月人おすすめ地球観光ツアー(著/樹 れん)
「ジョー、あそこに飛行している個体がいる。近くで見たい、捕ってきたまえ」
地球には本当に『鳥』が実在するのだな。
彼が指し示した先、雲の手前に鳩がぱたぱた飛んでいた。あれが平和の象徴とか言い出したひと、責任を取ってほしい。
月の地下に国を築く月人たちの存在が公表されて、今年で四十周年。旅行業界が地球から月へ、月から地球への星間旅行を事業に組み込みはじめたのは、ほんの数年前のことだ。つまりまだまだレアリティが高く、宇宙船のチケットはおれの生涯年収よりも値が張る。
だから旅行代理店に就職して三年、一度も思わなかったのだ。星から星への渡航も可能な大富豪が、うちみたいな万年売上底辺の弱小支店を利用しようとは。
「本日のツアーガイドを務めます、笹川と申します」
「ササガワは家名かね?」
「あ……はい。姓が笹川で、名前は穣です」
「そうか。私はメネラ。フルネームは地球人の声帯では発音が困難な部分があるようだから、単なるメネラで構わん。月の『虹の入江』地区から来た。今日は期待している、ジョー」
初対面時、濃いサングラスの奥にある目に値踏みされている気配をひしひしと感じた。頭を下げながら、空港の綺麗な床にそのまま倒れ込みそうになった。
もともと、彼のツアー担当はおれではなかったのだ。おれの先輩が彼の案内をするはずだったのに、当日先輩が向かった先は空港、ではなく病院。出産予定日が二週間後だった奥さんが急に産気づいたためだ。それで、急遽代理として駆り出されたのがおれ。高熱のとき見る夢のほうがまだマシな状況をしている。
うちの支店どころか会社まるごとお買い上げも可能だろう真のVIPを、丸腰で応対することになった今朝のおれへ。おまえは一時間後、飛ぶ鳥を捕まえてこいっていう、小学生が考えた罰ゲームみたいな無茶ぶりに遭うよ。
「あの……捕まえるのはできかねます」
「凶暴なのかね?」
「いえ、法的に禁じられているのと……根本的にだいたいの地球人は無理です」
可能だとしても、実行したあかつきにあるのは鳩を追い回す成人男性の図。通報される。
「……そうか。いるのが当たり前であればまず捕まえようという発想に至らないのだね」
食い下がられたらどうしよう、とびびっていたおれに対し、メネラは淡泊に納得していた。「月にはこの大きさの飛翔する生物は存在しないのだよ」と一応解説してくれる。
「鳥がご覧になりたいのであれば、動物園に参りましょうか」
「そこは地球人が普段訪れる場所なのかね?」
おれの沈黙を適切に読み取った彼は、「ならば構わん」とまた鳩に視線に戻した。ハア、と聞こえよがしな深いため息をつかれる。意味合いは地球と同じにちがいない。
「そもそも私は最初から、観光地ではなく一般的な地球の生活が見たいと、要望を出していたのだがね……いやはや、私の英語が未熟だったようだ。地球人には食器が擦れる音にでも聞こえていたのかもしれん。是非謝罪を伝えてはくれないかね、君。耳障りな不協和音を聞かせてすまなかったと」
「めっ……そうもございません」
勢いよく九十度より深く腰を折った。今日だけで三か月分の「申し訳ございません」を先払いしている。
おれが代理に抜擢されたのは、英語がいちばん得意だから、というだけの理由だ。月語を喋れる職員がいないので、流暢に英語を操るメネラに不甲斐なくも甘えている。彼の発音は滑らかだが、言い回しは英国の気難しい老紳士を相手取っている気にさせられた。本人は三十代くらいに見えるのに。月じゃどんな英語教材が主流なんだ。
「伊勢には厳重に注意いたしますので」
「必要はない、通りすぎた道に落ちていた石の形など、どうせすぐ忘れる。それよりもポケットに暫く入れることになった石の手触りのほうが、余程重要とは思わんかね?」
ポケットの石ことおれは、なんなら今すぐ河原にでもぶん投げてほしい思いでいっぱいである。
先輩はとにかくお金をかけて豪華に、としか考えていなかったんだろう、用意されていた観光プランは明らかに顧客の希望に沿うものではなかった。おかげで、本来のスケジュールなら城を散策しているはずのこの時間帯に、おれは公園の案内をしている。
メネラのこの旅のリクエストは、「地球人が普段過ごす場所」。地球人のガイドしかしてこなかったおれが、そんなオーダーを受けたことがあるはずもなく。本社の月人おすすめ観光プランもこの地方に適用できず、一般的なツアープランの引き出しを封じられた結果、ひとまず思いついたのが近くの森林公園だった。
「やはり緑が多いのだな。ここに来るまでも自生している植物が目についた」
メネラは植え込みを逐一のぞいている。本人が気づいているのかいないのか、そんな彼を園内の数少ない人々がちらちらとうかがっていた。彼の白い顔の半分を隠す真っ黒のサングラスは、開放的な公園という空間で異彩を放っている。
地下で暮らす月人からすると、地球の陽光は眩しすぎるらしい。子どものころ授業の映像で見た月人の王族も、頭から目元にかけて布で覆っていた。実は最初に相対したとき、緊張しつつもちょっと感動したのだ。肌が白いのも耳が地球人より大きめなのも同じだ、と。ただ一点、にわかの知識とちがうのは。
「おい、あれらも飛ぶ個体だったのかね」
「そうですね、基本的に飛びますね、鳩は……」
ふいに飛び立った一羽を皮切りに、地面をのたのた歩いていた鳩たちが一斉に飛び去っていく。鳥の群れを見上げるメネラの影が長く、長く伸びている。
背が、かなり高い。二メートル近いんじゃないだろうか。テレビに映るような王族貴族の月人はみな小柄だから、彼は倍近く大きく感じた。空港でも月人の容姿より先に、とにかく大きな体格が目についたほどだ。
彼は身長に見合った長い脚でずんずん公園を進んでいく。案内しようにも説明すべき点もなく、おれは一定の距離を保って彼に付き従っていた。本来ならトークで盛り上げるべきところなのに、全然会話の引き出しが開かない。
わかってる、英語ができるから適任なんてのは建前で、体のいい生贄にされただけだ。だってどんな気まぐれでここを旅先に選んだのか知らないが、はっきり言って観光地として名が挙がる都市ではまずないのだ。めぼしい観光名所もレジャー施設もないこの土地で、肝心のプランも全部リスケの即興観光案内。失敗しないほうが難しい。このひとが苦情どころか「いまいちだった」と不満を漏らしただけでも、本社はおれの首をさくっと刎ねるだろう。
自分で考えながらちょっと泣きそうになった。ハロワへの経路を考えそうになる自分を頭から追い払う。今ははるばる遠い星からやってきたこのひとに、地球観光を楽しんでもらうことに集中せねば。それがおれの仕事だ。
メネラは一週間日本に滞在する。今日をしのげば、あとは本社からフォローするひとが来てくれる。今日一日は、一人でやりきってみせる!
