黄泉月奇譚【後編】
怪異接待課のふたり
黄泉鳥はどのデスクにも近寄らず、漫画本を携えたまま突きあたりへ歩を進めた。
「……エースなんですか?」
「照れるねえ」
あっけらかんとしている。だから朋也もそれ以上は踏みこまなかった。なんだか課内でわけありの雰囲気が漂っているものの、黄泉鳥の助言を聞けばパーカー男と離れられるのならそれでいい。踏みこんだところで意味もない。
突きあたりまで行きつくと、黄泉鳥は小部屋のドアをあけた。六畳ほどの部屋はいたく雑然としていた。事務机と来客用のテーブル、ひとりがけのソファ、ポット。そして床が見えなくなるほどの本や書物の山。
「ごめんねえ片づけてなくて」
黄泉鳥は照れ隠しなのか、ことさら明るく朋也を促した。
「もしかしてここ、黄泉鳥さんの仕事部屋ですか?」
「そう。まあわたしの部屋というか、特危係の居室なんだけどね。特危係は基本はわたしひとりだから、わたし専用の部屋でも合ってるかも」
「おひとりで仕事されているんですか」
「わたし、大エースだからね。憑いてもいるし」
「憑いてる?」
「面倒くさい怨霊に憑かれてるんだよ。見てて」
黄泉鳥は慣れたように書物をかきわけ部屋の中央まで進むと、待馬から借りた漫画本を掲げ持った。誰もいない空間に向かって鋭い声音で告げる。
「雷公、『天上の鮎』の新刊を借りてきてやったから、綺麗に読んで」
とたん、虚空からにゅっと男の手が伸びてきて、漫画本を摑み取った。どこからか、ひび割れた笑い声まで響く。
「わたしが書物を汚すわけがありますか。それよりこの男、あなたの新しい相棒ですか? いよいよひとりが寂しくなったんですか? だったら一言言い添えてやりましょう」
「違うから」と黄泉鳥はぴしゃりと拒んだ。「あなたは漫画でも読んでいて。仕事を邪魔しないで」
「ふうん」
馬鹿にしたような声とともに、腕は再び虚空に引っこんでいく。漫画本を摑んだまま。
「今のが、わたしに付き纏ってる怨霊」
言葉もない朋也をよそに、黄泉鳥は切り替えたように模様替えをはじめた。デスクで使っている事務用椅子を、応接テーブルに引っ張ってくる。
「祖先と因縁があるらしくて、粘着されてるんだよね。ま、気にしないで、漫画本読んでるあいだは大人しくしてるから」
朋也はうなずくしかなかった。怪異は唆し男以外にも、間違いなく存在しているのだ。
にしても、と思う。黄泉鳥はそんな厄介なものに憑かれたうえ、仕事もこの小部屋でひとりこなしているなんて、寂しくないのだろうか。いかにも人との関わりが大好きで、人と関わりさらに輝く女性に見えるのに。
「なに考えてるの? 怖かった?」
「いや、そうじゃなくて」
あなたが寂しくないのか考えていた、とは言えずにいると、座るように勧められた。
「変なものばっかり見せてごめんね。気を取り直して、唆し男をどう接待するか相談しよう」
テーブルの上には一枚だけ、写真が伏せてある。それを一瞥してから、黄泉鳥は向かい合った朋也に真剣な面持ちで切りだした。
「怪異を鎮静するには、相手がなにを求めているかを正確に把握して、それに応じた接待をするのが大事なの。だから今回も、過去のデータをもとに最適な接待法を選択したい。ここまではいいかな」
「はい」
「じゃあ考えてほしいんだけれど、唆し男が君に求めているのはなんだと思う。なにをしてあげれば、満足すると思う」
あいつが俺に求めているもの。
しばし考えて、朋也は恐ろしい事実に気づいた。
「……まさか、あいつが唆したとおりに『やる』ことですか?」
「そのとおり」黄泉鳥はなんら葛藤もなく、にこやかに答える。「そして怪異の求めどおりのものを提供するのが接待の基本、鎮静への道。てことで、もうわかるよね。君にはやつの求めどおり、『やって』もらいたいの」
耳を疑った。黄泉鳥は『やれ』と、人殺しになれと勧めているのか。人を殺さずすむように、そのためにこの人を頼ったというのに。
「そんな、でも、別の方法はないんですか。こう、なにかで打ち負かすとか、縛りつけて閉じこめるとか、化け物退治にはいろいろあるでしょう、呪文とか、お札とか」
「そういうのは一時的に凌げるだけで、根本的に鎮静化を果たしたとは言えないんだよ。怪異とはカミ、カミみたいな存在が、我々人間に本気で捕まったり負けたりするわけがないでしょ」
「ですけど」
「もちろん一種のプロレスとして、怪異が納得の上で勝負するなら意味がある場合もある。でも残念ながら、唆し男が求めているのはそれじゃない。あれに消えてもらうには、君が『やる』、それ以外の方法はないの」
「俺にはできません」
冷や汗が滲む。できるわけがない。
「なにも無差別殺人しろなんて言ってないよ。無辜の人に被害が出るのはわたしも避けたい」
「じゃあいったい、なにを『やれ』って言うんですか」
腰を浮かせかけた朋也に、黄泉鳥は薄く微笑んだ。
「本当はわかってるでしょ?」
「……なにがです」
「君が真に『やりたい』のは、この男のはず」
息を詰めた朋也を見据えたまま、テーブルに伏せてあった写真をめくる。
写っているのは、トドだった。
塾の窓辺で大あくびをするトド。
「どうして……」
朋也は唇を震わせた。心臓が激しく跳ねる。脂汗が滲んで、こめかみを伝っていく。
「実はね、唆し男が君に憑いている可能性が高いことは、しばらく前から把握できていたの。君が地下鉄で唆し男に遭遇したとき、そういうものを感じとれる職員が偶然近くにいてね。以降文書院では、要観察対象として君をチェックしていた」
