亡き王女のオペラシオン 第五回
【一幕 美しからざるこの世界・三】
マルトの家は中央市場近くの小さな通りに面したアパルトマンで、地階の店舗にはシャルキュトリ(豚肉加工品店)が入っていた。硝子越しに見える店内には白い調理服を着た青年がいて、棚に肘をつき、客らしい中年の男と何やら話し込んでいる。
「弟のギヨームがやってる店なんだ。あたしの部屋はこの上に……」
その弟らしき調理服の青年がこちらに気づいて、慌てた様子で店から出てきた。
「大変だ姉さん、こんな時にどこ行ってたんだよ! あれ、何だいこの子。酷い恰好だな、どっから連れてきたの」
「説明は後でするよ、それより何が大変なんだい」
「ああ、そうだ! いまロジェさんが教えに来てくれたんだ。ピトゥが、ピトゥの判決が出た……!」
マルトの顔が蒼白になる。
聞こえてきた、耳を塞ぎたくなるような言葉――『有罪』。
ベアトリスが立っていられたのは、先にマルトが倒れそうになったからだ。ギヨームと二人で彼女を支えながら、ひとまず店の中に入った。
「姉さん、しっかりして。有罪とはいっても死刑になったわけじゃないんだ。ロジェさん、姉さんにも説明してやってよ」
店内にいた、客というより近所の顔なじみといった間柄らしい男が詳しいことを話してくれた。
セーヌ県重罪裁判所がアンジュ・ピトゥに下した判決は、南米ギアナの植民地カイエンヌへの流刑。
死刑は免れたが、流刑地へと向かう移送船が明日にもル・アーヴルの港から出航するという。
「……ちょっと、出てくるよ」
「えっ、どこに? おい、待って姉さん!」
マルトは店を飛び出していってしまった。ギヨームは呆れたようにため息をつく。
「まあ、でも、とにかく命は助かったんだから何よりだよね」
せめてもの救いに感謝していると、ロジェというらしい男が「いや」と首をひねった。
「それがな……マルトの前じゃ言えないが、どうもカイエンヌ流しってのは、ギロチンの慈悲にもすがりたくなるほどの生き地獄が待っているらしい。ほとんどは疫病で死んじまうんだが、それでもまだ幸せな方だっていうんだ。カイエンヌから戻ってきた奴はすっかり人が変わっちまって、廃人になってたそうだぞ」
ロジェは神妙な顔で続けた。
「こりゃ噂だけどな。ほら、自由と平等の名目上、革命政府は奴隷制をいちおう廃止したってことになってるだろ? ところが本当にその通りやるとなると、植民地の労働力が足りなくなる」
言いながら右手を持ち上げる。
「恐怖政治は、ありゃあさすがによくなかったってんで、前みたいにポンポン政敵の首を刎ねるわけにもいかない」
左手を上げる。
「するってぇと」
ぱちん、と両手を合わせた。
つまり、反乱分子をどんどん流刑地に送り込み、奴隷代わりに酷使して使い切る算段。結局は、さんざんいたぶり苦しめ抜いた挙句の死刑のようなものなのだ。
今度こそ、ベアトリスも立っていられなかった。足の力が抜け、ぺたんとへたり込んでしまう。
「お、おい、大丈夫かい? うっ、それにしても……困るなぁ、うちは食べ物屋なんだけど……」
虫でもいやしないかと不安がる顔をしながらも、ギヨームは奥から綿布を持ってきて、濡れた頭や身体を拭いてくれた。
そうしているうちに、戻ってきたマルトが店に飛び込んでくる。
「姉さん、どこ行って……」
「あんた、ベアトリスっていったね、ちょっとおいで、早く!」
マルトは息を切らしながら階段を駆け上って部屋に入ると、自分の身体を拭くのも後回しにして、ベアトリスを乾いた清潔な衣服に着替えさせた。ちょうどぴったりとまではいかないが、丈が短い子ども用の服だ。
最後に上から外套を被せると、ベアトリスの腕を引いてまた外に飛び出す。雨風はおさまりつつあり、嵐が抜けたのかもしれなかった。
「ど、どこに行くの?」
