【最終選考作品】放課後ラジオ(著:塩治優花)


「みなさん、こんにちは。放課後ラジオのお時間でーす。パーソナリティは()()
「こんにちは。()()()です」
「いつもの二人でお送りしますよー。早速お便りを読んでいきましょう。ラジオネーム、もちもちいなり寿司さんからいただきました。『ひな先輩、りのん先輩、こんにちは。私は書道部に所属しているのですが』お、書道部って人数少ないけど大丈夫なのかな? 特定されちゃう気がするけど。『作品を書きながら、いつも楽しく聞いています。突然ですが、先輩たちにお願いがあります。体育のとき、男子は教室で、女子はその(となり)()き教室で着替えをしますよね。あれ、何とかなりませんか? 僕は早く着替え終わって、教室に入ってきた女子に、自分の下着やインナーを見られるのが(すご)く恥ずかしいです。女子でもないのに、情けないことだと思います。だからずっと()(まん)してきました。でもこの間、同じクラスの仲が良い男子も、嫌だって思ってるのを聞いたんです。だから、女子に着替えを見られたくない男子も、意外といるんじゃないかなって思いました。もし同志がいるなら、何とかならないかなって思ってメールしました。これからも頑張ってください。応援してます』はい、以上もちもちいなり寿司さんからでした」
「ありがとうございます」
「りのん先輩、これ凄く切実じゃないですか?」
「そうだね。女子が男子に着替え見られたくないのは当たり前だけど、逆は考えたことなかった」
「ねー、ホントにそう。もちもちいなり寿司さんは情けないって言ってたけど、全然そんなことないよね」
「うん、むしろ気付けなかった女子側の配慮不足だと思うし、こっちの方が情けないよ」
「んー、じゃあどうしましょ、これ。どうにかしたいけど、更衣室があるわけじゃないし
「一旦、生徒会で持ち帰って話し合ってみる。そうだな、私が今思いついたのは、場所は変えずに時間制限をするとか」
「着替える時間を決めるんですか?」
「そうだね。この時間までは絶対部屋に(かぎ)をかけて、女子が入ってこないようにする、とか」
「あ、それいい! さっすが生徒会長!」
「でも、一番は教室以外の安全な着替え場所を確保できるのがいいと思うんだよね。そこらへんは先生とも相談って感じかな」
「そうですよねえ。それは早急に話し合ってもらうとして、それまではこれを聞いてる女子諸君! 男子が着替えてる間は、教室に入らないようにしよう!」
「そうしましょう」
「それでは次のお便りを読んでいきますよー。ラジオネーム、たわし大臣さんからいただきました
 もう冷たくなってしまったホットコーヒーを飲む。放課後の職員室はまばらで、部活に出ている先生も多かった。このラジオを真剣に聞いているのは俺くらいなものだ。
「放課後ラジオ」を承認するために、かなりの労力を使った。「そんなことをして一体なんのためになるのか」とか「(いな)()先生は女子生徒に甘いですね」とかなんとか言われた。当たり前だが、彼女たちが「彼ら」であっても同様の判断をしたと思う。
 他校と同じように、この高校にも様々な制約があって、昭和の遺物のように思える意味のないもので(あふ)れかえっていた。気休め程度に設置されている目安箱は(ほこり)(かぶ)っていたし、そもそも誰も変えようとはしなかった。みんな、目まぐるしい今日という日を過ごすのに必死だったのだ。俺だって人のことは言えない。
 そんなとき先陣を切ったのは生徒会長に就任したばかりの(いわ)(むら)りのんである。彼女は受験勉強で忙しい中、誰も読んだことがない生徒指導規程(つまり校則のことだ)を熟読し、赤を入れ校長に直談判した。校長は保守的な人間で「君一人のために校則を変えろというのか」と彼女の意見を切り捨てた。それであればと彼女が考えたのがこの「放課後ラジオ」である。校内放送を通せば、生徒たちの意見は可視化することができ、また教師たちも聞いているのだから行動せざるを得ない。多くの人を巻き込んだ、壮大な計画である。
