【佳作】タンピース(著:自由一花)
午前六時四十七分。アキラの体内センサーが最適な起床時刻を告げると同時に、部屋の照明が徐々に明るくなる。壁面のスクリーンには、生体データが表示されている。血糖値、ホルモンバランス、睡眠の質――すべてが数値化され、グラフ化されている。
「おはようございます。昨夜の睡眠効率は九十二パーセント、本日の推奨カロリー摂取量は二千百八十四キロカロリーです」
部屋のAIが温和な女性の声で報告する。アキラは立ち上がり、洗面台へ向かう。鏡に映る自分の顔は、三十五歳にしては若々しく見える。完全栄養システム(PNS:Perfect Nutrition System)の恩恵で、現代人の多くが理想的な健康状態を保っていた。
朝食の時間。アキラは食事テーブルに座り、まずタンピースを舌に装着した。薄い生体適合性のフィルムが舌の表面に密着し、微細な電極が味蕾に接触する。続いてARゴーグルを頭に装着。視界が一瞬暗くなり、次の瞬間には高精細な映像が網膜に投影された。
テーブルの上には、いつものように緑色の物体が並んでいる。形状は様々で、ARゴーグルを通して見ると、それらは美しい朝食へと変貌する。
「本日の朝食メニューはクロワッサン、スクランブルエッグ、ベーコン、フレッシュサラダ、オレンジジュースです。あなたの現在の栄養状態と心理プロファイルに基づいて最適化されています」
アキラは緑色の三角形の物体を手に取った。ゴーグル越しには、焼きたてのクロワッサンが見える。口に運ぶと、香料噴霧システムが作動し、バターの豊かな香りが鼻腔を満たす。タンピースから伝わる電気刺激が、完璧なクロワッサンの味を舌に再現する。サクサクとした食感、バターの風味、わずかな塩味――すべてが理論的に計算された最適解だった。
「美味しい」とアキラは呟いた。
食事を終えると、アキラは職場へ向かった。栄養最適化センター。アキラの職場である巨大な白い建物の中には、数百台のコンピューターが並んでいる。日本中、約一億人の生体データが、リアルタイムでここに集約される。血液検査の結果、運動量、睡眠パターン、ストレス指数、そして過去の食事履歴――すべての情報を基に、アキラたちは一人ひとりの「最適解」を計算していた。
「おはよう、アキラ」
隣の席の同僚、ユミが声をかけてきた。彼女もまた、アキラと同じように完璧な健康状態を保っている。
「今日も忙しくなりそうね」
アキラは自分の端末にログインし、担当エリアのデータを確認した。画面には無数の数字とグラフが踊っている。
「今日の案件は?」アキラは尋ねた。
「高齢者の認知症予防プログラムと、妊婦の胎児発育最適化プログラムね。それから――」
ユミは画面を確認しながら続けた。「記憶連動型食事体験の新しいアルゴリズムのテストもある」
記憶連動型食事体験。それは最近開発された新しいシステムで、個人の記憶データベースから幸福な食事体験を抽出し、それを再現する技術だった。母親の手料理、初恋の人と食べたケーキ、家族旅行での思い出の料理――すべてが完璧に再現される。
アキラは一日中、データと格闘した。栄養学、心理学、神経科学の知識を総動員し、一人ひとりの人間に最適な食事体験を設計していく。彼の作り出すアルゴリズムによって、数百万人が今日も「完璧な食事」を楽しむことができる。
正午。アキラの昼食時間だった。社員食堂で、いつものように緑色の物体が並んだトレイを受け取る。今日の昼食は、システムが彼の午前中の疲労度と集中力低下を分析して決定した「集中力回復定食」だった。
タンピースとARゴーグルを装着すると、緑色の塊は美しい和食膳に変貌した。照り焼きチキン、野菜の煮物、味噌汁、白米――すべてが彼の祖母の手料理を模して作られている。
だが、箸を口に運んだ瞬間、アキラは違和感を覚えた。
この味は、確かに祖母の手料理そのものだった。醤油の香り、みりんの甘さ、野菜の食感――記憶の中の味と完全に一致している。しかし、アキラには祖母の記憶がなかった。彼は三歳の時に両親を事故で亡くし、それ以来施設で育てられた。祖母と一緒に食事をした記憶など、存在しないはずだった。
「おかしい」アキラは呟いた。
隣で食事をしていたユミが振り返る。「どうしたの?」
「いや、何でもない」アキラは慌てて答えた。だが、心の中では疑問が渦巻いていた。システムは一体、誰の記憶を俺に提供しているのだろうか?