口の中が乾いていく。であれば今日、東京駅で黄泉鳥が青天の霹靂のように現れたのも、実際はタイミングを計ってのことだったのか。
「ずっと俺を泳がせていたんですか」
苦しんでいる様子を観察していた。
「早く助けてあげたかったけど、確証が持てるまでは接触できなかった。唆し男の姿がはっきりと見えているのは、憑かれている君だけ。今日、東京駅の丸の内北口っていう怪異を見るにうってつけな場所に至ってようやく、確証が得られた」
ごめんね、と黄泉鳥は言う。口先だけの言葉に聞こえる。
「そういうわけで、君の周辺情報もある程度は把握してるの。どうやら君、そうとう酷使されているみたいだね。ほとんどの講義を押しつけられて、毎日激務に明け暮れている。休みもろくに与えられず、給料もあがらない。なのにトドは毎夜のように遊びに繰りだし、酔いも醒めないままに塾にやってきて、無理難題を浴びせてくる。君はひどく疲れていて、余裕を失っている」
なぜ知っている。驚きと戸惑いは、やがて憤りに変わっていく。
「そして君は、トドに恨みを感じている。殺したいほど憎んでいる」
「違う」
朋也は強く撥ねつけた。「塾長は恩人なんだ」
「らしいね」黄泉鳥は目を細めている。動揺のそぶりすら窺えない。「トドがあちこちで語ってるサクセスストーリーによれば。君は両親を早くに失って、母方の伯父に引き取られて育てられた。伯父は体面を気にしてか君を大学には入れたけれど、入学した途端にすべての援助を打ち切って、君はバイト生活に明け暮れるようになった」
喉が塞がったように声が出ない。
そう、大学進学と同時に、伯父は親戚の縁を切ると宣言した。充分責務は果たした。これ以上お前の世話をする義理はないというのが伯父の言い分で、朋也としても文句はなかった。歓迎されない居候であるのは昔から知っていた。
ただせっかく入った大学だけは卒業したかった。卒業して働くことが、穏やかに、真っ当に生きる近道だと信じていた。だが生活は苦しく追いつめられて、そんなときに出会ったのがトドだった。
「トドは困窮している君を、創設したばかりの塾のバイトとして雇いいれた。当面の学費も工面してくれて、君の生活はようやく安定した」
「そこまで調べがついているならわかるでしょう! 俺はトドのおかげで暮らしていけた。彼は恩人なんです。だから――」
黄泉鳥は片手をあげて、いきりたつ朋也を制した。
「君がバイトとして頭角を現してしばらく経ったころ、トドはこう持ちかけてきた。『君は優秀な人材だ。ぜひとも今すぐ中退して、我が塾に就職してくれないか。そうすれば、将来塾を拡大したさい、君をそちらの塾長に任命するから』、と」
朋也の脳裏に、鮮やかに当時の喜びが蘇る。嬉しかったのだ。未来の塾長の確約が得られたからではない。必要とされたことが幸せだった。
中退してもいいと思った。真っ当に生きる道は目の前にある。もし断ったら、トドは失望するかもしれない。伯父のように朋也を捨てるかもしれない。このチャンスを逃したくなかった。ここが自分の生きる場所だと思った。
「君は申し出を受けた。中退し、就職した。とたんトドは豹変した。退路を断たれた君の弱みにつけこんで、酷使するようになった。激務を押しつけて、唆し男に憑かれるほどに君を追いつめた」
違う、と否定する自分の隣で、別の自分が言っている。そうだ、そのとおりだ。こんなの無理ですと何度告げたところで無駄だった。あの男は自らを演出することに関しては天才的で、カリスマだった。塾が繁栄しているのは末端講師の朋也の力ではなく、トドの方針の賜物だと誰もが信じていた。
だから我慢してきた。
我慢して我慢して、やり過ごしてきた。
なのに。
「『やりたい』のなら、やればいいんだよ」
不思議な色の瞳が、仄暗く煌めいている。
「なにも殺せとは言わない。一発、思いきり殴ってやればいい。それで唆し男はある程度は満足する。数年はおとなしくしてくれるし、間違いなく君からは去る」
殴る。トドを一発殴ってやる。あの巨体をぼこぼこにする。二度と立てないように、殴って殴って殴り続けて。
「……だめだ」
朋也は喉の奥から声を絞りだした。「俺はやらない」
「そんなに塾長になりたいの?」
黄泉鳥の声は酷薄だった。嘲笑っているようだった。「残念だけど、トドは夜の町で金をしこたま使いこんでるよ。塾の規模を拡大する経済的余裕なんて皆無だし、そもそも拡大のための資金形成をしようとした形跡もない。つまり、君ははじめから騙されていたんだ。トドが遊ぶための金蔓として搾取されて――」
「黙れよ」
たまらず立ちあがった。息があがる。視界がぼやける。脳裏をあの笑い声が、ささやきが巡っている。覆い尽くしそうになっている。やれよ。やっちゃえよ。
「あんたを頼ろうとした俺が馬鹿だった」
誰かを信じて縋ろうとしたのが間違っていた。わかっていたのに。
「待って、ここにいて。今文書院を出ていけば、また唆し男にまとわりつかれるよ」
背にかかった声など無視してドアをあける。今すぐこの場を去らなければ。そうしなければ、爆発するかもしれない。唆し男に屈して、『やって』しまうかもしれない。
他でもない、目の前にいるこのひとを。
日は傾いていた。思いのほか時間が経っていたらしい。夜の講義開始まであと一時間もなく、朋也は無意識にスマートフォンに手を伸ばした。着信が鬼のように残っている。
