亡き王女のオペラシオン 第四回
【一幕 美しからざるこの世界・二】
それからというもの、ポン・ヌフでいちばん人気のシャンソニエの傍らには、痩せっぽちの少女の姿が見られるようになった。
帰れとも言われないのをいいことに、ベアトリスはそのまま何となくピトゥと行動を共にしている。
帰るところなんてどこにもないことを、ピトゥもわかっているのだろう。男の気遣いには黙って甘えるものだと教えてくれたのもピトゥだった。
「どうぞー、ピトゥのクープレ、お気に召したらこちらをどうぞ! お代は気持ちで結構!」
昼間はピトゥが歌って人を集め、ベアトリスが聴衆の間を回って、夜に書いたクープレを手売りする。これはなかなか効率がよく、どんどん捌けるので日に日に書く枚数も増えていった。
今日も今日とて盛況につき、絶え間ないアンコールのおかげで終わりが見えない。
「ピトゥ、もう一曲歌ってよ! いまのもよかったけど、違うのも聴きたいわぁ」
「そうさな……じゃあ、こんなのはどうだい」
近くのシャンソニエが『殺せ』と歌えば、ピトゥは同じ曲に即興詩をつけて『愛せ』と歌う。
この頃のシャンソンのほとんどが流行歌やオペラの小曲などに自作の歌詞を乗せたもので、つまりは替え歌のようなもの。メロディーは共用されるのが普通であり、シャンソニエとは歌う作詞家だった。
女だけでなく男も老人も若者も、この橋を渡る人々は皆、ピトゥの甘い歌声にはっと振り返る。革命を揶揄するような歌詞に腹を立てて野次を飛ばしたり、唾を吐いて通り過ぎる人もいるけれど、立ち止まってうっとり聴き入ったり、一緒に口ずさんでいく人もたくさんいた。
これはベアトリスが彼と過ごすようになって知った、喜ばしいことの一つだった。
パリ中の誰もが一人残らず王族を憎み、革命を賛美しているわけではない。皆弾圧を恐れているから表立っては口に出せないだけで、ピトゥが国王の死を嘆けば一緒に涙し、ギロチンはいらないと歌えば頷いてくれる市民も大勢いるのだ。
本当はこうして聴いているだけでも危険なことではあるのだが、いちばん危険なはずのピトゥがこれほどまでに堂々と歌っているからこそ、彼らもここでは、自分の心に素直に従うことができるのかもしれない。
「お嬢ちゃん、わしにも一枚もらえんか」
ベアトリスを呼び止めたのは、毎日欠かさず来ているおじいさんだ。
場所取りも慣れたもので、巧みな杖さばきで女たちに潰されることなく、かつ裾を踏むこともなく絶妙な立ち位置を確保してピトゥのシャンソンを聴いたり、周りの人と軽くおしゃべりをしたりして、ふらりと帰っていく。ここはちょっとした社交場にもなっているらしい。
「これ、昨日買ってくれたクープレとまるきり同じだよ?」
うん、と頷いておじいさんは黒ずんだソル銅貨を差し出してくる。
ベアトリスが戸惑っていると、同じく常連のクロエが薄いレース手袋に覆われた指を伸ばし、ベアトリスにぴかぴかのサンチーム銅貨を握らせて、クープレを二枚抜き取った。
「いいのよ、このおじいさんは毎日ここまで散歩に来て、これを買うのが健康記録みたいなものなんだから。呆けたわけじゃないから大丈夫」
「当たり前じゃ、まだまだ頭はハッキリしとるわ!」
「ほらこの通り、とっても元気でしょ」
足元の石組みを杖でビシバシ叩くおじいさんに、クロエは笑顔でクープレの一枚を手渡す。彼女も昨日まったく同じものを買っていて、つまりこの人たちは、こうしてピトゥの活動を買い支えてくれているのだった。
「それにしても、ずいぶん人が集まるようになったわね」
日傘の陰で、クロエが神妙な顔をする。
「そろそろ場所は変えた方がいいかもしれないわ」
「そうじゃな、ちとポン・ヌフで長くやりすぎとる。ここはいい場所だが、人気が出ればそれだけ目立つ。国家権力の目にもつくようになるぞ」
クープレを握るベアトリスの手に、ぎゅっと力が入った。
二人の言う通りだ。大勢の人に聴いてもらうのが目的なのに、人を集めすぎてもよくないとは如何ともしがたいものだが……反革命的であるということが、即ち犯罪とされる世の中なのだ。捕まってしまっては元も子もない。
「あらお嬢ちゃん、そんなに青くならないでちょうだい、脅かすつもりじゃなかったのよ。大丈夫、もし捕まっても、運がよければ出てこられることもあるんだから。あたしがピトゥと知り合ったのだって、監獄の中だったのよ」
「えっ、クロエが? どうして」
ピトゥはさもありなんといったところだが……クロエのようなお嬢さんが、いったい何をして投獄されるようなことになるというのか。
彼女の家は裕福ではあるが、貴族ではない中産階級で、主にリヨンの織物を扱う卸商だと聞いたことがある。
