ネコではない、✕✕である。【後編】

リイン(株)サポート室の怪しい日常


 ますます()(なつ)はうろたえた。さすがに話が違うではないか。
これってネコダマ案件ではないですよね。わたし、怪談とかお化けの(たぐ)いは本当に駄目なんです、怖いし、悲しいし」
 この三十年弱、ホラー映画も怪談も、心霊写真も都市伝説も避けて生きてきた。
「悲しい?」
 (さい)(みょう)()は興味を()かれたように顔をあげた。「怖いのは理屈としてわかるが、悲しいとはどういう意味なんだ?」
「もうそのままですよ。怪談って、たいがい不幸な目に()うとか、非業の死を()げた()(わい)(そう)な誰かがいてこそ成り立ちますよね。そういうのが嫌なんです。特に()(さん)な目に遭うのが子どもだったりすると、てきめんにだめで」
 まじまじと小夏を見つめていた齋明寺は、小さくつぶやいた。
「君はこの仕事に向いているかもしれないな」
「向いてませんって。幽霊とかは本気で駄目なんです」
 泣きそうになって言いかえすと、齋明寺はちょっと笑った。
「心配しなくていい、君は誤解をしているだけだから」
「また誤解ですか、なんですか
「はじめに言ったとおり、幽霊や妖怪といった(ぞく)に噂される怪異はすべて、妄想の産物に過ぎない。だが幽霊話や妖怪話のうちには、今回のように作り話ではなく、実際にそういう『なにか』が実在する案件もごくわずかに含まれている」
「やっぱりいるって話ですよね?」
「誤解してはいけないのは、その『本物』の正体とは、観測された幽霊や妖怪そのものではないということだ。幽霊や妖怪なる現象や物体は存在しない。この世に確かに存在している怪異とはネコダマだけなんだから」
 つまり、と齋明寺は指を組んで身を乗りだした。
「すべてはネコダマが化けているだけなんだ。『本物』に見える幽霊や妖怪も、正体は必ずネコダマ。それがこの世の真理なんだよ」
 小夏は眉を寄せ、齋明寺の言葉を(はん)(すう)した。
 怪異の正体は、すべてネコダマ。にわかには信じられない。幽霊が実在するという話と同じくらい、(こう)(とう)()(けい)に思えてくる。
「本当の本当に、全部ですか?」
「本当の本当に全部だ」
 上司の返答は揺るぎなかった。「古代から現代に至るまでの実在怪異事例を(ひもと)くと、どんな性質の怪異であっても、鎮めれば必ず霊的怪異生物の本性を現したと記録されている。ひとつの例外もなく、すべてだよ。ちなみにネコダマを(とこ)()へ送りだす『門』を整備したのは()(のの)(たかむら)、ネコダマの捕獲手法に革新を起こし、各種契約つまり(しゅ)を開発したのは()(べの)(せい)(めい)だと当時の記録に明記されている。このあたりの話は有名人が絡むから、君もどこかで一度は見聞きしているはずだ」
「喰われて忘れちゃっているけど、ですか」
「そう」
ではさっきの女の子の幽霊も、ネコダマが化けたものだと」
 深い地下を走っていたつくばエクスプレスが上昇する。強い日の光が、川沿いに建つマンションを(まぶ)しく照らす。齋明寺の整った横顔にくっきりとした影をつける。
「危険度2の野良ネコダマは人を嫌っている。怒りや恨みを抱いていると言ってもいいくらいだ。ゆえに我々の保護施設には近寄らず、野良として自活していかなければならない。そんな彼らにとって、『恐怖』はなにより喰らいやすい感情なんだ」
 人が怖がるなにかに化けて、おびえさせれば簡単に手に入るのだから。
「現代の()えたネコダマにとって、人の目を引く怪異に変じることは実に効率のいい狩りなんだよ。怪異の噂は人を引き寄せる。恐ろしい怪異であればあるほど話題になって、人間が勝手に集まってくる。『人を襲う女児の幽霊』の噂に興味をそそられやってきて、あげく恐怖も記憶も喰われてしまったさきほどの動画配信者のように」
「いたいけな女児の幽霊っていういかにもな怪異に化けて、寄ってきた人間を喰らおうと待ち構えていたんですね」
 そういうこと、と齋明寺は口角をあげた。
「わかってしまえば、さっきの幽霊も怖くなんてないだろう? その本性は君がオフィスで可愛(かわい)がっていたネコダマと同じく、(のど)をごろごろと鳴らす猫状生物だ。怪異とは、得体が知れないからこそ恐ろしい。幽霊の正体見たり()()(ばな)と昔から言う」
「確かにそういう側面もありますが」
 小夏はさきほどの動画撮影者の絶叫を思い出して身震いした。
「やっぱり普通に怖いです。ネコダマだろうとなんだろうと、危険じゃないですか」
 本性が猫みたいに可愛らしいとしても、相手は幽霊に化けて人を襲った危険な怪異。それを今から、どうにかしてキャリーケースに押しこまなければいけないのだ。女児に化けるわ影に隠れるわ、なにより人を嫌っている化け物が、『それではお邪魔します』なんておとなしく捕まるわけがない。
「そもそもこういう危険な野良ネコダマの捕獲作業って、ネコダマ業に従事する方なら誰でも行うものなんですか?」
「誰でもはしない。危険度2の野良ネコダマの保護は、基本的には充分訓練を積んだ専門職の仕事だ。負の感情を喰らえば喰らうほど、ネコダマは凶悪になって保護の難易度はあがっていく。もし捕まって記憶や感情を大量に喰われるようなことになれば、高次脳機能にまで障害が発生して、深刻なダメージを負ったり死んだりする恐れもある。サポート室としても、わざわざ保護に出向かずとも、勝手に集まってきたネコダマを世話して送りだせば充分運気は得られ、職務は達成される」
「だったらどうして依頼を受けたんです」
「受けたいからだ、それ以外の理由があるだろうか」
 正面切って返されて、小夏は言葉に詰まった。齋明寺はにっこりと微笑(ほほえ)んでいた。

