つまらない恋の終わり


 同窓会というものに初めて参加した。高校の近くなので見覚えはあるけれど、入ったことのない小さな居酒屋。貸し切りの店内には当たり前だが同い年の男女がずらりと並んでいて、圧迫感がある。こういうものがずっと苦手だった、と、高校を卒業して十年経(た)ってから、改めて思う。
 自己紹介の順番が回ってきて、薊(あざみ)文(ふみ)也(や)です、今は会社員です、と言うと、当時は話したこともなかった連中も感じのいい愛想笑いで拍手をしてくれた。みんな大人になっていた。全体を見回すふりで端の席で女子に囲まれている伊(い)藤(とう)大(たい)志(し)にさっと目をやると、あいつもみんなと同じようなゆるい拍手をしていた。俺は何か、自分でもよくわからないものを感じ、周囲に悟られないようあわてて頭を下げて席に着いた。俺も大人になったので、苦手なことも、苦手なままこなせるようになった。
 実家に案内状が来たときから、参加したところで誰と何を話すのかと思っていた。だが、誰かの近況を聞きながらあまり冷えていないビールを飲み、冷凍の枝豆を摘まんでいるだけで、勝手に時間が過ぎていく。
 関東の、田舎というほど田舎でもない地方の進学校。高校生の頃はみんな同じような大学に進学して、同じような職業に就くのかと思っていたが、案外そうでもない。まだ学生をしているやつもいれば、大学を中退して起業したやつもいる。
「薊って独身?」
 隣の男が気を遣ってか、ただの興味本意か話しかけてくる。名前を聞いたときはこんなやつもいたなと思ったけれど、高校時代のことはろくに思い出せない。
「独身。結婚の予定もない」
 事実ではあるけれど、心情的には噓(うそ)があった。前提条件の共有がなされていない。今さら噓をつくことに罪悪感があるわけではないけれど、噓をついたな、という意識が煩(わずら)わしかった。慣れない場所に出るとこういうことになる。
「へえ。俺も」
 男は安心したように笑った。噓のない笑いだ。羨(うらや)ましい。
「じゃあこのテーブルは全員独身か。予定あるやつ」
 誰かが聞くが、誰も手を挙げない。もともと女子が少ないクラスで女子は女子で偏(かたよ)って座っているので、この辺りは男ばかりだ。
 今日来てないうちの誰が独身で、誰には子供が生まれた、という話を聞く。今日の幹事の家庭ではもう二人目が生まれるらしい。
「二人目は早いけど、俺らももうそういう歳(とし)だよな」
「結局学生時代に相手見つけないと出会いなんかないんだよ。出遅れた」
 こういう話題のときは、ちゃんと聞いている姿勢を見せながら、会話には参加しない、という技術が必要だ。こういうことばかりうまくなる。
「学生時代にも出会いなんかなかったけどな」
「じゃあ今もっとないだろ」
「だから同窓会来たんだけど」
「え? 誰かいい感じの女子いる? 初恋の相手とか」
 その言葉に、枝豆の殻(から)を弄(いじ)る手が止まる。初恋の相手。
「いや女子見たら普通に誰とも仲良くなかったこと思い出した。別に付き合ってなくてももうちょっとぐらいなんか話しとけばよかった」
「だいたい女子は伊藤大志にしか興味ないだろ」
「あー」
 全員が伊藤大志のほうを向く。伊藤という生徒はクラスに一人なのに、なぜか最初からみんなあいつのことはフルネームで呼んでいた。芸能人やスポーツ選手のような感覚。
 酔っているのか興奮しているのか顔が赤い女子たちに囲まれて、伊藤大志は平静な顔で談笑している。離れた席からでもあいつの顔は輪(りん)郭(かく)がくっきりして見える。それは顔立ちのせいなのか、俺の欲目のせいなのかわからない。
「薊って伊藤大志と仲良かったよな」
 急に話の矛(ほこ)先(さき)がこちらを向く。
「え、うん。出席番号が並んでたから。でも今はよく知らない」
 自分がどんな表情をしているのかわからないが、俺の説明で周りは納得したようだった。俺が枝豆を口に運ぶ間に、話は進んでいく。
「伊藤大志も独身だろ?」
「独身のはず。お兄さんのほうが去年結婚してた。伊藤大志は今東京らしい」