翌朝、アキラは いつもより早く目覚めた。体内センサーが示す最適起床時刻より十七分も早い。昨日の疑問が頭から離れず、熟睡できなかったのだ。
「アキラ、睡眠効率が通常より八パーセント低下しています。本日の食事プログラムに疲労回復要素を追加しますか?」
部屋のAIが心配そうに尋ねる。アキラは首を振った。
「いや、いつも通りで」
朝食の時間。いつものようにタンピースとARゴーグルを装着し、緑色の物体を口に運ぶ。フレンチトースト、ベーコンエッグ、フルーツサラダ――すべてが完璧に美味しい。
だが、アキラは食事に集中できなかった。昨日の「祖母の手料理」の記憶が頭を離れない。
出社すると、アキラは同僚のユミに声をかけた。
「ユミ、記憶連動型食事体験について詳しく教えてもらえるかな?」
ユミは手を止めて振り返った。「急にどうしたの? あなたがそんなに詳細を気にするなんて珍しいわね」
「ただ、仕組みを理解しておきたくて」
「そうね。基本的には、個人の記憶データベースから幸福な食事体験を抽出するの。でも、記憶が不十分な場合は――」ユミは画面を操作しながら説明を続けた。「統計的に類似した体験を持つ他者のデータから補完する」
アキラの心臓が跳ねた。「他者のデータ?」
「そう。例えば、幼少期の家庭料理体験が乏しい人には、同世代の他者の記憶から最適なものを選んで提供するの。本人が実際に体験していなくても、遺伝的背景や文化的環境が似ていれば、その記憶は十分に『リアル』として機能する」
アキラは言葉を失った。自分が昨日体験した「祖母の手料理」は、やはり見知らぬ誰かの記憶だった。
「でも、それって――」アキラは慎重に言葉を選んだ。「偽の記憶を植え付けることにならない?」
ユミは不思議そうな顔をした。「偽って何? システムは常に最適解を提供するのよ。本物の記憶か合成された記憶かなんて、重要じゃない。大切なのは、その人が幸福を感じることでしょう?」
アキラは黙って自分の席に戻った。画面には、いつものように無数のデータが流れている。彼は自分の担当エリアのデータを詳しく調べ始めた。ある中年男性の食事履歴を見ると、「母親の愛情こもった家庭料理」が頻繁に提供されている。だが、その男性の家族構成を見ると、母親は彼が十五歳の時に亡くなっていた。
別の若い女性のデータを見ると、「恋人との記念日のディナー」が記録されている。しかし、彼女の恋愛履歴は空白だった。
アキラは次々とデータを確認した。そこには、現実には存在しない記憶に基づく食事体験が無数に記録されていた。システムは、人々が持たない記憶を他者から借用し、まるで本人の体験であるかのように提供していたのだ。
「これは一体何なんだ?」アキラは呟いた。
昼休み、アキラは栄養最適化センターの上層階にある管理部門を訪れた。そこで働く上司、田中部長に相談した。
「部長、記憶連動型食事体験について質問があります」
田中部長は五十代の温厚な男性で、PNSシステムの開発初期から関わってきたベテランだった。
「何だ?」
「記憶を他者から借用して提供することは、倫理的に問題ないのでしょうか?」
田中部長の表情が一瞬硬くなった。「アキラ君、君は何か勘違いをしているようだね」
「勘違い?」
「我々は人類を救ったんだ。2087年の今、天然食材はほぼ絶滅した。環境破壊、気候変動、土壌汚染――地球はもはや人類が生きていけない星になりつつある。PNSがなければ、人類は飢餓で滅亡していただろう」
田中部長は窓の外を指差した。そこには、灰色の空と枯れた大地が広がっている。
「君が気にしている『記憶の真偽』なんて、些細な問題だよ。大切なのは、人々が生きていること、そして幸福を感じていることだ。完璧な栄養バランス、完璧な味、完璧な満足感――これ以上何を求めるというんだ?」
アキラは反論しようとしたが、言葉が出なかった。
「でも――」アキラは小さな声で言った。「それが本当の幸福なのでしょうか?」
