【佳作】卵をもらいに(著:西松洋子)

「卵、要りますか?」
今日が最終出勤日の、つまりは今日を最後に二度と会わない人であるところの萩原さんの、次の引っ越し先はカナダだという噂だった。移民の国。雪のあるところ。ケベックはフランス語圏。メープルシロップ。昼休みにパントリーに集まったスタッフたちは遠い北米の国について思いつくことを片っ端から並べてみて、その発想の乏しさを笑い合い、次の場所でも頑張ってほしいね、彼女ならきっとどこでだって大丈夫だろうけど、などと口々に言い合って、同じような内容を大きなカードにいろいろな色と筆致と言語で書きつけていた。英語。タガログ語。日本語。頑張れ萩原さん、カナダでも元気で!
営業チームの萩原さんは人当たりがよく、かといって摑み所もない、飄々とした雰囲気の人だった。万事そつがないから、かえって何を考えているのかよくわからない。おはようございます、お疲れさま、いま外大雨ですよ、ええいやだなあ、これから外回りなのに。そういう他愛もないやり取りはこの一年間で何度もしたことがあって、でも私は彼女の好物も、これからカナダでどんな仕事をするのかも、何も知らない。
萩原さんはデスクに並べた筆記用具を選り分ける手を止めてこちらに顔を向け、今しがたしたばかりの質問を、言葉を換えて繰り返した。
「神崎さんって、卵食べる人ですか?」
萩原さんが自宅で使っていた電子レンジは先週のうちに人事チームの田原さんのものになり、掃除機はおとといジョアンさんのものになった。炊飯器はプライベートの友達にあげると前々から決まっていたらしく、狙っていたスタッフはずいぶん悔しがったと聞く。駐在員が帰国するときはいつもこうだ。家電や土地柄手に入れにくい貴重な品々は、残される者たちに惜しみなく分け与えられる。PCモニター、スチームアイロン、切れ味のいいピーラー、菜箸、お茶碗、子供にも使える刺激の少ない虫除けスプレー。柔らかいタオル、胃腸薬、無臭の柔軟剤、生理用品、使いかけの硬水用シャンプー、チューブわさび、糠床、――卵?
この国でも卵は当たり前に食べられていて、ちっとも珍しい食材ではない。私の顔がよほどいぶかしげだったのか、萩原さんは「あの、大した卵じゃないですよ。普通のやつです」と慌てたように付け足した。
「食べ切れなかったんです、ほら、送別会とかがあって計算が狂って。あと四つもあるんですけど、捨てるのもなんかあれで」
「ああ、なるほど。いいですよ、貰います」
「よかった」
萩原さんはにこりと笑い、手に持っていたペン型の修正液をからからと鳴らした。
「今日、何時頃に帰りますか」
「七時くらいだと思います。萩原さんは?」
「実は、もう帰らないとまずいんです。明日の朝イチで引き払いなのに、荷造り、まだ全然終わってなくて。神崎さんのタイミングでいいんで、あとでうちまで取りに来てもらえますか」
「わかりました」
萩原さんは「よかった」ともう一度繰り返し、「修正液要ります? あんまり出ませんけど。まあ要らないか」と言って、持っていたそれを足もとのごみ箱にぽんと放り込んだ。
遅い時間に急ぎの伝票仕事が舞い込んだせいで、オフィスを出た時にはもう午後八時を回っていた。十一月とはいえ常夏の国だから、冷房の効いたビルを出るなり、湿り気と熱が肌にじわりとまとわりつく。私が赴任した頃、この国にはふたつの季節があると教えてくれたのは、私と同じ経理チームのレックス氏だった。知ってますよ、雨季と乾季でしょう? いえいえ違いますよ、『暑い季節』と『とても暑い季節』です。いつでも、そのどっちか。
