エルズミア家の兄弟


 私は、あの子が怖い。
 初めて会った時から、ずっとそう。
 年齢よりも大人びた表情で、にこやかに笑っているあの美しい顔が、私には恐ろしく思えてならなかった。
 ヘンリーはそのことに気づいていない。とてもいい子なんだ、と屈託のない笑顔で語る彼に、私はそうねと微笑(ほほえ)んで(うなず)くしかない。
 ヘンリーとの結婚は、親同士が決めたものだった。けれど、そんなことは関係ない。
 私は彼と出会い、一目で恋に落ちた。
 あの夜、私は社交界デビューして初めての舞踏会に、ひどく緊張していた。きつすぎるコルセットに息が詰まり、表情は(こわ)()り、足下も(おぼ)(つか)なかったのを覚えている。
 デビュタントとして偉大なるヴィクトリア女王陛下に(えつ)(けん)した時も、(あし)ががくがく震えて大変だったのを思い出しながら、あの日を乗り越えたのだから大丈夫だと自分に言い聞かせていた。とはいえ、夫探しの場となる実際の舞踏会やパーティーに参加するのは、それとはまた違った緊張と興奮がつきまとう。
 歴史ある名家とはいえ、我が子爵家が深刻な財政難に(おちい)っていることは理解していた。父も母も、私ができるだけ裕福な男性と結婚することを望んでいたし、私自身も家の役に立ちたいと心から思っていた。けれど、愛する人と結ばれたいという幼い頃からの願いもまた、捨て去ることができなかった。
 そんな私の前に現れたのが、ヘンリー・エルズミアだったのだ。
「エルズミアさん、娘のダフネです」
 母に紹介されたヘンリーは、誠実そうな青い瞳にとても優しい笑みを浮かべていた。すらりと背が高く、()(れい)に整えられた明るい金の髪が絹糸のように上品で、どこからどう見ても立派な紳士だった。オックスフォードを卒業後、今は家業を手伝っているという。
 彼の家は爵位こそ持たないが、祖父の代に(ぼう)(せき)業で富を築き、現在では金融や鉄道事業も手掛ける大富豪だ。成り上がり者だと見下す人たちもいたけれど、そう(ささや)く人々ですら、彼の前では愛想よく微笑んで機嫌を取っていた。エルズミア家の莫大な財産と人脈、それになによりヘンリーの人好きのする魅力の前には、誰も(あらが)えないようだった。
 そんな彼から「一曲踊っていただけますか」と誘われた時、私は天にも昇る心地がした。
 ダンスの合間、ヘンリーは気さくに話しかけてくれたし、二人で窓際に退(しりぞ)いて息を整えながら談笑する頃には、さっきまでの緊張もすっかり忘れて楽しい時間を過ごしていた。
 あの夜、私の心は完全に彼に(ささ)げられたのだ。
 翌日、ヘンリーの誘いを受けてハイドパークを散歩した。段差を越える時、白い手袋をした手をさりげなく差し出してくれたヘンリーに、私の心はひどく跳ねた。同時に、すれ違う女性たちの(せん)(ぼう)(まな)()しをひしひしと感じながら、私は密やかな優越感に浸った。またある夜はコヴェントガーデンにオペラを聴きに出かけ、ヘンリーは私の隣で舞台の演目について機知に富んだ批評を囁いた。けれど、薄暗い空間の中で触れそうで触れないその距離と、彼の甘やかで低い声にばかり気がいって、私はほとんど内容を聞いていなかったと思う。両親の薦めで、彼を我が家に招待したこともある。母が指示したであろう薔薇(ばら)(いろど)られた応接間で私がピアノを弾くと、彼は心から感嘆したように「素晴らしい」と微笑んだ。その言葉は、どんな社交辞令とも違って聞こえた。
 私はヘンリーに夢中だった。
 家同士の話し合いは裏で進んでいるようで、あとは彼の求婚を待つばかり。
 あの子が現れたのは、そんな時だった。
 その日私と母は、ヘンリーの家に(ばん)(さん)に招かれていた。もしかしたらその場で求婚されるかもしれないと、私はひどくそわそわとして、何を着ていくか、髪型はどうするかで散々悩み、メイドたちを大層困らせた。
 あれでもないこれでもないと大騒ぎしてようやく身支度を整え、母とともにメイフェアのエルズミア家へと向かうと、ヘンリーが笑顔で出迎えてくれた。
「ようこそ、レディ・ラヴェンハート。ミス・ラヴェンハート」
「お招きありがとう、エルズミアさん」
 母がそう言って微笑みながら、屋敷の中を値踏みするように観察する。調度品や使用人の数をチェックして、改めてこの家の財力を確かめているのだ。
 私は恥ずかしくて、やめてほしいと思いながら(うつむ)いた。私は決して、お金目当てでヘンリーと結婚したいわけではない。心から、彼を愛しているのだ。
 応接間に通されると、(ぜい)を尽くした(きら)びやかな空間に、母はすっかり満足したようだった。そんな部屋の奥、金細工の(ほどこ)された(ごう)(しや)なマントルピースにもたれるようにして、一人の少年が立っていた。
 その姿を目にした瞬間、私は息が止まる思いがした。
 まるで人ではないかのような、ぞっとする美しさだった。
