妖精人はピクニックの夢を見る (著:辻村七子)
ディストピア飯小説賞によせて 特別書き下ろし短編
「磐土さん、資料転送しておきますね」
「ありがとうございます、林さん」
私の名前は磐土仁。三十二歳の会社員だ。家族構成は妻と、小学一年生の娘の三人。太っても瘦せてもいない、身長百七十センチの平均的日本人男性である。植物バイオテック会社の経営補佐部門に勤めて六年。土や植物に直接触れることはあまりなく、開発元となる植物の種子の仕入れや、値段交渉に携わっている。営業担当者が辞めてしまったので、しばらく一人で仕事をしている。
隣部署から転送してもらった資料を、据え付けのディスプレイで確認し、コーヒーを飲みながらスクロールしているうち、私は奇妙な痺れを感じた。背中のあたりがピキッといった気がする。肩こりだろうか? ちょっと違うような気がする。どちらかというと肉離れに近い。歳は取りたくないものだ。
ちょっとストレッチをしようかな、と椅子から立ち上がったところ。
私の体はバターンという音を立てて倒れた。え? これは? どういうことだろう。全身に力が入らない。業務用冷凍庫にあるカチコチの巨大種子になってしまったようだ。はずみでひっかけたコーヒーマグがデスクから落ち、私の足元に落ちてがちゃんと割れる。コーヒーはぬるい。皮膚感覚でわかる。しかし足は動かない。
「どうしたんですか、磐土さん……磐土さん!」
ありがたいことに音を聞きつけて、林さんがのんびり顔を出し、そして絶叫して救急車を呼んだ。凍り付いた状態のまま私の体は担架に載せられ、ピーポーピーポーといずこかへと搬送されていった。
かくして私の隔離生活が始まったのである。
『パパー、本当にもう、ちゃんと体うごくの?』
「大丈夫だよ、ほたる。元気だ。でも検査で陽性が出てね。七日間はここから外に出ちゃいけないって言われているんだよ。でも見てごらん。パパは元気で、笑ってるよ! ニコニコー! ニコニコニコー!」
『変顔ウケる。やべーやつじゃん。別に家にパパがいなくてもいいし。ネットが繫がってれば、いつもとそんなに変わらないし』
とは言いつつも、回線の向こうにいる娘は寂しそうである。父親としては切ないながらも、少し嬉しい。
VRゴーグルをかけた私は、娘のほたると妻の香苗と食事をとっている。食べているのはもちろん、わが社が誇る特別栄養植物をもとにしたオートミールである。味は、その、まあまあというか、なんだ、そんな感じである。
そもそも前世紀に始まった、病と戦争のコンボがまずかった。
まず世界中で感染性の高い病が爆発的に流行し、病でズタボロになった経済情勢や社会不安の影響で戦争が頻発した。東西南北、常にどこかの国が戦争中だ。結果的に世界中で国土が荒れ果て、駄目押しに環境変動、全世界の食料生産量は下降の一途である。飢えで人が死ぬ時代が目前に迫ってきたのだ。
そこで各国政府は予算を捻出し、科学者たちに考えさせた。いわゆるオペレーションFである。Fは言わずもがな、食べ物のFだ。世界中のあらゆるラボで、会社で、どのような環境でも育つ植物や、どんどん丈夫な子どもを産む家畜の開発がすすめられた。食料自給率は最悪時から回復しつつあるため、オペレーションはそこそこの成功を見ているといえるだろう。だが手放しに成功しているとは言い難い。我々の『食生活』は、衰退どころではない直滑降コースを辿っているからだ。
レストラン、グルメという言葉はほとんど死語になっている。食材も調味料も限られすぎていて、料理という言葉すら絶滅寸前である。最初から食べられる姿になっている代用キャベツや代用鶏肉を、ラップフィルムを開けてただ口に運ぶ。それが食事だ。乏しい食材の中でいろいろ工夫して『美食』らしきものを食べさせる店もあるにはあるが、一昔前の映像作品に誰でも動画サイトで触れられる今、あんな代物を誰がグルメと呼びたがるものか。
そんなわけでほぼ一世紀、『環境の変化に強くておいしい植物』『食糧不足に対応可能なコストのおいしい食肉』という、とんち合戦のような食べ物開発に世界の企業が尽力している。ここ百年で生み出された食品の数は億を超えるだろう。培養もやし。培養しらす。スーパー促成キャベツ。ハイパー抗ウイルス性ダブルビーフ。素晴らしい成果である。味が今一つであることは脇に置くとして。
わが社も開発事業につらなる企業の一つである。栄養成分を損なわず、すぐ育ち、しかもおいしい食品の開発に成功したら、世界中で爆発的に売れること間違いなしだ。
とりわけこんな風に食事をとることが、当たり前になってしまった世界では。
『あなた、大丈夫?』
「ああ、そっちこそ大丈夫か、香苗。ほたるもちゃんと食べている?」
『たべてるー。でもおいしくないね』
『何とか食べなさい。パパの会社が頑張って作ってるんだから』
『はーい』
二人の姿をもっとよく見たくて、私はVRゴーグルを、無意味に強く顔に押し付けた。
前世紀の置き土産である戦争は、まあまあ片付いている。だが病のほうはそうでもない。
毎年、どころか毎月、世界のどこかで新しいウイルスが発見され、そのたび人々は新しいワクチンの開発に躍起になる。ワクチンなんかなくたっていいじゃん、感染しても自然回復力で何とかなるでしょ、という人も昔は存在したらしい。だが日々新しく生まれるウイルスには、毒性や致死性に凄まじいばらつきがあった。先月のものはほぼ無害、でも今月現れたものは街一つを焼き尽くす、といった具合に、手を替え品を替えいろいろなものが出てくるのだ。人類の英知とウイルスのいたちごっこである。世界的少子高齢化で不足しがちな人的資源を、無暗に失うことはできない。
そんなわけで世界各国、どこでも同じように、新しい病とおぼしきものに感染した人間は、隔離される制度が確立された。期間は個別の症状によって異なるが、おおよそ七日間。
今の私もその状態だ。
街はずれ、緑の山並みときらめく海の両方を臨む、地方都市らしいロケーションのビルが、今の私の住まいだった。隔離マンションAの55棟。まわりには百棟ほどの白い建物がずらりと並んでいる。あれでドミノ倒ししたら面白そう、とほたるが笑っていたのを覚えている。大体そんな感じのぎちぎちに並んだ扁平な建物だ。
生涯で平均二回、誰しもこのマンションのお世話になるといわれている。
新種の感染症にかかる確率は、それほどまでに高いのだ。
逆に言うと今の私の状態も、一生に二回当たるクジに当たった程度の状態だ。医療分野においては国境なき情報共有が当たり前になった今、知識も技術も加速度的に進歩してゆくし、一部の人のようにめちゃくちゃに悲観するようなものではない。そもそも致死性の高いウイルスに感染していたのなら、おそらく私は会社で倒れたまま意識を失い、そのまま死んでいたのではないだろうか。そういう話もたまに耳にする。
