亡き王女のオペラシオン 第一回
【前奏曲】
どこか不気味さの漂う、異質な女だった。
煌びやかな宮殿には似合わぬ質素な身なりの平民だから、というわけではない。
日頃当然に彼らを分け隔てている身分などとはまったく異なる次元で、何かが違うと感じさせる女だった。
まだ十五ばかりの田舎娘とは到底思われぬ、落ち着き払った物腰。遥か彼方を見据えたようなまなざしは、王妃の御前にあってさえ少しも怯むことはない。
「それで、どうなのです。この子のゆく末は」
王妃はその白く柔らかな手でそっと、慈しみを込めてゆりかごに触れた。母親譲りの真珠の肌をした、まばゆいほどに愛らしい我が子の眠るゆりかごに。
「この子は将来どこの国の王妃になるのか、申してごらんなさい」
この女が占いで見知らぬ者同士の結婚を言い当てたという話が、使用人のあいだで評判になっていた。それが女官の耳にまで届けば、この余興が用意されるのは必然であった。トランプ占いが大好きな王妃の退屈を慰めるにはうってつけだったのだ。
「はじめに申し上げますが、赤子の運命というのは身体と同じで、ぐにゃぐにゃと頼りのないものにございます」
「案ずることはありません。当たらずとも罰を与えたりはしませんから、遠慮なく申してみなさい」
麗しの王妃は寛大さを示したが、彼女に侍る女官たちは、その完璧な微笑を見てはいなかった。
昼なお暗い森を思わせる女の瞳に釘づけになり、蔓草が音もなく足に巻きついてくるような、漠とした不安に囚われていた。
この女からは、畏れというものが感じられない。
いまの淡々とした口上も、占いが外れた場合の予防線だとは、王妃以外の誰一人として思わなかった。
普通の平民ならば王妃の私室に召されただけでも身が縮み、立っているのがやっとであろうに――女はまるで百年生きた老婆のように、あるいは千年を生きた大樹のように、もはや何事にも乱されず、動かず、世の趨勢をじっと見つめる暗い洞のような目をしている。
その異様さに、むしろ女官たちの方が畏れを抱きはじめていた。
「では、大変残念なことを申し上げねばなりません」
言葉とは裏腹に、感情のない声だった。
「まあ、いったいどんな小国に嫁ぐというのかしら。大国でも手紙がすぐに届かないような遠くへ行ってしまったら不幸だわ。ああ、いっそ叔母さま方や可愛い義妹のように、結婚なんてしないで、ずっとわたくしのそばにいてくれたらいいのに。そうよ、あなたはどこにも行かず、いつまでもこのヴェルサイユでわたくしたち家族とともに暮らすのです。この母が、夫など及びもつかないほどの愛で包んであげますからね」
愛おしくてたまらないといったふうに、王妃は幼子へ口づけの雨を降らせる。
「なりません」
誰もが耳を疑った。
平民が、一介の商家の娘が、偉大なるフランスの王妃を前に、どうしてこのような口をきけようか。
「その御子をお育てになってはなりません」
神の代理人たる王の后であり、神聖ローマ皇帝の娘でもあるこの最も貴き女性には、たとえ大司教ですらこんな物言いはできないはずであった。
「……ひとまず無礼は置いて、理由を聞きましょう。まさかこの子が不吉だとでも?」
怒りを抑えて尋ねる王妃に、女は抑揚もなく答えた。
「いいえ。不吉なのは王后陛下、あなたさまでございます」
女官たちが息を呑んだ。
まさしく神をも畏れぬ振る舞い。あまりのことに声を失う王妃へと、女はまだ何かを言い渡そうとしていた。
定められた法の条文を読み上げるような、揺るぎのない声。信じることを超越した確たる口振り。
これは、これではまるで、占い師などではなく――――予言者のようではないか。
「王家に未来はございません」
倒れかかる王妃を支える女官も、「下がりなさい!」と女を退けようとする女官も、みな足が竦んでいた。
「あなたさまの運命はもはや動かすことはできません。御子さま方の運命もまた、それに従い定められております。ですがまだ幼いこの御子は、数奇な星を持っておいでです。このままおそばに置かれれば、この王女殿下を皮切りに、四人の殿下のうち三人までがお命を落とされるでしょう。ですがいまのうちに引き離せば、残った三人のうちお一人は生き延び、この御子もまた破滅を逃れて、新たな運命を引き寄せるやもしれませぬ」
女官たちが叫ぶ。
「お、お黙りなさい! 何たる不敬……衛兵! 衛兵! この無礼者を捕らえるのです!」
控えの間から雪崩れ込んできた兵士たちに拘束されながら、なおも女は続けた。
「ご決断なさいませ。陛下の御子のうち、生き残るのはたったお一人。そのことをお忘れなく」
女が連行された後も、王妃は一言も発せず、ただその身を震わすことしかできなかった。
投げつけられた言葉も恐ろしいものだったが、より耐えがたい恐怖を王妃に与えていたのは、その目に見えたものだ。
兵士に連れられてゆく不遜な娘、あの尋常ならざる女の、深く暗い瞳を覗き込んだ瞬間――まざまざと両の眼に浮かんだ光景。
広場に押し寄せた群衆が、熱狂し、野次を飛ばし、あるいは固唾を呑んで一点を見上げている。
冷たい秋空の下、ぎらつく無数の視線を照り返す、鈍色の刃。
取り巻く熱気までを断つように、巨大な刃が滑り、罪人の首を斬り落とした。
まだ温かい血が滴りながらも、瞳の光は消え失せた首。
その青ざめた顔は、確かに王妃マリー・アントワネットのものであった。
【序幕・一】
六歳のソフィーには、二つの立派な『お役目』がある。
一つは、暖炉を掃除すること。火を熾こすのはアンの仕事だ。
叔母のアンは、ソフィーのたった一人の家族である。だからソフィーはアンの行くところどこにでもついていって、仕事のお手伝いをする。もう一人で働きはじめてもおかしくない年齢だが、アンはいつでもソフィーを自分のそばに置いて、目を離そうとしなかった。
そのせいか、ソフィーが実は姪ではなく、アンの本当の子どもじゃないかと近所の人たちから疑われている。若い娘が結婚もせずに子どもを産んだから、死んだ姉の子どもということにしているのだと。
もしそうならば嬉しいと、ソフィーは密かに思っていた。優しいアンのことが大好きだし、何よりお母さんが恋しい年頃だった。
けれど、ある晩のこと。寝台で寝かしつけられていた時、アンを「ママン」と呼んで甘えてみたら叱られてしまった。
それが寂しくて泣いてしまったソフィーに、アンは少し哀しそうにこう言った。
「私なんかをママンと呼んではだめ。そんなふうに呼ばれてしまったら、私はあなたの本当のお母さんに顔向けできないわ」
本当のママンはどんな人だったのかと尋ねると、アンは「世界でいちばん美しいお姫さまよ」と答えた。
「お姫さま? じゃあ、パパは王子さまだったの?」
「ええ、そうよ。これは秘密だけどね、あなたのご両親は、王子さまとお姫さまだったの。だから本当は、あなたもお姫さまなのよ」
その夜はドキドキして、なかなか寝つくことができなかった。
けれど翌朝、この秘密を掃除夫のポールにこっそり打ち明けたら、返ってきた台詞はこうだ。
「おいらの母ちゃんだって、いつも言ってらい。お前は本当ならこんなところにいる子じゃないんだよ、実はカエサルの子孫なんだ、わたしの可愛い王子さま! ってね」
ソフィーはがっかりして、それ以来、二度とその話をすることはなかった。
「おはようございます。暖炉係のタンヴィエです」
仕事をしに行くため、アンは通行証を差し出して衛兵所を通る。わざわざこんなことをするわけは、アンの職場が普通のお邸ではなく、要塞だからだ。
分厚い石壁で囲まれた塔の中には、あるご家族が暮らしている。とても高貴な方々で、国にとって大切な人たちだから、この要塞でお守りしているのだとアンは言っていた。