 それほど田舎というわけでもないが、誰が何をしたというニュースはすぐに回ることにいまだに驚く。やっぱり出て行ってよかった。もっとも、俺には出回りそうなニュースもないのだが。
「伊藤大志のほうもそろそろ結婚って聞いたけど」
「あーすごい美人と付き合ってるらしい」
「すごい美人としか付き合わないだろあいつ」
「一年の四月で三年の先輩と付き合ってたもんな。俺らとは時間の流れ方が違い過ぎるだろ。一年のときに三年の女子となんて一回もしゃべったことねえよ」
「大学のときミスと付き合ってたんだっけ? 今アナウンサーの」
「え、その子とは付き合ってなかったんじゃなかった? 俺が知ってるのは……」
 俺と違って伊藤大志は地元の国立に進んだからか、みんな色んなことを知っている。みんなの注目の的の伊藤大志。すごい美人としか付き合わない伊藤大志。でも俺のようなつまらないやつとも仲がいい伊藤大志。
 なんだか聞いていられなくて席を立ってトイレに向かう。人にぶつからないように気を付けていると、ぽん、と腰のあたりを叩かれた。
「薊、久しぶり」
 振り向くと、伊藤大志その人だった。俺を見上げて、笑っている。左の二(ふた)重(え)幅だけ広くて、挑みかかるような笑い方。昔と同じだ。
 俺は軽く頭を下げると、トイレに駆け込んだ。

 俺と伊藤大志は付き合っていた、のだと思う。しかし物的な証拠もなければ誰かに話したこともないので、本当は違うのかもしれない。
 一時期仲がよかったことだけは、どうやら俺の妄想ではなかったらしい。どうして伊藤大志が俺と仲良くなったのかは俺にもわからない。二年の最初の席順が五十音順で、俺が前の席だった。
「薊って読み方あざみでいいの? 変わってるね」
 話しかけられて、俺はうまいことも言えずに頷(うなず)いて、
「伊藤大志」
 と相手の名前を呼んでみた。伊藤大志。いとうたいし。名前はよく知って耳にしていたけれど、口に出すのは初めてだった。ごく平凡な名前のはずなのに、うまく自分の声に馴(な)染(じ)まない。
「そう。伊藤大志」
 伊藤大志は照れくさそうに笑った。入学時から百八十センチ近くあって、顔がよくて、成績がよくて、美人の先輩と付き合っていて、そういう男なんだから嫌な感じがしそうなものなのに、友達ができて嬉(うれ)しい子供みたいな反応をするので、俺は面食らった。
 まずい。
 そう思った。見ているだけの時から伊藤大志の耳から顎(あご)にかけてのラインや夏の半(はん)袖(そで)の腕に引き付けられていたのに、話したらいいやつで、俺にも優しいなんて、そんなのは、困る。
 だから警戒していたのに、俺たちは仲良くなってしまった。日直がセットだったり、選択の授業が一緒だったり、共通点が多かった。当時俺は高校の購買でしか見かけない焼き芋(いも)ミルクという飲み物が気に入っていたのだが、伊藤大志もそれが好きだった。甘くて粉っぽいと不評であまり入荷しないので、俺以外に買っている人間なんか見たことがなかった。
「でもこれなんか買っちゃうんだよな」
 伊藤大志は首を捻(ひね)りながら紙パックの中身を吸い上げていた。
「わかる。ここでしか見ないし」
 俺が思わず小刻みに頷くと、伊藤大志は目を三日月みたいに細めて、本当に嬉しそうに笑った。俺はまずい、と思う。思うのに、伊藤大志に後ろから人差し指でとんとんと肩(けん)甲(こう)骨(こつ)の真ん中を叩かれたり、俺の机の前にしゃがんで上目遣いで話しかけられたりすると、嬉しくなって、嬉しそうにしてしまうのだった。距離を置くどころか、嬉しそうにしてしまう。
 連絡先は知っていても特に用事がなければメッセージを送りあうこともなく、休みの日に会うこともなかった。それでも教室ではいつも一緒にいて、下校するときは使う駅が違うのに遠回りして途中まで一緒に帰っていた。
「薊といるとなんか楽なんだよ。落ち着いてるし」
 俺と仲がいいことについて、伊藤大志は周りにそう話していた。