つまり何が言いたいかというと、家族や親しい人と、実際に顔を合わせて食事ができないという状態は、とてもありふれたものなのである。
VRゴーグルをはめた私が、まるで目の前にいるように妻も娘もふるまってくれているが、家に存在するのはカメラである。黒い球形の三百六十度カメラで、私はそこから家を見ている。二人には私の姿は見えず、声だけが聞こえているはずだ。妻の香苗の出張中には私とほたるがそのポジションになり、昨年ほたるが熱を出して隔離された時には、私と香苗が内心死にそうな思いをしながら、それでも明るい両親の顔をして彼女を励まし一緒に食事をとった。カメラとVRゴーグルごしに、一緒に。
昔はこうではなかった。
私はギリギリそれを知っている世代である。父と母の休みの日に、ちょっと眉を顰められながらも、マスクをしないで――父も母も古風な人間だったので、フルフェイスのゴム製マスクではなく、口と鼻だけを覆う古典的マスクが好きだった――ピクニックに出かけたことがある。桜の咲き誇る市民公園のベンチに腰を下ろし、みんなで準備したおにぎりをぱくついたのだ。今だったら信じられない話である。その中の誰かが新型感染症のキャリアではないという保証はどこにもない。それで相手を殺してしまった場合、誰がどう責任を取るのか。病に起因するさまざまな訴訟が生まれ続けている昨今、誰もそんな物騒なことをしたいとは思わない。そういったことに背を向け、享楽的に生きる一部の人々であれば別かもしれないが、あれは極端な例である。
でも楽しかった。
ひらひらと舞い散るピンク色の花びらの下で、大好きな父と母と一緒に弁当を食べた思い出は、間違いなく私が死ぬ時、まぶたの裏に去来する思い出セレクションの一つになるだろう。
本当に楽しくて、おいしくて、当時の私はまさかその弁当が、信じられないような贅沢品であることなど考えもしなかった。今や失われつつある伝統ともいうべき米作りには途方もない金がかかる。おにぎり一つあたりに含まれる米を百グラムとしても、価格は五千円ほどだ。今ほど食糧不足が深刻ではなく、日本の稲作環境が悲劇的ではなかった当時も、三人家族で腹いっぱい食べるおにぎりは、目がくらむような金額の品であったに違いない。ちなみに私の月収は三万円である。家賃は月に五千円。ちょうどおにぎり一つ分だ。
でも父も母も、私にそういう思い出を与えたいと思ってくれたのだ。それで大枚をはたいてくれたのだろう。二人は料理人だった。思えばあのピクニックは、二人が長年営んでいた小料理屋を閉めた時期と重なる。
漆塗りの重箱に入った弁当を、今でも私はありありと思い出せる。ふわふわ、もちもちの白米。中に入っているさまざまな具材。しんなりして塩気のきいたおかか。ぷちぷちとはじける食感の楽しいたらこ。甘辛くて細長いこんぶ。ツナと酸っぱいクリーム状の調味料をあわせたツナマヨ。おかずもあった。ミートボール。たまごやき。鶏のからあげ。弁当を準備してくれた母や父の、大きな手のぬくもり。愛情の気配。
現実主義者の香苗にこの話をしたら、一体何故そんな馬鹿なことをしたのか理解できないと一刀両断にされた。そのぶんのお金を貯めておけば、都市部で働けない年齢になった時にもっと条件のいい場所に引っ越せたかもしれないのにと。言いたいことは痛いほどわかるが、私はそうは思わない。そしてできることなら、ほたるにも私が味わったのと同じ、あの楽しい時間を味わってほしい。VRごしではなく。手頃だが味気ない『野菜』と『肉』の弁当でもなく。
もちろん実現の可能性があるかどうか、ほたるがそれを望むかどうかは、また別の問題だ。それでも私は夢を捨てられない。
願わくば将来的にわが社のバイオ植物が、私があの時食べた弁当の中身と同じくらいおいしくなってくれたらいいのだが。全地球の食糧生産性よ、何かの理由で一気に上がったりしてくれ。もちろんむなしい祈りだ。
三人でVRディナーを済ませた後、私は保健所に言いつけられた通りに体温を測った。
「……三十六度三分……平熱」
部屋の中には一週間分の生活物資が運び込まれている。食料品。経口補水液。薬。体温計。トイレットペーパー。氷まくら。トランプ。引っ越し用段ボールにパンパンに詰まっている。仮に隔離期間が多少伸びたとしても、これなら飢える心配はない。
だが暇だ。
背中が時折ぴりりと痛むほか、これといった身体症状は出ていない。微熱と倦怠感はないでもないが、働けないほどではない。というか働きたい。家族の明るい未来のために金を稼ぎたい。
無理を言って持ってきてもらった、社外持ち出し可能なラップトップで、私は業務用の文書の作成と、メールの返信に尽力した。だがありがたくも私は病欠という扱いになっており、新しい仕事は回ってこないので、隔離一日目の午前中にしてやることは終わってしまった。暇だ。
「新商品案でも考えるかな……」
そんなことを思っていた矢先。
玄関の外で、コトリという音がした。何だろう。誰か来たのだろうか。市の職員の人とか? 定期的に体調を確認するという話は聞いているが、電話確認だったはずだ。
不審者? それとも防災設備の確認か何かか?
私は立ち上がり、玄関の扉を開けた。外の様子をうかがったが、誰もいない。鳥か何かだったのだろうか?
いや、違う。
確かに誰かが来ていたようだ。
私の部屋の扉の脇に、白いビニール袋が置かれていた。コンビニでもらえそうな、何のラベルもロゴもない袋である。中を確かめると、薬袋が一つ入っている。
「……?」
おかしな話だ。一週間分の物資の中に、解熱剤や下痢止めなど、万が一症状が出てきた時のための薬剤がきちんと含まれていた。確認済みである。なんならベッドサイドのミニテーブルの右隅にキチンと揃えて並べてある。
だが新しい薬袋は、それらの薬の入っていた袋とは種類が違った。アールヌーボー風という感じだが、見たことのない植物デザインの枠組み。チェーン店の薬局ではなく、個人店の袋だろう。だが店の名前や電話番号はない。中身はどうなっているのだろう。
私は袋を開け、アルミのシートを裏返し、目を見張った。
「……こんぺいとう」
一般的な錠剤と同じ、銀色の個別包装シートに包まれているものの、それは確かにこんぺいとうだった。父と母が私に食べさせてくれたことがあるから知っている。もちろん高級品だ。しかしあの時よりも、少しサイズが大きい気がする。あの時は小指の爪くらいのサイズだったはずだが、これはビー玉大だ。色合いは今まで見たこともないほど美しい。
右上の一粒は、空色と若草色とレモン色の三色うずまきだった。決して下品にならないバランスで、複数の色が一粒の中に渦巻いていて、眺めていると吸い込まれそうになる。隣のこんぺいとうは若草色とレモン色と茜色のミックス。その下はレモン色と茜色と橙色のミックス。全部で七粒入っているが、全て色が違った。ほたるに見せてやりたい。夢の世界の宝物のようなカラーリングだ。
だがこれは何だ? お菓子なのか?