けれど五百年も昔に建てられた中世の塔はどこか薄気味悪くて、ソフィーの目にはまるで牢獄のように映っていた。本物の牢獄だとは思いもしなかった。
「失礼いたします」
「ああ。いらっしゃいアン、ソフィー。わたくしたちがどれだけあなた方を心待ちにしていることか。今日も本当によく来てくれました」
石造りの塔はほんの小さな窓しかないうえ、鎧戸も閉ざされていて、一日中暗くて底冷えがする。夏でさえ暖房が欠かせないほどの寒さのせいか、ご家族はいつも二人を歓迎した。とりわけ子ども好きらしい奥さまは、小さなソフィーを抱き寄せたり、頬に口づけをしたりして熱烈に迎えてくれるのだった。
「では、私はあちらで火を熾こしてまいります」
暖炉の掃除は、火熾こしと違って毎日やるものではない。だからアンが仕事をしているあいだ、ソフィーはご家族と一緒に過ごすのが常だった。
「今日は何のお勉強をしているの?」
「いまは地理の時間だよ。ソフィーもおいで、一緒に教えてあげよう」
ここには旦那さまと奥さまのご夫婦と二人の子ども、それから旦那さまの妹の五人が暮らしている。
ご家族はこの二人の子ども、十三歳の娘マリー・テレーズと、七歳の息子ルイ・シャルルの姉弟のため――わけてもまだ幼いルイ・シャルルの教育のために、ただ塔の中で過ぎゆくばかりの時間を充てていた。
博識な旦那さまが先生になり、子どもたちが勉強する傍らで、奥さまは刺繍に精を出す。奥さまのそばで服を繕っている旦那さまの妹は、子どもたちからエリザベート叔母さまと呼ばれていた。
「ふむ。よくできている、素晴らしい」
旦那さまお手製の地図のパズルを並べていると、ソフィーの頭上で声がした。
「ドイツ地方は特に複雑なのに、大したものだ。本当にソフィーは物覚えがいい」
いつも大らかな旦那さまは教え方も優しく、よくこうして褒めてくれるのでソフィーはそのたび嬉しかった。けれどもしこれが他の教師ならば、こんなささやかな賛辞では済まなかっただろう。
事実、ソフィーは頭の回転が速く、聡い子どもだった。生まれながらに研ぎ澄まされた耳は時に言葉以上のものを聴き分け、汚れを知らない蒼い瞳は、鏡よりも鮮明に物事を写し取る。もしも教会や学校で同じ年頃の子どもたちと一緒に学んでいたら、神童と目されていたことだろう。
けれどこのタンプル塔には手強いライバルがいたおかげで、ソフィーは己惚れることもできなかった。
大人でも読み書きのできない者が多いというのに、ルイ・シャルルはフランス語はもちろんのこと、外国語やラテン語まで身につけている。利発なところはソフィーと同じでも、いかにも高貴な身分らしい品格があり、どこか憂いを帯びた瞳は、深海のように静かなまなざしをしていた。
そんなシャルルとくらべれば、大人顔負けの弁舌を揮うソフィーも、年相応のやんちゃな女の子になってしまう。
もう立派な淑女のお姉さま、マリー・テレーズには張り合う気も起きないが、たった一つ歳上なだけで背丈も同じくらいのシャルルに勝てないとなると、楽しいはずのお勉強もだんだんとつまらなくなってくる。
けれどソフィーには、たった一つ、これだけはシャルルにも絶対に負けないという科目があった。
「さあ、私の授業はそろそろ終わりにしよう。せっかくソフィーが来てくれているのだからね」
旦那さまの目配せを合図に、奥さまが裁縫道具を置いて立ち上がる。
(あれの時間だ)
ソフィーは急いで地図を片づけ、ほんの数歩の距離を足取り弾ませ駆け寄った。
決して広くない部屋の中、武骨な要塞には不似合いな鍵盤楽器が置かれている。据えられた椅子に優雅な仕草で腰掛けた奥さまは、そっと両手を持ち上げ、白い指先をクラヴサンの鍵盤に走らせた。
先生役はもっぱら旦那さまだったが、算術や国語はエリザベート叔母さまが担当する。奥さまも歴史の本や詩を読んだりしてくれるが、ソフィーのお気に入りは何といっても、この音楽の授業だった。
奥さまの演奏に合わせて歌う、この時間が他のどんなことをしている時より楽しい。
それにソフィーが歌うと、皆がうっとりして耳を傾ける。とても上手だと褒めてくれるし、時には涙まで流して感じ入っていることさえあった。
奥さまがあんまり哀しそうに泣くので、はじめは自分の歌がよっぽど酷いのかとも思ったほどだが……それにしては、ソフィーの歌を聴きたがる者は多かった。
最初のうちは意地悪だった番兵まで、ある日などはソフィーが帰るのを部屋の外で待っていて、さっきの歌をもう一度聴かせてくれ、それから故郷でこういう歌があるんだが、歌ってみてくれないかとせがんできたりもした。
自分の歌でそんなに喜んでもらえるのは、素直に嬉しい。けれど他の誰より、このご家族に喜んでもらえるのがソフィーはいちばん嬉しかった。あなたの歌が何よりの心の慰めですと言ってくれた、奥さまの泣き顔は忘れられない。
奥さまは息子のシャルルをシューダムール(愛のキャベツ)と呼ぶのと同じように、ソフィーのこともボーシャン(美しい歌)と親しみを込めた愛称で呼んでくれた。
「そう。とても上手よ、可愛いボーシャン」
奥さまの奏でる旋律に、幼くも伸びやかな歌声が乗る。
こうして歌っていると、ソフィーはまるで、自分もこの美しいご家族の一員になったような気がしてしまう。
どう見ても貴族に違いない高貴な方々に対して、薄汚れた暖炉掃除の娘が、そんなことを考えるだけでも不敬であるのは自覚していたけれど。
それでもそんな夢想をしてしまうほどに、ソフィーはこのご一家を、彼らと過ごす団欒のひとときを心から愛していた。
「散歩の時間だ。外に出ろ」
ここでご家族を見守っているという役人が、乱暴に扉を開けた。
せっかくの音楽の授業が中断されて残念だけれど、外の空気が吸える貴重な時間は、自分の歌より当然優先されるべきものだとソフィーは理解していた。
ご一家は敷地の外に出られないのはもちろん、この散歩の時以外は、塔から一歩も出ることができない。
そんな環境にあって、同じ年頃のシャルルの遊び相手になることこそがソフィーのもう一つの『お役目』であり、むしろこちらの方が本分なのであった。
それにしても。身を守るためとはいえ、自由に外遊びもできないなんて、シャルルは可哀相だとソフィーは思っていた。
この頃はまだ、その程度にしか考えていなかった。
「ソフィー、待って……! 少し休もう」
庭園や塔の周りで、二人はよく石蹴りや追いかけっこを楽しんだ。
「もうバテちゃったの? シャルルは頭がいいけど体力がないのね。最近はすぐに疲れちゃうじゃない」
「ソフィーが元気すぎるんだよ」
脇腹を押さえていたシャルルは、伐り倒されたままの木の幹に腰を下ろした。
塔の守りを万全にするため、目隠しになる周囲の建物は取り壊され、樹木は伐採されて、敷地には点を打ったようにあちこち切り株が突き出し、瓦礫がそのまま積み重なっている。
遮るもののない純粋な陽光を浴びて、シャルルの金髪が淡く透けていた。薄暗い塔の中を照らすような少年の美しさは、空の下では目が眩むほどで、神々しさすら帯びている。
シャルルこそ、本物の王子さまかもしれない。
ソフィーが密かにそんな思いを抱いていたのも、無理からぬことだった。
「おてんばなソフィーは嫌い? マリー・テレーズお姉さまみたいに、おしとやかにしてほしいの?」
シャルルは蒼い瞳を細めて、まさか、と首を振る。
「ぼくはそのままのソフィーが大好きだよ」
「本当? じゃあ、ソフィーが大きくなったら、シャルルのお嫁さんにしてくれる?」
一世一代の勇気を振りしぼっての告白は、冗談のように笑い飛ばされた。
「残念だけど、それはできないな」
がっかりして隣に座り込むと、シャルルはまだ笑いながら「ごめんね」とソフィーの手を取った。
