亡き王女のオペラシオン 第二回
【序幕・二】
脱出できたはいいものの土地勘のない場所で不安だったが、荷馬車の列をひたすら遡ると、パレ・ロワイヤルそばの中央市場まで戻ることができた。場外まで品物が積まれる市場の周辺は、荷運び人夫や集まってくる大勢の商人たちが行き交い、昼日中と変わらぬ賑わいだ。
どれくらい歩き続けていたのか、いつの間にか空は白んでいた。家の近くの通りまで来ると、赤い農民風のスカートを穿いた牛乳売りが商売をはじめていて、見上げた窓々に向かって高らかに声を張り上げている。
「さあみんな、下りといで! 搾りたての牛乳だよ!」
その呼び声に、鍋を持った子どもたちや、赤子と壺を両手に抱えた母親が部屋履きのままぞろぞろと集まってくる。
「ちょいと、昨日の牛乳薄かったよ。水を足したんじゃないの?」
「滅多なことをお言いでないよ! どうせカフェ・オ・レにしたんだろ、カフェが水っぽかったに決まってるんだ」
「あら、ここいらじゃ水だって安かないんだよ。そんなもったいないことするかい」
日常の朝の風景にほっとしたソフィーだったが、両脚はもう鉛のように重くなっていた。足のマメが潰れて、一歩踏み出すごとに確実に痛みが増している。
それでも休んだりはしていられなかった。もしかしたらアンは一晩中ソフィーを探し回っていて、家にいないかもしれない。
そんな心配までしながらアパルトマンの階段を這うようにして上り、ようやく四階の住居に辿り着いた時、果たしてアンはそこにいた。
安普請の狭い一室、まだ暗い西向きの部屋で、明かりも灯さず椅子に座っている。ずっとこうして寝ずに待っていたのだろうか。
「ああ、ソフィー……帰ってきたのね。無事でよかった」
もっと大げさに喜んだり、あるいは怒られたりするかと思っていたソフィーは、アンの反応に少し拍子抜けしてしまった。
「あの、ごめんなさい、心配した……よね? でもね、遊んでたわけじゃないの。シャルルが……あっ、これもごめんなさい、勝手にタンプル塔に行ったりして。けど、そこでシャルルを見たの! シャルルが大変なの、閉じ込められて、酷い姿に……助けなくちゃと思ったんだけど、私も捕まっちゃって、何とか逃げ出してやっと帰ってこれて」
「そうだったの……本当に、無事に戻ってきてくれてよかったわ」
アンはどこか力なくそうつぶやいただけで、言葉が続かないように黙ってしまった。
「アン? どうしたの、何かあった……?」
アンは首を振り、向かいの椅子に座るよう促したが、ソフィーは従わなかった。ゆっくり腰を落ち着けている場合じゃない。
「ねえ、お説教なら後でちゃんと聞くから、先にシャルルを助けに行こう。あのままじゃシャルルが死んじゃうかもしれない、いますぐ何とかしないと」
「何とかしようとして、あなたまで捕まったんでしょう? シャルルさまを心配する気持ちはわかるけど、まずはあなた自身の安全を考えてちょうだい」
「だけど、あんなの放っておけないよ! シャルルがどんな目に遭ってるか、その目で見たら、アンだって……」
アンはうなだれるように顔を伏せ、低く声を絞り出した。
「ええ……私だって、何とかしたいと思っているわ。心の底から……だけどもう、私にできることはないのよ。悔しいわ……本当に」
「アン……?」
さっきから、どうも様子がおかしい。ソフィーが顔を覗き込もうとすると、アンは安心させるように微笑んでみせる。
「ごめんなさい。でも、もう大丈夫よ。ちゃんと他の大人が動いてくれているから、あなたはもう何も心配しなくていいわ」
「大人が動いてるって……シャルルが何をされているのか、アンは知ってたの?」
アンは曖昧に頷いて、嚙んで含めるように話しはじめた。
「ソフィー、あなたはもう、この件に関わってはいけないわ。警察に訴えようなんてことも、決して考えてはだめよ。いまこの国にとって、シャルルさまが大事な人質だっていうことは、あなたも知っているでしょう。あなたが見たことが事実なら、それが外に漏れて困るのは、タンプルの役人たちだけではないのだから……どういう意味か、わかるでしょう?」
隠蔽は国家ぐるみで行われる。目撃者だと知れれば、ちっぽけなソフィーの存在など、この国のあらゆる力をもって消されてしまうとアンは忠告しているのだ。
思わずぞっとして、ソフィーは自分自身を搔き抱いた。
「お願いよ、まずは座ってちょうだい。あなたにお話ししなくちゃならないことがあるの」
心身ともに限界だったソフィーは、言われた通り椅子に座り込んだ。
