしても、仕事を覚えて慣れるまでには時間もかかるだろう。
「まあそれに実をいうと、明日からはあたしもいるしね。久しぶりに可愛い弟の店を手伝ってやろうかと思ってたんだよ」
「そうなの? 今回はいつまでいるの、劇場はお休み?」
「ああ、夏のあいだは閉めるんだ。当分ここにいるつもりだから、心配しなくていいよ」
「本当? お夕飯も一緒に食べられる?」
「ああ、みんなで食べよう」
ベアトリスはわあっと喜んで、がっしりした胴に抱きついた。この家に来てから、マルトとゆっくり過ごせるのははじめてのことだ。
「あのねマルト、私……」
「うん? 何だい?」
「ううん、何でもない。荷物運ぶの手伝うね」
歌手になるの、諦めてないよ。いま特訓してるの。
そう言おうとしたけれど、今日やっとアーアー言えるようになっただけで、まだ『歌』の段階に片足もかかっていない。
やっぱりもうちょっと、マルトに恥ずかしくない程度には上達してから打ち明けようと思い直した。
それからの毎日は、皆で朝食を食べ(マルトは起きてこないことも多い)、ベアトリスは店にいるあいだじゅう例の呼吸を続け、午後の数時間はジョアキーノと連れ立ってセーヌ川に行き練習する、という繰り返しだった。
適度な運動に、充分な食事と睡眠。理想的な生活は理想的な発育をもたらし、十二歳になったベアトリスはスカートの丈が短くなって、浮いていたあばらも目立たなくなってきた。ジョアキーノも靴がきつくなったと言って、先日新調したばかりだ。
マルトは時々出かけていくことはあっても、夜は必ず自分の部屋に帰ってきている。次の芝居がなかなか決まらないのか、まだ稽古もはじまらないようだが、引き続き午後の店番を代わってもらえるのはありがたかった。『いい人』とやらはほったらかしでいいのだろうかと、ベアトリスはほんの少しだけ気になったが。
だけど、マルトと一緒に過ごせるのは嬉しい。
四人で食卓を囲んでいると、まるで優しいお父さんとしっかり者のお母さん、それにやんちゃ盛りの子どもたちという、平凡で幸せな家庭を描いた絵画の一部になったように思えた。
マルトとギヨームは姉弟であって夫婦ではなく、ジョアキーノとベアトリスは師弟であって姉弟ではないけれど。
ともあれおかげで特訓の方も順調で、いまでは短いフレーズを歌うことを許されるようになっていた。
「ねぇ、今日はちょこっとだけ歌詞つきで歌っちゃだめ?」
「だめ。全部『ア』だけで歌うんだ」
「うう~! もう何か月もまともに歌ってないんだよ? 鼻歌も好きに歌えないなんて、欲求不満でおかしくなりそう!」
ベアトリスにとって歌うことが唯一にして最大の楽しみだというのに、歌のためにそれを封じられてしまうのだからたまらない。かゆいところを搔けないようなもどかしさだ。
「我慢して。変な癖をつけたら直すのが大変なんだから。それともその程度の覚悟だったの?」
「……そんなわけない」
きっと鋭い視線を返して、ベアトリスは岸辺に立った。
「よし、じゃあはじめよう。いい? この歌唱法は、何より自然でなければならない」
ジョアキーノは短い腕をめいっぱい伸ばして、セーヌの川面を指差す。
「この川を源から想像してみて。山中で静かに湧き出る水がやがて沢になって、小川から水量豊かな大河へ、そして大海へと注ぎ込んでいくように……押し出すんじゃない、自然のなりゆきとして時にせせらぎ、時に莫大なエネルギーをもって流れるんだ」
「うん……よくわからないけどやってみる!」
「まあ、とりあえずはそれでいいよ。できればいいんだ」
言われていることはほとんど理解できない割に、ジョアキーノの指導は、いまやベアトリスにも実感が得られるまでの成果を出してくれていた。
はじめのうちは周りの音にかき消されていた声が、行き交う船上の人々を驚かせ、中州の対岸を歩く人を振り返らせるほどにまでなった。けれど先生はまだ満足していないらしい。
