続きはないよ、それだけ。(著/doi)
逸子が元恋人のその投稿を目にしたのは、一人暮らしのアパートで、浴室の湯船に浸かっている時だった。
明るい光が差し込むチャペル。新婦の持つ白いブーケ、新郎が両手を添え、二人は微笑み合う。投稿された小さな写真には白いネオン文字でコメントが書かれている。
『夫婦生活は長い会話である』という言葉に倣って、お互いに寄り添うパートナーでいられるように、たくさんの会話と笑顔を交わしながら、二人でずっと幸せに生きていきたいです!!
――そんな風にアピールするタイプだったんだ。
回ってきたのは、共通の友人が投稿を引用したものだし、本人には大勢へ伝えるつもりなんてなかったかもしれない。でも、SNSを積極的に使っていなかった白川が結婚報告をアップしていること自体に驚いた。
スマートフォンが濡れないよう、腕を斜め四十五度に伸ばす。映っているのは引きで撮った写真で、穏やかな表情の横顔が懐かしい。大学の同期だった白川とは七年間交際していた。別れてからもう三年が経つ。
風呂を上がった逸子は、洗面台の前で肩まで伸ばした髪を丹念に乾かす。そのとき、左下の奥歯になにか挟まっていることに気づいた。夕飯に食べた親子丼のトッピングの三つ葉である。ドライヤーを片手にわしゃわしゃと髪を乾かしながら、もぞもぞと口を動かして三つ葉を取ろうと試みた。しかし、舌先は奥歯に引っかかった繊維の表面を撫でるばかりで、いっこうに取れる気配がない。
いー、と口を大きく開けて、鏡に映った自分の口の中を見る。しなしなになった黄緑色が奥歯の隙間から顔を覗かせている。ドライヤーのコードをまとめ、歯ブラシを手にとった。
歯磨きはベランダですると決めている。四階の部屋から機械式駐車場を見下ろしつつ、しゃこしゃこと手を動かす。不愉快だった三つ葉が無事に取れて気分が晴れる。残暑の時期だけど、日が暮れるとそれなりに気温が下がる。長湯をして茹だった身体に夜気が心地好い。
眠る前にベランダで歯を磨く癖を、白川に何度も叱られた。
『風邪ひくからやめなよ』『逸子ちゃん、季節の変わり目はいつも鼻をすすっているじゃん』子供に言い聞かせるみたいな、優しさ故のお節介。
――外で歯を磨くと、口の中がスースーして気持ちいいの。お風呂上がりは暑すぎて寝付けないし。体温が下がっていくと、ちょうどよく眠くなんのよ。
SNSを開くと、結婚式の写真がもう一度視界に入る。幸福そうな横顔と、瑞々しい決意の言葉。
――そうか、結婚したのか。
長いあいだ大切だった人が幸福になった。素直に、おめでとう、と思えれば良いが、上手にお別れが出来たわけじゃない。苦労して乗り越えた失恋だった。
逸子は現在、別の人と付き合っている。未練なんてとっくにない。でも、ささくれ立つものが一切ないわけでもない。
――こんな投稿を見ちゃったせいだな。
スマートフォンの画面を閉じる。ベランダで一番強い光源が消えると、景色の暗さが際立ち、目がしぱしぱする。不意に身体が一日分の疲労を思い出す。頭の奥がぼんやりとしてくる。
――はぁ、寝よ。
逸子はあくびをしながら部屋に戻る。
その晩、夢に白川が出てきた。
『今そんな話してないけど』と、呆れたように笑う声が蘇る。
付き合っていた頃、気になったことは逐一白川に報告したかった。脈絡なんて意にも介さず、例えば白川が何かを熱心に説明してくれている最中だったとしても、ふと目に映った雲が綺麗なハート型だとしたら、その感動を何よりも優先して伝えたかった。共感してもらえたらすごく嬉しくて、そうでなくても、思ったことをただ話せるだけで楽しかった。
だけど、白川からすれば嚙み合わないやり取りだったことに、別れ際まで気づいていなかった。最後に言葉を交わしたときの、冷たい声が再生される。
『俺って逸子ちゃんに必要なの?』
目が覚めると、カーテンの隙間から差し込んだ光に、視界が眩んだ。寝ている間にたくさん汗を搔いていたようで、湿気を含んだ髪が膨らんでいる。
――ああもう、最悪だ。嫌なこと思い出した。