すべてトドからだと気がついたとたん、心臓が大きく跳ねた。息が荒くなる。耳に声が注ぎこまれる。
やっちゃえよ。なあやっちゃえって。お国勤めの職員さんのお墨付きだし、思いっきりやればいい。
トドを殺せよ。
殺せ。
自分のものではない、白いスニーカーの足先が視界にちらつく。灰色パーカーの男が背を丸め、正面から朋也を覗きこんでいる。蛍光ピンクがふらりと揺れる。相変わらずケタケタと嗤い声がする。
逃げられない。そう、逃れられないのだ。こいつは俺が誰かを『やる』まで去ってはくれない。
だとしたら。
鋭く息を吐きだした。意を決して顔をあげ、パーカー男を正面から睨みすえた。
「あんたの言うとおり、派手に『やって』やる。だから、静かに待ってろ」
パーカー男の口が、アルファベットのオーのようにすぼまった。それも一瞬で、再びにやにやとしはじめた男の脇をすり抜けて、朋也は大股で歩きだす。
夏空の広がる国家の中心を抜けていく。スマートフォンが震えている。パーカー男の気配を背後に感じる。背を押されている気さえする。今にも『やって』しまいそうな自分がいる。走りだしそうな自分が。
その度に言い聞かせる。間違えるな、俺が選ぶ道はひとつだ。
四車線道路を渡ったさきに、大きな公園の緑が見えてきた。催し物がひらかれているようで、老若男女が楽しげに集っている。我慢がならず、ふらふらと走りだす。ひとけのない歩道橋を駆けあがって、はじめて安堵を覚えた。よかった、これで終わりだ、おしまいだ。歩道橋の中央、車道の真上で身を乗りだした。四トントラックが歩道橋下に迫り来る。パーカー男が嗤っている。時が妙にゆっくりと感じられる。
もう俺は、甘く唆す声に耐えられない。抑えておけない。だから片を付ける。
誰かをやらねば怪異が去らないのなら。
俺が、自分を『やれ』ばいい。
頭を垂れる。浮遊感に包まれる。やっと終われる。真っ当なまま死ぬことができる。
背後から、思いも寄らない衝撃が来た。
なにが起こったかわからないうちに腰に両腕を回され、裏投げで投げ飛ばされる。朋也は勢いよくもんどり打って、歩道橋のコンクリート上に転がった。
間髪を容れず、上ずった怒声が降り注ぐ。
「なに考えてるの!」
朋也は這いつくばったまま、声の主を啞然と見あげた。肩で息をしているのは、小柄な女性。
黄泉鳥だった。
わけがわからなかった。なぜここにいる。つけてきたのか? なんのために。これで終われるはずだったのに。楽になれそうだったのに。
「……どうして止めるんだよ」
生々しい怒りが、腹の底から衝きあがってくる。押しこめていたそれが噴きだしてくる。朋也は奥歯を嚙みしめ立ちあがった。
「『やれ』って言ったのはあんただろ」
「自殺しろなんて言ってない!」
「他にやりようなんかあるのか? 俺に無差別殺人鬼になれと?」
「トドを一発殴るんじゃだめだったの」
「あんたはなにもわかってない」朋也は腕を振り回した。「それじゃ唆し男は満足したって、俺が満足できないんだよ。一度殴りかかったら、俺はきっと死ぬまで殴る。間違いなく殴る。そんなの、あんたらは認められないだろ」
「全然認められるよ」
黄泉鳥は小さく肩をすくめる。「それほど殺したいのなら殺せばいい。支援しようか? クズのために君が死んでやる必要なんてない」
なにを言われたのか、すぐには理解できなかった。
「……公務員だろ、あんた」
「我々の目的はあくまで怪異の鎮静。もし君が完全に『やって』恨みを晴らせれば、唆し男も大満足。数年どころか十年はおとなしくなって、我々としてもありがたいから」
蝉が鳴いている。空が茜色に染まっている。誰もがやさしい顔をしている。青ざめた朋也と、読めない笑みを湛えた黄泉鳥のほかは。
「どうする、今から『やり』に行く?」
「人殺しを薦めるのか」
「当然犯行隠蔽はサポートするよ」
「そういう問題じゃない」
朋也は後ずさった。なんなのだ、この人は。身を張って身投げをとめるくせに、あっさりと殺人教唆をする。怪異よりもよっぽど得体が知れない。なにを求めているのかわからない。
「なにを言われようと、俺は殺しなんてしたくないんだ」
「それがにっくきトドでも?」
「トドでも見知らぬ人でも同じだろ。最後まで真っ当でいたい。真っ当なまま死にたい」
「……もしかして、それが君の信条? だから、自殺で幕引きを図ろうとしたの。人殺しになるまえに、自分が死んで決着をつけようとした」
「そうだ」
叩きつけるように言いかえせば、黄泉鳥は口を引き結んだ。
やがて額に手を当て、苦笑いを浮かべた。
「やっぱりね。君がそういう人間なのは、薄々わかってた。だからさっき、さっさとわたしを『やる』よう誘導したのに」
「……誘導?」
「君、さっき国会図書館の地下でわたしに失望したでしょ。殺意が湧いたでしょ? 別にいいんだよ、そう感じるようにあえてふるまったんだから」
黄泉鳥は軽く笑っている。意図するところを理解して、朋也はますます青ざめた。
まさかこの人は、朋也に自分を殴らせ怪異を満足させようとしていたのか。他人に被害を及ぼさず、問題を解決しようとした。だからわざと焚きつけた。あえて突き放すような、冷たい物言いをした。
「……本気ですか」
一発ですんだかわからないのに。溜めこんだ鬱屈を爆発させた朋也に、殴り殺されたかもしれないのに。