煤で黒ずんだ少女の手を包み込む、少年の白く柔らかい手。ソフィーは恥ずかしくなって自分の汚い手を引っ込めようとしたが、シャルルはそれを許さなかった。
小さな手に力を込めて、シャルルは言う。
「そういう好きとは違うけど、でも、ぼくは本当にソフィーを大切に思っているよ。ぼくだけじゃない、お父さまやお母さま、お姉さまもエリザベート叔母さまだって、みんなソフィーのことが大好きなんだ。だからソフィーにはずっとそのままで、思いきり走ったり、歌ったり、元気いっぱいに暮らしてほしい。それがぼくたち家族みんなの願いだよ。ソフィーは外の世界で、いつでも笑っていて」
シャルルのそばにいられたら、どこにいたって、きっと笑っていられるのに。
私のお願いは叶えてくれないのに、自分だけお願いをするシャルルはずるい。
ソフィーはそんなことを思っていた。
寒さのいっそう厳しくなった冬のある日、タンプル塔の団欒の中から、旦那さまの姿が消えた。
ご家族の中でも特に重要な方だから、別の場所で厳重に守られることになった――というのが、アンがソフィーにした説明だった。
いちばんの教師がいなくなってしまったが、そうでなくても授業は次第に立ち行かなくなっていた。
持ち物が『安全上の理由』で制限されるようになり、紙やペンも使えなくなった。針仕事が好きだった奥さまたちも裁縫道具を取り上げられてしまったので、いまや手慰みにできることといえば、壁布の糸をほどいてタピスリーを手織りするくらいのものだ。
「可愛いボーシャン、お願いよ、あなたの歌を聴かせてちょうだい。それだけがわたくしたちに残された唯一の楽しみなのですから」
行くたび奥さまに乞われて、ソフィーは歌った。けれど以前のように聖歌は歌えず、役人に咎められぬよう、声を小さくしなければいけなかった。
ある日のこと。やることがなくなって、ソフィーは暖炉のそばに座り、アンの横で何するともなく火熾こしの道具を手で弄んでいた。
するとマリー・テレーズが隣にしゃがんで、耳元にささやいた。
「しばらくのあいだ、それを貸してもらえないかしら」
それ、と言う目はソフィーの右手に向けられている。見張りの役人の目を盗んで、彼女はひそひそと続けた。
「火打ち金も取り上げられてしまったの。夜中にお湯を沸かせないと、足が冷たくてとても眠ることができないわ」
ひしゃげた馬蹄のような鋼鉄の火打ち金を、ソフィーはそっと手渡す。それを重ねた両手に隠したマリー・テレーズは、お姫さまのように上品なお礼の会釈を返した。
タンプル塔はあまりに寒い。
大柄でおっとりとして、不思議な威厳のあった旦那さまがいないと、その体温の分だけ空気がさらに冷え込んだようだった。
年が明け、冬の厳しさがいよいよ身に沁みてきた頃から、塔のご一家は黒い服を着るようになった。
いつものように部屋を訪ねたソフィーを無言で抱きしめた奥さまは、やつれた頬を涙で濡らしていた。
このご家族の身にいったい何が起きているのか、ソフィーにも心当たりがないわけではなかった。
ちょうど同じ頃、フランス国王ルイ十六世が処刑され、パリの街は騒然としていた。
大人たちの話では、残された国王の家族はタンプル塔に――ここに幽閉されているという。
幼い子どもにすら無視することのできない証拠がいくつも目の前に転がっていたが、それでもまだ、ソフィーは認めることができなかった。
なぜなら国王が死んで、人々は歓喜していたから。
ソフィーがこの世に生を享けた頃、フランスはまだ王が統治する王国だった。
しかし革命によって王権が停止され、共和国となったいまや、国民はかつての支配者だった王族への憎しみを隠そうともしない。とりわけ王妃のことは贅沢の限りを尽くした毒婦だと憎悪していて、国王の血だけでは満足できなかった民衆は、王妃も早く殺せ、報いを受けさせろといきり立っている。
奥さまが――あの優しくて儚げで、それでも毅然として子どもたちを守ろうとする、慈しみ深い母親が。その王妃だなんて、そんな話がどうして信じられるだろう。
あの温厚で、いつも自分ではなく他の誰かを気遣い、皆の幸福を祈っていた善良な父親が、罪人として処刑された国王だなんて。そんな話を、いったいどうして。
だからソフィーは、真実に伸ばしかけた手を幾度となく引っ込める。ひとたび触れてしまったら、残酷すぎる現実が実体をもって襲いかかってくるのだから。
幸いとは言えないことだが、タンプル塔では誰一人として彼らを王族のようには扱わなかったので、否応なしに真実を突きつけられる心配はなかった。シャルルはカペーの息子、奥さまはカペーの寡婦というように呼ばれていた。
底に透けているものから目を逸らし、上澄みを掬うような、表面上の静かな日々はそれから半年ほど続いた。
しかし別れは突然やってきた。シャルルがご家族から引き離され、別の部屋で『立派なフランス市民』になるための教育を受けることになったという。
使用人は両方の部屋を行き来してはいけないというので、アンとソフィーもどちらか一方を選ばなければならなくなった。
ソフィーの本分はシャルルの遊び相手である。その『お役目』を続けてほしいという奥さまの託けで、二人はシャルルの部屋の方に通うことになった。
その後、ソフィーが奥さまと会うことは二度とない。
最後のお別れすらできなかった。このことは、ソフィーに生涯残る悔いとなる。
一人になったシャルルを家族に代わって教育することになったのは、元靴職人のシモンという役人だ。
シャルルの新しい暮らしは、当初、決して悪いものではなさそうに見えた。
シモン夫婦には子どもがいなかったので、シモンのおかみさんはシャルルを自分の息子のように可愛がり、彼のために必要だと思うあらゆるものを手配した。浴槽を運び込んで頻繁に入浴をさせたり、子馬や鳥を買い入れ、愛犬のココともふたたび遊べるように計らってくれた。
シャルルの服も新品で明るい色になったが、丈の短いジャケットも赤い縁なし帽も、本人はあまり気に入っていないようだ。
それでもシャルルは以前よりずっと自由に敷地を歩き回ることができるようになったし、ソフィーと一緒に鳥の世話をしたり、ココと遊んだりする時には無邪気な顔を見せた。
まるで普通の子どもの暮らしのような、穏やかな生活が訪れたかに思えていた。
「シャルル、どうしたの? またお腹が痛いの?」
いつものようにソフィーと追いかけっこをしていた最中、シャルルは突然、瓦礫のそばにしゃがみ込んだ。
「ううん、違うよ。これを見つけたんだ」
そう言いながら、シャルルは瓦礫の隙間に差し入れていた腕を引き抜く。その手には小さな白い花が握られていた。
「お母さまは、花がお好きだから」
それは外の世界ならば見向きもされないような、どこにでも生えている名もなき野花だった。
「うん。きっと喜んでくれるね」
シャルルが摘んだその花を持って、二人はかつて皆で過ごした四階の部屋に向かった。
閂が下ろされた扉の下に、そっと花を置く。シャルルのか細い喉が震えていた。
お元気ですか。ぼくはここです。
扉の向こうにいるはずの母と姉、そして叔母に、そう呼びかけたくてたまらないのだろう。けれどそうすると、役人が奥さまたちに何かの疑いをかけるらしい。
部屋の前に留まるだけでも迷惑になるかもしれないからと、シャルルはすぐにその場を離れた。名残惜しそうに、扉に視線を張りつけながら。
そして自分の部屋に戻る途中、シャルルは階段に座り込んだ。
やっぱり具合が悪いのかと心配して覗き込んだソフィーに、少年はしーっと指を立てる。
「ここ、すごく音が響くんだ。ほら」
ソフィーも隣に座り、真似して耳を澄ます。どこかで錠前が外される音が反響していた。奥さまたちの部屋だろうか。
鉄扉が軋み、長く尾を引く音が完全に消えてしまうと、ソフィーはシャルルに肩を寄せた。