「……ずっと考えていたのに、いざとなると、どこから話せばいいのかわからないものね。そうね、まずは奥さま……いえ、王妃さまと、御子さま方のお話をしましょうか。あなたも知っている通り、タンプル塔にいらしたのは、マリー・テレーズさまとルイ・シャルルさまのお二人だったわね」
ソフィーはこくりと頷いた。
何だか今日は、目の前で話しているアンが知らない人のように見える。さっきからどこか、心ここに在らず――いや、その逆だ。うつろな身体が気力だけで言葉を発しているような、そんな違和感がある。
「陛下にはね、本当は四人の御子さまがいらっしゃったの。他のお二人は革命が起こる前に亡くなった……いえ、そのうちお一人は、亡くなったことになっているのよ」
ソフィーの首は、今度は斜めに傾いた。
「末の王女さまがお生まれになって、間もなくのことよ。まだ四人の殿下方がご健在だった頃に、王妃さまはある占い師の女に会われたの。そして、その女は恐ろしい予言を残した……王家は破滅する運命で、陛下の御子で生き残るのはお一人だけだと。もちろんぞっとはしたでしょうけど、その時は、さすがにそんなことを鵜呑みにはなさらなかったわ。だけど奇妙なことに、拘束していたはずのその占い師が、翌朝には牢から消えてしまったというのよ。まるで煙のように、跡形もなくね」
ソフィーの眉間に深い皺が刻まれた。
やっぱりおかしい。アンはいったいどうしてしまったのだろう。どうして急に、そんな現実離れした話を?
「それだけじゃないのよ。驚いたことに、占い師がいなくなった後、誰もその者の名前を思い出せなかったの。王妃さまの御前に召すのですもの、身元は事前にしっかり調べておいたはずなのに、書類も何も一切が消えてしまった。それで、あの女は魔女だったんだなんて言う人もいたわ」
魔女だなんて、まるでおとぎ話だ。
アンの口調が、表情が、これほど差し迫ったものでなければ、ソフィーもこれ以上黙って聞いてはいなかっただろう。
「それから半年ほど経った頃よ。最初に亡くなると予言された末の王女さまが、本当に瀕死の状態になってしまわれたの。恐ろしい高熱が出て、医師の見立てでも、もう助からないと。けれど陛下は諦めなかったのよ」
その王女を赤子のうちに手放せば助かるかもしれないと、占い師は告げていたという。そうすれば一人だけでなく二人生き残ることになるだろうと。
藁にもすがる思いだったのでしょう、とアンは続けた。
王妃は王女がまだ息のあるうちに亡くなったことにして、泣く泣く人に託した。そうして他の誰にも知られぬように王宮から連れ出された赤ん坊は、ヴェルサイユを離れたとたん嘘のように熱が引き、たちまち快癒してしまったという。
こうなるともう、予言を信じないわけにはいかなくなった。
赤ん坊はそのまま王家と関わりのない平民として育てられ、健やかに成長していったが、その二年後には長男が病のために亡くなり、弟のルイ・シャルルが王太子となった。
直後に革命が起こり、そこから王の一家は悲惨な運命を辿ることになる。結果的に末の王女は、占い師の進言通り王家との繋がりを断っていたことで難を逃れたのだ。
とても不思議な話だった。けれど、どうしてアンがこんな話をするのか、やはりソフィーには理解できない。
「ねえアン、お話なら後でいくらでも聞くから、先にシャルルを助けに行こう。やっぱりこのままじっとしてはいられないよ。お願い、早く助けてあげないと――」
「ソフィー、いまの話を聞いていなかったの? あのごきょうだいで生き残れるのはお一人だけだと、言ったばかりでしょう。殿下のことは、王党派の人間が救出する手筈になっているから彼らを信じて任せるのよ。けれどどちらにしろこの問題を解決しなければ、たとえシャルルさまが助かったとしても、代わりにマリー・テレーズさまがお命を落とされるかもしれないのよ。あなたはどちらかお一人を救って、その結果もう片方を死なせてしまっても構わないというの?」
なんて恐ろしいことを言いだすのだろう。思いもしない残酷な選択を突きつけられて、ソフィーは言葉が出なくなる。
だからただ、引き攣る顔を横に振るしかできなかった。
「そうでしょう? ならばあなたがするべきことは、その運命を変えることなのよ。タンプル塔の方は大人たちに任せて、あなたは予言をした占い師を捜すの」
「運命を変えるって、どうやって? そんなこと……それに、占い師の名前もわからないんでしょ」
占い師。予言。運命。あまりに馬鹿げている。