 件の公園に辿(たど)りつくと、入り口はテープで封鎖されたうえ、警備員まで配置されていた。ものものしさにきょろきょろしていると、公園から少々離れた自動販売機の脇に、よれた黒いスーツを着た男が立っていて、齋明寺に向かって気安く片手をあげている。
「あれがこの案件を(あっ)(せん)してきた『事件屋』さんですか?」
「そうだ、行こうか」
 ふたりして近づくと、男はからかうように齋明寺を見やった。
「おいおい廻、そちらのお嬢さんはどなただ? 家業に巻きこんだってことは、なるほどわかった、婚約者だな」
「彼女に失礼な冗談を聞かせるな。違うとわかっていて言ってるだろう」
 勝手知ったる仲なのか、齋明寺も容赦ない。「本日付でうちに異動になったリインの社員だ。御堂小夏さん」
「社員さんなの? じゃあますます驚いちゃうな、どういう風の吹き回しだか。まあいいや、それじゃあいろいろ事情も知ってるんだろう、よろしく社員さん」
 うさんくさい笑みを向けられて、小夏は急いで名刺をさしだした。
「御堂です、今後ともよろしくお願いいたします」
(あし)()です。申し訳ないけど俺は名刺はなしで。証拠残すわけにいかないんだよね」
 へらへらと笑っている。はあ、と小夏は愛想笑いを保ちつつ、ちらと上司に視線を向けた。身分が明らかになると困るような男とつるんで大丈夫なんですか?
 上司はすでに現場に意識を向けている。
「にしても警備員まで配置して封鎖するなんて、なにかあったのか?」
「おおありだよ」
 と芦矢も笑みを収めて肩をすくめる。「公園の入り口の脇、見てみりゃわかる」
 何気なく目を向け小夏は息を()んだ。入り口の(いし)(べい)の前には、泣きじゃくっている小学校低学年くらいの子ども。そしてその子の両親であろう、疲れきった男女の姿があった。
「どうしたんですか、あの人たち」
「あの家族、半年前に急病で末っ子を亡くしたんだってさ。ほら、ここのネコダマが化けるのって、小学校低学年くらいの女児だろ? で、あのお姉ちゃんが妹の幽霊に違いないって思いこんで、昨日から公園に入りこもうとしてるんだ。幽霊でもいいから、ひと目会いたいんだと」
実際妹ちゃんの幽霊だって可能性はないんですか?」
 規制線の前で泣きじゃくりながら(こん)(がん)している幼い姉も、やつれた両親も、痛ましくて見ていられない。
「ないよ」と芦矢は切って捨てた。「廻に聞いてるだろ。この世に幽霊や妖怪なんてもんは存在しない。実在する怪異はネコダマだけだ」
 そうだった、幽霊なんていないのだった。幽霊に見えたとして、その正体は人の感情を喰らうためにそれらしきものに化けたネコダマにすぎない。
「僕に依頼がきたのは、彼女らの安全を考えると(ゆう)()がないためか」
 事情を理解したらしき齋明寺に、そう、と芦矢はうなずいた。
「そもそもあの家族みたいに感情が大きく動いている人間は野良ネコダマの格好の餌食(えじき)だ。そのうえ(くだん)の野良ネコダマは、動画配信者の恐怖と記憶をしこたま喰ったせいで凶暴化してる。めちゃくちゃ危険ってことで、明日強制執行をかけることになった」
 昔ふうに言えば調(ちょう)(ぶく)だよ、と芦矢は、小夏に向かって(いん)を組む真似(まね)をする。
「物理的な(こう)(そく)()やら(じゅ)(ほう)やらで痛めつけ弱らせて、ネコダマに本来の猫状生物の姿、つまりは本性を(さら)させる。それから()(ばく)するのが強制執行だ。伝統的な手法だけどネコダマはひたすら苦しむから、廻はなるべく避けたいんだと。それで強制執行をかけるまえに、いつも一度連絡をいれてる」
 上司の横顔を、小夏はそっと(うかが)った。『かつかつ』になっても厚遇するとか、痛めつけたくないとか、齋明寺はネコダマにいやにやさしい。特別な思い入れでもあるのか。動物愛護の精神に近いものを抱いているのか?
「僕はなにも調伏が悪だとは思っていないし、必要とあれば自分でもする」
 齋明寺は小夏の内心を読んだように言い添えた。「調伏は確実性と安全性の高い方法だ。職務上、扱うネコダマが凶暴化している場合も多い芦矢たちが第一選択にするのは理に適っている」
「そりゃどうも」
 芦矢はわざとらしく腰を折ってみせる。職務と聞いて、小夏は無性に気になった。
「芦矢さんって、結局どういうお仕事をされてるんですか」
「さあねえ。気になる?」
 とふざける芦矢をよそに、あっさり齋明寺がばらしにかかる。
「彼は警察庁警備局、特殊生物管理課、通称ネコダマ課所属の、民間に捜査情報を()らす悪徳刑事だよ」
 なるほど、芦矢のどことなく(すき)のなさそうな身のこなしは警察官だからこそか。
「ちょいちょい、なんで悪徳とか言うんだよ。捜査情報だってお前にしか漏らしてないし、お互いウィンウィンだろ? いざ強制執行となったら俺らも大変だし金がかかる。廻がスマートにどうにかしてくれるのならそっちの方がいい。お前だって、ネコダマが苦しまないほうが嬉しい。手当ももらえるしな」
「手当なんてもらえるんですか?」
「あれ、聞いてないの御堂ちゃん。そう、もらえるんだよ。民間のネコダマ業者が危険度2以上の野良ネコダマを保護すると、全日本ネコダマ協会がそこそこまとまった手当を出してくれる。本件はたぶん、百は堅い」
 百万ってことか? たった数時間でそれだけもらえるとは。
「てことで」と芦矢は齋明寺の背を軽く叩いた。「とにかくうまく片をつけてくれよ。お前なら保護できると踏んで頼んでるんだからさ」
 齋明寺は目を(すが)め、変わらぬ調子で言い切った。
「当然保護は完了する。任せてくれ」

