亡き王女のオペラシオン 第三回
【一幕 美しからざるこの世界・一】
一七九七年、共和暦六年。かつて自由を求めて立ち上がったはずの民衆は、いまでは『革命』という新たな絶対権力に支配されていた。
何人たりとも革命を批判することは許されず、革命に否定的と疑われる者は法のもとに、あるいは法の外でも善意の国民によって裁かれている。
自由と同じかそれ以上に切実な問題だった食糧については、より悲惨な窮乏を経験しなければならなかった。
国王を処刑するという蛮行はヨーロッパ中に衝撃を与え、革命の飛び火を恐れた周辺諸国とのあいだに戦端が開かれた。長引く戦争のために重税が課され、食糧や物資が不足。戦費捻出のためアッシニア紙幣を乱発したことも加わり、物価の高騰が止まらず経済は大混乱に陥った。
地方では強制的な兵士徴募に反発して各地で反乱が起こり、内戦にまで発展。革命政府は鎮圧とともに徹底した報復を行い、都市を破壊し、大虐殺を繰り広げた。
革命とは何だったのか。誰のためだったのか。
いま、そんな疑問を抱かぬ者だけが愛国者と呼ばれ、それ以外の者は叛徒とみなされている。
その意味で、少女は間違いなく反逆者だった。何の力もなく、抵抗するすべも持たない少女の内には、憎しみの炎が人知れず燃えている。
あの日からあてもなくパリを彷徨い続けている少女は十一歳になり、十歳で死んだ兄を一つ追い越していた。
シャルルのことは王党派が救出すると、アンは言った。
しかし助けは来なかった。
王太子を診察し虐待を問題視した医師は、治療も半ばで急死した。このドゥゾー医師は――この医師もというべきか――毒殺されたという噂だった。
王党派による救出計画は失敗したとも、実行まで至らなかったとも、そもそも計画自体が存在しなかったとも言われている。
本当のところはわからないが、アンはとにかくソフィーだけでも危険から遠ざけようとしたのだろう。だからきっと、あんな話を聞かせたのだ。
予言だとか、運命だとか。シャルルとマリー・テレーズ、二人を天秤にかけるようなことを言ったのも、ソフィーがどちらも選べず身動きを取れなくするためだったのかもしれない。
それは奏功し、結局ソフィーが何もできないうちにシャルルは死んでしまった。
家畜でも厩舎が汚れれば掃除をしてもらえるというのに、シャルルが監禁されていた独房の床には汚物が堆積する一方だったという。後任の医師が治療をはじめた時にはすでに手遅れで、衰弱しきって死んだシャルルの遺体は、平等の名のもとに共同墓穴に放り込まれた。
王家の墓所に葬られなかったどころか、いまではその骸がどこに埋まっているのかすらわからない。
マリー・テレーズは弟の死後、母マリー・アントワネットの祖国オーストリアとの捕虜交換によってウィーンに亡命していた。
もうこの国に、家族と呼べる存在は誰も残っていない。
それでも少女にとって、遠い異国での亡命生活とはいえ、姉が生きているということは唯一の救いだった。
マリー・アントワネットの子として、たった一人生き残ったマリー・テレーズ。運命が彼女を選んだということか……。
占い師マリー・アン・アデレードに関しては、いまだ何の手がかりも摑めていない。
無理もない話で、予言者にしろ魔女にしろ、あの話が本当だとすれば、とっくに行方を追っていたはずなのだ。王室の力を以てしても見つけられないものを、こんな浮浪児一人に捜し出せると思う方がどうかしている。
彼女を捜せというのも、ソフィーに当面の目的を与えようという、アンの計略だったのだろう。突然寄る辺のない海に投げ出されても、目指すべき陸地があると思わせ、泳ぐのを諦めないように。