「いいから急いで、無理言って出発を待ってもらってるんだ」
ぜいぜいと息をしながら走って着いた先には、小さな乗合馬車が停まっていた。
「ル・アーヴル行きだよ、いまから出れば明日には着く。ピトゥを見送ってやっておくれ」
「マダムは?」
「あたしは乗れない。もう満員で、どうにか子ども一人だけ荷物の上にでも置いてくれって頼み込んだんだよ。それにあいつだって、あたしなんかよりあんたの顔が見たいはずさ。窮屈だろうけど我慢しておくれ」
マルトがベアトリスを押し込むと、すぐに馬車は動きだした。
「必ず生きて帰ってこいって、あの馬鹿に伝えとくれ。頼んだよ」
芯のある伸びやかな声が、馬車を追いかけてきた。
最初の宿駅で馬を替えた頃にはすっかり雨も止んでいたが、ル・アーヴルの街は霧に包まれていた。海は青いと聞いていたのに、あるはずの色彩はベアトリスの心と同じく灰白色に塗り潰されている。
潮風は肌を切るように冷たく、沖の方ではしきりと霧笛が鳴っていた。岸には停泊する船舶の帆柱が槍のように林立し、それらのどれも、漁船にいたるまで例外なく共和国の三色旗を掲げている。霧に滲む赤白青がゆらゆらと、禍々しく騒ぎ回る海鳥たちに煽られはためいていた。
ベアトリスが港に着いたのは、流刑囚たちがフランスの地を離れようとしている、まさにその時だった。
宿駅から船に乗る客、それとは逆に船から降りてきて馬車に乗り換える旅客と、彼らの荷物を運ぶ運搬人や積み荷を担いだ水夫たちが行き交って、波止場はごった返している。
「ごめんなさい、通して!」
雑踏の中、友や恋人との別れを惜しむ人々の横をすり抜け、再会の感動に浸っている親族の一団にぶつかりながら、ベアトリスは走った。
視線の先にあるのは、ひときわ大きな船が係留された桟橋を歩く、縄でひと繋ぎにされた男たち。疲れのせいか絶望のせいか、ぐったりとうなだれた彼らを憲兵が家畜のように追い立て、移送船に積み込もうとしている。
「……ピトゥ!」
囚人の列にその姿を見つけたベアトリスは、声の限りに叫びながら、哀れな罪人たちの出荷を見物している人だかりをかき分け飛び出した。制止をきかずに駆け寄ろうとすると、憲兵が怒鳴りながらサーベルを振り上げる。
「よせ、やめろ!」
霧を散らすような叫声に、サーベルが中空でぴたりと止まった。
「やめろ、乱暴しないでくれ……そいつはおれの娘だ。他の子どもにゃ死なれちまって、いまじゃたった一人の、おれの娘なんだよ……」
同情を引くための、その場しのぎの嘘なのはわかっている。それでもピトゥの真に迫った訴えに、ベアトリスも胸を衝かれた。
「なあ、おれたちゃ人殺しじゃねえ。ここに繋がれてる連中みんな、好きなもんを好きだと言って、気に入らないもんを気に入らないと言っただけだ。そんな正直者をどこぞのジャングルまで追っ払おうってんだ、最後に家族と別れの挨拶くらいさせてくれたって、罰は当たらねえだろ」
憲兵は数秒逡巡して、サーベルを鞘に戻した。
「早く済ませろ」
「……!」
聞くが早いか、ベアトリスはピトゥ目がけて駆け出した。気が急きすぎて足をもつれさせ、まろびながらピトゥの膝元に飛びつく。
「ピトゥ、ピトゥ……!」
「ああ……この服、マルトが着せてくれたのか? そうか、あいつが……」
もしかしたらこの服は、亡くなったピトゥの娘が着ていたものなのかもしれなかった。けれどいまは、それを確かめるよりも他に話したいことがたくさんある。
それなのに――やっと見られたその顔が少しやつれていて、ベアトリスは何も言えなくなってしまう。胸が詰まって、口を開けば言葉より先に涙があふれ出しそうだった。
だからただ唇を震わせていると、彼はすんと鼻を鳴らして、いつもの調子で言う。
