【佳作】味蕾人(著:鈴河すずか)


 神奈川県田綱郷()()村の村民は、未知の味覚『ゆがい』を持っている。
 その事実が急激に広まったのは、友人に料理を振舞った、という何気ないSNSへの投稿がきっかけだった。
 あれ俺が投稿したんすよ、とバイト先の後輩・()(なべ)が白状したので、()(だち)は思わず拭いていた皿を取り落としそうになった。皿洗いどころか調理全般をAIに任せるのが当たり前になったこの二十二世紀で、なぜか頑なに人間にキッチンを担当させる店長、彼の考えを改めさせる真似はしてはならない。そうじゃないとクビだ。
 余計な思考に走った頭を振って、安達は次の食器に手を伸ばしながら「そうなん?」と返した。
「はい。俺、今でこそ高校の寮に住んでるんすけど、それまではほとんど村の外出たことなくて。だからゆがいって味が普通じゃないって、知らなかったんすよ」と、俯いて清掃をしている田辺の茶髪に、シンクの銀色が鈍く反射していた。
「へーっ、まさか本人がこんなとこに」
 話題になった当初小耳に挟んだだけで、あまり詳しくない安達は軽く返した。対して田辺は何だか歯切れの悪い様子でいたが、やがて思い切ったように「そんで」と声を上げた。
「俺、先輩に助けてほしくって」
「は? 何を?」
 思ってもない言葉に今度はコップを取り落としそうになる。田辺はいつのまにか眉を下げてこちらを見ていた。安っぽい蛍光灯が二人の頭上でヂカヂカ点滅する。
「俺、味覚研究者でも民俗学者でもないけど」
「でも先輩、インセー? なんすよね?」
「バカお前院生を一緒くたにするなよ。専門分野ってもんがあるんだよ」
 そもそも助けるって何をだ、と首を傾げれば、田辺は少し視線をさまよわせ、おずおずと口を開いた。
「人間にはないはずの味覚が存在する、異常な生物ってことで、う、宇宙人なんじゃないか、てところまで話が広がってて」
 うお、とダスターを絞っていた手が止まる。田辺が言いよどむのも無理はない。数十年前に『侵略大震災』H-77系統宇宙人による地球侵攻未遂があってから、宇宙人、とは口に出すのも憚られるひどい差別用語なのである。つまり、と状況を察した安達は言葉を引き継いだ。
「『宇宙人狩り』の捕獲対象にされそうだってことだよな?」
「そうっす。まだ大丈夫すけど、実害が出る前に、俺たちが宇宙人じゃないって、少し変わってるだけの人間だって、証明してほしいんですよ」
 田辺ははっきりと告げた。
 『宇宙人狩り』とは、先の『侵略大災害』以後発生した有志による自警団、いわば宇宙人を対象にした私人警察である。疑わしきは罰せよという精神で、地球に潜む宇宙人らしき人間を捕まえては制裁を下しているのだ。テロ組織のごとき有様に、政府も迂闊に手が出せず、世間の大半からは異常者集団扱いをされているが。それでも可愛がっている後輩が『宇宙人狩り』の対象にされていると思うと、背筋に冷たいものが走る。
 安達は腰に巻いたエプロンを外しながら、うーんと天井を仰いだ。
「それだったら。あー、わかった。俺の研究室に来て、遺伝子スキャンしてみるか?」
「ええっ! いいんすか!」
 田辺は目を輝かせた。実のところ、安達は遺伝子学を専門にしているのだ。今回のような問題に対しては都合がいい。本当は大学設備を私的利用するのは良くないが、こうなっては断れまい。
 集団的な味覚異常。たしかに珍しくはあるが、無い話ではない。そこまで複雑なことにはならないだろうと楽観的にうなずき、安達は軽い気持ちで、今週の土曜に約束を取り付けたのだった。



 古い空調の音が微かに空気を揺らし続けている。安達の研究室がある研究棟は壁面が白、床パネルが黒という簡素なデザインとなっているが、それは研究棟の共有食堂まで同じだった。安達と田辺は食堂の長机を挟んで向かい合い、ぼんやりとスキャン結果の分析・出力を待っていた。
 研究所でできる遺伝子スキャンは簡易的なものだ。それでもホモ・サピエンスが持つ根幹遺伝子の共通性だけ証明できれば十分だろう。
 長机に肘をつき、スチールの丸椅子を前後に揺らしながら、田辺はだしぬけに「これ見ました?」と言った。空中を二回つついて、彼は自身のコンタクトレンズ型端末のディスプレイパネルを共有する。
 表示されたネット記事をのぞき込んで、ああ、と安達は頷いた。『宇宙人狩り』が捕獲者たちの『流刑』をする日時を公表したらしい。田辺は憮然とした表情で、一番上に表示されている画像を指さした。