「よし。明日からは中州のない場所に移動して、直で対岸まで届くように歌おう」
「ええ!? そんなのいくらなんでも……」
「このくらいで音を上げるなんて、さっきの覚悟はどこにいったの?」
「ううっ……わかった、セーヌ越えなんてケチくさいこと言わずに、大西洋越えを目指す!」
「うん、その意気だ」
パリを軽く越え、河口から大海原を渡って、カイエンヌにまで届くように。
そんな想いがベアトリスの声を遠くへ、遠くへと少しずつ伸ばしていった。
ある日の夕食、久しぶりにマルト抜きの三人で食卓を囲んだ。マルトは誰かに会いに行ったらしい。
ギヨームははっきり言わなかったが、おそらくは『いい人』のところだろう。ということは、今夜は帰ってこないのだろうとベアトリスは思っていた。
だから、夜中にクラヴサンの音が聞こえた時には驚いて飛び起きた。
真下から聞こえてきたのは演奏する音ではなく、うっかり鍵盤に手をついたか物を落としてしまった、あるいはただ、怒りでもぶつけて叩きつけたような、そんな音だったのだ。
泥棒かもしれない。
咄嗟にそう思い、ベアトリスは駆けだしていた。階段を下りて、真下にあるマルトの部屋へ急行する。
鍵が開いている――悪い予感が当たった。恐怖が身を竦ませるより先に、ベアトリスは扉を押し開けた。
「誰……? 誰かいるの?」
おそるおそる、部屋の中へと進み入る。開け放たれた窓からは月明かりが射していて、視界は充分だった。
「えっ、マルト?」
そこにいたのは、正当なこの部屋の主ただ一人。なんてことはない、マルトが自分でクラヴサンに突っ伏していたのだ。
「ちょっとマルト、どうしたの? 大丈夫?」
「うん……なんだい……ああ、ベアトリス? ただいま……」
「おかえり……って、そうじゃなくて。このにおい、酔っぱらってるの? 寝るならちゃんと寝なよ、あと鍵もかけて」
本人はまったく動こうとしないし、この体格差ではどう頑張っても寝台まで運べそうにない。
「もう、どうしちゃったのほんとに……」
何とか動かせないかと懐にもぐり込み、下から押し上げていると、ふいにマルトの腕が背中に回り、ぎゅっと抱き竦められた。
「マルト?」
「ああ、そうだよ……あたしがマルトさ、リズドー座の看板女優。マルトの最後の舞台が決まったよ」
「最後?」
とろんとしたマルトの目を見返すと、彼女は唇を皮肉に歪めた。
「そうさ……あたしは引退するんだ、お役御免ってやつだよ。来季からの看板はカロリーヌ。あたしは引きずり降ろされたのさ」
「嘘でしょ? どうして……だって、実力が全然違うじゃない。マルトの歌がいちばんよかった、マルトの方がずっと」
マルトはベアトリスを放すと天井を仰ぎ、両手で顔を覆った。
「実力なんて、そんなものだけでやっていける世界じゃないんだよ!」
「マルト……」
「あいつに……カロリーヌに、パトロンを寝取られたんだ。うちの劇場にたくさん出資してくれてる人でね、配役にも口が利く。そういう人が新しい愛人を売り出そうと思ったら、実力のある古株女優は邪魔になるんだよ……ははっ、どうだい。薄汚い世界だろう? これがあんたたちの憧れる、きらきらした舞台の真実さ」
あの気丈なマルトが泣いている。その光景に動揺して、ベアトリスは言葉が出なかった。
「……あーあ、結局幻滅させちまったね。こういう世界を見せたくなくて、頭ごなしに反対してたってのに」
涙声のまま、マルトはハッと自嘲の声を漏らした。
「言っとくけど、どこの劇場に行ったって似たようなもんだよ。歌えるとか美人だとかは最低限の条件で、自分を引き上げてくれる権力のある男がいなきゃ、舞台に上がって活躍することはできないようになってるのさ。女優なんて、しょせんは娼婦の延長……自分の劇場を淫売屋と呼んで憚らない劇場主さえいるんだからね。これでわかったろう、あんたはこんな、醜い世界に足を踏み入れちゃいけないんだ」
ベアトリスは腕を伸ばし、マルトの頬を濡らした涙を指で拭った。