 しかし、彼女には()(ねん)(てん)が一つあった。「自分が発信することに、みんなが興味を持って聞いてくれるのだろうか」と。岩村は(そう)(めい)で周りからの信頼も厚いし、演説スピーチも見事なものだった。けれども「ラジオパーソナリティ」としては全くの素人(しろうと)であり、またどのようにして勉強して良いかもわからない。
 そんなとき彼女に近づいてきたのは二年生の(まつ)(おか)ひなである。彼女は生徒会に入っているわけでもないし、特別目立つ生徒ではなかった。けれど大きな特徴がある。その可愛(かわい)らしい声と、先輩にも屈しないモノをズケズケと言うはっきりとした性格だった。松岡はどこからか「放課後ラジオ」の(うわさ)を聞きつけてきて、岩村とアポイントを取った。その声と性格を存分に岩村へとアピールし、極めつけには「私、実は配信者なんです」と決め台詞(ぜりふ)を吐いた。これには俺も岩村も驚いたものだが、岩村にとってはこれが採用の決め手であった。実際、「真面目(まじめ)な先輩」と「可愛くてちょっと生意気な後輩」というコンビの組み合わせは生徒のウケも良く、評判は良かった。
 しかしながらやはり、教師たちには誤解も多いようで生徒会担当の俺に文句を言ってくる人もいた。その度に「もう少し様子を見てもらえませんか」としか言えない自分に腹が立った。

「はい、ということで先輩、今日はもうすっごいお便りが届いてるんですよ」
「すっごい、とは?」
「先生に物申す、お怒りメールです」
一旦、聞いてみましょうか」
「はいはーい。えーと、ラジオネームは(とく)(めい)()(ぼう)さんです。『こんにちは。私は一年生です。この学校に入りたくて入りたくて、猛勉強しました。だから、合格したときはすっごく嬉しかったです。でも今では、もう入らなきゃ良かったとか、他の学校に行きたいとか、そんなことを考えるようになりました』あらら、凄い()(おん)な空気。『生徒会長が私たち生徒のためを思って色々してくれてるのはわかります。けど、やっぱり古すぎますこの学校。特に一番嫌なのは、服装指導です。あれ、何とかなりませんか? 私、この間男の先生に「下着の色は何か」って聞かれたんですよ。ええって思って。それセクハラじゃんってみんな(かば)ってくれました。けど先生は「校則で白と黒って決まってる」っていうんです。それに、白シャツに()けないようにしろって。え、そんなの知らない無理じゃんってなったけど、実際生徒手帳に書いてあったから、え、じゃあ悪いのはあの先生じゃなくて校則守んなかった私なんだって思って。でも、やっぱり納得できません。どうして下着の色を指定されないといけないんですか? それに白シャツに下着が透けないようにするんだったら、せめてベージュの下着をオッケーにしてください。りのん先輩、ひな先輩、同じ女子としてこの校則、どう思いますか?』はい、お便りありがとね」
「これは、そうね。同じ女子としてどう思うかって話だけど、本当におかしいルールだと思うよ」
「別に、下着の色なんて何でもいいですよねー」
「うん。私もそう思って、校長先生に直談判したことがあるの」
「え、そうなんだ。すご。で、どーだったんですか?」
「結論から言うと、ダメだった。「そんなことも守れないようじゃ、社会のルールに飲まれますよ」って言われた」
「え、なにそれ、ひどっ。あ、やばこれ校長聞いてるかな?」
「うん、私も(ひど)いと思う。しかもこの校則、この学校ができた当初から変わってないんだよね、一度も」
「それってどんだけ昔!?」
