おいしい囚人飯 (著:椹野道流)
ディストピア飯小説賞によせて 特別書き下ろし短編/時をかける眼鏡 番外編
その日、西條遊馬は、この世界に来て初めてのタイプの困惑を味わっていた。
テーブルについた彼の目の前に座しているのは、彼が今いる小さな島国、マーキス王国のツートップ、国王ロデリックと、その弟である宰相フランシスである。
昨夜、フランシスから届けられた書簡には、「宰相私室にて午餐会。是非とも来られたし」とだけ書いてあった。
やや緊張しながら、慎ましい一張羅に身を包んで登城したところが、今のところ、招待客はまさかの遊馬ただひとりである。食器は四人分セットされているが、もうひとりのゲストが登場する気配はない。
これまで、ロデリックとフランシスには数え切れないほど面会してきたが、彼らと三人きりの食事会はさすがに初めての経験である。
自分が、「ちょっと世界を超えてきただけの一般人」であることを改めて自覚すると、これは完全なる異常事態だ。
もはや緊張どころの騒ぎではない。
しかも、三人がいる部屋に料理を運んできたのは、メイドでも料理人でもなく、国王補佐官兼鷹匠、そして遊馬の身元引受人にして師匠、ついでに同居人のクリストファー・フォークナーだった。
(道理で、心配性のクリスさんなのに、今日の午餐会については何も言ってくれなかったはずだよ……!)
「クリスさん、どうして?」
唖然とする遊馬を「もう少し黙っていろ」とギョロ目で制して、クリストファーはテーブルの中央に、でんと大きな椀を一つ置いた。そして、その横に、見るからに固そうな大きくて長いパンを一本添えた。
「本日、実際に連中に提供されるものをお持ち致しました」
遊馬は、座ったまま鳥のように首を伸ばし、椀の中を覗いてみた。
そこには、とても王族が食べる料理には見えない、いわゆる「ごった煮」らしきものが入っていた。
パンも、雑穀が大量に入っていることがわかる、茶色くてブツブツした焼き上がりである。
(これが、午餐? ここの王族の人たち、確かに日頃の食卓は質素みたいだけど、これはいくら何でも。しかも、何だかこれ……)
遊馬は漂ってきた料理の臭いに、思わずウッと息を止めてしまった。
向かいにいるロデリックは平然としているが、フランシスはシャツの袖で鼻を覆い、酷い顰めっ面をしている。
皿を運んできたクリストファーも、僅かに顔を歪めながら、それぞれの前にある小さな椀に、無骨な手つきで料理を取り分け始めた。
ロデリックとフランシスに次いで、遊馬の椀にも料理が盛りつけられ、クリストファーが手で無造作に割ったパンがその脇に置かれる。
どうやら今日の「午餐会」は、この四人きりで催され、給仕担当の使用人たちはこの場に立ち入りを許されていないようだ。
(何がどうなってるんだろう。っていうか、何、この臭い)
一同の顔から料理に視線を移した遊馬もまた、微妙な顔つきになった。
明らかに、椀になみなみと盛りつけられた料理が異臭の源である。
遺伝子に刻みつけられた原始の危機感が目覚めるほどの、不快で不安な臭いだ。
ただ、幸か不幸か、元の世界で司法解剖に何度も立ち会わせてもらった経験がある遊馬は、生物学的な悪臭には妙に強い。
最初こそ驚いたが、徐々に慣れて、目の前の料理を冷静に観察し始めた。
シチューのような煮込み料理であることは間違いない。
具材のほとんどは、見たところ赤っぽい豆と白っぽい豆で、あとは少しだけ肉片が交じっている状態である。
どうやらそのわずかばかりの肉片が、異臭を……有り体に言えば、排泄物のような臭いを放っているようだ。
「うーん、これ、腎臓を角切りにしてありますね。あとは肺と小腸かな。腸の太さから見て、豚の内臓でしょうか」
遊馬の発言に、ロデリックは面白そうに数回、軽く拍手してみせた。
「さすが、医学を修めた者、鋭い見立てだ。この細切れの肉片から、そこまでの情報を読み取るとはな。此度は、この料理をまず試食したいと思うておる。クリス、毒味は済んでおるな?」
配膳を終え、遊馬の隣の席に着いたクリストファーは、苦々しい顔つきで頷いた。
「はい。いつもの毒味役が、ぬかりなく」
「何と申しておった?」