あるいは状況的に、やはり薬?
わざわざ朝の七時に持ってくるようなものだろうか。
もう一度扉を開けて、隣り合わせのウィークリーマンションの部屋を見てみる。全て隔離者の住まいのはずだが、他の家の前には、ビニール袋は置かれていない。私の部屋の扉の前にだけ差し入れがあった。何故?
もう一度薬袋の中を探ってみると、今度はメモを発見した。
『これは ようせいしゃの からだに ききます』
『げんきになります がんばってください』
ほたると同じくらいの年齢の子どもが、頑張って丁寧に書いたような筆跡だった。微笑ましいが不気味でもある。ここは市が管理している隔離者用マンションである。小学生がふらりとやってくるようなところではない。
何だこれは?
ネット環境はあるので、パソコンで『隔離 マンション こんぺいとう』『差し入れ こんぺいとう 謎』『げんきになります がんばってください』などのワードで検索をしてみたが、それらしきログは出てこない。自分の身の回りに不思議なことが起こったら、誰も彼もがSNSで即共有するご時世なのに。
つまりこれは一般的な出来事ではないのだ。
これを食べたらどうなるのか、インターネットは教えてくれない。
「……放置しよう。うん」
誰かのいたずらかもしれない。どれほど見かけがきれいだとしても、毒キノコだって魅力的な姿かたちをしていることは、子どもの図鑑で知っている。誰も責任なんか取ってくれないだろう。
だが観賞用にするには悪くない。
私はこんぺいとうのシートをテーブルの隅っこに置き、食事の時にも眺められるようにした。明日家族に電話する時には見せてあげようと思いながら。
だがその日の午後。
私ののんきな隔離生活は急変した。
「……こんにちは。マンションAの55棟、磐土です……体が、急に痛くなって」
『発熱はありますか? その他の著しい身体症状は出ていますか?』
「発熱は少し……三十七度でした……喉の痛みや吐き気は、ありません……」
『そうですか』
これはまるでひどい筋肉痛だ。左右の腕にテーマパークのおみやげ袋を三つずつぶらさげて、ほたるを肩車して三キロ歩いた翌日とそっくりだ。何であの時タクシーを使わなかったのだろう。ほたる流に言うなら『ウケる』だ。体中がカッカと燃えるように痛い。特に背中、肩甲骨まわりが。
私の電話を受け付けてくれた保健所職員は、大変残念ですが発熱が三十七度では病院にお繫ぎするのは難しいと思いますと告げた。予想していた通りでもある。世界にはもっと重度の感染症が溢れているのだ。前世紀からずっと医療機関には余裕がない。誰でも知っていることだ。
『何かありましたらまたご連絡ください。繋がりにくいかもしれませんが、何度かコールしていただければ応答いたしますので』
はいとだけ答えてスマホをベッドに置き、私は崩れるように目を閉じて眠り込んだ。そして背中の痛みで目が覚めた。痛い。痛い。
これは本当に、新種の感染症なのだろうか? 放置していて大丈夫なのだろうか?
ヒイヒイ言いながらベッドから出て、私は頼みの綱のインターネットで検索した。『どんなウイルスに感染したにせよ、関節が痛くなることはよくある』と書かれている。でも肩甲骨の内側に関節って? あっただろうか? 私は商学部卒業で生物学部ではなかった。ないとは言い切れない。でもなかったような気もする。それ以上は痛くて考えられなかった。
私は再びベッドに戻り、うとうとし、また背中の痛みで目覚めた。
痛い。とても痛い。ほたるが三十人背中に乗っかっているようだ。想像するとちょっと可愛い。しかし背中の痛みはほたるではない。憎い。ただ痛みが憎い。
再び寝返りを打った時、ふと。
テーブルの上の、美しいこんぺいとうのシートが、私の目に入った。
その瞬間の自分の行動を、私は自分に説明できなかった。とりつかれたように、四足歩行の動物的な動きでテーブルに近づき、猛然と一錠、シート右上のこんぺいとうをシートからむしりとる。
そして喉に放り込んだ。
咀嚼もせず、ただ飲み込んだ。
ごっくんと飲み下した後、しばらく私は呆然とした。何をやっているんだ。痛みで錯乱したのか。多分そうだと思う。これがお見舞いの品ではなく悪質ないたずらで、中に毒でも入っていたらどうしよう。踏んだり蹴ったりだ。しかし今から洗面所に行って吐くような元気はない。その時は諦めるしかないだろう。
――しかし。
こんぺいとうを飲み込んでから十分ほどで、私の体調はみるみるうちに回復してきた。体が軽い。背中の痛みもない。ベッドが今までの六倍くらいフワフワに感じられる。心までうきたつようだ。ほろよい気分とでも言えばいいのだろうか。気持ちがちょっとハイになっている。
これはいわゆる、ほたる流に言う、あれだ。
やべーやつ。
明らかにやべーやつが、こんぺいとうの成分に入っていたのだろう。私でもわかる。
しかしありがたいことに、背中の痛みは治癒し、気持ちもそれ以上にハイにはならなかった。一時間後、私はほっと胸をなでおろしていた。全ては元通り、背中が痛み始める前のように、体は完全な正常状態である。
察するに美しいこんぺいとうは毒物ではなかった。ありがたい存在だった。
しかし痛みはぶり返した。ほぼ二十四時間おきに、背中は激痛を訴え、主を七転八倒させた。そしてどうしても我慢できなくなるたび、私は一錠ずつこんぺいとうを飲み込み、倒れるようにベッドで眠った。ありがたいことに美しいお菓子は効力を発揮し、私はそれ以降保健所に電話をかけずに済んだ。というかずっと眠っていたので、電話をかけるなどという選択肢はなかった。そしてまた痛みに叩き起こされ、こんぺいとうを飲み込み、眠る。
感染者が無断で隔離マンションから出かけることは法令により禁止されている。隔離期間後に罰金、悪質であれば禁固刑である。病院に駆け込むこともできない。しかしこんぺいとうは七錠あった。七日で私の隔離期間は終わる。そうすれば私はここから出ることができ、自分の足で病院に行くことも可能になる。大丈夫、間に合う。
『パパ、大丈夫? 電話ないから、ママがちょっと心配してた』
「……ああ、ほたる。大丈夫だよ。ちょっと背中が痛くてね」
『さすってあげようか?』
なでなで、なでなで、という六歳の女の子の声が、スマホの向こうから聞こえてくる。不覚にも私は涙を流しそうになった。早く家に帰ってほたるを抱きしめたい。
時刻を確認すると夕方の六時だった。しかし隔離から何日経ったのかがわからない。あるまじきことだが、背中が痛くて体を曲げられず、着替えはおろか風呂にも入れなかったのである。
こんぺいとうは六錠なくなっている。
もう六日も経ったのか。
『あなた、本当に大丈夫なの』
いつになく心配そうな香苗の声に、私は元気な声で答えた。
「問題ないよ。背中が痛むんだけどね、誰かが特効薬を置いて行ってくれたみたいで、それを飲むとすぐ治ってしまうんだ」
『誰かが?』
「きっと市の職員の人だと思う。とにかくよく効くんだ」
『……背中の痛みに効く特効薬の話なんて、私知らないけど』
香苗は某巨大製薬会社のIRとして働いていたことがある。出産後は近場の印刷会社に勤めているが、昔の友達と今でもよくコンタクトを取っているから、新しい薬の話などは、なまじのニュースサイトよりも早く仕入れてくる。
それでも彼女の知識が絶対ということはないだろう。ないと思う。でも私に比べれば、彼女の知識はよほど頼りになる。
ではこのこんぺいとうは一体?