「数時間の()(どう)で百万円はなかなかすごいです。室長、こういう案件をたくさん受けたら、かなり余裕が出るんじゃないですか? 見かけ上の経費削減だって可能かもしれません」
 準備の場として貸してもらった芦矢のミニバンへ歩いていきながらちょっと興奮してまくしたてると、齋明寺はキーの遠隔(かい)(じょう)ボタンを押して穏やかに返した。
「金銭的にはそうかもしれないね。ただ、危険度2のネコダマ案件は、今回のように人的被害も出るものだ。あんまり(ひん)(ぱん)にあってほしいとも思わないな」
そうでした、すみません」
 齋明寺の言うとおりだ。経費削減のこと、ひいては役目を果たすことしか考えていなかった自分が恥ずかしい。
 とはいえ、とミニバンのドアに手をかけた齋明寺の声がすこし(ゆる)んだ。
「起こってしまった案件は誰かが解決しなければならないわけで、実のところ、僕としても積極的に受けたいと考えてはいるんだ。だが残念ながら、ひとりで扱える案件、かつ黒字になりそうなものとなるとそう見つからない。ひとりだと道具に頼らざるをえなくなるんだが、その道具がそれなりに高価なんだ」
「ふたり以上動員できれば、ちょっとは楽になるってことですか?」
「経費的にはそうかな」
「三上くんに、保護のほうも手伝ってもらったらいかがでしょう」
「彼は巻きこめないなあ」
「そっか、彼はネコダマの被害者でもありますもんね」
「というよりバイトだからだよ。上司や会社に無理難題を吹っかけられたとして、我慢して従ってくれるのは社員だけだ」
 冗談なのか本気なのかわからない調子で笑って、齋明寺は捕り物の準備を始めた。
 芦矢たちの行う『強制執行』は、槍だの銃だの縄だの呪符だのを使って、暴れる怪異と対決する大捕り物だというが、齋明寺が用意してきたのは猫用のキャリーケース、小さなフラッシュライトにコードバンの名刺入れ、そして朝に使っていたのと同じ、銀色の小袋に入った猫用ピューレのみだった。
「これだけで、あの幽霊を捕まえられるんでしょうか」
 不安交じりに尋ねると、大丈夫と齋明寺は口の端を持ちあげた。
「僕のやり方も、基本の流れは調伏と変わらない。まずは恐ろしい怪異に化けているネコダマを、本性の猫状生物の姿に戻す。手法は古来、酔わせて正体を晒させるだの呪法でがんじがらめにするだのいろいろあるが、僕は極めてシンプルにやっている」
 とフラッシュライトを指差した。
「これは対怪異用の特別開発品で、至近距離かつ正面から照射すれば、まず確実に動きを止められるんだ。最大十回しか使えない、なかなか高価な品だよ」
「ひとつおいくらなんでしょう」
「三百万」
 一回の照射に三十万ということか。考えこんだ小夏をよそに、齋明寺は名刺入れから自分の名刺を取りだした。
「動きをとめたら、次に僕の名刺を怪異の()(けん)に押しつける。そうすれば本来の猫状生物の姿に戻る」
「名刺って、そんなのでいいんですか?」
「そんなのでいいんだ」
「もしかして名刺に特別なパワーを込めているとか
「普通の紙だよ。ただここには、僕の名前とサポート室の所在地、つまりは彼らが目指すべき『門』の()()が書かれている」
「門っていうのは、ネコダマが(とこ)()にゆくときにくぐるゲート、でしたっけ」
「そう、彼らを(あん)(ねい)の地に導いてくれる道だ」
 齋明寺はやさしい目で名刺を見つめた。
「恐ろしい怪異に化けて人に襲いかかる野良ネコダマの多くは、常世へ送ってくれる『門』の場所がわからないまま彷徨(さまよ)い続けているうちに、喰らった負の感情に侵され人を憎み、食料としか認識できなくなってしまっている。だから、真っ正面からはっきりと『門』の場所を示してやればいい」
 彷徨うネコダマが本来目指すべき場所を、思い出させてやればいい。
「そうすれば(しば)って痛めつけずとも、すんなりと本性に戻ってくれる。僕はできる限り、彼らを苦しめたくはない」
猫の姿をしているからですか?」
 人に長く愛されてきた、小さな動物に()(たい)しているからか。だからこそ齋明寺は、ネコダマなる怪異と関わることにこだわっているのか。
「そうじゃない」
 と齋明寺は静かにかぶりを振った。「もちろん猫は愛らしいが、仮にネコダマたちの本性がおぞましい姿であっても、僕のやりかたは変わらない」
 言いながら名刺入れをスーツのポケットにしまって、車のドアをあける。
「というわけで行ってくる。君はまあ、そのあたりで待機していてくれ」
「待ってください、わたしも手伝います」
 小夏も慌てて反対側のドアに手をかけた。
「必要ないよ。ひとりでこなせる案件だ。それに君、怖くて嫌だって言っていたし」
「大丈夫です、仕事ですから」
 本心をねじ伏せ笑顔を返す。そう、仕事なのだ。嫌だからやらないなんて通らない。上司にお任せも許されない。