田中部長は深い溜息をついた。「アキラ君、君は疲れているようだね。しばらく休暇を取りなさい」
その夜、アキラは自分のアパートで一人考え込んでいた。部屋の壁に映し出される統計データが、PNSの成功を物語っている。栄養失調による死亡率:ゼロ。食中毒発生件数:ゼロ。食事満足度:九十八パーセント。
すべてが完璧だった。
その時、アキラのタブレットに通知が届いた。明日の食事プログラムの更新情報だった。
「明日の特別メニュー:幼少期の誕生日パーティーの再現。あなたの五歳の誕生日に食べたチョコレートケーキを完全再現します。素晴らしい一日をお過ごしください」
アキラは画面を見つめた。五歳の誕生日。俺は施設で過ごした。そこにチョコレートケーキなどなかった。
「一体、誰の記憶なんだ?」
翌日、アキラは「幼少期の誕生日パーティー」を体験した。ARゴーグルには、カラフルな飾り付けがされた部屋と、大きなチョコレートケーキが映し出される。香料噴霧システムからは、甘い香りが漂い、タンピースからは完璧な甘さが伝わってくる。
美味しかった。完璧に美味しかった。
だが、アキラの心は空虚だった。その日から、アキラは密かに調査を始めた。PNSシステムの真実を、そして失われた「本当の食事」を求めて。
調査を始めてから二週間が経った。その日の勤務後、アキラは栄養最適化センターの地下データベースにアクセスしていた。通常の職員レベルでは見ることのできない、機密性の高い情報を探していた。セキュリティをかいくぐり、システムの根幹部分に辿り着いた時、彼は驚愕の事実を発見した。
「Project Memory Garden」
ファイルを開くと、こう記されていた。
「食事体験を通じた感情制御により、社会不安を解消し、犯罪率を削減。反政府感情を持つ個体には、幸福な家族の記憶を提供することで思想矯正を行う」
アキラは震えた。人々が感じている幸福感は、すべて計算されたものだった。システムは食事という最も基本的な行為を通じて、人間の心を操作していた。
さらに読み進めると、記憶データベースの源泉は、「保存された過去の人類」であることがわかった。PNS導入前の時代を生きた人々の記憶が、死後もデジタル化されて保存され、現代人の感情操作に使われていたのだ。
「これは犯罪だ」アキラは呟いた。
その時、背後で足音が聞こえた。アキラは慌ててファイルを閉じようとしたが、手が震えてうまく操作できない。
「こんなに遅い時間までご苦労様です、サトウさん」
振り返ると、セキュリティ担当の黒崎が立っていた。中年の男性で、常に無表情な顔をしている。
「ちょっとデータの整理をしていまして」
「そうですか。しかし、あなたのアクセスログを見ると、本来の職務範囲を超えた情報にアクセスしていますね」
アキラの心臓が激しく鼓動した。「それは――」
「心配しないでください」黒崎は微笑んだ。「私も、あなたと同じように疑問を持った一人です」
「え?」
「私についてきてください。見せたいものがあります」
黒崎は地下のさらに奥へと向かった。アキラは困惑しながらもついていく。エレベーターで地下五階まで降りると、そこは通常の職員が立ち入ることができない区域だった。
「ここは?」
「旧世界保存施設です」黒崎は重厚な扉の前で立ち止まった。「PNS導入前の食材サンプルが保存されています」
扉が開くと、そこは巨大な冷凍保存庫だった。無数の棚に、様々な容器が並んでいる。野菜、果物、肉類、穀物――すべてが冷凍された状態で保存されていた。
「これらは、地球上最後の天然食材です」黒崎が説明した。「公式には『研究用サンプル』ということになっています」
アキラは目を見張った。「これだけあれば、また天然食材を育てることができるのでは?」
「理論上は可能です。しかし、政府はそれを許可しません。PNSシステムこそが人類の救済だとされているからです」