それくらい、保護者を失った少女が一人で生きていくことは容易くなかった。
アンが持たせてくれた金はすぐになくなった。子どもが大金を持っていると悟られないよう使う分だけ別にしておく知恵を、あの頃のソフィーはまだ持ち合わせていなかった。
たちの悪い連中に目をつけられ、数人で取り囲まれて力ずくで奪われた。抵抗するとしたたか殴られ、命が残ってよかったと思ったほどだ。
皆飢えていて必死なのだ。女だろうと子どもだろうと、容赦はしてくれない。こんなところばかり平等だった。
それからは物乞い同然に生きてきた。同じような孤児の集まるシテ島の貧民窟で膝を抱えて眠り、夜中は市場の周りをうろついて、荷車から落ちたおこぼれにありつく。車輪に轢かれて潰れた野菜くずを齧るのが、飢えをしのぐいちばん割のいい方法だった。
王女の誇りを忘れないでと、アンは言った。
けれど、いまやこの国で王族とは、憎まれ迫害される存在でしかない。
高潔で慎ましく修道女のような暮らしをしていたエリザベートすら、ただ王の妹だっただけで公然と処刑された。
王族の誇りなど、腹の足しにもらないどころか、罪人の烙印と同じだ。
だから今日も今日とて、少女はゴミを漁っている。
運がよければ食べられる物を見つけることもあるし、包み紙として利用された後だったり、単純に投げ捨てられた新聞紙を拾うのにはそう苦労しない。
六十五万人が暮らすパリで名前しか知らないたった一人を見つけるために、少女が考えついた方法がこれだった。新聞を拾ってはマリー・アン・アデレードの名、あるいはそれらしき占い師の女に関することが書かれていないか、くまなく目を通す。
シャルルが死んでしまったいまとなっては意味のないことかもしれないが、これはすでに習慣になっていると同時に、社会を知る、つまりは敵を知る手段でもあった。手に入る情報は断片的で時系列もばらばらだが、それでもこの習慣のおかげで、多少は世情に通じることもできている。
恐怖政治を終わらせた熱月のクーデターも、結局は権力闘争の一幕に過ぎなかった。
やみくもな死刑の数こそ減ったものの、その分不正が横行するようになり、一部の人間だけが私腹を肥やし続け、政府の腐敗は歯止めがかからない。
フランスの軋む音が、絶え間ない悲鳴のように少女を苛む。
自分からすべてを奪い、大切な人たちを殺し、いまもなおこの国を歪ませ続けている革命を決して許しはしない。いまやその憎しみの炎だけが、少女の痩せさらばえた身体をあたためてくれていた。
だから、いまさら占い師を捜すのもまったく無意味というわけではない。その女がもし本当に魔女ならば、復讐に利用してやることもできる。
いったい誰に、どんな報いを受けさせるべきなのかさえまだわからないけれど。少女は常に、そんなたくらみの種を懐に隠し持っていた。
「あった」
今日も守備よく新聞の切れ端を発見し、拾い上げる。
〈 ボナパルト司令官率いるイタリア方面軍 リヴォリにて大勝 〉
北イタリアでの戦闘でフランス革命軍がオーストリア軍を撃破、連戦連勝と伝える記事に目を通すと、石畳に落とし、素足のかかとで踏みにじった。
(革命軍なんか、負けてしまえばいいのに)
ふと視線の先、建物の隙間に座り込んでいる人影が目に入った。自分とそう変わらない年頃の少年に見える。
「そんなところで寝てると死んじゃうよ」
路地裏の奥は昼でも日が射さない。万年乾かぬ泥だらけの小路を横切り少年に近寄って、指先でつついてみた。
「……って、やっぱり死んでるか。じゃあ失礼して」
餓死か凍死か、ここで眠ったまま行き倒れてしまったようだ。