 昼休みにはちょうど人のいない校舎の隅(すみ)の階段の踊り場に伊藤大志は連れていってくれた。俺は読書をして、伊藤大志は予習をしていることが多かった。ここに人がいないのはたまたまなのか、伊藤大志のような特別な人間が占拠し、継承されている場所なのかは、俺には判断がつきかねた。聞くこともできない。
「薊ってガツガツしてなくていい。俺、誰か紹介してって言われるの嫌いなんだよな。どこまで本気かわからないけど」
 あるとき、伊藤大志は教えてくれた。俺はへえ、と言いながら、制服の中が汗でぐちゃぐちゃになるのを感じていた。俺は伊藤大志を騙(だま)していた。俺はガツガツしてないんじゃなくて、他の男子とは欲望の対象が違っていただけだ。俺の目当ては伊藤大志に惹(ひ)かれる女子じゃなく、伊藤大志自身だった。美人の女子なら誰でもいい、と漠(ばく)然(ぜん)と夢見ている男子よりよほど、俺のほうが欲深いのに。
 二学期が始まって少し経った頃だった。伊藤大志は兄にもらったという香水をいつもつけていて、階段に並んで座って肩を抱かれたりすると汗に混じってそれが香った。俺の雑な鼻では果物でも花でもないことしか判別できず、香水の匂い、としか言えない、深く重い匂い。良い匂いなのかもわからないが、伊藤大志にはよく似合っていた。他に表す言葉が見当たらなくて良い匂いだと言うと、ポケットから出した小さな容器で俺にもつけてくれた。首筋と手首。俺のほそっこい手首を無造作に拘束して、顔を近づけて目を閉じて、匂いを確認される。短い黒髪が俺の鼻をくすぐり、シャンプーの匂いがした。多分ミント。
「薊がつけると俺の匂いと全然違う」
「変な匂いしそう」
「いい匂いだよ。植物みたい。薊って汗の匂いがしないよな」
 伊藤大志はほとんど俺を抱き込むみたいにして、骨ばった高い鼻を俺の首筋にこすりつけるように匂いを確認する。俺は身を硬くして、ほとんど泣きそうになっていた。植物になれたらいいのに。汗もかかず、ただ良い匂いで、道端にいられればいいのに。
「薊は俺が好きなの?」
 突然聞かれた。欲望が匂いに表れてばれたのかと意味のわからないことを考えた。俺は否定することができなかった。だって、本当に好きだったから。どんな感情よりも大切なものだったから、否定したくなかった。
 頷いてしまうと、伊藤大志は俺を抱き込んだまま笑った。目尻に寄る皺(しわ)。日に灼(や)けた耳が赤い。
「俺も薊好き」
 とても本当のこととは思えなかった。
「俺、男だよ?」
 咄(とつ)嗟(さ)に出た言葉がそれだった。伊藤大志は優しく言った。
「関係ないよ」
 ないはずがなかった。だって俺は、伊藤大志が男じゃなかったら、好きにならなかった。でもそんなことを言えるはずもない。
 黙っている俺の頭を伊藤大志は撫(な)でた。
「内緒にしたほうがいい?」
 勘のいい男だ。俺の気持ちなんかわかるはずもないのに、してほしいことは当ててみせる。
 俺が頷くと、伊藤大志も笑って頷いた。寂しそうな笑みだった。ようやく、彼が俺を好きなんだという実感が湧いた。俺は伊藤大志が好きで、伊藤大志は俺が好きで、二人ともそれを知っていて、両思いなんだ。付き合っているんだ。なんだか鼻の奥がつんとした。動くことも話すこともできず、身を寄せ合っていた。埃(ほこり)っぽい踊り場で、同じ香水をつけて、二人の汗の匂いが混じっていた。予鈴が鳴って、慌(あわ)てて参考書と文庫本を手に取って教室に向かって階段を駆け下りた。重力に頭がついていかなくて、眩暈(めまい)がした。伊藤大志が俺の手首を握って、笑い声を上げた。
 付き合い始めたからといって、特に変わったことはなかった。下校のとき、公園に寄るようになったぐらい。近くに広い公園があってろくな遊具もないのでいつも人がいないのだと伊藤大志が教えてくれた。人がいない場所をよく知っているなと感心した。
 前の彼女とも来ていたのかな。
 あるとき、突然その可能性を思いつき、それまで考えたことがなかった自分の愚(ぐ)鈍(どん)さに驚いた。踊り場だってそうかもしれないし、たとえば焼き芋ミルクだって。