あくびを嚙み殺すと、乾ききった口の中に苦みが広がった。
大学に入学してすぐ、アウトドアサークルで知り合った白川を、第一印象で声が良いと思った。音域はすこし高く、明るくはっきりと響く声。選択した講義もいくつか被り、すぐに親しみ深い友人の一人になった。
サークルの活動では、ハイキングやバーベキューを行った。
写真を撮るのが好きな逸子は、屋外に出ると、野花や野鳥、寂れた看板や変わった形の雲に気を取られ、首にぶら下げた一眼レフを構える。集団からふらふらと、はぐれてしまいがちな彼女を、面倒見の良い白川は、いつも気にかけてくれた。
大学でも、講義で板書しそびれた箇所があればノートを貸してくれたし、スマートフォンや財布を置き忘れることの多い逸子に、ちゃんと持ち歩いているかを都度確認してくれる。
サークルの仲間たちは、白川を『保護者』とか『お兄ちゃん』と茶化した。『ねえこれ見て』と彼によく懐く逸子は、まさしく親に構ってほしい子供のようだった。時々『あざとすぎ』と陰口を言われたり、協調性のなさで反感を買ったりもしたが、次第に周囲も彼女の気質に慣れた。長い夏休みにはサークルの活動がより活発になり、一緒にいる時間が増えた。
大学一年の秋口、サークルで行った山中湖のキャンプ場で二人は交際を始めた。
付き合いが深くなるほど、白川の好きなところは増えていった。一口がとても大きくて、綺麗にご飯を食べるところ。逸子の好みに合わせて古いSF映画やちょっとグロテスクなホラー映画の鑑賞に付き合ってくれるところ。ほんのりと漂う、ほうじ茶みたいな匂い。プレゼントした腕時計を律儀にずっとつけてくれるせいで、その形に日焼けした手首。神社でお賽銭を投げるのではなく、丁寧に置くようにして納めるところ。そのあとで、長い時間をかけて熱心に祈る横顔。
別れてからSNSのフォローを外したけど、大学時代の友人が白川と映った写真を投稿することもあった。ずいぶん前に、名古屋へ転勤したらしいが、それ以外は知らない。昨晩の結婚式の写真で、久しぶりに白川の姿を目にした。
――慶事なのは間違いないから、お祝いするか。
わずかに生まれたモヤモヤを晴らすには、それが最適な気がした。
ベランダで朝の爽やかな空気を浴びる。歯を磨きながら、今日は買い物に行こうと決めた。特に目的のない外出と、ほとんど不要なものを買うのが好きな逸子は、節約しなければと思いつつ、ショッピングモールを訪れる口実を常に探している。
服を着替え、職場とは逆方向の都営バスに乗ると、気持ちが昂ってくる。
ショッピングモールは一階から四階までの吹き抜けになっていた。二階で衣料品店の前をぷらぷらと歩いていると、階下にある大きなモニュメントが目に付く。三メートル近くありそうな球体で、水色やピンク、白色の水引みたいな模様が描かれている。
――すごい。なにあれ、なんかとんでもない化け物の卵みたい。
ガラスの手すりに寄りかかり、上から写真を撮る。所持している中で最も軽量な一眼レフを、普段から持ち歩いていた。一階まで移動し、複数の角度からレンズを向ける。
――背景を暗く加工したら、良い感じに禍々しくできるかも。
今日の日付のメモリにたくさんの写真が追加されたのを確認できると、なんだか得をした気分になる。散策してばかりで何も買えていないことを思い出し、再び二階に戻る。
ショッピングモールでは、衣料品店の他に、雑貨屋と電気屋をはしごする。活字は得意でないけど、書店も好きである。その日は金木犀の練り香水と、柴犬の付箋紙と、スマートフォンの充電ケーブルを買った。会計をするたびに、息が弾むのを感じる。
気分が良いので花屋にも行った。生花が好きだが、枯れて茶色くなったものを捨てるときに悲しくなる。そして、二度と買わないでおこうと心に誓うも、いざ花屋に並んだ鮮やかな花弁をみると、後々襲ってくる後悔を忘れてしまう。
――最近もピンクの花を枯らしたばかりだけど、お祝いには必須だからね。
うきうきしながらガラスケースの花たちを吟味していると、後ろから「逸子さん?」と名前を呼ばれる。