 磁器を思わせる白い肌に、(つや)を帯びた黒髪。陰影を落とす長い(まつ)()(ふち)どられた切れ長の瞳は大人びていて、形の良い唇は妙に(いん)()な色を(たた)え、正視するのが躊躇(ためら)われる気さえする。室内を彩る美術品のひとつだと言われても、疑わずに信じてしまいそうだった。
 ヘンリーが少年の隣に立って、にこやかに紹介した。
「彼は僕の遠縁で、アラン・グレイ。今は寄宿学校に入っていますが、幼い頃から我が家で一緒に暮らしていたので、僕にとっては大事な家族なんです。今日は休暇でロンドンに来ていまして」
 アランはすっと前に進み出ると、優雅に(あい)(さつ)した。
「初めまして。お会いできて光栄です」
「まぁなんて美しい男の子かしら。神話を描いた絵画から抜け出てきたようだこと」
 母も感嘆し、()()れと見入っている。(おお)()()に言っているようで、それはまったく言い過ぎということはなかった。完璧な彫像のような彼が動いて(しゃべ)ると、神々しさすら感じてしまう。
「ミス・ラヴェンハートの美しさには(かな)いません」
 アランはそう言って、私に微笑みかけた。素晴らしく優美な笑顔だった。
 それなのになぜか、胸の奥がひやりと冷えた。薄暗い森の中で、毒を含んだ花に絡めとられたような、そんな感覚だった。
 アランの瞳は氷のように冷たく、目の前にいるにもかかわらず、どうしてか私の姿を一切映していないように思えた。
「ヘンリーから散々聞かされていたんです。とても美しく、愛らしい女性だと。お会いするのを楽しみにしていました」
「おい、アラン」
 照れて居心地悪そうにするヘンリーに、アランが悪戯(いたずら)っぽく笑って肩を揺らす。
 恥ずかしそうに私に目くばせするヘンリーの笑顔に、ようやく(あん)()した。先ほどの説明のつかない恐怖も、彼のお(かげ)で吹き飛んでしまう。私のことをそんなふうに誰かに話していたのだと思うと、(うれ)しくて仕方がない。
 ヘンリーのお父様も交えたささやかな晩餐は、(なご)やかにつつがなく進んだ。エルズミア氏は私のことをとても気に入ってくれたようで、素晴らしいお嬢さんだ、と褒めちぎられた母は上機嫌だった。
 アランは十四歳だという。行儀良く座り、時折話を振られればそつなく答える姿は大人の中にまざることにも慣れた様子で、エルズミア家でしっかりとした教育が施されていることが(うかが)えた。
「なんだアラン、マッシュルームが食べられるようになったのか?」
「いつの話さ。ずっと前から食べてる」
 つんとして、アランが言った。ヘンリーに対しては、口調もひどく砕けている。
「小さい頃は苦手で、いつも横によけていたのに。それで僕が、その度に代わりにこっそり食べてあげていたんですよ」
 おどけたように語るヘンリーに、私も母もくすくすと笑った。
 この場に、彼のお母様はいない。(ずい)(ぶん)昔に亡くなったと聞いていた。
 ヘンリーには兄弟もいない。だからきっとアランは彼にとって、実の弟のような存在なのだろう。
 年下の少年を気にかける優しい姿に、子どもが生まれたらきっと大層喜んでかわいがるだろう、と想像を膨らませた。好き嫌いはいけないと(さと)しながら、泣いて嫌がる子の代わりにこっそり食べてあげるような、優しい父親。
 そんな夢想をしながらも、私はいくらか居心地の悪さを覚えた。
 時折、刺すような視線を感じるのだ。
 それはアランのほうから注がれている気がするのだけれど、彼に目を向けると、静かで完璧な笑みを湛えながら、上品にナイフとフォークを動かしているだけなのだった。気のせいだろうかと思いつつ、私は努めてにこやかに彼に声をかけてみた。
「アランは、ロンドンにはよく来るのかしら?」
 アランは私に視線を向けることなく、「ヘンリーがいる時は」とだけ言った。
「ずっと地方で暮らしていたので、ロンドンに来ると街が大きすぎて、(ひる)んでしまうようなんですよ。だからこちらへ来ると、どこに行くにも僕をお伴に連れ回そうとするので大変です」
 ヘンリーの明るい口調から、本気で迷惑だとは思っていないことがわかる。
「実は明日も、一日中アランに付き合うことになっているんですよ」
 では、明日はヘンリーに会えないのだ。私は内心がっかりしながらも、それを悟られないように笑みを作った。
「まぁ、そうなのね。どちらへ行かれるご予定ですの?」
「水晶宮と、大英博物館を回るつもりです」
「水晶宮は私も大好きですわ。硝子(ガラス)を通して入る光がとっても()(れい)ですし、南国の植物や異国の工芸品を見ていると、まるで世界が詰まった小さなお庭にいる気分になって」
ヘンリー。水晶宮は遠いから、明日は博物館へ行って、近くの書店を巡りたいな」
 アランがそう言うと、ヘンリーは首を(かし)げた。
「鉄道を使えば、そう遠くないぞ」
「探している本があるんだよ。ロンドンでなら見つかるかも」
「そうか。じゃあ、そうしよう」
「お探しの本が見つかるといいわね」
 アランはやはり私を見ることもなく、「ええ」とだけ言った。
 食事を終え、デザートがサーブされた。(いちご)がたっぷり入ったトライフルだ。
「まぁ、嬉しいこと。娘は苺が大好きで。ねぇ、ダフネ」