「まあ、何だ……急なことで、驚かせちまって悪かったな。今度ばかりは焼きが回ったようだ。そういうわけで、おれはちょいと出かけてくるからな。なに心配するな、首と胴体さえ繋がってりゃ、そのうち帰ってこられることもあるさ」
「ピトゥ……」
この先に待ち受けている運命を、ピトゥは知っているのだろうか。
まただ、とベアトリスは絶望する。また救えない。大切な人がこの手の先からまた奪われていくのを、こうして見ていることしかできない。あまりにも無力な自分が許せない。
どうして、私だったのだろう。
私なんかが生き延びたって、何の意味もないじゃないか。誰も救えない、何も変わらない。だったらせめて、シャルルに生きていてほしかった。
私はいったい、何のために生かされたのか。
「なあ、ベアトリス。おれは占い師じゃないが聞いてくれ」
返事の代わりにした瞬きで、ついに涙がこぼれてしまう。ピトゥは顔をくしゃっと歪めた。
「やっぱりお前さんは、シャンソニエールにゃ向かねえな。シャンソンは詩だ。シャンソニエってのは、まあ歌も上手けりゃそれに越したこたねぇんだが、歌詞が書けなきゃ話にならん。そいつ自身が紡ぎ出した言葉だから、その切実さが直に聴き手に響くんだ。けどお前さんの才能は、どうもそっちじゃないらしい」
こんな時に将来の話、それもいつかのよもやま話を引き合いに、才能がないと切って捨てられるとは思いもしなかった。
ふっと笑って、ピトゥは続ける。
「お前さんの歌声には、他人の書いた詩にすら心を震わされる情感が乗る。そういう歌い手は多くないんだぜ」
ピトゥの目、いつもおどけてばかりの茶色い大きな瞳が、潤んで光を宿していた。
「ベアトリス、お前の歌には力がある。人の心を動かすことができる。それは世の中を動かす力だ」
本当に、こんな時に、こんな話をするなんて。
少女の双眸からは、もはやとめどなく涙が流れていた。それを拘束された手で拭ってやれないのがもどかしそうに、偽の父親は苦笑する。
「だけどそれを中途半端に使って、おれみたいにヘタ打っちゃいけねえ。いいか、まずはその歌声を磨け。歌い手としてでかくなって、高みに上るんだ。押しも押されぬ歌姫として、美しからざる世界を、誰より美しく歌い上げてみせろ」
港は霧でけぶり、海は薄暗い。しかし上空では雲がちぎれたのか、桟橋の上に帯状の光が降り注いだ。
この世は理不尽で、どこまでも残酷だ。
この美しくない世界の一隅に差し込んだ、ひとすじの光。
「時間だ、行くぞ」
まぶしさに目を細めた時、首の後ろを摑まれた。憲兵がベアトリスを引き離し、繋がれた囚人たちを急き立てる。のろのろと摺り足で列が動きだした。
「待って……! ピトゥ、ピトゥ!」
まだ、言いたいことを少しも伝えられていない。
だから少女は、あふれる涙をそのままに、遠ざかってゆく背中に歌いかけた。
星の輝きを見たら わたしの涙を思い出して
波の音を聴いたら わたしの歌を思い出して
会話を聞いていた周りの囚人たちも、二人が本当の親子ではないと、とっくに気づいていたはずだ。だが彼らも、憲兵さえも二人を咎めはしなかった。
残してきた家族や友人、恋人のことを思い出している者。これから我が身に降りかかるであろう悲劇に恐怖する者。絶望している者。その絶望の中に、ほんのわずかでも生きる希望を見いだそうとする者。
抱える思いはさまざまでも、彼らはみな少女の歌声に涙し、すすり泣きながら船倉へと重い足を引きずってゆく。
この海を越えて わたしのもとへ帰ってきて
わたしはここにいる 水平線の向こうで ずっとあなたを待っているから……
ぐっと涙を呑んで、唇を嚙みしめる。違う、と首を振り、歌い直した。
この海を越えて あなたを迎えにいく
きっとあなたを連れ戻すから
だから生きて
水平線の向こうで わたしを待っていてね
大好きなパパ 愛してる
最後に振り返ったピトゥは、泣くように微笑んでいた。
【つづく】