今はあまり考えたくない。また背中が痛くなる周期が近づいている。何が入っているのであれ、最後の一錠を私はかなりの高確率で飲むのだ。
「……じゃあ、ただの強力な痛み止めだったのかもしれないな。何にしろ助かってるよ」
『治験のモニターにでもされてるんじゃないでしょうね。同意書にサインした?』
「してない、してないよ。大丈夫。あと二日で無事に帰るから」
『何言ってるのよ。あと一日でしょう。あなたもう六日家を留守にしてるのよ』
おっと。日付の感覚がフラフラしていることがばれてしまった。妻は不安な時ほど怒りっぽくなる。しっかりして、ちゃんと治して、ほたると私を置いてけぼりにしたら許さないからと、かなり厳しい口調で言われてしまった。叱られているのに何だか嬉しかったのは、自分が大切な人に求められていると深く感じられたせいだろう。
「香苗、愛してるよ」
『……そういうのは顔を見て言って。じゃあね』
そして回線は切れた。ほたると一緒に香苗も抱きしめたい。私は何て幸せな男なんだろうと思いながら、ヨロヨロと風呂場まで歩き、シャワーを浴びた。
果たしてその三時間後。
私の背中は規則正しい柱時計のように、再三の痛みを訴え始めた。
こんぺいとうも最後の一錠だ。色合いは夜明けのような紫色に、鮮やかなピンク、そして生クリームのような白のうずまき。ブドウとイチゴの味がするお菓子のようだ。こんな小さな薬――だと思う――が、強烈な背中の痛みを癒してくれたことが、改めて不思議に思えてくる。そして少し怖い。
私は身支度を整え、保健所の人が迎えに来てくれたら即時退去できるよう準備をした後、ベッドに腰掛け『その時』を待った。お迎えの時ではない。背中の痛みのピークである。その時にこんぺいとうを飲み込めば、私はきちんと自分の足で家に帰ることができるだろう。明日以降の分のこんぺいとうがないことは不安だが、そうなったらどこかの大きな病院にでも駆け込めばいい。
このこんぺいとうが既に一般的な薬として売られていて、私がそれを知らなかっただけという可能性は、残念だがもう潰れている。ネットを調べても調べても、カラフルなこんぺいとう型新薬の話など微塵も出てこなかった。少なくとも一般的な薬ではない。
できることなら最後の一錠は残しておき、妻のツテで製薬会社かどこかに回して分析してもらい、今後の私の処方や、似たような症状の出た人の処方のために役立ててほしかった。
だがいつものように、耐えられないほど背中が痛くなってしまったら、私は自分のために最後のこんぺいとうを飲むだろう。
うだうだ考えているうちに、『その時』は近づいてきた。肩甲骨が焼けるように痛い。痛い。痛いということしか考えられなくなる。痛い。ほたる。香苗。お父さん。お母さん。肩甲骨が百倍くらいの大きさに膨張して破裂しそうな気がする。折れる。体が折れる。
もう仕方がない。こんぺいとうだ。
私は最後の一錠を飲み込んだ。これで一安心である。
そう。
思ったのだが。
何ということか、痛みは治まらなかった。
背中が燃える。燃えるように痛い。何故だ。こんぺいとうはちゃんと飲んだのに。まさか七錠のうち一錠だけ、宴会ゲーム用の駄菓子か何かのように『ハズレ』が含まれていて、薬効成分が何も入っていなかったとか? そんなことがあってたまるものか。
背中が痛い。
背中が燃えるように痛い。
背中が破れそうに痛い。破れる?