 遠目に見たことがある当時三年の先輩はモデルのようにすらりとした、髪の長い綺(き)麗(れい)な人だった。俺はそのときからすでにほとんど話したこともない伊藤大志が好きだったけれど、嫉(しつ)妬(と)心さえ湧かなかった。違う生き物。彼女と付き合ったあとに、どうして俺なんだろう。伊藤大志はこの二つの生物を、交際相手という同じ括(くく)りに入れることができるんだろうか。
 伊藤大志と俺は半分埋まったタイヤに腰かけて話をしていた。特に共通点もないはずなのに、話は尽きなかった。小学生の頃好きだったテレビとか、使っていた教科書の話とか。
「伊藤大志って、いつまで呼ぶの」
 突然そう聞かれた。
「……伊藤?」
「伊藤? まあ、そっちのがましか」
「……大志?」
「うん。文也」
 俺は胸がいっぱいになって膝(ひざ)の上の鞄(かばん)を抱きかかえて、俯(うつむ)いた。伊藤大志は俺の座っているタイヤの隣に無理に座って、俺の腰に手を回して支えた。香水の匂い。
「やっと名前呼べた。文也」
 はしゃいだ声で言う。俺はおそるおそる伊藤大志の顔を確認した。目尻が下がって、だらしのない顔をしている。
 普通の恋人同士みたい。
 違う。みたい、じゃなくて、普通の恋人同士なんだ。
「なんで俺なの?」
 聞いたってしょうがないのはわかっているのに、聞かずにいられなかった。
「なんでとかなくない? 好きなだけ」
 何もわからない、と思いながら身を硬くしていると、伊藤大志は付け加えた。
「俺、文也に会えると嬉しいんだよ。文也と話してると嬉しい」
「……なんか、普通だね」
「そう? つまらなくてごめん」
 俺は首を振った。嬉しくて、うまく反応ができなかった。普通の恋愛。普通の彼氏。俺がどんな気持ちでその言葉を抱き留めているのか、どんな言葉を使っても伊藤大志には伝わらないだろう、し、伝えたくもない気がした。俺だって、普通の恋愛、というものを、つまらない恋愛、と言い換えられる立場にいるふりをしたかった。
 夕暮れの公園で、砂でざらざらの座り心地の悪いタイヤに二人で無理に腰かけて、どうでもいい話をする。クラスメイトと、特別な理由もなく両思いになっている。
 男を好きだと気付いたときから、こんな恋愛ができるなんて思っていなかった。遠すぎて、夢見たことさえない。
 つまらないものみたいに俺にそれを差し出した本人は、嬉しそうに俺を見ていた。
 好きな人を見る目で。
 俺はその恋愛の全てを覚えておきたかった。一人になると授業の予習復習よりも必死に、伊藤大志にまつわることを思い出して、脳みそに定着させようとした。書き留めるわけでもないから、記憶が合っているのかどうかもわからない。ただ、俺の主観に満ちた、恋の記憶だけがある。普通の、つまらない、恋愛の記憶。それまでの、俺の恋とも呼べないような片想いは全部、芽生えた瞬間にはなくしてしまうことだけ考えていたから、覚えておいてもいいというのが、慣れなくて、でも嬉しかった。
 俺たちの交際はごく控えめなものだった。昼休みの踊り場と公園への寄り道。一度映画を観に行って、学校に申し込まされた模試の帰りにお好み焼きを食べた。文化祭で焼きそばを奢(おご)ってもらって半分こした。メッセージのやりとりはせず、夜中に布団の中で声を潜めて電話をした。
 二学期の期末テスト前、二人で踊り場にいた。並んで階段に座ってテスト範囲の話をしていると、俺の手の甲を伊藤大志の手が捕らえた。冷えた手の甲に伊藤大志の体温は痺(しび)れるぐらい熱かった。伊藤大志は俺のほうに顔を近づけた。つめたい空気の中に、伊藤大志の体温で熱された香水の匂いがした。
 キスしようとしている。
 ごく自然な流れだったのだと思う。ごく自然で、初心者の俺に合わせたゆっくりとした進行。それなのに、俺は咄(とつ)嗟(さ)に顔を背けた。しまった、と思ったけれど、思っただけで、何も言えなかった。予鈴が鳴り、伊藤大志が行こうと言い、二人で踊り場を離れた。どうしよう。焦るけれど、伊藤大志の背を見ているだけだった。