「そう……それでも、私は諦めないよ」
マルトが目を瞠る。その視線にも怯まずに、ベアトリスは続けた。
「私はどんなことをしても、何と引き換えにしても歌手になるって決めたの。それがどうしても必要だっていうんなら、身体を差し出したっていい。そのくらいの覚悟はできてる」
寝る場所も食べるものもなくパリの街をうろついていた頃、もう少し年長の子や肉づきのいい娘たちは、生きるために身体を売っていた。
必要なものを得るために身を鬻ぐ。それは決して遠い世界の話ではない。
あのままピトゥやマルトたちと出会わなかったら、ベアトリスもいつかああなっていたかもしれない。それに、シャルルが受けた苦痛や、いまピトゥが置かれている状況を思えば、自分もそのくらいのこと――
「この馬鹿!」
頬を張られ、目がチカチカした。痛みより驚きの方が大きい。
殴られてお金を取られたことはあったが、こんなふうに引っ叩かれたのははじめてだ。アンは決してベアトリスに手を上げなかったし、彼女の他に自分を叱るような立場の人というのは、そういえばこれまでいなかった。
「あんた、偉くなってピトゥを助けたいんだろう? ただ目立ちたいってんならともかく、そんな理由であんたが身体を売ったりしたら、ピトゥは自分が死ねばよかったと思うだろうね。あいつを死ぬほど苦しめたいんでなければ、そんな考えはいますぐ捨てることだ」
蒼白い月明かりに照らされたマルトの顔は、真っ赤で、額やこめかみに血管が浮き上がって、濡れた目が血走り鼻水が垂れていた。
その怒りの形相が、声を失うほど美しかった。
「それに、あんた……歌が好きなんだろう? だったら、自分から音楽を貶めるようなことしちゃいけない。あたしが言っても、説得力がないかもしれないけどね」
無理に笑おうとして、哀しげに表情が歪んだ。
「わかった……ごめん、マルト」
じんと熱をもった頬に、マルトの厚ぼったい手が触れている。
「この身体を、お金や権力と引き換えにはしない。音楽を裏切るようなことは絶対にしない、約束する」
その手の上に、まだ小さくて非力な自分の手を重ねる。
「だったら私は、お金や権力を差し出させる歌手になる。弱い立場の人たちに差し出させていた連中が、お願いだから歌ってくださいって、私に跪くのをいつかマルトにも見せてあげるから」
マルトを、音楽を、すべての美しいものを踏みにじる者たちを、いつかこの足元に跪かせてみせる。
ベアトリスの燃えるような瞳にたじろいだマルトは、やがて小さく、苦笑にも似たため息をついた。
「不思議だね。あんたが言うと、本当にそうなりそうな気がするよ」
「なりそうな気がするじゃなくて、そうなるの。してみせる」
マルトはベアトリスの背中に手を回し、わかったわかった、と呆れたように叩きながら、そのままぎゅっと抱きしめた。
「まったく、あんたって子は……」
そう、耳元で笑う声が濡れていた。
あの酔っぱらって帰ってきた夜、マルトはかつてのパトロンと最後の話し合いを持ち、休み明けの秋、リズドー座の初日に、引退の花道となる舞台に上がらせることを手切れ金代わりに約束させてきたそうだ。
事業家のパトロンも元はマルトに入れ上げていただけあって、彼女が憎くなったわけではない。だがマルトとカロリーヌの実力差が大きいだけに、二人が同じ舞台に立っては、どうしてもカロリーヌが霞んでしまう。だからマルトは絶対に追い出さなければならないという、新しい愛人の願いを叶えてやるほかないというのが言い分だった。
あまりに身勝手すぎて聞いているベアトリスの方がはらわたの煮えくり返る思いだったが、翌朝酔いの抜けたマルトは、存外さっぱりとしたものだった。
ちょうど年齢的にも衰えを感じはじめた頃だったし、惜しまれるうちに引退するならいい引き際かもしれない。自分も好きで愛人になったわけではなかったから、キレイに別れられてせいせいするところもあるのだと。