「ええ」
 私が頷くと、ヘンリーが嬉しそうに微笑んだ。
「喜んでいただけてよかった。以前、ミス・ラヴェンハートが苺がお好きと(おつしや)っていたので
 覚えていてくれたのだ、と胸が熱くなる。私のために、わざわざ料理人に指示したに違いない。(あま)()っぱい苺を口に運びながら、私は幸せに満たされた。
 楽しい時間はあっという間に過ぎた。
 ヘンリーは()(ごり)惜しそうに、玄関ホールで私たちを見送ってくれた。
「来月、私の誕生日パーティーを開くんです。ヘンリー様、いらしていただけますか?」
「ええ、もちろん喜んで」
 彼は(うやうや)しく私の手を取ると、そっと手袋越しのキスを落とした。私は(ほお)が熱くなるのを感じながら、けれど今夜は求婚されずに終わったことに、少しだけ(らく)(たん)もしていた。
 外に出ると、霧の中にガス灯の明かりがぽつぽつと、幻想のように浮かび上がっていた。私は馬車の座席に身を沈め、窓越しに(いと)しいヘンリーがいるその家を後ろ髪を引かれる思いで見上げた。今別れたばかりなのに、次にまた彼に会えるのがもう待ち遠しい。
 ふと、二階の窓辺に人影があることに気がついた。
 アランだ。
 彼はじっとこちらを見下ろしている。
 美しい(そう)(ぼう)が、確かに私を(とら)えた。冴え冴えとしたその視線に()()かれた瞬間、私はぞっと肌を(あわ)()てた。
 馬車が走り出す。
 私は、デザートを食べ終えて別室に移る際、目に入った光景を思い出した。
 アランの皿に、苺だけが残っていた。苺が苦手なのだろうか。もしそうなら、私のために用意されたメニューで申し訳ないことをしてしまったかしら、と考えた。
 けれどよく見れば、苺はただ残されていたのではなく、フォークでぐちゃりと(つぶ)されていたのだった。


 七月に開いた誕生日パーティーで、私はついにヘンリーから求婚された。
 天にも昇る気持ちで、私はイエスと答えた。結婚は来年の春と決まり、私の周辺は何かと(あわ)ただしくなった。結婚に向けて、準備しなくてはならないことは山ほどある。
 新聞に婚約記事が掲載されると、あちこちから招待状が舞い込んだ。シーズンも終盤だ。人々が地方の領地へと向かい始めるその前の、最後の打ち上げ花火のようなあらゆるパーティーに出席し、ヘンリーの婚約者として紹介される目まぐるしい日々が続いた。(せわ)しない毎日だったが、私は浮き立つような幸福の中にいた。
 八月も半ばを過ぎた頃、私と両親はヘンリーの招きで、湖水地方にあるエルズミア(やかた)を訪れた。
 いずれ己が女主人となる屋敷である。私は意気(よう)(よう)と、その美しい館に足を踏み入れた。
 そこで私は、大いに浮かれていた自分が、あのアランという少年の存在をすっかり忘れていたことにようやく気がついたのだった。
 寄宿学校も夏休みに入り、アランもまた夏の間をこの屋敷で過ごすことになっていた。私の顔を見たアランは、前回同様美しい微笑みを浮かべながら、「またお会いできて光栄です」とそつのない挨拶をした。
 けれど、その目が決して笑っていないことは、すぐにわかった。
 最初の夜、エルズミア氏は私たちを歓迎するために、周辺の友人知人を招いての気軽なパーティーを(もよお)してくれた。結婚すれば、いずれ私も親しく付き合うことになるであろう人々だ。紹介される度、必死に顔と名前を覚えた。
 私が社交の波に()まれている間に、アランはまるで当然のようにヘンリーの(かたわ)らに収まっていた。彼の腕に手を絡めてべったりと寄り添い、大人たちに囲まれながらも子どもらしい無邪気さを見せつつ、うまくその場に溶け込んでいる。けれどヘンリーが私と話していると、すうっと無言で離れていくのだった。
 私はヘンリーに(うなが)されて、皆の前でピアノを披露した。すぐ近くに陣取ったヘンリーが、うっとりしたように耳を傾けてくれる。演奏の最中、アランが部屋を出ていくのが視界の(すみ)に映り込んだ。そしてそれきり、アランは戻ってこなかった。
 その晩、我が家から連れてきた私専属のメイドが、早速内部情報を仕入れてきた。
「あのアラン様という坊ちゃん、表向きは遠縁の子ということになっていますが、実際はミスター・エルズミアが昔ここで働いていたメイドに産ませた子だそうですよ!」
 鏡台の前で髪を()いてもらいながら、私は目を(またた)かせた。
つまり、彼はヘンリーの腹違いの弟だということ?」
「ええ、ここでは公然の秘密らしいですわ! こちらの奥様がお亡くなりになってからお屋敷に引き取られたそうですけれど、あまりにそのメイドに顔がそっくりなもので、使用人たちも一目でわかったと言っていました」
「そのメイドはどうしているの? まさか、この近くに住んでいるとか?」
「いいえ、(ずい)(ぶん)前に病気で亡くなったそうです。こんな(しゆう)(ぶん)を抱えてお嬢様と結婚するつもりだったなんて、ヘンリー様はあんまりですわ!」
 私は驚いたけれど、同時に()に落ちたことがあった。
