最後の日には肉を食べたい (著:青木祐子)
ディストピア飯小説賞によせて 特別書き下ろし短編
わたしの前に肉がある。
世界が入った肉だ。
* *
わたしが孝明と知り合ったのは、今から半月ほど前になる。
その日、わたしはアルバイト先のステーキ店で、タルタルステーキを作っていた。
店の名前は『Last Meat』――長いカウンターと、テーブルが三つしかない小さな店だ。オーナー兼シェフの郁美さんによれば、最後のときに食べたい肉、という意味をこめているらしい。わたしにとっては三軒目のアルバイト先なのだが、これまででいちばん相性がよくて、もう一年近く勤めている。
――あの男、さっきからミウを見ているね。
ルカが言った。集中しているときは話しかけるなと言っているのに。わたしは挽き立ての生肉を包丁の背で叩きながら、知ってる人? とルカに尋ねる。
――知らないなあ――だが、埋もれているだけかもしれない。視覚の記憶は俺よりもミウのほうが確かなはずだろ。
わたしは顔をあげてホールを眺めた。『Last Meat』の調理室はテーブルのあるホールよりも一段高くなっていて、仕切りがない。ホールから調理室が見えるし、こちらからも食事をしている客たちを見渡すことができる。
ルカが誘導しているのはガラス製の冷蔵庫の横にあるカウンターだ。ランチの時間なので、三人ほどのひとり客が料理を食べたり、注文を待ったりしている。『Last Meat』は小さいが肉好きには知られている人気店なのである。
わたしの視線がカウンターを通り過ぎたとき、ルカはひとりの男性客の上で、白い光をまたたかせた。ブルーグレーのジャケットを着た、特徴のない男だ。見覚えはない。この店は毎日のようにランチに来る男性客もいるのだが、常連の客ではないようだ。彼はわたしと目があうと、慌てたように目をそらした。
知らない人よ。無視していい? わたしはルカに言った。ルカは答えない。いつもそうだ。わからないときは無視をするのだ。言語化するのが面倒なのかもしれない。
「――美宇ちゃん、タルタルミートできた?」
ルカはときどきおせっかいだ。だとしたら余計なことを言わないでもらいたいものだ、などと考えていたら、郁美さんが声をかけてきた。
「できました、これから成形です」
「だったらそれ、わたしがやるから。これ運んでくれる。カウンターの四番」
郁美さんは言った。わたしはエプロンを付け替えて、郁美さんが焼いたばかりの肉の皿をカウンターへ運ぶ。
わたしの本来の仕事はウエイトレスである。しかし郁美さんはどういうわけかわたしを気に入って、この店に入ったときから厨房に入らせた。わたしは肉の扱いに関してはそれなりに自信はあるし、今ではすっかり信用されているようだ。
四番に座っているのはさきほどルカが指定した男だった。そうだろうと思った。ルカはときどき予知のようなことをする。
「お待たせしました」
わたしはじゅうじゅうと音を立てているアイアンプレートをカウンターに置いた。
この店の特徴はとにかく肉がジューシーなことだ。彼がわたしを見ていたのかどうかは別として、ランチに三〇〇グラムのステーキを食べるとは、健啖家であることは間違いない。
「――村瀬美宇さん、ですよね。僕のことを覚えていますか」
酔うような肉の香りと、それを食べる男に胸にときめかせていたら、思い切ったように彼が口を開いた。
わたしは我に返り、彼の顔の記憶を探った。心あたりはない。
彼は**なの? とルカに尋ねてみる。違うと思う――とルカが答える。ルカにしてははっきりしない答え方だ。
「そうですよね、覚えているわけないですよね」
わたしとルカの間に割り込むように、彼は言った。
隣の椅子に置いてあったビジネスバッグを持ち上げ、ポケットからスマホと名刺入れを取り出す。スマホを操作すると、社員証らしき画面になった。わたしでも知っている大手電機メーカーの名前と、佐野孝明という名前、目の前の男の顔写真がある。
「佐野孝明といいます。以前、――って焼き肉店で働かれていましたよね。何回かランチに通って名前を覚えちゃったんだけど、声をかける勇気がなくて。こんなところでお会いできるとは思いませんでした」
「お肉がお好きなんですか」
わたしは尋ねた。
