夕陽に立つ吸血鬼 第四回

痕跡

「あれか
 と、エリカは崖から下をのぞき込んで、
「これじゃ、引き上げるのは容易じゃないわね」
「いやだ、怖いわ」
 と、みどりは崖っぷちへ近付こうともしない。
「三十メートル? もっとかな」
 と、千代子ちよこは目測して、
「五十メートルまではいかないと思うけど」
 エリカたちの泊まっている温泉町は、もともと小高い土地にあり、そこから上り坂を上って来たので、下の岩だらけのけいりゅうまでかなりの高さになってもふしぎではない。
 車は流れに落ちず、岩の間にぺしゃんこに潰れて見えていた。
「誰か乗ってたのかしら?」
 と、千代子が言った。
「乗ってれば、まず助からないわね」
 と、エリカは言った。
「でも中で死んだとすれば、血痕ぐらいはありそうね」
 ここは一つ、下りてみるしかない。
 エリカが崖のふちへと近付くと、
「まあ待て」
 と、声がした。
「ここは私の出番だろう」
「お父さん!」
 エリカはびっくりして、
「いつ来たの?」
「ゆうべ遅くだ。今朝早くと言った方が正しいかな。あの車がどうしたのだ?」
 と、クロロックは訊いた。
 エリカが、あのホテルのさかから聞いた話を伝えると、クロロックは肯いて、
「それは確かに怪しいな。二人が姿を消したことと、あの車とは間違いなく係わりがあるだろう」
「一応警察の人が下りて行って、中を見たそうだけど」
「誰も乗っていないことを確かめただけだろう。詳しく中を調べるだけの余裕があったとは思えん」
 クロロックは崖から下を覗き込んで、
「マントが枝にでも引っかかって破けないといいのだがな」
「替えのマントぐらい持ってるでしょ」
「しかし、あんまり買い替えると、うちの奥さんが怖いのでな」
 クロロックは若い妻りょうに完全に尻に敷かれている。まあ「れた弱味」というものか。
 クロロックが、崖を軽々と下りて行く。
 岩や木の根などを巧みに踏みながら、アッという間に、潰れた車の所まで下りて行った。
 クロロックのこともよく分かっている千代子とみどりも、さすがに感心して、
「やっぱりすごいね、エリカのパパ」
 と、みどりが言った。
「私だったら、すき焼き十人前食べさせてやるって言われてもいやだ」
「誰もみどりに頼まないよ」
 と、千代子が言った。
 クロロックは、しばらく車の中を覗いたりして調べていたが、やがて気がすんだのか、今度は崖を上って来た。
 下りよりは少し時間がかかったが、そこは本家吸血鬼。楽々と上り着いて、息も乱さない。すると、
凄い!」
 と、声がして、エリカが振り向くと、坂井志穂が立っている。
「あら、あなたも来たの」
「ええ、車がどうなってるのかな、と思って。でも
 と、志穂は目を丸くして、クロロックを眺め、
「凄いですね! オリンピックにでも出てたんですか?」
「まあ、そんなもんよ」
 エリカは、まさか「吸血鬼なの」とも言えないので、
「以前、サーカスにいたことがあるの」
「へえ。凄いですね!」
「凄い」しか言葉が出ないようだった。
「で、お父さん、何か見付けた?」
「ああ。車を調べたという警官は大方早く戻りたくてたまらなかったのだろうな」
 クロロックはポケットから小さな財布らしい物を取り出した。
「これが車のダッシュボードに入っていた」
「中は?」
「手紙らしいな。ともかく、この花柄はながらの財布が誰のものか、ホテルへ戻ってから見てみよう」
「あ。もしかして
 と、志穂が言った。
「見憶えがあるのかな?」
「たぶん。あの旅行に来ていた人で
「誰か生徒の持ち物?」
「いえ、男の先生です」
「男の先生?」
「ええ。売店でお土産を買ってたんですけど、小銭を出すのに、お財布を取り出して、でも可愛かわいい花柄だったんで、おかしかったの、憶えてます」
「偉いわ、志穂さん!」
 と、エリカが言った。
「これは、ひとつあの元校長あたりに会ってみなくてはならんな」
 と、クロロックは言って、
「さて、朝飯がまだなんだ。朝飯前の仕事は一つ片付けたがな」
 と、マントに付いた泥を払った。
 ホテルへ戻りかけたとき、
「あのクロックさんでしたっけ」
 と、志穂が言った。
「クロロックだ。まあ大して違いはないが。何か?」
「お願いしたいことが
「言ってみなさい」
「あのもし聞いていただけたら、朝食に目玉焼きを一つ追加しますけど」
 クロロックは笑って、
「こいつは大変だ。そんなに重大な頼みなら、聞かんわけにはいかないな」
「すみません! クロロックさんなら、きっと大丈夫だと思うんです」
 と、志穂は嬉しそうに言った。

「あそこです」
 と、志穂はホテルの裏手の林を抜けて足を止めると言った。
なるほど。奇妙な場所だな」
「誰かが住んでるの? そうは見えないけど」
 と、エリカが言った。
 そこは深く落ち込んだ崖になっていて、谷を挟んだ向こう側までは数十メートルもあるだろうか。
「以前は橋がかかっていたのだな。その跡がある。吊り橋だったのだろう」
「でも、それが落ちたのね。で、向こう側とはつながらなくなった」
「しかし、確かに向こう側には小屋があるな」
 向こう側の崖っぷちに、しがみつくように古びた小屋がある。
「でも、あそこに誰か住んでるんです」
 と、志穂が言った。
「見たことがあるの?」
「いいえ。でも、何度か食べ物を運んでるんです。ホテルの番頭さんが」
「でもどうやって?」
「ドローンです」
「ドローン?」
 エリカが目を丸くして、
「そんなものを使ってるの?」
「私もびっくりしました。番頭さんなんて、およそそんなこと、縁がない人だと思ってたから。でも、見たんです」
 と、志穂は言った。
「番頭さんが、朝早く、裏庭でドローンを飛ばす練習をしてました。汗びっしょりかいて」
「それで食料を?」
「ええ。一度たまたま送ってるのを見たんです」
 と、志穂は肯いて、
「でも二度やりそこなって、三度目は、やっと届いてましたけど」
「届いたからには、向こう側に受け取る者がいるのだな」
「お父さん
「うん。行ってみるしかないな」
「え? でも空も飛べるんですか?」
 と、志穂が目を丸くした。
「鳥ではないから、空は飛べん。しかし、谷というものは、下って上れば越えられるというものだ」
 クロロックはエリカを見て、
「お前も一緒に来た方が良さそうだな」
「同感」
「では行こう」
 クロロックとエリカはさっさと崖を下り始めた。
 そして、しばらくすると、向こう側の崖を上って行く二人の姿があった。
 志穂は、今にも卒倒しそうだった。
「私夢見てるんだわ、きっと
 クロロックとエリカは、崖を上り切ると、小屋の中へと入って行った

【つづく】