「でも先生たちはみんな、決まりだからって変えようとしない。昔と今は、何もかもが違うのに」
 彼女たちの言い分は正しい。正しくて(まぶ)しかった。採点をしていた数学の()(ぶち)先生が手を止めて、鼻で笑う。
「めんどくせえなあ。そんなの上手(うま)くやりゃあいいじゃねえか。服装指導の日は指定の下着を着て、それ以外の日は好きなの着ればよ」
「な、そう思うだろ?」と急に矛先が自分に向いて、(あい)(まい)(うなず)く。田淵先生の言っていることもわかる。つまり、(よう)(りょう)が悪いと言いたいのだ。
 教師たちが岩村に不満を持っているのは、要は自分の仕事を増やしたくないというのが根本的原因にあって、それが解決しない限り彼女たちを「めんどくせえ」と思うだろうし、仕事を増やさないような「要領のいい生徒」に育てたいのだ。特に田淵先生なんかは、美術部と卓球部の顧問を兼任していて、今年は学年主任も受け持っていた。生徒からしたら「どうして先生たちは私たちをもっと大切にしてくれないんだろう」と思っているだろうし、忙しい先生たちからしたら「どうして余計な仕事を増やすんだろう」と思っているに違いない。
 どちらの言い分も痛いくらいにわかる。けれどもやっぱり教育者としては、生徒の気持ちを()んでやりたい。だって、先生たちだってみんな、昔はそうだったじゃないか。学校という場所が好きだから教師になったのだろう? それとも、学校が嫌いだったから「この俺が革命を起こしてやる!」と考えて教師を目指したのだろうか。まあ、どちらでも同じことだ。なぜなら、生徒のためを思って教師を始めたことには変わりない。どうしてみんな、その原点を忘れてしまうんだろう。
「あとね、今日はもう一通読んでいきます。ラジオネーム、()(なか)(はな)()さんからいただきました。『こんにちは。いつも教室に残って勉強しながら放送を聞いています。多分、読まれることはないと思うのですがやっぱり書きました。実は、一つ悩んでいることがあります』」

 読まれた! 誰もいない教室で一人、ガッツポーズをする。瞬間、ユニホーム姿の(はん)()くんがいきなり扉を開けて目が合った。
邪魔した?」
「う、ううん! ごめん!」
「なんで謝るんだよ」
 半田くんが笑う。坊主だから目じりの(しわ)までよく見えた。
 彼が視界の(はし)で、引き出しをゴソゴソと探っているのが見える。その間にも、ラジオは続いた。
「『女子のみなさんには、知らない人はいないと思います。実は、この学校には裏校則というものが存在するんです』」
「知ってる?」
 半田君がいつの間にかこちらを見ていて、黒板の上のスピーカー部分を指さしながら聞いた。
「えっ」
「裏校則。知ってた?」
 ああ、そっちか。お便りを送ったのがバレたのかと思った。別に、ヘンな内容を送ったわけじゃないから堂々としていればいいんだけど。
「知ってるよ」となるべく自然になるように、メガネを指で押し上げながら言う。
「『具体的に、一、二年は可愛(かわい)いヘアゴムを付けちゃいけないとか、スクバにストラップを付けちゃいけないとか、色々あります。一番嫌なのは(くつ)(した)の色です。校則では、黒か白の靴下が指定されてますよね。でも裏校則では、一、二年は白しか()いちゃいけないんです』」
「え、何でなん」
 半田くんは探し物が終わったのか、()()に座ってラジオを聞いていた。私は勝手に心臓がバクバク言っているのを感じる。男子と、しかも野球部のエースの半田くんとまともに(しゃべ)ったことは一度もなかったからだ。
「何で履いちゃいけないの?」
「えっと決まりっていうか目立っちゃうっていうか先輩に呼び出されることもあるみたいで
「えー、そうなん。全然知らんかった。だから女子みんな白履くんだ」
「うん