黒崎は棚から小さな容器を取り出した。中には、親指ほどの大きさの赤い果実が入っている。
「これは何ですか?」
「イチゴです。PNS導入前の時代には、春になると畑で育てられていました。甘くて、少し酸っぱくて――」黒崎は遠い目をした。「私は子供の頃、実際に食べたことがあります。最後の世代の一人として」
アキラは容器を見つめた。これが本物の食材。
「なぜ、これを俺に見せるのですか?」
「あなたのような人が現れるのを待っていました」黒崎は真剣な表情で答えた。「システムに疑問を持ち、真実を求める人を」
「でも、俺には何もできません」
「いいえ、あなたは栄養最適化アルゴリズムの開発者です」
黒崎はアキラの肩に手を置いた。
「実は、私たちのような人間が他にもいます。秘密裏に、本物の食材を育てようとしている人たちが。でも、それには専門知識が必要です。栄養学、生物学、そして何より――システムの弱点を知る必要があります」
「システムの弱点?」
「PNSは完璧なシステムです。しかし、一つの致命的な欠陥があります。それは、本物の食材に触れた人間を支配できないということです」
「それで、あなたたちは――」
「地下組織を作っています。『本物の食事』を求める人たちの集まりです」
黒崎は再び冷凍庫の奥へと向かった。「今日は、あなたに選択の機会を与えたいと思います」
最奥部に、特別な冷凍室があった。そこには、様々な種子が保存されていた。
「これらの種子から、本物の食材を育てることができます。しかし、一度この道を選んだら、もう後戻りはできません。システムの監視対象となり、最悪の場合は――」
「最悪の場合は?」
「消去されます。記憶を消去され、より強力な洗脳プログラムを施されます」
黒崎は種子の入った小さな容器を取り出した。
「これは、トマトの種子です。育てるのは比較的簡単で、三か月ほどで収穫できます。もしあなたが決心しているなら、これを持って帰ってください」
アキラは容器を見つめた。
「少し、考えさせてください」
翌日、アキラは昼休みに黒崎のオフィスを訪れた。
「昨日の件ですが」アキラは小声で言った。
黒崎は無表情のまま頷いた。「午後八時、屋上で」
その日の午後、アキラは仕事に集中できなかった。画面に映る無数のデータを見ながら、彼は自分が今まで何をしてきたのかを考えていた。
午後八時。屋上で黒崎と再会したアキラは、小さな容器を受け取った。中には、昨日見たトマトの種子が入っている。
「これをどうすればいいのですか?」
「まずは育ててみることです。土と水があれば発芽します。しかし――」黒崎は周囲を見回した。「自宅でやるのは危険です。システムの監視が厳しすぎる」
「では、どこで?」
「私たちの秘密基地があります。廃棄された地下鉄の駅を改造した場所です。そこで、何人かの仲間が密かに食材を育てています」
その夜、アキラは黒崎に連れられて、都市の地下深くへと向かった。使われなくなった地下鉄の路線を歩き、やがて廃駅に辿り着いた。
「ここです」
駅のホームを改造した空間には、簡素な水耕栽培装置が設置されていた。
黒崎は一つの栽培ベッドを指差した。そこには、手のひらサイズの赤い実がなっていた。
「これが本物のトマトです」
アキラは息を呑んだ。ARゴーグルなしでも、それは美しく見えた。
「食べてみますか?」
「え?」
「もう熟しています」
黒崎は慎重にトマトを摘み取った。それは、システムが提供する緑色の物体とは全く違っていた。赤く、艶やかで、生命力に満ちていた。
「でも、これ、食べて大丈夫ですか? 毒性検査は?」
「確かに、システムの基準では『未承認食品』です。しかし、人類は数千年間、これらの食材を食べて生きてきました」
アキラは迷った。
「怖いですか?」黒崎が尋ねた。
「はい」
アキラは深呼吸をした。そして、決断した。
アキラは震える手で、舌からタンピースを取り外した。