「……陛下にお出ししてよいようなものではないと」
「有り体に申せ」
「飲み込むのにやや苦労した、と申しておりました」
「そうか。それは興味深い見解だな」
クリストファーの率直な返答に、ロデリックはむしろワクワクした様子で両手を擦り合わせた。
一方のフランシスは、顰めっ面のままで兄を窘める。
「陛下、やはり試食は我々だけで。一国の王が、このようなものを食して体調を崩されることがあっては……」
だがロデリックは、いつもの陰鬱な面持ちはどこへやら、どこか子供じみた笑顔で言い返した。
「何を申すか。いかなる立場の者であれ、我が国の民に違いはない。民が口にするものをわたしが口にできぬ法はなかろう」
「されど」
「よいのだ。アスマ、今日、そなたに来てもろうたのは他でもない。くだんの計画……何と申したか、そなたの世界の言葉で言うところの」
遊馬はピンと来て、軽く身を乗り出した。
「もしかして、『地下牢で囚人体験ツアー』のことですか?」
「それよ。既に周辺の国々に噂が広まり、評判になっておるのだ。『いつから始めるのか』『いかばかりかかるのか』と、問い合わせも多く寄せられておるらしい」
ロデリックは珍しく、喜びの感情を隠すことなくそう言った。
嵐によって甚大な被害を受けたこの小さな島国を建て直すためには、莫大な財力が必要となる。
そのための低コストな方策として、遊馬は、「城の地下牢に観光客を入れ、リアルな囚人体験を楽しんでもらう」というあまりにも奇抜な観光プランを提案した。
てっきりセキュリティ上の理由で却下されるとばかり思っていた遊馬だが、「囚人体験なのだから、参加者全員を鎖に繋いでおけば、保安上も問題はなかろう」というフランシスのアイデアが加わり、この斬新なアトラクションが実現されることとなったのである。
「無論、地下牢とはいえ城内に人を入れるのだ。警備には、念には念を入れねばならぬ。されど一方で、体験した者たちからよき評判が広まるよう、そなたがよく申す『楽しませる』こともまた肝要と思うてな」
ロデリックの言葉に、遊馬は深く頷く。
「はい。地下牢での囚人体験は結構なホラー……ああ、ええと、恐怖でしょうけど、それだけだと『酷い目に遭った』という感想しか出ないですもんね。何か目新しくて、面白くて、楽しい経験も必要……あっ」
遊馬の視線は、湯気と共に悪臭を漂わせ続ける料理に落とされる。
「もしかして、地下牢で参加者に食事を提供しようと思ってらっしゃいます?」
ロデリックは我が意を得たりと頷く。
「左様。囚人体験というなら、やはり囚人として食事を味わうことも必要であろうと思うてな、実際に、今日、囚人どもに出されるのと同じ料理を運ばせた。これより、皆で試食しようと思う」
「なるほど!」
ようやく事情が呑み込めた遊馬は、再度、しげしげと煮込み料理を見た。
「僕も、この世界に来るなり投獄されたんで、何回か食べましたよ、監獄めし。ここまで酷い臭いの奴はでなかったのでよかったですけど、カチカチの魚の干物とか、カチカチの干し肉とか、カチカチのパンとか……」
「歯はすり減ろうが、顎は鍛えられような」
大真面目な顔で応じるフランシスが可笑しくて、遊馬は苦笑いで同意する。
「そうですね。温かいものが食べたいなって思ってたから、こういう煮込み自体は嬉しいでしょうけど……」
するとクリストファーが、苦々しげな顔つきで口を挟んだ。
「温かいものなど、出るものか。囚人たちに配る頃には、氷のように冷えているぞ」
「あ、そうか。これで冷えてたら、百倍つらそう。……とにかく、現物を食べてみろってことですね? 食欲は湧きませんけど」
クリストファーは、他の二人にも聞こえるよう、低いがハッキリした声で告げた。
「俺とアスマは食いますが、お二方は、決してご無理をなさらず」
するとロデリックは、涼しげに微笑んでスプーンを手にした。
「なんの、わたしも一度は投獄された身、元囚人としては、懐かしき味であろう」
懐かしき味、というのは、ロデリック流の冗談である。
父王殺しの濡れ衣を着せられ、しばらく地下牢暮らしを余儀なくされていた彼だが、お気に入りの書物や酒、食料はクリストファーがせっせと差し入れしており、それなりに優雅に過ごしていたことを、隣の牢に入れられた遊馬はよく知っている。