「ダチにこいつが俺と似てるって言われたんすけど、酷くないすか? 俺ここまで老け込んでねーよっていう」
 そこかよ、と思わずずっこけた。自分の末路を重ねて怯えているのかと思えば、中年男性に似ていると言われた不満が勝ったらしい。
 まあよく見れば。男の疲弊して落ちくぼんだ瞳さえ除けば、太い鼻筋や額の広さなどが少しばかり似ているような気がした。
 ピピ、と音がした。手首に巻かれた携帯型研究補助端末を見れば、遺伝子スキャンの結果が送付されていた。田辺に一瞬視線をやり、無言で結果を表示させる。
 空中にポップアップされた分析結果をしばらく眺めるうちに、安達の眉間にしわが寄っていくので、田辺は焦燥感に駆られて思わず咎めるような声を上げた。
「どうだったんですか?」
「いや
 安達は口ごもった。しかし何度結果を見直しても、補助AIに分析させても、結果は変わらない。ゆっくりと田辺に視線を移して困惑を声色にのせ、「お前の根幹遺伝子は、ホモ・サピエンスのそれとは違うみたいだ」と告げた。
 根幹遺伝子の変容。それは通常の遺伝子異常ともまた異なり、亜土村の村民が、少なくとも田辺が、ホモ・サピエンスではない『何か』である可能性を示しているのである。
 そう解説すると、田辺はぽかんと口を開けていたのから徐々に顔を白くして黙り込んでしまった。俯いたまま絞り出すように言う。
「じゃあ、俺たちって、宇宙人ってことなんすか?」
「いや、宇宙人とは限らないけど
「でも少なくとも、人間じゃあないんすよね」
 今度は安達も黙り込んだ。そうかも、としか言えないからだ。沈黙を埋めるように、先ほどから煮詰められている鍋から籠ったような音が聞こえてきた。調理していたのを思い出したのか、田辺はふらりと立ち上がって簡易調理台へ向かう。ちなみに自動調理機能はオフにしてあった。
 横目でそれを見送り、下唇の甘皮を無意識に引っ張りながら、安達は再び結果を見直す。しかしデータとは残酷なもので、やはり根幹遺伝子の染色体異常を示す赤い数字は消えないままだった。
「何してるんだ? 安達」
 ふいに声を掛けられ、びくりと肩を揺らして振り向くと、そこには別研究室の(ひめ)()教授が立っていた。教授にしては若いが、背中まで伸びる黒髪と迫力のある目元は不思議な威厳を感じさせる女性である。「誰だ? あれ」と胡乱気な目で田辺の背中を見やり、続いて空中表示させたままの遺伝子スキャンの結果をじろりと睨みつける。
 しまった、と慌てて隠そうとしてももう遅い。姫野教授は持っていたバインダーを肩に打ち付けると、「おい、大学設備を私的利用するな!」と一喝した。安達は肩を縮こまらせ、こういう事情があって、と必死に言い訳を募る。
 意外なことに、最初は目を吊り上がらせていた姫野教授も、やがて無言で傍の椅子を引くと、足を組んで本格的に聞く姿勢に入った。最後に根幹遺伝子の変容が出た結果を改めて見せれば、彼女は「なるほど?」と顎に手を当てて食い入るようにディスプレイを見つめる。研究オタクで助かった、と密かに胸をなでおろす。
「ん。ああ、少なくとも宇宙人じゃあないな」
「え?」
 スッと前触れなくディスプレイの隅を指し示した姫野教授の言葉に、安達は驚いてその指の先を見た。『ミイロダス酸粒子:未検出』の文字に、一瞬考え込んだが、すぐにその意味を理解する。
「なるほど。ミイロダス酸粒子が検出されないってことは、対地球外物質抗膜を通ってないってことですもんね」
 そういうこと、と姫野教授は頷く。
 対地球外物質抗膜とは、先の『侵略大災害』を受け、アメリカが先導で開発した地球上部を覆う格子力フィールドのことだ。格子力フィールドを通過した物質からは『ミイロダス酸粒子』という未知の粒子が計測される。地球外からの物質・生命体はすべからくそのフィールドを通過するため、つまりは『ミイロダス酸粒子』が検出されなかった田辺は宇宙人ではないということだ。
「まあ、空間転送理論を実装した宇宙船があればフィールドを通過しないのではないか、とか、ミイダロダス酸粒子を分解しているのではないか、とか、色々指摘も多いですが。与太話で盛り上がる連中を黙らせるには十分ですね」
 ひとまず、これで田辺の、ひいては亜土村の村民たちの宇宙人疑惑はほぼ晴れたが。
 安達と姫野教授は、キッチンで作業する田辺の後姿を、黙って見つめた。
 宇宙人じゃない。
 だが、ホモ・サピエンスでもない。
 じゃあ一体、あいつはなんなんだ?
