夕陽に立つ吸血鬼 第二回

消えた高校生
最終日だった。
朝、六時ごろに目が覚めると、谷崎ゆかりは、早々に顔を洗って、仕度をした。
「――早いものだわ」
と、鏡の中を覗き込んで呟く。
〈M女子高校〉の最後の修学旅行である。
この学年で、〈M女子高〉は閉校となる。
「やっぱり寂しいわね」
谷崎ゆかりは二十九才。〈M女子高〉の教師になって、まだやっと五年でしかない。
それが、突然の「学校が失くなる」!
色々事情はあったようだが、ゆかりのような若い教師には何の説明もなかった。
――旅館の廊下へ出ると、もう仲居さんたちは忙しく動き回っている。
「最後まで、しっかりやらなきゃ」
と、自分へ言い聞かせた。
そこへ、
「先生、おはよう!」
と、元気な声が飛んで来た。
「ああ、香山さん」
ゆかりが担任になっているクラスの子だった。――香山靖子。明るく、活発な人気者である。
「ずいぶん早起きね」
と、ゆかりは言った。
「ゆうべ、遅くまでしゃべってたから、寝坊するかと思ったけど、やっぱり最後の日だと思うと、目が覚めちゃって」
「そうね。今日はもう東京に戻るんですものね」
二人は、旅館の玄関に面した休憩所のソファに腰をおろした。
「でも、先生……」
と、香山靖子が言った。
「なあに?」
「どうして学校、失くなっちゃうんですか? 私は卒業していくからいいけど。一年生、二年生は可哀そう」
「そうねえ」
もっと前から決まっていたのなら、一、二年生は入学させなければ良かったのだ。それが、入学したのに、途中で学校が消えてしまうのでは……。
来年、二年生、三年生になる子たちは、他の高校に受け入れてもらうことになっていた。
「みんな同じ高校へ行くわけじゃないでしょ? 友達なのにバラバラなんて……。クラブとか、一緒にやってた子たちもいるのに」
「香山さんの気持ちはよく分かるわ」
と、ゆかりは言って、首を振ると、
「でも、私もどんな事情だったのか、何も聞いてないのよ」
「そうなんですね。でもそれって、おかしいですよ。先生も知らないなんて……」
「同感だわ」
と、ゆかりは肯いた。
香山靖子は頭のいい、しっかりした生徒で、ゆかりなど、同年代の相手と話しているような気さえしてしまう。
「でも、もう決まってしまったことですものね。今から変えられるわけじゃないし……」
「でも、絶対におかしい!」
と、靖子は言った。
「先生、うちのお母さん、学校の理事長と親しいんです。私、あそこの子とはクラブが一緒だったし。どんな事情だったのか、調べてみます」
「香山さん……」
「偉い人ににらまれて退学になってもいい。どうせもう三年生ですもの。諦めないでぶつかってやる」
靖子の力のこもった言葉は、谷崎ゆかりの心を揺さぶった。――生徒が、こんなに固く決心しているのに、教師の私が何もしないなんて……。
「分かったわ。香山さん。私も力になる。二人で調査しましょう」
「ええ!」
靖子は力強く肯いて、二人は固く握手した。
「――さ、ともかく帰る仕度しなくちゃ」
と、靖子が立ち上がる。
「そうね。東京に戻ったら連絡するわ」
「はい。待ってます」
靖子の爽やかな笑顔を見ると、ゆかりはまるで何年も若返ったような気がした。
靖子が二階へと階段を上って行き、ゆかりは部屋へ戻ろうとして――。
「おっと」
廊下へ出た所で、危うく誰かとぶつかりそうになった。
「あ、小島先生」
と、ゆかりは言った。
「やあ、おはよう」
小島吾郎は〈M女子高〉の教頭である。
「谷崎先生は何をしてたんですか?」
「早く目が覚めたものですから、休んでたんです。修学旅行もこれが最後ですし」
「確かにね」
と、小島は肯いて、
「谷崎先生は、次の職場が決まっていないと聞きましたが」
「ええ。――ともかく今の生徒たちを教えることに集中しようと思いまして」
「それは結構ですが、閉校になってから勤め先を捜しても、すぐには見付かりませんよ。他の先生方は、方々に声をかけて、面接に行ったりしてます」
それは、ゆかりも知らないではなかった。しかし、授業を休んでまで、職探しをすることには抵抗がある。
「何とかなると思います」
と、ゆかりは言った。
「私、楽天家なんですの」
「それは羨ましい。まあ、幸運を祈ってますよ」
ちょっと皮肉めいた口調で言って、小島は行ってしまった。
「――ご自分は心配ないんでしょうからね」
と、ゆかりは呟いた。
小島は、今の理事長と親しく、今回の閉校の決定に当たっても、学校の代表として参加していたと聞いた。
妙な話だ。校長の陣内広代は、その会合に呼ばれていなかったのである。
ともかく部屋へ戻ろうとして、ゆかりはふと思った。
小島は、今のゆかりと香山靖子の話を聞いていたのだろうか?