そう意気込んで顔を上げると、メネラがいなかった。
腹の中で胃が宙返りしそうになったが、探し回るまでもなかった。数メートル先、公園の隅でおこなわれていたママ友数人の集会。そのそばに、帽子をかぶった長身がいた。
メネラは母親の腕に抱かれる赤ん坊を見下ろして、何事かぶつぶつ唱えていた。どこか歌うような韻律、鼓膜の内側に反響するような独特の音。きっと月語だ。赤ん坊に向かって自身の母語を囁きつづけるメネラに、母親たちは明らかに困惑していた。赤ん坊は泣いていたらしく目元口元をべたべたに濡らしているが、今は自身を覆う影をぽかんと見上げている。おれは自己新を出す勢いで赤ん坊とメネラの間に割って入った。
「すみません! に、日本の文化にあまり慣れていない方なので! こわがらせてすみません!」
高速で頭を下げれば、赤ん坊を抱きなおした彼女たちは顔を見合わせつつそそくさとその場を離れていった。こわがらせてごめんなさい、でもどうか通報しないでください。
「な、何を……あの赤ちゃんが何か……?」
たった数メートルのスプリントで心臓が破裂しそうになっている。ふり返るも、メネラは顎を撫でるだけ。
「赤子が外へ連れ出されるのは、特段珍しくはないのだな」
「……月では、外出させないものなのですか」
「推奨はされていない」
だからって、地球の赤子に絡まれても。頬の内側を嚙むおれに、この星への来訪者は一瞥すら寄越さない。
「次はどこへ行く予定かね?」
「少し早いですが、お食事は」
「飛行機の中である程度食べたから暫くはいい」
食いぎみに断られた。興味ない話を聞くときって、月人も爪を見るんだな。悲しい発見を経つつ、駐車場へと戻る。どこへ行こう、就職してから休日はもっぱらスーパーと自宅の往復しかしていない社会人の実態を、見せるわけにもいかないし。
「ジョー、あれはなんだね?」
「自動販売機です、飲み物や軽食が買えます」
「おい君、あの生物はまさか、アキタイヌか?」
「いやあれは大きいポメラニアンですね」
「アキタイヌではないのかね」
「同じ犬ではありますが……」
「『イヌ』は種族差が激しいのだな。ではあれも?」
「あれはキャリーケースです」
せなちゃん(姪っ子)のなぜなに期も、こんなだったな。
いくつかの提案を経て、次の行き先はショッピングモールに決まった。地方民からすると半分娯楽施設だが、近隣住民は日常的に利用する店舗が揃っている。生活が見たいというなら一石百鳥くらいだろう。ただ難点が一つ、ちょっと遠い。
オートモードで運転もAIに全部任せているので、短くない移動時間はずっとふたりだけの空間だ。どう間を持たせるか気を揉んでいたが、すべては杞憂だった。移動を始めてから、メネラはとにかくノンストップで質問を飛ばしてきた。おれはたまに車内の飲み物を勧めたりしながら、塾の先生のようにつとめて穏やかに答えた。あれはキャリーケースじゃないですね、散歩を拒否している犬です。
そんな質問攻めもモールについたら止まると、おれは勝手に思っていた。浅はか。
「映画があるではないかね」
到着して早四時間。映画館の前で立ち止まったメネラの後ろで、おれは息も絶え絶えだった。こんなに口を動かしつづけたのはいつ以来だろう。修学旅行のガイドだってここまで喋りっ放しじゃなかった。
多様なテナントが集まっている複合型施設。イコール情報のるつぼだ。取りこぼしたらペナルティでもあるのかというくらい、視界に入るあらゆるものをメネラは話題に取り上げた。公園で大人しかったのは、ある程度見ただけで用途がわかる物ばかりだったからだと、遅ればせながら気づいた。
例えば彼は百均にずらりと並ぶ棚を見て、
「君、これだけ種類が豊富で、本当に全て値段が同一なのかね。月だといくらだ……二ルエ? これが全て? そんなわけが……君、まさか法に触れる商店に私を連れてきたのではあるまいな。それとも関税が大層吹っ掛けられるのでは?」
と(英語とはいえ)店員に聞こえる大声で話したかと思えば、冷凍食品専門店のフローズンドリンクを前にして、
「このジュースは同じ材料で何故こうも値段が異なっている? 鮮度? 何故新鮮さで劣る物を店に出す……物によっては熟成冷凍? の方が美味いのか。そういう冷凍技術なのだな。君たちの美食への貪欲なまでの探求心には、少々……いや、なんでもないがね」
と日本人の食べることへの執着心にちょっと引き、塾の前を通りかかった際には、
「店ではない? ではなんだ、ジュク? ……学び舎かね! 是非見学したい、なんだ君、止めてくれるな」
とおれの制止を振り切ろうとした。全力で止めた。
見知らぬ土地、というか見知らぬ星で、よくもここまで臆することなく各所に突撃できるものだと思う。ふだんのガイドとは使うエネルギーの量が段違いで、おれはもうフルマラソン折り返しくらいの疲労度が溜まっている。
そんなメネラがようやく止まったのは、シアターの宣伝用大画面の前を通りかかったときだった。声のトーンが明らかに一段高い。
「映画がお好きなのですね」と笑いかければ、彼は血色の薄い唇をゆるめた。
「地球の映画は好ましい、英語を学ぶ過程で様々な刺激を受けたものだよ。ああ、クロサワアキラの映画も見たぞ、『ラショウモン』、あれは実に素晴らしかった。『七人のサムライ』も好きだ」
つらつらと好きな映画の名を連ねていく。もしかしなくとも地球映画マニアなのか、往年の名作について語る姿はやけに生き生きとしていた。道理でこの老紳士みたいな英語なわけだ、百年以上前の作品ばかり観ている。
「地球人はポップコーンというものを食べながら映画を観るのだろう? 月にはトウモロコシ? に近い穀物がなくてな」
「気になるものがあれば観ましょうか。VR版にすれば臨場感は格別ですよ」
タイミングよく、画面で俳優が大立ち回りを披露してくれる。その姿にメネラがぐらぐら揺らいでいるのがわかった。しかし映画ファンの月人は、断腸の思い、といった風情で、額にまで皺をつくって首を振った。
「……いや、まだこの施設は別棟もあるのだろう、其方も一通り見たい。今日のところは諦めようではないかね」