 一瞬重くなった空気を払うように、姫野教授はやや張った声で言う。
「私も詳しくはわからないが、遺伝生物学としてはかなりの発見なんじゃないか? 日本の離島ならまだしも、内陸にぽつりと他種遺伝子を含む集団が見つかったということだろ」
 姫野教授の専門は時空物理学だ。安達は頷いた。
 と、そこに湯気の立つ器を持った田辺が帰ってきた。姫野教授を見て固まり、助けを求めるように安達に視線を移す。こういうところは高校生らしい。慌てて「この人は姫野教授だ。時空物理学、あー、時間遡行理論を扱う学問が専門で、たまたま来ただけだけど興味を持ってくれた」と紹介してやると、彼はふっと肩の力を抜いて「田辺っす。はじめまして」と軽く頭を下げた。そして皿を安達の前に置く。
 楕円形の深皿に入っているのは白いスープである。刻んだ野菜とブロックの肉といった具材はごろりとしていて、ほとんどシチューのような見た目であった。しかしどんな調味料を使ったのだろうか、黄色や緑色の油、石灰粉のような謎の粉、そして無数のとげがある小さな木の実が浮いている。正直、見た目はあまり良くない。スプーンで掬ってみれば意外にも強烈な粘性がある。掬い上げる中、途中で「切れた」スープがぼとりと器に戻るのを見届けてから、安達は田辺を見上げた。
「これが例の郷土料理?」
「はい、だわん汁っす。これが一番ゆがいかな。味見したけど、結構上出来っすよ」
「へえ、わざわざサポート切って自分で作ったのか。すごいな」
 今のご時世では珍しい手料理に、感心したように姫野教授は呟いた。田辺は得意げに鼻をこすっているが、安達にはこれが成功かどうかなんてわからないので、曖昧な微笑みを浮かべるに留めた。
 ひとさじ掬ったスープを目線の高さに持ってきて、ごくりと喉を鳴らす。スプーンから目を離さずに問いかけた。
「そういや、ゆがいって他の味に例えると何に近いんだ?」
「え、うーん。考えたことなかったな。強いて言うなら、辛味? いや、辛くはないんですけど、刺激が味になってる感じが似てるっつーか」
 腕を組んで首をかしげる田辺に、思わず唇をキュッとしまった。刺激ときた。しかし、ここまで来たら引き返す選択肢はない。安達は喉ぼとけを上下させ、エイと思い切ってスプーンを口に入れた。
 おお、と田辺と姫野教授は声を上げ、目をつぶった安達が味を咀嚼しているのをわくわくと見つめる。安達はスプーンを引き抜いた姿勢のまましばらく固まっていたが、やがて首を傾げ、目を開いた。
「なんというか、無味?」
 刺激と聞いて身構えていたのだが、その実、だわん汁は不思議なほどに無味無臭だった。ただ熱い半固形の物体が舌の上に載っている感覚。一通り舌で転がし、飲み下しても喉を滑り降りる温度しか感じ取れなかった。
 田辺は、ああ、と肩を落とした。
「やっぱりそうすか。いや例の投稿にも書いてたんですけど、最初にこれを食べさせたダチも味がしねえって言ってたんすよね」
「味覚というより、味蕾ごと違うってことなのかもな」
 安達はスプーンを置いて頷いた。なるほど、亜土村の村民が根幹遺伝子の変容で生まれた、ホモ・サピエンスにはない特殊な味蕾を持っていると考えれば納得できる。味がしないのではなく、安達では味が感じ取れないのだ。
「ゆがいのにな
 田辺はまだ湯気の昇る器を見つめたまま、ぽつりとつぶやく。
 その姿にチクリと胸が痛んだ安達が口を開く前に、横から「私にも食べさせろ」と姫野が手を伸ばしてスプーンひとさじ、ごくりとスープを飲んだ。
「ん?」
 途端に眉をひそめた姫野教授に「どうしたんですか?」と首をかしげると、思いもよらぬ返答が返ってきた。
「うっすいけど絶妙に味するぞ。そうだな、確かに。食べたことない味だが」
 これがゆがいか、と唇を舐める彼女に驚き、安達も慌ててもう一口食べてみるが、やはり無味無臭だ。三人は顔を見合わせた。
「どういうことなんすかね?」
「亜土村が根幹遺伝子の変容により獲得した特殊な味蕾を、姫野教授もたまたま持っていた、としか。姫野教授、神奈川にご親戚がいるとかは?」
「恐らく無いな。私の親類は全員東北に固まっている」
 となれば、特殊な味蕾を持つ『人間』の分類がますます曖昧になってくる。
 田辺と姫野教授の共通点は?