単なる印象だが、小島はずっと話を立ち聞きしていたかのようだ。
「構やしないわ」
別に、悪いことをしようと思っているわけではない。
それに、ゆかりは小島が好きでなかった。教育者としての情熱が少しも感じられず、「学校も商売だ」が口ぐせだった。
少なくとも、〈M女子校〉が失くなって、いいことの数少ない一つは、小島と働かなくてすむことだった……。
ゆかりは急いで部屋へ戻って行った。しかし……。
「どうなってるの?」
と、校長の陣内広代が苛々と言った。
若い教師が、旅館の中から息を切らして駆け出して来た。
「どこにも見当たりません」
「そんな馬鹿な!」
陣内広代は、谷崎ゆかりが誠実で、有能な先生だったことをよく知っている。
修学旅行の最中に姿を消すような人ではない!
「それと、校長先生」
と、生徒の一人がバスから降りて来て言った。
「どうしたの?」
「クラスの香山靖子さんがいません」
「いない?」
「バスに乗ろうとして、『ちょっと忘れ物』と言って、戻って行ったんですけど、それきり……」
「どうなってるの!」
もうバスの出発は三十分も遅れている。
そのとき、広代のケータイにメールが着信した。――誰だろう?
谷崎ゆかりからだ! しかし――その内容は広代を気絶させそうなものだった。
〈校長先生。ご迷惑をかけてすみません。
私は香山靖子さんと愛し合っています。二人で話して、二人きりで別の人生を始める決心をしました。
これからは私たち二人となって、どこか遠くで暮らします。
お許し下さい。 谷崎ゆかり〉
――広代は失神しそうになった。
「それはまた……」
と、話を聞いたクロロックは目を見開いて、
「駆け落ちにしても珍しい。若い女性教師と女子高校生とは」
「そんなこと、あり得ないと……」
広代はため息をついて、
「谷崎先生は、ロビーで香山靖子さんと話したことを、出発前に話してくれたんです。――そんな、生徒と二人で逃げ出すなんて……」
陣内広代は、河辺みずほと二人、〈クロロック商会〉へやって来ていた。
「――では、あの白骨死体は、そのときの女生徒だったとお考えですな?」
「どうしてああなったかは分かりませんが、おそらく……」
「警察の方は何と?」
「一向に相手にしてくれません。先生と生徒の駆け落ち騒ぎで……」
「当時は週刊誌やTVで盛んに取り上げられましたが――」
と、みずほは言った。
「興味本位の記事ばかりでしたね」
と、エリカが言った。
「しかし、もしあの死体が香山靖子という子なら、谷崎先生の方も……」
と、クロロックは言った。
「お願いです。クロロックさんのお力を貸していただけないでしょうか」
と、広代は身を乗り出して、
「校長なのに、生徒も先生も守ってやれなかった。その辛さは……」
「分かります」
と、クロロックは肯いた。
「まあ、やれるだけのことはやってみましょう。それに、ここにいる娘のエリカは、大学生で暇ですからな」
エリカがジロッと父をにらんだ。
人を勝手にヒマ人扱いするな!
「二人がいなくなったとき、捜索願は出されたのかな?」
と、クロロックが訊いた。
「それが……」
と、広代は目を伏せて、
「閉校へ向けて、やらなければならないことが山ほどあり……。いえ、もちろん捜索願を出すべきだと思いました。ところが……」
「学校の名に傷がつく? ――違っておるかな?」
「その通りです」
と、広代はため息をついて、
「責任は大人の谷崎ゆかりの方にある、と言われて。教師による生徒の誘拐だという話になっていったのです」
「その意見はどこから?」
「理事会サイドからです。〈M女子高〉の有終の美に泥をぬったと言われ……」
「しかし、警察の方は黙っていなかったでしょう?」
と、エリカが言った。
「それが――理事の中に、警察庁の幹部と親しい人が何人かいて、『これは〈M女子高〉の内部の問題だ』という話になってしまったんです』
「しかし、今回の死体発見で――」
「あれが誰の白骨か、DNA鑑定をしています」
「生徒は香山靖子といったかな? 家族はどう言っておるのだ?」
「あの子の父親は外交官で、ほとんど日本にいません。母親は、いつも夫の顔色をうかがって、オドオドした様子です。娘の身の心配より、〈M女子高〉に迷惑をかけて申し訳ないとばかり……」
と、河辺みずほが言った。
「教師の方は? 谷崎ゆかりにも家族があるだろう」
「私も会いに行きました」
と、広代が言った。
「ところが……」
「どうした?」
「住所を尋ね当てると、家はありませんでした。何もない更地になっていて、近所の人に訊くと、お宅は火事で全焼してしまったそうなのです」
「すると――」
「谷崎先生はひとり暮らしでしたが、そのご実家にはご両親がおられたはずでした。でも、二人とも火事で亡くなってしまったそうで」
クロロックは難しい表情になって、
「どうも、これは少々厄介なことになっておるのかもしれんな」
と言った。
そこへ、クロロックの秘書が、
「社長、会議の時間です」
と、声をかけて来て、クロロックは、
「エリカ、後は頼む。よくお話を伺っといてくれ」
と、席を立って行ってしまった。
人任せにして、もう! ――エリカは不満だったが、仕方がない。
「あの――父ほどでなくても、私も少しはお役に立てるかも……」
と、控えめに言ったのだった……。
【つづく】