振り向けば、買い物袋をぶら下げた背の低い女性が立っている。
「ハルちゃん?」
数秒遅れて、大学時代に人懐っこく接してくれた少女の姿が目の前の女性と重なる。痩せこけていた当時に比べ、今の彼女は少しふっくらしていて血色が良い。
ハルちゃんは、大学時代のサークルの後輩だった。白川の従妹に当たり、彼を兄のように慕っていて、頻繁に遊ぶうちに仲良くなった。
「やっぱり逸子さん!」
「ひさしぶりだねえ。元気そうでなにより」
「逸子さんこそ。え、この辺に住んでいるんですか?」
「うん。二駅となり」
ハルちゃんが嬉しそうに笑うと、可愛らしい八重歯がちらりと見えて、不意に懐かしく思う。会うのは大学卒業以来だった。近況を少しだけ交換する。ハルちゃんは現在、オフィス用品のリース会社で働いているらしかった。
「去年から営業に配属されちゃって、右往左往しています」
ハルちゃんはうんざりしたように言うが、話すのが上手な彼女は、きっと仕事でも優秀に違いない。
「お花、好きなんですか」
「部屋に飾ろうかなって。ハルちゃんは?」
「祖母の誕生日会に持っていくんです。米寿なんですよ」
ハルちゃんは事前に予約をしていたようで、バスケット型のアレンジメントをスムーズに受け取っている。逸子はオレンジ色の花を二輪購入した。
セロハンと小さなリボンでラッピングされたバスケットを、ハルちゃんは手にぶら下げている。結婚式のフラワーガールみたいな愛らしさに、思わずカメラを向けたくなってうずうずしてくる。
――久しぶりに会って、急に写真撮らせてなんて言ったら引いちゃうよな。
上手い口実はないかと頭を働かせ、結局思い浮かばず落ち込んでいると、「聞いてます?」と怪訝そうな声が聞こえる。
「ごめん、なに?」
「今度一緒にご飯を食べに行きませんか? って誘いました」
「はい、ぜひ」
「行ってみたいお店とか、食べたいものがあれば、予約しておきますよ」
「なんでもいい。あ、レバーが好き。あれば嬉しい」
何気なく答えると、ハルちゃんがきょとんと目を丸くする。
「わかりました。お店探しておきます」
「お願いします」
――なんか間があったけど、私、また変なこと言った?
不安に思っていると、ちょっと言いづらそうに「そういえば、恭ちゃん結婚したんですよ。知ってました?」とハルちゃんが切り出した。恭ちゃん、とは白川のことである。
「うん。インスタで見た」
「私も式に出たんですよ。そのときに、逸子さん元気にしてるかな? 会いたいなって思って。だから、花屋で見かけたときにすぐ逸子さんだって気づいたんです」
惚けた声で「そうなの?」と逸子は返す。シチュエーションはともかく、思い出してくれたことが嬉しかった。
ハルちゃんは祖母の誕生日会まであまり時間がないようだった。連絡先を交換し直したあと、慌ただしく手を振り、ショッピングモールの出口に向かう。
「ご飯、ほんとに行きましょうね! 近いうちに!」
手を振り返す逸子は、誰に見られているわけでもないのに、口角が上がってしまいそうになるのを堪える。ハルちゃんの写真は撮りそびれてしまったけど、手を振る彼女の姿は網膜にずっと残っている気がした。
ショッピングモールで撮影したモニュメントの写真を、逸子はノートパソコンで編集した。二階から撮影した球体を巨大な卵に見立て、上部にCGでヒビを入れ、今にも孵化しそうな様子にする。明るい色調のフローリングは、荒れ果てた大地に塗り替えて、全体的に紫がかった色合いにすると、不穏な雰囲気が出る。
ひとしきり編集をして満足した逸子は、スマートフォンに来ている新着通知に気づく。送り主は、現在の恋人である三浦だった。写真だけのメッセージで、丸い形の焼肉ロースターと、質の良さそうな肉が映っている。【おいしそう】と返信すると、すぐに既読がつく。
【この店めっちゃ美味しかった。今度一緒に行こう】
