夕陽に立つ吸血鬼 第三回

消失点
「で、どうして私たちまで駆り出されるわけ?」
と、橋口みどりがふくれっつらで言った。
「いいじゃないの、アルバイトだと思えば」
と、なだめるように言ったのは、大月千代子。
エリカとは高校大学と一緒の親友同士。
「まあ、文句言わないで」
と、エリカはバスの窓から外を眺めながら、
「一応温泉のあるモダンな旅館なのよ。お父さんが、この旅行の経費は会社で出してくれるって」
「じゃ、いくら食べても?」
と、みどりが訊く。
「もちろん」
そんなにおいしければね、とエリカは心の中で付け加えた……。
――やがてバスが小さな温泉町に入る。
「降りよう」
と、エリカは言った。
バスを降りると、町の地図が大きなパネルになって立っていた。
「旅館は……これ。〈白龍荘〉?」
「〈ホワイトドラゴンホテル〉だよ」
と、千代子が言って、
「あ、英語で〈ホワイトドラゴン〉か」
「ここに泊まったのよね、〈M女子高〉最後の修学旅行はね」
と、エリカはバッグを肩にかけ直して、
「ともかく行ってみよう」
――確かに、見かけはちょっと洒落たホテル風だが、玄関を入ると、よくある温泉旅館で、浴衣姿の男女がにぎやかに行き交っている。
「〈クロロック商会〉様でいらっしゃいますね」
と、〈フロント〉(という札は出ているが、どう見ても昔ながらの帳場)の男性が言った。
「〈スーペリアツインルーム〉をご用意しております! おい、君」
通りがかった女の子は、その手の喫茶にいそうな、小間使い風の衣裳。
「大丈夫。荷物は自分たちで運ぶわよ」
その子がバッグを持とうとしたので、エリカはそう言った。
「すみません。私、あんまり力ないんで」
と、女の子はホッとした様子で、
「お部屋へご案内します」
細い廊下を辿っていって、
「――こちらです」
と、ドアを開ける。
「鍵、かからないの?」
「今、少しずつ付けてるんですけど。まだ半分も付いてなくて」
「へえ……」
部屋へ入ると、みどりが目をパチクリさせて、
「これが〈スーペリアツイン〉?」
ただの八畳ほどの和室である。
「こちらが三名様用なんです」
と、女の子は気の毒そうに言った。
「いいわよ。あなたが〈スーペリアツイン〉って付けたわけじゃないものね」
と、エリカが言った。
「そうなんです。急にホテル風にしようって支配人が言い出して。私たちの方が恥ずかしいです」
「あなた、お名前は?」
「私ですか。坂井志穂と申します。何かご不満などございましたら――」
「いえ、別にそういうわけじゃないの」
と、エリカはバッグを置いて、
「ちょっとあなたに訊きたいことがあって。――何時までのお仕事なの?」
「夕食までです。大体九時ごろでしょうか」
「じゃ、仕事すんだら、ここへ来てくれる?」
「はあ……。何かご不満がありましたら――」
「そうじゃないわよ。上の人がうるさいの?」
「ええ。――名指しでお客様の苦情が来ると、一日のお給料を半額にされます」
「まあ、ひどいわね」
と、千代子が眉をひそめて、
「労働者の権利をもっと主張しないと」
「はあ……」
「じゃ、後でね。夕食は何時?」
「ダイニングルームでお召し上がりいただきます。六時からです」
と、坂井志穂は言った。
志穂が行ってしまうと、千代子が、
「どうしてあの子と話そうって思ったの?」
と訊いた。
「ああいう立場の人が一番色んな人の話や噂を知ってるのよ」
と、エリカが答えて、
「でも、この分だと、みどりが満足するほど食事が出ないかもね」
「え? 本当?」
みどりにとって、食事の量は最大の問題だった……。
「ああ、〈M女子高〉の事件ですね!」
坂井志穂は、即座に肯いて、
「よく憶えてます。だって、修学旅行の途中で、先生と生徒が駆け落ちするなんて! しかも女同士でしょ。もう、旅館の裏じゃ大騒ぎでしたよ」
「あなたはその日、出てたの?」
と、エリカが訊いた。
夜、九時二十分ごろ部屋にやって来た坂井志穂は、エリカがお土産品売場で買って来たおまんじゅうをパクつきながら、エリカの問いに答えていた。
夕食の味はともかく、量は何とかみどりのお腹を満たす、ぎりぎりのレベルで、今みどりは、おまんじゅうを丸ごと一箱、手元に置いて食べていた。
「ええ。前の晩から次の朝まで、出ていました」
と、志穂は言った。
「でも、ほとんどの人はそうなんです。お昼から午後の三時ごろまで、交替で眠ったりするんですけど、みんな寝不足で」
「ひどいわね」
と、千代子が怒っている。