だが当時、ロデリックが囚われの身となる原因を作った当の本人であるフランシスは、ぐう、と変な呻き声を漏らした。
「あ……兄上がそう仰るのであれば、このフランシスもあの件の責任を取り、この一椀、すべて平らげましょうや。あの頃の兄上のお苦しみのほんの一端であろうとも、この身で味わわねば」
兄を陛下と呼ぶことすら忘れて、フランシスは必死の形相でスプーンを椀に差し入れた。
遊馬は慌てて制止しようとする。
「もう責任は十分取ったじゃないですか。無理しないでください。確かに試食は必要なので……全員で、ちょっとだけ。ほんの一口だけいただきましょうよ。試食っていうか、味見の感じで」
一度は意気込んだフランシスも、遊馬の助け船にあからさまにホッとした顔をする。
「む、そうか? そう……だな。アスマがどうしてもと言うなら」
「どうしても、です! 僕たちはともかく、お二人がお腹を壊したら、たちまち国が傾きますからね。アトラクションどころじゃなくなります」
「それもそうだな。……されば」
「ほんの少し、食すことと致しましょう」
兄弟は仲良く、鷹匠師弟はおそるおそる、それぞれスプーンで煮込みを掬い取った。そして、ほぼ同時に口に入れる。
「!?」
四人の目がカッと見開かれたのも、慌てて水の入ったゴブレットに手が伸びたのも、ほぼ同時だった。
ごくごくと水を飲んでから、最初に口を開いたのは、遊馬だった。
「これは……豆の味が物凄く濃いのと、おそらく内臓の最初の洗浄が不十分なせいで、臭みがめちゃくちゃ出てて……。あとなんか、キャベツ的な癖のある野菜の臭いも加わって、あってはならないハーモニーになっちゃってますよ。モツも小さいのに固くて、いつまでも飲み込めなそう。囚人に、こんなまずいものを?」
「実に正確な評価だな、アスマ。隅から隅まで同感だ。固すぎる肉は、水で流し込んでしまったが、まだ口の中に臭みが残っておるわ」
常に冷静沈着、ポーカーフェイスのロデリックも、さすがに口元を歪め、また水を飲んだ。
フランシスは、長衣の隠しポケットから小さくて美しい螺鈿細工の小箱を取り出し、中に入っていた砂糖菓子を、口直しに全員に配りながらぼやいた。
「罪を犯した者どもを、美食でもてなすわけにはゆくまい。されどこれは、あまりに酷いな。食は心身を養うもの、かようなものを食しておっては、償いの心も育まれるまい。如何お考えですか、兄上……いや、失礼仕りました、陛下」
砂糖菓子の甘さで冷静さを取り戻し、ようやく職務を思い出した弟を面白そうに見やり、ロデリックは自分も甘い菓子を無造作に口に放り込んで答えた。
「よう言うた。そなたの申すとおりだ。罪人どもに罰を与える必要はあろうが、わざとかような飯を与え、体力気力を削ぐ必要はあるまい。罪人どもは、民の税で養われる身の上である。贅沢は厳に排さねばならぬが、民のために粉骨砕身して働くことで罪を償えるよう、今少し健やかな食事に改善されるように計らえ、クリス」
「かしこまりました。早急に」
クリストファーは恭しく主君に返事をして、四人の前から恐ろしい煮込み料理をサッと回収した。
食器をトレイに集め、テーブルの上の呼び鈴を鳴らすと、ようやく使用人たちが入ってきた。彼らは、ごく控えめに驚きつつ悪臭を放つ料理を持ち去り、テーブルの上に改めて料理を並べ始める。
どうやら、この恐ろしい試食会は、「午餐会」の前菜だったらしい。
四人の前には、頭を取った魚のローストと、茹でた芋や青菜が載った皿が置かれた。
魚の腹には、内臓を除いたあとに香草がたっぷり詰め込まれていて、その爽やかな香りが、室内に澱む臓物の臭いを追い払ってくれる。
味付けは塩だけだが、新鮮な白身魚は、それだけで十分に旨い。パンの代わりに添えられたふかし芋も、魚にかけられたオイルをつけて食べると、お洒落な味と言えないこともない。
今度こそ、質素だが申し分ない食事を楽しみながら、フランシスはこう切り出した。
「試食しておいてよかった。さすがにあれを、囚人体験の客たちに出すわけにはゆかぬな」