三浦はメッセージのあと、料理の写真を連投してくる。アルコールでほんのり顔が赤くなった三浦と、写真で何度か見かけた友人とのツーショットもあった。楽しそうな恋人に対抗して、加工したモニュメントの写真を送りつけようと思ったが、途中で止めた。わざわざ編集した奇怪な画像を、自分以外の人が面白がってくれるか分からない。【いいね。行こう】と無難な返事をする。
――好きな話ばかり一方的にしていると、相手を困らせちゃう。
白川と付き合っていたときの失敗を、三浦にはしないように心がけていた。
大学を卒業したあと、逸子は都内のアプリ制作会社に、白川は同じく都内の電子機器メーカーへ就職した。新卒入社の時点で交際から三年以上経っていたが、収入のある大人としての自由を得たばかりの二人は、新鮮さを失わずに仲良く過ごしていた。
転機が訪れたのは、会社員二年目の夏だった。白川のシンガポールへの出張が決まった。期間は半年で、しばらく会えなくなってしまうのを心細く感じたけれど、仕事の都合だから我儘も言えない。
ほどなくして、白川はシンガポールへ旅立っていった。渡航してすぐは、毎日白川から電話をくれた。慣れない環境に苦労を強いられたようで、珍しく弱気になっていた。【会えなくて寂しい】とまっすぐな言葉をくれる恋人が愛おしかった。
逸子も相変わらず、気になったことは何でも白川に報告したくて、撮影した写真を頻繁に送った。
【今日のごはん。全部作った】
【葉桜だけど、けっこう綺麗】
【会社のエレベーターがすごく古くて怖い。存在しない階に着きそう】
【人が映ってない写真って、色味を暗くするとホラー映画感出ない?】
【ノートパソコン買った。編集が捗る】
【会社のエレベーター、ガラス窓のところにCGで人影を追加した。良い感じに不気味じゃない?】
休日を一緒に過ごせなくなったため、趣味にのめり込んだ。白川は逸子の独特な好みに驚きつつも、だんだん上達していく編集技術に感心してくれた。
白川も、出張先での生活を頻繁に送ってくれた。
【タクシー代がすごく安い。東京の半額ぐらいで乗れる】
【現地の人たちは英語の発音に癖があって、ちょっと驚く】
【薬膳料理が美味しくて、毎日食べてる】
離れていても、生活の中での驚きをメッセージで交換すれば、お互いを身近に感じられた。
半年後、海外勤務を乗り越えた精悍な顔つきで、白川はシンガポールから帰国してきた。直接会えるのが嬉しくて、逸子は前よりも饒舌になった。給料の多くをつぎ込んだ、写真のための機材をたびたび自慢した。
二人はこれまで以上に仲睦まじくなったが、再び離れ離れとなってしまう。
帰国から四か月後、今度は中国への出張が決まった。期間は同じく半年だったけれど、シンガポールよりも時差がある上に、使えるコミュニケーションアプリも変わった。
『休みの日が意外と辛い。疲れているから観光する気が起きない。言語の壁があるからあんまり落ち着かないし、やることなくて一人だと退屈』
出張が続き、白川はかなり気が滅入っているようだった。
ちょうどその時期、逸子は日々を仕事に忙殺されていた。前回のシンガポールのようにまめまめしくやりとりしている暇はなかった。たくさんくれる電話に出られない日も増えた。今度の半年はあっという間だった。そして、帰国後に二人で過ごせた時間も。
白川は、次に名古屋へ三か月間出張となった。逸子は【台湾ラーメンを食べるついでに遊びに行くね】と笑顔で送り出した。国内だったし、半年間の遠距離恋愛を二度も経験したので、寂しさとの向き合い方がつかめた。直接会えなくても、インターネットが繋がっていれば、写真もメッセージも送れる。胸が高鳴る些細な出来事を共有するのは簡単だった。
海外に比べ、名古屋の出張は手軽なものだった。一度だけ、白川がサプライズで週末に帰ってきてくれた。午前十時頃に、アパートのインターフォンの音で目が覚めた。モニターに表示された玄関前の映像には、はにかむ白川が映っている。思いもよらない来訪に逸子は驚いた。タイミングが悪く、午後から歯医者と美容院の予約をしていた。
『先に言っておいてくれたら予定なんていくらでも調整できたのに』
逸子が責めると、白川は悲しそうに謝った。