これからはのんびりシャルキュトリのおかみさんでもやろうかね、と明るく言っていた。
そしてこの日も午後の店番を代わってもらい、ベアトリスとジョアキーノはセーヌ河岸に来ている。
この特訓もそろそろ大詰めを迎えているように思われたが、ジョアキーノ曰く、声楽に完成はない、歌手は死ぬまで発展途上と思えなければその時点で終わっている、とのこと。卒業や免許皆伝のような概念はないらしい。
「でも、率直に言ってずいぶん上達したと思うよ。いちばん重要な声区の融合がまだまだだけどね」
どんな人でも、声は必ずある高さで性質が変化する。低い方の胸声から高い方の頭声に切り換わる換声点をなめらかに、美しく溶け合わせるというのがジョアキーノの出した命題だった。
「ほら、このセーヌ川を見て」
「また川?」
「また川。この泥沼みたいなセーヌも、遡れば清涼な湧き水のはずでしょ。森を流れる小川とこことじゃまったくの別物なのに、その境目は見つけられない。川はずっと繋がっている、決して途切れることなく流れながら、自然と変化しているんだ。声も同じだよ、異なる声区の繋ぎ目が繋ぎ目とわかるようじゃ〝流れて〟いない。それを意識して、さあやってみて」
ぱちんと小さなお手てが鳴る。
(細くて冷たくて透明な小川と、広く濁った川。境目がなく、溶け合うように一体に……)
「だめだ、音がえぐれてる!」
「違う違う、響きにむらがある、溶けてない!」
「また身体に力が入ってる!」
ベアトリスも必死でやっているつもりなのだが、頭に思い描こうとするものがおぼろげで、うまく声として表れてくれない。
「難しい……一生懸命イメージしようとしてるんだけど」
「まあ、そう簡単にできることじゃないからね。まだはじめて数か月なんだ、これから何年もかけてゆっくり摑んでいけばいいよ」
「何年?」ベアトリスが顔色を変えた。「そんなにかかるの」
「そりゃそうだよ、本物になるには何十年と思っておいてもらいたいくらいだね。ファリネッリはいまのきみよりずっと幼い頃から教育を受けて、デビューしたのは十五歳の時だ」
「そんな……」
へなへなと膝をつき、両手をつく。慌てて覗き込んだジョアキーノは、その顔を見てぎくりとした。
「それじゃ、だめなの……待たせてる人がいるの。早く有名な歌手になって、迎えにいかなきゃならないのに」
青ざめた顔は放心しているようでもあり、唇はわななき、肩は怒りに震えているようでもある。
「ベアトリス、焦っちゃだめだ。人の身体も楽器と同じだと言ったでしょ。ゆっくり正しく導いてあげないと、無理をして壊れたら元も子もない。声楽で持てる楽器は一人ひとつ、その身体かぎりなんだ。自分自身そのものであって、誰にも奪えはしないけど、一度壊してしまったら、もう替えはきかない」
「あ……」
一刻も早く、ピトゥが生きているうちにカイエンヌから救い出さなくてはならない。
けれどいま聞かされたことは、ぞっとするほど恐ろしい、揺るがしがたい事実だった。
「いったん休憩にしよう」
ジョアキーノはそう言うと、座って鞄からおやつの包みを出した。一つをはい、とベアトリスに手渡すと、自分の分をいそいそと開く。本日ギヨームが持たせてくれたのは、こんがりと香ばしく焼かれた肉包みパイだ。
「ああ、このバターの香り、たまらない。前歯で齧りついた瞬間の、この『サクッ』。完璧すぎる音色だ。ひき肉と炒めた玉ねぎのハーモニーも素晴らしい」
この香りはあのハーブとこのスパイスだろう、焼き具合がどうたらこうたら……というジョアキーノの熱のこもった講釈にうわの空で相槌をうっていたベアトリスは、ふと、前々から気にかかっていたことを切り出した。
「ねえ、ジョアキーノは料理人になるためにパリに来たのよね。なのに毎日私とこんなことしていていいの?」
「まるで僕が料理のことを忘れて遊んでばかりいるように思われてるのなら心外だな」