だが確かに、背中の内側から、何か大きなものが私の背中の皮膚を押し上げている。痛い。これはそういう痛みだ。いやそんなはずはないと私の理性の声が言う。人間の皮膚は内側から破れたりしない。だってそれは人間の骨が変形するということだろう。しかしこれまで私が感じてきた尋常ではない痛みは何だったんだろう? 関節痛? 肩甲骨自体に関節はない。そんなこと私だって調べてわかっていた。だが痛いものは痛かった。
あれがもし、骨の形が変わる痛みだったのだとしたら。
もしそうだったのだとしたら。
本当に私の背中は。
破れてしまうのでは。
途端、ビリビリビリビリーという新聞紙を破くような間抜けな音がした。自分のシャツが破れた音だと、私はしばらく気づかなかった。だが左右の袖の下に、背中の部分の残骸がべらべらとぶらさがっている。確かにシャツの背中の部分が破れ、左右に分かれたのだ。
「な……なんだ…………?」
痛みが、止まった。
すっきりさっぱり、噓のように、なくなっていた。
今になってこんぺいとうが効いたのだろうか? 体が軽く、頭がフワフワして、何だかちょっとスキップがしたい。いや待て。それ以前に服が破れているのだから着替えなければならない。今保健所の人が来たらきっと驚くだろう。着替えを、速やかに着替えを。
そうして、私は、風呂場にある姿見鏡の前まで足取りも軽く移動し。
絶叫した。
「わぁああーッ!?」
私の背中から。
背中から、羽根が。四枚。左右二枚ずつ。
レモン色に、橙色に、茜色に、クリーム色に、若草色に、空色に、暁の空のような紫色に輝く、七色の羽根が。ちょうちょのような大きな羽根が。羽根が。
生えている。
私の背中に羽根がある。
冗談か? いや冗談ではない。もし夢なら、こんなぶざまに千切れたシャツはカットされているだろう。ディテールにリアリティがありすぎる。
もしかして、と思って、私は『肩甲骨』をへこへこと動かしてみた。
私の意志に従って、大きな羽根は閉じたり開いたりした。
ぞっとした。この羽根はどういう仕組みか私の体と繫がっていて、脳みその信号を受信して動いている。間違いなく私の体の一部だ。
なんで。
どうしてこんなことに。
その時、ピンポーンというのんきな音が鳴った。保健所の人だ。助けてくれ。助けてほしい。何が何だかわからない。誰でもいいから誰かに会いたい。誰でもいいから誰かに助けてほしい。
腰が抜けているらしく、私はうまく立って歩けず、すがるような思いで四つん這いになり、玄関に駆け寄り、ロックを開けた。
「助けてくれ!」
思わず叫んだ。
だが目の前に立っていたのは、防護服に身を包んだ保健所の職員ではなかった。
病院のスタッフでも、その他のお店の店員でも、およそ常識的な世界で働いている人とは思われなかった。
ファンタジー映画のエルフ。
そうとしか思われない、つま先までを覆う半透明のシルクのような、ごちゃごちゃとした装飾の多いローブに身を包み、額に黄金の飾りをつけたひとが、私の前に立っていた。当たり前のように耳の先も尖っている。二人。性別はわからない。髪の色は片方が淡い若草色で、片方が星空のように輝く黒紫色だ。瞳は金。どちらも非常に美しく整った顔をしている。そして背が高かった。どちらも二メートルはある。
二人はしずしずと、私の前に頭を下げた。
「こんにちは、いわつちじんさん。わたしはフィオーキンです」
「こんにちは、いわつちじんさん。わたしのなまえはデャーミドです」
「たちばなしもなんですから」
「おじゃまいたします」
そして二人は、まだ立てずにいる私の部屋に、音もなく入ってくると、後ろ手で扉のロックを閉めた。
「いわつちじんさん、あなたはようせいになりました」
「…………は?」
「あなたにはようせいテストをうけてもらったはずです。そのときにようせいのけっかがでましたね。したがって、あなたはようせいになりました」
「待ってくれ待ってくれ、何を言われてるのか全然わからない」
フィオーキンとデャーミドは顔を見合わせた。二人の喋り方は明らかに日本語ネイティブではなく、もっと言うなら人工音声ソフトが入力された文字を読み込んでいるようなものだった。声色に濃淡が乏しくてわかりにくい。
私が、ようせいで、ようせい?
何だって?
髪の毛が緑のほう、フィオーキンがじっと、鈍く光る瞳で私を見て、口を開き、喋った。できるだけ、声に濃淡をつけられるよう苦心惨憺しているように、ゆっくり、ゆっくりと。
「いわつちじんさん、あなたは、ようせいテストをうけて、ようせいのけっかがでました。せかいじんるい、たったひとりの、ようせいです。あなたは、わたしたちのせかいと、あなたたちのせかいをむすぶ、かけはしなのです」
「世界人類、たった一人?」
「そうです。せかいに、たったひとりの、ようせいしゃ、ようせいにんげんなのです」
ようせい――陽性、ではない。このエルフのような風体の二人から、想定される『ようせい』はただ一つだ。
妖精。妖精人。
フェアリー人間ということか。
そんな馬鹿なと倒れそうになる私の前で、フィオーキンは淡々と、しかし熱っぽいジェスチャーつきでどんどん喋った。まとめると大体こうだ。
磐土仁は、『ようせいテスト』を受け、『ようせい』の結果が出た。それはウイルス抗体の有無、陽性陰性を確かめるものではなく、ようせい――『妖精』の素質、のようなものを確かめるテストのことを差している。そんなものをいつ受けたのか、私には全く覚えがないのだが、フィオーキンはテストテストというので、ウイルスの検査のサンプルが彼らに横流しされ、同時に妖精テストも検査されていたのかもしれない。
そして妖精についての話も。
彼らの住む妖精の世界とは、人間の世界と重なり合うように存在しつつ、その実人間には観測不可能な世界のことであるという。
太古の昔から、人と妖精は没交渉に暮らしてきた。しかし時折、妖精を少しだけ見ることができる人間が出現し、妖精の存在を伝承として、あるいはおとぎ話として、人々の心に伝えてきた。だがその程度である。どうもこんにちは妖精ですという展開も、臨時ニュースに妖精が出てくるという展開も、歴史上一度も存在しなかった。
だが、それも限界が近づいているのだという。
「かんきょうのへんかがいちじるしく、このままではようせいはほろびてしまいます」
「……それは、地球温暖化などの話ですか……?」
「それもありますし、やはりさいだいのげんいんは、ウイルスです」
「ウイルス! そちらでも新型感染症が流行しているんですか」
「はい。もう、ずいぶんまえから」
感情の色に乏しいながら、フィオーキンの声は沈痛な響きを帯びていた。
妖精の世界においても、人間の世界とほぼ同じ、百年ほど前のタイミングから、いろいろな新型感染症が現れては消え、現れては消えという状態が続いているらしい。しかし妖精たちの世界にも文明があり、テクノロジーがある。フィオーキンいわく、人間と妖精とは『もののみかた』が違うらしく、私たちが主に原子や分子という単位で世界を認識しているのとは異なり、元素という単位で世界を分解、分析しているという。詳しいところは私にはわからなかったが、聞く人が聞けば目を輝かせそうな話だ。世界の根幹にかかわってくる。
だが元素の世界にも、やはり限界があるという。
個別の病に対処する薬は、時間さえかければ生み出すことができる。だがその間に新しい病が生まれている。薬の開発が間に合わない。