日が暮れてもなお冷えない空気に満ちた暗がりの中、クリスマスを祝う電飾がそこここで瞬き、道に沿って走る川がそれを反射して怪しげにゆらめく。歩き慣れた道でも、気を付けなければ路面の小さな陥没にヒールをとられたり、大きな虫を踏んづけそうになったりする。
レットイットスノー、レットイットスノー、レットイットスノー。ふたつの季節しか知らないこの国にあっても、クリスマスソングは白くて寒い冬を歌う。
私の住んでいるコンドミニアムは、職場から歩いて十五分の距離にある。顔見知りの守衛に挨拶をしながらエントランスを通過し、年代物のエレベーターに乗り込んで、十二階にある自室に向かった。通勤鞄だけソファに放って廊下に取って返し、もう一度エレベーターに乗って二階下に降り、部屋番号を確かめてから、ボタンの固いドアチャイムを押す。
萩原さんが私を余った卵の譲り先として選んだ理由は、私たちが同じコンドミニアムに住んでいるからだ。あとから赴任してきた私がここと決めたところにたまたま彼女が先に住んでいて、たまたまほかの同僚がいなかった結果、私と彼女はふたりっきりのコンドミニアムメイトになった。とはいえそれはせいぜい、エレベーターの点検日を教え合ったり、イベント帰りのタクシーに同乗したりする程度の関係であって、つまり部屋を訪ねるのは今日が初めてだし、そしてもちろんこれが最後になるはずだった。
近づいてくる足音。回るドアノブ。この国のドアは内側に開く。
「いらっしゃい」
屈託のないいつもの笑顔を浮かべた萩原さんの背後が目に入って、私は文字どおり絶句した。嘘でしょう。
「ねー。まずいですよねえ」
職場では見たことのない、コミックタッチのビートルズの描かれたTシャツを着た萩原さんは多少ばつが悪そうにそう唸ってから、明日の朝鍵を返すとは到底思えないほど物のあふれた部屋の玄関で「まあどうぞ、上がって」と家主の顔で言った。
「神崎さん、もう夕飯食べました? パウンドケーキ食べません? 一緒に」
そのパウンドケーキが、掃除機をせしめたジョアンさんが絶対にアイコ(萩原さんの下の名前は、愛子という)に食べてほしいからとわざわざ地元で買ってきた、とっておきのバナナパウンドだと知っている私はうろたえたが、喉の奥で言葉を選んでいる間に茶色い焼き菓子はサクサクと切り分けられてしまった。
「あ、どこでも座ってくださいねえ」
『どこでも』と言われたって、丸テーブルのそばの椅子には本がうず高く積まれているし、一人がけのソファの上には大きなリュックサックがでんと置いてある。仕方なく、私は水色のベッドカバーのかかったシングルベッドの端にそうっと腰かけ、キッチンペーパーに包まれたパウンドケーキを一切れ受け取った。
「これは、その」
水をくれとなんとなく言い出せず、ぱさついたケーキを無理やり喉に押し込みながら聞く。
「進捗何パーセントくらいなんですかね」
「いやもう、ほんとに、これが、全然。サピンサピンも食べます? こういうのって手荷物で持ち込めるのかな」
パウンドケーキの切れ端を口に運びながら、もう一方の手で伝統的なお菓子の入った大きなタッパーウェアを掲げ、萩原さんは首をかしげた。きっとそれも、誰かにお餞別としてもらったのだろう。例の炊飯器をあげた友達かもしれない。
「プリンは液体扱いだから、機内持ち込みは駄目って聞いたことありますけど」
「サピンサピンは?」
「まあ、大丈夫なんじゃないですか。米粉ベースだし」
「スーツケースのほうにしようかなあ。でも、大きい荷物にこういうタイプの食べ物入れるのって怖くないですか? 漏れたりしそうで。ビニール袋に入れたらいいかな」
このペースで、ひとつひとつ吟味しながら、パッキングしていくつもりなのだろうか?