「もう三年前の話だけどね。うちはリヨンの反乱にも関わってなかったんだけど、後からやっぱり関与が疑われるとか何とか、言いがかりで全財産を没収されそうになって、抵抗したパパも逮捕されちゃったのよ。それでパパの釈放をお願いしに行ったら、あたしまで捕まったの。熱月のクーデターがあと数日遅かったら、あたしもパパも処刑台の露と消えてたかもね」
「そんな、酷い……」
恐怖政治の時代だったとはいえ、身内の釈放を願い出ただけで逮捕するなんて。
「でしょ? あたしがいたカルム監獄には、同じような理由で収監された女たちが大勢いたのよ。そういえば、旦那の助命嘆願で捕まった貴族将校の奥さんがいてね、死にたくないー! って毎日泣きわめいて大変だったのよ」
クロエは呆れたように肩を竦めるが、一緒に聞いていたおじいさんは深く感じ入ったご様子だ。
「それほどまでに惜しい命を賭してでも亭主を救おうとは、けなげなご婦人ではないか。美しき夫婦の絆、素晴らしきかな」
「それがその奥さん、獄中で知り合った若い将軍とちゃっかり恋仲になってたのよ」
「なんと! けしからん、けしからんぞ!」
「結局旦那の方はクーデターの数日前に処刑されちゃって、クーデターの後釈放された奥さんはその新しい恋人と一緒になろうとしたんだけど、実はその男も結婚してたの。それも十六歳の若妻と新婚ホヤホヤ」
「なんっ! けし、けしからんっ! 有罪じゃ! そんな奴はギロチンで構わん!」
近頃の若いモンは! と顔を真っ赤にして杖を振り回すおじいさんは無視して、クロエは続ける。
「で、未亡人になったその奥さん、とことん軍人が好きなのね。その後また別の若い将軍と再婚したんだけど、その相手が大当たり。破竹の勢いで連戦連勝、彼のおかげでオーストリアともじき講和が結ばれるって噂よ。いまやフランスの英雄だって讃えられてる――」
クロエははっと言葉を止めた。彼女の視線を追って、ベアトリスも息を呑む。
人波を割って歩いてくる二人の男。青い軍服の左肩に飾緒を垂らし、象牙色の剣帯をたすき掛けにしている――――治安憲兵だ。
ピトゥもそれに気づいたようで、歌うのをやめた。雑踏の中、距離もあるのでピトゥの歌はほとんど聞こえていなかったはずだが、急に静かになったのをかえって不審に思ったのか、彼らは歩調を速めてこちらに向かってくる。
ベアトリスは聴衆の合間を縫って、半円形に張り出したピトゥの舞台に飛び出した。その勢いのまま欄干から身を乗り出すと、手に残っていたクープレを川へと投げ捨て、動かぬ証拠を隠滅する。まだ人の壁に遮られていて、憲兵には見咎められなかった。
「ベアトリス、こっちに来るな。早くどっか行け」
一人で憲兵と対峙するつもりなのだろう。背中で手を組み、じっと身構えているピトゥに、ベアトリスはかぶりを振る。
「ピトゥ」
その一言で、見上げる瞳で、ベアトリスは懇願していた。
確実に助かる行動を取ってほしい。
簡単なことだ、他のシャンソニエたちと同じように、愛国的なシャンソンを歌ってみせて、この場をしのぎさえすればいい。
「おい」
いつの間にか人の壁はすっかり切り崩され、二人の憲兵が目の前に立ちはだかっていた。
「ここは大した人気だな。ずいぶん人が集まっているようだが、どれ、どんな歌か、俺たちにもちょっと聴かせてくれないか」
ほんの一節、革命を讃え、旧き時代を悪しきものとする歌をうたうだけ。たったそれだけの簡単なこと。
「これはこれは憲兵さん、見回りですかい、ご苦労さんなこって。なに、あなた方にお聞かせするほどのもんじゃございません」
けれどその簡単なことを、決してしないのがピトゥだった。
「ピトゥ、歌って」
大きな背中に庇われながら、ベアトリスは小声で、しかし切実に訴える。それでも彼は、彼の信念を曲げようとはしなかった。
「お願い、ピトゥ……!」
腹の足しにもならないちっぽけな矜持のために、命までも危険に晒してしまう。そんな彼の愚かさをベアトリスは嘆くが、しかし非難することはできなかった。
なぜならベアトリス自身も、その〝簡単なこと〟が決してできないからだ。
泥の中を這いゴミを漁ってでも生きたいと願う一方で、本心を裏切ってまで永らえたくはないという、まったく矛盾した感情がこの身の裡に動かしがたく同居している。
たとえ断頭台に上げられたとしても、肉親を嘲り、憎むべき革命を賛美する歌をうたうくらいなら、ベアトリスは唾を吐いてこの世に別れを告げるだろう。
「そう言わずに頼むよ、もったいぶられちゃ余計に気になるじゃないか。それとも、俺たちの前じゃ歌えないような歌なのか?」
獲物を見つけた猛禽のように、彼らの目が光った。
(けど――――やっぱり、だめ。ピトゥには捕まってほしくない!)