 この屋敷の使用人たちの、アランに対する態度だ。今夜のパーティーで、彼にだけ飲み物を回そうとしない給仕がいた。あるいはアランが何か頼んでも、返事もせずくすくすと笑うメイドもあった。いずれも、エルズミア氏やヘンリーが見ていないところで。
 彼らは(しよ)()であるアランを、内心で(さげす)んでいるのだろう。
 私はアランの出自について、ヘンリーに問いただすようなことはしないつもりだった。上流階級では、こうしたことは時折聞く話だからだ。誰もが薄っすらと真実に気づいていながら、それでも口にはしないのが、私たちの世界の暗黙のルールなのだ。
 ただ、急に不安になった。ヘンリーも、アランが何者であるか知っているに違いない。父親の不貞を、彼はどう考えているのだろう。よくあることだと気にしていないのだろうか。もしそうならば、彼も将来私を裏切ることがあるのではないだろうか。
 けれど私はすぐに、そんな己の考えを恥じることになった。
 その翌日、ヘンリーは(みずか)ら、私に身内の恥を告白してくれたのだ。
「実は、君に話しておきたいことがあるんだ。もう、耳に入っているかもしれないけれどアランのことで」
 アランが、己の父親がメイドに手を出してできた庶子であること。血の(つな)がったたった一人の弟を、大切に思っていること。これからも事実は公表することなく、遠縁の子として面倒をみていくつもりであること。彼は私の目を、真っ直ぐに見つめながら語った。
「結婚すれば、アランは君にとっては義理の弟だ。もちろん表向きはただの親族だけれど。でもダフネ、どうかあの子の、本当の意味での家族になってはくれないだろうか。僕はこの家に、アランの居場所を作ってあげたいんだ。あの子の母親のことは、よく覚えているよ。とても優しい人でね。使用人ではあったけれど、幼い僕にとってはまるで姉のような存在だった。まさか父とそんな関係だったなんて、思いもしなかったけれど。でも、屋敷を出てからはアランと二人で、貧しく苦しい生活を送っていたらしい。その母親も死んでうちに引き取られた時には、寂しさからよく一人で泣いていた。突然環境が変わって、戸惑ってもいただろう。父も、引き取ったとはいえあの子にはほとんど無関心で、アランはずっと疎外感を抱いていたと思う。今でもまだ、身の置き所のなさを感じているはずだ。僕は、ここを彼にとっての本当の家にしてあげたい」
 ヘンリーは私の手を取った。
「だけど、どうか誤解しないでほしい。父のような行いを、僕は恥ずべきものだと思っている。世の中にはこうしたことを黙認する風潮があるけれど、僕は妻を裏切るようなことは絶対にしないと誓うよ」
 実直で、思いやりに(あふ)れた言葉だった。こんなに優しく誠実な人をどうして疑ったりしたのかしら、と自分を情けなくすら思った。
 アランのことを、私はまだ何も知らない。
 互いをよく知れば、彼のことも好きになれるかもしれなかった。その努力はしなくてはならない。
 相手はまだ十四歳の男の子だ。きっと今は、唯一の味方である兄を私に取られたように感じて、()ねているのだろう。私と結婚すれば、この家を追い出されると思っているのかもしれない。
 その日から私は、積極的にアランに関わろうとした。遠乗りやピクニックに出かけるとなれば彼のことも必ず誘い、ヘンリーと三人で行動する機会を増やした。疎外感を与えないよう気を配り、いろいろな話題を持ちかけた。学校は楽しいかとか、よく本を読んでいるけれどお薦めの本は何かとか。
 けれどアランは、いつも私に向かって、ただ静かに微笑むだけだった。
 まるでこちらの心を見透かすような、美しい瞳で。
 結婚にあたって、私とヘンリーは屋敷の大規模な改修を考えていた。アランの好みも取り入れようと、私はあれこれとデザインについて相談も持ちかけた。
「アラン、あなたも一緒にここで暮らすんですもの。あなたにとっても居心地のよい場所にしたいと思っているの。だから()()、考えを聞かせてちょうだい」
 決して追い出したりするつもりはないという意味を込めて、私は言った。
「ありがとうございます、ミス・ラヴェンハート」
「ダフネと呼んで。私たち、家族になるんですもの。私のことは本当のお姉さんだと思って、遠慮せずになんでも話してちょうだいね」
 しかしアランは答えず、いつもの貼り付けたような微笑を浮かべるばかりだった。
 努力の甲斐(かい)なく、私のアランへの苦手意識は募っていった。
 ヘンリーが()ぐボートに乗っている時、ヘンリーと温室で過ごしている時、書斎でヘンリーとくつろぎながら語らっている時。
 気がつくと、ひりつくような視線を感じる。
 そんな時は岸辺の()(だち)の陰に、(かす)んだ硝子越しに、あるいは半ば閉じた扉の向こうに、アランの(りん)(かく)を見つけた。私が気づくと、すうっと消えるように去っていく。その美しさからまるで(ゆめ)(まぼろし)のようにも思えて、果たして現実だったのか、あるいは私が生み出した想像の産物なのかと困惑した。揺れる(ろう)(そく)の光を(にじ)ませる壁や、木漏れ日の(はざ)()にまで、アランの影が潜んでいるような気がしてくる。