――来てくれるってわかっていたら、昨日の夜だって早く寝て食べすぎも避けて、むくんだ顔を見せなくて済んだんだぞ。
寝起きだったせいか、白川の被害者じみた態度が気に障った。
それでも予定外に恋人と過ごせるのは嬉しいことだった。一緒に買い物へ行き、部屋で早めのお昼をゆっくり摂って、かかりつけの歯科医院の前でお別れをした。
歯科衛生士にホワイトニングをしてもらっているとき、ふと買い物帰りに白川と交わしたやり取りを思い出した。玉ねぎのマリネ作りにハマっていた逸子は、切り方で浸かり具合が変わるのが楽しく、色々試していることを熱心に話した。
『逸子ちゃんって、一人でも楽しそうだよね』
ひとしきり喋り終えると、白川は静かにそう言った。表情は笑っているのに、どこか非難するような口調が気がかりだった。
逸子の知る最後の長期出張は二度目の中国だった。前回と同じ支社への出張だったため、一度訪れたオフィスや工場、土地にも慣れた様子だった。逸子はそのとき、職場の同僚とそりが合わず、同業他社への転職活動に追われていた。
趣味の時間もあまり取れず、一度目の中国出張と同じで連絡の頻度は減った。それでも、ふと思い立ったときにメッセージのやり取りをすれば、白川の存在を身近に感じられた。
【でっかいサメが出てくる映画観た】
【仕事前はいつも、働く人を応援するCMの主人公になったつもりでカフェオレ飲んでる】
【久しぶりにペンで文字を書くと、字の汚さに震える】
【カレー屋さんのナン好き。ナンだけで売ってほしい】
時々電話もした。愚痴ばかり零すのが憚られて自分はあまり喋らなかったけれど、大好きな声を聞けるだけで幸福だった。
二度目の中国から帰ってきた白川と会うため、アパートを訪れた。どこか精彩を欠いた顔つきの白川を不思議に思っていると、彼はいきなり『好きな人ができたから別れてほしい』と切り出してきた。
思いもよらない言葉に、逸子は言葉を失う。質の悪い冗談かと疑うが、正面の白川は目も合わせずに項垂れていた。力の抜けた両手がテーブルの上に置かれている。右の手首に出来ていた腕時計型の日焼け跡は消え、均一な小麦色になっている。
『どういうこと』
逸子が尋ねると、白川はぽつぽつと白状した。
今回の出張には、アシスタントとして入社二年目の後輩が同行したらしい。その子は海外渡航の経験がなく、中国語や英語が得意なわけでもなかった。長期滞在中、重度のホームシックに陥る時期もあった。白川は海外出張にも中国での生活にも馴染みがあり、その子を常にフォローしていた。そんな日々が続くうち、気づけば先輩後輩以上の関係となっていた。
『最低』
逸子は泣きそうになるのを堪えた。頭の奥が痺れたように、視界がちかちかする。言い訳じみた謝罪が聞こえてくるも、内容が入ってこない。好きだったはずの声や匂いが、急によそよそしく感じられる。
『逸子ちゃんって、俺に興味ないじゃん』
唐突に、鋭い声が響く。そこに含まれたわずかな怒気によって、背筋や内臓が萎縮し、呼吸が苦しくなる。
『質問しても上の空になってばっかりで、いつも関係ない話をしていて。噛み合わない会話なら、する意味あるのかなって思う。出張で会えなくても、逸子ちゃんは全然寂しそうじゃないし。なんか、ずっと虚しかった』
――違う。全然違う。
強く否定したいのに、声が出ない。
『俺って逸子ちゃんに必要なの?』
――必要に決まってるじゃん。関係ない話ばっかりかもしれないけど、別に白川くんを無下にしたいわけじゃないよ。へたくそなだけで、私はずっと、好きな人と話をしていたいだけなんだよ。
身体がひどく重たかった。
――七年も付き合っていたのに、なんにも分かり合えていなかったんだ。
長い沈黙を返事と捉えたのか、『別れよう』と白川が言う。諭すような声色で、彼とは終わってしまったのだと気づく。
どうにかお別れを告げて、白川の部屋を出た。