そういえば少し前まで働いていたチェーン店の焼き肉店では、胸に名札をつけるのが決まりだった。肉の質が良いという評判だったが勤めはじめたらそうでもなかった。客として来た郁美さんにうちで働いてみないかと誘われて、ルカと相談し、一年も経たずに店を替えた。
「はい。食べ歩きが趣味です」
孝明は笑った。わたしが返事をしたのが嬉しかったようだ。笑顔は悪くない。孝明は名刺を一枚抜き取り、そろそろとわたしに差し出した。
「よければ連絡もらえませんか。怪しいと思ったら会社に確認してかまわないので。前の店で見て、可愛いなって思っていたんです。ダメなら諦めますから。突然すみません」
孝明の顔は真剣だった。
「――はい」
若い女性として、誘われるだけなら慣れていないこともない。といってもルカ以上に親しくなれる人間などこれまでに誰もいなかったが。
ルカの意見を聞きたかったが、何も言わなかった。オーブンの前にいる郁美さんがちらちらと視線を送ってくる。わたしは孝明から名刺を受け取り、エプロンのポケットに入れた。
ねえ、これ受けていいと思う? 少し離れたテーブル客の、空になった皿を下げながらわたしはルカに尋ねる。悪い人じゃなさそう。お肉が好きそうだから、いいお店に連れていってくれるかも。ルカも、仲間と出会えるかもよ。
――ミウはタカアキに好意を持っている。声をかけられて嬉しかったんだろう。俺が言えるのはそれだけだ。
ルカが言った。
ルカはわたしよりも先にわたしの感情を知ることができる。言語化した思考以外は見るなと言っているのに。
腹立たしさを隠して、わたしはルカに言う。
もしかしたら、孝明さんの中に**がいるかもしれないよ。なんだか変な感じがしたの。もしかしたらあの人、ルカがいるから声をかけてきたんじゃないの。**は、離れていてもお互いにわかるんでしょう。二回会ったのも偶然じゃないのかも。
――いないね。
ルカはきっぱりと答えた。きっぱりと――こういうときわたしは本当に、胸のあたりにかすかな痛みを感じる。ルカの拒否は鋭くて痛い。
――タカアキの意識は真っ暗でがらんとしている。あんな場所に**はいない。もっとも、ミウみたいに居心地のいい意識はめったにないわけだが。
タカアキ、と発するとき、わたしの体は一瞬熱くなった。不快ではない。ルカはこの感覚をタカアキとすると決めたようだ。
孝明は**の寄生主ではないのか。わたしはがっかりする。孝明はわたしに一目惚れしたようだった。あれだけ強く誘ってくるからには、孝明も**を飼っていて、わたしの中にいるルカと引き合ったのかと思ったのだ。
自分の中に**がいることに気づかない寄生主は多いらしい。むしろ、わたしのように自在に話せるほうが珍しいのだ。**は慎重に寄生主を選ぶ。相手と話さないでいるうちに、**自体が眠ってしまうこともあるらしい。
ルカは仲間を切望している。だからこそわたしを、肉を扱う場所に置かせるのだ。**は栄養を必要としない生物のはずなのに、なぜか肉が好きである。
郷愁ってやつだよ――と、ルカが言ったことがある。ルカは少し寂しそうだった。そのときにわたしの心にも風が吹き、寒くて懐かしくて泣き出しそうになった。
――ミウは、タカアキが寄生主であったらいいと思っている。俺のことを打ち明けて意気投合し、仲良くなりたいんだろう。
ルカは孝明を好きではないようだった。最初のデートの帰り道で、早くもわたしに説教してくる。ルカの意志が苦い。わたしにとっては意外だ。ルカはわたしに関わる人間をジャッジするが、どうでもいい人間なら無関心なはずだからだ。
孝明との最初のデートはカジュアルなフランス料理店だった。ウサギのテリーヌと骨つきラムチョップにわたしは浮かれた。
孝明とわたしは卒業した大学が同じで、肉を食べながらすっかり意気投合した。ついでに高校のときにあるスポーツで上位だったことを話すと孝明は驚き、そんなに優秀だったのに、美宇ちゃんはどうしてウエイトレスのアルバイトをしているの? とためらいがちに聞いてきた。
ルカがいるからだ。ルカの仲間を探すためだ。
話してもいい? とルカに聞くと、ルカは別にかまわないが、これまでと同じことになると思うよと答えた。つまり、信用されない。妙な目で見られ、病院へ行けと言われる。