かなり未練たらたらな様子を見せつつ、「それに」とメネラは胃(たぶん)のあたりに手を置いた。
「そろそろ食事を摂りたいのだよ。機内で出されたのは月の料理だったから、地球の食を体験したいのだがね」
現在時刻は午後三時。昼食にも夕食にも半端だが、クライアントの望みは絶対だ。
「何かご希望は……」
「あまり詳しくないのだ。おすすめは何かね、私のガイドくん」
おれは笑みを保ったまま胸を張った。これが「きみのセレクトを信じる」の意ではなく、「こっちの意図を汲みとり望むものを提示せよ」という意であることはちゃんと承知している。
先輩は懐石料理の店に予約を入れていたけど、メネラの旅の趣旨とは離れているので、朝の時点ですでに支店長を向かわせている(キャンセルは申し訳ないので自腹を切らせた、無茶ぶりの腹いせに)。だからおれは車内で移動していたときからすでに、食事の候補を脳内でリストアップしていた。
彼の舌がどれほど肥えているのかは知らないが、美味しい料理より、地球人がよく通う店に入りたいはず。つまり正解はこれだ。
「ファミリーレストランというお食事処が」
「回転寿司というものがあるそうだね」
そっちか。
「少々お待ちください、はい……」こそこそとスマホを操作する。月人って、生魚いけるっけ。一階の寿司屋の空きを確認するふりで、月人のNG食材一覧を確認した。食中毒でも起こったら、うちみたいな地方は月人を診られる医者もいない。
セキュリティの観点から仕事はわざと旧型のスマホだが、バーチャルスクリーンじゃない画面は小さくて扱いづらい。焦って画面をスワイプしつづけるおれの眼前、本当に鼻先二ミリくらいに、一枚の紙が突きつけられた。
「此方へ来る前にNASAの健診センターで検査してきた。生魚の消化に問題はない。海藻類は摂取し過ぎるなとのことだ」
「…………わっかりましたぁ」
寿司食う気満々じゃん。最初に言ってよ。
モールに出店しているのは、ふだんおれもお世話になるチェーン店だ。ボーイよろしくテーブル席まで案内したおれに、「そこに棒立ちになって食べるところを見ていろ、と言い出すような冷血漢に見えるかね?」とメネラは不遜に顎を上げた。見えます! とは答えられず、失礼して彼の向かいの席に着く。庶民の寿司屋でお客様と食事をごいっしょするなんて、はじめての経験だ。自分の分ぜんぶかっぱ巻きにしたほうがいいかな。
人気のネタランキングとかに入ってそうなスタンダードなお寿司をいくつか注文している間、メネラは皿の配膳口がある壁や醤油のボトルなどをじろじろ眺めまわしていた。何が「回転」寿司なのか気になっていたそうだが、今の時代はもうほぼ名前だけで、昔のように店の中にレーンがあるわけではない旨を説明すると、返答こそ平坦だったものの身体全体が、なんだかがっかり……と落胆を物語っていた。なんか申し訳ない。
「もっとスムーズに、衛生的にお寿司を届けてくれる機構がありますから……あ、ほら、来ましたよ」
テーブルに皿を並べると、メネラは居住まいを正し、またぶつぶつと月語を呟きはじめた。一瞬どきりとしたがなるほど、月人にも食前の挨拶や祈りのようなものがあるのだろう。長くて複雑そうだ。
歌のようなその韻律に耳を傾けていると、あれ、と引っかかる。聞き覚えがある、すごく最近聞いた。最近というか、今日赤ちゃんに対して唱えてたのと同じな気がする。これ、食前の祈りじゃないのか。なんで赤ちゃんに。
……え? 食べ……いやいやいや。
「まるまると肥えている。美味いのかね?」
噎せた。
とっさに顔を背ければ、ちょうど壁のスクリーンに目が向いた。流れている宣伝映像で、海を悠々と泳ぐまんまるのふぐ。強烈なビートを刻む心臓を手で押さえる。寿司屋でネタが泳いでるところを流すな。
「注文します? ふぐ刺し……何十年か前は、資格がなければ捌くこともできなかった魚なんですよ」
今じゃ海洋細菌の操作で毒がなくなって、みたいな話題で間を持たせようとしたが、毒とか言わないほうがいい気もする。続きを聞きたそうなメネラに愛想笑いして、ふぐ刺しとミニてっちりも追加した。
日本料理を勧めるにあたり、月人に寿司はいいチョイスだったのかもしれない。手で食べても問題ない料理ですよ、と伝えれば、箸の文化がないのだろうメネラは、しかし素手で食べることにも戸惑いつつ、恐る恐るといった手つきで食べはじめた。月の食文化にはさっぱり明るくないが、生魚は食べないのか、それとも魚に類するものがないのか。どちらにしろ果敢だ、異星の食事に対して。
地球の庶民の味方も、月の金持ちの口に合わなかったらどうしよう。そんな心配が杞憂だったことは、一貫食べ終えたメネラの様子ですぐにわかった。何度かうなずき、続けて手を伸ばしている。おれも撫で下ろした胸の前で、そっと両手を合わせた。
「形態が異なるな」
気に入ったのか二皿目の漬けまぐろを頼んだメネラが、ふいにおれが食べようとしていたねぎとろ軍艦に気づいた。
「軍艦というお寿司です」
メネラは「グンカン」と律儀に繰り返す。warshipという意味です……ってのも話しづらい。
「召し上がりますか?」ともう一皿注文すると、メネラはもう慣れた様子で醤油をかけて早速頬張った。寿司を知らない文化圏の人間からするとちょっとあれな見た目だろうに、ためらわない。
黙々と咀嚼したメネラは、きちんと嚥下してから口を開いた。
「同じのをもう一つ」
「あ、でも海藻は少しだけなんですよね?」
あまりにもさくさく食べすすめていくので、解説をふつうに忘れていた。
「何?」
「この黒いのは海藻の加工品でして……」
メネラはたっぷり三秒ほど沈黙してから、無言でスクリーンをいじりはじめた。軍艦巻きのページで指を止める。
「……まだこんなに種類があるではないかね」
「もう一皿だけ頼みましょうか……」
メネラはしばらく悩んだのちに、魚卵と知っていくら軍艦を注文した。ウニはちょっと勇気が出なかったらしい。
「きみは何故この仕事を?」
ほどほどに腹が満たされたころ、熱々の茶を吹き冷ますこともなく飲む彼にはらはらしていたおれに、メネラはそう聞いてきた。