 そんな中、私は初めてヘンリーと口づけを交わした。
 晴れやかな午後のことだった。二人で()(はん)を散歩している最中、そっと落とされたキスは、とろけそうなほど甘美だった。重なり合う私とヘンリーの姿が青い湖面に映し出され、風景のひとつになって溶けていく。
 優しく(たくま)しい腕に抱かれながら、私は思い悩んでいたアランのことなど忘れて、ただ幸せに浸った。その瞬間、私は間違いなく世界で最も幸福な娘だった。
 その夜、私はベッドに入っても胸の高まりを抑えきれず、一向に寝つくことができなかった。思い出されるのはヘンリーの微笑み、唇を通して感じた彼の熱、そして力強い腕のぬくもり
 私は意を決してベッドから抜け出すと、息をひそめるようにして廊下へと踏み出した。淑女として褒められた行いではないし、()(きん)(しん)なことだとわかっている。けれど、彼に会いたくてたまらなかった。婚約しているといってもまだ正式な夫婦ではないのだから、もちろん一線を越えるつもりはない。ただ彼の顔を見て、その声を聞きたかった。
 長く暗い廊下には、夜の静けさが満ちていた。私はガウンの前をかき合わせながら、使用人と行き会わないかと警戒しつつ、(じゆう)(たん)の上を一歩一歩足音を殺して歩いた。自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。本当に大胆なことをしている、と改めて思う。
 彼の部屋が見えてきた時、廊下の奥に細い人影が立っていることに気づいた。私は心臓を跳ね上がらせながら、慌てて物陰へ身を潜めた。
 小さく密やかに、ドアをノックする音がする。
アラン? こんな夜中にどうしたんだ」
 ヘンリーの声だった。
 そっと様子を(のぞ)き込むと、細く開かれたドアから淡い(あか)りが漏れている。中から顔を出したヘンリーは、部屋の前に立つ弟の姿に困惑しているようだった。
泣いているのか?」
 小さな()(えつ)を漏らしながら、アランがヘンリーに(すが)りつく。
「夢を見たんだ母さんが死んでしまった日の
 肩を震わせている弟をそっと抱きしめながら、ヘンリーは優しく頭を()でた。
「ほら、中に入れ。何か飲み物を持ってこさせるか?」
 アランはヘンリーの胸に顔を(うず)めたまま、首を横に振る。そして、目線だけちらりと、私へと向けた。
 彼の口元に、一瞬笑みが浮かぶ。
 そして、二人を()み込んだドアが、静かに閉じられた。
 私は暗い廊下に立ち尽くしたまま、(かす)かに足が震えるのを感じていた。
 私は直感した。
 アランは、私とヘンリーがキスするのを見ていたに違いない。そして今夜、わざと彼の部屋に押しかけたのだ。兄の意識を、今日という一日の最後の記憶を私ではなく、無理やり自分に向けるために。
 もちろん、ただの偶然であるかもしれないし、本当に怖い夢を見た可能性だってある。
 けれど、確信を深めたのは翌朝のことだった。
 朝食の席で、向かいに座るアランと目が合った。彼は、いつもの微笑を浮かべていた。その瞳に、勝ち誇ったような輝きを宿しながら。
 私はなんとか平静を装った。手にしたティーカップの中で、紅茶がわずかに揺れている。
 これから先もあの子がまるで影のように私たちに付きまとう未来が、脳裏をよぎった。
 思い描いていた幸せで穏やかな日々がすべて、薄暗い影に侵食されていく。
 その日は、昼過ぎから雨が降り出した。
 窓の外は薄暗くくすんでいる。風が古びた窓枠をカタカタと揺らし、降り出した雨が激しく打ちつける音が響いていた。夏の嵐がやってきたらしい。
 私は(あん)(たん)たる気分のまま、雨粒が硝子の上を流れる様子をぼんやり目で追っていた。その横では、今夜着る服をメイドがせっせと選んでいる。
「こちらに、先日届いたガーネットのペンダントを合わせてはいかがでしょう? お顔映りもよろしいかと存じますが」
 華やかなものを身に着ける気にならず、私は小さく息を吐いて、首を横に振った。
いいえ、カメオのブローチがいいわ。ほら、おばあ様にいただいた」
「かしこまりました」
 メイドが宝飾品の入った箱を開く。
 しかし彼女は、困惑した様子で沈黙し、顔を上げた。
あの、お嬢様」
「どうしたの?」
「ございません」
「え?」
「カメオのブローチです。確かに、ここに入れておいたのですが
 別の場所にしまったのでは、と一緒になって散々探したが、どこにも見当たらない。部屋の掃除をしたこの屋敷のメイドを呼び出し(たず)ねてみたが、心当たりはないという。
「お嬢様、あの私が盗んだとお疑いなのでしょうか」
 若いメイドは、疑われたショックに青ざめていた。私は努めて優しく声をかけた。
「そうではないのよ。ただ、どこか別の場所に置いたりしていないかと思って
 そこへ年長のメイドが、失礼しますと姿を見せた。この屋敷のメイド(がしら)だ。
「お嬢様、ブローチをお探しとお(うかが)いしました」
「ええ、そうなの。今夜つけようと思っていたのだけれど」