孝明はそんなことは言わないと思う。もしかしたら孝明の中にも**がいるかもしれない。なんとなく感じる――ルカが**のことをわかるように、もしかしたら寄生主同士でもわかるものがあるのかもしれない。
ルカに言うと、ルカはわたしを否定した。
――違うね。言っただろう。タカアキの中に**はいない。彼の意識は狭くて固いがらんどうだ。**なら誰も中に入りたいとは思うまいよ。何より、俺は目の前の人間に**が住んでいれば、すぐにわかる。たとえひっそりと意識の奥で眠っていたとしてもだ。
ルカはいつもこうだ。わたしの意見など聞こうともしない。それだけがわたしの不満である。
ルカと話しながら、わたしはいつものことを思う。ルカは、どうしてわたしを選んだんだろう――と。そして、いつものようにルカに遮られる。
――ミウの意識が居心地がいいからだよ。何回も言っているだろう。
こういうとき、わたしはルカを強引な男のようだと思う。**には性別も恋愛感情もないはずだが、たまに独占欲のようなものを感じることがある。
ルカは自分の種族――**について話すとき、言語の代わりにむずがゆい感覚を送ってくる。少し痺れて力がみなぎり、満たされたくて欲しくて、焦るような気持ちになる。何かの衝動、食欲に近い。快感といってもいいかもしれない。
ルカに名前がついているのだから、**もわかりやすく言語化してくれと言ったこともあるのだが、ルカは**だけは勝手に変えられないといって名前をつけてくれない。ルカにとって言語でのやりとりは、たくさんある情報交換手段のひとつにすぎないのだ。
ルカが最初にわたしに話しかけてきたとき――わたしはまだ子どもだったが――ルカに、話し方のタイプをいくつか示された。よくわからないまま、このタイプを選んだのはわたしだ。
タイプ2を(実際は数字ではなくて、いくつかの感覚を体験させられたわけだが)選んでいれば、ルカは、ミウの意識は居心地良くて好きなのよ。何回も言っているでしょう? というような口調で喋っていたことだろう。
意識の住み心地がいい、という意味がわからないのだが、ルカによると、わたしの中は、きちんと片付いたホテルの部屋のような感じらしい。
ルカがわたしに移動して、棲みはじめてから二十年。わたしはルカとともに生きている。
「――それってつまり、イマジナリーフレンドってやつ?」
二回目のデートで、孝明にルカについて話してみることにした。
深い意味はない。二回デートをすれば付き合っているということになるのだろうし、孝明ならなんと言うのかと興味があっただけだ。
わたしは仔牛のレバーカツレツ、孝明はビーフシチューを頼んだ。孝明がナイフで肉に切れ目を入れ、わたしは断面を見て胸を高鳴らせる。ブラウンソースが赤身にからまって、孝明の中に消えていく。わたしは肉の断面が大好きである。肉が体内に取り込まれ、消えていくという神秘に心を奪われる。
――視覚的なものを好きだと思う感覚が俺にはわからないのだが。
ルカが不思議そうに言っている。
ルカには美しいという概念がない。仕方がないので、これは美しい、これはそうではないと懇切丁寧に教えている。美しいとは美味しいと似ていると言ったらやっと納得した。孝明は美しいのかと聞かれたので、まあまあだと答えた。
「イマジナリーフレンドとは違うよ。ルカは想像の産物じゃないから」
わたしは言った。
イマジナリーフレンド、イマジナリーコンパニオン。心の中の友達という言葉はこれまでに何回も聞いたし、わたしも調べた。そういうことにしておけば楽だということも知っている。しかし孝明にはルカのことを言ってみたくなった。
「美宇ちゃんは、ときどきひとりで考え込むよね。誰かの声を聞いているように見えるんだけど」
「聞いているよ。違うのは、ルカが実在してるってこと」
レバーカツを食べながらわたしは言った。香ばしいが少し揚げすぎていて、レバーの独特の味わいが消えてしまっているのが不満だ。レバーはルカが好む肉のひとつである。
「ルカは脳の海馬に棲んでいるの。そういう種族なんだよね。人間に寄生して生きてるの。もうずいぶん減ってるけど、それでも数十体はいるはずってルカは言ってた。全世界で」
孝明はかすかに眉をひそめてわたしを見つめている。
わたしはほっとした。ねえ、孝明は否定しなかったでしょう? とルカに話しかけてみる。ルカは返事をしない。勝手に**について話したので、怒っているのかもしれない。