その夜、逸子は一人呆然とし続けた。社会人になってからの白川は出張ばかりだった。直接会える機会も、連絡の頻度も減った。それでも、自分を好きでいてくれる恋人の存在は、ずっと心の支えだった。それなのに、唯一無二だと信じていた愛情は、唐突に消えてしまった。
しばらく逸子は、気の抜けた生活を送った。ふとしたとき、ペン立てにしていたクッキー缶が、白川と初めて泊まりで出かけた遊園地で買ったものだと気づいた。ところどころ傷がつき、塗装の禿げた箇所には赤茶けた錆が浮いている。
『俺って逸子ちゃんに必要なの?』
冷ややかな声が蘇り、不意に涙が流れる。小さな空き缶を、何年も大事に持っている自分が馬鹿みたいだった。
思い出が蘇るものはすべて捨てようと試みた。しかし、交際期間が長かったせいで、目につくもののほとんどに会話の記憶が紐づいていた。あまりに不便なので断捨離を諦めた。白川に貸したことのある調理ばさみの存在に鼻の奥が痛み、十分後にそれで海苔を刻んだ。些細なきっかけで途方に暮れてしまう日々がしばらく続いたけれど、時間が経つにつれて、白川を思い出してもなにも思わなくなった。
一年後、逸子は三浦と出会い、付き合い始めた。一つ年上の三浦は、バイクやらキャンプやらと趣味が広く、好奇心旺盛で休日のたびに展示会やグルメフェスに参加している。大抵それらに誘ってくれるので、逸子も気が向いたときには参加した。いつでも楽しそうで饒舌な三浦といると、逸子もつられてよく笑った。
写真の趣味は、多少高価なカメラを数台保有していることしか説明していなかった。三浦と会うときは一眼レフを首にぶら下げるのではなく、コンパクトなものをカバンに潜ませるようにした。カメラに集中すると周りにばかり気を取られて、会話がおざなりになってしまう。脈絡なく喋るのは控えた。すると、適切な言葉を見つけ出せず、黙ってしまうことが増えた。ふと何かを言いたくなったとき、声に出さず呑み込むのが時々寂しくも思えた。それでも、嚙み合わない会話を続けて、相手に悲しい思いをさせてしまうよりはマシだった。
編集がうまくいった写真を誰にも見せないのはすこし惜しく、SNSを新しく開設して投稿した。毎回たくさんの反応が貰えるわけではないし、酷評されることもあったけど、趣味を続けるぐらいのモチベーションは得られた。
オレンジ色の花は透明なガラスの花瓶に飾っていた。お祝いをするつもりで買った二輪は、明るすぎる色合いが簡素な部屋にぽっかりと浮いて見えた。
ハルちゃんが選んでくれたお店は、肉料理が美味しそうなバルだった。
「手頃で、アクセスが良くて、個室が空いていたのでここにしました。もちろんレバーもあります」
「ありがとう」
正面に座るハルちゃんは、メニュー表を九十度傾けて二人で見られるようにしてくれる。個室とはいえ、壁や扉の一部が格子状になっているデザインで、店内の様子が知れた。早めの夕食にしたため空席が多かった。
――カウンター席のランタンきれい。光が揺らいで見えるけど、本物の火なのかな? 危ないし、さすがに充電式だよね?
気づけばハルちゃんは店員を呼んでいて、テキパキと料理を注文していく。
「逸子さん、他になにか食べたいものありますか?」
「じゃあ、シーザーサラダとハラミステーキ」
咄嗟にメニュー表の写真に指を差すと、相好を崩したハルちゃんが店員に伝えてくれる。上の空になりかけたが、無事に注文を終えられて安堵する。
ドリンクが運ばれてきて、乾杯をした。ハルちゃんはひどく喉が渇いていたらしく一気にジョッキを呷る。気持ちのいい飲みっぷりに、逸子は嬉しくなる。
ゆっくり話すのは久しぶりだった。仕事もプライベートも、お互いの近況を知らなかったので話題は尽きない。ハルちゃんがテンポ良く喋って質問をしてくれるので、心地好く会話が進む。
「逸子さんは今の彼氏さんと、どこで出会ったんですか」
「同僚の彼氏の友達だったの。気づいたら同僚の家で一緒にゲームしてて、仲良くなった」
「どんな人なんですか?」
「なんというか、いつも元気」
三浦に激辛グルメのイベントに誘われていたことを思い出す。辛さに弱いので断ったけど、真っ赤な料理と、汗だくになった三浦の写真が送られてくるのが想像できて、なんだか可笑しくなる。