毎年大勢の妖精たちが、はかなく世を去っているという。ちなみに妖精の平均寿命は百年ほどだそうで、それほど人類と乖離しているわけでもないようだ。
「このようなことは、ようせいのせかいがはじまっていらいの、ゆゆしきもんだいです。このままでは、われわれのせかいは、こんぽんから、へんかしてしまう」
「私たちの世界も似たような状況です。愚痴でも言い合えたらよかったですね」
私がそう応えると、フィオーキンは少しだけ体を詰めてきた。楚々とした中性的な風貌だが、二メートルの巨躯である。ちょっと怖かった。
「わたしたちは、なにも、ぼつこうしょうになりたくて、なっていたわけでは、ないのです。にんげんのすがたと、ようせいのすがた、りょうほうどうじに、こうじょうてきに、めにすることができるそんざいは、ゆうしいらい、ひとりもあらわれなかった。どちらかがみえるもののひとみには、もうはんぶんが、うつらない。しかたなく、こうなっていたのです」
ゆうしいらい、というのは、有史以来ということらしい。なんというスケールの大きな話だ。
「で、でもあなたたちは私を見ているじゃありませんか」
「それはあなたが、ようせいじんだからです」
「え? いや、私は普通の人間で」
「ちがう」
ようせいじん、と。
フィオーキンは嚙んで含めるように繰り返した。陽性、ではなく。
妖精人。
「私が…………妖精人?」
「そうです。あなたはうまれつき、ようせいになることを、さだめられていた、にんげんだったのです。おめでとう。あなたはみごと、かくせいしました」
「そ、そんなばかな。だって私の母は岩手県民だったし、父だって沖縄県民だったし」
「けんみんは、かんけいないのです。とつぜんへんいなのです」
常識的に考えて、岩手県民と沖縄県民の間にヨーロッパ風の妖精が生まれてくるだろうか。いや、ない。間をとって大阪府民とか、そういう冗談しか浮かんでこない程度、私は慌てている。そして背中の羽根はぴこぴこと動いた。デャーミドがそれを嬉しそうに眺めている。私はあまり嬉しくない。
「な、何かの間違いです。妖精なんてばかげてる」
「しかしあなたにはわたしたちがみえている。あなたのせなかにはようせいのはねがある。あなたはようせいだ。これはほんとうのことだ」
「私は頭がどうかしちゃったのだろうか……」
「パニックになるというなら、おちつくまで、まちましょう」
「そろそろ保健所の人が来ると思うのですが……?」
「わたしたちはようせいです。そとには、ようせいのこなを、まいておきました。このへやをめざして、やってくるひとたちは、いつまでたっても、もくてきちにたどりつけず、グルグルまわってしまうことになるでしょう。ようせいには、あさめしまえです」
大迷惑な粉だ。激務の中にある保健所の人たちに申し訳ない。
一体どうしたらいいのかまるでわからず、羽根にもたれてテディベアのような姿勢で座り込む私に、デャーミドが語り掛けた。彼または彼女の声にも濃淡がなかったが、フィオーキンの声よりも少し低い、落ち着いた声色だった。
「よく、かんがえてほしい。わたしたちは、いわば、となりのほしに、すんでいるにもかかわらず、こうしょうできない、うちゅうじんどうしのようなもの。あなたたちは、はねでそらをとぶほうほうも、りんぷんでやまいをいやすほうほうも、しらない。おなじようにわたしたちも、テレビをつくるほうほうや、トレインをはしらせるほうほうを、しらない。えいちを、きょうゆうすべきだ。そうすればわたしたちのせかいは、たがいに、よりゆたかにはってんしてゆく。まちがいなく」
「………………」
これはいわゆる、SFでいうところの『ファーストコンタクトもの』ということになるのだろうか。宇宙人と人間との初めての出会いを描くジャンルをそう呼んだりする。香苗の好きなタイプの小説で、私の好きなビジネス書の棚の隣には、それ系の小説がずらりと並んでいる。まあそれはいい。
デャーミドの言っていることは正しいと思う。羽根で空を飛ぶ方法はともかく、鱗粉で病を癒す方法にはとても興味を惹かれる。もしかしたらいまだに猛威を振るっているウイルスですら、妖精たちの前ではいたずらゴブリンのようなものかもしれないのだ。あるいはもっと他の難病すら治ってしまうかもしれない。もしそんなノーベル賞一ダース分にも匹敵するような偉業に貢献できるなら、本当に素晴らしいし誇らしいと思う。
でも。
「…………仮にそれが本当だとしても、妖精の姿は、世界中の人間の中で私にしか見えないわけですよね? そんな中で私が、背中に羽根をはやして『妖精の世界があります!』なんて言っても、世界びっくり人間ショーに取り込まれておしまいになるんじゃないでしょうか」
「それは、だいじょうぶです」
フィオーキンが引き取ってゆく。大丈夫とは。どういうことだ。どういう根拠があって言っているんだ。不安をあらわにする私に、デャーミドが告げた。
「あなたが、すがたをあらわしたら、にんげんたちは、あなたを、ほうっておけない」
「……いや、しかし、人ひとりでは限界が」
「しんじてほしい。かならずだいじょうぶだ」
「何故そんなことが言いきれるんですか」
「にんげんのせかいの、じょうしきてきにかんがえて、そうなるからだ」
「………ですから何故」
「だいじょうぶだ」
「………」
妖精は断言した。
そして深々と、私の前で頭を下げた。
「たのむ。いわつちじん。たのむ」
デャーミドの隣で、すっとフィオーキンも頭を下げた。二人の美しい存在が、私に頭を垂れている。フィオーキンはそのままの姿勢で喋った。
「いわつちじんさん、おねがいします。ようせいのせかいのために、そしてにんげんのせかいのために、きょうりょくしてほしいのです。これは、とても、いぎのあることです」
「…………………………」
妖精に要請されてしまった。
などという冗談を考えられるくらいには、私の頭は回復していた。
しかし逆に考える。断るという選択肢は、私にはあるのか? 背中から生えてしまったこの羽根を『なかったこと』にして、香苗とほたるの待つ家に帰ることは? 可能なのか?
空気を読まずに私が尋ねると、フィオーキンはうつむきながら告げた。
「それは、できます」
よかった。できないと言われるのかと思っていた。
私が喜ぶと、フィオーキンは猶更悲しそうな顔で告げた。
「ようせいのせかいにおいて、はねをきりおとすのは、しんでしまいたいときに、することです。しかしあなたは、ようせいでもあり、にんげんでもある。はねをきりおとしても、しにはしないでしょう。ただときどき、せなかがいたくなることが、あるかもしれませんが、それをのぞけばふつうのにんげんとして、これからもくらしてゆけるはずです」
「……ありがたいです」
「そしてわたしたちは、またすうせんねん、まつ。しかしそのあいだに、すいたいは、とりかえしのつかないレベルまで、すすむだろう。にんげんのせかいと、ふたたびつながりを、もてるかどうかも、わからないレベルまで。そして、わたしたちのせかいは、えいえんに、わかたれる」
そう、デャーミドがこぼした。
『また数千年』。有史以来という言葉から考えるなら、文字で歴史が綴られるようになってからということだろう。おそらく八千年前くらいからだ。八千年前、人間は何をしていたのだろう? ナイフ一本を作ることにも四苦八苦していた頃だろうか。あと八千年経ったら、人類は一体どんなものをつくりだしているのだろう?