それもそうだな。せっかくついてきてもらったし、君にも役割を振ろうか」
「なんなりと」
「さきほど泣いていた女児がいただろう?」
「ネコダマが化けた怪異を、亡くなった妹の幽霊だと思いこんでいた子ですか」
「そう。あの子を連れてきてくれないか。怪異をおびき寄せるエサが必要なんだ」
「エサ?」
 すぐには理解できなくて、小夏は立ちあがりかけていた足を止めた。
まさかあの子を怖がらせて、その恐怖でネコダマをおびきよせるつもりですか? 妹をなくしたかわいそうな女の子を(おとり)にすると」
「そのとおりだよ」と上司は微笑(ほほえ)んでいる。「今回の怪異は恐怖のにおいを()ぎつけ現れるが、残念ながら僕はネコダマにも、ネコダマが化けた怪異にも恐怖など感じないたちなんだ。だからエサとなる恐怖を、別に用意しなければならない」
「本気で(おっしゃ)ってますか」
 信じがたく問いただした小夏を(なだ)めるように、齋明寺は付け加えた。
「御堂さんの()(ねん)はわかる。でも心配はいらないよ。さいわい今回の怪異はいきなり襲いかかるタイプではないから、出現直後に僕が処置すれば、彼女が襲われる可能性はほぼない。これほど安全な現場はないくらいだ」
「赤の他人を、わたしたちのビジネスに巻きこむんですよ」
「『妹の幽霊』に会いたいという望みを叶えてあげたい」
 言われて悟った。これは齋明寺なりのやさしさでもあるのだ。
 その上で、小夏は短く息を吸った。
「わたしには、よい案とは思えません」
 きっぱりと反対されたというのに、齋明寺は穏やかだった。
「そうか」
 意外だ、と小夏は頭の片隅で思った。齋明寺一族のボンボンならば、立場が下の者に拒絶される経験なんてほとんどないだろう。激怒したっていいはずなのに。
「なぜよい案と思えないのか、訊いてもいいかな」
「室長のお考えは、彼女の望みを叶えているとはいえないと思うのです。もし例の女の子の幽霊に会えたとして、それが仮に妹にそっくりに見えたとして、でも実際はネコダマで、()()(ばな)。彼女はそのからくりに、絶対に気がつきます」
 妹だと信じた女の子の姿がネコダマに変じた瞬間、必ず失望する。結局記憶は喰われて消えるとしても、心のどこかに深い傷を残す。偽りの()やしを一瞬だけ手に入れて、はしごを外されたという傷を。気持ちをわかってくれると信じた大人に(だま)された傷を。
「妹がいなくなった悲しみをどうにか乗り越えなければいけない女の子に、偽りの希望を与えたくありません。新しい傷を背負ってほしくはありません」
「君にも同じような傷を負い、乗り越えた経験があるのか?」
「まったくないです。ないですけど、想像はできます」
 寄り添えるとは考えない。でも思いは()せられる。同じでなくても、小夏にだって傷はある。乗り越えたくて()()いている。方法もわからず、どちらへ走ればよいか見当もつかないまま、このさきの光景を見たいと願っている。祈っている。
「なるほどな。君の言うことも一理ある」
 齋明寺はあっさりと引き下がった。最初から引き下がる気でいたんじゃないかとすら思えるほどだった。
「しかしそうなると、別の手を使って怪異を引きつけなければならないな」
「問題ありません」と小夏は覚悟を決めて胸を張る。「わたしが囮になりますので」 
 上司に物申した以上責任はとる。
「幽霊が怖いんだろう? 無理しなくてもいい」
「お気になさらず、仕事なので」
 絵になる男は黙りこんだ。小夏を見つめ、ポケットに手を入れ、映画の一シーンのように(たたず)んでいる。すべてを見透かされている気がする。逃げたい、逃げられない。
「わかった」
 と齋明寺はようやく、ゆっくりと口をひらいた。「だったらいっそ保護までの一連の流れ、すべてを君に任せようか」
「全部ですか」
 そこまで任されるとは思わなかった。
「僕はアドバイスに撤する。むろん危険に巻きこまれそうになったら(ちゅう)(ちょ)なく手を出すから心配はいらない、労災になんてなれば、僕も非常に困るしな」
はい」
「当然ながら、君は断ることもできる。無理して受けなくともいい」
 瞳が見おろしてくる。やわらかく、圧もなく、言外の意味のひとつも帯びていない、()いだ瞳が。
 やりたくない、と答えたくなった。答えればいいのだ。わたしには無理だと()ねつければいい、ついさきほど、女の子を巻きこむ案を断ったように。
 だめだ、できない。逃げたあげくにどうなった。発売間際のプロジェクトを()(ちゃ)()(ちゃ)にして、みなを失望させた。居場所を失った。
 だから受けて立つ。受けて立たねばならない。
「やります、やらせてください」
 大丈夫、わたしは今度こそ、最後まで耐えきれる。