この辺りではさしてめずらしい光景でもない。亡骸の胸元に手を忍ばせると、ポケットの中にカビの生えた煉瓦のようなパンがひとかけ入っていた。
「宝物みたいに、大事に大事に取っておいたんだね。でも死んじゃったら食べられないでしょ? だからこれは、私がありがたくいただくね」
今日はツイてる、と少女は思った。
シャルルの死を知ってからというもの、より強く、生きなければと感じるようになっていた。
自分にはまだ、死人のポケットをまさぐるだけの体力がある。だったらシャルルの分まで、お父さま、お母さま、叔母さま、それにアンの分まで生きなくては。そうでなければ、何のために身分を捨て、家族と引き離されたのかわからない。
死体の前でしゃがんだまま、歯が折れそうなほど硬いパンをがりがり齧っていた時だった。
「――見たぞ」
背中に聞こえた低い声に、びくりと肩を跳ね上げる。
おそるおそる振り返れば、仁王立ちした黒い影の中、白い歯だけが光っていた。山型の二角帽と裾広がりの上衣のシルエット、大柄な男だ。両脇の髪を肩まで垂らしていて、警官ではなさそうだが……。
「はじめに十字を切ってたな。他人の死を悼み、祈ってやるとは感心かんしん」
男は懐から黒数珠のロザリオを取り出し、にっと笑った。
よく見るとフェルトの帽子は擦り切れていて、服もあちこちほつれている。裸足の自分よりは立派な身なりかもしれないが、若者という歳でもなさそうなのに、奇抜な若者たちのような服装をしていた。赤い上衣は襟がやたらと高く、折り返しも巨大。首にはクラヴァットを何重もぐるぐる巻きにしている。
(やばい、変なやつだ)
逃げようとしたが、一瞬遅かった。首根っこを摑まれ、ぐぇっとカエルのような声が出る。
「おいおい、無視は悲しいぜお嬢ちゃん。せっかく人が褒めてんのに、微笑みの一つくらい返してくれたって罰は当たらないんじゃねえのかい」
「やだ、放してよっ! 私をどうする気!?」
「そうさなぁ。どうしたらいいもんか……おれはな、こういうの見ると、胸が痛んじまうんだよ。さりとてどうするべきか、それが問題だ」
じたばた暴れる少女を片手の先にぶら下げたまま、男はううんと目を閉じて物思いに耽っている。
「まったく、骨と皮だけで軽いのなんのって。お嬢ちゃん名前は?」
「はぁっ?」
「名前だよ。これからはこんなことしなくてもお前さんの腹が膨れるように、おれが祈っといてやるから。名前を言ってみろ」
「いいから放してってば!」
「放すさ、教えてくれたらな」
どれだけ手足を振り回しても男はびくともしない。これはもうしょうがなかった。
「……ベアトリス! ベアトリスだよ、これでいいでしょ!」
今日まで生き延びるために、王太子虐待の生き証人ソフィー・タンヴィエの名は捨てなければならなかった。もう親し気に名前を呼んでくれる人もいないが、必要な時はベアトリスと名乗っている。
「ベアトリスか。いい名だな」
「言ったんだから放してよ!」
「おお、そうだった」
男がぱっと手を開く。地面に足が触れると同時に、泥を撥ね上げて駆け出した。
走りながらちらりと振り返ると、男は追いかけてくるでもなく、まるで友人と別れる時のように笑顔で手を振っていた。
(何だったんだろ、変なオジサン……)
人攫いかもしれないし、用心しなくては。盗んだ美術品以下の価値しかなかったあの頃よりもさらにみすぼらしい姿になって、値打ちはもっと下がっているだろうけれど。馬の糞でも買う人間はいるのだ。
しばらくこの界隈はうろつかないようにしようと、少女――ベアトリスは胸に刻んだ。
セーヌ川の中州、シテ島の西端にかかる橋をポン・ヌフという。