「男子は全然黒とか、なんならロゴ入ってるやつとか履いてるやついるけどな。俺なんて部活ですぐ汚れるからなるべく黒履きなさいって母さんに言われるし」
 知ってるよ、そんなの。
 この裏校則は、あくまで女子だけに適応されるものだった。上級生にはちょっと怖い、なんちゃってヤンキーみたいな見た目が派手な先輩がいて、そういう人に目を付けられなくないからみんな白い靴下を履く。実際、「目を付けられる」ってことがどういうことかはわからない。漫画みたいにパンを買ってこいとか言われたりするんだろうか。
「なあ、やっぱり黒履きたいもんなん?」
 そう聞かれると、どうなのだろう。別におしゃれをしに学校に来てるわけじゃないから、靴下の色なんて白でも黒でも何でもいいのだ。けれど、入学前にお母さんが買ってくれた猫の()(しゅう)のワンポイントが入っている黒い靴下をタンスの奥底に()()ってあるのは、何だか申し訳ない気持ちがした。
 私がこのお便りを送ったのは、別に黒い靴下を履きたいんじゃなくて、あの先輩たちならこの学校を変えてくれるんじゃないかと思ったからだ。何だか面倒で誰のためにあるのかよくわからない決まり事を、りのん先輩とひな先輩なら取っ払ってくれるんじゃないかって、そう期待したのだ。
「一回履いてみたら? そんで(なる)()さんがなんか先輩に言われたら、俺怒ってやるよ。部活のデッカイ先輩何人も連れていくし」
名前、知ってたんだ」
「え、なんの」
「私の」
「そりゃ知ってるでしょ。もう半年も同じクラスなんだから」
「てかそこ?」と、ケタケタ笑った。裏校則が無くならなくても、案外頼りになる人は近くにいるのかもしれないと、このとき初めて思った。私は小さく「ありがとう」と彼に言った。

「りのん先輩、最近の生徒会はどうですか?」
「うん、今会議をして、要望書をまとめているところ」
「それってこの間の、服装指導とか裏校則の件で?」
「そうだね。最終的には先生たちに要望書をまとめて、それから先生たちの間で会議が開かれる流れかな。だからみんなにはもう少し待ってもらうことになると思う」
 みんな、バカだ。生徒会も先生も、世の中の大人たちや政治家、親だってそうだ。みんなみんなバカだ。結局、世界なんて変わっちゃいない。みんな自分が一番可愛くて、面倒事を避けている。
 思わず耳を(ふさ)いだ。ラジオを切りたいけれど、保健室には他にも生徒がいて、その人に何か言われるのが怖いから言えない。
 今日も結局、放課後になってしまった。多分、本気で教室に行こうという気持ちがないんだと思う。だって教科書も持ってきていないし、宿題もやってきていない。一日休んでしまうと次の日何をやるかわからないし、それを教えてくれる友達もいなかった。だからもう、学校に行けなくなってから気付けば一か月が過ぎようとしていた。僕のことはみんな、不登校の可哀(かわい)(そう)な子だと思っているのだろう。
 服装がどうとか、裏校則がどうとか、僕には全然関係のないことだ。それは幸せな悩みだと思う。僕だってバレなければ、教室に行けるにはどうしたらいいですか、って質問したい。どうせ答えられないだろ、頭のいい生徒会長でも。「革命の女神」とかなんとか言われてるけど、僕にとっての女神は家で()っている柴犬の()()()だけだ。
「さあ、今日もどんどん読んでいきますよ~。ラジオネーム、海が好きさんからいただきました。『りのんちゃん、ひなちゃん、こんにちは。私にはある悩みがあります。みんなみたいに校則とかルールの話とかじゃないから、すごく個人的な話になって申し訳ないです。だから、読まなくても大丈夫です』」
 お便りが読まれ始めると「あっ!」という声がカーテン越しに聞こえた。もう一つのベッドを朝から占領している、か細い男の人の声だった。
「あすまん。うるさくして」
「いえ別に」
」「」その人はそれだけ言うと、また黙ってラジオを聞いた。
