黄泉月奇譚【前編】 

怪異接待課のふたり


「やっちゃえよ」
 ぶきともがはじめてその声を聞いたのは、職場の最寄り駅だった。終電間際に若い男とすれ違ったとき、妙にくっきりと響いたのだ。
 混み合っていたにもかかわらず、耳に直接注ぎこまれたかのように鮮明で、朋也はつい振り返った。人混みにちらと見えたのは、灰色のパーカーのフードを頭からすっぽりとかぶった、せぎすの男の背中だった。前屈みで、両手をジーンズのポケットに突っこんで、蛍光ピンクの有線イヤホンが毒々しく揺れていた。
 次は七月、十日ぶりにようやく半休をもぎ取って、最寄りのスーパーに買い物に向かった朝だった。真っ黒になった半額バナナをかごに入れようとしたら、ふいに耳元で話しかけられたのである。
「やっちゃえよ」
 連日の激務でもうろうとしていた朋也は、どこかで聞いた声だな、とぼんやりと顔をあげて、冷や水を頭からかぶったような気分になった。
 すぐそばから話しかけられたはずなのに、目の前には誰もいない。影もない。代わりに十メートル以上向こう、駐車場に面したガラス窓の外に、灰色のフードを頭までかぶった男が立っていた。駅で見たのとまったく同じ、ポケットに手を突っこみ、前屈みで。
 ざらりとした違和感が背を駆け抜けていく。
 朋也は短く息をみ、とっさに目を背けた。胸を大きく上下させる。どうかしている。俺は働きすぎなのかもしれない。今日はよく眠ろう、それがいい。
 三度目は通勤時だった。ホームの先頭に並んで地下鉄を待っていると、背後で夏休みをおうする学生たちが大声ではしゃぎはじめた。まあ仕方ないよな、楽しいもんなとやりすごしていると、とうとつに、耳元でささやき声がした。
「やっちゃえよ」
 朋也ははじかれたように周囲を見渡した。迷惑がられていると思ったのか、学生たちは気まずそうに黙りこむ。だが朋也は学生なんて見ていなかった。
 またあの声だ。余裕ぶったささやき声。朋也を見おろし、わらっているような声。
 いったいどこからとせわしなく視線を動かし、息を詰めた。
 レールを挟んだホームの対岸、ちょうど正面に、灰色のパーカーをまとった蛍光ピンクのイヤホン男がいる。深くかぶったフードの陰から、口元だけがのぞいている。
 笑っている。
 身動きできなかった。朋也は瞳を見開いて男を凝視した。
 列車到着アナウンスがあなぐらのような駅に響き渡る。けんそうの中、男の唇が小さく動く。
「やっちゃえよ」
 一字一句、はっきりと聞こえた。
 深く甘く、たのしんでいるような声だった。

 ほどなくホームに流れこんできた列車の鮮烈な光にさらされて、男の姿はかき消えた。朋也は額をぬぐい、深く息を吸っては吐いた。
 家に帰りたい。
 どこにいようと現れる、同じ男にささやき声。幻覚や幻聴に違いなく、そんなものに見舞われるのは働き過ぎているからだ。眠らないと。
 それでも結局列車に乗りこんだ。今は夏期講習中で、朝から晩まで講義が詰まっている。塾長とふたりで回している塾だから、朋也が休めば立ちゆかなくなってしまう。生徒のためにも、恩人の塾長のためにも穴をあけるわけにはいかないのだ。
 ふくしんえきで降りて、朝の人波をかきわける。勤め先が入っている雑居ビルに辿たどりついたころには、気分もかなり持ちなおせていた。受験数学専門の学習塾、トド数理塾。トドというのは塾長のあだ名で、ストレートにトドのような見た目だからだ。あっけらかんと塾名にできる度量の広さに、出会った当時の朋也はいたくかんめいを受けたものだった。
 ビル一階の暗がりでは、数人の女子塾生がエレベーターを待っていた。五歳ほどしか離れていないからか、生徒は朋也をあだ名で呼んでくる。
「あ、メブキン、おはようー」
「おはよう」
 朋也はあいまいな笑みを返して、階段のほうへ足を向けた。生徒はみんな大切だ。だが人と関わるのは苦手だ。
 背後では、なぜかきゃっきゃと声があがっている。
「ね? ほら、よく見たら、でしょ?」
なんの話?」
 つい気になって尋ねれば、生徒たちはさっぱりと教えてくれる。
「あのねえ、メブキンって、今の髪型だとすっごいビジュよく見えるんだよ」
「見えるっていうか、もともと素材がよかったのに気づいたっていうか。絶対短髪よりこっちがいいよ」
「切る暇がなくて伸びちゃっただけだけどね」
「その笑顔もギャップあっていい! でもしょうなのはかなりマイナスかな」