 夕暮れが近づいていた。西日に照らされ金色に輝く(しば)()の上で、小夏はフラッシュライトを握りしめた。何度も手順を確認する。女児の幽霊は、背後から声をかけてくるはずだ。振り向きざまにフラッシュライトを一発()けばひるんで動きがとまるから、齋明寺の名刺を()(けん)に突きつける。女児の幽霊は猫に擬態した本性ネコダマとしての姿に戻る。そうなれば保護するだけだ。
 無理やり()(ばく)するのは齋明寺の(りゅう)()ではないという。あくまで保護、自分から望んでサポート室に来てもらうのが理想だと。だから興奮しているネコダマに猫用ピューレをさしだして、まずは美味を味わってもらう。落ち着いてくれたならサポート室の手厚い待遇を口頭説明、自らキャリーケースに入るよう促す。
 以上、難しくはない。ないはずだ。
 何度言い聞かせても、心臓は早鐘を打っている。生ぬるい風が吹くたびに周囲を見渡しているのを齋明寺に気づかれた気がした。とっさにごまかそうとしてしまう。
「それにしてもこのピューレ、ネコダマちゃんにとってはすごく()()しいんですよね。わたしに食いつこうとしていた黒ネコちゃんも、たまらないって感じで飛びついていましたし。なにが入っているんですか?」
「グルタミン酸だよ」齋明寺は自然体で空を見あげている。「それから、ネコダマがなにより()()く感じる感情を、特殊処方で入れこんである」
「感情、ですか」
 そんなものどうやって入れこむのだと思ったが、知ったところで理解できそうもない。それより、ネコダマがなにより美味しく感じる感情。なんなのか気になった。
「どんな感情が好きなんですか、ネコダマちゃんは」
「残念ながら教えられないな。これは僕が独自に開発した、いわば企業秘密だ。明日には異動する君には明かせない」
 異動?
 突然、剛速球を投げつけられたような気がした。
 立ちすくんでいると、ゆったりと齋明寺は向き直った。
「今回、捕縛手当が得られるとすれば、それは間違いなく御堂さん、君の協力によって獲得できたものだ。つまり君はわずか一日で、サポート室の経費を百万あまりも削減したに等しい。さらに君はこのような捕縛案件を積極的に受けて売上をあげるよう勇気ある提案をし、僕はそれを受け入れた。つまりは僕に意識改革させることに成功した。おめでとう。この実績があれば、どこでも好きな部署に異動できるだろう。君の希望を叶う限り実現するよう、昇にはしっかり言い含めておくよ」
 小夏は口をひらいては閉じた。なにを言っているのだこの男は。
「わたし、異動なんてするつもりはありません。なんの話です、どうしてそうなるんです。なにか失礼でもあったのなら」
「そうじゃない、逆だ」
 と齋明寺は(まゆ)を寄せる。まるで(あわ)れんでいるかのように。
「君はすでになすべき仕事を果たしたんだ。その(ほう)(しゅう)として、好きなところで好きな仕事を選ぶ権利を得た。誰かの思惑に(しば)りつけられずともよくなった。僕はそう言っている」
 上司の意図に気がついたとたん、胸を()かれたような衝撃が襲いかかってきた。
 この人は、はじめからこうするつもりだった。行き場を失い、命じられたままにわけのわからない異動をせねばならないグループ社員を憐れんで、彼なりのやり方で救ってくれようとした。早急に実績らしきものをお(ぜん)()てして、(やっ)(かい)な職務から解放しようと考えた。
 はじめから小夏を、サポート室に居着かせる気なんて(もう)(とう)なかった。追い出すつもりだった。
 ショックで頭が揺れている。ありがたく感じるべきではないか、結局、真にわたしを(おもんぱか)ってくれたのはこの人だけなのだから。わかっているのに、確かに感謝はしているはずなのに、別の感情が(ふく)れあがっていく。息が上がる。声が(かす)れる。
「嫌です、わたしは異動しません」
「なぜ」
「だって」
 言い訳の端緒が口を衝く。なんて言えばいい。どう()()()せば。
わたしが頼まれたのは、一日でなせるような仕事ではないんです。サポート室の抜本的なスリム化を依頼されたんです。依頼された以上、ちゃんと職務を果たさなくては」
「果たさなくては、再び逃げたことになってしまうと?」
 息をつめた小夏を、齋明寺は見おろした。あくまで紳士的に、無邪気で、どこかアンニュイな笑顔を崩さずに。小夏をけっして逃しはしないように。
「僕はね、御堂さん。昇が君を配属させたいと打診してきたとき、ずいぶんひどいことをするなと思ったんだ。僕の部署に自ら進んで移りたい社員なんていない。彼は、君が断れない状況なのを利用したんだと」
 そうじゃない、と答えたいのに言葉が出ない。
「だから今日、君が『こんな部署嫌だ』と一言言えば、態度で示せば、すぐに手の内を明かすつもりだった」
 すぐに解放するつもりだから、いくばくかの()土産(みやげ)を持たせて、もっと希望に添った部署へ異動させるつもりだから、安心してほしい、と。
「だが君は我慢をし続けた。問題があると(うわさ)される人物の(ひき)いる部署に配属されても、その職務が怪異の世話なるあまりに得体がしれないものでも、苦手な幽霊との(たい)()や、危険怪異の捕縛作業を強要されても、断ろうとしない。逃げずに踏んばろうとしている。僕は今日一日、なぜだろうと考えていた。そして思い至った。君はきっと、逃げたことを(こう)(かい)している。次こそ逃げたら終わりだと、自分を追いこんでいる」
 小夏は(ほお)(こわ)ばらせ、セクハラインフルエンサーを幾度となくいなしてきた、あいまいな笑みを浮かべた。
「もしかして、前の職場でのトラブルを念頭に置かれていますか? でしたら誤解です。わたしは逃げていません、むしろ立ち向かったんです。セクハラに耐えかねて意見したからこそ、プロジェクトを潰してしまったんですから」
「そう、君のふるまいは、本来称賛されるべき、勇気あるものだったはずだ。だが残念ながら、君自身はそうは思っていない。我慢しきれず立ち向かったからこそ会社に損害を与えてしまったと考えている。自分は逃げたのだと」
「そんなことは
「そして君が逃げたと考えているのは、君だけではなかったんだろう。プロジェクトメンバーの誰もが、インフルエンサーにハラスメント気質があると気づいていた。にもかかわらず君を(せっ)(しょう)担当として配置し続けた。プロジェクト完了まで君がハラスメントに耐え続けてくれるよう願っていた。君の()(せい)によってコラボレーションが円滑に進むよう期待していた」
 小夏は唇を引き結んだ。言い返せなかった。
 そのとおりだ。セクハラなんて、本当は織りこみずみだった。小夏に課せられたミッションは、発売までなにを言われようと耐え続けること、笑顔を浮かべて付き合いを保つこと、それだけだった。
 だからあのとき、小夏は逃げたのだ。
 逃げて、耐えかねて、セクハラに意見してしまった。それで全部がおしまいになった。みんなを悲しませ、会社に多額の()(さい)を負わせた。
 だから次こそは逃げないと誓った。問題児として有名な齋明寺廻の部署に押しこまれようと、それがとんでもない仕事だろうと、化け物と対峙しなければならなかろうと、逃げてはいけない。
 逃げたらまた同じになる。
「逃げていいんだ、御堂さん」
 齋明寺が手をさしだす。「自分のために逃げていい。保護道具はすべて僕に返して、家に帰って休んでいい。君がどうしようと、今日得た売り上げは君の成果として報告する。君は確かに僕を動かしたんだ」
「できません」小夏は後ずさった。「自分のためにこそ、逃げられないんです」
「気にしているのは自分ではなく、同僚や会社の意向や評価じゃないのか」
「違いますから」
「君は非常に苦しそうに見える。他人が君にどうあってほしいかよりも、君自身がどうありたいかを大切にすべきだ」
「齋明寺一族の(おん)(ぞう)()に言われたって、なんにも響きません」
 あなたとは違うのだ。金と地位と血脈の力で、しがらみなんて簡単に切って捨てられるあなたのようには生きられない。捨てたところで拾う神はいない。誰にも見向きもされず、忘れられていくだけだ。
 怖い。怖くて仕方ない。
 (とう)(とつ)に齋明寺の表情が変わった。ポケットから両手を引き抜き、小夏から無理やりフラッシュライトをもぎ取ろうとしてくる。
「貸してくれ」
 させじと小夏はライトを後ろ手で握りしめた。
「やらせてください、わたし頑張りますから」
「そうじゃない、うしろだ!」 
 齋明寺が叫ぶと同時、背中を(かん)(だか)い声が打った。