「ねえシャルル、歌おうよ」
「歌?」
「うん。ここで歌えば、奥さまたちにもきっと聴こえるよ」
「歌か……そうだね」
シャルルが頷いたのを合図に、二人は声を合わせて歌いだした。何度も聴かせてもらった、奥さまが作ったという優しい子守歌を。
二つの聖らかな歌声が、床から丸天井のてっぺんまで、冷たい石組みに沁み入って塔の隅々へと響き渡る。
どうか、この声が届きますように。
シャルルがここにいることが、奥さまやお姉さま、叔母さまたちを心配しているということが、とても会いたいという気持ちが、どうか伝わりますように。
ふいに扉の開く音がして、二人の歌声がひゅっと喉の奥に引っ込んだ。
ゆっくりと靴音が近づいてくる。薄暗い石段を上ってきたのは、シモンだった。
「坊ちゃん。そういう女々しい歌は、感心しねえですよ。どうせ歌うんだったら、ほら、このあいだ教えて差し上げた、勇ましい歌をうたってくだせえ」
シャルルの白い頬が暗く翳る。
「どんな歌だったか、もう忘れちゃったよ」
「そうですかい? 坊ちゃんは、えらく物覚えがいいって評判ですがねえ」
脇腹を押さえ、シャルルは立ち上がった。
「今日はもう疲れちゃった。それにちょっとお腹も痛いんだ」
「おや、そいつはいけねえ。うちのやつに見せんといけませんね」
シモンに連れられ部屋に戻る途中、シャルルは一度だけ、何か言いたげにソフィーを振り返った。
タンプル塔で二度目の秋を迎えた。
シャルルは次第にソフィーを歓迎しなくなった。それどころか、もうここは来ない方がいいと、耳を疑うようなことさえ言いはじめた。
理由は教えてくれなかったが、聞いたとしてもソフィーは納得しないだろう。シャルルともう会えないなんて、そんなこと、どんな理由があっても承服できない。
だからその日も、ソフィーは彼に会いに行った。
部屋にいなかったので外を探すと、幸いすぐに少年の姿を見つけることができた。倒木の幹に背をもたれ、膝を抱えて座り込んでいる。
まるで隠れているみたい。そう思った時、シャルルに近づいていく人影が目に入った。
シモンだ。
なぜだか声をかけられなかった。ソフィーは瓦礫の陰にしゃがみ、二人の様子を窺う。
「坊ちゃん、この署名はいけませんぜ」
シモンは手にしていた紙をシャルルに突きつけた。
「ルイ・シャルルだけじゃいかんのです。ちゃんとルイ・シャルル・カペーと書いてくださらねえと」
「……書いたよ」
「これはカペーじゃねえです。pが抜けてるじゃねえですか。おれにはわからんと思ったんでしょうが、なに、おれだって、このくらいは読めるんですぜ」
紙をひらひらさせるシモンを、シャルルは彼らしくないうつろな目で見上げていた。
「おかしいじゃねえですか。おれなんかよりずうっと賢い坊ちゃんが、ご自分の名前を間違えるなんて。これじゃあ、これじゃあ、カペーを自分の名前だとは思ってねえって、平民の名前が気に入らねえって、そういう話だって思われちまいますぜ」
黙ったままのシャルルに、シモンは腰を屈めて顔を近づける。
「坊ちゃん、頼みます。素直にカペーと書いてくだせえ。でねえと……」
でねえと、と繰り返すシモンの顔から、卑屈な笑みが抜け落ちた。
――でねえと、おれはあんたに、酷いことをしねえといけなくなる。
思わず逸らしたシャルルの目。ソフィーと同じ蒼い瞳には、見たこともない怯えの色が確かに浮かんでいた。
「……シャルル!」
隠れていたソフィーは、思わず飛び出してその場に躍り出た。けれど空気が泥のように重く、後の言葉が続かない。
「ああ……なんだ、ソフィーか。坊ちゃんと遊びに来たんだな」
振り返ったシモンの右手が、ソフィーの肩をぎゅっと摑む。その瞬間、汚らわしい、と怒りのような感情が走った。
おかしな話だ。ソフィーの方こそ、爪や指の皺まで真っ黒の手をしているというのに。
「今日の遊びの時間は終わったんだよ。また明日来るといい」
でも、と食い下がるソフィーを遮ったのはシャルルだった。
「ソフィー、帰って。今日は遊びたくない」
「い……嫌だよ、帰らない!」
「具合が悪いんだ、頼むから帰ってよ。明日も……当分来なくていいから」
「そんなの嘘、シャルル、お願い。本当のことを言って!」
シャルルは立ち上がり、逃げるように塔の中へと駆けていってしまう。
「ほら、他でもねえ坊ちゃんがああ言ってんだ。とっとと帰った帰った」
シモンに塔から閉め出され、ソフィーは仕方なく詰所で待っているアンのもとへ走った。
よくわからない、うまく言えないけれど、きっと妙なことが起こっている。
その言葉にならない不安をどうにか伝えると、アンはしばらく考え込んで、自分が何とかするから心配しなくていいと請け負った。大人に任せておきなさいと。
だが、その直後。アンはタンプル塔の暖炉係をクビになってしまった。
シモンか、他の役人に何かを言ったせいなのか、あるいはシャルルの意向だったのか。理由は定かでないが、確かなのは、ソフィーはもうタンプル塔に出入りできないということだった。
言いようのない後悔が、ソフィーの小さな胸を締めつける。
もっと早く行動していたら、何かが変わっていただろうか。シャルルと最後に会ったあの日、強引にでも手を取って、一緒に逃げ出していたならば。
そんな思いに囚われるようになったのは、ついに王妃が処刑されてしまったからだ。
タンプル塔に通いはじめた頃から一年以上が経ち、背丈も心も成長したソフィーの前で、アンはもう、彼らの身分を偽ろうとはしない。陛下のために祈りましょうと言って、ソフィーと抱き合いながら泣き崩れた。
クラヴサンを奏でるあの優雅な仕草も、優しい微笑みも、もう二度と見ることはできない。あの白い手に触れることも、朗らかな声を聞くことも。
悲しみに胸を塞がれながらも、気にかかるのは残されたシャルルやマリー・テレーズ、エリザベートのことだ。
アンはタンプル塔の使用人たちと密かに連絡を取り、時には役人に賄賂を渡すため、もとよりわずかばかりの財産もなげうって情報を集め続けていた。
そして年を跨いだ一月。シモンがシャルルの教育係を辞め、タンプルを出ていった事実を知る。
しかし、それも一概にいい報せとはいえなかった。
シモン夫婦がいなくなってから誰がシャルルの面倒を見ているのか、後任についての情報がまったく入ってこなかったのだ。シモンのおかみさんのように、シャルルを可愛がってくれる人が代わりに来たならいいけれど……。
以前のように外で遊べているだろうか。時折具合が悪そうにしていたけれど、ちゃんと体調を気にかけてもらっているだろうか。心配は尽きないまま、厳しい冬が去り、また春が来る。
道端に小さな花が咲いているのを見つければ、ソフィーはタンプル塔で瓦礫の隙間から
花を摘んでいたシャルルの横顔を思い出した。夏の訪れには、あの塔の凍える冷たさも少しは和らいでいるだろうかと思いを馳せる。
季節とともに枝葉を伸ばす若木のように成長するソフィーも、もう八つになっていた。
シャルルはもう、タンプル塔にはいない。そんな噂が耳に入ったのはその頃だ。
かれこれ半年近くの間、使用人の誰一人としてシャルルの姿を見ていないという。やはり同じ頃から、洗濯係もシャルルの服を洗っていないらしい。
それがいいことなのか悪いことなのか、判断がつけられなかった。
密かに救い出されたということならば、いい。
けれど、もしそうでなければ……。
そんな疑念の最中、フランスに激動の一夜が訪れた。
熱月のクーデター。王族をはじめ、革命の理念に従わない人間を次々と断頭台に送り、独裁を敷いていたロベスピエールが斃されたのだ。
これは恐怖政治への反動だった。革命政府内部での権力交代であり、革命そのものが打倒されたわけではなかったが、過激な思想で粛清を繰り広げていたロベスピエール派が一掃されたことで、確実に情勢は変わった。