「本気も本気だよ。君は抗わず、流されればよかった。わたしを殴ってすっきりすればよかった。それが誰も傷つかずに終わる方法だったんだよ。なのにまさか、自殺しようだなんて」
誰も傷つかない? あんたと俺は滅茶苦茶傷つくだろうに。言い返したかったが、言えなかった。だから代わりに、できる限り冷静に絞りだした。
「申し訳ないけど余計なお世話です。俺はなにを言われようとあなたを殴るわけもないし、俺が死ねば丸く収まるなら、喜んで死ぬので」
「なんでそうなっちゃうの」
「自分が引き起こした問題に、他人を巻きこみたくないんです。あなたもトドも、無関係な善人も」
「唆し男に憑かれたのは不可抗力だよ。君のせいじゃないし、責任をとる必要もない」
「違います」
それは違う。自分が誰より悟っている。
「俺が怪異を引き寄せたんです。俺はずっと、トドを『やる』きっかけを探していた。決別したかった。だけど、どうしてもできなくて」
だからこそ憑かれた。全部自分が悪いのだ。
「……やつに恋してたの?」
「まさか」
「だったらなぜ」
言えるものかと撥ねつけたかった。明かしたところでなんの意味があるのか。
なのに、ガーネットのように暗くきらめく黄泉鳥の双眸を見つめているうちに、勝手に口が動いていた。
「……この世で俺を必要としているのは、トドだけだったから」
自分の声でないように感じる。誰にも明かしたことのない過去を、さらけだそうとしている。
「詳しく話してくれる?」
「俺は、副都心で遊び暮らしていた誰かと、母のあいだにできた子なんだそうです。詳細は知りません、すぐに母にも捨てられて、伯父に引き取られたので」
黄泉鳥はうなずいてくれる。とめどなく過去が唇から流れだす。
「はじめ、伯父は俺を大事にしてくれました。ただそれも小学四年生の夏、十歳の誕生日の日まででした」
あの日朋也は伯父にお使いを頼まれて、副都心の裏に広がる繁華街に足を踏みいれた。なにを頼まれたのかは覚えていない。でも、そう難しくもないものだったはずだ。寄り道だってしなかった。
なのに気づいたときには、帰り道がわからなくなっていた。すでにあたりは真っ暗で、ネオンの毒々しい明かりが煌々と輝いていた。行き交う人々はけたけたと笑い声をあげていて、幼い朋也の姿など見えてもいないように振る舞っている。人も景色もぐにゃぐにゃと歪み、溶けてひしゃげたと思えば形をなし、なにもかもがこの世のものとは思えなかった。
俺は一生、元の世界には戻れないんだ。
確信めいた予感がした。この街に喰われてしまって、骨一本も残らないんだ。
「さいわい親切な女性が助けてくれて、俺はその恐ろしい夜を抜けだしました。彼女が知っている道まで送ってくれたんです」
息を切らして伯父のマンションまで走って戻った。きっと心配しているだろう、安堵に顔をほころばせ、迎えてくれるだろう。
「――でも伯父は、俺を見たとたんに青ざめました。なぜ戻ってこれたのかと驚き、怒りだしました」
それで悟った。伯父は朋也が戻ってくるなんて露ほども思っていなかった。迷子になってしまったのも偶然ではなかった。そもそも伯父が、そうなるように仕組んだのだ。朋也を捨てたつもりだった。
だが戻ってきてしまった。望まれもしないのに。
「それで俺は、自分の存在は誰にも必要とされないものなんだと理解しました。なるべく誰とも関わらず、迷惑をかけずに生きてきました。あの日以来伯父が白々しくなっても気にしないふりをして、縁を切ると言いだしても、そういうものだと受けいれて」
そもそも両親に捨てられた人間だ。親すら目もくれない存在が、誰かに望まれるわけもない。
「だけど、トドだけは君を必要としたんだね。君が大切だと言ってくれた。だから君は中退して、彼の会社に人生を捧げようとした。こき使われても、搾取されても」
ひっそりとした黄泉鳥の声に、朋也はぼんやりとうなずいた。
「利用されているのは、薄々わかってました」
そう、本当は気づいていた。トドが朋也を助けたのは、好き勝手に使える労働力がほしかったからで、そこに愛情はひとつも含まれていないことも。慕っていたのは朋也だけで、その敬愛をうまく利用して、トドが遊び暮らしていたことも。
もし朋也が唆し男に屈して無差別殺人に至ったとして、トドはきっと、冷徹に朋也を切り捨てるだろうことも。
全部わかっていた。わかっていたけれど、認めたくなかったのだ。
「今だって俺は認められないんです。だから殺せない。殺したら、終わってしまう」
殺した瞬間、朋也を必要だと、大切だと思う人間などこの世にいないと受けいれねばならなくなってしまう。
だから自分の命を捨てると決めたのだ。俺だけ消えればそれでいい。
「そっか」
黄泉鳥の声には、確かに情が滲んでいた。と思えば妙にきびきびと、柏手を打つように手を合わせる。
はたと朋也は顔をあげた。急に落ち着かない気分になる。
俺は、なにをぺらぺらと喋っているんだ。
動揺している朋也に、黄泉鳥はまっすぐな視線を向けた。
「朋也くん。もう一度だけ、わたしにチャンスをちょうだい」
「……あんたを殴るのは嫌だって言ったでしょ」
「別の作戦を思いついたの。君の信条も人となりも知ったからこそ思いつけた、誰も試したことのない方法がある。聞いてほしい」
「そんなこと急に言われても」
朋也は大きく一歩退く。構わず黄泉鳥は詰めてくる。