「――ほかにも、ルカと同じ種族を飼っている人間がいるわけだね」
「うん。ある程度の脳があるなら人間じゃなくてもいいけど、人間がいちばん住み心地がいいんだって。寄生主に言語がないと、彼ら自身の意識も消えてしまうから。思考できなくなるというか。わたし以外にもどこかにいるはずなんだけど、なかなか出会えなくて。ルカはずっと仲間を探しているんだよ」
**を言葉で言えないのがもどかしい。わたしは最後のレバーカツを食べ、付け合わせのポテトサラダと人参を食べた。口の中がさっぱりするが、レバーの風味が消えてしまうのが惜しい。孝明はふうん、とつぶやき、最後のビーフシチューを口に運んでいる。
わたしが孝明と二回目のデートをしてみようと思ったのは、ルカの反応が気にかかったのと、孝明が選んだ店がどれも美味しそうだったからだ。ここはビーフシチューが有名な洋食店だ。この店の厨房には、誇らしげにピンク色の生ハムの塊がぶら下がっている。
テーブルにコーヒーが置かれ、食べ終わった皿が下げられる。わたしはやはりポテトサラダより生ハムにすればよかったと思いながらコーヒーにミルクと砂糖を入れた。
「どうやって探すの? つまり――その仲間を飼っている寄生主は、どこにいるんだろう。美宇ちゃんのルカ以外で」
「どこにいるのかはわからないのよ。最初の数十体が世界でバラバラになっちゃったし、寄生する先の運もあるから。確かなのは、彼らはお肉が好きだってこと。だから、わたしはお肉を扱うところにいるの。好きっていうより、必要なんだって」
「何に必要なの?」
「生殖するのに。だから寄生主もお肉が好きになって、そういう場所に集まってくる」
「生殖?」
孝明は一瞬、手を止めた。
かすかに目を細めてコーヒーにミルクを入れる。わたしはうなずいた。
「彼らはとても長生きだけど、いつか死ぬ。それまでになんとかして生殖しなきゃならないの。さもないと絶滅してしまう。特にルカは第一期――ずいぶん長く生きたほうで、その種族の中ではリーダーだから、必死になってるんだよね。生殖するには一体じゃダメで、もう一体の仲間の助けが必要だから。なんとかして、生殖できる一体と出会わないと」
「そこは人間と同じなんだな」
「うん、性別はないけどね」
「ルカって、いつから美宇ちゃんの中にいるの?」
「小学校のときからかな」
「子どものときからの友達、って感じ?」
「だから、友達じゃないんだって」
「友達でもないなら、ルカがいることで美宇ちゃんにどんなメリットがあるの」
孝明が興味を持ってくれたのは嬉しかったが、わたしはうまく言えなかった。**は**なのだ。**のことを思うと体が軽く痺れ、食欲に近い感覚が体を突き動かす。ああ気持ちいい、もっとこれが欲しいとわたしは思う。**を味わい、体の中に入れたい。**はとても美味しい。
「わたしはルカに棲まわせてあげるかわりに、カンニングさせてもらう。カンニングとドーピング。最初から、そういう関係なんだよ」
わたしは言った。こんなことを他人に話すのは初めてである。ルカが止めるかと思ったが、止めなかった。
「カンニングとドーピング?」
「悪い意味じゃないんだけど、言語にすると、それがいちばんあてはまるってことになった。ルカは脳に常駐してるから、試験の最中に何でも教えてくれる。だからわたしは勉強できるの。小学校のときから成績はずっと良かったよ。普段はトロいのに、なんで試験になるとできるんだって言われてた。
あと、運動神経もいい――っていうか、運動能力を高めることができる。その気になればすごい研究もできるだろうし、オリンピックだって出られるけど、能力が高すぎると怪しまれるから、本来の能力を少し上回るまでにしてる。それがわたしにとってのメリットかな。友達っていうより契約関係だよね。ルカには感謝してるよ。おかげで大学行けたし」
わたしは温かいコーヒーを飲みながら、ルカと初めて会ったときを思い出す。
――信じられないかもしれないが、俺は宇宙から来た。
――ミウに会うまで、たくさんの寄生主を経由してきたよ。それはもうひどい人間も、動物もね。移動は今回で最後かもしれない。ミウの意識はとても居心地がいい。思っていた通りだ。ここに、俺を住まわせてくれないか?