 田辺は宇宙人ではないが、だったら一体なぜホモ・サピエンスとは異なる遺伝子を持っているのか?
 と、そこまで考えたところで、ようやく田辺本人に、自分たちが先ほど至った『亜土村の村民は、少なくとも宇宙人ではない』という結論を伝えていないことを思い出した。
 だわん汁を自分で飲み進めていた田辺は、机に斜めに寄りかかり、ぼんやりとした目で「なるほど」と呟く。
「じゃあ結局、俺らの亜土村のルーツはどこにあるん? って話すよね」
「まあ、そうかな」
 安達は曖昧にうなずいた。
 「『ミイロダス酸粒子が検出されなかった』という事実だけを示す書類を送ってやる」、という姫野教授の言葉を締めくくりに、いったんこの日はお開きになった。
 一週間後、『亜土村の村民は宇宙人ではない』という情報がSNSで拡散されているのを、安達は不健康に明滅する蛍光灯の下、コップを拭きながら眺めていた。空中ディスプレイを出して作業をしていても、安達一人なのだから問題はない。カツン、と水きりに置かれたコップが皿にぶつかって固い音を立てる。
 田辺はあの日から、バイトを休んでいた。



『あもしもし、俺やったっすよ、見つけました!』
 デバイス越しでも伝わるくらい喜びの滲んだ声音に、安達は思わず立ち止まって「田辺? 久しぶり」と声を上げた。改札付近の雑踏の中、突如立ち止まった安達を迷惑そうに避けていく人たちにはっとし、急いで端に寄る。
 電話、正確には骨伝導機能を持つピアス型デバイスに手を添える。
『先輩、今大丈夫っすか?』
「おお」
『ラッキー、じゃあ国立図書館来てください。俺、見つけたんすよっ、亜土村のルーツ』
「ええっ」
 思わず大きい声が出て、慌てて周囲を見渡して縮こまった。あれから引き続き探してたのか。というか国立図書館って。今では絶滅しかけている、貴重な紙の資料を保管している施設だ。
 ならば路線ごと変えなくては、と特に用もなく研究室に行こうとしていた脳を切り替え、さっと踵を返して階段に足を掛けた。



「来た来た。お疲れっす」
 壁一面、天井まで埋まる本棚がぐるりと備え付けられている。安達は初めて見る大量の本に気後れしたが、聞き覚えのある声に吹き抜けから下を見ると、大型の作業机から田辺が手を振っていた。
「言ってなかったんすけど、亜土村ってかなり閉鎖的な村で。だからデータベース検索しても情報がほぼ引っかからなかったんです。だから紙資料ならあるんじゃないかって思ったら、ほら、ビンゴっす」
 軋むはしごを降りて何とか田辺のところまでたどり着くと、彼はすでに机を縦断するほど大判の資料を広げていた。題は掠れているが、かろうじて『亜土村役場帳簿』と読める。
「結構、いろんなこと分かって」と声を上擦らせる田辺に、「お前ずっと探してたのか?」と問えばあっさりと頷かれた。呆れを通り越して感心する。高校は大丈夫なのだろうか。
「まず、亜土村って結構最近できた村なんですよ」
「へえ?」
 安達は眉を上げる。意外だ。
「村ができるまでは?」
「異民族だったんすよ!」
 安達がぽかんと口を開けているのに気づき、田辺は「当時、戸籍を持たない異民族が神奈川にいて、それが亜土村の原点になったことまでは、間違いないみたいで」と補足した。
「じゃあどうやって戸籍を手に入たかって言うと、『侵略大災害』のときじゃないかって。ほらこれ、帳簿が始まってるの、震災のあった年でしょ。俺が思うに、亜土村は震災のうやむやで戸籍を獲得したんじゃないですかね」