少女はピトゥの背中を離れ、背後の欄干によじ登った。
「ベアトリス?」
下を覗き込めば、セーヌの濁った水が茫々と波うって流れている。恐怖にくらっとするのを堪えて、手摺りの上に両足で踏ん張り立った。枝のような二本の脚のあいだを、川風が煽るように吹き抜けていく。
「おい、早く降りろ、急に何を……」
慌てて駆け寄ってきたピトゥの頭から、さっと帽子を拝借。
そして少女は突然「ああ!」と嘆きの声を上げた。呆気に取られるピトゥ、そして何事かと見上げる憲兵二人に、ベアトリスはにっこりと微笑んで続ける。
ああ! あのねママン きいて わたしの深い悩みを
パパはわたしに 分別を持ってほしいんですって 大人みたいにね
だけどそんなものより お菓子のほうがずっといいじゃない!
それは誰が作ったかもわからない、けれど誰もが知っている、『あのねママン』という歌だった。
民謡のように自然と広まった曲なので歌詞も一つに定まらず、子どもらしい内容から少し色っぽい恋の話などさまざまだが、少なくとも政治的に煽動するような類の歌ではない。
それでいて巷にすっかり浸透しているシャンソンでもあるから、貧しい少女がこれを歌ってお菓子のお恵みをねだろうと考えたとしても、何ら不思議でないものだった。
繰り返しの最後のフレーズ、「お菓子のほうがずっといいじゃない!」を歌いきると同時に、ベアトリスは帽子をひらりと回して大仰なお辞儀をする。そして頭を下げたまま、腕を伸ばしてひっくり返した帽子を突き出していた。
静けさが胸に痛い。飛び出しそうに鳴る心臓の音が憲兵に聞こえてしまわないか、恐ろしくて顔を上げられなかった。
「おい」
憲兵の一人がピトゥに詰め寄る。張りつめた空気に肌がひりつき、ベアトリスは唾を飲んだ。帽子をささげ持つ腕が震える。
「なかなか芸達者な娘じゃないか。だが物乞いはもっと人目につかないところで、ひっそりとやるんだな」
帽子に何かが投げ入れられ、ベアトリスは顔を上げた。二人の憲兵は「歩道を塞ぐな!」と人混みを散らしながら去ってゆく。見逃してくれたのだ。
帽子の中に入っていたのは、紙にねじり包まれた砂糖菓子だった。へなへなと両脚から力が抜けて、欄干から滑り落ちそうになったベアトリスをピトゥが抱き止める。
「おい、大丈夫か?」
「う、うん……助かった」
「助かったのはこっちだ。まったく、驚かせやがって」
泣き笑いのようなピトゥの顔を見て、この場を切り抜けたことを実感する。両手でぎゅっと厚みのある胸にしがみつくと、背中を抱きしめ返してくれた。
ベアトリスが大事に思った人たちの命は、この手からすり抜けてゆくように、次々と失われていった。
けれどいま、ピトゥの鼓動を肌に感じる。ベアトリスは頬を寄せ、心臓の音に耳を澄ませた。ここで確かに生きている、力強い命の音がする。
また誰かを守りたいと思えた。そして今度は守ることができた。それがこんなに嬉しい。
「頼むから、二度とこんな無茶してくれるなよ」
頭の上から降ってきた声が少し震えていて、怖かったのは自分だけではなかったのだと気づかされる。ベアトリスがピトゥを失いたくないと咄嗟に思ったように、彼も自分の身を案じてくれていたのかもしれなかった。
こんなに誰かに心配してもらえたのはいつぶりだろう。そしてそれは、何てあたたかくて、泣きたいくらいほっとするような気持ちにさせてくれるのだろう。
「……あ、あれ? みんな、帰らないの?」
やけにたくさんの視線を感じて顔を上げると、クロエやおじいさん、他の人たちもその場に留まり、二人を囲むようにしてじっと見つめていた。
さっきは危ないところだったのだから、聴衆も蜘蛛の子を散らすように逃げていくのが普通だ。実際半分程度はさっさと離れていったのだが、どうも、また引き返してきた様子の人たちもいる。
「さっきの、もう一回歌ってみてはくれんかね」
えっ、とベアトリスは目を瞬く。
「そうよ。お嬢ちゃんの歌、とっても可愛らしかったわ。もっと聴かせてちょうだいよ」
誰からともなく、囃し立てるような手拍子がはじまった。
戸惑うベアトリスを、ピトゥはにっと笑って肩に担ぐ。
「ちょっ、ピトゥ!」
「ほら、お客さんたちがお待ちかねだ。歌ってやらなきゃ帰らんぞきっと」
「ええ……」
観念したベアトリスが遠慮がちに歌いだすと、大人たちは小さなシャンソニエールを励ますように、微笑ましく手を叩いていた。しかしその手は止まり、やがて彼らはほぅとため息をついたり、目を閉じたりして、じっくりと少女の歌声に耳を傾けるのだった。
二度目のアンコールからは、ピトゥも一緒に歌いはじめた。