「『私は授業中、先生に当てられるのが嫌です。出席番号とか、日付とか、そういうので指名されることってあるじゃないですか。でも指名されるかもって思うと、緊張して、授業に集中できないんです』」
 わかる。とてもわかる。僕は今一番前の席だし、よく先生に指名されて練習問題の答えを黒板に書くなんてことは一日に一回以上は必ずあった。
 でも、それって変だと思う。自信がある人が手を挙げて答えるほうがよっぽどいい。僕はノートを写したり、先生が言っていることを理解したりするので精いっぱいだった。だから自分が当てられるかもしれないという緊張感と、間違えた答えを言ってしまうかもしれないという恐怖感を味わいながら受ける授業はとても楽しいものとは言えなかった。
はい、海が好きさんからいただいたお便りでした。私、これ、めっちゃ気持ちわかるなあ」
「そうなの?」
「はい、だってヤですもん。なんか、試されてる感じがするし。間違った答え言って、みんなから注目されるのだってヤだ」
「そうかなあ。そんな人いないと思うよ」
「それはりのん先輩が万が一間違えても、誰も笑えないよ。キャラ的に」
「キャラって何?」
「もー、だからあ
 何だか()(おん)な空気になってきた。先輩たちは(すご)い。先生だってこのラジオを聞いてるだろうに、(けん)()を始めちゃうなんて。僕だったら猫を(かぶ)って、へらへらと笑っちゃったりなんかするだけの、つまらない放送になるだろう。
なんか、喧嘩始まったね」
 カーテンの向こうからまた声がした。
ですね」
あのさ、笑わないで聞いて欲しいんだけど」
「はい?」
「今のやつ、俺が送ったんだ」
 最初は僕のことをからかっているのかと思ったけど、どうやら本当らしい。お便りは「私」と言っていたし、口調も女の子みたいだから完全に男子だと思っていた。
「あなたが?」
「そう。俺さあ、勉強苦手なんだよ。でも頑張りたくて。来年受験だしさ」
「あ、三年生の方ですか」
「そう。んで、授業に出てみたはいいものの、教師が俺にばっかり当てるわけ。多分、バカだから俺。指名して()さ晴らししてんだと思う、アイツら」
「そんな
「だって、そう言われたんだよ。ちゃんと勉強しろよって。したいし、やる気あんのに、こっちは。でも周りは笑わねーよ? あいつらより大人だからな。そんで、もうめんどくせーってなって、サボってる」
「そんなのもったいないですよ!」
 思わず大きな声が出る。だって、そうじゃないか! それは(ぜい)(たく)な悩みだ。僕だって勉強したい。いや、別に勉強は好きじゃないけど、みんなと同じことがしたい。でもこの人は、僕とは違って教室に行くことができる。しかも、答えを間違えても笑われない恵まれた環境にいる。確かに教師は(ひど)いとは思うけど、そんなことでやる気がなくなるとか、バカみたい。
「もったいない? 何が?」
「いやその、せっかく勉強したいなら、そんな教師に負けないで、もっと自分で自習したらいいかと
「自習?」
「はい、あの、あなたの言い分だと、先生たちはあなたが答えられないと思ってわざと指名してくるってことですよね?」
「そうだけど」
「なら、毎回正確な答えを言えるように、家で勉強したらいいんじゃないでしょうか? そんなやつらのためにやる気がなくなるなんて、もったいないですよ」
 沈黙があった。ラジオの二人はもう次のお便りを読んでいて、喧嘩は収まっていた。
「あなんかすみません。出しゃばって」
「いや、そうだな。確かに。アンタの言う通りだ。いやあ俺、その発想はなかったわ。家で勉強したことないからよ」
「えっ、そんな人いるんですか?」
「うちは下に三人チビがいるから、自習とか勉強とかできる環境じゃねえんだよ。それに、親が飲んだくれだから(から)んできてうぜーし。だから教室で授業受ければ、勝手に成績が上がるもんだと思ってた。そうか、そうだよな。別に学校以外で勉強なんて、いくらでもできるわな」