 安達は口に当てた手の隙間から、呻きともつかない声を出した。震災の影響で日本政府の国民管理システムに一部復旧不可能なエラーが発生したことは、社会常識である。当時の政府はひどくアナログな方法だが、仕方なく戸籍を再収集した。そのどさくさに紛れて戸籍を手に入れたというのか。突拍子もない話だけど、と安達は渋い顔になる。
「その流れだと、結局亜土民族は、侵略宇宙人の残党ってことにならないか?」
 それまで流暢に喋っていた田辺は、途端に口をへの字に曲げる。
「それはまた、別っすよ」
「仮に宇宙人じゃないにしても、じゃあどこから来たんだ? 離島とかならともかく、内陸にぽつんと、まるで流れ着いたみたいに
 言いつつ、安達は何かが頭の端に引っかかったような気がして口を閉じた。先輩? と田辺が首を傾げた時、ヴッと微振動がして安達の通話デバイスが起動した。
『私だ、姫野だ』といやに上機嫌な声がして、安達は眉根を寄せる。
『お前、今どこいる?』
「国立図書館に、あー、田辺といます」
「ちょうど良かった。スピーカーにしてくれ、先日の件で話があってな」
 言われた通り、骨伝導機能をオフにしてスピーカーにする。埃っぽい書庫には、自分たち以外誰もいないのだから構わないだろう。
『大発見だ』と声が熱を帯びる。安達は田辺と顔を見合わせて、「何がですか」と返した。
『未知の味覚、それが生じる原因が発覚したんだ』
「本当ですか!」
 田辺が食いついた。姫野教授は『ああ』と返すと、もったいぶるように溜めてから囁いた。
『時間遡行だ』
時間遡行?」
 田辺が呆然と呟く。全くもって想定していなかった言葉がうまく呑み込めずにいる間も、興奮した姫野教授の話は止まらない。
『味蕾が影響を受けるような遺伝子変容の問題、どこかで扱ったような気がしてな。ほら、私の専門って時空物理学だろ? 論文を漁ればビンゴだ。時間遡行により発生した異常磁場が根幹遺伝子を損傷・再構築する可能性は以前から指摘されていた。その理論値とお前の遺伝子スキャンの結果がほとんど一致したんだよ。私も周囲も、綺麗に検査結果が出なかったんだ。だから与太話だとすっかり忘れていたんだが。ほら、だわん汁飲んだ時も、私は味がちょっとしか認識できなかったろ。ああともかく、お前の持つ根幹遺伝子は、時間遡行の影響を受けたものだってわけだ。以上。じゃあな』
 パッと通話を切ろうとするので、安達は泡を食って「ちょっと待った!」と叫んだ。
『なんだ、私はこれを論文に起こすんだ。邪魔をするな』
「説明が足りなすぎます! 大体、姫野教授は時間遡行をしたんですか? まだ実用段階じゃありませんよね」
『馬鹿か。それを実用段階に持っていくために私たちが研究しているんだろうが。時間遡行の一度や二度、実験で行わなくてどうする』
 ぐうの音も出ない指摘に詰まったところ、田辺が身を乗り出すように言葉を重ねた。
「俺、時間遡行なんてしてないすよ!」
『根幹遺伝子の変容は遺伝する。お前の、いや、亜土村の祖先が時間遡行でもしたんじゃないか?』
 事も無げに言い放たれ、今度こそ安達たちは言葉を失うことになった。妨げるものが無くなった姫野教授は、浮かれた声で何かを喋りながらあっさり通話を終了した。
 亜土村の祖先が、未来からの時間遡行者集団だった?
 祖先なのに、未来人だということか?