 朋也は苦笑して、目にかかりそうになっている前髪をかきわけた。生徒たちの言い分はずいぶんとあけすけだが、顔つきが近寄りがたく見えるのか怖がられがちな身としては嬉しかった。よい講師として信頼されているんだと安心できる。すこしは敬愛するトドに近づけたのかもしれないと思えてくる。
 そうだ、幻覚に振り回されている場合じゃない。トドの期待に応えられるよう頑張らなければ。
 エレベーターがおりてきた。籠の中の明るい照明にさらされはじめて、あれ、と生徒たちは首をかしげる。
「メブキン、だるそうじゃん、大丈夫?」
「全然大丈夫」朋也は笑ってごまかした。「夏期講習期間だからちょっと寝不足なだけ」
「えー無理しないでね」
 ありがと、と汗をぬぐって、塾のあるフロアでエレベーターを降りる。かぎをあけるつもりだったが、『トド数理塾』と書かれたガラス戸の向こうには、すでに電気がついていた。
「あれ、トドもういるんじゃない?」
 生徒たちがガラス越しに覗きこむ。
「そうみたいだね。自習に来る君たちのために、早出してくれたのかも」
「えーほんとに? トド、塾以外にもいろんなビジネスしてて忙しいんでしょ? なのにわたしたちのために早起きしてくれたんだ」
 感動、と生徒たちは口々に言う。朋也もほおゆるめてうつむいた。トドが称賛されるのは嬉しい。そんなトドに必要とされている自分が誇らしい。
 さっそく礼を言おうと、自習室に向かう生徒と別れて塾長室の戸をあけた。
「おはようございます。鍵、あけてくださったんですね!」
 頬を紅潮させて入ったものの、返事はない。あれ、と室内を見回せば、トドは奥のソファに横になり、気持ちよさそうにいびきをいている。
「塾長?」
 何度か声をかけてようやく、トドは大あくびをして目をひらいた。
「あれ、芽吹君? なんでいるの?」
朝ですよ」
「うそ、いつのまに」
「生徒のために、鍵をあけておいてくれたんですよね?」
「え?」
 一瞬の沈黙のあと、トドは妙に陽気に起きあがった。
「あーうんそうそう! みんなのためにね。にしても芽吹君は今日もおっとこまえだねえ。君ってただでさえ塾講師となるために生まれてきたみたいに優秀なのに、こんなにイケメンでさ、ずるいよなあ。女子は黙ってないよ」
「ありがとうございます」
 立て板に水のごとくしゃべり続けるボスの口から強烈なにおいが漂ってきて、朋也はひそかにのけぞった。
お酒、飲まれてたんですか?」
 常のごとく、駅の反対側に広がるはんがいで遅くまで飲んでいたのだろうか。
「そうなんだよ、付き合いでさあ、抜けられなくてさあ。仕方ないよね、ここで投資してもらえるかで将来変わっちゃうからさあ」
 ですよねと笑顔で相づちを打ちつつ、自分の小さな机にリュックを置いた。昨晩、始末しきれなかった塾生の答案が山積みになっている。だらしなく寝そべったトドからは、甘い香水と酒の入り交じった、ひどい悪臭が立ちのぼっている。めまいがする。
「わかるでしょ、君のためなんだよ。君がひきいる予定の、栄えあるトド数理塾二号館創設のためなんだ」
「嬉しいです、が、午前中の講義はどうされますか」
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだし、キャップをあけて渡しながらえんりょがちに問いかけた。午前中に、初級クラスの集中講義が入っている。多忙なトドが自らきょうべんを振るう唯一の講義なのだが、この様子ではとてもきょうだんに立てそうにない。
 のどを鳴らして水を飲み干すと、トドは妙に生き生きと、早口でまくしたてた。
「ああそれね、悪いけど、君にお願いするよ」
「構いませんが
「ありがとう、さすがは芽吹君! そうだ、これを機に、午前の講義はずっと君にお願いしようかな」
 なにを言いだすのだ。さすがの朋也も笑顔をこわばらせた。
僕はその時間、生徒たちの質問を受ける予定なんです」
「昼休憩の時間にやればいいじゃない。生徒には昼ご飯の時間をずらしてもらえば? どうせ午後いちか午前は自習してるでしょ」
「ですが」
「僕はさあ、資金獲得のためのお願いドサ回りで忙しいし、君、教え方がていねいだからさあ、初級クラスにぴったり」
「認めていただけるのはうれしいですが、ずっとは厳しいです」
 昼の休憩まで潰されたら、朝から晩まで働きづめになってしまう。いよいよおかしくなってしまう。
「なに言ってるの、今日できるなら明日だってできるでしょ? 大丈夫、君ならできる。僕がたいばんを押す」
「でも
「言い訳しない! かっこ悪いよ」