「実はね、唆し男に憑かれた人間が自殺を図ったこと、今まで一度もないんだよ。文書院にはそんな記録、ひとつもない。唆された人間は恨んでいる人を害すか、無差別に他人を攻撃するかのどちらか。例外なく、必ずどちらかの行動をする。してきたの、今までは」
いつしか太陽は摩天楼の向こうへ去っている。黄泉鳥の瞳だけが、双子の夕日のように輝いている。
「でも君は違った。唆し男の悪意に呑みこまれず、自分を見失わず、意志を貫いた。真っ当であろうと足搔き続けた、その結果、誰にもできなかったことをした」
「……俺はただ、自殺しようとしただけなんです」
「自殺という解答に辿りついてしまったのはただ、死ぬしか道がないと思ってたから。どうしても死にたかったわけじゃない、そうでしょ?」
死んでもいいとは思っていた。こうして黄泉鳥が必死な表情で説得をはじめるまでは。
「君の意思は、誰も殺さず怪異を鎮められる類い希なる力に変わるかもしれない。向けさきさえ変えればね。だからどうか手を貸してほしい。わたしがちゃんと導くから。君にしかできない接待があるの。君が必要なの」
「そんなこと言って、あなただって結局は――」
「わたしはトドとは違う。君という人間の意思、そのものを必要としてるんだよ」
殴られたような衝撃を感じて、朋也は口を引き結んだ。
意思。
朋也の意思。朋也という人間の考え、生き方、そのもの。それこそを求めているという。必要だと言ってくれる。迷いない口ぶりで、瞳を一瞬たりとも逸らさずに。
誰もが目もくれなかった、俺という存在を。
揺さぶられる。身体が熱くなってくる。本当だろうか。また裏切られるかもしれない。期待するだけ無駄かもしれない。
それでも。
睨むように見つめれば、同じ強さで見つめ返してくる。意思が意思を求めている。それがくっきりと感じられる。
だったら。
「……聞かせてください」
もう一度だけ、俺は、信じてもいい。
早朝の白みかかった空に照らされたトド数理塾で、朋也は宣言した。
「やめさせてもらいます」
ソファに寝転んでいたトドは、二日酔いで充血した目を瞬かせる。やがて薄ら笑いを浮かべた。
「どうしたの、なに怖い顔しちゃって」
朋也は動じずくり返した。
「本日付で退職します。夏期講習も無事終了しましたし、区切りもいいかと」
「いやいやいや、どこが」
本気だと気がついたのか、トドは巨体を揺らがせ、引きつった笑いを浮かべて起きあがる。
「これから受験本番でしょ? ここで投げだすの? それほど無神経だとは思ってもいなかった。ショックだよ、かわいそうでしょう生徒たちが」
「塾生にはすでに事情を話してあります。年度末まで僕の講義を受けたい場合は個別に対応しますし、信頼のおける他塾への紹介もすでにいくつか行いました」
「……独立するつもり? 今までの恩も忘れて、人が必死になって集めた生徒を盗んで」
「そうではなく――」
「てめえ、許されると思ってんのか?」
突如トドは怒鳴り声をあげ、朋也の胸ぐらを摑みあげた。
「お前なんかが独立したところでうまくいくわけねえんだよ。わかってんのか?」
「独立するつもりなんてありません」
「俺が仕込んでやったんだ。それも都合よく忘れていい身分だな」
「塾生を全員送りだしたら、俺はこの業界を去ります」
激しく揺さぶられても、怒りは湧かなかった。ただただ悲しい。最後まで信じたかったものまでが、あっけなく崩れていく。
「お前がどうするかなんてどうでもいいんだよ! 後ろ脚で泥かけやがって。俺を貶めて、俺の塾を滅茶苦茶にして」
「滅茶苦茶にしたのはあなた自身でしょう」
「生意気な口聞くんじゃねえよ!」
殴られ、突き飛ばされる。ホワイトボードの角に叩きつけられたのか、頬が切れて血が滲む。
思わず笑いが漏れた。なんだこいつ、本気でクズじゃないか。こんなやつに依存していた俺は馬鹿みたいだ。
「なに笑ってんだよ」
「俺は馬鹿だったなって」
恩も借りもなかったわけではない。感謝している部分だってある。
だがもう、全部綺麗に返しつくしたのだ。
「なにを――」
「警察沙汰にしますか?」
頬に血を滲ませたまま立ちあがる。「もし穏便に済ませたいなら、俺の辞職を認めてください。そのほうがあなたのビジネスにも好都合でしょ」
「てめえ」
トドは怒りに震えている。今にも殴りかかってくるのでは思うほどに。それでも結局は、瞳をぎらつかせたまま、笑顔らしきものを作ってみせた。
「じゃあいいよ、ならいい、勝手にどこでも行けよ。うん、行けばいいんじゃない。お前を必要とする場所も人もないから、野垂れ死ぬのがオチだろうけど」
「かもしれませんね」
確かに朋也に行くところなんてない。金もなく血縁もない。真っ当でありたいという願いを貫けば、遠からず野垂れ死ぬのだろう。
「でも、すくなくとも一度はちゃんと必要としてもらったので、俺は満足ですよ」
朋也は塾のドアをあけた。トドがなにかをわめいている。僕だって必要としてるんだよとかなんとか言って、翻意させようと足搔いている。
目もくれずに飛びだした。
雑居ビルの入り口では、腕を組んで壁にもたれた黄泉鳥が、朝靄に霞んだ通りを無表情に見つめていた。駆けおりてきた朋也の表情を一目見るや、打って変わって頬を緩める。
「うまく決別できたみたいだね。ま、君なら大丈夫とは思ってたけど」
可愛らしい柄の織りこまれたハンカチをさしだしてくれる。切れた頬を拭えということか。朋也はさすがに躊躇した。
「こんな綺麗なの、使えません」