「浅識で失礼するが、此処では旅先の案内人は名誉ある職なのかね?」
「誰もが憧れる職業とは……」
「では無粋な話だが、給与が?」
「いえ、もちろんいいひともいるのでしょうが……ツアーガイドという職自体、ずいぶん前から斜陽なので」
ただでさえAIの発展で一気に廃れた職種だ。しかもおれはド地方の支店勤務、まだ入社して数年。メネラみたいなセレブの上澄みと向かい合って寿司を食べている、この現状のほうがおかしい。
ならば何故、と促されて、ひとまず手拭きで指を拭う。自分だけ箸を使うわけにもいかず、メネラとともに手で食べていた。
「学生時代、旅行が趣味だったので……その流れでですね」
ともに食事をしたからといって一気に打ち解けるわけではないが、腹が満たされると落ち着いて会話するだけの余白が胸中に生まれていた。小噺じみたエピソードを披露するほど、調子には乗れないけれど。
「私のことを知らないコミュニティに、交ざってみるのが好きだったので……この日本国内だけでなく、他の国もたくさん回りました。短期で働いて旅に出て、また働いての繰り返しです」
「私はアメリカにはほぼ滞在しなかった。移動の時間を除けば六レムほどしか……この単位では伝わらないな。まあとにかく、さしたる観光もせずこの国へ来たのだがね。同じ地球でも、やはり土地によって文化は異なるのだな。……いや、当たり前か」
「月の方からすると、星と星の単位ですから些事に見えるかもしれませんね。でも別の国どころか同じ日本の中でも、その土地その土地でわりと人の雰囲気は変わります。月ではそういったことはないですか?」
メネラは湯気がもうもうと立つお茶で地球人に比べ白っぽい唇を湿らせ、「ある」と簡潔に答えた。
「お恥ずかしい話ですが、私は元々内気で、学校などのコミュニティであまり周囲に馴染めない子どもでした。ですから、逆にまったく文化が異なるところで過ごすほうが、楽しかったのです。旅人という立場にいるときが、いちばん気楽といいますか……息が、しやすくなりました」
手拭きで拭った指が、しんと冷える。普段はお寿司も箸で食べるから、生粋の日本食を食べているというのにしっくりこない。むしろ、高校生のときにインドで素手で食べたカレーを思い出してしまう。
「一時逃れたところで、問題の先送りに過ぎないだろう」
メネラは矯めつ眇めつしていたガリを口に入れた。いかにもつまらなさそうな声色に、調子に乗って身の上話を語ってしまったことが少し恥ずかしくなる。
「旅先に定住するわけでもあるまい。しかも住んだとしてまた同じことの二の舞だ。前と同じようにコミュニティからあぶれるだけだろうよ。どれほど異なる文化圏で育った人間であっても、同じ人間であることに変わりはない」
おれの発言の何かが彼の侵されたくない領域に触れたのか、妙に棘のある話し方だった。嫌いな味だったようで、ガリにももう手をつけようとしない。
感情的な態度に対しおれは逆に冷静になって、素直にうなずいた。
「はい。ですがそのことにすら、息が詰まったままではきっと、気づけなかったと思います」
高校の夏休みに訪れたインド、しばらくぶらぶらしたのちに、なんとなく入った屋台で食べたチャパティが、すごく美味かった。そのとき屋台の陽気なおばちゃんの皺の刻まれた手が母さんのそれに似ていると気づいてようやく、帰ろう、と思えた。思い返せばそれがきっかけだ。おれみたいなひとが「息をしやすい旅」をできるように、観光業に就くことを考えるようになった。
そうして旅行代理店に就職し、早三年。これまで観光を案内してきたお客さまには、本当にいろんな方がいた。少しずつ、そのひとが旅に何を求めているか、わかるようになってきたと思う。純粋な娯楽だったり、何かを捨てようとしていたり、かつてのおれのように藁に縋るように慰めを探していたり。
メネラとともに過ごして数時間、このひとが尊大な口調や態度と裏腹に、注意深く周囲を観察していることにたびたび気づく。自由なようでいてその実、サバンナの草食動物が眠るライオンのかたわらを通るみたいに、自分の一手一手を選んでいた。未知の土地で、いつでもなんらかの脅威に備えている。
同じ人間と言えど、地球人と月人。無重力の海に隔てられた世界に、彼は足を踏み入れると決めて、実際にそうした。ならばどうして勇気を出して踏み出したその爪先が、大都市でもない、このさびれた地方に向いたのか。
「メネラ様は、なぜ日本へ……ここへ来られたんですか?」
歴史的文化遺産や、先進的な施設がある観光地は他にいくらでもある。海外のみならず、日本国内にも。しかも見たいのが、「地球のふつうの生活」だと言う。
静かに寿司を咀嚼していたメネラは、おもむろに手を拭いた。
「……ジョー」
「はい」
「鼻の奥が痛烈な刺激に見舞われている……」
「わさびつけすぎですね」
最終的にサーモンアボカドのマヨネーズで痛みは緩和されたし、メネラは気に入ってもう二皿注文していた。意外に健啖家。
「このあとは別棟へ移動しようと思ってますがよろしいですか? それともこの棟の裏にある遊園地、のぞいていかれますか」
食事をはじめて一時間ほど、寿司だけでも二十皿は食べたメネラは、現在二つ目のパフェを完食したところだ。体が冷えたのか気に入ったのか、自分で熱い茶を淹れている。
「遊戯施設か。だが裏というのは、施設の外だろう」
「いえ、この施設の一部ですよ。託児所を兼ねているので、子どもが遊んでいる間に親が買い物できるシステムです」
有名なアミューズメントパークと張り合えるような華やかさはないが、それでも一応は遊園地を名乗っている。なのでメネラの要望にそぐわないかもと思いつつの、一応の提案だった。しかし彼の身長に伴う大きさの手に、力が籠もったのが見て取れた。
「見たい」
メネラがそう言ったのと、わずかに前のめりになった彼の手が、湯呑みを軽く弾いたのはどちらが先だったのか。勢いよく転がった湯呑みからこぼれた高温のお茶が、おれの手にかかった。