 指で差されて、朋也は口をつぐんだ。握りしめた拳に力が入る。のうにちかちかと、パーカー男のイヤホンのどぎついピンクがよぎっては消える。
 やっちゃえよ。
 落ち着け、と懸命に自分に言い聞かせた。家族もいない、大学も中退した俺を見捨てなかったのはトドだけだ。俺を認めて、必要としてくれたのもこの人だけ。
 その恩に報いたい。報わなければ。
 焼きごてを当てられたように喉が熱い。ねじ伏せて、「わかりました」と朋也はかすれ声で返した。
「頑張ります。塾長が太鼓判を押してくれるのなら心強いです」
「さっすが! さすがは芽吹君。僕が期待をかけた男だけある!」
 トドは満面の笑みを浮かべて手を叩いた。

 それからの十日は地獄の日々だった。こくしょの中を通勤して、朝早くから講義と塾生への個人対応に追われる。深夜に帰宅すれば翌日の準備や小テストの採点。コンビニに寄る暇すら惜しいほどの激務。
 なのに灰色のパーカーの男はようしゃなく現れる。
「やっちゃえよ」
 満員電車の人混みの奥から。
「やっちゃえよ」
 副都心駅前の巨大な横断歩道のさき、青信号を待つ雑踏から。
「やっちゃえよ」
 コンビニのレジ、店員の背後から。
「やっちゃえよ」
 自宅の洗面台の古びた鏡に映る、朋也自身の肩越しから。
「なにをやれって言うんだよ!」
 我慢がならずに振り向いた。パーカー男の胸ぐらをつかんで揺さぶってやりたかった。なのに腕を突きだしたときにはもう、男の姿は影も形もない。
「くっそ」
 濡れた顔にタオルを押しつける。落ち着け、夏期講習はなんとか終わった。今日は待ちわびた半休だ。ようやくひと息つける朝が来た。
 とにかく夜の講義の用意までは、外の空気を吸ってリフレッシュしよう。
 直接出勤できるように、くたびれたスラックスとシャツを身につけ狭いアパートを出る。ドアに鍵をかけ、太陽の光に目をすがめる。大丈夫、俺は真っ当だ。
「やっちゃえよ」
 とっさに左右に目をやった。ああいる、向かいのアパートのそとろうに姿が見える。パーカー男が語りかけてくる。目を背け耳をふさぎ、早足で往来へ出た。なぜ俺をそそのかしてくる。なにを『やらせ』ようとしている。
 なにを、誰を。
 最寄り駅にもパーカー男はたたずんでいた。切れあがった口の端が視界に飛びこんできたとたん、朋也はとうとつに思い出した。そういえばリュックの中に、仕事で使うカッターが入っているんだった。刃を折ったばかりの、よく切れるやつが。
「やっちゃえよ」
 怖くなって逃げだした。遠くへ走ればどうにかなると信じたかった。人混みにまぎれれば、日常を忘れれば。
 全部無駄だった。いつもと違う路線に乗ろうと、見知らぬ町をはいかいしようとパーカー男はついてくる。影はぴたりと朋也に寄り添っている。身体からだを小刻みに揺らして笑っている。リュックの中のカッターの存在もまた、焼きついたように脳裏を離れなくなっていた。やっちゃえよ、やっちゃえよ。人混みになんて近づくんじゃなかった。でも今さら戻れない。進むしかない。立ちどまった瞬間に爆発する。抑えこんでおけなくなる。
「やっちゃえよ」
 ぐらぐらと視界が揺れている。いつのまにか、とうきょうえきまるうち北口に立っている。はしゃぐ行楽客で混み合うドームの真下で、荒く息を吐き、大きく肩を上下させている。なぜこんな場所にいるのか自分でもわからない。目が乾く。血走っているのだ。獲物を探している。落ち着け、抑えろ、まぶたをおろせ、耳を傾けるな。
「やっちゃえよ」
 高いドームの天井にささやきが充満している。鳴り響いて、増幅して、朋也を侵していく。「やっちゃえよ」うるせえな。やらないって言ってんだろ。「やっちゃえよ」いいかげん黙れよ、俺を唆さないでくれ。「やっちゃえよ」本当に嫌なんだよ、真っ当でいたいんだ、どうか。
「やっちゃえよ」
 ああ、もう。
「やっちゃえよ」
 朋也は固く息を吐きだし、瞼をひらいた。道行く笑顔の人々に据わった目を向けたまま、リュックを腹側に回し持って、片腕を突っこんだ。底に横たわるカッターの柄に手が届く。
 握りしめ、鋭く息を吸ったその瞬間だった。
「はいそこまで。よく耐えたね、頑張った」
 オフィスカジュアルをまとった長髪の女性が、突如視界に割りこんだ。リュックに突っこまれた朋也の肘を力ずくで押さえこみながら、ほがらかに笑っている。
 朋也は目をみはり、息をとめた。
 誰だ、これ。
 唐突に我に返る。
 俺は今、なにをしようとしていた?