ルカと会ったのは、家族で入った焼き肉店だった。
わたしの七歳の誕生日だった。注文の品が半分くらい来たところで、店員がにこにこしながら新しい皿を置いた。お嬢さんのお誕生日なんですよね。とても元気で、たくさん食べてくれて気持ちいいので、店長からのサービスです。
牛肉のユッケだった。わたしはそれを食べた。何かを吸い込むような感じがして、わたしの中にルカが入ってきた。
**は肉を媒介にして移動する。これはあとから知ったことだ。いくつかのやり方があるが、いちばん確実らしい。新鮮な生肉にいったん移り、それを人間が食べることで、彼らは移動する――寄生主を変えることができる。
移動は消耗するし、危険があるから何回もできるものではないが、それでも移りたい、棲みたいと思うほどに、わたしの意識は魅力的だったらしい。きちんと整頓されたホテルの部屋のように。
――ダメだというのなら仕方がない、ほかの人を探して出て行くよ。その場合、ミウに肉を用意してもらうことになる。ほかの人に食べてもらうための、新鮮な生の肉を。
わたしはルカに出て行ってもらいたくなかった。ルカはわたしに、自分が棲むかわりにできることを提示した。カンニングとドーピング。別のこともできるが、失敗したことがあるからやらない。本来の能力を大きく超えさせないというのはルカの主義だ。
わたしは了解し、それ以来、わたしは無敵になった。何があってもルカに相談できるし、ルカの力を借りればなんでもできる。わたしの意識が、ルカが住みたいと思う場所でよかったと思った。
「――僕は、美宇ちゃんは自己評価が低すぎると思うんだよね」
そして、ルカががらんどうだと言った男が、目の前で喋っている。
孝明は伝票を取ると席を立った。わたしが財布を出す前にさっさと精算し、店を出て行く。少しだけ荒っぽくなっているようにも見えた。
「美宇ちゃんは気づいてないけど。そんなやつの力なんて借りなくても、その気になればいろんなことができると思う。正直に言って、飲食店のアルバイトなんてもったいないと思う」
「うん、わたしはなんでもできる。ルカがいるから。でも言ったでしょ、本来の能力からして、高すぎるものを得るのは」
「ルカの話はいいよ。僕が知りたいのは美宇ちゃんのことだ」
孝明はわたしの言葉を遮った。
わたしと孝明はふたりで歩いていた。穴場の店でビーフシチューを食べるために、わざわざ郊外に来たのだ。あたりには誰もいない。
孝明が手をのばし、そっと手をつないでくる。ルカ――ねえルカ、これはどういうこと。わたしはルカに相談するが、返事がないので戸惑った。これまでになかったことだ。この局面で、どうしてルカはわたしに指示してくれないのだ。
「美宇、好きだよ」
孝明がわたしを抱き寄せた。
ああこういうことかとわたしは思う。
粘膜の接触――これをするのは初めてだけど、いつかこういうときが来ると思っていた。
寄生主を変える――移動するには、肉が必要だ。しかしほかにもいくつかの手段はある。
ルカはそうわたしに言った。もうひとつは粘膜の接触をすることだ。食べられることほど確実ではないが、寄生主同士が同調している状態なら、リンパの流れに乗れば相手の中に入ることができる。いつか、ミウに誰かと粘膜の接触を頼むことがあるかもしれない。
孝明はどうしてこのことを知っているのだろう。わたしは不思議に思いながら孝明とキスをする。唇と舌を介して、孝明の中にルカの一部を送り込もうとする。ルカがおののいているのを感じる。きっと、孝明の意識ががらんどうだからだ。口の中がざらりと苦くなる。ルカは驚き、何かがうまくいかなくて焦っている。
――ミウ、やめろ。もういい。
そして突然、わたしはルカに止められる。わたしはびっくりして唇を離す。孝明は戸惑ったようにわたしを見て、少し気まずそうに、ごめんと言った。
ルカ。
わたしはルカに話しかけている。
ルカからの返事はない。孝明との粘膜の接触――キスをしてからというもの、ずっとそうだ。
孝明にルカのことをかなり喋ってしまったので拗ねているのかと思ったが、それにしては妙だ。だったら喋っている間に止めればいいのである。ルカはあのとき、一回も口を挟んでこなかった。わたしがこんな説明でいい? と何回も尋ねていたのにもかかわらずだ。
わたしは『Last Meat』の厨房に立ち、ミンサーで注意深く肉を挽く。
孝明からは連絡が来ていた。先日は楽しかった、いきなり驚かせて悪かったということ、正式に付き合ってほしいということ。以前に焼き肉店で会ったときからわたしが好きで、『Last Meat』で見かけたときはびっくりした、運命だと思ったと書いてあった。
わたしはどう返事をするべきか。孝明と交際してもいいのか。ルカに尋ねているのに答えてくれない。
ルカが教えてくれなければ、わたしは思考できない。わたしの意識は住人のいないからっぽの部屋だ。
ミンサーが大量の挽肉を吐き出していた。わたしは機械を止め、ボウルの中で肉を捏ねはじめる。牛肉百パーセントのレアハンバーグは『Last Meat』 の名物である。
「美宇ちゃん、どうした? なんだか振られたような顔をしているけど」
一心不乱に肉を捏ねていたら、郁美さんが声をかけてきた。
「あ、はい。大丈夫です」
「もしかしたら、中の人のこと?」
わたしははっとして郁美さんを見た。郁美さんはうかがうような、不思議な目をしている。
そういうことだったのか――。
郁美さんの中にも**がいたのか。
郁美さんは三十代の既婚女性である。わたしが前の焼き肉店でアルバイトをしていたときに家族で来て、うちに来ないかと誘ったのが郁美さんだ。
ほかにもアルバイトをしている人はたくさんいたのに、どうしてわたしに声をかけてきたのだろうと思っていた。あなた、新鮮なお肉が好きでしょう? と言われたときにどぎまぎした。この人はひょっとしたら、ルカのことを知っているのではないかと思ったほどだ。
その通りだった。郁美さんは最初からわたしに厨房に入らせ、肉を選ばせた。わたしが――わたしの中のルカが肉が好きで、喜ぶことを知っていたのだ。
――郁美さんの中にも**がいるの?