ポン・ヌフ、新しい橋という意味だが、もう二百年近く前からある橋で、実はちっとも新しくない。どんな橋もそうであるように、造った時は新しかったのだろうけれど。
その新しくはないが白くて立派なアーチ構造の石橋をベアトリスが歩いていると、靴磨きの少年たちが縄張りを荒らすなとばかりに睨んでくる。こちとら靴磨きのクリームも、ぼろきれさえもないんだよと嚙みついてやりたいところだ。
日頃この橋には滅多に寄りつかないのだが、先日危ない目に遭いかけたので徘徊する場所を変えた結果、ここを渡ることになった。
ポン・ヌフの歩道は広く、人でごった返している。彼らが橋上や袂を行き交いながら、あるいは足を止めて聴き入っているのは、シャンソニエたちの歌声だ。
共和暦二年、コミューヌ総評議会は法令によりすべての道化役者や軽業師たちを公共の広場から排除したが、愛国的なシャンソンを歌うシャンソニエだけは別だった。
シャンソニエはいわゆる歌手とは違い吟遊詩人のようなもので、シャンソンとは節のある風刺だ。
耳馴染みのいい旋律に乗せた歌詞は口伝えで人から人へと伝播し、拡散する。読み書きのできない民衆にも情報や思想を素早く行き渡らせるシャンソンは、新聞よりも人心に近く、幅広い発信力を持っていた。
この恰好の喧伝者を、権力側が利用しない手はない。集会や人だかりを禁止すると通達した警察も、シャンソニエの周りだけはお咎めなしとしていたほどだ。そんな後押しもあって、いまでも街のいたるところで、革命を讃え、かつての王侯貴族を侮辱するシャンソンが声高く歌われている。
(こんな歌、聞きたくない)
橋の欄干は等間隔で外側に張り出していて、その場所を露天商やシャンソニエたちが各々陣取っている。半円形の桟敷のような出っ張りを小さな舞台に見立てて歌うシャンソニエの前を通るたびに、共和国万歳だの貴族を殺せだのと、聞くに堪えないがなり声を浴びせられた。
ベアトリスは耳を塞いで歩調を速める。橋の中腹にはかつてブルボン朝の始祖アンリ四世の騎馬像があったというが、革命によって打ち壊されたいまでは見る影もない。
いっそ駆け出してしまいたくなったが、中腹を過ぎた辺りから、歩道が壁のような人だかりに塞がれていた。その混雑は人数のせいばかりでなく、若い女性が多く、彼女たちの日傘が所狭しと空間を埋め尽くしているためでもあった。
屋根をかけるように犇めき合った傘の下から熱い視線を注がれているのは、張り出した欄干に腰掛けて歌う、一人のシャンソニエだった。
車道に下りてしまおうか、けれどそれで馬車に轢かれでもしたらつまらない。ベアトリスが通るに通れないでいるうちに、彼の歌声が防ぎようもなく耳に流れ込んできた。
おおフランス 美しかりしフランスよ
かつて愛を語らいし広場には
いまや噴水のかわりに 不吉な剃刀が聳え立たん
愛を殺したこの国を もはや神とて愛し召すまい
女たちをうっとりさせているだけあって、甘く、それでいて野性味のある低い声。
だがベアトリスが驚いたのは歌詞の方だ。これは明らかに、ギロチン処刑を嘆き、革命政府を批判している。こんな歌を、公共の場で堂々と歌っているなんて。
シャンソニエの顔をよく見ようと、ベアトリスはその場でぴょんぴょん飛び跳ねた。
二角帽から垂れる焦げ茶色の髪は、後ろだけおさげに編んでいる。顔は、なかなかこっちを向かない……と思っていたら、振り返った瞬間ばちんと目が合った。
「おっ……ベアトリス! お前さんベアトリスだろ?」
そのシャンソニエは白い歯を剥き出しにして、いつぞや教えた名前を二度も叫んだ。
(げっ、あの変なオジサン!)