その影響はむろん王家の生き残りにも及ぶ。ロベスピエールに代わって実権を握った国民公会軍総司令官バラスは、即日タンプル塔を訪問し、ほとんど見捨てられていた王女と王太子に面会したという。
王妹エリザベートは、恐怖政治終焉の二ヶ月前に処刑されていた。だが、王の子どもたち――マリー・テレーズとルイ・シャルルに、バラスは会っているのだ。
つまり噂は間違いだった。シャルルはずっと、タンプル塔にいたということだ。
潮目の変わったいまなら、もう一度タンプル塔で働けるんじゃないか。そう思ったアンは、あらゆる方面に頼み込んで塔に残された王族に近づこうと試みた。
しかし、その必死さが疑いを招いてしまった。恐怖政治が終わったからといって、王党派への警戒がなくなったわけではなかったのだ。
ある日のこと。委員を名乗る人物に呼び出され、アンが出かけていった朝。少女は行動を起こしてしまった。
ソフィーには焦りがあった。今度はまた別の噂、シャルルが別の場所に移されるという話が、まことしやかにささやかれていたのだ。
それには充分な根拠もあった。地方で反乱を起こしている王党派や、革命軍と戦争状態になっているスペイン・ブルボン王家との間で、ルイ・シャルル王太子――ルイ十六世の処刑後、王党派からは新国王ルイ十七世と称されていた少年の身柄が、交渉材料の一つになっているという。つまりシャルルは人質で、どこかに引き渡される可能性があった。
ソフィーはいてもたってもいられなかった。もう一度、一目だけでもいいからシャルルに会いたい。お別れもできずに奥さまや旦那さま、エリザベート叔母さまを永久に失った後悔を、もう二度と繰り返したくはない。
だからこうして、一人で家を抜け出し、タンプル塔までやってきたのだ。
通行証がなければ衛兵所は通れない。そのためソフィーは、外と直接繋がっている別の場所、つまり厩舎の門へと回った。
ここなら馬の出入りに紛れて忍び込めるかもしれないとの算段だったが、幸運なことに、ちょうど顔見知りの兵士が番をしていた。以前ソフィーに故郷の歌をせがんだ男だ。
「お嬢ちゃん、えらく久しぶりじゃないか。ずっと見かけないと思ってたんだよ」
アンがクビになったことを知らないのか、不審がる様子はない。
忘れ物を取りに来た、ここから入る方が近いから入れてほしいとソフィーが頼むと、あっさり中に通してくれた。
「帰りにまたここに寄って、お嬢ちゃんの歌を聴かせておくれよ」
「うん、帰りにね!」
いったん中に入ってしまえば、見るからに暖炉係の子らしい灰かぶりの少女がどこを歩き回っていようと、誰も気には留めない。油で汚れていれば点灯夫の子に見えたろうし、小綺麗にしていれば洗濯係の娘と思われたかもしれない。
堂々と塔の内側まで入り込んだソフィーは、階段を封鎖している鍵つきの仕切り板も、小さな身体をひょいと屈め、隙間からくぐり抜けてしまった。
塔の中は暗く、夏だというのに空気は冷えて湿っている。靴底が石段を擦る微かな音が、不気味な吐息のように響いていた。
ふと、妙な臭いが鼻を掠める。
ここに通っていた頃には覚えのない、胸が悪くなる臭いだ。
嗅いでしまったからには、何が発生源か確かめないことには落ち着かない。犬のように臭いを辿ったソフィーは、三階のある部屋の前で足を止めた。
以前とは明らかに様子が変わっている扉。どれだけ大切なものをしまってあるのか、閂に鎖に南京錠までぶら下がり、金庫のように物々しく封鎖されている。これが気にならないはずがない。
続く隣の部屋、控えの間にも錠はついていたが、いまは扉が少しばかり開いていた。中に人の気配はない。
そろりと身を滑らせると、室内はがらんとして、ただの空き部屋のようだった。
あの厳重に施錠された隣室と接している方の壁には、唯一の家具といっていい暖炉がある。その周りだけ壁の色が微妙に違っているのは、後から手を加えたのだろう。近づいてみると、汚物がさらに腐敗したような、異様な臭いが濃くなった。
暖炉の上には、格子と硝子戸のついた小窓が造りつけられている。その不思議な構造も気になるが、ソフィーはすぐ、別の物に目を奪われた。
飾り気のないマントルピースの上にぽつんと置かれていたのは、一見すると潰れた馬蹄のように見える――ずっと以前に、ソフィーがマリー・テレーズに貸した火打ち金だった。
これ自体はめずらしいものでもないが、煤で真っ黒の、元は黄色だったリボンが結びつけてある。間違いなくあの時のものだ。
これがここにあるということは、また取り上げられてしまったのだろう。ならば彼女は、いまも凍えて眠れない夜を過ごしているのだろうか。
(ううん、そんなはずない)
恐怖政治は終わった。タンプル塔の待遇も改善されたはずだ。
役人や兵士たちが王族への敬意を取り戻したとまでは期待しないが、最低限の扱いは受けているはず。新しい火打ち金が与えられたか、あるいは誰かが火を焚いてくれるようになったのなら、役人が返しそびれることもあるだろう。
思わぬ形で再会した火打ち金を、ソフィーはポケットにしまった。もともと自分のものだ。
それから顔を上げると、あらためて暖炉の上の小窓を睨んだ。
この窓は隣の部屋に繋がっているはず。つま先立ちをしてマントルピースの上に顎をのせると、右手を伸ばし、燻し硝子の窓を開けた。
瞬間、むっとした臭気に思わず咽せる。ぐっと喉の奥を絞って息を止め、おそるおそる中を覗き込んだ。
真っ暗で、誰もいない。けれど何か異様な雰囲気を感じて、ソフィーは目を眇めた。
格子の向こうの、閉め切られ、空気も動かない密室。本物を見たことはないが、牢獄というのはこういうものじゃないだろうか。
じっと見ていると次第に目が慣れてきて、昼日中だというのにネズミたちが堂々と床を這い回っているのがわかった。時折金属を引っ搔くような、カン高い鳴き声もする。
とても人が寝られる場所にも思えないのに、中央にはなぜか、布のかかっていない剥き出しの寝台が置かれていた。そばには赤子を寝かせるような小さな籠型の寝台もあって、その上に汚れきった敷布が丸まっている。無数の小さな点が蠢いて見えるのは、虫がたかっているのだろうか。
(何なの、この部屋……)
気味が悪い。小窓を閉めようとした時、ほんの微かだが、空気の擦れるような音を耳が拾った。
……フィー……
ネズミの鳴き声とは違う。ソフィーは耳をそばだてた。
…………ソ……フィ……
誰もいないと、そう思った――――けれど闇の中心に目を凝らせば、針穴を開けたような小さな光が、横に二つ並んでいる。
ソフィーは釘づけになり、蠅が頬にとまるのも構わず立ち尽くしていた。
時折不規則に、頼りなげに瞬く蒼い光。虫のたかる、じっとりと汚れた布の中、絶望の底からこちらを見返している二つの瞳。
衝撃に身が竦み、言葉が出てこない。
ただうわごとのように、祈るように。そうであってほしくない名を呼んだ。
「……シャ、ルル……?」
……ぐぐ、と。猟犬に喉を嚙まれ、死にゆく獣のような唸りが耳に届いた。
痛いのだ、とわかった。
痛みに全身を蝕まれ、声が押し潰されて、もはや人語を発することもかなわないのだと。
声にならない嗚咽が、ソフィーの喉から迸る。
美しかったブロンドの髪は見る影もなく、伸びきって光を弾かなくなった毛玉が布の隙間から垂れていた。立ち上がることも、這うこともできない。まるで人の形を保てなくなってしまったように、ただ苦痛に耐えるだけの小さな肉塊が、そこに蹲っている。
「シャルル……シャルル!」
喘ぐように叫びながら、ソフィーは格子に肩まで差し込み、むなしく虚空を搔きよせた。
どうして……誰がこんなことを!