子どものソフィーにだって、子どもだましにしか聞こえないような話だ。普通なら真に受けたりはしない、あるいはこんな時にふざけないでと怒りさえしたかもしれない。
けれどそうするには、アンはあまりに真剣だった。
「ええ。皆、彼女の名前は忘れてしまった。けれど私には、彼女が私と同じ名前だったという記憶が残っていたの」
だから私が選ばれた、とアンは独り言のようにつぶやいた。
「同じ名前って、アン・タンヴィエ?」
「いいえ。私の三つの名、マリー・アン・アデレード。姓は違ったということしか覚えていないわ。彼女はね、末の王女さまが生き延びれば、運命を変えられるかもしれないとも言っていたのよ。そして事実、彼女に従ったことで、その王女さまはいまも生きていらっしゃる。だから彼女を捜すのよ。マリー・アン・アデレードを見つけて、お二人どちらともを救う方法を聞き出すの」
理屈はわかった。けれど、とても信じられないようなことばかり言われて、ソフィーは混乱していた。
だいたい、アンがそんなことを知っているのがおかしいじゃないか。
この話が本当だとするなら、王家にとって重大な秘密のはずだ。それをどうして、ただの暖炉係が。
ソフィーの疑問を読み取ったのか、アンはふっと目を伏せた。
「今度は、私についての話をしましょうか。実はね、私は以前、王妃さまの女官だったランバル公妃さまにお仕えしていたのよ」
アンの声音に、深い畏敬の念が滲む。
「公妃さまはお心優しく、領民からも天使と慕われていた素晴らしいお方だったわ。貧民の救済にも熱心に取り組んでいらして、いつも誰かのために尽くしていたような無私のお方。それなのに、あの九月の、おぞましい日……あの謀反人どもめが……」
俯いたアンは、膝の上で前掛けを握りしめていた。
国王一家がタンプル塔に幽閉されて間もない頃、革命派の民衆が監獄を襲い、囚人を虐殺する事件が起こった。被害者はパリだけで千人以上。その当時、監獄には反革命派と目された多くの聖職者が収監されていた。
王妃の親友として知られていたランバル公妃も、監獄から引きずり出され、惨殺された犠牲者の一人である。群衆は彼女の命を奪うに飽き足らず、遺体を辱め、切断した首を槍に刺して晒し歩いた挙句、その首をタンプル塔にいる王妃に見せつけようとさえしたという。
あの血にまみれた狂乱の数日間、異常なまでに膨れあがった憎悪の暴走を、ソフィーはその目で見てはいない。
その時二人は、この部屋で鎧戸を閉ざし、暗がりの中でじっと息を潜めていた。喧騒が窓の下を通り過ぎるあいだ、自分をきつく抱きしめているアンの身体ががたがたと震えていて、ソフィーもわけもわからず怯えていたことを覚えている。
「公妃さまは生前、私にこうおっしゃっていたの。もしもこの身に何かあれば、きっと王妃さまはご自分をお責めになるでしょう。その時はどうか陛下を励ましてほしい、代わりにお慰めして差し上げるように、と。それで私は、タンプル塔で働くことにしたのよ。陛下の御心にとって、何よりの慰めを携えて」
何もかも、はじめて聞かされる話ばかりだ。驚きはあるが、アンの様子を見ていれば疑う気にはなれなかった。
だけど、と疑問が頭をもたげる。
奥さまの慰めになるようなものなんて、アンが持っていったことがあっただろうか。
そもそも外部から何かを持ち込むのは厳しく制限されていた。マリー・テレーズに渡した火打ち金も、暖炉係の仕事道具だから特別に許可されていたものだ。それ以外に、差し入れなんてできたはずがないのに。
「最後にあなたの話をしましょう、ソフィー」
アンの言葉に、思考を中断して顔を上げる。
「あなたが私の姉さんの子じゃないという噂、あれは本当よ。ずっとあなたに嘘を教えていてごめんなさい。どうか許してちょうだい」
「え……じゃあ、やっぱりアンが私のお母さんなの?」
まさか、と首を振ったアンは、つぶやきをこぼした。畏れ多いことを。
「また、私の話に戻ってしまうけれど……私は公妃さまのご下命で、ある大切な赤ん坊をお預かりしたの。そして……今日までお育てしてまいりました」
アンは椅子から崩れ落ちるようにして、床に両膝をついた。そのまま、ぎょっとしているソフィーの足元に跪く。
「フランス国王ルイ十六世陛下と、ハプスブルク家の皇女マリー・アントワネットさまのご息女……比類なき血脈にお生まれになった、マリー・ソフィー・エレーヌ・ベアトリクスさま――ソフィー・ベアトリクス内親王殿下」
たった一人の家族である叔母が、叔母だったはずの存在が、いま、ソフィーの前に恭しくひれ伏している。