 キスについてお互い何も触れないまま期末テストが始まり、自然と二人で過ごす時間は減った。冬休みになり、伊藤大志は予備校に通いはじめた。クリスマスにも会わないままだった。会いたい、と、俺は言えなかった。
 三学期に入ると、一緒にいる時間がさらに減った。お互いあの瞬間の空気を引きずっていて、踊り場にも公園にも行かず、二人きりではほとんど話さなくなった。そのうちに、気まずささえも薄れ、伊藤大志が俺に関心を失ったのを、感じた。
 伊藤大志は別の学校に彼女ができたという噂(うわさ)が立った。クラスの誰かが直接尋(たず)ねたとき、伊藤大志は曖(あい)昧(まい)に笑って、だが否定しなかった。俺はそれを離れた場所から見ていた。やっぱり何も言えなかった。何も言えないまま三年になり、同じクラスのままだったけれどメンバーが変わったことでますます距離が離れ、何も言えないまま卒業した。どうして仲良くなったのかわからない関係を、どういうふうに繫(つな)ぎ止めたらいいのかわからなかった。そのまま何の連絡もなく、会うこともなかった。
 幸いにして、か、不幸なことに、と言えばいいのか、俺と伊藤大志の間には、何も残りはしなかった。何の証拠もなく、他の誰も知らない。ただ俺一人の中に、どう処理していいのかもわからない記憶だけがある。

「薊」
 トイレから戻ると、伊藤大志が隣の席に座っていた。半袖のポロシャツがよく似合っていて、腕が以前よりも太い。胸板や肩幅も十年前よりしっかりとしている。隣にいたやつは伊藤大志の席に移って、女子たちに緊張している。他にも席の移動がいくつか起こったようで、使っていなかったテーブルで話し込んでいる連中もいる。
「伊藤大志」
「久しぶり。元気そうだな」
 俺は頷いて席について言い添えた。
「そっちも」
「うん。薊は今東京?」
 頷くと、伊藤大志は名刺をくれた。俺も名刺を渡す。
「こんな近くで働いてるんだ」
 会社の最寄り駅が同じだった。同じ電車に乗っていたかもしれない、と思うと、少し苦しかった。
 昔のことについて釘を刺されるのかと身構えるが、そんな様子は感じられない。ただ、昔よく話していた相手だからちょっと話しておこう、という気軽さ。
「なんか飲む?」
「ビール」
「ビール飲むんだ。じゃあ俺も」
 伊藤大志は散らかったテーブルを整理して、他のやつの注文もまとめてから店員を呼んでビールを注文してくれた。
「伊藤大志ってまだ独身? 予定は?」
 店員が去ると、途端に聞いてくるやつがいる。俺はいつの間にか運ばれていた大きめの唐揚げを咀(そ)嚼(しやく)することで発言から逃げる。
「独身。予定ない。相手もいない」
 意外だった。同窓会の知らせをもらったとき、伊藤大志はもう結婚して子供もいるかもしれないと思った。確認するためにここに来たようなものだ。しかし確かめたところで何になるというのだろう。
「お前ならいくらでも相手いるだろ。結婚興味ないタイプ?」
「そんなことないよ」
 他人の踏み込みに、伊藤大志は全く抵抗感を見せずに笑いを返す。そう振る舞っているというより、本当に嫌ではないのだろう。そういう人間だっている。
「付き合ってもいつも長続きしないんだよな。いいと思って付き合ってもお互いちょっと違うかもってなって別れる」
 俺とのことは、そこに含まれるんだろうか、とつい考えてしまう。それとも、完全になかったことになっているのか。
「贅(ぜい)沢(たく)なんだろ」
 冷やかしにも嫌がることなく頷く。
「そうかもな。そろそろ結婚するのかなと思ってた相手にも振られたし」
「なんで振られた? 浮気でもした?」
 伊藤大志はビールを一口飲んでため息をつく。
「してないよ。なんかふわふわしてるんだって」
「ふわふわ?」
 首を捻る男どもの中で、おそらく俺だけは、わかる、と会ったこともない女性に共感していた。伊藤大志は真面目だが、真剣ではない。
「それで? しばらくふわふわしてるのか?」
「まさか。そろそろそういうことにならない相手見つけて落ち着きたい。二十八だぞ」