もしや、こちらでございますか」
 彼女が(てのひら)にのせて差し出したのは、まさしく探していた祖母の形見のブローチだった。
「これよ! どこにあったの?」
 メイド頭は少し言い(よど)んだ。
「それがアラン様の、お部屋です」
 私はひゅっと息を呑んだ。
「実はアラン様が、お嬢様のお部屋から出てくるところを見た者がおりましてもしやと思い、先ほどお部屋を確認してきたのです」
「アランが?」
「何の騒ぎだ」
 異変に気づいたヘンリーが、不思議そうに私の部屋を覗き込んだ。その背後には、アランの姿もある。
 メイド頭がアランをねめつけながら、「アラン様が、ダフネ様のブローチを盗んだのです!」と事の詳細を報告し始めた。
 しかし話を聞いたヘンリーは、到底信じられないというように「まさか」と声を上げる。一方、アランは自分に疑いの目を向けるメイドたちに気づくと、(てい)(かん)の色を浮かべながらすうっと表情を消したように見えた。
「アラン、どういうことなんだ?」
 ヘンリーが問いただす。

 何の釈明もしようとしないアランに、ヘンリーは困った様子で眉を下げた。
「何とか言え。どうしてダフネのブローチが、お前の部屋にあったんだ」
さぁ?」
 そう言って、凍り付くような美しい目でメイドたちをちらりと見た。
 その表情に、メイドたちがぎくりとしたように顔を背ける。
「きちんと説明しなければ、お前が盗ったと思われるんだぞ。心当たりはないのか? 荷物に(まぎ)れ込んでしまったとか
 口を閉ざしたアランに、ヘンリーはあくまで優しく問いかけている。
 アランが盗ったのだろうか。私に(しつ)()して? ありそうな話ではあった。けれど、なんだか違和感が募った。
 アランが私を嫌っているのはわかっている。けれど、こんなやり方はなんだか彼らしくない気がした。それにもし本当にブローチを盗んだとして、自室のすぐに見つかるようなところに置いておくなんて、あまりに()(かつ)すぎるのではないか。
 私は「ああ!」と声を上げた。
「そうだったわ、ごめんなさい。私がアランに預けていたの。忘れていたわ」
え?」
 メイド頭がぽかんとした顔で、驚きの声を上げた。
「ブローチの金具が壊れかけていたの。昨日そのことにアランが気づいて、直すと言ってくれたのよ。ああ、ほら、もう直っているわ。ありがとう、アラン」
 そう言って私は、ブローチを掲げて微笑んだ。
 メイドたちは、ひどく困惑した様子で、ちらちらと互いに視線を交わしている。
 しかし、中でも一番奇妙な顔になっていたのは、アランだった。
 私のことを、信じられないものを見るような目で見つめていた。
「随分心配をかけてしまったわね、ごめんなさい。さぁ皆、仕事に戻ってちょうだい」
 その夜、アランは体調が悪いと言って、夕食の席に現れなかった。
 私は胸に留めたカメオのブローチにそっと手で触れながら、給仕をする下僕や、ワインを注ぐ執事の様子をさりげなく観察した。先ほどの一件は、きっと使用人たちの間ですでに話題になっているだろう。何があったか、私が何を言ったかも彼らは知っているはずだ。彼らは何食わぬ顔でそつなく働いているが、時折ちらちらと私の様子を窺っているのを感じた。
 夕食を終えて部屋に戻ると、アランがドアの前に寄りかかるように立っていた。私の姿を認めた途端、その美しい瞳に冷ややかな鋭さが宿る。
どういうつもりですか」
「なんのこと?」
 私は臆することなく、彼に向き合った。
「僕は、あなたのブローチなんて預かっていません」
「そうね。私もそんな記憶はないわね」
「余計なことをしないでください」
やっぱり、犯人はあのメイドたちなのね?」
 私のブローチを盗み、気に入らない庶子のアランを犯人に仕立て上げた。
 私がアランを苦手に思っていることを察して、未来の女主人に()びを売る意図もあったかもしれない。だから、私がアランを(かば)ったことに、彼女たちはひどく驚いていた。
「さぁ。僕が盗ったのかもしれませんよ」
 アランは皮肉っぽく笑った。
「アラン、もしかして、今までもこんなことがあったの?」
 アランは何も言わなかった。
 けれど、これまでの使用人たちの態度を見ても、恐らくそうなのだろう。アランはこの屋敷の中で、ひどく軽んじられているのだ。
「ヘンリーはなんて? どうして彼らを解雇しないの」
「ヘンリーは何も知りません。だって、何も起きていませんから。それでいいんです」
「アラン
「この屋敷の女主人になるなら、使用人は味方につけるべきですよ、ミス・ラヴェンハート」
「そうね。でも、私は人を陥れるような使用人は決して許さないわ。客人の私物を盗むような者もね。結婚したら、まず最初に人員整理をすることになるでしょう」
 アランはじっと私を見つめ、けれど何も言わずにくるりと背を向けた。
 そのまま行ってしまうかと思ったが、数歩先でぴたりと立ち止る。
 彼が振り返り、何かを放った。
 私は驚いてそれを受け取る。一冊の本だった。
「これは?」
「お薦めは何かと、聞いたのはあなたでしょう。失礼」