黒崎が差し出したトマトを受け取る。手のひらに感じる重さ、表面の滑らかさ――すべてが新鮮な感覚だった。
「匂いを嗅いでみてください」
アキラは鼻を近づけた。青臭い、でも爽やかな香りがした。システムの香料噴霧とは全く違う、複雑で微妙な香りだった。
「では、食べてみてください」
アキラは恐る恐る口に運んだ。歯で噛み切ると、果汁が口の中に広がった。
最初は、何も感じなかった。味がしない。
三十五年間、電気刺激による人工的な味に慣れ切った舌には、自然の味が認識できなかった。
「味がしません」アキラは困惑した。
「大丈夫です。ゆっくり噛んで口に含ませてください」
アキラは目を閉じて、ゆっくりと噛み続けた。果肉の繊維が舌の上で潰れ、種の周りのゼリー状の部分が口の中で混ざり合う。
そして、突然、味が現れた。
最初は微かな甘み。次に、軽やかな酸味。そして、言葉では表現できない複雑な味わいが口の中に広がっていく。
「これは――」アキラは言葉を失った。
涙が頬を伝った。
「美味しい」
それは、完璧ではなかった。しかし、美しかった。
「これが本物の味なのですね」
「そうです」黒崎は微笑んだ。
アキラは残りのトマトを大切に食べ続けた。一口一口が発見だった。システムでは体験できない、複雑で豊かな味わいが続いた。
食べ終わった後、アキラは長い間黙っていた。口の中に残る余韻、鼻に残る香り、そして心に残る感動――すべてが新鮮だった。
「これを食べてしまったら、もうシステムの食事には戻れません」
「その通りです。これが、システムの致命的な欠陥です。本物を知った人間は、もはや偽物では満足できません」
アキラは理解した。なぜシステムが本物の食材を徹底的に排除したのか。それは、栄養や安全性の問題ではなく、支配の問題だったのだ。
その夜、アキラは自宅に帰った。翌朝の食事プログラムを見ると、いつものように「最適化された朝食」が表示されている。
しかし、もう彼には、それが偽物であることが分かっていた。
タンピースを装着し、ARゴーグルを被る。緑色の物体が、美しいパンケーキに見える。電気刺激が、完璧な甘さを舌に伝える。
「もはやこれは食事ではない」アキラは呟いた。「ただの栄養補給だ」
トマトを食べてから一週間が経った。アキラの日常は一変していた。
朝食のたびに、システムの「完璧な味」が空虚に感じられる。昼食では、同僚たちが幸せそうに「美味しい」と言っている姿が、まるで夢遊病者のように見える。
「アキラ、最近様子がおかしいよ」
同僚のユミが心配そうに声をかけてきた。
「そう?」
「食事の満足度スコアが急激に下がっている」
アキラの心臓が鳴った。
「体調が悪いのかも」
「そうね、医療チェックを受けたほうがいい」
その日の午後、アキラは地下の栽培施設を訪れた。黒崎は、新しい野菜の世話をしていた。
「システムが俺の異常を察知しています」アキラは報告した。
「本物の味を知った人間は、必ずシステムの監視対象になります」
「どうすればいいですか?」
黒崎は手を止めて、振り返った。「二つの選択があります。一つは、システムに従って医療チェックを受けること。おそらく、記憶調整プログラムを施され、トマトの味の記憶を消去されるでしょう」
「もう一つは?」
「私たちと共に、地下に潜ること。システムから完全に離脱し、本物の食材だけで生活することです」
アキラは考え込んだ。システムから離脱するということは、現代社会から完全に切り離されることを意味していた。
「でも、俺たちが逃げても、何も変わりません。他の人々は、依然として偽の幸福の中で生きています」
「そうです。だからこそ、私たちは別の計画を立てています」
「別の計画?」
黒崎は周囲を見回してから、小声で続けた。「システムの中核部分に、本物の食材データを注入する計画です。一度に大勢の人々に、本物の味を体験させるのです」
「それは――」アキラは息を呑んだ。「テロですよね」