 いいな、と、素直に思った。当たり前に色んな恋愛を経験して、当たり前に失敗して、当たり前に結婚する未来がある。それが欲しいわけではないけれど、当たり前に未来の話をできることが、羨ましい。
 店員が飲み物を運んでくる。
「薊、乾杯」
「あ、うん、乾杯」
 二人で乾杯する。
「なんで薊とだけなんだよ」
 文句を言われると、軽くあしらう。
「薊は友達だから」
 友達。
 俺が笑うと、伊藤大志は嬉しそうに笑った。日焼けは薄くなっているが、目尻の皺は深くなっている。この十年、沢山笑っていたのだろう。幸せに過ごしていたのだ。俺とのことがどう処理されていたのかはわからないが、少なくとも忌(い)むべき過去ではなかったらしい。
「薊食べてる?」
「食べてるだろ」
 俺の取り皿には齧(かじ)りかけの二個目の唐揚げがある。サラダや枝豆には周りも手をつけていたが、唐揚げなんか俺しか食べてないと言ってもいい。大人は飲み会で飯を食わない。
「瘦(や)せた気がして」
「いや、太った。高校のときから五キロぐらいは増えた」
 高校のときは周りと比べて食べるほうではないが、それでも母親には呆(あき)れられるぐらいに食べていたのに五十キロを超えなかった。今は多く食べればそのぶん増える感覚がある。
「それでこれ? ガリガリだな」
 伊藤大志は俺の手首を無造作に握った。昔、親しくなり始めた頃にも、同じようなことをされた。友達の距離。空気が漏れるように笑っていると、伊藤大志も笑っている。少し、苦しい。
「乾杯しよう」
 俺が言うと、伊藤大志は一口だけ飲んだビールを持ち上げて、乾杯してくれた。泡の消えたビールの飛沫(しぶき)が金色に光る。
「なんで?」
 してから聞いてくる。
「友達って言ってくれて嬉しかったから」
 伊藤大志も笑った。伊藤大志は本当に嬉しそうに笑う。この顔が好きだった。俺の友達の顔。おそらく近い将来、誰かのものになる顔。

 二次会にはもともと行くつもりはなかった。まだ八時なので、今から電車に乗って東京に帰るつもりだった。カラオケに行くという集団に頭を下げて抜け出そうとすると、肩を叩かれた。
「薊」
 伊藤大志だった。二次会に行くのかと思ったが、帰るつもりだと言う。まだ話し込んでいる集団から二人で抜け出す。時々車が通るだけの暗く静かな道を二人で歩いている。
 一次会では伊藤大志と他愛ない話をできて、楽しかった。仕事の話とか、どこの駅で売ってるどら焼きをよく買うとか、本当にどうでもいい話だ。どうでもいい話でも、伊藤大志とだと他の誰より楽しくて嬉しい。酔いの中で余(よ)韻(いん)を味わっている。
 なんとなく伊藤大志について行くうちに、駅への道ではないと気付く。
 伊藤大志が立ち止まり、振り向いた。
「ここ、久しぶりだな」
 公園だった。下校のときに二人で立ち寄っていた小さな公園。タイヤは撤去されたらしく、ベンチと子供が乗って揺れる動物の遊具があった。変わらず人気はないのだろう。
 伊藤大志はベンチに座り、こっち、というように隣を軽く叩いた。俺はおそるおそるそこに座る。ポロシャツの首元を引っ張って風を入れている。喉(のど)仏(ぼとけ)まで赤い。
「飲み過ぎたな」
「強くないの、意外」
「薊は結構強いね」
「顔に出にくいだけ」
「酔ってんの?」
 首筋に伊藤大志の手が触れた。その手が熱いのか、俺が熱いのかもよくわからない。居酒屋では気づかなかった、香水の匂いがする。高校時代と同じ匂いだ。スパイシーでウッディーな香り、らしい。その香水の名前も覚えているけれど、以前デパートで嗅(か)いでみたとき、全然違う匂いがした。俺の記憶の中の香りは、香水ではなく、香水をつけた伊藤大志の匂いだった。もう嗅ぐことはないはずだったのに。
 これは友達の距離だろうか? そうなのかもしれない。欲望が存在しないはずの相手なら、馴(な)れ馴れしく触ったところで問題にはならない。俺はそんな友達ができたことないからわからない。
 苦しい。
 酔っているからか、涙が零(こぼ)れた。伊藤大志がはっとしたように手を引いた。
「ごめん」