思わず壁に掛かった時計を見た。午後八時四十分。明日のフライトは日本航空便、出発は確か十時過ぎ。私が予約したからよく覚えている。つまり空港には朝八時には着かなければならず、距離と交通渋滞を加味すると、遅くとも七時にはこのコンドミニアムを出発しなければならない。その前に、不動産業者立ち会いのもとでの退去手続きだってあるはずだ。この国の賃貸物件は基本的に家具家電付きだから、ベッドだのテレビだの食器棚だのを撤去する手間はない代わり、それらの状態のチェックを受ける必要がある。それに、『いえ、その戸棚のちょうつがいは入居前から壊れてたんです、私のせいではありません』とかいう話もちゃんとしておかないとあとで敷金が――
ベランダに繋がる掃き出し窓のカーテンレールに引っかけられたピンチハンガーには、ハンカチとタオル、それに下着が何枚もぶら下がっている。洗濯したということは、つまり捨てていくわけではないのだろう。これからひとつひとつ外して、畳んで、しまうのだ。床では大型スーツケースがふたつ口を開けている。そして中身はほとんど入っていない。
――私の知っている営業チームの萩原愛子は、一度も伝票提出の締め切りを破らなかった、稀有なほどしっかりした同僚だったはずなのだけど。
「神崎さん、ワンピースって着ます?」
サピンサピンを結局どこにもしまわずに丸テーブルに戻しながら、萩原さんが唐突に聞いてきた。
「着ますよ。なんでですか」
『なんで今それを聞いたんですか』という意味の質問だったのだが、萩原さんは『なんで着ないかもしれないと思ったんですか』という意味だと受け取ったらしい。
「オフィスで見たことないなと思って。いつもパンツスタイルですよね」
「それは、あのビルの冷房がきついからです。休みの日はスカートとか穿きますよ」
「えー、そうなんだ。イメージない」
いやあ、あのね、全然着てないワンピースがあるんですけど、神崎さんに似合いそうだなと思って。要りません? バティックで、柄が可愛かったんでつい買っちゃって、でもちょっと私には長かったんですよねえ。萩原さんの楽しそうな声は、あまり耳に入らなかった。喋りながら彼女が開けたクローゼットの中に、彼女のワードローブがまだずらずらと掛かっていたからだ。明日以降もこのままこの部屋で暮らすとしか思えない、ごく自然な量と並び方で。
「萩原さん」
「はい」
「畳みましょうか、私。服とか、タオルとか」
「え、いいんですか」
萩原さんがあっさりと嬉しそうな顔をしたので、きっと断られると身構えていた私は拍子抜けした。営業チームの業務を常に俯瞰的に把握し、管理しつつ、決して必要以上に他者の領域に踏み込まなかったあの萩原愛子であれば、ちょっと微笑んで「こっちでやるだけやってみて、難しかったらご相談させてください」とかなんとか言うのではないかと思ったのだ。しかし実際の、ゆるいビートルズのTシャツを着た萩原愛子は、目をくるりと丸くして「やったあ!」と言っただけだった。
「じゃああの、ここの、ハンガーに掛かってるやつからお願いできますか。助かるなあ。ありがとうございます、本当に」
「萩原さんって、もっとちゃんとした人かと思ってました」
結局、私がその違和感をはっきりと口にしたのは、彼女のトップスを畳み、スカートを畳み、山のような蔵書を仕分け終わり、例のピンチハンガーのタオルと下着に取り掛かり始めたあたりだった。予想外の状況に呆然としていたのがだんだんと落ち着き、挨拶程度の付き合いの同僚の部屋に上がり込んで夜の十時に下着とタオルを畳んでいる状況の異常さがじわじわと意識に染みこんできたのだ。
萩原さんはけらけらと笑った。
「私は、神崎さんはもっと言葉を選んでくれる優しい人かと思ってましたけどねえ」
「選べる状況なら、選びますけどね」
「やんなってきちゃったなあ」
「やんなれる、立場じゃ、ないでしょ」
「ちょっと煙草吸ってきていいですか」
「駄目です」
「一本だけ」
こちらが答える前に、もうベランダに出ている。家主がさぼっている間に頑張るのも馬鹿らしいので、なんとなく後に続いた。エアコンの室外機の上にちょこんと白い灰皿が置いてあって、そこが彼女のいつもの喫煙スペースなのだとわかる。