遊馬も、それにはハッキリと同意した。
「あれは……さすがに大事なお客さんがお腹を壊してしまいますね。わざわざ囚人体験を楽しみたいお客さんは、皆さんセレブ……あ、いや、そこそこ上流階級やお金持ちの方たちでしょうし。もしかしたら、多少まずいものを食べてみたい、みたいな気持ちはあるかもですけど、さっきのは行き過ぎですよ」
ロデリックとフランシスは揃って頷く。しかしクリストファーは、控えめに異議を唱えた。
「ですが、客人たちを囚人として遇する以上、贅沢な食事でもてなしてしまっては、むしろ興を削ぐことになりますまいか」
それには、フランシスがすぐに反論した。
「かといって、今我々が食しておるような、何の変哲もない質素な料理では、何の面白みもあるまい」
「むむ、確かに。粗末すぎても贅沢でも、はたまた普通でも、囚人体験の客人にはふさわしくない……ということになりますな」
「そなたの申すとおりだ、フォークナー。これはいささか悩ましい問題であるな」
「まことに」
クリストファーとフランシスは、困り顔を見合わせる。
しかし、ロデリックは平然として、視線を遊馬に据えた。
「ゆえにそなたを呼んだのだ、アスマ」
手でむしった魚をちぎったパンに挟み、即席のサンドイッチをうまうまと頬張っていた遊馬は、ビックリして目を白黒させた。
「はひ?」
思わず、口の中がまだいっぱいのまま返事をして、油で汚れた手で自分を指さす。
そんな無礼はいっさい咎めず、ロデリックは陰鬱な顔を楽しげにほころばせ、頷いた。
「さよう。かつて重要な宴席の献立を見事に考案し、贅沢には慣れきっておるはずの客人たちの舌を満足させたそなただ。此度も、囚人体験を欲する物好きな連中を多いに喜ばせる料理を考えつくに違いないと思うてな」
「ちょ……ちょっと待ってください」
クリストファーが差し出してくれたゴブレットを受け取ってワインの水割りを飲み、口の中のものを喉へ押し流した遊馬は、慌ててロデリックに言い返した。
「確かにこの世界に来てからは、何でも屋さんみたいになってはいますけど、僕、本来はしがない医学生ですからね! 医学についてはそこそこの知識がありますけど、その他はむしろ世間知らずっていうか、この世界の人たちに比べたら、生き抜くスキルも低いし」
「そなたの無知・不器用自慢を聞く気はないぞ、アスマ。実際に、そなたはこの世界で堂々と生き抜いておるし、わたしの命を救ってくれさえしたではないか。わたしが今、こうして王座にいられるのは、そなたの鋭い見立てで、父王の死因を明らかにしてくれたからこそであるぞ」
ロデリックは、遊馬が張ろうとした予防線を、いとも容易く断ち切り、涼やかに笑う。
「それとこれとは……」
「別、でもあるまい。こことはまったく違う世界を生きてきたそなたであればこそ、此度の、地下牢を罪人でもない者どもに楽しませるなどという斬新な思いつきができたに違いない。なれば、食についても、我等が目を剥くような献立を考えつくことが……」
「無理、絶対無理です。僕、食には本来、かなりコンサバなんですよ」
「こん……さば?」
耳慣れない言葉に首を傾げるロデリックに「すみません、保守的って意味です」と律儀に説明して詫びつつ、遊馬は助けを求めるように師匠のクリストファーを見た。
「元の世界でも食通にはほど遠かったですし、あんまり流行の食べ物に飛びつくこともしなかったし……」
「されど、そなたの思いつきは、常に我等を驚かせ、面白がらせ、ときに困惑させる。そして結果として、我等の目を大きく開かせ、前へ進ませてくれるのだ、アスマ。此度も、その喜びをわたしに味わわせてはくれぬか」
このとおりだ、と、ロデリックはほんの一センチほど、顎を引いてみせる。
国王のその仕草は、一般人における「何卒、何卒よろしくお願い致します」レベルであることは、もはや遊馬もよく理解している。
実際、「王たる兄上に頭まで下げさせて断ろうものなら、即、殺す」くらいの視線が、宰相であり、今は兄大好き弟でもあるフランシスのいるほうからぐさぐさ突き刺さるのを感じる。
(この世界の人たちは、「議論の際は、相手を追い詰めてはいけません」って教わってないんだな!)
