夕陽に立つ吸血鬼 第一回

終わりの日

「やれやれだわ
 と、マスクをした白髪の女性が言った。
「こんな時間になって、やっとなんて
「そうですね」
 隣に立っている女性も、マスクをしながら、
「なかなか引き受けてくれる所がなかったらしいですよ」
 と言った。
「新しいビルを建てるのには熱心でも、取り壊しとなると
「あんまりお金にならないんでしょ、業者にとっては」
「でも見ているのはつらいわ」
 白髪の女性はじんないひろ。今、六十七才で、今まさに目の前で取り壊されようとしている〈M女子高等学校〉の、元校長である。
 校庭の隅に並んで立っている二人の、もう一人はまだ若いかわみずほ。今三十八才で、去年、M女子高が閉校になるまで、保健担当の教師として、保健室の主だった。
 二人がマスクをしているのは、これから校舎が取り壊されるので、ほこりが飛んで来ると予想されるからだった。
でも、惜しいわね」
 と、元校長の陣内広代が首を振って、
「今どき、こんな木造校舎は、どこを捜したって見付からないわよ」
「同感です」
 と、河辺みずほもうなずいて、
「でも、重要文化財ってわけにもいかないし
 木造二階建の校舎に、ホースで水がかけられていた。待機しているパワーショベルがアームを伸ばして、校舎をアッという間に、がれきの山にしてしまおうとしている。
 そのときの埃を少しでも飛び散らないように、水をあらかじめかけておくのだ。
「始まりますね」
 と、河辺みずほが言った。
 パワーショベルのキャタピラの金属音がして、校舎に近付いて行くと、停まって、今度は長い鋼鉄のアームがゆっくりと伸びて行く。
「ああ
 と、つい陣内広代が声を出した。
 校舎の屋根に、ごっそりと穴がいた。
 それが初めで、見る見る内に、校舎の南半分はバラバラにされてしまった。
 パワーショベルが動いて、北半分の方へ来ると、アームが伸びた。
保健室だわ」
 と、河辺みずほがつい口に出した。
 マスク越しの声は、余計にかすれて聞こえた。
 無情な鉄の爪は、そこが何の部屋だったのか、そこでどんな子たちが生きていたかなどまったく気にもとめずに、外壁をバリバリと引き裂いて行く。
 そんな気持ちになるとは思ってもいなかったのに、河辺みずほはあふれて来る涙を止められなかった。
 あの保健室で過ごした十数年の日々が、一気によみがえって来て、胸が苦しいほど痛んだ
 壊される校舎の「痛み」が伝わってくるようだった。
「お願い。やめて。やめて!」
 と、思わず叫んでいた。
 もちろん、そんな叫び声など、パワーショベルを扱っている人には何の関心もないはずだ。
 しかし
「おい待て!」
 と、誰かが叫ぶのが耳に入った。
「止めろ! 止めるんだ!」
 という声。
「どうしたのかしら?」
 と、陣内広代が言った。
「何かあったみたい」
 二人は、半ば壊された校舎へと急いだ。
おい、どうなってんだ!」
 と文句を言っているのはパワーショベルを運転している男。
何かあったんですか?」
 と、広代が訊く。
「あんたたちは?」
「この校舎で働いていた者です」
「先生か。今、ここを壊してたら、とんでもないもんが出て来たんだ」
「とんでもないもの?」
「ああ。見てくれ」
 破片をさけて、のぞき込むと
 半ば壊れた壁の中から、人の手が突き出ていたのだ。
 二人はぜんとして、
「あれって本当の人の手?」
 と、広代が言っていた。
「保健室ですよ、ここ。どうして人の手が
 みずほは、まだ壊されていない床に上がると、その手の方へと近付いた。
「みずほさん、気を付けて!」
 と、広代が呼びかけた。
 みずほは、深く呼吸すると、歩を進めた。