そもそも。
人類はまだ、ちゃんと存在しているのだろうか。
私は急に怖くなった。そしてほたるの顔が浮かんだ。大きくなったほたるは、好きな人と結婚するかもしれない。そして子どもを産むかもしれない。そしてその子もまた大きくなって、好きな人と結婚して、子どもを産んで、その子がさらに…………
その時にもまた、新しいウイルスが、人の世界を悩ませていたりするのだろうか。
相変わらず食料に乏しい、味気ない野菜と肉だけの世界で。
いや――待て。
質問すべきことにようやく思い至り、私は声をあげていた。
「つかぬことをお尋ねしますが、さきほど仰った『りんぷんでやまいをいやす』というのは……? 妖精の鱗粉というものには、薬効成分があるのでしょうか?」
「それは、とうぜん、ある。あなたがのんだ、つぶぐすり。あれも、もとをたどれば、りんぷんからつくられている」
「痛み止めになるということですか」
「いたみをとめる、だけではない。もっといろいろなやまいを、いやすりんぷんがある」
そうだ。十九世紀に未開の地を求めた探険家たちが持ち帰ったものは、珍しい動物や宝石ばかりではない。
新たな薬になる薬草、植物などの類も存在したのだ。
私は急に、フロンティアを目の前にした探険家の気持ちになった。
この『鱗粉』があれば、もぐらたたきのように叩いても叩いても出てくる新しい感染症への、強力な対処法ができるのではないか?
そして病や、その後遺症による人手不足が緩和されれば、食料自給率も上がるのでは?
環境変動に対処する農薬としても、『鱗粉』が活用できるとしたら?
あくまで可能性の話だ。だが妖精たちは高い知性を持っている。力を合わせれば、たくさんの扉が開くだろう。
それはきっと人類を助けてくれる。
私はデャーミドに、『つぶぐすり』ことこんぺいとうについてより詳しく尋ねることにした。私が興味を示すと、麗しい妖精は身を乗り出して食い気味に答えてくれた。
「これもまた、もとをたどれば、りんぷんだ。わたしたちの、せかいでは、あなたたちのいうところの、くすりと、たべものとを、くべつしない。このふたつは、わかちがたくむすびついている。やまいをいやしたいときにも、からだをうごかすエネルギーがひつようなときにも、わたしたちはものをたべる」
「薬効成分のある食べ物というわけですね」
「おそらく、そうだろう。そして、てきせつなものを、たべれば、てきせつなやまいを、ふせぐことができる。そういうちからが、あるのだ。もちろん、げんかいもあるが」
「ワクチンとしての使い方もあるということですか!」
「そのとおりだ」
そして妖精の鱗粉というものは個体によって千差万別なので、さまざまな食糧、さまざまな薬がオーダーメイド的に生み出されているという。遺伝子薬のようなものか。私たちの世界とは薬の作り方も根本から違う。
おいしくて美しいこんぺいとう。体によくて、元気が出て、ワクチンになる。
副作用はないのか。
私はそのあたりについても言葉を尽くして尋ねたが、デャーミドは首を横に振り続けた。もちろん特定のものを食べ続ければよくないことはあるかもしれないが――それはまるでポテトチップスの食べ過ぎというものが存在した時代の、食べ過ぎに呆れる医者のような口調だった――そんなことは常軌を逸した摂取を続けなければ起こらないという。用法を間違えれば薬は毒にもなる。人間世界の基準でも十分に理解できることだ。
食料になり、薬になるこんぺいとう。しかもいろいろな味がある。
間違いなくこれこそが、全世界待望の、英知の結晶なのでは?
少なくとも、人間と妖精の力を結集すれば、病も食料自給率も環境変動も、今よりもたくさんの方法論を用いて対処可能になる。これは確かなことだ。妖精の科学者と人間の科学者との意思の疎通と情報交換がうまくいけば、もしかしたら今まで誰も考えもしなかったような薬が生み出されて、次々に生まれてくる疫病神のようなウイルスたちも、根絶可能かもしれないのだ。
私はなんという状況にいることだろう。
もし、私が彼らの世界との架け橋になれば、いずれほたるにも、おいしい食事をお腹いっぱい食べさせてあげることができるようになるだろうか。
桜の下のピクニック。
マスクをせず。ぺらぺらの味気ない代用食も使わず。
ほたる。香苗。
「…………」
考える。妖精の要請を受け止める可能性を真剣に考える。正直に言って怖い。妖精人間になることも、妖精の羽根を切り落とすことも。どちらにせよ未だかつて誰にも経験がないことだ。私は前人未到の記録や、未知の山麓に挑むことにロマンを見出すような男ではなかった。ただ家族と幸せに暮らしてゆくことができればそれでいいし、代わり映えのしない毎日を穏やかに過ごすことに魅力を感じる男だ。
だがその私が今、ほたるや香苗を蝕む災禍を食い止める、大きな力を手に入れようとしているのかもしれない。
「………………」
私は、妖精人間になるのか? 本当に?
人間の世界と妖精の世界の、架け橋とやらになるのか?
そうなった場合、自分がどんな扱いを受けるのか、二人の家族にどんな目が向けられるのか。具体的に想像すると泣きたくなる。耐えられるだろうか。二つの世界のためという崇高な目的があれば、ワイドショーや週刊誌や匿名掲示板の心ない見出しや書き込みや中傷に耐えられるだろうか。
悩んでいる私を見かねたのか、そっと、デャーミドが私の右手を両手で包み込んだ。隣のフィオーキンも、左手を包み込む。
「あなたが、わたしたちにきょうりょくしてくれるなら、わたしたちは、すべてのちからをつくして、あなたをまもる。あなたのたいせつなひとたちを、まもる。やくそくする」
「おねがいです。わたしたちのかけはしになってください」
私はしばらく、無言で考え、一つ提案をした。
「家族に電話をかけさせてください」
二人の妖精は、一も二もなく頷いた。
コールは五回で繋がった。香苗は急な用事で親戚のところに出かけているらしく、応えたのはほたるだけだった。
『ママはねー、しばらく電話に出られないって。C7団地のおばさん、入院するかもしれないって言ってたから』
「そうかい……」
放っておくと病はどんどん広がってゆく。新たな病も生まれてくる。現在は耕作されている畑も、病か戦争か人手不足で、来年には放置されているかもしれない。そして代用食はますます不味になり、少なくなる。そんなのはみんなわかっていることだ。わかっているがどうしようもないと諦めていたことだ。
だが諦めることだけが、かしこいやりかたではない。時には戦うことも必要なのだ。戦ってくれる誰かを祈り待ち望むだけではなく、自分自身の力で戦おうとすることが。
私は極力、何でもないふうを装って話しかけた。
「なあほたる、ピクニックの話を覚えているかい。おじいちゃんと、おばあちゃんと一緒に、パパが出かけた時のお話だよ」
『おぼえてるよ。パパの好きな話だもんね。ママは嫌いだけど』
アハハとほたるは笑った。