「ハンカチの存在意義を否定しないでくれる? それに早く拭っておかないと。唆し男との戦いはここからが本番なんだから」
「……そうでした」
今度は素直に受けとった。そうだ、トドを捨てただけでは解決にならない。
これからが本当の戦いなのだ。
傷口を拭って顔をあげる。静まりかえった早朝の通り、向かいのガードレールの前に、灰色のパーカーの男が立っている。フードに隠れた暗闇の奥から、ひたと朋也を見つめている。
常に浮かんでいた笑みは今は失せ、唇に力が入っている。怪異は不満を抱えている。激怒している。
背に走った震えを抑えこみ、朋也は黄泉鳥と見合った。黄泉鳥はうなずく。背を押された気がした。唆し男に向かい合い、腹に力を入れて声を張る。
「俺は『やった』からな、唆し男。あんたの望み通りに『やって』みせた。あんたが唆してきたとおりに、自分が縋っていた縁もしがらみも捨てた。今までの自分を殺した。うち捨てたいと思っていたものをうち捨ててやった」
パーカー男は微動だにしない。それでいて、言外の激しい拒絶が押しよせる。恐怖が肌の一枚下を這い回り、脈があがって息が切れる。自然と屈したくなってくる。唇は今にも、勝手に告げそうになっている。ごめんなさい、今すぐあなたが満足するようにやり直します。あなたの唆しに身を委ね、誰でもいいから、ちゃんと人を殺します。
だからこそ、朋也は口をつぐまなかった。
「確かにイレギュラーな『やり』方だったけど、それはそれで面白かっただろ。満足しただろ? したはずだ。だから今すぐ、俺の前から消えてくれ」
――いちかばちかだよ。
黄泉鳥はそう言っていた。
――唆し男を退けるには『やる』しかないっていう原則は変わらない。なにかを『やって』満足させるしかない。でも君は、誰も殺したくないんでしょ。
――そしてわたしは、君に死んでほしくない。
――だとしたら、いちかばちかで別のもの、つまりは君がずっとこだわっていた、トドへの心理的な依存そのものを『やって』みせるしかない。
縋ってきた関係を否定して、弱い自分を拒絶して、完璧に断ち切るしかない。
――もちろん唆し男は本来、誰かの命が失われる結末に満足を覚える怪異だよ。そしてただただ怪異の求めに寄り添うのが、理想的な接待でもある。確実に鎮静化を狙うなら、誰かを物理的に殺すのが正道なのは変わりない。仮にトドとの関係性を絶ち、君の内面でトドがきっちりと死んだとしても、それを怪異自身が『やった』とみなしてくれるかは五分五分。というより、あっさり認めさせるのはかなり厳しいだろうね。
だからこそ。
――だからこそ君は、ただの接待よりもはるかに難しい、『説得』をしなくちゃいけない。どんなことがあろうと折れずに、怪異に立ち向かわなきゃいけない。立ち向かって、君が決めた『やり』方を押しつけて、それでも怪異が異を唱えてきたら、力ずくで納得させなきゃいけない。相手が折れるところまでもっていかなきゃいけない。
覚悟できるのか。そう黄泉鳥は尋ねてきた。
最後まで諦めず、説得を続ける覚悟はあるのか?
朋也はしばらく考えて、あえて尋ね返した。
――黄泉鳥さんは、俺にできると思いますか。
返ってきたのは、迷いない即答と笑顔。
――できると信じているから、どの記録にもない作戦を立てて、君に委ねたんだよ。
そうか、と朋也は思った。俺は正直、自分になにができるのかわかっていない。自身への信頼だってない。
だがこの人が、俺ならできると信じてくれるのなら。
――やってみます。
立ち向かうと決意した。決めた以上は揺らがない。たとえ荒ぶる怪異が、朋也の言葉を受けいれるそぶりをまったく見せずにいようとも。
「やっちゃえよ」
パーカー男は唆してくる。声に苛立ちが交じっている。朋也は構わず撥ねつける。
「もうやった。これ以上あんたに見せられるものはない」
「いいからやれよ」
「死体ならここにある」と胸を叩く。「今までの俺は死んだも同然だ。土産に持っていってくれて構わない」
「やれよやれよやれよやれよ」
「これ以上、見せるものはないって言ってんだろ!」
怒鳴り返した瞬間、唐突にささやきがやむ。説得できたのか?
黄泉鳥に尋ねようとした瞬間、パーカー男の身体がゴムのように伸びて襲いかかってきた。
あまりに速くて反応できない。視線があがる。夜明けの空に灰色の影が飛んでくる。人とは似ても似つかない、ぎざぎざと尖った歯を剥きだしに迫ってくる。たまらず瞼を伏せかけた。怖い、恐ろしい。とても直視していられない。
黄泉鳥の鋭い声が響く。
「目を背けないで!」
我に返った。歯を食いしばり、目をあげる。睨み据えたまま、血の染みこんだハンカチを投げつける。
「持っていけよ、ほら!」
唆し男の剥きだしの牙が、トラバサミのようにハンカチに食いついた。とたんに灰色の影はもとの場所まで縮んで、痩せぎすの男の姿に戻る。
口にハンカチを咥えている。咥えたまま、にやりと笑っている。
男の身体は発光しはじめた。あっという間にスニーカのさきからフードのてっぺんまで白く染まって、あまりの眩しさに目をひらいていられなくなりそうだと思った瞬間、唐突に、跡形もなく消え去った。
静寂が広がっていく。
パーカー男の姿も失せていた。朋也の血を吸ったハンカチごと、元からなにもいなかったかのように。
「終わった、のか?」
朋也は後ずさり、座りこんだ。心臓が激しく跳ねている。今さら恐怖が湧きあがってきたようで、足に力が入らない。満足させられたのだろうか。解放されたのか?