 いいにおいだねえ、おにいちゃん、おねえちゃん、つかまえてもいい?

 ()(かん)が背中を駆け抜ける。女の子の声。女児の幽霊だ、出たのだ! 足に力を入れる。おかしい。ちっとも身体(からだ)が動かない。(かな)(しば)りにあったように、両足が地面に()いつけられている。額を冷や汗が流れていく。(みみ)(ざわ)りな笑い声が瞬く間に近づいてくる。

 やった、もうつかまえちゃった、わたしのかち!

 すぐ背後から声が響く。ひび割れている。気味の悪いノイズが乗っている。嫌な予感がする。息を止め、かろうじて動く首を懸命に動かして横目で背後を見やった。ほっそりとした女児の身体が、黒ずんでいく。(ふっ)(とう)したタールのように波うちながら(ふく)らみはじめる。
 一瞬のうちに女児だったものは、二メートルはあろうかといういびつなどす黒い物体に姿を変えた。てらてらと光を放つ体表から、節くれだった枯れ枝のような異様に長い足がいくつも伸びて、それぞれ好き勝手に動いている。
 (らん)(らん)と光る多数の瞳。ばらばらに動いていたそれが、小夏のほうへ向いて静止した。
 まずい。
 思ったときには、嫌な音をして化け物の表面が割れ始めた。粘りついた液体を上下に糸引きながら、巨大な口が現れる。小夏目がけて飛びかかってくる。

 とりあえずおねえちゃんから、いーたーだーきーまー

 齋明寺に肩を強く押しやられた。視界がぐらりと揺れ、したたか腰を打ちつけながら(しば)()に倒れこむ。思わず声が出るが、痛みなどどうでもいい。とにかく頭をあげる。考えての行動ではない、ただ防衛本能のなせる(わざ)だ。
 そして小夏は息を止めた。
 目の前では、齋明寺の上半身が、化け物にぱっくりと()みこまれていた。
 唇が震える。身体は動かなかった。動けない。
 上司が喰われた。
 わたしを(かば)ったから。

 あれ、たいしておなかがいっぱいにならないなあ

 化け物が大きく口をひらき、支えを失った上司の身体は芝生の上へ崩れ落ちる。無傷だが、ドス黒い()(えき)だか粘液にまみれて固く目を閉じている。生きているのか、無事なのか。
 確認する間もなく、化け物の無数の瞳が小夏に向いた。

 やっぱりおねえちゃんのほうがおいしそう
 ねえおねえちゃん、もういっかい、かげふみしーよーう?