とっさに叫ぶのを我慢したせいで、ぎぅ、と喉が不自然に鳴った。脊髄反射で席から跳び上がり、それでもかかったお茶が目の前の御仁に飛び散ることがないようにしたあたり、我ながらなかなかの社畜根性だったと思う。
おれと同じかそれ以上に驚き固まっているメネラに、「ひやしてくるので少々お待ちください」と早口で頭を下げて、手洗いへ走る。途中騒ぎを聞きつけた店員を捕まえ、申し訳ないがテーブルの処理を任せた。
わざとでもないのだから恨む気持ちはないが、純粋に痛い。手洗いでしばらく流水をかけ、ひりひりとした痛みに耐えつつ戻れば、テーブルは綺麗に片づいているのにメネラは立ったままおれを待っていた。
「ジョー、すまなかった。平気か」
さりげなく手を隠しつつ、おれは努めてなんでもないふうを装った。だがメネラの大きな手がおれの腕を摑む。
「病院へ行った方がいいのではないかね。無論治療費は私が出す」
申し出自体は有り難いが、病院へ行くほどの大怪我じゃない。大したことはありませんと拘束をやんわり解こうとしたが、メネラは頑なだった。
「然るべき施設で診てもらうべきだろう」
ぐっとおれの腕を引く彼に、その力のこもった指先に。すうっと水が染みるように、彼の考えていることがわかってしまった。
「……そっちか」
うっかり呟いてしまったのは日本語だったけど、何かを感じ取ったのか、メネラが手の力をゆるめた。
あくまでも穏やかに、失礼がないように取り繕って、ドラッグストアで治療できるものを買わせてください、とそっと拘束を解く。会計を済ませてすぐ、同じ一階にある薬局に向かった。さっきまでならいっしょに見たいと主張しただろうメネラも、さすがについてはこなかった。
火傷専用のシートを手に取ると、急に時間を巻き戻したくなった。失言だった。通じないとしても、通じないからこそ、口にしたらいけなかったのに。
心配されているのだと思った。実際そうなのだろうし、罪悪感もあったのだろう。でもわかってしまった。あのひとは、地球の「病院という施設」が見たかったのだ。
別にさらなる謝罪がほしかったとか、気に病んでほしかったわけでもないけど、でもなんだか、こう、感情の部分が受け入れきれない。胸の表面が波立ったまま戻らない。月人だからそうなのか、あのひとがそういうタイプの人間なのか。胃の中がぐるぐるする。
セルフレジの列に並ぶ。
「……帰りてー……」
いきなりVIPをノープランで、それもこれまでにないテーマでガイドするなんて、失敗するに決まっている。してきたことすべて、空回りだった気がしてならない。
薬局を出て、もたつきながらもシートを貼る。なんとか気合を入れようと自分の頬を軽く叩いてみても、頬より手の甲の火傷に響いてよけいに惨めになった。
おれ、クビになるのかな。足早に戻りながら、不安が形を持ちはじめたことにいやな汗をかく。これまで真面目に仕事して、優秀とは言えなくともいろんなお客さまの笑顔のために、なるべく最善を尽くしてきたつもりだけど。この一日のことで、もうガイドじゃなくなっちゃうのかな。
やばい、泣きそう。ぎゅっと両目を瞑って、必死に笑顔を貼りつけなおす。何度かの練習を要した。そして戻ったところで、また叫び声を上げかけた。
「ジョー、よかった、戻ってこないかと」
メネラが見知らぬ幼児を抱き上げていた。
「この少年の保護者に呼びかけてはくれないかね。私は英語しか扱えん」
「まっ、……迷子、なんですか?」
「そのようだ」
二、三歳だろうか、真っ赤なほっぺたにぼろぼろ涙を転がして、「ぱぱ、ぱぱ」としゃくり上げている。いつから抱っこしているのか、メネラの肩はすでにぐっしょりと濡れていた。慌ててわざと大袈裟な笑顔をつくって、男の子の頬を拭う。
「大丈夫だよ、すぐパパに会えるからね。お店のひとに……あ、バングルつけてるね」
少年の手を取ると、メネラがのぞき込んできた。「GPSが内蔵されているので、たぶんこの子の親には位置がわかっていると思うのですが……」しかしあたりを見回しても親らしき影はなく、周囲の視線が刺さるばかりだ。誘拐じゃないです。
「ジョー。位置情報がこの幼児の保護者には伝わっているのだな?」
「は……はい、そのはずですが」
「別の階の同じ場所を探している可能性はないかね?」
あ、と少年がしているバングルを確認すると、確かに少し古い型に見える。
「古いものだと縦座標の観測がずれることがあるので、そのせいかも……」
「ならばひとまず二階に向かうとするか」
子どもを腕に抱いたまま、メネラは長大なコンパスでエスカレーターへ向かった。
サービスカウンターに預けるという選択肢をおれが提示するより、彼の決断のほうが早かった。メネラの肩にかじりつくようにしがみつく小さな手を見て、黙って追従する。
丸い頭が、嗚咽のたびに上下する。エスカレーターの二段後ろに続けばいっぱいに涙が溜まった目と目が合って、おれは自分の顔の横に掌を立てながら、こそこそと変顔をしてみせた。姪っ子のせなちゃんがぐずったときに、抜群に効いたやつ。
「…………」
無。無である。一切の反応がない。さらに二、三回、顔の筋肉を限界まで動かしたが、彼の潤んだ瞳は虚無で満ちるばかりだ。
おれが四苦八苦していると、男の子の背をぽんぽんと撫でていたメネラが、思いついたように何かを口ずさみはじめた。それはさっき食前と、そして今朝泣いている赤ん坊に対して言っていた月の言葉による一節だった。
下りのエスカレーターにのったすれちがう人々が、上階の人間が、みな彼に目をやる。好奇の眼差しは年や性別を問わない。ひそひそと囁かれているのは、別に悪意からくるそれではない。けれどおれは、まるで無数の針を皮膚に押し当てられている気分だった。
「もしかして月人?」
誰かの呟きを耳が拾って、顔を上げる。下りのエスカレーターに乗ったばかりの二人組で、すぐに連れらしきひとが答えていた。
「いや、でかいだろ明らか」
何人だろうね。コスプレかなぁ。子どもすごい泣いてるけど、大丈夫なの、あれ……。憶測がさざめきのように飛び交う。そのほとんどが日本語で、メネラにはわからない。