逃げよう、そう思って咄嗟に駆け出そうとしたが、
「きゃっ! ちょっと踏まないでよ。転ぶとこだったじゃないの」
塞がっているのは頭上の空間だけではない。女性たちの長い引き裾が折り重なるように敷石を覆っていて、それを踏むなと言われてしまえば、もはや一歩も身動きが取れない。
そうこうしているうちに件の不審者、もといシャンソニエはひらりと欄干から飛び降り、聴衆をかき分けてベアトリスに近づいてきた。
「やっぱりそうだ、ベアトリス。ちょうどよかった、ここで会えるなんて神の思し召しだな」
女たちに囲まれて動けなくなっていたベアトリスを、男がうしろからひょいと持ち上げた。突然のことにベアトリスは抵抗も忘れて目を白黒させる。
「なぁにその子、もしかしてピトゥの子ども?」
女性の一人が、薄桃色の日傘の下から好奇心たっぷりな目をベアトリスに向けてきた。
「ははっ、そう見えるかい?」
「んーん見えない。ちっとも似てないし」
「そういうこった。けどクロエ、お前とだったら子どもを持つのも悪かないな。クロエの子ならべっぴんさんに間違いなしだ」
「やあだピトゥったら、誰にでもそういうこと言うんだから、ほんとにもう」
唖然としているベアトリスを肩に担いで、男はすたすたと歩きだす。
「それじゃ、本日はここまで。ご清聴どうも!」
誰にともなく投げキッスを振りまくと、あちらこちらで黄色い声が上がった。
「ちょ、ちょっと、降ろして! 何なの、どこにいく気?」
人攫い……なのだろうか? ベアトリスは自分の考えに自信が持てなくなってくる。
白昼堂々、見るからに不健康な汚いドブネズミなんかを攫うより、さっきのお姉さんたちの方がずっと高く売れそうだし、攫うまでもなく喜んでついてきてくれそうだ。
「お前さんの腹が膨れるように祈ってやるって、こないだ言ったろ? ちょうど今日は食い物があるんだ。こりゃきっと自分の手で叶えてみせろって、天のお導きだと思ってね」
「どうして、そんなこと……あんたに何の得があるの?」
「損得じゃねえさ。おれはパリジャンだからな、おしめの赤ん坊だろうが腰の曲がった婆さんだろうが、女と見たら捨て置けないのさ」
ぱちんと片目を瞑る、この軽薄な男を信用していいのか。いやだめだろうと、理性は働いているけれど。
「最近、肉食ったか?」
本能には勝てなかった。
橋の下に、二輪の大きな荷車が隠すようにひっそりと置かれていた。男は荷台にかけてあった穴だらけの粗布を捲ると、中から陶器の壺を取り出す。
「切れっ端とか残り物だけど、味は保証するぞ。ほれ、パンはないけどそのままでいいだろ? 舐めてみろ」
渡された壺の内側には、豚肉ペーストのリエットがまだたっぷりとこびりついていた。ベアトリスはおそるおそる手を入れ、指先でねっとりとすくい取る。
もう、匂いだけでどうにかなってしまいそうだった。ぱくんと口に含むと、頬までとろけ落ちそうになる。濃い塩味と脂のうまみで頭がびりびり痺れてくる。美味しいとかいう感想を通り越した、圧倒的身体反応に襲われて勝手に涙が浮かんだ。
「ははっ、どうだ、泣くほど美味いだろ。他にもあるからな、こっちも食え。遠慮なんかするなよ」
満足気に笑った男は、破れたソーセージや豚スネ肉を煮込んだジャンボノ、ハムの入った金色のゼリーを次々出してきた。
「よしよし、いい食いっぷりだ。腹が膨れるほどとはいかねえが、まだもう少しあるからな」
たしかにどれも切れ端や容器に残った余り物という状態ではあったが、間違いなく、ベアトリスにとって人生最高のご馳走だった。
こんな栄養の塊のようなものを口にしたのはいつぶりだろう。長年の飢餓感があまりにも急激に満たされて、強烈すぎる多幸感に身体がもたなかったようだ。