「終わったよ」
歩み寄ってきた黄泉鳥が、朋也の足元からなにかを拾いあげる。
「これが証拠。見て」
いたく透き通った、立派な六角柱の結晶だった。
「なんですか、これ」
「唆し男が鎮静化して去るときに置いていくの。君の接待に満足したって証だよ」
「満足した……」
「つまり君はやり遂げた。あの厄介な神を説得しきって、鎮めたんだ」
「……解放されたってことですか」
「そう。これにて唆し男、沈静完了ってわけ」
黄泉鳥は結晶と現場の写真を数枚、冷静にスマートフォンで記録する。
それから心底嬉しそうに朋也に抱きついた。
「朋也くん、すごいよ君!」
あまりに自然に飛びつかれたので、拒む暇もなかった。身を強ばらせた朋也だが、邪心のない、嘘偽りのない喜びが宿った声を聞いているうちに、つられたように頬を緩ませる。
ずいぶん久しぶりに笑った気がした。
結局、トドは塾を畳んだらしい。
らしい、というのは、人づてに聞いただけで、朋也自身は詳細を知らないからだ。もともと資金繰りが行き詰まっていたそうだから、倒産しなかっただけましなのだろう。
あれからしばらく、トドはしつこく嫌がらせをしてきたが、朋也を突き飛ばして怪我をさせた瞬間の動画がなぜかばっちりと残っていると知るやあっさりと引き下がった。トドにとっては学習塾事業は単なるビジネスのひとつ、新たに仕掛ける事業の足を引っ張るトラブルはなかったことにしたいのだろう。
ちなみに動画を撮ったのは、文書院にいた、リサーチャーの待馬らしい。どうやって撮ったのだろう。今でも朋也はよく知らない。
黄泉鳥はその後も親切にしてくれた。トドを訴える方法もあるよと提案してもくれたが、朋也は断った。トドを断罪すると、彼を慕った自分まで裁いてしまう気がした。
翌春、残っていた受講生を無事送りだし、朋也は正式に塾講師をやめた。すべてが片付いた報告に、晴れた午後にあらためて国立国会図書館を訪れると、黄泉鳥は変わらぬ笑顔で迎えてくれた。
待ち合わせたのは地下九階ではなく、一階のカフェ。向かい合って腰を落ち着けると、朋也は意を決して小さな包みをさしだした。
「お世話になったお礼です。受けとっていただけますか」
「やだ、そういうのいいのに。こき使っちゃったし、だいたいこっちは仕事なんだから」
「でもお借りしたハンカチ、汚した上に唆し男に持っていかれてしまったので」
「……ハンカチ買ってきてくれたの?」
黄泉鳥の表情が変わる。そわそわしはじめた。
「今さらになってすみません。一応、お借りしたものと同じブランドのものを選んできたんですが……趣味でなかったら、それもすみません」
デパートで選んだのは、紫地に、一斉に伸びてきた黄緑色の新芽の模様が織りこまれたものだった。新芽の上を幸せそうな顔をした黄色の鳥が舞っている。黄泉鳥のあっけらかんとした明るさ、仕事への厳しさ、どちらにもぴったりな気がして、いくつか選んでもらった候補の中から迷わず決めたのだが、今になって自信がなくなってくる。
「どんなのでも嬉しいよ」
気もそぞろにフォローしながら包みをひらいた黄泉鳥は、大きく目をみはった。柄に衝撃を受けているようにも見えて、朋也の脳裏に一瞬、後ろ向きな思考がよぎる。
それもあっけなく、弾んだ声に吹き飛ばされていった。
「これ、一瞬で売り切れた限定品じゃない! どうしても仕事を抜けられなくて諦めたのに……本当にもらっちゃっていいの? どこで見つけたの?」
不思議な色の瞳を輝かせて身を乗りだしてくる。のけぞり朋也は答えた。
「手違いで残ってた在庫品らしくて、たまたま店員さんが見つけてくれたんです」
「ええ、すごい! 君って実はラッキーボーイだね」
「どうでしょう」ラッキーな人生だったとは微塵も感じないが。「でも、喜んでいただけてよかった」
心の底から湧いてきた、素直な感情だった。この人に喜んでもらえて、俺は嬉しい。
「うん、ありがとうね、ずっと大切にするよ」
黄泉鳥の瞳が、じんわりと細まっている。朋也は小さく笑ってうつむいた。真っ正面から感謝の言葉で応えてもらえた、それがたまらなく気恥ずかしいのに、ずっと浸っていたい気もする。
「よし、じゃあわたしもお返しに奢らせて」
黄泉鳥は過剰なくらい丁寧にハンカチをしまいこむと、テーブルの隅に立てられていたメニューを摑み取った。
「いや、大丈夫ですから」
断ろうともお構いなしにメニューを押しつけてくる。
「気を遣って飲み物だけとかはNGだからね。絶対になんか食べて、おいしいの」
逡巡のあげく、タルトケーキのセットを頼んだ。ほどなく瑞々しい洋梨のタルトがやってくる。思った以上に豪華なケーキに身じろいだが、抹茶パフェを頼んで満面の笑みの黄泉鳥を目にしたら、不思議と肩の力が抜けた。恐縮するより、楽しんだほうがいい。そのほうがきっと、この人は笑顔になる。
「俺、喫茶店でケーキを食べるなんて、十年以上ぶりです」
「え、そうなの? もしかしてケーキ嫌い? 無理して食べてる?」