昔、親に注意されたことなどを唐突に思い出しつつ、遊馬は実に曖昧に、首をやや斜め気味の縦に振った。
「わ……かりました。あんまり期待されると困りますけど、考えてはみます」
「おお、それでこそアスマだ。楽しみにしておるぞ」
ロデリックは満足げにそう言い、フランシスも、たちまち輝くような笑顔になる。
「そなたなら、囚人に与えるにふさわしい見てくれ、されど口に入れれば、富裕層の客人が食すにふさわしい食事を考えつくに相違ない」
ロデリックは、やや人の悪い笑みを浮かべてそう言った。遊馬は、盛大に迷惑そうな膨れっ面をする。
「それ、ご自分で言っても、ハードル高いなって思いませんか? もう、僕を試しすぎですよ、皆さん」
しかし、いつも遊馬の味方になってくれるクリストファーですら、「とにかく引き受けろ」と言わんばかりの目配せをしてくるので、遊馬に逃げ場はない。
「はあ、もう。僕は素人ですって言いましたからね? 頑張りますけど、本当に期待し過ぎないでくださいよ?」
あまり意味のない念押しをして、遊馬は急に味がしなくなった、美味しいはずの魚をヤケクソの勢いで頬張ったのだった。
その日から、日頃の細々した仕事を終えた夜の自由時間に、遊馬の「見た目囚人用、味は客人用」メニューの開発が始まった。
まさに、「言うは易く行うは難し」である。
医学生である遊馬は、「味」というのは、味覚だけでなく、嗅覚も合わせて脳が評価するものであると知っている。
さらに、「美味しそう」と視覚が添える情報も、味を引き立てるための重要な要素だ。
その視覚情報をわざわざ「まずそう」にして期待値を下げ、しかし味覚と嗅覚では「美味しい」と感じさせなくてはいけない。
「これが、日本のグルメ料理番組で、豪華な食材を取っ替え引っ替えできるなら、まだ僕にだって、どうにかなるかもしれないけど」
遊馬は何十回目かのぼやきを口にして、溜め息をついた。
この十日ほど、毎夜、クリストファーの助力を受けつつ、彼はアイデア出しと試作を繰り返してきた。
フランシスからは料理番を通じ、あれこれと使用可能な食材が届けられる。
現代日本のように、ハウス栽培の恩恵を受け、どんな野菜でも通年手に入るというわけではない。
夏が過ぎると、どうしても限られた葉物野菜と、保存性の高い根菜、あとは干した野菜や茸が中心になってくる。
主菜用の肉や魚にも、制限がある。
小さな島国ゆえ、家畜の数はどうしても限られる。安定した品質の肉類を、長期にわたり客人に供給するのは難しい。比較的自由に使えるのは鶏卵くらいのものだ。
島の近海で獲れる魚介を主菜に用いるように、しかも、種類が多少変わっても対応できる献立にするように……というのが、フランシスから追加で下った命令である。
「ほんと、好き放題言ってくれちゃって!」
「まあ、そう言うな」
今日も、干し茸を湯で戻しながら、思わず悪態をついてしまった遊馬を、クリストファーは困り顔で宥める。
「だって……! 条件が厳しすぎるんですよ。フランシスさんは自分で料理しないからわからないけど、料理番さんからは、そっと、『お客さんたちの分を、まとめて料理できる献立じゃないと駄目だよ。あと、前もって作っておけるようにしといておくれ。お出しする前に温めたり焼き上げたりすりゃいいだけってのがいね』って、追加の条件が来てるし」
「それは道理だしな」
「ですよね。厨房のスタッフの人数は限られてるわけだから、仕込みは前もってやっときたいですもんね」
冷静なクリストファーと話すうち、遊馬の眉間の皺も薄くなっていく。クリストファーは、慰めるようにこう言った。
「試作のおかげで、ここしばらく、俺たちの夕飯は豪華だ。それだけでもありがたいと思わねばな」
「それは確かに。だけど、まずそうに見える美味しいものって、ほんとに難しいです」
「む……」
クリストファーも困り顔で、遊馬の隣に立ち、腕組みをした。
簡易で狭い台所に二人並ぶと、いくら遊馬が小柄でも、文字どおりのギチギチである。
調理台を照らすのが、魚油の灯りひとつというのが、また悲壮感に追い打ちを掛ける。
「そうだな。これまでお前が作ってきた料理は、どれも旨そうに見えてしまっていたからな。とても囚人が食うものには見えん」
「ですよねえ。お魚も貝も新鮮だから、焼いても煮ても普通に美味しそうなんですよ。はあ、どうしたらいいかなあ」
遊馬はまた嘆息した。
クリストファーはしばらく考え込み、そして重い口を開いた。
「俺は料理はからっきしだから、ろくな助言はできんが……。いっそ、お前が元の世界で食っていた料理というのはどうだ? 俺たちは食いつけていないから、旨そうに感じないかもしれんぞ」
遊馬は、眼鏡の奥のつぶらな目を瞠った。