 なぐられたような衝撃に、足元がふらついた。血の気がひいていく。俺はまさか、この場にいる人々を、無差別に『やろう』としていた?
すみません」
 真っ青になって後ずさった朋也に、女性は慌てたようだった。
「ちょっと、しっかりして、大丈夫だから。むしろよく耐えたよ、正直驚いた。根性あるというか、適性があるというか」
 なんの話だ。なぜ涼しい顔をしている。目の前に無差別殺人すい犯がいるのに。
「今のうちに交番に連れていってください、俺が本格的におかしくなるまえに」
「まだ君なんにもしてないでしょ?」
「しましたよ。あなたがとめてくれなきゃ、間違いなく『やって』た」
 ショックで声が震えてしまう。せめて真っ当でありたかったのに。誰にも必要とされなくとも、誰かに迷惑はかけたくなかったのに。
 女性はやはり危機感もなく、にこにことしている。そればかりかわけのわからないことを口走る。
「大丈夫、君はびっくりするほど真っ当だから」
「どこがですか」
 よれたスーツに伸びきった髪、よどんだ瞳、おまけに汗をだらだらと垂らして人混みの真ん中でカッターを握りしめていた男のどこが真っ当なのだ。
「真っ当だと思うけどな。疲れているけど瞳は強い。瞳が強い人間はいいって昔から言うけど、ほんとなんだねえ」
「あの」
「というか逆に訊くけどさ。君にはわたしが警察官に見えるの?」
 小首をかしげて大きく両手を広げられ、朋也は言いよどんだ。警察ではないかもしれない。服や髪型がカジュアルすぎる。どちらにしても、朋也とは正反対の人種なのは間違いない。しゃきしゃきとした話しぶりに身のこなし。まぶしき太陽。
「じゃあ医者ですか。俺がおかしくなってると気づいてとめてくれた」
「それも違うけど、まあ、君を助けに来たって意味では同じかな」
「助けに?」
「君、『やっちゃえよ』って唆してくる男に付きまとわれて困っていたでしょ」
 図星を指され、朋也は身構えた。
「なぜ知ってるんです」
 頭の中で警戒音が鳴り響く。この女性も幻覚かもしれない。誰にも言っていないことを知っているのだから。
「おっと、君が今なにを考えているのかわかるよ。でもぜんっぜん違うから。わたしは実在するれんな二十八歳女性だし、君を苦しめているのも、頭が作りだした幻じゃない」
「だったらなんだっていうんです」
「怪異。神だとか幽霊だとか妖怪だとか、そういう超常現象の総称」
「はあ?」
 なに突拍子もないことを。
 ますます構える朋也を気にするそぶりもなく、むしろどや顔と形容したくなる笑みを浮かべて、女性は漢字がずらずらと並んだいかつい名刺を押しつけてきた。
「あらためまして、わたしは人に害を与える荒ぶる怪異通称『がみ』の鎮静にたずさわっております、こくりつかいもんじょいんどりと申します。よろしくね?」
 確かに名刺には名乗ったとおり、

 国立怪異文書院 接待部
 対処接待課 とっかかり
   係長 黄泉鳥

 と書いてある。おまけに黄泉鳥自身の筆だろう、明るくエネルギッシュな文字で、一言コメントが添えてあった。

 どんな怪異も適切にもてなし鎮めます! お気軽にご相談ください!

 もちろんなにひとつみこめなかった。なんだこれ。怪異、接待、文書?