その夜、アキラは一人で考え続けた。翌朝には、システムの医療チェックを受けるよう指示が来るだろう。それまでに、決断しなければならなかった。
システムに従って記憶を消去されるか、地下に潜って反抗者となるか、それとも――。
翌朝、アキラは出社した。予想通り、医療チェックの指示が届いていた。午後二時、栄養最適化センターの医療部門に出頭するよう命じられていた。
しかし、アキラは別の選択をした。
午後一時、彼は緊急会議を招集した。栄養最適化センターの全職員が集まる中、アキラは壇上に立った。
「皆さん、私たちが何をしているか、本当に理解していますか?」
職員たちは困惑した表情を見せた。
「私たちは、人々に栄養を提供していると思っています。しかし、実際には、人々の記憶と感情を操作しているのです」
会場がざわめいた。
「アキラ君、何を言っているんだ?」田中部長が立ち上がった。
「部長、あなたはご存知でしょう。Project Memory Gardenのことを」
田中部長の顔色が変わった。
「私たちは、死者の記憶を利用して、生者の感情を操作しています。存在しない幸福を提供し、人々を洗脳しているのです」
「アキラ君、もうやめなさい」田中部長が制止しようとした。
「いいえ、やめません」アキラは続けた。「そして、私は皆さんに提案があります。本物の食材を食べてみませんか?」
アキラはポケットから、地下施設で収穫したミニトマトを取り出した。
「これが本物の食材です。タンピースもARゴーグルも必要ありません。自然が作り出した、本物の味です」
会場は静まり返った。
「誰か、試してみませんか?」
長い沈黙の後、ユミが手を挙げた。
「私が試します」
彼女は壇上に上がり、タンピースとARゴーグルを外した。そして、アキラからトマトを受け取った。
会場の全員が、ユミの反応を見守った。
最初は無表情だった彼女の顔が、徐々に変化していく。驚き、困惑、そして――感動。
「これは――」彼女は涙を流し始めた。「こんなに複雑で、豊かな味があるなんて」
会場がざわめいた。その瞬間、会場の扉が開いた。セキュリティ部隊が雪崩込んでくる。
「アキラ・サトウ、お前を反政府活動の容疑で拘束する」
アキラは抵抗しなかった。彼の目的は、すでに達成されていた。会場にいる全職員が、本物の味の存在を知った。そして、その中の何人かは、間違いなく疑問を抱くようになるだろう。
拘束室に入れられたアキラの前に、栄養最適化センターの所長が現れた。初老の男性だった。
「サトウ君、なぜこんなことをしたのかね?」
「人々に、選択の機会を与えたかったのです」
「選択?」所長は首を振った。「君は何を勘違いしているのかね。我々は人類を救ったのだ。飢餓、栄養失調、食中毒――すべてを過去のものにした。これ以上何を求めるというのかね?」
「でも、それは本物ではありません」
「本物?」所長は嘲笑った。「君が食べたという『本物』は、栄養価が不安定で、安全性が保証されない、原始的な食べ物だ。それのどこが優れているというのかね?」
「完璧すぎるものは、もはや人間のものではありません」アキラは静かに答えた。「人間は、不完全だからこそ美しいのです。予測不可能だからこそ、生きている実感があるのです」
所長は長い間、アキラを見つめていた。
「君は、人類の進歩を否定するのかね?」
「進歩と支配は違います」
「明日、君の記憶を調整する」
アキラは微笑んだ。「もう種は撒いた」
その夜、アキラは独房で窓の外を見つめていた。灰色の空の向こうに、小さな星が見えた。
明日には、俺はトマトの味の記憶を失うだろう。しかし、会場にいた職員たちの心には、疑問の種が植えられた。いつか、その種が芽を出し、大きな木となって、この完璧なシステムを変える。
「本物の味を知った人間は、もう偽物では満足できない」
黒崎の言葉を思い出しながら、アキラは静かに眠りについた。
【おわり】