混乱と焦燥が渦巻き、ソフィーは溺れまいともがくように、必死で彼の名を呼び続ける。他にどうすればいいのか、考える余裕さえなかった。
……て……
シャルルが何か言っている。そう気づいたソフィーは叫ぶのをやめ、耳を澄ませた。
…………にげ、て……
えっと思った瞬間だった。
「暖炉掃除は頼んでないぞ」
背後の声に振り返る寸前、強い衝撃がソフィーを襲った。
小さな胴体は腰から二つ折りになって宙を舞い、壁に頭を打ちつけて、そのまま力なく崩れ落ちた。
国家とは元来、国民のものである。
ゆえに長きに渡りそれを簒奪していた王は、存在そのものが罪であるという。
革命とは国民が本来あるべき主権を取り戻すものであり、自由・平等・友愛という崇高で美しい理念に基づいている。
けれど、シャルルに自由はなかった。
あの境遇が、いったい何と平等だというのか。
友愛――――これほどおぞましい言葉を、ソフィーは他に知らない。
これが復讐でなければ何なのか。いや報復ですらない、腹いせだ。正義を叫ぶ者どもの手によって、まだ十歳にもならない少年が、あんな、変わり果てた姿にされてしまった。
いったいシャルルにどんな罪があったというのか。ただ王の息子に生まれた、そのことが罪だとしても、こんなふうに贖われるべきものなのか。
「シャルル」
闇の中へと、ソフィーは手を伸ばす。この地獄から彼を救い出すために。
「シャルル、シャルル!」
シャルル。ごめんなさいシャルル。もっと早く気づいてあげられなくてごめんね。
いま、助けるから。いますぐそっちに行くから。
「シャルル……!」
はあ、とため息が漏れた。
「シャルルシャルルってうるさいな」
耳元で聞こえた声に、ソフィーははっと目を開けた。
開けたはずが、何も見えない。真っ暗だ。
そのうえ手足を縛られているようで、まるで身動きがとれない。
「えっ……何? どうなってるの? シャルル、シャルルー!」
身をよじり、芋虫のようにのたうってみても手首足首の縄が食い込むだけだった。それどころか左の脇腹から背中にかけて激痛が走り、そういえばここを、振り向きざまにおそらく蹴られたのだと思い出す。側頭部にも鈍い痛みが残っていた。
「うるさいって、静かにしてくれ。いくら呼んでもシャルルなんて奴はいない、というか、ここにいるのは俺たち二人だけだよ」
「だ、誰……なの?」
闇の中、すぐそばから聞こえる声に、ソフィーは身を硬くして尋ねる。
「そう怯えてくれなくていい、俺はきみをここに放り込んだ奴らの仲間じゃない。というか、恥ずかしながら、きみと同じく囚われの身だ」
囚われの身、というのは。
振動と車輪の軋む音、蹄鉄の音から、ここが馬車の中であろうことはソフィーにも察しがついた。手足を縛られどこかに運ばれている。何が起こっているのか、わけはわからなくとも、考えるまでもなく本能が騒ぎだす。
「や……やだ、助けてー! 誰かー!」
先刻無駄に終わったことも忘れ、またじたばたと身もだえする。敷かれている干し草らしきものが口に入って、ソフィーはぺっと吐き出した。
「うわっ、いま唾飛ばしただろ! 顔にかかったじゃないか。嘘だろ、拭くこともできないのに……」
心底げんなりと言う声の主も、どうやら手足の自由がきかない状態らしい。同じ境遇であるのは嘘ではなさそうだ。
ソフィーは暴れるのをやめ、横たわったまま声のする方に顔を向けた。
「ごめん……なさい。ねえ、あなたはどうして捕まったの?」
ソフィーが気を失った時、あの場にいたのは自分一人だった。それに、こんな声には聞き覚えがない。少なくともタンプルで会ったことはないはずだ。
低く、掠れがちでも透明な芯が通ったような、青年か……まだ少年のみずみずしさが残る、初夏の風のような声。耳の良さには自信のあるソフィーが、こんな声の主を忘れるはずがなかった。
「やっと落ち着いてくれたようで何より。俺は……いや、その前にそっちの事情を聞かせてもらおうか」
異常な状況に置かれ、見知らぬ相手を警戒しているのはこちらばかりではないようだ。
どうして捕まったのか。ソフィーの事情はおそらく、見てはいけないものを見てしまったから。きっとそういうことなのだろう。
何があったのか、説明しかけたソフィーは寸前で思いとどまった。
「そんなのこっちが知りたい。子どもが攫われるのにいちいち特別な事情があるんだったら教えて」
いま会話をしている顔も見えない相手。彼だって、王族を憎悪する民衆の一人かもしれないのだ。
パリの街では子どもですら貴族に石を投げ、王族を血祭りに上げろと無邪気に歌っている。この男もシャルルに同情するどころか、いい気味だと嘲りの言葉を吐くかもしれない。奴らの仲間じゃないとは言っていたが、それだって本当かどうか。
相手の立場がわからない以上、迂闊なことは口にしない方がいいだろう。
少しの沈黙の後、「それもそうだな」と返事があった。本音は納得していないからなのか、結局彼の方も自分の事情を明かしはしなかった。
「何はともあれ、目を覚ましてくれてよかった。ここから逃げるのにきみの助けが必要なんだ」
具体的な手立てがあるかのような口ぶりに、ソフィーは暗闇の中ではっと目を見開いた。
「何をすればいいの?」
この際、互いの事情や身元は二の次である。この危機的状況を脱する策があるというのなら、協力を惜しむつもりはない。
「不幸中の幸いで、俺はナイフを持ってるんだ。上着のポケットに隠してたんだが、こう縛られてちゃ自分ではどうにもできなくてね」
「わかった、それを取ればいいのね。じっとしてて」
ソフィーは身体の痛みを堪えて寝返りをうった。声のする方に背中を向けると、後ろに縛られた手を懸命に動かしはじめる。
「頼もしいな。さっきのうなされてる様子じゃ、起きても泣いて使い物にならないかと正直不安だったけど……子どものくせに、怖くないのか?」
目が覚めたら真っ暗で、縛られていて、どこかに運ばれているのだ、怖くないわけがない。
けれどまぶたの裏にくっきりと焼きついているあの光景が、いま自分自身の置かれた状況よりもずっと切迫感をもってソフィーを突き動かしていた。
シャルルを助けないと。タンプル塔で見たことを、アンに知らせなくては。
「私は一秒でも早く家に帰りたいの。泣いてる場合じゃないでしょ」
「大した度胸だ。きみみたいな聡い子と乗り合わせて助かったよ」
布地が指先に触れ、離さないように摑みながらソフィーは尋ねた。
「ねえ。私たち、どこに連れていかれようとしてるのかは知ってるの?」
「まあ、だいたいの予想はついてる」
しかしその先を続けてくれない。嫌な予感がする。
「……どこに?」
「それを聞いても、きみのその冷静さを失わないでくれるといいんだけど」
たかが暖炉掃除の娘一人、あの場で消されていてもおかしくはなかった。
それが運良く気絶したからにせよ、こうして生きたまま縛り上げられ運ばれているのだから、どこかに売り飛ばすつもりであろうことは想像がつく。
だけどそれなら、中途半端な行き先では口を封じたことにならないのではないか。最低でも言葉が通じないような外国に送ってしまわなければ……。
「いいから言って!」
躊躇と諦めが混じったため息を吐き出してから、彼は答えた。
「法律の及ばないところ。おそらくは、北アフリカ辺りの奴隷市場にでも連れていかれるんじゃないか。俺たちの身柄はいま、盗品とか始末に困るものを捌ける連中の手にある……物でも人間でもな。バルバリア海賊とも通じてるような連中だ」
泣く子も黙る海賊の名が飛び出して、ソフィーは竦み上がった。
船舶の拿捕にとどまらず、ヨーロッパ各地の沿岸部でキリスト教徒を攫っては異教徒に売り捌くという、何世紀ものあいだ恐れられてきた現実世界の悪魔だ。
「待って、ここってまだパリだよね? まだ帰れるよね? 私、どのくらい気を失ってたの!?」
ほんの数分寝ていただけのような感覚だったが、よく考えれば、いくら馬車の中でも何も見えないほど真っ暗なのはおかしい。きっと外も暗い、もう夜なのだ。
いったい何時間経っているのか。まさか、数日なんてことは――……
「おい、手が震えてるぞ。大丈夫だ、まだ市門は出てない。まあ、川から船にでも積み替えられたら終わりだけど」
安心したようなしないような心地で上着を探りながら、ソフィーは彼から状況を教えてもらった。
正確な時刻まではわからないが、真夜中なのは確かなようだ。