「怪しい団体じゃあないよ。国の機関みたいなもので、じんちょうないていちょうからの出向者も多数、身分もごんの公務員」
「権公務員? みなし公務員じゃなくてですか」
「同じようなもんだよ。とにかくわたしは怪異鎮静の専門家で、君を助けに来たってわけ。安心して話を聞いてくれていいよ」
 黄泉鳥は文字の印象そのままの、自信に満ちた笑みを浮かべて胸に手を当てた。

「混み合う北口のど真ん中で話を続けるのもねえ。そうだ、なんか食べよ!」
 と黄泉鳥は、地下飲食店街へ朋也を促した。これ、実はじゃないだろうか。解決できると甘い言葉で誘いかけ、怪しい団体に引きこもうとしているだけじゃないのか。そう疑いつつも朋也はしょうだくした。
 危ないところを助けてもらったのは本当だ。この女性の話を聞くほかに、今の状況を打開する策もない。マッチポンプかどうかすら判断できない。それに朋也は、黄泉鳥の放つ陽のふんが嫌いではなかった。正直に明かすと、どこかトドを思わせるその明るさに、心の奥底でかれてもいた。だからまずはついていってみると決めた。詐欺だとわかったら、その時点で決別すればいい。
 きっとカフェにでも入るのだろうと思っていたが、黄泉鳥が選んだのは居酒屋の並ぶ一角にある、モダンな構えの焼き鳥屋だった。
「えーと、なんて呼べばいい? 芽吹さん? 朋也くん?」
「朋也でいいです」
「じゃあ朋也くん、おなかいてる? 焼き鳥食べる? 経費でおごるよ」
「いえ、大丈夫です、腹減ってなくて」
 人を殺しかけた衝撃で、空腹も感じない。
「じゃあわたしだけいただいちゃおうかな。ビールも飲みたいけど、さすがに勤務中だしなあ。お茶でいっか。いいよね?」
「はあ」
 朋也はおしぼりに目を落とした。なるべく他人の人生に足を踏みいれないように生きてきたから、こういうシチュエーションでどう振る舞えばいいかがわからない。
「けっこう人見知りするタイプ? それとも他人と関わること自体が嫌い?」
「嫌いではないです」怖くはあるが。「なので、どっちかというと人見知りです」
「そうなんだ! 実はわたし、人見知りって全然しないんだよね。だから君も肩肘張らず、楽にしててほしいな」
 黄泉鳥はあっけらかんと笑っている。朋也は愛想笑いを返した。
「にしても、なぜわざわざ居酒屋に?」
「もちろんわたしが焼き鳥を食べたいからっていうのは半分嘘で、ここ、半個室空間だから。おしゃれカフェだとこうはいかないでしょ?」
 と黄泉鳥は、隣席とのあいだにかけられたスクリーンを指の背で軽く叩いた。「しかも地下。閉鎖空間になかなか入ってこられないタイプの怪異だからね、そそのかし男は」
「唆し男」
「それが君にまとわりついている怪異の名前。君が落ち着いて話ができるように、いくつか工夫くふうしているんだよね。この店を選んだのもそのひとつってわけ」
 言われてはじめて、黄泉鳥に会ってからたたみかけるようだったささやきはめっきりと減ったし、この店に入ってからは一度も聞こえなくなっていると気がついた。
「ほんとだ。確かにあいつ、こなくなってる」
「でしょう? 感謝してくれてもいいよ?」
 おどけた口ぶりの黄泉鳥に、朋也は深く頭をさげた。
「ありがとうございます、助かりました」
「お、けっこう素直なんだね。ネコと思いきや意外にわんこタイプ?」
「もちろん完全に信頼したわけでもないんですが」
 それでも黄泉鳥が、パーカー男へなんらかの対処をしてくれたのは間違いない。あれが朋也の頭が作りだした幻であれ、黄泉鳥の言うとおりの信じがたいモノであれ。
「いいよいいよ、充分」
 運ばれてきた焼き鳥に、黄泉鳥は嬉しそうにかぶりついた。気持ちのいい食べっぷりである。店で焼いた焼き鳥というのは、スーパーで半額のものとはやっぱり味わいが違うのだろうか。そんなどうでもいいことすら考えられるほどリラックスしかけている自分に気づいて、朋也は驚いた。
 ウーロンちゃを一口含んで頭を引き戻す。思い切って切りだした。
「それであなたは俺のこのやっかいな問題を、完全に解決する方法をご存じなんですか」
「もちろん知ってるよ。でもまずは我々文書院について説明させてね」
 黄泉鳥は串を置き、穏やかに手を組んだ。
「まず前提として、この国は古来、予期せぬ異常事態たとえば災害や不幸が起こるのは、神だの妖怪だの霊だのの怪異が荒ぶったせいと考えてきた」
たたりで人が死んだとか、そういうのですか」