低くて厚みのある声が下に重なると、ふかふかの絨毯の上を歩くように心地好い。あたたかくて、安心できて、一人で歌うより何倍も伸びやかに歌える。二人のハーモニーが完全に調和した瞬間、全身に震えが走った。
もっと、もっと歌っていたい。
ベアトリスは何度もアンコールに応え、声が嗄れるまで繰り返し歌い続けた。
その日の収穫はすごいものだった。おひねりやお菓子をたくさんもらって、帽子の中がぱんぱんだ。
甘いボンボンも、もちろんお金も嬉しいけれど、何より楽しかった。
ピトゥと歌っていると、陽だまりのような音楽の光に包まれる。歓声と拍手の中で二人一緒にお辞儀をした時、胸がどきどき熱かった。その熱が、まだ身体の芯にじんわりと残っている。
「ピトゥ。私もシャンソニエールになろうかな」
日暮れ時、いつもの川岸で寝そべりながらベアトリスがつぶやいた。
「うーん、そりゃどうだろうな。専業でやるもんじゃあねえと思うがなぁ……こういうのはほら、弁護士とか作家とか役人とか、他に稼ぎのある人間がやることじゃあねぇか」
「ピトゥだって他に仕事してないじゃない」
「だからこんな暮らしなんだよ。お前さんだってちゃんと雨風しのげる家に住んで、毎日まともな飯を食いたいだろ」
ピトゥはそう言うけれど、ベアトリスには今の生活が充分すぎるほど幸せだった。
これ以上、何も望むことはないと思えるほどに。この荷車一つでピトゥの行くところどこへでもついていって、一緒に歌いながら暮らしていけたら。
「まともな飯じゃなくて悪かったね。ご不満ならもう持ってこないけど」
ふいに響いた、よく通る声。夕陽を背にした逆光のシルエットは、両腕に何かを抱えた女性のものだった。
「マルト! 待ってました、まともどころかパリでいちばん、いやフランス一、世界一の豚肉料理! こんな美味いもんが食えるなんて、おれはスルタンにだって自慢できるってもんさ」
「まったく調子がいいんだから。まあ余り物なのは事実だけど、それでも犬だってもっと感謝して食べるもんだよ」
「感謝ならしてるさ、それこそ言葉では言い表せないほどに。いつも悪いな」
彼女が抱えていたのは見覚えのある陶器の壺だった。慣れた様子で荷車の粗布を捲ると、空の壺を取り出して、持ってきた方と入れ替えている。
「ベアトリス、こいつはマルトだ。いつも食い物を差し入れしてくれるおれのファン」
「何がファンだい、馬鹿言ってんじゃないよ」
「もちろんただのファンとは違うぞ、いちばんのファンだからな」
「いちばん古い知り合いってだけだろ。幼馴染みの腐れ縁さ」
どうやら、あの素晴らしい料理の数々はこの女性、マルトがくれたものだったらしい。
「あの、マダム、私もご馳走になりました。本当に、世界一くらいとっても美味しかったです」
立ち上がってお礼を言うと、マルトはじっとこちらを見下ろしてくる。その視線に少し怯みつつ、ベアトリスも彼女をまじまじと見上げた。
恰幅のいい健康的な身体つき。最近流行りの下着のような薄っぺらいドレスではなく、控えめに膨らんだ踵丈のスカートは昔ながらの平民女性らしい服だ。とはいえ生地は真新しく、デコルテを覆うショールも赤い小花柄が鮮やかなインド更紗で、暮らし向きは豊かであるのが窺える。きりっと力強い眉と目が、内面の芯の強さを物語っているようだ。
見た目や雰囲気は全然違うけれど、奥さま――お母さまを思い出す、いい匂いのする女性だった。
「そうかい。作ったやつに伝えとくよ」
彼女は口元だけでぎこちなく笑うと、顔を逸らした。
何となく、あまり好意的でないように感じてしまい、ベアトリスははっとする。
いつの間に、自分はこんなにも図々しくなっていたのだろう。
ピトゥや彼の周りの人たちが特別なだけで、誰だって汚い浮浪児なんか目に入れたくもないものだ。そんな当たり前のことも忘れてしまいそうになるほど、過ぎた幸福に浸りきっていたらしい。
急に恥ずかしくなって、ベアトリスは荷車の陰に隠れるように座り込んだ。
「じゃあ、あたしはこれで帰るよ」
「おっと、そいつはおれが持とう。じき暗くなるから送っていくよ」
「そうしてくれるとありがたいね」
「おう。ベアトリス、ちょいと留守番しといてくれるかい」
顔だけ出して頷くと、ピトゥはマルトと連れ立って行った。
一人ぼっちになると急に肌寒く感じて、ベアトリスは荷台の中に入った。すると奥の方にもう一つ、空っぽになったリエットの容器が残っていた。
忘れ物だと気づいたベアトリスは、それを持って二人の後を追いかける。階段に差し掛かったところで、上の方から話し声が聞こえてきた。