至福の壺を胸に抱いたまま、少女は知らず、眠りに落ちてしまっていた。
ほぐれかけの古い絨毯を敷き詰めた荷台の中、毛布に包まれてベアトリスは目を覚ました。場所は最後の記憶と変わらない橋の下だが、辺りは暗く、川面に点々と火影が映っている。
「おう、起きたか」
声のした方に目を向けると、昼間のシャンソニエが地面に座っていた。胡坐をかいた膝の上に筆記用の画板を載せ、角灯の明かりを頼りに鵞ペンを走らせている。
ベアトリスは荷台を降り、そろそろと男に近づくと正面に立った。
「その……メルシー、ムッシュー」
どうしてここまでしてくれるのか、いくら考えてもわからない。不気味じゃないと言えば嘘になるが、たとえ太らせてから売るつもりだったとしても、お礼の一言くらいは言っておかないと気持ちが悪い程度には、この男の世話になってしまっていた。
「ピトゥだ」
「ムッシュー・ピトゥ?」
「ムッシューてのはやめてくれ。おれはピトゥ、ただのピトゥだ」
インク壺にちょんちょんとペン先を浸して、男――ピトゥは言う。
「わかった、ピトゥ。それ何書いてるの? あ、今日歌ってたクープレ?」
覗き込むと、昼間ピトゥが歌っていた歌詞と簡単な楽譜が見えた。クープレとは歌の一部分やある種の歌自体、あるいはシャンソンの歌詞を差したりするが、そのクープレは紙に印刷して売られることもある。
「お前さん、読めるのか。驚いたな」
ピトゥは顔を上げ、茶色の大きな瞳を見開いている。
「ピトゥこそ、綺麗な字」
「そりゃお前、おれはこう見えても革命前は司祭だったんだぞ? ラテン語だってお手のものさ」
「本当? だからあんなシャンソンを歌ってたの? 王党派……なんだよね?」
革命以前の王政下で国民は聖職者の第一身分、貴族の第二身分、平民の第三身分に分かれていた。この身分制度をなくし、第一と第二身分の特権を撤廃することが革命の当初の目的だった。
だがそれが実現した後も、かつての貴族や聖職者、さらにはキリスト教自体が厳しい迫害を受け続けている。
聖職者たちは神の僕ではなく革命の僕となる宣誓を強いられ、それを拒んだ者はやむなく僧服を脱ぐか、あるいは忌避僧侶と糾弾され、処刑される者までいた。司祭の中には平民出身者も多く、かねてから第三身分の主張に賛同し、協力した者も少なくなかったにもかかわらず、だ。
「いやー、そりゃあんま関係ねえけどな。べつにおれは王党派とかってつもりもないし、ただ自分の歌いたいことを歌ってるだけさ」
「こんなシャンソン歌ってたら捕まるかもしれないのに?」
やっていることは命懸けなのに、事の重大さがわかっていないのだろうか。
ベアトリスが呆れていると、ピトゥはくるくるとペンを回して考える素振りを見せた。
「うーん、おれは単に天の邪鬼なのかもしれねえな。どういうわけか、いつも世の中の逆を行っちまう。司祭やってた頃は、ほら、何しろこの男っぷりだろ? 女たちがほっといてくれないもんで、まあこんな色男が独り身でいるのも社会の損失だと思って還俗したんだけどな、その矢先にあの革命だ。今度は聖職者も妻帯しろって、司祭が強制結婚させられてる始末とはな」
決して笑い事ではないのだが、ピトゥが大げさに肩を竦めるのでつい噴き出してしまう。
「国中が国王陛下万歳! って頃には内心ちぃとばかし白けてたんだけどよ、その国王陛下を処刑するとなった時には、ゾッとしたね。こいつはいけないって、自然と歌いだしちまったんだよ。こんな社会は間違ってるってな」
相変わらず口調は軽薄だが、その瞳には真剣な光が宿っていて、ベアトリスはぎゅっと心臓を摑まれたような心地がする。