「地震やえきびょうなんかもそうだよ。全部神が荒ぶって起こしたとみなしていた。『これこれという災害が起こったのは、これこれという神が荒ぶっているからである』って記述は、現存する『おもての記録』にもたくさん残ってる。聞いたことある?」
「なんとなくは」
 歴史にうといから、そもそも『表の記録』がなにを指すのかぴんとこないが、異常事態を荒ぶる怪異のわざとみなす考え方が文化に根付いているのは理解できる。
「実は国家はそういう異常事態のとき、事態を悪化させないように怪異をすみやかに鎮静していたんだ。シンプルに考えて、荒ぶった怪異が異常事態を引き起こしたんだから、怪異自体が鎮まれば収束に向かうはずでしょ」
 ちなみに、と黄泉鳥は思わせぶりにてのひらを合わせる。
「この国にいにしえより伝わる怪異の鎮静法はひとつだけ。なんだと思う?」
調ちょうぶくですか?」
「ブー。答えは接待、おもてなし」
 朋也はまゆをひそめた。化け物を接待? この女性についてきたのは失敗だろうか。
「不信感でいっぱいな顔をするねえ。本当だよ。たとえばあまいの伝説って聞いたことある? かんばつのとき、干上ひあがりかけた池にひとばしらを放りこむと雨が降った、みたいの。あれはもろに、接待で災異を鎮静した例だよ。土地神だか雨神だかに人をさしだす、つまり接待することで機嫌をとって、旱魃をもたらす荒れたカミから、適度に雨を降らせてくれるなごやかなるカミに戻した」
「結果旱魃は終わり、それ以上の被害は防がれたと」
「そういうこと。実は今の我々の業務も基本は同じ。事態の悪化を防ぐために、荒ぶる怪異を接待して、満足させて、無害化する。それがわたしの仕事」
 黄泉鳥は掌を下に向け、ゆっくりとテーブルに押しつける。照明の抑えられた店内で、赤みがかった瞳が輝いている。
「で、いよいよ君の話になるんだけど、君も今、異常事態に巻きこまれているでしょう。君がかれているのは、我々が唆し男と呼んでいる怪異。この怪異に取り憑かれた人間は、耳元で『やっちゃえよ』とささやく声を聞く。ささやいたであろう男はすぐそばにいる場合もあれば、はるかに遠くにいることもあるけれど、何度も何度も同じ姿で取り憑いた人間の前に現れる。朋也くんにも男の姿は見えているんじゃない? 信頼してもらうために当ててみせてもいいかな。灰色のパーカーを頭からかぶってピンクのイヤホンをつけてる、せた男じゃない?」
 朋也は唇に力を入れる。わずかなちゅうちょを経てうなずいた。
「そうです。灰色のパーカーを着たねこの男が、いつも俺を見ています」
「やっぱりね。あの券売機のところにいた男が、君が見ている唆し男だったんだ。おかしいと思ったんだよね、真夏にあんな暑苦しい格好なんて」
「黄泉鳥さんにもあいつは見えたんですか?」
「ばっちりと」
 と黄泉鳥は子どものように胸を張ってから、打って変わって大人びた照れ笑いを見せる。「まあ、いつでもどこでも見えるわけじゃないけどね。東京駅の丸の内口って、神社のけいだいとかと同じで、怪異の姿を見るにはもってこいな場所なんだよ」
 そうなのか。はじめて朋也はあんを感じた。あれは幻覚ではなかったのだ。そしてこの人にもあれが見える。俺はひとりじゃない。専門家がついていてくれる。
「あなたは、俺がこれ以上やらかすまえに、やつをどうにかできるんですね」
「うん、だから我々のオフィスに来てもらえないかな」
「オフィス?」
「そこで具体的な対策を相談したいの」
ちなみに、なんの対策も打たずに放置したら俺はどうなるんです。やっぱり『やって』しまうんですか。その無差別殺人を」
「残念だけど、その可能性が高いね。たとえば数年前のP市通り魔事件や、あの有名なX町連続殺人の犯人。彼らが唆し男に憑かれていたのは間違いないし、そもそも唆し男は、連続して三度憑いては数年休むっていうサイクルをくり返してるんだけど、君は今回のターンの三人目」
「じゃあ俺の直前に憑かれたふたりは
「我々があくしたときにはすでに『やって』しまっていた」
「そんな」
「我々としても、無辜むこの人が亡くなるような最悪の事態は阻止したいの。急にわけのわからない団体のオフィスに連れていかれることに二の足を踏む君は真っ当だけど、ここはわたしを信じて協力してほしい。唆し男は君個人に憑いている怪異で、鎮静には君の協力が不可欠なんだ」
 朋也はもらった名刺に視線を落とす。それから意を決してうなずいた。
「信じます。連れていってください」

 小一時間後、朋也は国のちゅうすう機関が建ち並ぶ官庁街のど真ん中、国会議事堂のすぐ隣にある立派な建物の前に立っていた。国立国会図書館。国中で出版された書籍を収集し、保存する役割をになう国家最大の図書館である。