「いえ、ケーキ自体は好きなんです。ただ伯父に見捨てられてから、喫茶店に入ることなんてなくて」
金も、喫茶を満喫する余裕もなかった。トドはケーキになんて興味がない男だったし、他に食事を一緒に楽しむような知り合いも、大事な人も作らなかった。捨てられるのなら、はじめから近づかなければいい。ひとりでいれば気楽だと自分に言い聞かせていた。
「そうなんだ……」
黄泉鳥はパフェを頬張ったまま眉を寄せる。しまった、つまらない話をしたと朋也が後悔したときには、メニューを引っ摑み、またしても押しつけにかかっていた。
「いくらでも食べて。好きなだけ頼んで」
「さすがにひとつで充分ですよ」
「それじゃあわたしの気が収まらないんだよお」
「俺の胃袋は充分だって言ってますから」
「なんとかしてよお」
なぜか泣き言を言い始める怪異の専門家に、朋也は笑ってしまった。本当にこのひとは、太陽なのかもしれない。
タルトはやさしい甘さで美味だった。黄泉鳥もパフェをぺろりと平らげる。相変わらず、美味しそうに食べる人である。
「それで、これからどうするの?」
近況報告もすみ、そろそろおひらきという雰囲気が漂いはじめたころ、食後のコーヒー片手に黄泉鳥は尋ねてきた。
「単発のバイトで食いつなぎながら、真っ当だと俺自身が認められるような、そういう道を探します」
「なにか当てはあるの?」
「全然。でも、なんでもいいんです。誰にも迷惑をかけず、かけられず、自分の力で生きていければ」
すくなくとも、唆し男と対峙したあの瞬間、目の前にいるこの人は、朋也を信頼して任せてくれた。朋也の意思を必要としてくれた。だから大丈夫だ。これからさき誰にも必要とされなくても生きていける。そんなに長生きするつもりもないし。
「なるほどねえ」
黄泉鳥はカップを口に運び、のんびりとつぶやいた。丁寧に飲み干すと、急にしゃきっとして立ちあがる。
「じゃ、いつから来れる?」
「……どこにです」
黄泉鳥は、なにを世迷い言をと言わんばかりに小首を傾げ、指で地面を指ししめした。
「ここ、文書院。人事に伝えとくから」
え、と朋也は絶句した。「働くってことですか? 俺が?」
「そ」
「いや、でも」
「うち、どこよりも真っ当だから。権公務員待遇。給料は国家一種なみだし、プラス現場手当も潤沢に出る。なかなかの高給取りだよ? 来るでしょ?」
まさか来ないわけはあるまいと信じきった表情を前に、朋也は言葉を探した。
「ありがたいですが、その」
「その?」
「俺でいいんですか。俺なんかに務まるんですか」
朋也のような見どころのない人間が、文書院――怪異の専門家集団に飛びこんでいいのだろうか。
黄泉鳥はぽかんと口をあける。じわじわと口の端を震わせて、しまいには噴きだした。
「務まらないと思ってるなら誘うわけないでしょ。じゃあ決まりね! 人事に伝えとくから、君も名刺の電話番号にかけておいて」
「あの」
「ケーキ、また食べに行こう。君と一緒に仕事をするの、楽しみにしてる」
あまりにも強引で、唐突で、心の芯に直接届いて揺さぶってくる、弾んだ声。
朋也は呆れ、やがて唇に笑みを乗せた。
「俺も楽しみです」
信じてよかった。俺の道は、この人が手を引いてくれるさきにあるのかもしれない。
*
それでは、と律儀に礼をして、芽吹朋也は帰っていった。怜悧な顔つきの繊細な男。思わず惹きつけられるような鋭い眼差しとハートを隠し持っていた若者。
もらったハンカチをにやにやと眺めながらエレベーターに乗りこむと、すぐ背後、肩のあたりから嘲笑が聞こえた。
「リクルート、成功ですかあ?」
ハンカチをさりげなく後ろ手に隠しながら、黄泉鳥はうんざりと答える。
「また覗き見なの、雷公」
怨霊。取り返しのつかないほどに人生がねじ曲がったあの日から、まとわりつかれている。黄泉鳥の運命を嗤っている。
「わたしはいつでもお前を見ていますからねえ」雷公はくつくつと笑いを漏らした。「よかったではないですか。あの男、ほしかったんでしょう?」
「まあね」
ハンカチをポケットに突っこみ、代わりにジャケットに潜ませていた六角柱の結晶の欠片を取りだした。芽吹朋也が唆し男を鎮めたとき、怪異が残していったもの。
「こんなに立派な証をもぎ取っちゃうなんて、信じられる? 無理筋の主張を通した挙げ句、あの厄介な怪異を完璧に満足させて、鎮めてしまった。これで唆し男、数年どころか十年は自ら現れることはないよ」
「逸材というわけですか。なるほどねえ。いるんですねえ、そういう人間がまれに」
なにがおかしいのか、雷公は笑い続けている。
「であるなら、彼は『やって』くれるかもしれませんねえ」
「そうだね」
黄泉鳥は石の欠片を握りしめ、目をつむった。
「彼なら、わたしの悲願を叶えてくれるかもしれない」
わたしを、殺してくれるかもしれない。
――殺してくれますように。
エレベーターが地下九階に辿りつく。黄泉鳥は切なる願いを押しこめて、にこやかに、暗い書庫へと足を踏みだした。
【おわり】