 そのまま、アランはつかつかと歩いて去っていった。
 私は驚いて、本の表紙とアランの後ろ姿を何度も見返した。
 夢幻や影ではなく、そこには確かに形を持った少年が存在していた。


 嵐が通り過ぎた翌朝は、晴れ渡った(すが)(すが)しい空が広がっていた。
 メイドに起こされるよりも先に目が覚めた私は、窓の外を覗き込んだ。雨露に濡れた草木がきらきらと輝いて、その先にある湖面の煌めきと重なり合い、美しく(まばゆ)い光景が広がっている。
 馬のいななきが聞こえた。
 見れば、湖の(ほとり)をヘンリーが馬に乗って駆けている。朝から元気ね、と私はくすりと微笑んだ。
 そっと窓辺を離れ、ベッドサイドに置いた本を見下ろした。アランが貸してくれた本だ。
 昨夜、寝る前に少し目を通した。内容は少年らしい冒険小説で、それが意外でもあり、そして微笑ましくもあった。
 私は急いで着替えを済ませると、(きゆう)(しや)に向かって()(てい)に馬を用意させた。ヘンリーを追いかけるつもりだった。彼に話したいことがたくさんある。使用人たちのこと、アランのこと、そして、これからの二人のこと。
 馬を引きながら周囲を見回していると、庭のほうからゆっくりと歩いてくるアランの姿を見つけた。
 私に気がつくと、彼は少しだけ眉を(ひそ)めた。そこにあるのがあの貼り付けたような笑顔ではないことに、私は嬉しくなった。嫌そうにされて嬉しいというのも、おかしいけれど。
「おはよう、アラン。散歩していたの? 最高の朝ね」
おはようございます」
「昨日貸してもらった本、早速読んだのよ。まだ途中だけど、とっても面白いわ」
 アランは微かに目を(みは)り、そしてすっと視線を()らすと「そうですか」とだけ答えた。もしかしてこれは、照れているのだろうか。
「ヘンリーを見なかった?」
さぁ」
 そっけない返事だ。
「そう。それじゃちょっと探して、ひと回りしてくるわ。また朝食の時にね」
 そう言って私が馬に(またが)ると、アランはぶっきらぼうに、「ちょっと」と呼び止めた。
「どうしたの?」
 アランは後方の森を指さす。
あの森を抜けた先に橋がかかっていて、それを渡ったところに小さな谷があるんです。ヘンリーはこんな朝には、よく馬を飛ばしてそこへ行きます。雨上がりの朝は低い霧が浮かんで、その向こうに見える青い湖面が美しいってだから
 恐らく今朝もそこにいるのでは、ということだろう。
「まぁ、そうなの。さすが、彼のことよく知っているのね」
 アランは当然だというように、つんと顔を背けた。
 そのどこまでも(たか)()(しや)な様子に、こういうところは相変わらずだわと思う。けれど、もう不快だとは思わなかった。
 思わず、ふふと笑う。
「教えてくれてありがとう、アラン。追いかけてみるわ」
 私は馬の腹を()って、一気に駆け出した。
 さわやかな風が、頰を撫でる。
 朝日に照らし出された美しい世界の中を、私は愛しい人のもとへ向かっていった。
 

 アランは馬に乗って駆けていくダフネの後ろ姿を、静かに見送った。
「アラン」
 呼ぶ声に振り返ると、ヘンリーが馬を引いてやってくるのが見えた。朝の光を浴びた彼の金の髪が、眩く煌めいている。
「体調はもういいのか?」
「うん」
 アランはその秀麗な(おもて)に、溢れんばかりの喜びを浮かべた。
 大好きな優しい兄が自分にだけ、その真っ直ぐな瞳を向けてくれる瞬間。それは彼にとって、最も幸福を感じる時だ。
 寄宿学校に入って以来、ヘンリーと一緒にいられる時間はごく限られたものになった。手紙が来るのを待ちわびながら、休暇で会える日を指折り数えた。こんなふうに毎日顔を合わせることができる夏は、できることなら永遠に終わってほしくない。
 ヘンリーは乗馬用のグローブを外すと、探るようにアランの頰に手を当て、さらりと髪を撫でた。その心地よい感触に、アランはうっとりと目を細める。
「うん、顔色は良さそうだな」
 ほっとしたように笑う。
 心配してくれていたのだという事実が、何より嬉しい。
「ねぇ、今日は遠乗りに出かけようよ。ダフネも一緒に」
 アランがそう言うと、ヘンリーは少し驚いたようだった。
「なんだ、いつの間にかすっかり仲良くなったんだな」
 ヘンリーは嬉しそうだ。
「そうだな、みんなで行こう。ああ、そうだ。森を抜けたところに橋があるだろう? 昨日の嵐で(きよう)(きやく)がやられて、崩れそうになっているらしい。補修の指示は出しておいたが、いつになるかまだ()()が立っていないんだ。しばらく近づくなよ」
へぇ、そうなの」
 アランはにこりと微笑んだ。
「そんなに急いで直さなくても、あんなところに行く人は滅多にいないし、困らないんじゃない?」
「僕が困るさ。今朝も本当は、あの谷まで行きたかったんだけどなぁ」
 残念そうに肩を(すく)めてから、馬を戻してくる、とヘンリーは()(づな)を引いて厩舎へと向かった。
 笑顔で兄を見送ってから、アランはちらりと、ダフネが向かった森へと視線を移した。
 ヘンリーが橋の補修について執事と話しているのを耳にしたのは、昨晩のことだ。