「え、図書館に入るんですか?」
「うん」
 と慣れた様子で一般来館者用の入り口にIDカードをかざす黄泉鳥に続いて、朋也も戸惑いながら、過去に一度使ったきりのカードを取りだした。オフィスとやらに連れていってくれるのではなかったのか。
「朋也くんはこの建物、来たことある?」
「大学のときに一回だけ」
「塾講師になるまえは大学に行ってたんだね」
「はい。結局中退しましたけど」
「なるほど、それでバイト先だったトドさんの塾に就職、今に至ると」
「中退の俺を正社員として雇ってくれた塾長には、感謝してもしきれないですよ」
「恩人なんだね」
「ええ」
 のうをトドの薄ら笑いがよぎっていって、朋也は努めて意識をらした。
「それより、なぜ図書館なんかに?」
「そりゃあここにオフィスがあるからだよ」
 え、と立ちどまった朋也に、「わたしの名刺を見てよ」と黄泉鳥はおどけたそぶりで促した。
ほんとにオフィスの所在地、国会図書館新館って書いてありますね」
「でしょ?」
「でも待ってください、地下九階?」
 なにかおかしくないか。
 国会図書館は立派な建物だ。表だっての建物も重厚だが、なにより館内図にはっきりと記載されていない部分ぼうだいな書物を収めた書庫が圧巻で、本館のものは地上地下合わせて十七層もある。オフィスがあるという新館の書庫もまた巨大で、地下一階から八階まで続いているらしい。
 しかし黄泉鳥の名刺に書かれたオフィスの所在地は、新館の地下『九』階。
 そんな場所、存在しないのである。
「大丈夫、ちゃあんとあるから」
 表情を曇らせた朋也に機嫌よく告げて、黄泉鳥は新館インフォメーションコーナーをさっそうと抜けた。迷いなく、人目につきづらい一角に足を運んでいく。どこに行くのかといぶかっていた朋也は目をいた。館内図には壁としか記されていない隅に、古風なエレベーターが口をあけている。
 扉の上に示された階表示はふたつだけ。
 1。そしてR9。
「どうぞ」
 朋也はしゅんじゅんのあげく乗りこんだ。浮遊感に包まれる。黄泉鳥と朋也を乗せたエレベーターは、地中奥深くへ埋もれていく。
 しばしして、チンという音とともにかごは止まった。頭上の表示は、存在しないはずの地下九階。
 たっぷり一拍おいて、扉が音を立ててひらいていく。細く長いろうがひたすらに続く景色が現れる。廊下の左右には、びっしりと書物をたくわえたたな、また棚。
「書庫
「そう、書庫だよ」
 赤みがかった木材で作られた書棚のあいだを、黄泉鳥はゆっくりと先導した。「文書院は、怪異に関係するありとあらゆる資料いわゆる『かいもんじょ』を千年以上前から集めてきたの」
 静まりかえった空間に、張りのある声が放たれる。すぐにそれも書物のあわいに吸いこまれ、再び静寂が満ちる。そのくり返し。
「怪異文書の中核は、現れた怪異そのものについての記録、それから怪異へどのような対応がなされたかの記録。歴代のせいしゃが記した怪異に関するもんじょいわゆる『裏の記録』とか個人的な手紙、口頭伝承を書き写したもの、もちろん出版された書籍や、各種統計データなんてのも収集対象だよ」
 近頃は、ネット上の情報の収集・保存にも力を入れているという。
「ありとあらゆる神や霊、妖怪、怪異がいつ、どんなとき、どのように現れて、いかな影響を及ぼしたのか。どんなふうに接待したらどういう結果が返ってきたか。そういうデータをひたすら集めて分析するのが、そもそもの文書院の役割」
 LED電灯の乾いた光が書棚を照らしている。紙の箱がずらりと並んでいる一角もある。中身は古文書だろうか。
「怪異の鎮静って、一発勝負だからね。すでに実害を及ぼしている荒れ神に対して試行回数をかせぐ暇なんてないし、間違った手を打ったらさらに事態は悪化してしまう。となると、できる限り初手で、最善手を打たなきゃいけない。だから過去のデータの蓄積が重要なの。データを参照すれば、瞬時にもっとも確度の高い方法を採れるから」
 黄泉鳥の口ぶりは軽い。
 一方の朋也は圧倒されていた。地の底に横たわる記録の重み。紙の上にたった数文字刻みこまれた、当時生きていた人々の努力、恐怖、苦しみ。書棚の隅、紙箱の奥に潜んでいるそれが、朋也目がけてい寄ってくる。見定められているようにすら感じられる。