「元気に越したことはないですね」
「うん。私がいなくても楽しそうだし、一緒にいるとさらに楽しそう」
「ぴったりというか、逸子さんと似ている人ですね」
「そうかな?」
思いもよらない褒め方をされ、三浦の気のいい笑顔が浮かぶ。
――興味ないようなイベントも毎回誘ってくれるんだよな。あまりにも楽しそうだから、つい行きたくなる。激辛グルメは行かないけど。
「花屋で会ったときも思ったんですけど、逸子さんって、恭ちゃんがいないと、まともになるんですか?」
アルコールでほんのり顔を赤くしたハルちゃんは、唐突に言った。
「どういうこと? すごく失礼なことを言ってる?」
そうじゃなくて、とハルちゃんは笑う。
「なんというか、大人しくなったので……。恭ちゃんにはもっと好き勝手に喋っていませんでしたっけ? 会話の流れを無視して『あれ見て! すごくない!』って、なんか急に指差したりして。質問してちゃんと答えが返ってきたこと、あんまりなかった気がします」
「そんなに酷かった?」
「フリーダムすぎて、めっちゃ笑った記憶あります」
「まあ、実は気を付けているんだよね。それが原因で白川くんにフラれたし」
面白がってくれるのは嬉しかったけれど、同時に苦い記憶も蘇る。冗談だと思ったのか、ハルちゃんは「そうなんですか⁉」と言いつつ、けたけた笑っている。
「私は好きですけどね。まあ、恭ちゃんって優しすぎるから、逸子さんの呟きに一生懸命どう反応しようか考えて、勝手に空回っていたんじゃないですか? 相性の問題ですよ」
あっけらかんとしたハルちゃんに、拍子抜けしてしまう。
自由に喋ってばかりいると、相手に嫌な思いをさせてしまう。白川に指摘されてから反省して、脈絡のない発言は控えた。だけど、ハルちゃんはそんな自分を肯定してくれる。
『俺って逸子ちゃんに必要なの?』
冷ややかな声が何度でも蘇る。逸子はとても傷ついたけれど、そんな言葉が出てくるぐらいに、白川も悲しみを募らせていた。お互い様だったのだ。
「そっか、相性ならしょうがないか」
「はい。だから逸子さんが今、歯車のぴったり合う人といられるなら何よりです。恭ちゃんも結婚できたし」
――三浦くんはどう思うかな。とりとめのないことでも、面白がってくれる気がする。そうだったらいいな。
少し声が詰まりそうになりながら、「ありがとう」と逸子は言う。
白川の結婚式には、ハルちゃんも参加したと言っていた。
披露宴で流れた二人の紹介映像によると、新郎新婦は職場の先輩後輩関係で、中国への出張がきっかけで親しくなったそうだ。ハルちゃんの口ぶりからして、恙なく行われた良い式であったに違いない。
一番の見せ場は、サプライズプロポーズだったらしい。披露宴の終盤に突然、新郎から新婦へのサプライズムービーが流れ出した。新婦もゲストも薄暗くなった会場で映像に夢中になっている間に、新郎は大きな花束を準備し、新婦の前にひざまずく。そして、映像が終わって会場が明るくなると、大勢のゲストの前で、新郎が二度目のプロポーズの言葉を贈る。会場中に拍手が湧きおこり、新婦が感動に涙する。
逸子はふと、サプライズを受けたのが自分だったら、と想像する。スポットライトの眩さに顔をしかめ、盛り上がる周囲に理解が追いつかず、きっと困惑してしまう。
――白川くんは、相手を喜ばせようと一生懸命になってくれる人だった。でも、私と彼では、何を幸福に感じるかの、価値観が違っていた。それだけの話だった。
『夫婦生活は長い会話である』
SNSに投稿された文面が脳裏に蘇る。
――私たちの会話はずっと嚙み合っていなかった。
だけど今、白川はサプライズに感動の涙を流してくれる人と結婚して、逸子は三浦に出会えた。
「私も参加したかったな。なんで呼んでくれなかったんだろ」
冗談めかして逸子が言うと、ハルちゃんはけらけらと笑う。
「ハルちゃんも、なにか悩んだら、私を頼って」
「相談になんて乗れるんですか?」
「失礼な」