「近ごろ痩せぎすの女の子を連れてるって噂を聞いて、まさかと思ったけど……どういうつもりだい。あんた、あの子の父親にでもなる気なのかい」
(――私の話だ)
どきりとして立ち止まる。
「悪いことは言わない、馬鹿なことはおよしよ。猫の子拾うのとはわけが違うんだよ、きっと後悔するに決まってるんだ」
階段を上ろうとしていた足は、次の段を踏めなかった。届けにきたはずの壺を手にしたまま、ベアトリスはそっと引き返す。
二人の会話の続きを、ピトゥが何と答えるのかを、聞いてしまうのが怖かった。
「お嬢ちゃん、今日はピトゥと歌わないの?」
よく晴れた昼下がり。いつものポン・ヌフの歩道で、クロエが薄桃色の日傘をくるくる回しながら言った。
「うん。今日はもう、クープレも全部売れたし」
ベアトリスが俯きがちに答えると、今度はおじいさんが言う。
「そんなケチくさいこと言わんと、歌ってくれんかの。わしゃ最近じゃピトゥのシャンソンより、お嬢ちゃんの歌を楽しみにここへ来とるんじゃよ」
「でも……」
「老体に鞭打ってここまで歩いてきたんじゃ。年寄りの我が儘きいとくれんか」
「そうよ。おじいさんはあと何回聴けるかもわからないんだから、年寄り孝行しておやりなさいよ。今日が最後になるかもしれないじゃない」
「わしゃまだくたばらん!」
「これだけ元気があればそうでしょうね」
ベアトリスはつい、ぷっと噴き出してしまう。
「やっと笑ったわね。ほら、いつまでもこんなところにいないで、ピトゥのとこに行ってらっしゃい」
背中を押され、半円形の舞台に進み出ると、ピトゥがいつもと変わらぬ笑顔で手招きしてくる。
「ベアトリス。みんなお前さんの歌を聴きたいって言うんだ、一緒に歌おう」
差し出された大きな手に、おずおずと自分の手を重ねた。
「ん? どうした?」
茶色の大きな瞳で覗き込まれて、ベアトリスは思わず口から出かかった言葉を呑み込む。
そして聴衆の方を振り返ると、すぅと息を吸って歌いだした。
ああ! あのねママン きいて わたしの深い悩みを……
ピトゥも一緒に歌いはじめると、重なり合う響きがやっぱり心地好くて、いつまでもこうしていたいと思ってしまう。欲が出てしまう。
あのねピトゥ、きいて。
育ててくれとか、守ってくれなんて言わない。だけど、どこかに行けとは言わないで。
私を捨てないで。いなくならないで。
酷い臭気が漂う、牢獄の小部屋。その中でシャルルが一人、蹲っている。
小窓から腕を差し入れ、必死で手を伸ばすけれど、触れることも、何もできない。こうしているうちにまた誰かが来て、後ろから殴られそうで気だけが急く。
ここからじゃだめだ。この部屋を出て、廊下から扉を開けないと。
(シャルル、待ってて。何とかする、必ず私が何とかするから。それまで待ってて、絶対に――――死なないで)
「助けに、いくから……絶対に……シャルル……シャルル、シャルル!」
はっと目を開けると、顔がぐしゃぐしゃに濡れていた。
いつもの橋の下、辺りはまだ暗い。荷車の中で目を覚ましたベアトリスは、両手で顔を擦った。
シャルルが死んだことを知ってからというもの、あの日救えなかった後悔のせいか、ベアトリスはずっと同じ夢を見ている。うなされるのは毎晩ではないが、この日はそうだった。こういう目覚め方をした後は、しばらく涙と身体の震えが止まらない。
けれどいまは、その震える背中を優しく撫でてくれている大きな手があった。
「酷い夢を見たんだな」
「あ……」
「大丈夫。もう大丈夫だ」
荷台の外から腕を伸ばし、さすったり、ぽんぽん叩いたりしながら、心配そうに見下ろしてくれている。
その優しい瞳を見ただけで安心感に掬い上げられて、悲惨な現実が遠のいてゆくように思えた。
「パ……」
「パ?」
パパ。思わずそう呼んで、腕にすがりついてしまいそうだった。
昔、もっと小さかった頃に、アンをママンと呼んだ時は叱られてしまった。
アンは優しかったけれど、どこかソフィーに対して線を引いているところがあった。それはアンの忠心ゆえだったといまなら理解できるけれど、当時はずっと、薄い膜のような寂しさに覆われていた。
「ううん、何でもない。寝ぼけてただけ」
そうか、と目を細めるピトゥは、少し強い力で頭を撫でた。
その手にベアトリスは、心地好さと同時にちくりとした罪悪感を覚える。
思えば、厚かましい話もあったものだ。自分の素性は明かさないくせに、捨てられたくないだなんて。
「ねぇ、ピトゥ。どうして何も訊かないの」
「うん? 寝ぼけてただけだって、お前さんが言ったんだろ」
「そうじゃなくて……」