「あ、なるほど! でも……僕が元の世界で食べていたもので、まずそうに見えて美味しそうなもの……? うーん、思い当たらないなあ。ごくありふれたものを食べてたから……ん?」
急に上擦った声を出した遊馬に、クリストファーは期待の眼差しを向ける。
「何か思いついたか?」
「いえ、思いついたっていうか、思い出したっていうか。いっぺんだけ、もうドクターになった大学の先輩に、凄く豪華な食事に連れていてもらったことがあるんです」
「豪華……羊を丸ごと開きにして焼いたようなものか?」
「そっち方向じゃなくて」
いかにもこの世界の人間らしいクリストファーの言葉に、遊馬はクスッと笑って答えた。
「再構築っていうんですかね。そういうジャンルの料理らしいんですけど」
「さい、こう、ちく」
「再び組み立てる、って感じの意味です」
「どういうことだ?」
「豪華な料理って、色んな食材を合わせるじゃないですか」
「うむ」
「それを、いったん個々の素材に分けて、それぞれ違うやり方で料理して、また集合させる……。そうすると、同じ材料、同じメニューでも、全然違う感じの食べ物になる。そんな感じかな」
「……わからんな」
クリストファーは、盛んに首を捻る。
「たとえば、冬の間によく作る、芋と葱と塩漬け豚のスープがあるじゃないですか。水に、材料を全部放り込んでことこと煮るだけの」
「うむ」
「あれを、芋は暖炉の灰の中で丸ごと蒸し焼きにする。葱はくず野菜のスープの中で柔らかく煮る。塩漬け豚は薄切りにして炙る」
「面倒だな」
「まあまあ。そうしておいて、食べるときにすべてを合体させると……どうです? とろとろの葱、ほっくりのお芋、カリカリの塩漬け豚が合わさって、全部一緒に煮込むより美味しそうでしょ? 食感も面白いだろうし。再構築のよさって、たぶんそういうことだと思うんです」
暗がりの中で、腕組みをしたまま暫く天井を見上げていたクリストファーは、遊馬に視線を戻すと「旨そうだな!」と短く、しかし力強く同意した。
「でしょ!」
「いや待て。しかし、想像するだに旨そうだぞ。それではいかんだろう」
クリストファーの指摘に、遊馬はガックリ肩を落とす。
「あああ……そうか。駄目だ。うーん、再構築なら、それぞれの要素を前もって仕込んでおけるから、大量に調理するときの方法としては素敵だと思ったんだけど……。一見、まずそうにしなきゃいけないんでしたね。あ、ちょっと待ってください。ここにあるもので試してみようかな」
「む? 試すなら、手伝うぞ。何をすればいい?」
何かを思いついたらしき遊馬を、クリストファーは嬉しそうに見やる。
「そうですね、料理を盛りつけるものを……できたらお皿がいいんですけど。大きめの、ちょっと深さのある」
現代日本でよく見るカレー皿のサイズと深さを手で示す遊馬に、クリストファーは少し考えてから頷いた。
「それなら、親父が昔、木彫りで作ったものがあったはずだ。探してこよう」
クリストファーはそう言って、予備の灯りに火を灯し、小屋の外に出ていった。
おそらく、裏手の物置へ行ったのだろう。
「さてと。僕がご馳走になった再構築料理は、青椒肉絲だったんだけど……この世界の人には、何がいいかな。大量調理となると、やっぱり煮込みだろうな」
先日の「試食会」で供された、恐ろしい見てくれの煮込み料理を思い出し、遊馬の童顔に苦笑が浮かぶ。
「あそこまでまずそうにはできないけど、この世界の人にとっては、見慣れない、食欲をそそらない外見にすることならできるかも」
そう呟きながら、遊馬は戸棚から、食用油の壺と、小麦粉の壺を取りだした。そして、それらを抱えて暖炉のほうへ行き、さっそく調理に取りかかったのだった……。
「あったぞ!」
クリストファーが、首尾良く捜し物を見つけて戻ってきたとき、遊馬はやはり暖炉の前で、料理の真っ最中だった。
クリストファーは鼻をうごめかせ、不思議そうな顔をしながら遊馬に近づいた。
「皿はこれでいいか?」
クリストファーが見せた無骨な木製の皿を見て、遊馬は笑顔で頷いた。
「ああ、いい感じです! ありがとうございます」
「お安いご用だ。そして……何か不思議にいい匂いだな。初めて嗅ぐ感じだが」
「ふふ、そうですよね。僕がいた世界の、僕が育った国では、かなりお馴染みの料理なんですけど」
そう言って、遊馬は鉄鍋の中身をクリストファーに示した。手持ちの薄暗い灯りをかざして鍋の中身を覗き込んだクリストファーは、うわっと驚きの声を上げてのけぞった。
それもそのはず、鍋の底でふつふつと煮えている粘度の高そうな液体は、何ともファンシーな、パステル系の紫色をしていたのである。
「な、なんだそれは。食い物か?」
「勿論ですよ。失礼だな。……でも、そのリアクションを見ると、半分は確実に成功ですね。ビックリしました?」