「ううん」
 俺は首を振った。指先で拭(ぬぐ)うと、涙はすぐに止まった。ぼやけた視界に、大人になった伊藤大志がいる。俺の初恋の人、と、言ってもいいだろう。同窓会でまた会うことができて、また昔みたいに話すことができた。
 そしてきっともう、二度と会わない。
「俺たちって、付き合ってたよな」
 突然の俺の言葉に、伊藤大志は戸惑っている。
「うん」
「よかった。俺の妄想じゃなくて」
「なんだよそれ」
 伊藤大志は冗談を言われたつもりで笑っているが、俺は本気で疑っていたし、本気でほっとしていた。
「感謝してるんだ」
 あのときは言いたいことを何も言えなかった。でももう大人で、酔っているので、もう会わない相手になら言える。
 伊藤大志は俺が何を話そうとしているのかまるでわからない様子で、ただこちらを見ている。その顔を見るのは、苦しかった。でも俺も見つめ返す。その顔をちゃんと覚えておきたかった。苦しくて、苦しいのが、嫌じゃない。
「お前と付き合って、気まずくなって、心変わりされて、別れて、こうやってまた会って、普通に話せて、そういうの全部、感謝してる」
 話したところで、伊藤大志はわかっていないようだった。この男は俺のことなんて何もわからない。でも、だから、そういうところが、好きだった。普通の男。
 だって、そんな男と恋ができるなんて、思っていなかった。伊藤大志に会うまで、俺は恋をしそうになったら、すぐに目を逸(そ)らして、その恋を殺すことに必死だった。普通の恋なんて、できるはずがないと思っていた。憧れたことさえない。自分には関係がない話。伊藤大志を好きになったとき、どうやったらこの男から離れて、忘れられるのかだけ考えていた。付き合っているときでさえ、きっとそうだった。離れられなくなることを怖がって、だからキスもできなかった。キスなんてして、もっと好きになって、自分でもどうしようもなくなって、伊藤大志に嫌われるのが怖かった。関係が途切れたとき、苦しかったけれど、安心してもいた。もう先のことを怖がらなくていいから。そして、伊藤大志にとって、この恋自体が間違いだったんじゃないかと疑っていた。俺がこの男を、間違いに巻き込んだ。
 でも、そうじゃないんだ。あれは普通の、つまらない恋だった。それだけ。
 俺はこの恋を、忘れなくてもいいんだ。覚えていることを申し訳なく思わなくていい。十年経って、色んなことが遠くなって、ようやくそう思うことができた。普通に恋をして、普通に失恋をして。その思い出を一人で大事にしておくことができる。思い出すときっと苦しくて、伊藤大志が結婚したと聞いたらきっとまた苦しくて、でもそれが、嬉しい。普通の失恋の思い出を、この先も持っておくことができる。一人で生きていくにしても、思い出すたびきっと苦しくて嬉しい。
 俺はこの恋で、苦しむ資格があるんだ。
 伊藤大志は、困ったように笑った。左目だけ広い二重の幅。
「いや、なんで、もう会わないみたいな感じになってるの? 俺、また文也と会いたいのに」
「え?」
「文也に会いたいから同窓会に来て、久しぶりに話したらやっぱり文也が一番話しやすくて、一番一緒にいて楽しいって思ったけど、文也はそうでもない?」
 なんだよこいつ。
 笑ってしまう。伊藤大志って、俺が思っていた以上に、もっと遠い男だった。
 なんでそんなことを軽く言えるんだろう。俺はお前が付き合ってきた相手とは、違うのに。どう見たって違うだろう。また会って、どんな将来があるんだよ。
 俺が笑ったことで、伊藤大志は嬉しそうにする。
 こいつにとっては同じなのかもしれない。二年先輩の美人や他の高校の美人と、俺との差は、一緒にいて楽しいかどうかだけなのかもしれない。高校のとき付き合った相手と、同窓会で再会して、それでまた何かを始めるつもりでいる。この男には、俺相手の将来が見えている。
 ついていけない。
 でも伊藤大志の腕が俺の肩に回って、顔が近づいてきても、今の俺は避けることができない。苦しくて、でも、その苦しさがまだ、ほしかった。

【おわり】