彼の手を振りほどく直前のおれの呟きも、メネラにはこんなふうに響いていたんだろうか。メネラの声は変わらず朗々と、ひとの熱に染まった空気を震わせる。このモールで、おそらく今この日本で彼だけが地球の人間ではなく、しかし隣人の星に怖気づくこともおもねることもなく、月からの客人はただ彼があるようにあった。
おれは顔を隠すようにしていた手で自分の頬の肉を摑み、渾身の変顔をさらした。
ごほぉっ、とすれちがいざま例の二人組が噎せた。げほげほ咳をする音が遠ざかっていく。すまない若人よ、幼児の笑顔のためにきみたちの腹筋には犠牲になってもらう。そしておれも、しばらくこのモール来られない……。
泣いていた少年が、ぱちぱちと瞬きをした。そうしてやっと、空気が抜けるように笑った。
二階に上がってすぐ、叫ぶ声が聞こえた。ベビーカーを押している男性がこちらへ早足に向かってきている。蒼白な顔で、「ゆうと!」と叫びながら。
メネラが降ろしてやると、ゆうとくんは一目散に父親の元へ駆けていった。おれは親子の感動の瞬間を見届けるより、かたわらのメネラを見上げていた。彼の白っぽい唇が、弦のしなりのようにささやかな弧を描いた。
赤ちゃんのおむつの処理をしている間に、ゆうとくんは迷子になってしまったらしい。そしてメネラの想像通りGPSの座標がずれていたのと、元々二階にいたこともあって、お父さんは二階を探し回っていたのだそうだ。
ありがとうございますと何度も頭を下げていた父親だが、メネラの右肩が濡れているのが目に入ったようで、血色が戻りかけていた顔をまた青くしていた。
「その、コートの……息子のせいですよね? 本当にすみません、クリーニング代を」
「彼はなんと?」
メネラに父親の意向を通訳すると、「必要ない」と彼は首を振る。
「アメリカで適当に見繕った安物だ。その気になれば製造工場まで買い上げられる」
そう居丈高に鼻を鳴らす。英語がわからないらしい父親と、不安げに見上げてくるゆうとくんにおれは笑いかけた。
「大したことはないから、どうか気に病まないでほしいそうです」
別れ際、ゆうとくんにその小さな手を振られて、おれはすぐ、メネラはためらいがちに、手を振りかえした。
「君、よくああして子どもをあやしているのかね」
「はい?」
そのまま二階を進んで外通路へ続くテラスに出ると、メネラは歩みをゆるやかにした。
「背を向けていても分かるものだよ、存外ね」
……え? まさかあれのこと? 言わんとしていることを察するとともに、口からビンタされたセイウチみたいな声が漏れた。嘘だろ。羞恥心のフィーバータイムに突入する。
脳内で自分の後頭部に警策をフルスイングするおれに、メネラはくつくつと喉を震わせた。彼の笑い声を聞くのは、ともするとはじめてのことだった。
「……メネラ様も……あの月語は、今朝赤ちゃんに唱えていたのと同じ言葉ですよね?」
誤魔化し半分に聞いてみると、「ああ、――のことか」とメネラはおそらく唱えた言葉の名前? を教えてくれた。が、月の単語はうまく聞き取れなかった。
「あれは祈りというか……まじないだな」
彼の薄いコートの裾がひるがえる。安物と言い放たれたそれはしかし、彼が地球の旅の友に選んだ一着であり、それだけこのひとによく似合っていた。
「厄災を避けるために唱えるものだ。子供に健やかであるよう願う際や、何か新たなことを始める際の、願掛けのようなものだよ。子供騙しだが、習慣でな」
「お食事の際に唱えていらしたのは……」
「初めて口にする食材だ。食中毒は恐ろしいだろう?」
ニヒルに上がった口の端は、すぐ真一文字に戻った。
「このような建造物があったのだな」
棟と棟を繋ぐ通路は、陽光に照らされながらも快適な気温を保っている。日没にはまだ早いが、差し込む日射しには西日の暖かさが一滴混じっているようだった。その光が、併設された遊園地の観覧車を照らしている。
「こういった複合施設には、託児所を兼ねたアトラクションがついているのがもう一般的ですね」
足を止めたメネラは柵に手を置き、通路を覆うガラス越しに地表を見下ろした。屋外ショーに集まる小さな子どもたちの姿が見える。舞台は鮮やかな緑や花に囲まれて、上空から見ても完成されている。
「やはり樹木が多いな」
「植物がお好きなのですか? 公園でもおっしゃってましたが……」
「知っているだろうが、我々の国は地下にある。酸素の確保は死活問題だから、植林も伐採も国の管理なのだよ。不当な独占が起こらんようにね。植物の取り扱いには許可が必要になる……植樹する場所は、吟味せねばならないな」
「……植樹と言いますと……」
「月の地表に、街を造る計画があるのだよ。まずは酸素だろう」
明日は午後から雨になる、みたいな自然さで、さらりとニュースでも聞いたことがない計画を告げられた。それは、おれみたいな庶民が知ってしまっていい話なのか。一介の旅先案内人相手に、メネラは淡々と続ける。
「現在、月の地表に建設されているのは宇宙港のみだ。その港を中心として、新たな街を造るという一大事業を、私は国から任されたのだよ」
今日いっしょに公園に行ったり寿司を食べたりした人間が、改めてちがう次元に生きているひとだと流れるように突きつけられた。文字通り、宇宙規模の話だ。
「新たな街は地球と月を繋ぐ架け橋だ。地球からの来訪者を最初にもてなす玄関になる。月人のみでなく、何十年と掛かるかもしれないが、そこに居を移す地球人も現れるだろう。だから月の特色を出すと共に、地球人も親しみやすい街にしたかった。参考とする国の候補に、事件発生率の低さと街並みの清潔さから、日本の名が挙がったのだ。そこから更に計画している土地と居住域の面積が近い都市を絞り込んだ結果、この市を含む六箇所が該当した」
その中から此処を選んだことに然したる意味はなく、偶然だったがね……。そう続けられた言葉尻が、わずかに揺らいだ。
「実際に市の様子をこの目で見たかった。中でも、病院と学び舎は確認しておきたい施設の筆頭だったのだよ」
メネラがおれに向きなおる。
「ジョー。あれが怪我に繋がったと知った時、実際に好機、と思ってしまった。つくづく、自分が思い遣りとは無縁の人間と思い知らされたよ。目の前に現れた機会に目が眩み、配慮を欠いた。地球人は温度に敏感なのだと、学んでいたというのにな」