「ほんと、よくこれだけ集めたよね。まあここにあるのは現在もこうひんで運用されているごく一部の文書で、古い記録のほとんどは旧都にあるもんじょの蔵に収められているし、その蔵書だって、何度もあったいくさやらなんやらでだいぶ燃えちゃったんだけど」
 黄泉鳥を盗み見る。どうしてこの重苦しい場を、こんなにも軽やかに歩けるのだろう。
「この組織は、かなり昔から存在したんですか」
「王朝時代からあるよ。昔は国家公務員として堂々と、華々しく活躍してたんだけどね。実質の施政者が何度も変わっているうちに、アングラ化しちゃったみたい」
 とは言っても、と黄泉鳥は廊下の行き当たりで立ち止まった。ドアがあって、『接待部』と書かれている。
「怪異への接待自体は、今も全国各地で、いくらでも堂々と行われてるんだけどね」
 IDカードをかざし、ドアをひらく。薄暗い書庫から一転、まぶしいくらいに明るい現代的な執務室が現れて、朋也は驚いた。
 事務机がいくつもの島を形作っている。働く人々は三十人以上はいて、パソコンをにらんだり、隅でコピーを取ったりしている。存在しないはずの地下だということを忘れそうになるくらいに平凡だ。
「これが接待部のオフィスで、手前は全部、最大ばつの予防接待課の島」
 黄泉鳥はオフィスの端を通り過ぎながら説明してくれた。
「わたしの所属する対処接待課は、すでに起こった異常事態をどうにかするのが仕事だけど、予防接待課は逆。異常事態を起こさないために行われている、偉大なるルーチンワークの監督が職務」
「偉大なるルーチンワーク、ですか」
「古典的な神って、最大効果を生む接待手法が完全に確立されているわけ。それを毎年の祭事でルーチンワークとしてくり返しておけば、荒れ神になるのをある程度は未然に防げる。これが予防的接待。今の我が国における怪異対応の主流」
「はあ」
 よくわからない。すくなくとも専門用語をりゅうれいに扱う黄泉鳥は、確かにこの方面の専門家だということだけは理解できた。
 それにしても。
「俺が入ってきてしまってよかったんですか」
 予防接待課からちらちらと寄こされる視線に、居心地の悪さを感じる。よそよそしいというか警戒しているというか。当然かもしれない。国会図書館の地下に怪異対応の組織が存在するなんて、国家機密ものだろう。
「気にしないでいいから。で、いよいよここから奥が、我らが対処接待課」
 黄泉鳥は本当に気にもかけていない口ぶりで、白いパーティションとパキラのうえばちで区切られたさきへゆうゆうと入っていった。
 そちらは打って変わってかんさんとしていた。十人ぶんほどのデスクがあるが、半分以上の席は誰も使っていないふんの上、雑然としているいくつかのデスクにも人の姿はない。在席しているのは、お誕生日席に座った中年の男性だけだった。妙に真剣に本を読んでいるが、よく見れば漫画本である。
「うち、異常事態への緊急対応が主だから、半分以上は支所駐在、あとの半分は調査なんかで外出しちゃってるんだよね。あ、まてリサーチャーだけは必ずオフィスにいるよ。あのおじさんのこと」
 年齢差がかなりありそうだが、「待馬さーん」と黄泉鳥はフランクに呼びかけた。
「今読んでるそれ、『てんじょうあゆ』の新刊ですか? あとで貸してくださいよ」
 待馬は漫画本から目を離さず、けんに深くしわを寄せる。
「誰が貸すか、自分で買え。売り上げに貢献しろ」
「電書では買ってるんですよう。でも紙でも読みたいってうるさいやつがいるので、どうかよろしく!」
「なーにがよろしくだ」
 待馬は大げさに息を吐いてから目をあげた。「それ、今ターンのそそのかし男のターゲット、三人目か」
 朋也について尋ねているらしい。
「そう、芽吹朋也さんです。まだ『唆し』に耐えてるんですよ、素晴らしい」
「そりゃすごいが、なんでよりによってお前が担当してるんだ。お前が出張るような案件じゃあないだろうに」
「そうでもないですよ。次こそは人死にを出したくないので」
「『人死にを出したくない』、ねえ」
 待馬はうんざりとした様子で漫画本を閉じる。「それでお前が身を張るわけか。勝手なことを」
「課長の許可は得てますよ。今回うまく鎮静化できれば、再発までの時間をかなり稼げますし」
 微笑ほほえむ黄泉鳥を、待馬はじっとりと睨む。大きく息をつき、放るように本を手渡した。
「ほら、貸してやるよ」
 それから今さら、外向きの笑みを浮かべて朋也に目を合わせた。
「ご心配なさらず。黄泉鳥、こう見えてウチの課の大エースです。助言どおりに行動すれば、問題なく沈静化できます。彼女の言うとおりにしてくださいね。必ずですよ」

【つづく】