そもそもピトゥは、どうしてこんなに自分によくしてくれるのだろう。
どこの誰とも知れない、パリの路上に湧く虫のような薄汚いみなしごの一人。あの日ピトゥと出会ったのは偶然でしかなかった。それがこんなふうに、まるで家族のように優しくしてくれる理由がわからない。
「詮索好きの男ってのは、もてないからな」
そう冗談めかしたかと思えば、ふとどこか寂しそうに微笑う。
「誰にだって、話したくない過去くらいあるだろう。こんな時代ならなおさらな」
それは裏を返せば、ピトゥ自身にも話せない過去があるという告白でもあった。
「まぁそれにしたって、お前さんはちょっと、月並みじゃあなさそうな事情を抱えてるようだけど」
ぎくりとしてピトゥを見返すと、彼は夜目にも白い歯を剥き出してみせた。
「文字の読み書きどころか楽譜まで書けるんだ、そりゃ並大抵の生まれじゃないってことくらいわかるさ。けど、お前はお前だ。おれはベアトリス、いまここにいるお前を知っている。それで充分だろ」
そんな笑顔を向けられてしまっては……期待してしまう。
なら、いいのだろうか。王女だった自分が、このまま一緒にいても。
もしかしたらピトゥは、私の正体を知っても、何も変わらずそばにいてくれる?
「まだ夜中だが、眠れそうか?」
「ううん。目が覚めちゃった」
「なら眠くなるまでおしゃべりでもするか」
「うん!」
ピトゥが両手でベアトリスを持ち上げて、荷台から降ろす。川べりで寝転がると、ピトゥは仰向けになって人差し指を空に向けた。
「見てみろ。今夜はめずらしく晴れてる、いい夜だ」
「わぁ……」
黒の帳に、無数に煌めく金色の星。
汚れたセーヌの水は泥沼じみていて、湿気と異臭で空気は淀んでいる。けれど遠い夜空は見るからに澄んで、濁りのない光が無数に瞬いていた。
「地上がどんなに血で汚れても、星を汚すことはできないんだ。星があの光を降らせてくれる限り、荒れた大地もいつかは癒される」
「ふふっ、詩人だね」
「そりゃお前、シャンソニエってのはそういうもんさ」
苦しい記憶も、きっと時間が忘れさせてくれる。そんなふうに慰めてくれたのだろう。ピトゥは何も訊かずに、それこそ星のように静かにベアトリスの心を照らしてくれる。
空を指差しながら、ピトゥは星座やそれにまつわる神話を語ってくれた。
旦那さま――本当の父も物知りな人だったが、ピトゥは神話でも男女の恋の伝説にばかりやたらと詳しかった。古の神々は何だかあちこち乱れていて、ベアトリスにはあまりロマンティックだとは思えなかったけれど。
「ねえ、ピトゥは女の人にもてるよね? マリー・アン・アデレードっていう人、知らない? 占い師なんだけど」
「マリーもアンもアデレードも知ってるが、占い師とは聞いてねえな。何だ、占ってもらいたいのか?」
「まあ、そんなとこ……どうしてもその人に会いたいんだけど、姓も何にもわからないの。名前だけで人を捜す方法ってあるかな」
「姓ならともかく、名前だけじゃなぁ……普段何て呼ばれてるかもわからないのか?」
こくりと頷くと、ピトゥは首をひねった。
「うーん……役所に行けば洗礼証書が見られるとは思うが、姓がわからないんじゃお手上げだな。そもそもパリの生まれじゃなきゃあ意味がないし、革命のドサクサで書類の管理もどうなってることか」
やっぱりそうか。ベアトリスが肩を落とすと、ピトゥが励ますように言った。
「まぁあれだ、その占い師が当たるんだったら、人の口に上ることもあるだろうし。縁がありゃそのうち会えることもあるんじゃねえか」
「うん。そう……だね……」
いつもうなされた後は、怖くて朝まで目を閉じられなくなるのに……とろんとまぶたが落ちてくる。
そのままとろとろと、白くて甘い眠りに溶けていった。
夜更かしをしたせいだろう。ベアトリスが荷台の中で目を覚ました時には、もう日が高くなっていた。慌てて辺りを見回すが、ピトゥの姿がない。一人で歌いに行ってしまったようだ。
「起こしてくれればよかったのに」
一人不満をこぼすが、朝寝坊をしたのは自分である。うーんと背伸びをすると、ベアトリスは荷台から飛び降りた。
小走りでポン・ヌフに向かう。定位置にはいつものように観客が集まっていたが、遠目に見ても今日はどこか様子が違い、妙な雰囲気だった。
主役のピトゥは見当たらないのに、彼がいるはずの場所だけをぽっかり開けて、皆が落ち着きなく何事かを囁き合っている。
「あっ、お嬢ちゃん大変よ!」
ベアトリスに気づいたクロエが声を上げる。人波をかき分けて近寄ると、彼女も、一緒にいたおじいさんも青ざめた顔をしていた。