「虐げられ、生きるために立ち上がったはずの連中が、気づけば毎日誰かを殺せ殺せと囃し立ててる。次々と人の首が飛ぶのに熱中して、いまじゃあいつらは血に飢えたけだものたちだ。平等の名のもとに他人の幸せを許さず、難癖つけて処刑台に送るのがまかり通る世の中なんておかしいだろう。ようやく人権を手にした市民のやることがこれか? 情けねぇじゃねえか」
摑まれた心臓が、彼の熱い指で炙られるように痛かった。
シャルルは人としての尊厳すら奪われ、惨たらしく死んだ。シャルルをそんな目に遭わせた連中は、これまで虐げられてきたのだから、虐げる権利があると当たり前に信じていたのだ。
そしてそれに疑問を持って、堂々と口にする人間に出会ったのははじめてだった。
「……ピトゥは、王族が悪いとは思わないの? 先祖代々贅沢してきた当然の報いだって」
「おれは判事じゃないからな、いい悪いは知らん」
気が抜けるほどあっけらかんと返されて、ベアトリスは言葉もない。
「王も王妃も、王太子も王女も関係ないね。おれはただ人間らしく、幼くして親を奪われた子どもたちや、可愛い我が子を惨い目に遭わされた夫婦を悼んでやりたいのさ。それがほんとの平等ってもんだろ」
「あ……」
目頭が熱くなった。
これまでベアトリスが見てきた世界は、どうしたって王族が悪で、人民は正義だった。
だから正義の大人たちは、理想の社会を作るためだと、誇らしげに幼い子どもさえも痛めつけてきたのだ。
こんなふうに、まるでただの隣人のように思いをかけてくれる大人なんて、ベアトリスは知らない。
「……ピトゥは、天の邪鬼なんかじゃない。ピトゥは優しいから、弱い者いじめを許さないんだね」
「王さまが弱い者か。つくづくえらい時代になったもんだな」
かかっと笑うピトゥに泣いていると気づかれたくなくて、ベアトリスは顔を伏せた。
「ペンを貸して。食べ物のお礼に、書くの手伝う」
「まさか、読めるだけじゃなく書く方もできるってのかい?」
俯いたままこくりと頷くと、ピトゥが画板ごと反転させて書きかけの用紙をベアトリスに向けた。
「本当なら助かるぜ。印刷する金もねえが、そもそもこういうクープレは危ないってんで、引き受けてくれる印刷屋もないからな。一枚一枚心を込めて手書きしておりますってか」
ベアトリスは画板を地面に置き、寝そべって書きはじめた。見本を横に見ながら写していると、覗き込んでいたピトゥがひゅうっと感嘆の口笛を吹く。
「こりゃ驚いた、お前さんこそずいぶん上手じゃねえか。けど惜しいな、ここの音符を写し間違ってる。さすがに楽譜まではわからなかったか」
「これでいいの。こっちが半音ズレてるんだよ、これじゃ『おおフら~ンス♪』になっちゃう」
「おいおい……いやまいった、こりゃ相当いいとこの嬢ちゃんだったみたいだな。ひょっとして旧貴族かい」
ベアトリスが下を向いたまま小さな頭を横に振ると、ピトゥは「そうか」と短く応えた。
沈黙が下りて、疑われたろうかと不安になった時だ。
「ま、元が何でも~生きてりゃ~勝ち~♪だからな」
鼻歌のように変な節をつけてピトゥが歌うので、ベアトリスは笑ってペンを落としそうになった。
「なにそれ。もう……ほんと~に変なオジサ~ン♪」
真似して適当な調子で返す。するとそれにまたピトゥも応酬する。
「オジサン? そりゃないぜ。よーく見ろこの色男~お子ちゃまにはぁーまだわからんか~このー魅~力~♪」
「あははっ、もうやめて、ちっとも書けないじゃない」
砂っぽい川べりで笑い転げる。
セーヌの黒く蠢く川面が怖いと思わなかった、はじめての夜だった。
【つづく】