わたしはルカに尋ねる。――いない。ルカはそっけなく答える。いたのなら、もっと早く会えていればよかった。とはいっても、イクミの中にいた**に生殖能力があったかどうかはわからないが。
そうだとしたらわたしにしても初めての仲間だ。今は郁美さんが寄生主ではないにしても。イマジナリーフレンドという言葉は聞き飽きた。
「――います。郁美さん、なんで知っているんですか」
わたしが言うと、郁美さんはふーっと息を吐き出した。
「わたしにも以前はいた。追い出したけど。最初に会ったときから、美宇ちゃんの中にもいるのかもしれないって思ったんだよね。ときどき話してるでしょ。わたしにはわかるの」
郁美さんはあっさりと答えた。
「奴ら、たまに返事しなくなるよね。こっちが必要なときに限って。奴がいたからこのお店を開けたし、結婚もできて便利だったけど。結婚したら出ていってほしくなったの。今になると、なんであんなに奴のいうことを聞いてたんだろうって思う」
郁美さんは**を、奴ら、奴、という言い方をするらしい。
「出ていってほしくなったんですか」
わたしは尋ねた。
**に出ていってほしいというのは不思議だった。わたしは二十年間、ルカとともに生きてきた。いない世界が想像つかない。ルカがいなければわたしは誰に相談し、誰がわたしの思考や行動を決めてくれるというのだ。
郁美さんは大きなコンベクションオーブンをのぞき込んでいる。火を止め、大きな鍋つかみをつけて、ローストビーフを引っ張り出す。
「そう。奴も、わたしが言うことを聞かなくなったことに気づいていたんだろうね。だったら次の人に移動させてくれっていうから、いちばん良さそうなお客さんに譲った。こうやって、肉の皿を出して、サービスですって言って。せいせいしたよね」
「どうしてですか? いたほうが楽だと思うけど。いろいろ教えてくれるし、なんでもできるようになるし」
「妊娠したから」
郁美さんは言った。ローストビーフを出し、端だけを肉切りナイフで切る。外はこんがりと焼けているが、中はほんのりと火が通っている。今はお客さんはいない。これは冷まして、サラダにして出すべく冷蔵庫に入れる。
「奴は、肉と粘膜を介して移動するでしょ。出産するときに、わたしから子どもに移動するかもしれないと思ったら怖くなった。子どもの意識は居心地がいいらしいの。きっと余計なことを考えないからね。奴が移動したお客さんも子どもだった。奴が移った肉をローストビーフにして出したんだけど。あの子が食べてくれて、ほっとしたわ」
「それから、その――奴はどうなったんですか」
「知らない。どこかへ行ったわ。今でもあの子の中で生きてるんじゃないかな。わたしは奴らが増えようが消えようがどうでもいいんだけど。
奴って、お肉のよしあしを見抜く目だけはあるんだよね。いなくなったら店がうまくいくか不安だったけど、美宇ちゃんが来てくれて助かったわ。でも、追い出したくなったのなら協力するから」
わたしのときはユッケだった。わたしは誕生日のお祝いで、家族で焼き肉店に行った。あのときの店長が、これをお嬢さんにと言って、わたしの前にサービスの皿を置いたのだ。
そういえばわたしにも家族がいたのだ、と思い出した。
あの店はどこにあったのだろうか。わたしの家族は今、今どこにいるのか?