「……ええと、つまりそれは、月の方は……」
「あの程度なら問題ない」
思い返してみれば、彼は寿司屋の熱い茶を水みたいにかぱかぱ飲んでいた。いつ火傷するかとひやひやしていたが、あれ、熱さ感じていなかったのか。十中八九間抜けな顔をしているだろうおれに、メネラは日本人のように一度、頭を下げた。たっぷり一秒下げて、上げる。目が合う。
「すまなかった。説得力に欠けるのは承知だが、月人の皆が、私のような人でなしではないのだ。それだけは信じてくれまいか」
ずっと長身の彼に見下ろされても、威圧感はなかった。サングラスに隠された眼差しが、おれの火傷を負った手に向けられた。
「本日の私は、ガイドとして不甲斐ない点ばかりでした」
左手を覆うように腹の前で手を組み、おれもまた、頭を下げる。
「……要望にうまく応えることもできず、プランもなく行き当たりばったりで、挙句お客様に頭を下げさせて。本来であれば、地球や日本の素晴らしい面をもっとお伝えできたはずなんです。ひとえに、私がツアーガイドの職務を全うできなかったからです。申し訳ありません」
「何故? 君はよくやってくれている」
メネラの大きな手が肩にかかり、頭を上げさせられる。
「前の担当は返事こそ調子が良いものの、私の意見を聞く耳を持っていなかった。君は違う。出来得る限りで叶えてくれようとしたことを知っている。それが仕事であり当然と言ってしまえば、それまでだがね。大方組織から生贄にされた口だろうに、職務を全うせんとしていた。おかげで当初の予想よりは、悪くない旅だ」
唇を嚙む。こんな台詞を言わせたくなかった。もっと優秀な人間が担当であれば、メネラは何を憂うことも生贄を差し出されたなんて感じることもなく、旅行を楽しめたはずなのに。
メネラの大きな手が、おれの二の腕を励ますようにぽんと叩いた。
「構わん。慣れているからな」
彼は柵に背を預け、胸の前で見えない何かを持つように手を広げてみせた。
「私の国はな、地中でこういう形をしている」
広げた手を下げるとともに、その間隔を狭めていく。すり鉢の形だ。
「層になっているのだ。王族、貴族の方々は星の中心に近い深層に、市民は浅層に住む。深層に生まれるほど、体格は小柄になる。私は最も地表に近い層で生まれた。だからほら、この通り」
ゆるく広げられたその腕の、すらりとした長さ。見せつけるように組まれる。
さっき迷子のGPSが別の階に表示されているのではないか、とすぐに気づけたのは、彼自身がそういう階層状の土地に身を置いているからか。おれの納得をよそに、メネラは話しつづける。
「一部の特権階級以外、月の民は皆平等に一市民でしかない――というのは表向きで、深層に生まれた人間が、浅層の人間を蔑視する、というのは、ままある話なのだ」
メネラの笑みはむしろ軽やかで、小粋なジョークでも披露しそうな雰囲気だった。おれはその空気に取り残されて、相槌も打てずただ彼を見ている。
「しかし卑小な陰口如きで信念を曲げる私ではない。深層の七光どもを蹴散らし、今の地位にまで上り詰めた。栄誉ある仕事を陛下から賜り、これで我々に向く目が変わると信じた。これまで出自だけで私を見下してきた連中の鼻を、ようやく明かせると思ったのだよ」
芝居がかった態度でそこまで言ってから、メネラは深く、長く息を吐いた。本棚から目的の表紙を探すような、準備の間だった。
「私の仕事仲間たちは、多くが浅層の出身だ。苦難を共に越えてきた、得難き部下であり朋友だ。彼らはな、地表の街造りに反対している」
通路の雑踏が遠くなり、また音が戻った。一瞬のことだった。
「地表で生まれた人間が、また差別の対象となるかもしれないと。私がしようとしていることは世界を広げることではなく、月人と月人の溝を深めることだとね。対立した。私についてきてくれる者はいなかった」
待って、と声が聞こえる。父親に置いていかれた小さな女の子が、通路をぱたぱたと走っていく。差し出された父親の手を、小さな掌が懸命な必死さでしかと摑んだ。
「それでも既に王命は下っている。私はこの仕事を成し遂げる。だから……失礼ながら此処には、大都市に見るような先進的な施設は少ないだろう? そういった施設は、仕事仲間と共に視察する予定だったのだ。私一人が先んじてこの土地へ来たのは、規模が似通っている市の下見……という名の、仲間への当てつけのようなものだったのだよ」
父親と手を繋いだ女の子が、興奮ぎみに何かを話している。メネラの視線が、微笑ましげにその後ろ姿を追いかけていた。
「ジョー。寿司屋で話を聞いた時、子供染みた態度を取ってしまった。まるで自分のことを言われているようで、据わりが悪くてね。……長年の相棒に、暫くの休暇が欲しいと請われた時にな。地球へ行こうと思ったのだ。地球に居る間私は、ただの月人でしかなくなる。身分も体格も関係ない。此処では私は、ただの異物だ。その方がずっと、気が楽だろうと」
ただまあ、問題の先送りだよ、結局はな。
長い指の先が、サングラスのブリッジを押し上げた。おれは間抜けにも、通路の端に突っ立っていることしかできなかった。
かつて大学二年のときに、ボランティアで行った、戦後の色を濃く残した国。そこでおれの指を摑んだ子どもがいた。明日を生きる手立てもない、その日その日を生きる物乞いの子どもの、潤んでぎらぎらとした目が、一度も見たことのない彼の瞳に重なる。
真夏日の太陽がうなじを焼くような、じりじりとした沈黙だった。何か言わなくちゃ、そう考えもないまま口を開いた、そのときだった。おれを引き留めるように、ポケットのスマホがメッセージの着信を知らせた。
メネラにも聞こえたのだろう。すぐさま手で確認するよう促してくれる。マナー違反だがとにかく何か新たな空気を挟みたくて、断りを入れ通知を確認した。
「……あっ」
「なんだね」
「あ、その……今回の元々の担当だった、伊勢なのですが。奥さんの出産が、無事に終わったと」