 どうしたらいい。
 (しり)(もち)をついたまま、小夏は震えていた。逃げよう、逃げなきゃ。本能が頭の中で怒鳴り散らす。小夏を引っ張り立たせ、尻を叩こうとする。フラッシュライトは化け物の足元へ転がっていってしまった。どうにもならないのだから仕方ない、逃げるしかない。
 なのに目の前で倒れている上司の姿が、小夏をどうしても引き留める。庇ってくれた人を放って逃げるのか? できない、自分を許せない。ならば道はひとつしかない。()(ぼう)だとわかっていてもライトを取りにいくのだ。
 そうだ、逃げられない。立ち向かえ。笑う膝に力を入れる。化け物の瞳が一斉に、猫のように細くなる。
「そうじゃない、逃げろ!」
 倒れたままの上司が怒鳴った。
「太陽と逆の方向に逃げるんだ、逃げれば勝てる!」
 小夏は打たれたように動きを止めた。焦りに歪んでいた視界が、一瞬クリアになる。上司は目をあけている。生きている。生きて首を持ちあげ、必死の(ぎょう)(そう)で小夏に顔を向けている。
 その奥には、まさに小夏を迎え入れようとにんまりと口をひらいた化け物。
 短く息を吸った。
 そうだ、逃げなきゃ。
 思ったとたんに足がバネみたいに勝手に動いた。飛び起きて、躍りかかってくる化け物を(かん)(いっ)(ぱつ)(かわ)して逃げだした。(あご)を上に向けて、夕日を背にして。そうだ、影が自分の前にありさえすれば、うしろから追ってきた化け物に踏まれることはない。
 もちろん会社員の全力疾走なんてたかが知れている、すぐに息が上がって節々が悲鳴をあげはじめる。足がもつれて転びそうになった一瞬のうちに、百足(むかで)のように走る化け物の気配は軽々と迫ってくる。もう無理、追いつかれる、どうする、そう思ったとき、背後でパシャ、と機械音がして、(まぶ)しい光が化け物も小夏も追い抜いていった。
 フラッシュだ、齋明寺がフラッシュを拾って()いたのだ。化け物の勢いがわずかに(ゆる)む、遠ざかる。その(すき)に、小夏は歯を食いしばって身を翻し、齋明寺のいるほうへ走り戻った。
 齋明寺は滑り台の陰からフラッシュライトを構えている。黒い唾液にびっしょりと濡れながら、小夏を見る目はあからさまに(あん)()している。
「齋明寺さん! 無事ですか?」
 小夏も泣きそうになって駆け寄ると、齋明寺は小首を(かし)げておどけてみせた。
「だから廻と呼んでくれ。齋明寺と呼ばれるのは嫌なんだ」
「今それどころじゃないですって!」
 滑り台ごしに、化け物が両足を揃えて地面を()りあげたのが見える。まっすぐにこちらへ突進してくる。
 大丈夫、と齋明寺は小夏をそっと押しやった。
「御堂さんはこのまま逃げてくれ、僕がどうにかする」
 だが小夏はさせなかった。両足を踏んばり、紳士的な齋明寺の手をぐいぐいと押し戻す。
「なにするんだ」
 齋明寺があからさまに(いら)()ったのが見てとれて、こんなときなのにおかしくなった。よかった、このひともちゃんと苛々するんだ。
「わたし、逃げませんから」
「僕は逃げろと言っているんだ。仮とはいえ上司の頼みを聞いてくれないか」
 齋明寺は突進してきた化け物の側面にフラッシュを浴びせた。化け物は光を嫌って軌道を変えるも一瞬、公園の縁に行き当たってまたしてもこちらへ首を向ける。円を描いて戻ってくる。
「別に仮とは思ってませんが、それでも申し訳ないですがお断りします」
「御堂さん」
「逃げたくないんです」
 小夏は名刺ケースを取りだした。手が震えている。それでも逃げない。逃げたくない。
「ひとりよりもふたりのほうが、対処しやすいみたいなこと(おっしゃ)ってましたよね。だったら手伝わせてください、お願いします。腹をくくって戻ってきたんです」
「それらしいことを言ってもだめだ」
「室長こそ腹くくってください。わたしの意思を尊重してください」
 どう()()いたところで、小夏は齋明寺のようには生きられない。常識やルール、他人の視線から離れ、己の意志を貫き通すなんて不可能だ。だがすくなくとも今は、上司がなんと言おうとこの決意を貫きたい。他でもない、自分のために。
わかった」
 齋明寺は(たん)(そく)まじりでつぶやいて、フラッシュを構え直した。「じゃあ次は正面から浴びせて足を止めるから、あとは任せてもいいか」
「どんとこいですよ」
 小夏が答えるや、齋明寺は滑り台を駆けあがって、飛びかかってきた化け物の()(けん)にぴたりとフラッシュライトを浴びせた。激しい発光をまともに浴びて、化け物はひきつれた悲鳴をあげる。胸の奥が恐ろしさにすくむような、悲痛によじれるような叫びを。
 かきわけ走り寄った。化け物の身体のそこかしこが破れて黒い煙が立ちのぼっている。『恐怖』だ。喰いためたそれが抜けていく。恐怖を引き寄せる力の源が消えていく。だからこそ怪異は怒りくるい、小夏にまっすぐに向かってくる。小夏の恐怖を喰らってやろうと、許すまじと、すべての瞳が血走っている。
 怖い。小夏は悲鳴をあげながら腕を突きだした。もう怖くてなにがなんだかわからないなか、どうにか名刺だけは眉間に押しつける。
 とたん化け物の身体は急速に膨れて破裂した。黒い『恐怖』が激しく噴きだし、小夏はとっさに身をすくめ、目をつむった。
「もう大丈夫だ」
 齋明寺の声がして目をあけた。 
 もうもうと立ちのぼる『恐怖』の中央には、小さな白い影。針のように毛を逆立てて(うな)りをあげる白猫もとい、白猫の姿に限りなくそっくりのネコダマがいた。
「ピューレを」
 小夏は急いで封をあけてさしだした。白ネコダマは歯を()いて、その場を動こうとはしない。警戒している。
「怯えなくともいいんだ」
 齋明寺は両手を広げ、穏やかに白ネコへ告げる。
「さきほどの名刺のとおり、我々はおもちゃ会社リインの、事業・福利厚生サポート室の人間だ。もし君が我々のもとに来てくれるのなら、君が『門』をくぐって(とこ)()に旅立つその日まで、居心地のよい安心できる部屋と楽しい玩具、なにより君たちを愛する人間との生活を提供すると約束する」
 白ネコダマは目をつりあげて身を低める。せわしなく小夏と齋明寺を見やっている。
 齋明寺の低く深い声が続いていく。
「ひとりで寂しかっただろう。なんでもいいから人の感情がほしくて喰らっていたんだろう。そして負の感情に呑まれ、『門』を目指すことすら忘れてしまった。だがもう、そんなゲテモノ食いを続ける必要はないんだよ」
 白ネコダマの耳が垂れてくる。しょんぼりとして、それでも(さい)()と恐怖をにじませて、上目で見あげてくる。
 なんだか迷子の子どもみたいだ。
 そう思ったら、小夏も自然と膝をつき、猫用ピューレを手に呼びかけていた。
「一緒に行こう。大丈夫だから」
 白ネコは動かず、小夏を見つめた。ヒゲをふわりと動かすと、ゆっくりと歩み寄ってきた。小夏がさしだしたピューレの(にお)いを()ぎ、そっと一口()めて目を丸くする。大きな(どう)(こう)に安堵のような、喜びのような輝きが宿る。
 その頭を、小夏はやさしく()でさすった。愛らしい猫にするように、いたいけな子どもにするように。
 ひとしきりなでなでと美味を(たん)(のう)した白い怪異は、やがて自らキャリーケースへ入っていった。
「やはり君はこの仕事に向いているかもしれないな」
 齋明寺が眉を持ちあげている。小夏は嬉しくなって、立てた親指を突きだした。