「でも、こんな田舎町じゃ、他に仕事なんかないですし。町を出るか、出られない人は、言いなりの条件で働くしかないんです」
と、志穂は首を振った。
「大変ね。――ところで、その〈M女子高〉の駆け落ち事件だけど、誰か二人が旅館を出て行くところを見た人はいなかった?」
と、エリカは訊いた。
「さあ……。ただ、夜中に、先生の方はお見かけしました」
「谷崎ゆかりさんね。どこで見たの?」
「大浴場です」
「地階の?」
「ええ。あ、ここの大浴場、〈天然温泉〉ってうたってますけど、本当はほとんど普通の水なんです。それを沸かしてるだけ」
「へえ……」
「で、私たち従業員は、夜中十二時過ぎに入るんです。お客さんたちはほとんど寝てますからね。でも、あのときは、私、少し遅くなって、午前一時ごろ入りに行ったんです。そしたら、誰かが入っていて……」
「お客様ですか。失礼します」
白い湯気の中、お湯に浸っている女性が見えた。
「どうぞ」
と、その女性は快く言ってくれて、
「ああ、お布団を敷きに来てくれた方ね? ご苦労さま。こんな時間に入浴?」
「はい。お客様とはなるべくご一緒しないようにと……」
「ちっとも構わないのに。裸になれば、誰でも同じよね」
と言うと、その女性は明るく笑って、志穂はホッとした。
「高校の先生でいらっしゃるんですか?」
ザッとお湯をかぶってから、志穂はお湯に滑り込んだ。
「ええ。谷崎ゆかり。女子校の教師は大変なのよ」
「そうでしょうね」
「生理になる子もいるし、食べる物によってはアレルギーだったり……」
と言って、ゆかりはちょっと笑って、
「太るのがいやだから、脂っこいものは食べない、なんて子もいてね。スタイルなんか気にするのは、大人になってからでいい。まだあなたたちは成長の途中なんだから、しっかり栄養を取らなきゃだめ、って言ってあげるんだけど……」
「あなたみたいな先生の言うことなら聞きますよ」
と、志穂はつい言ってしまって、
「失礼しました! 『あなた』なんて言って」
「いいのよ。あなた何ていう名前?」
「私ですか。坂井志穂っていいます。まだ新米で」
「でも、気持ちのいい人だわ。お客は、そういうことを一番気にするのよ」
「でも、先生方みたいな立派な人間じゃないですし」
「ちっとも」
と、ゆかりは言った。
「教師だって、人間。ごく普通のね。――そう、教師だって、普通の男と普通の女……」
ひとり言のように言ってから、
「あ、もう眠らなきゃ。朝は早いものね」
と、ゆかりは、志穂に、
「お先に」
と、声をかけて湯から上がった。
「お湯から上がった先生の裸の後ろ姿を見て、私、なんてきれいな人だろう、って思いました」
と、志穂は思い出しながら、
「女の私でも惚れちゃいそうな……。ですから、あの先生が、女生徒と愛し合って駆け落ちしたって聞いたとき、私、ああ、そんなこともあるかもしれないって……」
そして、志穂は照れたように、
「すみません、妙なこと言って」
「いいえ」
と、エリカは首を振って、
「気になったのは谷崎先生の言葉ね」
「どの言葉?」
「教師だって、普通の男と普通の女、ってこと。意味ありげじゃない?」
「でも、駆け落ちしたのは、女生徒とでしょ?」
エリカはそれには何も言わず、
「ありがとう」
と、志穂に言った。
「いいえ。お役に立てなくて……」
志穂は立ち上がって、部屋を出ようとしたが、
「――あ、そういえば」
と振り返って、
「関係ないかもしれませんけど、ちょっと妙なことがあったんです、あの朝」
「二人がいなくなった朝? 何があったの?」
「それが――車が盗まれたんです」
「車?」
「この旅館の車です。そのときはまだ〈白龍荘〉でしたから、車体に大きく名前が入っていて」
「その車が盗まれたのね? でも、目立ちそうね、そんな車が走ってたら」
「見付かったんです。その日の夕方に。でも、崖から落ちて、下の流れの岩にぶつかって、めちゃくちゃに……」
「中に誰か乗ってたの?」
「いいえ。空だったそうです。警察の人が下りて行って調べたんですけど」
「じゃ、車だけが落ちた? ――どの辺りで見付かったの?」
「ここから車だと十五分くらいですね。今でも車、そのままになってると思いますよ。引き上げるのは大変だし、お金がかかるっていうんで。ここのお巡りさんがそう言ってたのを憶えてます」
エリカは肯いて、
「面白いわね。――明日、見に行ってみよう」
と言った。
そしてその後、三人の話は、夕食に関する感想――量はともかく、味は今一つ、といった点へと移って行ったのである……。
【つづく】