 あり得るのだろうかと思いつつ、先ほどの「不意に日本内陸に現れた、戸籍を持たない亜土民族」の謎が解き明かされたような心地になって、安達は緩慢な動作で眉間を揉んだ。
「ああっ!」
 不意に田辺が大声を上げたので、安達はもう少しでひっくり返るところだった。跳ねる心臓を抑えて「なんだよ!」と振り向くのと、田辺がこちらに空中ディスプレイを突きつけるのはほとんど同時だった。
「こっ、こっ、これっ」
「『宇宙人狩り』の記事?」
「こいつらの『流刑』って、捉えた人たちを、安全性を度外視した不完全な時間遡行をさせる『時空流刑』だって噂、あるじゃないっすかっ。で、こいつ。こいつの写真が」
 言われてじわじわと思い出す。視界いっぱいに広がるのは、たしか友人に「田辺に似ている」と指摘された被害者の写真じゃないか。
 もしも。
 もしもこれが、他人の空似でないのなら。
 合うはずのない辻褄が、理解を追い越した先で合ってしまっている感覚に身震いする。
 田辺は指先でそっと資料に触れ、顔を固くしていたが、やがて古い木製の椅子にゆっくりと腰かけた。ギ、と音がする。
「なんか、ヤバいっすね
 呆然とした心地は抜けず、しかし微かに気の抜けた笑いを含んだ田辺の言葉に、第一声がそれかよ、と思わず口元が緩む。
「なんだよ、満足したか?」
「今思うと、俺、『宇宙人狩り』に狙われかけたことよりも、俺には当たり前だったゆがいって味が、ダチに伝わらなかったことの方が、辛かったんだって思うんです」
 田辺は机に広げた資料を横目にぼんやりと呟いた。この広大な書庫で、自身が数日かけて探し出した資料を。
「自分が好きな料理を振舞うって、なかなか愛じゃないすか。だからそれが受け取られなかったら、寂しいでしょ」
 書庫の薄暗い照明が、彼のまだ幼さを残す頬に影を落とす。その横顔が不意に、拗ねている子供のように見えて、そうだよな、と心の中で呟いた。こいつはまだ高校生なのだ。
「時間遡行は近いうちに一般化するだろ。みんな時間遡行したら、姫野教授みたいに、みんなゆがい味がわかるようになるって」
 新人類なんだよお前は、と言えば、田辺はこちらを見ないまま小さく噴き出した。
「新人類すか」
「そうだよ」
「ものは言い様っすね」
「なんだよ、合ってるだろ! 今の時代の人間が過去に戻って子孫を残したってことは、単純にその集団だけ家系図が長くなってるってことじゃねえか」
ん? そうなるのか?」
 腕を組んで考え始めてしまった田辺の背中を叩き、安達はさっと資料をまとめて書庫を出ようと促す。資料は借りてくかと目で問えば、田辺は逡巡した後、ゆっくりと首を振った。
 図書館はは随分涼しかったようで、退館した途端、カッと照り付ける太陽にげんなりしてしまった。
 「そうだ、これ」と、田辺は思い出したように、手のひらに乗る大きさの何かを渡してきた。
「これ、実家から送られてきてた亜土村特産のお菓子っす。ほほろ餅っていいます」
 見れば落雁のような見た目で、しかし周囲が赤や紫などの奇妙な色の砂糖で縁どられていた。言葉を選ばずに言えば、毒々しい。
 安達はちょっと顔をしかめ、ほほろ餅とやらを見、田辺の期待のこもった眼差しを見、またほほろ餅に視線を戻すと、観念して口に放り込んだ。
 安達は、目を閉じてほほろ餅をしっかりと咀嚼し、飲み込んだ。照り付ける陽の下、しばし腕を組んで黙り込んでいたが、やがてふっと顔を上げた。
「味は、しない」
 田辺は何か言いかけたが、安達は手で待ったをかける。
でも、前から言おうと思ってたんだけど。なんでこんなに彩りのセンスがないんだ?」
 先輩! と田辺は尖った声を上げる。しかしその声に含んだ笑いはどうしても抑えきれてはいなかった。
 これも立派な感想だ。たとえゆがいという味覚が理解できなかろうが、未知の食材が使われていようが、料理に向き合うことくらい誰でもできる。料理と、料理を振舞ってくれた人の気持ちに向き合うことくらいは。
 食べ物は生命力の源であり、料理は触れられるほどくっきりとした思い出の形、味覚は人間を人間たらしめる。
 あのとき、だわん汁を残してしまって申し訳なかった。安達がスプーンを置いた深皿を抱えて、一人で飲み進める田辺の姿が、無性に忘れられなかったから。
 だからこそ安達は、今度こそ「ごちそうさま」と笑ったのだった。

【おわり】