「どうしたの? 何かあった――」
「ピトゥが、ピトゥが捕まったのよ」
「誰ぞ通報した者がおったようでな、反革命的シャンソンを流布した廉で、憲兵がしょっ引いていきよった」
突然、目の前が真っ暗になる。ぐわんと世界が回って、真っ逆さまにセーヌの濁流に呑まれそうだった。
「う、嘘……どこ? ピトゥは、どこに連れていかれたの?」
クロエとおじいさんは困ったように顔を見合わせる。
「わからないけど……もしわかっても、絶対に行っちゃだめよ。釈放の嘆願なんかしたって、あたしの時みたいに自分も監獄に放り込まれるだけなんだから」
「そうじゃ。一緒に歌っていたのが知れたら、お嬢ちゃんだってタダじゃ済まん。あいつらは子どもにも容赦せんからな」
「でも、でもピトゥが……!」
怖い。考えたくもない、最悪の事態を想像して膝が震えてくる。
「落ち着いて。大丈夫、捕まったのははじめてじゃないんだし、ピトゥのことだから、今度もきっと鼻歌うたいながら帰ってくるわよ」
「クロエの言う通りじゃ、安心せい。ロベスピエールは死んだ、革命裁判所もなくなったんじゃ。そう簡単にギロチン送りにはできんさ」
本当に? 本当に、信じて待っていていいのだろうか。
シャルルの時だって、大人の言うことを信じて待っているうちに、あんなことになってしまったじゃないか。失ってから後悔したって、何もかも遅いのに。
けれど結局、ベアトリスにはどうすることもできないのだ。動かしようのないその事実こそが、何よりも少女を苦しめていた。
相変わらず自分は無力だ。シャルルも、アンも、ピトゥも、大切な人をこの手で救うことができない。それが悔しくてたまらない。
何の力もない、あまりにちっぽけなこの身が呪わしくて仕方がなかった。
「ピトゥ……」
白亜の石橋の上で、痩せこけた少女は蹲る。
どうか。どうか無事で帰ってきて。
少し前まで、餓えに苛まれていない瞬間などなかった。空腹に耐えかねてゴミでも何でも口に入れ、胃の痛みをしのぐ日々だったというのに、いまは何日食べなくてもお腹が空いたと感じない。
ピトゥはまだ帰ってこない。ベアトリスは二人の根城だった橋の下から一歩も動かず、昼も夜も、荷車の中でじっと待ち続けていた。
この日は朝から湿った重い風が吹きつけていた。砂が舞って全身が埃をかぶっても、少女はいつもそうしているように、荷台から頭を出して膝を抱えていた。
天候が荒れる前兆だろうか、セーヌの水嵩が増している。普段はひっきりなしに行き来している船や筏も今は見る影もなく、対岸にびっしりと係留されていた舟もどこかに引き揚げられていた。
そんな光景を何の感情もなく眺めていると、風で飛んできたゴミが荷台に入った。よく見ると丸まった新聞紙だったので、いちおう広げて目を通す。
そしてすぐ、またか、と荷台の外に放り投げた。日付は去年のもので、ボナパルト将軍の戦勝を伝える記事だった。
ナポレオン・ボナパルト。元はコルシカ島出身の田舎者で出世の望める身分ではなかったというが、革命により貴族将校が足りなくなったおかげで異例の昇進を果たした男。
共和暦四年の葡萄月、パリで王党派の反乱が起きた際には、あろうことか市街地で大砲を使い、市民に向けて散弾を撃ち込んで暴動を鎮圧した残虐な男だ。
その流血の成果によってヴァンデミエール将軍と呼ばれた男が、いまや司令官となり、北イタリアを征服する勢いさえ見せている。
ピトゥの無事を祈りながら、ベアトリスはずっと、力を得るにはどうすればいいのかを考えていた。
はなから革命戦争なんかに加わるつもりはないが……ベアトリスには軍功を上げて出世するという道はない。共和暦元年の布告によって、女性兵士はフランス軍から完全に追放された。
イギリスなら女も王になれるけれど、この国は違う。女革命家オランプ・ド・グージュは、「革命は女には何ももたらさなかった」と嘆きながらギロチンの露と消えた。
女の自分が闘うには、どうすればいいのだろう。何と引き換えにしてもいい、狂った世の中に抗える力が欲しい。このか弱い手でも、大切なものを守れる力を。
――ぽつ、と水滴が頬を打った。風の中に交じりはじめた雨粒は瞬く間に大軍勢となって、横殴りに襲ってくる。
視界は白く染まり、荷台にかけた粗布が雨に打たれてばたばた鳴る。頭上の橋は陽射しを遮ってくれても、風雨までは防げない。
頭のてっぺんが濡れそぼり、伝った水が顎から流れ落ちて、全身が濡れ鼠になるのに時間はかからなかった。雨は冷たく、吹きつける風が濡れた身体から根こそぎ体温を奪い取ってゆく。
(寒い……寒いよピトゥ。お願い、早く帰ってきて……!)