 以前から(ろう)(きゆう)化していた橋脚の一本が、強い雨風で崩れた土砂にえぐられ、橋は(かろ)うじて残る支えだけで持ちこたえているという。くれぐれも騎馬で渡ろうなどとなさいませんように、と心配そうな執事の声が聞こえた。重みに耐えきれず、すぐに崩れてしまうでしょうから
 ヘンリーは己のものだと見せつけるように、どこへ行くにもアランを連れ回したあの女。アランにとってヘンリーとの思い出が詰まった図書室を、自分用の音楽室に改装するつもりだと笑って話していたあの女。どう見ても十人並みの容姿だというのに、美しいと褒めそやすお世辞を真に受ける()鹿()な女。子爵の娘という肩書しかないくせに、ただそこに存在するだけで何の努力もなく愛されると思っている(おろ)か者。
 どうやら、自分は心優しく親切で正しいことをしているのだと、本気で信じ込んでいるらしい。だからこそ、アランが見せた(いつわ)りの和解を当然のように受け入れ、その言葉を疑いもしない。
 アランは(ほの)(ぐら)い笑みを、じわりと広げた。
 やがて身を(ひるがえ)すと、軽やかな足取りで屋敷の玄関を(くぐ)っていった。


 嬉しそうに屋敷に入っていくアランの後ろ姿を、ヘンリーは肩越しに眺めた。
 アランを目にする度、ローズのことを思い出す。
 幼いヘンリーの前に現れた、優しく美しいメイド。濡れるように輝く黒髪も、宝石のような(うるわ)しい瞳も、なにもかもがそっくりだ。
 彼女のことが大好きだった。厳しく冷たい母とは違い、ローズはいつもヘンリーの(そば)にいてくれた。温かな掌で頭を撫でられ、柔らかく笑う彼女を見ていると、胸に(あかり)がともるような安らぎを感じた。
 彼女がヘンリー以外の誰かに笑いかけるのは嫌だった。どこにも行かないで、僕と一緒にいてとせがむ度、ローズは優しく抱きしめて寄り添ってくれた。
 だから、突然彼女が屋敷を出ていったと聞かされた時には、どうして自分を置いていってしまったのかと毎晩のように泣き続けた。別れの挨拶も、手紙すらもなく、ローズは(こつ)(ぜん)と姿を消してしまったのだ。
 彼女が父の子を()(ごも)り、それに気づいた母によって紹介状もなしに追い出されたと知ったのは、ローズが消えてから二年後のこと。
 母は、ヘンリーが十五の時に死んだ。
 階段の上から突き飛ばすと、彼女の身体(からだ)(あつ)()なく宙を舞って落下していった。階下で壊れた人形のように転がっていた母にはまだ息があって、ヘンリーに向かって助けを求めるように震える手を伸ばしていた。けれどヘンリーは、それを無感動に見下ろして立ち去った。
 やがて母は、息絶えた状態で使用人に発見された。階段から足を滑らせて転落した、不幸な事故として処理された。
 月日が流れ、遠縁の子を預かったといって父が幼いアランを屋敷に連れてきた時、それがローズの子であるとヘンリーにはすぐにわかった。
 思い出の中にあった彼女の美しい顔が、幼い(おも)()しの中にはっきりと表れていたから。
 美しく愛しいローズ。手に入らなかったローズ。ヘンリーを裏切って父のものになり、そして何も言わずに去っていったローズ。
 ヘンリーは孤独なアランに、理想の兄として寄り添い続けた。
 誰にでも優しく、温厚で誠実なヘンリー・エルズミア。その愛情を独占したいとアランが願うように、時には距離を置き、時にはたっぷりと甘やかしてやった。父が冷たく接するほど、使用人たちが彼に辛く当たるほど、ほかに味方のいないアランは容易(たやす)くヘンリーに依存していった。
 ただただヘンリーだけを求めてその瞳に映すアランに、心が満たされていく。
 寄宿学校に入って、アランがその美しさから上級生たちに気に入られることは予想がついた。学友たちと心を通わせることで、その気持ちはヘンリーから遠ざかるかもしれない。
 アランを繫ぎ止める、(くさび)が必要だ。
 そんな折、爵位を持つ家との繫がりを求めた父が、ある子爵令嬢との結婚を薦めてきた。
 ダフネは、アランの心を乱すにはちょうどいい存在だった。
 思った通り、アランはひどくダフネに嫉妬して、ヘンリーへの執着をさらに強めた。彼女に対するアランの言動は、まるで甘い毒がひたひたと浸透していくように、ヘンリーの心を強く深く満たしてくれた。
 ダフネには、心から感謝している。
 橋が崩れそうだという話は、昨日報告を受けたばかりだ。そして、アランがすぐ近くで聞き耳を立てているのを承知した上で、執事に補修の指示を出しておいた。あの橋を使う者は少ないから、さほど急いで直す必要はない、と。
 先ほどのアランの、嬉しそうな姿。
 思い出すと、つい口元が緩む。
 いけない、いけない、と手で顔を(おお)い、すぐに表情を戻した。
 当分、笑うことはおあずけだ。
 婚約者を亡くして悲しむ、悲劇の青年の顔を用意しておかなくてはならない。部屋に戻ったら鏡の前で、よく練習しなくては。
 悲嘆に暮れるヘンリーを、アランはきっと、傍に寄り添って慰めてくれるだろう。

【おわり】