 上司はとても電車に乗れるような見目ではなかったので、芦矢が小夏ともども八重洲まで送ってくれることになった。(やっ)(かい)な予定がなくなり上機嫌な刑事が車を回してくれるあいだ、小夏と齋明寺は公園のブランコに並んで座っていた。
「え、じゃあ室長は記憶も感情も食べられなかったのですか? あんなに頭からぱっくりやられたのに」
「僕は一級ネコダマ取扱免許を持っているからな」
 タオルで顔を拭きながら、齋明寺はえらくスマートに答えた。
「免許がどう関係あるんです」
「一級免許証には、喰われても一度までなら免許保持者の記憶や感情を保護する、強力な(しゅ)がかかっているんだよ」
「え、いいですね。わたしもほしいな」
「だったらまずは二級をとるといい。一級は実務を三年以上こなした上、合格率の(いちじる)しく低い筆記試験をパスしなければならないが、二級免許は数日講習に通えば取得できる。だがまずは三級だな。ネコダマに関連する記憶を保持するために必須だから」
「じゃあ早く取らなきゃいけないですね」
 小夏は明るくブランコを揺らした。君は異動するんだから免許なんていらないだろう、とは言わないんですね。
 もちろん一言異動したいと言えば、齋明寺は(こう)(りょ)してくれるはずだ。だがその日は当分こない。誰のためでもなく、小夏自身が望んでいない。
 足元のキャリーケースでは、白ネコがおとなしく猫用ピューレの残りを舐めている。三上はかわいらしい新入りの登場に喜ぶだろうか。馬淵はどうだろう。人はどうでもよくても、ネコダマには興味あるかもしれない。
「でも、どうしてでしょうね」
「なに?」
「室長、自分は恐怖を感じないからネコダマも食いつかないって(おっしゃ)ってましたよね。だから恐怖を感じてくれるエサが自分の他に必要だって。でもさっき、普通に食べられちゃっていましたよ」
「それは」
 齋明寺は珍しく言葉に詰まり、やがて肩をすくめた。「僕はネコダマや、ネコダマが(へん)()した化け物は怖くないと言ったんだ。状況そのものに対しての恐怖はある」
「状況、ですか」
「君が喰われると思って焦った。著しい恐怖を感じた。それでネコダマは、僕を喰らう気になったんだろう」
 小夏は齋明寺の横顔を眺めた。それってどういう意味だ。出会ったばかりの部下、それも()土産(みやげ)つきで追いだそうとしていた部下を、一応は大切に思ってくれていたのか?
 齋明寺はからかい顔で続けた。
「もちろん君が喰われれば、労災認定は免れないだろう? そんなことになったら大変だと恐怖が湧きあがってきたわけだ」
「そういう話ですか? わたしはてっきり
「にしても君が手伝ってくれてよかった。思っていたより厳しい怪異だったから、ひとりだったらフラッシュを使い切っていたかもしれない。そう考えると数百万円の経費削減だったな。さすがは御堂さん、経費削減担当者として素晴らしい働きだよ」
 小夏は口に出しかけていた言葉を()みこんだ。代わりに齋明寺みたいな笑顔を浮かべて、「ありがとうございます」と返した。
「ですが担当としては、ここで弾みをつけてさらに削減できればありがたいです。そういう努力の姿勢を見せてくだされば、わたし、もっと室長の味方になれます」
「味方?」
「はい。わたしがなんと報告するかで、経営陣や昇さんの心証が変わるんです。わたしを味方につけたほうがとくではないですか?」
「心証がどうだろうと関係ない。僕がやりたいからやってる事業なんだから」
「そうは言っても、周りの人々に認めてもらうのも大切ですよ」
「今さら必要ないよ」
「そうでしょうか
「でも、君が味方になってくれるのは悪くないな」
 笑って齋明寺は立ちあがった。公園の入り口のさきに、黒色のミニバンがとまっている。芦矢が降りてきて、嬉しそうに手を振っている。小夏も(ほお)(ゆる)めてキャリーケースを持ちあげた。大丈夫だよ、楽しいところに行くからね、と声をかける。
「そういえば、ネコダマにとってたまらないほど()()しいって、あのピューレにはどんな感情が混ぜてあるんです?」
「君はとっくにわかってるだろう」
 そう、無償の愛だよ。
 (まぶ)しい夕日がビルの向こうへ落ちていく。白ネコは安心しきったように目をつむり、丸くなっていた。

【おわり】