思い出そうとしたが出てこない。
――ミウ
ハンバーグを捏ねながら、珍しく真剣に考えていたら、ルカから言葉がかかった。
なんなのよ、とわたしは言う。肝心なときに相談に乗ってくれなかったくせに。考えているところなんだから、邪魔しないで。
――ずっと考えていたんだ。決断するのに時間がかかった。
――タカアキに会ってほしい。俺はタカアキに移動する。
ルカは言った。
わたしは手を止める。どうして? と尋ねたが、返事を聞く前にお客さんが店に入ってきて、聞き損ねてしまった。
――タカアキの中には、繁殖能力のある**が眠っている。
――タカアキは、そのことに気づいていない。
「――だからさ、ルカっていうのは、美宇ちゃんのイマジナリーフレンドなんだよ」
孝明が言っている。
最後の料理は仔牛のコンフィにすることにした。郁美さんから新鮮な仔牛のハラミ肉を分けてもらい、わたしは自分の部屋、マンションの一室で料理をしている。
本当は生肉がいいのだが、家で出すにはユッケだのタルタルステーキだのは向いていない。
肉は昨日のうちに筋を切り、塩を振ってオリーブオイルに漬けこんであった。わたしはタッパーから肉を取り出し、注意深くカットする。新しいオリーブオイルとともにオーブンに入れ、赤みが消えないようにゆっくりと温める。
「その言葉は知ってる。昔からみんなに言われてきたし、自分でも考えたよ」
「でも、やっぱり宇宙人なんだ。そこは譲れないの」
「半分くらい、そうなのかなと思ったこともあったけど」
――その話はやめとけ、ミウ。刺激しないほうがいい。
――俺が入ったらすぐにわかることだ。
ルカが言った。郁美さん――『Last Meat』のオーナーも少し前まで寄生主だったんだよ、と言おうとしたのに。
孝明はわたしのマンションに入ったときから饒舌だった。部屋がホテルのように片付いていると喜び、キッチンに大きなオーブンレンジがあることに驚いていた。今はテーブルの前で、どこか有名な店で買ってきたらしいバゲットを切り、鴨肉のサラダを並べている。わたしがオーブンを開けて肉を取り出すと、目を輝かせた。
可愛い人だなとわたしは思う。食いしん坊だが卑しくない。最初から印象は悪くなかった。ルカがいなかったら、わたしは彼を好きになったかもしれない。
「シーザーサラダのほうがよかったかな。デパ地下を回ったけど、鴨肉がいちばん美味しそうだったから」
孝明は言った。これだけ肉が好きなのは、孝明が寄生主だからなのか。孝明の中の**は、なぜ孝明と話そうとしなかったのだろう。ルカの言う通り、孝明の意識の棲み心地が悪いからか。それとも、孝明の**が生殖可能であることと関係があるのか。
――それは関係がある。生殖可能な**は若い。意識が強い人間とは共存できない。話しているうちに負けてしまうことがある。だから思考せずに意識の底で眠っている。俺が気づかないほどに深く。
――俺は、タカアキの中に入り、**を起こし、生殖しなければならない。
負けるとどうなるの、と聞いたが、ルカは答えてくれなかった。
わたしが知っているのは、ルカがこれから孝明の中に入るということ。孝明の中にいる**と触れあって、生殖するということだ。**が生殖に成功したら、**はこれから繁殖していくことになる。
孝明の中の**は眠っているので、粘膜の接触では移動できない。ルカが入った肉を孝明に食べさせるしかない。
わたしにはわからなかった。実際のところ、このあたりは何を聞いてもぼんやりとしてしまうのだ。
「あとは焼くだけだから、向こうで休んでいて」
「僕も手伝うよ」
「ダメ。最後の仕上げはひとりでやりたいの」
わたしは言った。
孝明がキッチンからいなくなると、わたしはフライパンに火をかけた。オリーブオイルを温め、オーブンから出したばかりの肉を注意深くフライパンで焼く。表面に焼き色をつけたら、色が変わらないうちに皿に並べ、かたわらに緑色のパセリを置く。赤ワインとビネガーで作ったソースをゆっくりと回しかけると、できあがりだ。
できあがったコンフィの皿は美味しそうだった。これを美しいということはわかる? とルカに話しかけてみる。――わかるよ。ルカは答える。だから早くしてくれ。
ルカはじんわりと甘い快感を送ってくる。ありがとう――と言っているようにも感じる。今は移動に向けて集中していて、意志を言語化するために力を使いたくないのだろう。
わたしにできるのは、ルカを孝明に移動させることだけだ。
わたしはパセリを切ったペティナイフを取り出し、わたしの左手の指に傷をつける。人差し指だと痛そうなので、薬指にした。ぷつ、とナイフの尖った部分が指の腹を裂くと、赤い球のような血液がみるみるうちに大きくなる。
――早くしろ、ミウ。
ルカが急かした。
わたしは左手の薬指を、コンフィのいちばん大きな肉に押しつけた。