煙草吸うんですね、と言おうとしてやめた。全然知りませんでした、意外ですねと言えるほど、もともと彼女のことを知らない。代わりに別のことを言った。
「この向きだと、オフィスが見えるんですね」
「そうそう。あれね」
手慣れたしぐさで煙草に火をつけ、唇の隙間から一息めを白く吐いてから、萩原さんは黒い箱にしか見えないビルを指さした。
「残業してる人がいると、わかりますよ、灯りで」
「残業の灯りを見ながら煙草吸ってるんですか? 趣味の悪い」
「いつもじゃないですよ。最近、減煙中だし」
「でも、たまには」
「見てます。悠々と」
萩原さんは舌を出した。
「神崎さんちはこっち向きじゃないんですか?」
「逆です。公園側」
「あーはいはい」
自然に沈黙が降りる。不思議と気まずくはなかった。少しだけ風があって気持ちがいい。帰り道では目線の高さにあったクリスマスの電飾は、十階の高さから見ると小さなおもちゃのようで可愛らしい。夜の街を走るドライバーたちが気軽に鳴らすクラクションはどこかリズミカルで、警告の怒鳴り声というよりは陽気なハミングに似ている。
ふと、先ほどから気になっていたことを聞いてみる気になった。
「建築の本が多かったですね。好きなんですか」
「あ、そうそう。私、もともとそれが専門なんで。建物というよりは、公園設計とか都市計画とか、そっちのほうなんですけど」
萩原さんはもう一口煙草を吸った。
「おかげさまでお金も貯まり、試験も受かりましたので、トロントでまた改めて勉強しようと思って。それで、このような運びに」
「――初めて聞きました」
「そういえば、この話、支店長にしかしてないかも」
「なんで教えてくれるんですか?」
萩原さんがふっと黙った。それで私にも、質問の意図が正しく彼女に伝わったということが分かった。つまり、私が聞きたかったのはこういうことだ――どうしてただのコンドミニアムメイトの、引っ越し先の国さえ直接は聞かされていなかったような私に、今日の今になって、急にそんなことを教えてくれたんですか?
萩原さんはしばらく黙ってすぱすぱと煙草を吸い進めてから、「なんだか、神崎さんと仲良くなりたくなっちゃって」と言った。
「面白い人だなあと思って」
「どこらへんが?」
「怒りながらパンツ畳んでたあたりですかね」
「ついさっきじゃないですか」
「そうですよ。神崎さんは私と仲良くなるの、嫌なんですか?」
今度は私が黙る番だった。手すりをつかんで下を見下ろす。電飾、テールライト、クラクション、真っ暗な川、近くの部屋から聞こえる笑い声。
このくすぐったくて浮かれていて、でもそれだけではない、どこかしんみりと重いような気もする、この国の十一月の夜のような気持ちを、どう言えばいいのだろう。
「――もう会えない人とわざわざ仲良くなるのって、むなしいというか、寂しくないですか」
萩原さんは声を上げて笑って、約束破りの二本目の煙草を銜えた。
「あーあ、ほんと、神崎さんがこんなに変な人なら、もっと早く友達になっとけばよかった」
「勿体なかったですね」
「ねー。ほんとにねえ」
年末にはね、花火が上がりますよ、あそこのモールの裏のところから、と、萩原さんは通りの向こうを指しながらのんびりと言った。わりとすごいんで、神崎さんも、ぜひ見てください。
「だから、私んちはこっち向きじゃないんですよ」
「あ、そっか」
「話を聞かない人だな」
「そうですよ。仲良くなってたら、イライラしたかも」
そうかもしれない。人間というものは多面的で複雑で、だからその人が本当はどんな人なのかということは、時間をかけなければわからない。でも明日には別々の国に別れてしまう私たちには、自分たちが友達としてやっていけたのかどうか、確かめる術がもはやない。
どうにか大型スーツケースひとつぶんの荷物を詰め終わり、ここまでくればもう大丈夫ですと萩原さんが胸を張ったのは、もうすぐ日付も変わろうという時間帯だった。
「半分終わりましたからね、神崎さんのおかげで。あとはなんとかなります、任せてください」
「本当ですか?」
「私、昔からラストスパートには定評があるんですよ。伝票の締め切りも破ったことないでしょ?」