「ふふ、じゃあ、また遊んでくださいね」
「もちろん。いつでも大歓迎よ」
気持ちよく酔いが回ってくると、写真をたくさん撮った。念のためカバンに入れていた一眼レフが活躍し、料理やお店の内装や、笑顔のハルちゃんが綺麗に映る。
「この写真見て、ハルちゃんが笑い過ぎるから、すっごい手ブレしちゃった」
躍動感のある自身の写真に、ハルちゃんは苦しそうなぐらい激しく笑う。くだらないことなのに大げさな彼女が愛おしくて、逸子も息ができないほど笑った。
ハルちゃんと一緒に撮影した写真を見返す。どれも加工が必要ないほど素晴らしい写真に見えた。今日の出来事を三浦と共有したくなる。一人で思い返すだけでは勿体ないぐらい、素敵な日だった。写真を勝手に送ったらハルちゃんは怒るだろうか。
メッセージアプリを起動すると、『いいね。行こう』と無難な返信をした履歴が残っている。逸子はつい笑ってしまう。
――ずっと勘違いをしていた。別に、脈絡なくメッセージや写真を送り付けるのが悪いわけじゃなかった。人が喋っているのにちゃんと聞かないのは良くないけど、好きな話ばかりするのが駄目なわけでもない。
メッセージを送るのを一旦止め、逸子は風呂に入ることにした。
湯船に口元まで浸かり、目を閉じる。いつも持ち込むスマートフォンも、今日は部屋に置いてきた。指の先まで温められ、だんだんと気持ちがふやけてくる。
長湯をした後は、洗面所の鏡の前で、肩までの髪をじっくりと乾かす。
歯磨き粉をたっぷりつけた歯ブラシを片手に、逸子はベランダに出る。天気の良い夜で星空が鮮明に見える。穏やかな風が火照った顔に当たる。乾かしたばかりの髪がなびく。ミント味の歯磨き粉が外気に触れて、口内でスースーして気持ちが良い。
屋外での歯磨きをいつから続けているのか、ふいに思い出す。洗面所で口を漱いだあと、スマートフォンを片手にもう一度ベランダに出た。歯磨きをしたあとは、すぐ眠りにつくのが習慣なのに。
逸子は電話をかける。数回のコールですぐに繋がる。相手は三浦である。
「もしもし」
『もしもし。逸子さんから電話くれるの珍しいね。どうしたの?』
「どうもしてない。けど、ちょっと聞いて」
『なに?』
「私ね。毎日眠る前に、ベランダで歯を磨くの」
『うん』
「よっぽど寒いとか、雨が降ってるとかじゃない限り、わざわざ外に出るの」
『うん、なんで?』
「大学のときにね。山中湖にキャンプに行ったんだけど、そのときに気づいたの。私は外で歯を磨くのが好きなんだって。なんか、爽快感があるのよ」
白川と付き合い始めた日の記憶だ。もちろん、三浦に伝える必要はない。
『そうなんだ。それで?』
「続きはないよ。それだけ」
――なんの話をしているんだ、私は。
受話器越しの沈黙が、小さなノイズ音を生む。三浦が返答に困っている。
逸子はいつも、大好きな人と感じたことを共有していたい。だけど、その気持ちを報せないまま脈絡のない呟きばかりするのは、独り言をしているのと一緒だった。
――私は、三浦くんと会話がしたいんだ。
「それだけなんだけど、そういうくだらないことを、三浦くんに言えるのが、とっても嬉しい」
たどたどしく言い終わった途端に、顔が熱くなる。
――本当に私は、会話をするのがヘタクソなんだな。
『そっか。じゃあ俺も今度逸子さんの真似をして、ベランダで歯磨きしてみる』
時間が止まったみたいな静寂のあと、笑みを含んだ三浦の声が返ってくる。胸のあたりがほのかに熱くなり、緊張で身体が強張っていたと遅れて気づく。可笑しさが際限なく込み上げてきて、場違いなほど声が弾んでしまう。
「うん、やってみて」
変な電話をしてしまったと気づき、改めて恥ずかしくなってくる。
「それだけだから。急にごめんね」
「じゃあ」と切ろうとしたところで『ちょっと待って』と引きとめる声が聞こえてきた。
『せっかくだからゆっくり話したい』
それから三浦は、逸子の二十倍ぐらいたくさん喋った。逸子の精一杯の愛情表現へ、彼なりにお返しをしてくれているのだと、そんな気がした。
【おわり】