わたしの血液が、肉に染み渡っていく。ルカがわたしの頭から左腕、左手の薬指に移り、それから肉に移動していく。
これがいちばん確かなやり方だと郁美さんは言った。ほかにもやり方はあると思うけど――もっと濃厚な粘膜の接触とか。妊娠したあとで胎児に移動するとかね――肉に移動させて、それを食べるのがいちばん確実に、相手の体内に入れる。あなたから肉へ。肉から移動先の相手へ、奴は移っていくの。
ルカの感覚がなくなったとき、わたしの体はふわりと浮かぶような感覚に包まれた。さよなら、とルカが言った。貧血を起こして倒れそうになる寸前、眠りに落ちる数秒前の感覚に似ている。
そしてすぐに、たたきつけられるような痛みがわたしを引き裂く。わたしは自分の重みに驚き、驚いて指を離す。
――ルカ。
わたしはそろそろと、ルカに話しかけた。
ルカは答えなかった。いない。わたしの中のどこにも、ルカの存在はなかった。
わたしは呆然と目を見開き、目の前の肉の皿を見つめた。
* *
わたしの前に肉がある。
世界が入った肉だ。
わたしは自分の部屋のキッチンに立ち尽くし、作りたての肉料理の皿を見つめている。仔牛のハラミ肉のコンフィ。ワインソースがけ、パセリ添え。最後の仕上げはもう済ませた。
この小さな肉の中に、ルカが入っている。
ルカ――謎の宇宙生物。意識に棲まう生命体。わたしに寄生していた契約相手で、二十年も一緒だった大事な話し相手が、一皿の肉料理になって、テーブルに載っている。
この肉を捨てたらどうなるのだろうと考えた。ルカは死ぬ。死んだ肉の中に入って生きていられる時間はわずかだ。だから移動はとても危険なことなのだ。
奴らと郁美さんは言った。ほかにもあらわす何かがあったと思うのだが、思い出せない。やけに美味しかった、かみしめるほど味の出る何かだったような気がするだけだ。
奴らは、なんのために人間に寄生しているのだろう?
体が重かった。指一本を動かすのがおっくうである。考えないほうが楽なような気がする――しかし、考えなければならないと思う。意識の底で遮っていたものが取り払われたようだ。
わたしの家族、両親と姉、おばあちゃん――最後に会ったのは大学の卒業式だった。友達もいた。ルカのことを信じてくれた人もいたし、好きな人も、嫌いな人もいた。
なぜわたしはこれまで忘れていたのか。会いたいと思わなかったのか。
ルカは本当に存在したのだろうか。ひょっとしたら彼はわたしの想像の産物で、すべてはわたしの思い込みだったのではないか?
「美宇ちゃん、できた?」
わたしが皿を見つめていると、うしろから声がかかった。
「あ――うん」
「あれ。手、切った?」
「うん。大丈夫、ちょっとだけだから」
「珍しいね。美宇ちゃんはなんでも手際がいいから、怪我とかないんだって思ってた」
孝明が皿をとりあげ、テーブルに持って行く。ルカが入った側の皿を自分の側へ置く。
テーブルの準備は完全に整っていた。鴨肉のサラダ、ワイン、バゲット、パンプキンのポタージュ。孝明は乾杯といってワインに口をつけ、ナイフとフォークを手にする。
「――あ、待って」
彼がコンフィに手をつける寸前に、わたしは言った。
「何か?」
わたしは口ごもった。
「――ううん、なんでもないの」
「よかった。また、ルカが止めたのかと思っちゃったよ。僕はルカに好かれてないみたいだからなあ」
孝明は朗らかに笑った。優雅に肉をフォークに刺し、食べる。肉が体内に入っていき、孝明の一部になる。
わたしもワインを飲み、肉を食べた。手をかけて作ったコンフィはとても美味しかったが、数枚食べたら十分である。もともとわたしはそんなに食べるほうではなかったのだ。
七歳のときにあの焼き肉店に行ったのは、小食だったわたしになんとか肉を食べさせようという優しい両親の配慮だった。わたしの家族は今どこにいるのだ。会いたい。
そして、孝明がことりとナイフとフォークを置く。かすかに目をすがめ、不思議そうな顔になる。
「生まれた」
と、孝明は言った。
「――生まれたの」
「ああ。ミウのおかげだ」
目の前にいるのは孝明――いや、ルカだった。
孝明の肉体がすばやく立ち上がり、わたしを抱き寄せてキスをする。粘膜が濃厚に接触し、絡み合う。オリーブオイルとワインの香り、慣れ親しんだ快感――肉の味とともに、**がわたしの中に入ってくる。
――よろしくね、ミウ。
新しい**が言った。
ルカの子である。ルカの子が、孝明の中で繁殖し、わたしに戻ってきた。
そしてわたしも新しく生まれる。慣れ親しんだ体の軽さ。わたしの意志と行動は、すべてこの子が決めてくれる。
わたしは安心した。わたしはこれから繁殖する。この子とともに、世界を食べてやろうと決めた。
【おわり】
◆初出:WebマガジンCobalt 2022年7月8日更新