クリストファーは、薄気味悪そうに太い眉をひそめ、頷く。
「そんな色の食い物は、見たことがない。しかも、妙な粘り気があるようだな」
「せめて、とろみって言ってください。もうできますから、お皿を綺麗に洗ってきてもらえますか?」
「お……おう」
戸惑い顔のクリストファーが去ると、遊馬は早くも満足げなワクワク顔で、料理の仕上げに取りかかった……。
しばしの後。
遊馬とクリストファーは、いつも食事をするテーブルに差し向かいに着席していた。
それぞれの前には、荒々しい彫りではあるが、ディナープレートくらいのサイズの立派な皿が置かれている。
「さて、では、お夜食になっちゃいましたが、いただきましょう!」
遊馬は、いい笑顔でそう言い、両手を合わせた。一方のクリストファーのいかつい顔には、「不安」とでかでかと書いてある。
「ち、馳走に、なる。ならねば……ならんな?」
「当たり前でしょ! メニュー開発においては、僕ら、一蓮托生ですよ」
「む……うむ」
「大丈夫です、たぶんまずくは……ない、と思います」
「そこは断言してくれ」
やはり浮かない顔ながら、クリストファーは覚悟を決めたらしく、スプーンを手にした。
それでも料理にすぐ手をつけることはせず、見慣れぬ虫を見るような目つきで、皿の上を見下ろす。
それもそのはず、皿の上にあるのは、料理と呼ぶには怪しげなものばかりだた。
まずは、先刻の紫色の粘り気のある煮込みのようなものが、皿の中央にたっぷり盛りつけられている。
そしてそれをぐるりと取り囲むように配置されているのは……。
バリバリに割れた、茶色い板きれのようなもの。
毒々しいピンク色の葉野菜のようなもの。
茹でてほぐしただけの白身魚に、やはり茹でたオレンジ色の貝の身、そして、黄色がかった燻製の青魚の身を雑にむしったもの。
あとは、あれこれ根菜類を茹でて潰しただけの、白や黄色やオレンジが入り交じった奇妙なペースト。ヒョロヒョロした干し茸。
およそ食欲をそそらない、不気味な色と無骨な形状の取り合わせである。
「どうです? 囚人食って感じがしますか?」
スプーンを中途半端に持ち上げたまま動きを止めたクリストファーに、遊馬は訊ねてみた。
クリストファーは、あからさまに躊躇いがちに答える。
「囚人に食わせるものとそっくり同じとは言えんが、少なくとも豪華なご馳走ではない。客人たちが、日常的に口にするものとも、到底思えん。そうだな。少なくとも、客人に振る舞うような料理では……ないな」
「なるほど、それで?」
実に丁寧に貶されているのだが、遊馬はむしろ嬉しそうに先を促した。
クリストファーは、気まずそうに咳払いして、こう続けた。
「そういう意味では、『贅沢でなく、普通過ぎも粗末過ぎもせず、珍奇であり、客人の好奇心を刺激する』料理ではある……と思う。それに、匂いは悪くない。味のほうは、食ってみないとわからんが」
「今のところ、合格ラインですね。じゃあ、食べてみてください」
遊馬にせかされ、クリストファーは再び困惑した様子で眉根を下げた。
「これは、どうやって食えばいいんだ? さっきお前は、再構築なんとかと言っていたな。料理を要素に分けると。確かにそういう気配はあるが……」
「はい。まずは、そのピンク色の野菜だけそのままにして、あとはぐっちゃぐちゃに混ぜちゃってください!」
「混ぜる……? そんな無作法なことを?」
「お上品な人たちほど、そういうマナー違反をやってみたくてもできない立場でしょ? 堂々とやれることに、ワクワクすると思うんですよ」
「な……なるほど。では、やってみよう」
いかにも怖々ではあるが、クリストファーは遊馬の指示どおり、紫色の濃いとろみのついた汁と、他の食材を絡めるように混ぜ合わせ、思いきったようにたっぷりのひと匙分を口に入れた。
ゆっくりと咀嚼した彼の目が、大きく見開かれる。
「む……! これは」
「どう? どうですか?」
身を乗り出して感想を待つ遊馬をまじまじと見て、クリストファーは信じられないといった顔つきで呻くように言った。
「旨い」
「マジで! やったー!」
遊馬は珍しく喜色満面で、大きなガッツポーズをする。
クリストファーは、二口、三口とスプーンを忙しく口に運び、幾度も頷いた。
「本当に旨い。旨いが、食ったことのない味だ。これはいったい何だ、アスマ?」
問われて、遊馬はちょっと得意げに種明かしをした。
「これ、僕流の再構築フィッシュパイ、なんです」
「フィッシュパイ?」
「その名のとおり、魚のパイです。本当は、魚介のクリーム煮にマッシュポテトを分厚く載っけて、オーブンで焼くんですけど、少しアレンジしてみました」
そう言うと、遊馬はまだ手をつけていない自分の椀を指しつつ説明を始めた。