二人は荷台の中にしばらく放置されていて、夜陰にまぎれるためだろう、馬車は街灯の火が落とされるのを待って出発したらしい。それもつい先ほどのことで、馬の歩みはのろく、まだパリの中心部からさほど離れてはいないはずだという。
(アン……心配してるよね)
ソフィーを捜して、いまごろ街中を走り回っているかもしれない。
帰らなくては。アンを安心させるためにも、シャルルのためにも、一刻も早く。あのままではシャルルが死んでしまう。
「ふっ……ふははっ、やめ、変なとこ触るなっ……!」
焦るソフィーの手つきが性急になると、相手がもぞもぞと身もだえしはじめた。
「我慢してよ、こんな時によく笑ってられるね」
「仕方ないだろ、くすぐったいのは……ふ、ふはっ、ち、違っ、それはブローチだ、引っ張るな、いや、そっちじゃない……!」
じっとしてくれないので難儀したが、ソフィーはどうにかポケットの中に手をねじ込み、革の鞘に収まったナイフを摑んだ。
「やった、取れた!」
「よし、いいぞ。鞘は俺が外すから、そのままそこで、固定するように握っていてくれ」
今度は彼が身体の向きを変えたようで、敷かれた干し草が大きく動くのを感じた。
揺れる馬車の中、背中越しにナイフの位置を正確に探り当てるのは簡単なことではない。
ポケットの中から取り出すのにも苦労したが、突き立てた状態の刀身に縛られた手首をあてがうのは格段に危険が伴う。鞘を外した後、彼は何度か刃に肌を掠めたらしく、時折くっと息を漏らすのが聞こえた。
「大丈夫?」
背中合わせに横たわった状態で、ソフィーは気遣いの言葉をかける。
「俺は平気だ。そっちこそ、こんな体勢でつらいだろ」
もちろん、幼いソフィーにとっても大変な作業だった。ナイフを握り続けているだけでも手は疲れるし、腕は軋み、蹴られた脇腹から背中が脈打つように痛む。
「私も平気」
そして、二人の長い奮闘の末。ようやく訪れた、刃先にぐっと縄が食い込む感触。
「よし。力を入れるから、悪いが離さないように頑張ってくれ」
「わかった……いいよ」
ぎりぎりと押しつけられる力に耐えながら、ナイフの持ち手をきつく握りしめる。
手指の感覚も麻痺し、肩まで痺れてきた頃――――ぶつりと縄が断ち切れた。
「やった! 待ってろ、いまそっちも切ってやる」
ソフィーの手からナイフが抜き取られる。目がきかず手探りとはいえ、自由になった彼の両手は、先ほどまでの苦労が嘘のようにあっさりとソフィーの縛めを解いてくれた。
手足が解放されて、どっと血の巡る感覚を味わう。痛む手首足首をさすりながら、ソフィーは身体を起こした。
「それで、次はどうするの」
「うん。それをいま考えてる」
この先は考えていなかったということだ。
動けるようになっただけましだが、縄が切れればすぐにも逃げ出せると思っていたソフィーは、軽くない失望を味わった。
「残念ながら、内側から力ずくで突破するのは難しそうだな」
たしかに、この馬車は思っていたよりずっと頑丈だった。
立ち上がって頭上に手を伸ばせば、布製の幌ではなく堅牢な木の天井に触れる。あちこち手探りで調べてみたが、中は歩き回れるほど広く、大きな木箱らしきものがいくつも積まれていた。元は家馬車なのかもしれない。
小さな窓は鎧戸が固定されていて開かず、扉らしき部分もあるが、押しても引いてもびくともしないので、外側から閂がかかっているのだろう。
彼の言う通り、自分で出ることはできないようだ。となれば。
ソフィはすぅ、と息を吸い込んだ。
「出してー! ねえ開けて! お腹が痛いの! お願い止まってー!」
声を張り上げ、御者台で馬を操っているはずの誰かに向かって、猛烈に叫ぶ。
しかし外から返ってきたのは、
「うるせえな、黙って寝てろ! 腹が痛ぇならそのまま漏らしとけ!」
とすげない返事だった。
「ほんとに痛いの、病気かも! ああ痛い、苦しい! お願い助けて! このままじゃ死んじゃう!」
「じゃあ死ね、騒ぐならいますぐここで殺しちまうぞ!」
無慈悲に板を蹴る音がして、ソフィーは唖然とした。
「……何で? 私たち売り物じゃないの? 死んだら困るはずでしょ」
暗闇の中から、呆れ声が答える。
「いきなり勝手なことしないでくれよ、驚いた……いいか。売り物でも、俺たちはオマケみたいなものなんだ。こっちを運んでるついでさ」
とん、と木箱を叩く音がした。
「この中には、亡命したりギロチン送りになった貴族や金持ちの邸宅に残っていた美術品が入ってる。本当なら革命政府が接収するんだが、欲に目が眩んで横流しする役人がいるんだよ。途中で死ぬことも織り込み済みの奴隷なんかより、遥かに値打ち物だろう」
あんまりな話にソフィーは絶句する。自分の命が、落とせば割れる彫刻や、絵の具を塗り重ねた布より安いだなんて。
ということは、ふかふかの干し草もソフィーたちのクッションではなく、美術品のための緩衝材……いや、もしかしたら自分たちさえも緩衝材の一部なのかもしれない。
「そんな……じゃあ、どうやってここから出るの?」
この頑丈な造りでは、いくら大声で助けを求めても周りの音にかき消されてしまう。そもそも深夜で人通りのない道を進んでいるだろうし、自分たちの声が届く相手は、たったいま騒いだら殺すと宣言してくれた御者だけなのだ。
「あっ、そうだ」
ソフィーはまた大きく息を吸い込む。
「火事だー! 燃えてる! 早く何とかしてー! ああ、どんどん火が回ってる!」
がん! とまた外から蹴られた。
「馬鹿が、荷台ん中でどっから火がつくってんだ。いい加減黙らねぇと本当に殺すぞ!」
取りつく島もない。
耳元でまた盛大なため息が吐き出された。
「まったく、頼むから何かする前に相談くらいしてくれ。いまの俺たちは運命共同体なんだぞ」
「だって一刻を争ってるのに、顔も見えない名前も知らない他人といちいち話し合ってる場合?」
こうしているあいだにも馬車は街から離れてしまうのだ。彼に打開策があるならいくらでも協力するが、そうでない以上、思いついたことは速やかに実行に移したい。
「人の名前を訊く前に、まず自分が名乗れと教わらなかったか」
「べつにあなたの名前を訊いたつもりじゃないんだけど……」
声は若いのに年寄りみたいで少し面倒くさいなと思いつつ、渋々「ソフィー」と名乗った。
「もったいぶった割にありふれた名前だな。俺は……ユードだ」
「もったいぶるだけあって古くさい名前だね」
むっとしたのが気配で伝わってきたが、お互いさまだ。
「はぁ……とにかく、さっさと逃げ出したいのは俺も同じだ。行動力があるのは立派だが、まずは慎重に考えてからでないと」
「じゃあさっそく考えよう。もたもたしてたら帰れなくなっちゃう」
ふむ、とユードが思案する。
「さっきの、火事ってのはさすがに無理があったが、発想は悪くなかったと思う。俺たちはともかく美術品の方に損害が出るとなれば、放ってはおけないはずだからな」
「じゃあ、ちょっと壊してみる?」ソフィーは木箱をつま先で小突く。「いい音させてくれるワレモノが入ってるといいけど」
「いや、それをやったら本当に殺されるぞ。俺たちが積み荷を破壊してるとなれば、縄を解いたってこともバレるわけだから油断はしないだろうし。向こうは武器を持っているかもしれない」
「じゃあどうするの?」
「だからそれをいま話し合ってるんだろ」
やっぱり、相談なんかしても時間の無駄だったじゃないか。
ソフィーが焦燥を紛らわすように扉の付近をがりがり引っ搔いていると、ユードがぽつりとこぼした。
「いっそ、本当に燃えてくれればな。どさくさに逃げ出すのは難しくないだろうけど」
そんなことを言っても、むなしくなるだけだというのに。
この小さな指の爪で木の扉を削ろうとしているのも充分むなしいが、それだって時間さえ無限にあれば、いつか穴が開く可能性はゼロじゃない。けれどどんなに待っても、ここで火が出るなんてことはありえないのだ。こんな火の気のないところで……。
「あ」
ふと、頭に引っかかるものがあって、ソフィーは自分のポケットに手を突っ込んだ。
ユードはナイフを持っていた。少なくとも彼は、捕まってからここに閉じ込められるまでに、持ち物を検められたりしていないということだ。
「あ……あった! よかった、そのまま入ってた。私、火打ち金持ってるよ!」
「本当か?」
うん! と勢い込んで答えたソフィーだが、すぐにしゅんと声を萎ませた。
「あ、でも……火打ち金だけ。火打ち石は持ってない……」