「ここは保健室の資料置場ですよ」
 と、みずほは言った。
「引き払うときに、からにしたはずですけど
 そのとき、半ば壊されていた仕切りの壁がザーッと音を立てて崩れた。そして手だけでなく、女性の体が床に倒れた。
「何てこと
 広代がそばへ来て、
「どうしてここに死体が?」
「分かりません。誰なのかも
 死体の顔は黒ずんで、誰とも分からなかったが、しかし
「うちの生徒だわ」
 と、広代が言った。
「どうなってるんです?」
 と、現場監督らしい男性がイライラして、
「今日中に取り壊さないと困るんだ。明日は他の仕事が入ってるんでね」
「それはだめです」
 と、みずほが言った。
 青ざめてはいたが、一応保健の教師だ。
「だめって
「見て下さい」
 と、みずほは死体を指さして、
「首に巻きついてるのはひもです。これはこうさつ事件ですよ」
「何だと?」
 男は覗き込んだが、
「ウッ!」
 と、声を上げて、あわてて駆けて行ってしまった。
「おい、どうするんだ?」
 と、パワーショベルのオペレーターが文句を言った。
「今日の日当をもらわねえと。途中でやめたら、払っちゃくれないだろ」
「仕方ありませんよ。これは殺人事件です。警察に連絡しなくては」
 少し落ちつきを取り戻した広代が、そう言って、ケータイを取り出した。
「おい、待てよ! もう夕方だぜ。今日中に終わらなくなっちまう」
「それどころじゃないんですよ」
 と、広代が一一〇番通報しようとすると、突然、パワーショベルのアームが、二人の立っている床へと突き立って、バリバリとはがし始めた。
「キャッ!」
 と、みずほが声を上げて、
「何するの! やめて!」
「どかねえと、けがしても知らねえぞ!」
 と、耳も貸さずに校舎を壊し続ける。
「校長先生! 危ない!」
 みずほは、広代を抱えるようにして逃げた。
「こんな乱暴な
 しかし、鉄の爪が奥の壁まで突き破るのを止めることはできなかった。
「どけどけ! がれきと一緒にバラバラにしてやるぞ!」
 と、オペレーターは勢いに乗っていた。
 だがそのとき。突然アームが力を失ってダラリと下がってしまい、パワーショベル自体も、動かなくなってしまった。
ちくしょう! どうしたってんだ!」
 そこへ
「乱暴はいかんな」
 と、穏やかな声がした。
 広代は大きく目を見開いた。
「まあ! 吸血鬼さんだわ」
「校長先生
「だって、あのスタイルはどう見ても
 黒マントを風になびかせた姿は、確かにスクリーンでおなじみの「吸血鬼」だったが
「フォン・クロロックと申します」
 と、広代たちの方へしゃくして、
「危ない目にあわれておられる様子だったので、ちょっとお力になれればと思いましてな」
「ありがとうございます!」
 と、広代は礼を言って、
「校舎を取り壊していましたら、とんでもないことに
「おい! どうなってんだ!」
 と、オペレーターが怒鳴る。
「やかましいぞ」
 と、クロロックは振り向いて、
「少しあっちへ行っておれ」
 するとパワーショベルが、後ろ向きに動き出したのだ。
「おい! 止めてくれ!」
 と、あわてた声が、校庭の端まで行ってしまった。
死体が?」
 クロロックはがれきの中を進んで行って、死体を抱えて戻って来た。
「このブレザーは、この学校の?」
「はい、制服でした」
 と、広代は肯いて、
「でも、一体誰なのかしら」
「後は警察の仕事でしょうな」
 と、クロロックは死体を下ろして、
行方ゆくえ不明の生徒がいたのかしら」
 と、みずほが言った。
「私は仕事がありましてな」
 と、クロロックは言って、
「では失礼する」
「ありがとうございました!」
 と、広代とみずほは深々と頭を下げた。

【つづく】