「この紫色のは、紫キャベツのクリームシチューです」
「紫キャベツは知っている。この紫は、その色か! しかし、くりいむ……しちゅう?」
「今日届いた食材の中に、牛乳があったので、少し使うことにしました。貝と魚と干しキノコと野菜でスープを取って、具は取り除けて。そこに、牛乳とどっさりの紫キャベツを足して煮て、小麦粉を油で炒めながら練ったルゥでとろみをつけたんです」
「……なんと。この紫色の怪しい汁は、そんな手の込んだものだったのか」
「ふふ、実はそうなんです。あと、汁にとろみをつけると、料理を盛り付けやすいし、冷めにくくなります。熱々は囚人食っぽくないですけど、やっぱりお客さんには、それなりに温かい料理をお出ししたいですし」
「間違いない。そこまで考えていたのか。そして、この具材は……」
「出汁を取ったあとの具材を、別々に盛りつけてみました。それに加えて、食感に変化がほしいので、前にお城の料理番さんからいただいた、旅行用のクラッカーを割って添えてみたんです。しっかり焼いてあるから、シチューに混ぜてもしばらくはパリパリのままですし」
「この、木屑のようなものが、そうか」
「そうそう。敢えて美味しくなさそうなビジュアルを狙ってみました。あと、混ぜずに残してもらったピンク色のは、やっぱり紫キャベツです」
「……紫ではなく、桃色をしているが?」
「そこは化学反応を活用しました!」
「かがく、はんのう」
さっきから初めて聞く言葉をオウム返しにしてばかりのクリストファーに、遊馬は少しだけ得意げに答えた。
「紫キャベツの紫はアントシアニン由来なので、アルカリを加えたら黄色に、酸を加えたらピンクに色が変化するんです。なので、さっと茹でてお酢と砂糖で味付けして、色を鮮やかなピンクに変えてみました。箸休めの酢の物……いや、ピクルスってところですかね」
「なる……ほど? いや、お前の言うことはさっぱりわからんが、酢と砂糖だけはわかる」
用心深く、ほんの少しを口に入れたクリストファーは、たちまち大きく頷く。
「うむ、これは馴染みの味だ。煮込みが濃厚だから、これで口の中がさっぱりするな」
「それも、狙いどおりだ! お酢の殺菌効果で、傷みにくいのもいいかなと思って。早くに作っておいたほうが、味が馴染んでもっと美味しくなると思いますし」
遊馬の説明に、クリストファーは料理を頬張りながら、感心しきりで何度も首を振った。
「今度ばかりは無茶な命令だと思ったが、お前はまたしても立派にやりとげたな。これなら、国王陛下も宰相殿下もお喜びになるだろう。囚人体験を心待ちにしている人々もまた、驚きに目を瞠り、食って歓声を上げるに違いない」
クリストファーは常に実直で言葉を飾らないので、彼の賛辞には何の誇張も偽りもない。
遊馬は嬉しさで顔を上気させつつ、照れ隠しに眼鏡を僅かに押し上げた。
「これなら、だいたい安定して手に入る食材で大量に調理できるし、厨房のスタッフなら楽勝レシピだと思うので。驚いて、ちょっと怖がって、でも食べて喜んでもらえるメニューになったんなら、よかった!」
「俺の反応を見ていれば、そこは確実だとわかったろう。うむ、明日の朝、さっそくフランシス様にご報告申し上げて、試食の機会を設けていただこう」
「はいっ」
ようやく方の重荷を半分下ろせた気分で、遊馬は自分の分にも手をつけようとする。
だが、クリストファーはふと真顔に戻って、「しかし……」と言った。
「え、どうしました? まだ、何か問題が?」
サッと不安げな表情になる遊馬に、クリストファーは真顔で言った。
「料理には、名前が必要だろう。これは何と名付ける?」
「ああ、そうか。再構築フィッシュパイ……じゃ、何のことかわかんないですよね」
「わからんだろうな。俺も、その再構築とやら、理解しきれてはいない」
「じゃあ……うーん、そうだなあ」
遊馬はしばらく考え、悪戯っぽい笑みを浮かべて口を開いた。
「じゃあ、『特製囚人めし・お皿の上で作る魚介のパイ』でどうですか? ちょっと美味しそうな響きでしょ」
「なるほど。それならわかりやすいな。よし、それでご報告申し上げるとしよう。ところで」
「はい?」
「もう少し、料理の余分はあるか? やんごとなき方々に試食していただくものだ、今一度、味を確認しておきたいんだが」
もっともらしく言っているが、本音は「もっと食べたい」であることは、クリストファーの期待の眼差しを見れば火を見るよりも明らかだ。
「勿論! お皿、貸してください。盛りつけてきます」
遊馬も晴れ晴れとした顔で立ち上がり、クリストファーが差し出す皿を、両手を伸ばして受け取ったのだった……。
【おわり】
◆初出:WebマガジンCobalt 2023年2月24日更新