はいと手渡された紙袋には、この部屋のそこかしこから出てきたいろいろなものが入っている。帰国する駐在員から残る者に送られる、いつもの品々。醤油の小瓶、れんげが二本、海に行くときのラッシュガードが上下一セット、文庫本が数冊、泥のフェイスパック。それに、彼女には少し長いバティックのワンピース。
「神崎さん、青い服けっこう多いし、きっと似合いますよ。着たら似合ったかどうか教えてください」
「やですよ、そんなの」
自分で『似合いました!』と伝えるのも恥ずかしいし、似合いませんでしたなんていう報告をわざわざするのもおかしい。私の愛想のない返事を聞いた神崎さんはニコニコして、「世界が狭いなんて言うつもりはありませんが、めぐり合わせというものはありますから」と言った。
「またどこかでうっかり、ってこともあるんじゃないですか? だから元気出してください」
こんなふうに一方的に慰めるようなことを言われるのも、こちらばかりが寂しがっているようでなんだか納得がいかない。私は今一度部屋を見回し、「こんなにまだ全然汚い部屋で、全部片付いたような顔で別れの挨拶なんてされても、雰囲気が出ません」と憎まれ口をたたいた。
「うーん、口が悪いなあ。そんな人でしたっけ?」
「私の何を知ってるんですか、今晩までほぼ他人だったのに」
「親切なくせに怒りっぽいということは、一晩でよくわかりました」
荻原さんが、ふと首をかしげた。
「今晩までってことは、私たち、今は何ですか?」
私は少し考え、「まだ他人です」と答えた。ここで『もう友達だよね』なんて言うのは、どうにも嘘くさいような気がしたからだ。
「もう、同僚でもコンドミニアムメイトでもなくなりますし。だから明日からも、引き続き他人です」
「いいじゃないですか」
萩原さんの声は軽やかだった。それはいかにも『もう友達ってことで』などと続きそうな調子で、でも、本当に続いた言葉はそうではなかった。
「恋人や友達だけが、人間関係じゃないでしょ」
「――他人も人間関係ですか?」
「そうですよ。私たち、お互いを全然知らなくて、そのわりにお互いを結構好きな、そういう他人になりましょうよ」
不思議な響きの言葉だった。まるで屁理屈のようなのに、なぜだか自然に聞こえた。私は眠気で霞のかかった頭の中で何度か今言われたことを繰り返し、転がしてみて、案外悪くないような気がするな、と思った。
「――はい。じゃあ、それで」
「はい、そういうことで」
玄関のドアを引いて開け、紙袋を抱えて廊下に出る。萩原さんはドアの隙間から顔を出して「それじゃあ、また、そのうち」と手を振り、ひょいと引っ込んだ。時間帯を気にしてか、丁寧にぱたんとドアが閉められて、それがどうやら私たちの、ごくごくあっさりとした今生の別れだった。
自分の部屋に戻り、紙袋から出したワンピースをクローゼットのハンガーにかけながら、なんだか変な夜だった、と私は思った。非現実的で、浮ついていて、むずむずとおかしくて、でもそれだけではない夜だった。きっと簡単には忘れないし、それはなんとなく向こうも同じなんじゃないかと思えるような、そういう夜だった。明るくて寂しくて、でも悪くはなかった。
翌朝目覚めて携帯を見ると、整然と片付けられた部屋の写真とともに、『終わりました!』というメッセージが届いていた。受信時刻は夜中の三時。どうやら、ラストスパートが得意だというのは本当だったらしい。
今の時間を確認すると、七時前だった。荻原さんはちゃんと眠れたのだろうか、もしくは、ちゃんと起きられたのだろうか。まあ、万一寝過ごしていたとしても、退去の手続きに来た不動産業者が起こしてくれただろう。せかせかと着替えて見送りに行くのもなんだか違う気がして、私は薄い布団をかぶり直した。始業は九時だから、あと一時間は眠れる。今日の業務は、昨日の退勤前に慌ててやっつけた伝票仕事のチェックから始めなくてはならない。集中力を取り戻すためにも、十分な睡眠は必要だ。
けだるく寝返りを打ったタイミングで、新しいメッセージの着信を知らせる音が鳴った。手探りでもう一度携帯を引き寄せる。通知をタップし、表示されたテキストを読んで、つい笑ってしまった。
『神崎さん。卵』
仕方がないので、ベッドから這い出た。
【おわり】