動揺したのと、あと無事にお子さんが産まれたニュースにほっとしたのもあって取り繕えず、ぺらぺら喋ってしまった。
「本当かね? 素晴らしい、めでたいことだ」
メネラは柵に預けていた背を浮かせた。
「なかなか遭遇することがない機会だ、私にも是非祝いの言葉を述べさせてほしい」
「えっ」
月ではふつうなのだとしても、さすがに戸惑ってしまう。直に会ったこともない仕事の顧客(しかも先輩かなり適当な仕事してたし)からのお祝いって、どうだろう……。そう目を泳がせたとき、メネラの未だ濡れた肩が目に留まった。
「……先輩と奥様にうかがってみます」と電話を掛けてみる。彼らからすれば混沌極まるシチュエーションだ。産後に迷惑かもしれない。でも、今日生まれた先輩のお子さんはきっと、おれたち以上に異星の人々とともに歩んでいく世代だ。
ダメ元でお願いしてみると、先輩は明らかにうろたえていたが、かたわらの奥さんのほうが大興奮で是非にと言ってくれた。ビデオコールに切り替えたスマホをメネラにわたせば、んん、と空咳で喉を整えている。
狭い画面向こうの先輩は恐縮しきった様子だ。一方その腕に抱かれる真っ赤な、小さなお子さんは安心しきったように眠っている。メネラはまず英語で奥さんを気遣い、夫婦二人に祝福の言葉を述べた。そして月の言葉で、赤ちゃんの健やかな生を祈った。
もうすでに、三度は聞いたまじないの音だ。それが、今度は触れれば融けそうなほど淡く耳を撫でた。今まで得体の知れない音階の羅列だったものが、今はぬくもりをまとう祈りとして、おれの鼓膜も震わせる。
階下で突如歓声が上がり、一瞬、画面から遊園地へ目を移した。ショーのクライマックスにはしゃぐ子どもたちの姿。またメネラを見上げる。
想像する。異星の迷子の親をためらわず探してくれる、赤ん坊の生誕を心から寿いでくれる、そんなひとが、造る街。
画面の向こうから、奥さんの――母となったひとの、「ありがとう」が聞こえた。それはメネラの月のまじないと同じ響きをしていた。
「メネラ様、戻って、映画を観ませんか?」
通話が終わって、返されたスマホを手にそう切り出した。画面を操作して、上映作品を確認する。
「もうすぐ古い映画の復刻があります。あのスクリーンで宣伝していた映画も、少し待ちますが……ご希望であれば、どこかで時間を潰しましょう」
「……どうしたというのだね、急に」
「まだ六日あります」
彼がここに滞在する期間は、一週間。明日からは本社からベテランが来てくれるから、そう支店長が言っていた。でも、この地域を三年とはいえ、ガイドしてきたのはおれだ。
「動物園に行って鳥を見ましょう、うさぎなんかにも触れるかもしれません。うさぎは日本人が、かつて月にいると考えていた生き物なんです。植物園も、隣の市にはなりますが……私がご案内します」
旅行代理店の小さな支店の、富豪でもない苦労して成り上がったわけでもないツアーガイド。月を背負う彼と比ぶべくもない、そのへんのありふれた石ころだ。それでも彼のコートのポケットに、転がり込んだのはおれなのだ。
「折角の地球旅行です。今は、息がしやすいところへ参りませんか」
おれはおれの仕事を全うしなくてはならない。彼が月に帰ってそうするように。
スマホを握りしめるおれに、メネラはしばしの沈黙ののち、ゆるく肩をすくめた。さっき父親を追いかけていた女の子を見たときと同じ目をしていて、自分の未熟さが改めて気恥ずかしい。
「今、どんな映画が観られるのかね」
はい、探します、とうなずく。きっと人生で幾度も辛酸を舐め、幸不幸を自分の糧にしてきた先達が、若輩に寛容さを見せてくれただけだ。それでも、その譲歩を「してよかった」といつか思ってほしかった。
来た道を戻りながら彼に映画を選んでもらう。映画のサムネイルの羅列をスワイプしつづけていると、内の一つにメネラが「これは観たことがある」と反応を見せた。
「私が地球の文化に疎いせいだろうが、まるで脚本の意図が読めなかった」
古い、と言っても、十年ほど前の映画のリバイバルのようだ。おれはタイトルすら記憶にないので、おそらく大してヒットもしなかったのだろう。
「主人公が月が綺麗だと言った途端、恋人が自分もだと泣き出して……。AIの翻訳が間違っていたのか、そのあたりから人物の心情が追えなくなった」
「ああ……、それは、おそらく日本式のアイラヴユーですね」
面白くなかったならこれは除外、と別の映画を探そうとしたおれを、メネラが「何故」と止めた。
「何故それがアイラヴユーになる」
「ええと……ある日本の文豪が、英語の愛の言葉を月が綺麗だと翻訳したんです。日本人には有名な逸話です、真偽はまた別として」
日常生活ではもうほとんど聞くことのない、使い古された愛の告白だ。日本人にはものめずらしいものでもないが、メネラは「ああ」と足を止めた。あるべきものがあるべきところへ収まった、そんな納得の声だった。
メネラが見上げた先の空を目で追えば、薄青い空を針先で削ったように、おぼろげな月が浮かんでいる。
「私もだ」
倣って見上げた、空にすべらかな円を描く彼の故郷は確かに美しい。日本人だけではない、地球のみなが慈しむ景色だった。
「此処へ辿り着くまでの、宇宙船の中で――感動したのだ。こんなにも美しい星が、我らの隣人なのだと。このいとおしい星に住む人々と、我々は生きていくのだと」
メネラはうつむいてサングラスを取り、目元を手でこすった。地球から見る月は、少し眩しすぎたのかもしれなかった。
「どれほど異なる文化圏の人間であっても、同じ人間だと自分で言ったのになぁ。つい今まで、はは、気付かなかった」
声を上げて笑う。愉快げに、長い脚で颯爽とまた歩きはじめた彼は、すぐにおれをふり返った。
「天文に関する施設はないのかね、私のガイド君」
明日はそこがいい、と、お客さまからオーダーを受ける。
プラネタリウム、天体観測館、いっそもっと山のほうで満天の星空を。一瞬で選択肢が頭を巡る。計画を立てねばならない、メネラだけのための地球観光ツアーだ。お任せください、と胸を張る。手始めとして、映画館でポップコーンを買わなくては。
【おわり】