そうだ。誰しもがピクニックに憧れるわけではない。香苗は馬鹿げたことだと言ったし、事実この世界の半分くらいの人も、いやそれ以上の人々も、同じことを言うかもしれない。豪華絢爛なベルサイユ宮殿は既に無人の観光地である。今更マリー・アントワネットのような暮らしをしようとする人はいないだろう。それはただの時代錯誤な浪費活動だ。
私が思い描いているのは、それと同じ馬鹿げた夢なのかもしれない。
でも。
「……じゃあ、ほたるはどうだい? ピクニック、してみたい? それとも馬鹿みたいって思う? パパに気を使わなくていいよ。ほたるがどう思うか、パパは知りたいんだ」
『ウケる』
ちゃかしつつ、それでもほたるは黙った。考えてくれているらしい。ありがたい。まだたった六歳なのに、この子は人の話を真剣に聞くことを知っている。本当にいい子に育ってくれたと思う。
一分くらい黙った後、ほたるは口を開いた。
『あのねー、わかんない』
「そ、そうか……」
『わかんないからねー、自分で見て決めたい』
私はハッとした。傍で漏れ聞こえる声を聴いていたデャーミドとフィオーキンも、目を見開いたようだった。
『ほたる、ピクニック行ったことないから、いいとか悪いとか、わかんない。おにぎりも食べたことないし、パパの言ってたたまごやきとか、からあげっていうのも知らない。だから、やってみてから、いいか悪いか決めたい。知らないことを知らないまんま、いいとか悪いとか言うのって、バカくさくない?』
その通りだ。
本当にその通りだ。
そしてその言葉で、私は心を決めた。
私は微笑み、音声だけしか聞こえないほたるに告げた。
「ありがとう、ほたる。ママに伝えておいてくれないかな。パパは……ちょっと、隔離の期間が長くなるみたいで…………詳しいことはまた別の電話で知らせるかもしれないけど、ともかく、今日家に帰るのは難しいかもしれないんだ」
『えー! やだ! やだ! もうパーティの準備しちゃったのに。一番高級な代用牛肉と代用レタスでおいわいなんだよ。ママふんぱつしたんだから』
「ごめん。本当にごめん。ほたる、だいすきだよ。香苗も大好きだ」
『パパ、どうしちゃったの? やっぱりどっか悪いの? なでなでする?』
なーで、なーで、とほたるはまた言ってくれた。
これでいい。
もうこれで、私がもらう幸せが全部打ちどめだとしても、これでいい。十分だ。
私は最後にもう一度、ありがとうと娘に告げて、電話を切った。
そして二人の妖精に向き直った。
「……最初に聞いておきたいのですが、『私が姿を現したら、人間たちは放っておけない。絶対大丈夫』という件には、どういう根拠が?」
フィオーキンはにっこり微笑み、逆に私に尋ねかけてきた。
「あなたの、すきな、かいじゅうは、どのくらいのせたけがある?」
その日、世界中のテレビ局は、ラジオ局は、ユーチューバーは驚愕した。
天を突くような大男が、雲に額をつけながら、地上を見下ろしているのである。
その巨人はアジア人らしき顔立ちをしていて、三十絡みの風貌で。
背中から七色の羽根を生やしていた。
妖精だった。
巨大な妖精は、日本語で宣言した。
『こんにちは! 私は妖精人です! 人間界と妖精界の架け橋になるため、ここにいます!』
全世界の情報機関は、理解不能な巨大生物の存在を秘密のうちに片付け、自分の国と友好国の間だけの獲物にしようと試みたが、不可能だった。妖精人があまりにも巨大だったためである。人々は好き勝手に写真をとり動画をとり、国境なきSNSにアップして再生数を稼いだ。妖精人の姿とメッセージは瞬く間に拡散され、ありとあらゆる場所で共有されていった。
とうとう各国首脳も彼を無視することはできなくなり、『交渉』が始まった。
太平洋上の無人島に着地し、人間サイズに縮小した妖精人は、まず最初に何の予告もなく巨大になって現れた非礼を詫び、その後本題を切り出した。
「科学者を集めてください。妖精の世界の科学者たちも集まっています。世界中に溢れているウイルスを、撲滅することができるかもしれないのです。そして同時に、食料の問題も解決することができるかもしれない」
はじめ、各国のお偉方たちは鼻白み、嘲笑ったが、彼が持ってきたイガイガした砂糖菓子状の物品が、副作用なしでモルヒネ以上の強烈な痛み止めとして作用し、リウマチほか人類を長年苦しめてきた数々の骨の病に対する奇跡的な効力を持っていることがわかると、手のひらを返して狂喜乱舞した。あらゆる宗教が彼を『我らが神』とあがめようとし、自分たちのテリトリーに引き込もうとしたが、妖精人は拒絶した。
そしてこう告げるだけだった。
「自分はただの、橋なので」
妖精人は主に日本語で喋った。
アメリカからやってきた通訳の人間に、それはどういうことなのかと尋ねられると、妖精人は簡単に説明した。
詳しく言うことはできないが、自分には未来の夢がある。それは人々が、親しい人々と連れだって食べ物を持って、季節の花を観に行って、その傍で会話をかわし、笑いさざめきながら食事をとることである。病の恐れも、食べ物の不足に対する恐れもなく、ただなごやかに、愉しく、子どもに戻ったように。
そのためならばいかなる困難なミッションにも、自分は挑むつもりです、という妖精人の言葉に、各国首脳は新たなオペレーションを開始した。
その名もオペレーション・スペシャルF――Fは言わずもがな、フェアリーのFである。
「パパ、またインタビュアーに何か言ってるよ。ウケる」
「あいかわらず真面目に頑張ってるみたいねえ」
二人の人間の暮らす家に派遣されたフィオーキンは、妖精人の妻子であるという二人のために、日夜透明人間として家事に励んでいた。父親のいない家は静かではあったが、小さいほうの人間であるほたるは、フィオーキンがお茶をいれたり食事をつくったりすると、手を叩いて喜ぶので――まったく何もないところで、ポットが浮かび上がったり、料理が出来上がったりして見えるようだった――フィオーキンはほたるが好きだった。
南の小島で働く妖精人こと磐土仁は、時々VRゴーグルをかけ、家族と共に団欒を楽しんだ。
「変なものだな。ゴーグルなしの食事の実現を目指してるのに、そこでこんなにVRゴーグルがいいものだと気づかされるなんて」
『ま、何食べてても家族は家族だし?』
『やめなさいほたる。パパが調子に乗っちゃうから』
「はは。そうだね。何を食べていても、好きな人と一緒なら、そんなに変わらないのかもしれないね。でも今日のこれは、パパの感じたところだと、たらこのおにぎりに近い味なんだ」
『いやだ、ちょっと気持ち悪いわ』
「香苗、感想は食べてみてからだよ」
『いただきまーす』
そして三人は、遠く離れた場所同士でいただきますと声を揃え、きらきら輝くこんぺいとうを口に運んだ。磐土仁が監修したそれは、とりあえず、たらこのおにぎりというものと同じ味がするはずだった。
【おわり】
◆初出:WebマガジンCobalt 2022年11月25日更新