「アン……どうしたの? 何してるの、おかしいよ……」
「あなたが――いえ、あなたさまこそが、陛下の末の王女さまなのです。マリー・テレーズさまやルイ・シャルルさまの妹御であらせられる、世にも貴きブルボン家の姫君……私は、殿下を本当のご家族にお引き合わせするためタンプル塔に通っていたのです」
ぐらぐらと目が回る。世界がひっくり返ったような感覚に襲われて、椅子に座っていなかったら、きっとソフィーは床に倒れていただろう。
あまりにも突拍子がなくて、信じられないような話だ。
しかしだからこそ、冗談でしょうと笑い飛ばすことなどできなかった。こんな時に、こんな滅茶苦茶な作り話をするアンではない。
それに何より、脳裏に蘇るあのまなざし。タンプル塔での奥さまの、旦那さまの、エリザベート叔母さまの、マリー・テレーズお姉さまの、ルイ・シャルルの――他の誰からも感じたことのない、あのあたたかい、親しみのこもったまなざしは、血を分けた家族を見つめるものだったのだと――納得してしまっている自分がいる。
そうでなければ説明がつかないほどの愛を、ソフィーはずっと、あの方々から受け取っていた。
「でも……なんで……? どうして、今頃そんな……」
アンが顔を上げ、何かを言おうとした瞬間――――その口から鮮血が迸った。
「アン!?」
ソフィーは椅子から飛び降りる。
「アン、どうしたの、大丈夫!?」
ごほごほと咳き込むたびに、口元を押さえる指の間から赤い血が噴き出す。
暗くて気がつかなかったが、よく見ると、アンの灰色の前掛けにはもっと前に付いたらしい血がどす黒い染みを作っていた。ソフィーが帰ってくる前から吐血していたのだ。
「公会の、議員に、呼ばれて……おそらくそこで、出された物に……迂闊でした……」
しゃべるたび血に咽せるアンの背中を、必死でさする。
「アン、やめて、しゃべらないで」
アンはテーブルに片手を伸ばし、置いてあった巾着を取ると、ソフィーの手に握らせた。
お金だとわかった。それもたくさん、アンの全財産かもしれないくらいの。
「さあ……これでもう、私がお伝えすべきことは、すべて、お話ししました。どうか、お逃げください……この家にいては危険です。もう、朝になったわ……奴らはきっと、私が死んだか、確かめに来るでしょう。もう、ここに戻ってきてはいけません……どうか、逃げて……」
どうして様子がおかしかったのか、ようやくわかった。
ソフィーを捜さなかったんじゃない。捜せなかったのだ。毒に侵され、息をするのもやっとのこんな身体で、それでもせめて真実を告げようと――そのためだけに、たった一人ここで苦痛に耐えながら、ソフィーが帰ってきてくれるのを祈るように待っていた。
「そんなの、できるわけない。アンを置いていくなんて……待ってて、お医者さんを呼んでくるから」
そんな力が残っているようにも見えないのに、アンはソフィーの腕を摑み、かぶりを振った。
「私はもう、助かりません……本当はいますぐにでも目を閉じて、この苦しみから救われたいのです。あなたが逃げてくれないと、私は休むこともできません……どうか、怖れと後悔の中で、私を逝かせないでください。私の最後のお願いです、私のために、どうか、逃げて……」
「アン……アン、嫌だよアン!」
ぼたぼたと流れるソフィーの涙を、血塗れの手がそっと拭う。頬に赤が広がった。
「あなたの、お母さんになってあげられなくて、ごめんなさい……ずっと寂しかったでしょう。ですが……あなたは王女なのです。どうか、その誇りを忘れないで……」
「あ……」
「いいですね……ここにも、タンプル塔にも、もう近づいてはいけません……あなたには、他にやるべきことが……占い師を、さがして……さあ、早く。私を安心させてください……行って!」
突き飛ばされて、ソフィーは床に倒れた。
萎えてしまいそうな足に、震える腕に、なけなしの力を入れて立ち上がる。
視界は涙でぼやけている。手探りでドアを開け、部屋を出ると、手摺りにもたれながらずるずると階段を下りはじめた。
蒼白い朝陽を弾く石畳を蹴って、少女は走る。
麻痺した心が、肉体の苦痛を遮断してくれていた。ただ、苦しい息のこもった音だけが、頭の中で断続的に響いている。
夜明け前にもこうして走っていた。家族の待つ家に帰ろうと、あえかな星明かりの下を必死で駆けていた。
けれどいま、少女はどこへ行くのか、どこへ行けばいいのかもわからず、ただ大きな運命の手に追い立てられるようにパリの街を走っている。
【つづく】