鋼鉄製の火打ち金を、硬度の高い石に打ちつけることで火花を生じさるのが発火の原理だ。どちらか片方だけでは火は熾こせない。
数秒考えるような間があってから、ユードが「それを貸せ」と言った。
「えっ、だめ。これは大事なものなの、誰にも渡せない」
ソフィーは火打ち金を胸元でかばうようにぎゅっと握りしめた。
汚いリボンがついているだけの、どこにでもある普通の火打ち金だ。けれどいまとなっては、これがソフィーに残された、たった一つのマリー・テレーズとの思い出を留めるものでもあった。
小さなため息の後、しょうがないな、とつぶやく声がする。
「火打ち石さえあれば、自分で火は熾こせるのか」
「当然でしょ。こう見えても暖炉係の助手なんだからね」
「見えてないけどな。……わかった、じゃあ手を出してくれ」
怪訝に思いながらも暗闇に右手を差し出すと、ユードの片手がそれを捉えた。ソフィーより大きくて筋張っているが、女の人のようにすべすべした手だ。すぐにもう片方の手が、細長い指でソフィーに何かを握らせた。
ナイフを探している時、布越しに触れたブローチだろうか。針状の金具がついた金属の台座に、宝石が嵌まっているようだ。
「カメオだ、瑪瑙でできてる。これで代わりにならないか」
ソフィーの手のひらにずっしりと収まる、大ぶりのものだった。
これならやれるかもしれない。おあつらえ向きに、ちょうどいい燃え草も足元にぎっしり詰まっている。けれど。
「傷が付くと思う……割れちゃうかもしれないけど、いいの?」
精巧な浮き彫りが施されているらしい表面を、指の腹でなぞる。
宝石や美術品の価値なんてわからないが、もしかすると、これも木箱の中身に負けないくらい高価なものではないだろうか。
「構わない。売り飛ばされるにしても死ぬにしても、どうせ持っていける物なんてないんだ」
その言葉に、ソフィーも覚悟を決めた。
「わかった……一緒にここを出よう」
何としても、成功させてみせる。
そうと決まれば、二人の行動は早かった。足元の干し草をかき集め、御者台側に高く積み上げて準備を整える。
「うまくいったら、逃げる時は二手に分かれよう。ソフィーはとにかく全力で走れ、できれば人のいる方に向かうんだ」
「うん。わかった」
ソフィーは干し草の中から、なるべく乾いてちりちりになったものを数本選び取った。火の粉を受け止め着火させる火口として、カメオと一緒に左手で握り込む。
「……じゃあ、やるよ」
「ああ。頼んだ」
右手の火打ち金を、ぎゅっと握りしめた。
はじめは小さく、カチカチと擦り合わせるようにして感触を確かめてから、力を込めて一気に打つ。
硬い音が鳴るが、会心の一撃とはならなかった。目視できず両手の感覚だけが頼りな上に、代用品の火打ち石と火口では大人でも難しい。
ソフィーは意識を集中し、微調整しながら何度も打ち合わせ、徐々に精度を高めていった。時折ぱっと小さな火花が瞬くが、なかなか火口に着いてくれず、ふわりと舞っては闇に溶けてしまう。
何度も、何度も、何度も何度も。繰り返すうちに手は痺れ、疲労で力が入らなくなる。
(お願い…………ついて!)
祈りを込め、気力を注いで打ちつけたその瞬間――――ぱきん、という嫌な感触に背筋が凍った。
割れた石が台座を外れ、指の間からすり抜けていく。
「あっ」
終わった。
もともと真っ暗の視界が、凍えるほどの絶望に黒く塗り潰される。
「ユ、ユード……ごめんなさい、割れちゃっ……」
「おい……ソフィー、見ろ!」
一面の闇の中に、ほんの小さく、鈍い赤が一点滲んでいる。
「あ……」
最後の火花の一片が、手元の干し草にしがみついていた。奇跡のように残された光の粒は、いまにも消え入りそうに切なく身を震わせている。
(――消えないで、お願い!)
こんなにももどかしいことがあるのかと思うほど息を詰めて見守っていると、その小さな赤が、やがて染みるようにじわりと横に広がりはじめた。
「つ、ついた……ついた!」
「よし、いいぞ!」
生まれたばかりの熱が一本の干し草を伝い、赤黒い線がねじれて躍りだす。その儚い命を絶やさぬように慎重に息を吹きかけながら、ソフィーはそうっと、震える手で積み上げた干し草の上に移した。
「あ……う、嘘うそ、やだっ、だめ! 消えないで!」
ふっ、と視界がふたたび黒く塗り潰され、何も見えなくなった。
「そんな……消え、ちゃっ、た……」
泣いたりなんか、している場合じゃないのに。じわりと眼球が濡れてくるが、もう目元を拭う気力さえ残っていなかった。
「いや、待て…………このにおい、焦げてるぞ!」
ユードの言葉に応えるように、燻っていた闇の中に、ぽっと明りが灯った。ぱち、ぱちぱちと爆ぜる音を立て、たちまち火が大きくなる。
「や、やった……やった!」
歓喜の声とともに、燃え上がる炎がその場を明々と照らし出す。ようやく取り戻した視界は、しかし瞬く間に立ち込める煙で覆われてしまった。
「しゃがめ、なるべく煙を吸うなよ!」
火がついたのは何よりだが、ぼうっとしていては自分たちも焼け死んでしまう。ユードはすぐさま壁を蹴りはじめた。
「おーい! 燃えてる、燃えてるぞ! よく見ろ、今度こそ本当だ!」
「熱いよ! 燃えちゃうよー!」
ごほごほと煙に咽びながら、二人は必死で外に向かって叫ぶ。
「ぁあ? ったくしつけぇな、んなことあるわけ……ん? 何だこのにおい、焦げ臭いような…………あつっ!? 尻が熱い!」
どうどうと声がして、馬車が急停止する。馬具を鳴らして足踏みする音がやまないうちに、閂の抜かれる気配がした。
二人は息を殺し、小さく蹲る。
扉が開き、一気に煙が流れると、足元からあらゆるものの輪郭が浮かび上がった。
干し草が燃えているのを目の当たりにした御者の男は、泡を食って木箱に飛びつく。人間の方の積み荷のことなど気にも留めていないようだ。
「いまだ」
ささやくユードに背中を押され、ソフィーは干し草と一緒に扉から滑り降りる。そうとも知らず、男はどうにかして木箱を火の手から救い出そうと必死だった。
「……よし、走れ! 行け、振り返るなよ!」
足が地面に触れた瞬間、一目散に走りだした。
入り組んだ細い路地をひたすら駆け抜ける、かけっこの全力をゆうに超えた激走。自分はこんなに速く走れたのかと驚くほどにも感じるし、もっと速く、少しでも馬車から遠ざかりたいのに、足がついてこなくてもどかしい心地もする。
硬く、でこぼこの石畳が足の裏を交互に打つたび、脇腹にも鋭い痛みが走った。周りの音は何も耳に入らず、激しい呼吸音だけが頭の中に響く。心臓はいまにも破れそうだ。苦しくて、苦しくて、視界が白く霞んでくる。
やっとの思いで大通りに出たとたん、気力が尽きたのか足がふらつき、そのまま立ち止まってしまった。もう、これ以上は走れそうになかった。
腰を折り、喉をぜいぜい鳴らして肩で息をする。
あえいだまま目線を上げると、まだ夜明け前にもかかわらず街道には荷馬車が列をなしていた。吊り提げた角灯の明かりが、縫い目のようにずっと遠くまで続いている。
(……助、かった……)
路地の方を振り返っても、追っ手が来ている様子はない。いずれにせよ、これだけ人の目があればもう大丈夫だろう。
通り過ぎてゆく荷馬車はどれも荷台の中が空っぽで、ちぎれたカブの葉っぱがこびりついていたり、折れたニンジンの破片が転がっていたりする。朝市に野菜を納め終えて、農村へ帰ってゆく一団のようだ。
「ユード……」
まだ破裂しそうに収縮を繰り返している肺と心臓を宥めながら、確かめるように口の中でつぶやいた。
だが、それらしき青年の姿はどこにも見当たらない。二手に分かれて逃げようと決めていたのだから、当然といえば当然なのだが。
彼の無事を祈るため、ソフィーは胸の前で手を合わせようとした。
「……あ」
緊張でぎっちり固まっていた両の拳。右手には火打ち金、そして左手には、ユードのブローチを握りしめたままだった。
石は外れ、肝心のカメオ部分はなくなってしまったが、この大きさだけでもやはり相当高価な代物だったのだろうと察しがつく。盾形で上辺に冠が載った台座は、貴族の紋章かもしれないとも思わせた。
きっと大事なものだったはず。壊してしまって申し訳ないけれど、おかげで二人とも助かった……はずだ。
いつか、またどこかで会えたら。
それまで預かっておくねと胸の内でつぶやいて、火打ち金と一緒にポケットにしまった。
【つづく】