「そうじゃなくって、私のせいで時間を取られて、肝心の料理の勉強ができてないんじゃないかって。もう何か月も教えてもらって、いまさら言うのも卑怯だけど……そもそもは、あなたの話を聞いてあげたことへのお礼ってことだったでしょ? たったそれだけのお返しにこれじゃ、割に合わなすぎるんじゃない」
あー、と小さなお口を大きく開け、パイをもうひと齧りして、しみじみ味わってからジョアキーノは答えた。
「まず、きみが僕の話を信じると言ってくれたことは、きみが思っているほどささやかな親切じゃないよ。料理の勉強の方も、厨房にいるあいだ有意義に過ごさせてもらってるからご心配なく。お小遣いでちょこちょこ買い食いもできてるし、もうちょっとお金を貯めたら、ちゃんとしたレストランにも行ってみたいと思ってるけど」
「それならいいけど……」
本当は、気になっていたのはそれだけではない。
ジョアキーノはもう音楽に、自分の才能に振り回されたくないと、怖いとさえ言っていた。それでもこうして毎日歌を教えてくれているのは、彼にとってはつらいことではないのだろうか。
最後のひと口を頬張りながらベアトリスの表情をじっと見ていたジョアキーノは、親指で口元を拭った。
「……音楽と決別したい気持ちは変わってないよ。もし他の誰かが同じように僕がモーツァルトの生まれ変わりだって話を信じてくれたり、もしくは僕の命を救ってくれたりしたとして、その人に歌を教えてほしいと頼まれても、僕は絶対にやらない」
じゃあ、どうして。
目で問うと、ジョアキーノはベアトリスの手から、まだ包みも開けていないままのパイをさっと攫った。
「パイ生地だけをいくら焼いても、肉のパイにはならないでしょ。けど、目の前の生地がいまだかつて味わったこともないようなものを包み隠していると知ったら、焼かずに腐らせるなんて僕にはできなかったってことだよ」
僕は本能に弱いみたいだ。とつぶやきながら、ちゃっかり包みを開いてベアトリスのパイに齧りついていた。たしかにジョアキーノの食欲は理性に勝るところがある。
「……ありがとう」
もぐもぐと咀嚼する合間に、ん、と言うのが聞こえた。
「まあとにかく、そう焦らないで。まだまだ理想的なベル・カントには程遠いけど、人に聴かせられる程度にはなってるはずだから安心していいよ」
「ベル・カント?」
ジョアキーノがこくりと頷く。
「うん、イタリア語。フランス語で言うとボーシャンだね」
ボーシャン。
幼い頃――あの思い出すだけで胸が甘く苦しくなるような、切なくて幸せだった、タンプル塔での、名乗ることのできない家族との日々。あの頃の記憶が去来する。
「……私が、小さい頃にね。私の……お母さんが、私のことをボーシャンと呼んでくれたの」
その母が、もうこの世にいないことを察したのだろう。ジョアキーノは静かに「いいお母さんだったんだね」とつぶやいた。
「うん、そう。あんまり人に好かれてはいなかったけど……もしかしたら、お母さんにもよくないところがあったのかもしれないけど、でも、私たちきょうだいにとっては、尊敬する大切なお母さんだった。愛してたし、愛してくれた」
立ち上がったベアトリスは、川のずっと向こう、タンプル塔の方角を見つめた。暮れそめる陽を受けて黄金に輝く髪が、川風に揺れる。
歌おうと思ったわけでもなく、歌っていた。
息を吸ったら吐きたくなるように、目から勝手に涙が出るように、抑えられない感情が身体の奥底から自然と湧き上がり、肉体という楽器が震えて、唇からメロディーがあふれていた。
あの短かった日々のささやかな幸せも、穏やかで深い愛も、目に見えず忍び寄ってくる恐怖と悲しみも――――すべてが混然となったその歌声は、とめどなく流れ、時間さえも超えて、どこまでも響き渡ってゆくようだった。
「……信じられない。思ったよりずっと早く焼き上がりそうだ」
足元にこぼれた言葉は、耳に入っていなかった。
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