 自分を恥じた。さっきのことは訂正する。全然、贅沢な悩みなんかじゃなかった。この人にとっての家が、僕にとっての教室だったんだ。だから、全然贅沢な悩みなんかじゃなかった。
「サンキュー。話聞いてくれて。お前、頭いいんだな」
「いや、そんなことは
 衣擦れの音が聞こえる。先輩がベッドから出たようだ。
「なあ、顔、見てもいいか」
「えっ!」
「あ、いや、嫌ならいいけど」
「えっとはい、わかりました。ちょっと待ってください」
 本当は少しだけ迷った。けれど、先輩がどんな顔をしているのか興味があって、また(しゃべ)ってみたいと思ったのだ。
 掛け布団をめくって、(うわ)()きを()いた。カーテンに触れる。開けようと思っても、手が震えて動けない。でも、向こう側には一人だ。こんなところで(つまず)いていたら、教室なんて一生行けない。もうどうにでもなれ! 僕はカーテンを勢いよく開けた。
 そこに立っていたのはプロレスラーみたいな体格のいい男で、耳にはピアスがいくつも開いていた。髪も信号みたいに青い。()(ぜん)として、口を開けた。いやいや、その体にそのか細い声は反則だろ。
「おー、ちっせえな。一年か」
「はい
「どこが悪いんだよ。腹でも痛いのか」
「はい
「何だよ急に。さっきまであんな(じょう)(ぜつ)だったじゃねえか」
「はい
 先輩が舌打ちする。僕はますます体が動かなくなった。
「ま、とにかくありがとよ。んじゃ」
 先輩が背を向け、出ていこうとする。その背中に「あの!」と声をかけたのはどうしてだろうか。
「なんだ?」
「あのあの、あのまた来ますか、ここに」
「いや、もう来ねえよ」
「そうですか
「その代わり、お前が俺の教室に来い」
「え、でも
「三年三組。約束だぞ」
 先輩の銀色のピアスが、きらりと光った。

 ヘッドホンを取り外すと、耳が圧迫されていたことに気付く。ひなちゃんの耳も真っ赤になっている。
「ああ、お腹すいた。先輩、何か食べていきましょうよ」
「ひなちゃんは可愛(かわい)いね。とても可愛い声してる」
「えっ、ちょ、何ですか急に」
「本当にありがとう、一緒にラジオしてくれて」
「もう、何ですか急に。照れちゃいますよ」
「私の可愛くない声と性格だけだったら、こんなに聞いてくれる人はいなかったと思う。本当にありがとう」
 彼女をラジオに誘ったのは、たまたま彼女の声が魅力的で、たまたま彼女が帰宅部で、たまたま私が、彼女の声をすれ違いざまに聞いたからだった。彼女の声が耳に届いた途端、確信した。ああこれから本当に、学校を変えることができるかもしれないと。
「私、先輩の声好きですけどね。ハスキーで落ち着いてて。それに、真面目(まじめ)な性格も(うらや)ましいです」
「そんなこと」「ありますよ!」ひなちゃんがいたずらっ子みたいに笑った。
「先輩、そんなに背負いすぎないでくださいね、色々」
「え
「もし先輩が、学校を変えられなかったとしても」
「ちょっと」
もし、何も良くならなかったとしても、私がいますから。私が会長の意志を継ぎます」
「それって
 ひなちゃんはいつにもなく真剣だった。放送室には私たちの(いき)(づか)いだけが聞こえている。
「だから、一人であんまり背負いすぎないでくださいね」
 まだ任期は半年もあると言うのに、肩の荷が下りた気がした。彼女は声だけじゃない。彼女自身に、誰よりも私が一番救われていた。自分はなんてラッキーなんだろう。周りは私を「革命の女神」だなんて(はや)し立てるけど、私にとっての女神はひなちゃんだけだ。みんなを助けるいい子ちゃんのフリをして、自分が救われていることは内緒にしておくことにする。

【おわり】