歯の根が合わなくなって、がちがちと奥歯が鳴る。そんな状態なのに不思議と眠たくなってきて、重いまぶたを下ろそうとした時だった。
「あんた、こんなとこで何してんだい!」
嵐の中さえ貫いて届く、力強い声。
聞き覚えのあるその声に、うつろな目を向ける。食べ物を持ってきてくれていた女性――マルトだ。風にはためく外套を手で押さえながら、身体を揺すってこちらに走ってくる。
「まさかと思って見にきてみたら……あんた、ずっと一人でここにいたのかい?」
身体が凍りついたようになって、声が出ない。小さく頷くと、マルトは大げさにため息を漏らした。ピトゥが逮捕されたことは彼女も知っているようだった。
「こんなとこにいちゃ危ないだろ。ほら行くよ、さっさとそこ降りな」
マルトが手招きするが、ベアトリスは荷台から動かない。
「どうした、動けないのかい? しょうがないね、いま降ろしてやるから……」
ベアトリスはかぶりを振り、喉から声を絞り出した。
「ここで、待ってないと……ピトゥが、帰ってきた時……ここにいなくちゃ、見つけて、もらえない……」
「なに言ってんだい。いつ帰ってくるかもわからないんだよ、それまでずっとここにいて干からびるつもりだったのかい?」
ベアトリスが顔を伏せると、ぼたぼたと水が流れ落ちた。
「干からびるどころか、ずぶ濡れだけどさ……とにかくおいで、行くとこがないんだったら、ひとまずうちに来ればいい。あいつが自由になったら、どうせ腹が減って、うちにたかりに来るに決まってるんだから」
ベアトリスは俯いたまま、また首を振る。
「ハァ……こないだあたしが言ったことを気にしてるんだったら謝るから、とにかくいまは言うこときいておくれ」
マルトの言葉に、ベアトリスは驚いて顔を上げた。
「聞いてたんだろ、気づいてたよ。あたしはべつに、あんたが嫌いであんなことを言ったわけじゃないんだ。あんたは何も悪くない」
彼女は数瞬ためらってから、顔を歪めて続けた。
「ピトゥにはね、娘がいたんだよ。病気で死んじまったけどさ」
マルトが短く語ったところによると、その娘が最後の発作を起こした晩、彼女を治療していた医師がピトゥの目の前で逮捕されたそうだ。おそらくは同業者からの嫉妬による根拠のない告発で、その医師は王党派の濡れ衣を着せられ、翌日処刑されたという。
せめて治療を終えてからという懇願も聞き入れられず連行されたせいで、痛み止めの処置さえしてもらえなかった娘は、ピトゥの腕の中で一晩中悶え苦しみ抜いて息を引き取った。
「あんた、その子に似てるんだ。面相じゃなくてね、背格好とか……最後の方は、いまのあんたくらい痩せてたからさ。あんたを見てると、あの子の死に際を思い出してつらくなるんじゃないかって……心配だったんだよ」
どうしてこんなに親切にしてくれるのか、ずっと不思議に思っていた。
ピトゥが優しいのは、あんなふうにベアトリスの心に寄り添ってくれたのは、同じ痛みを知っていたからだ。
大切な人の命が理不尽に奪われていくのに、どうすることもできない、あの苦しみを知っていたから。
「ごらんよ、ここにいたんじゃ流されちまう!」
マルトがセーヌの川面を指差す。増水し、いつの間にか濁流がすぐ近くまで上がってきていた。
迫りくる危機を認識した瞬間、暗闇に弾ける火花のように、強い思いが瞬いた。
そうだ――私は死んじゃいけない。
棒のようだった脚に力を入れて立ち上がり、ベアトリスは荷台から飛び降りた。マルトがほっとして右手を差し出してくる。
(生きなきゃ。私はこんなところで死ねない、約束したんだから。シャルルが私を待ってる、助けに行かないと――)
――はっ、と目を瞠った。
いま、何を? シャルルはもう、とっくに死んでいるというのに。
「どうしたんだい。ほら、急いで!」
「あ……待って、荷車が」
「ほっときな、あんなもんより命の方が大事だよ!」
マルトに手を引かれ、二人は嵐の中を走りだした。
【つづく】