【最終選考作品】堀内くんは嘘をつかない(著:藤城柚子)
堀内くんは嘘がつけない。
天真爛漫とか、歯に衣着せぬとか、そういうタイプの人種じゃないのに、だ。
「おい、堀内! クロワッサンの成形まだ終わんないのか!?」
「えっ、あっ、あのすみません、まだ全然終わってません!」
きっと私なら、「もうちょっとで終わります」を最善の答えとして選ぶ。進捗がどうであろうと。
だけど堀内くんはそうじゃない。
「えっ、あっ」のあいだで空気を読もうとはしてるらしい──と、最近になって気が付いた。でも読み切れず、ありのままを伝えてしまう。あとで怒られるくらいなら、今、謝ってしまおうという思惑もあるかもしれない。どちらにしても、行き過ぎた正直者だ。
店長の怒声が響くなか、私は社員やパートさんに挨拶を済ませる。製造の人たちはみんなマスクをしているけれど、目元だけで感情は読み取れる。正社員なのにいつも怒られている堀内くんへの呆れや、笑いをこらえる気配がそこには漂っていた。
厨房をぐるりと一周して戻ってくると、堀内くんのなで肩がより深く沈んでいる。それを見送って売り場へと向かうまでが、出勤時のルーティンだった。
そのうち、他人事のように眺めていた堀内くんのなで肩と、本当に無関係になる日が来た。
契約更新のタイミングで他店舗へ派遣される──派遣社員にはよくある話だ。
「高木ちゃんがいなくなるなんて寂しい」
勤務の最終日には送別会が開かれた。派遣のためにそんなことをしてくれる職場は初めてだったから、もしかしたら本当にそう思ってくれているのかもしれない、と私も寂しそうな笑顔を作った。みんなが解散する前の、駅のロータリーでのことだ。
最後のとき、しんみりする空気を振り払うように誰もがこう口にする。
元気でね。また遊びに来てね。また会おうね。
今回は、田村さんが最初に言った。
新人の教育を任されているパートさんで、派遣されたばかりの私にも丁寧に仕事を教えてくれた人だ。年のせいもあって、お母さんに近い存在だと勝手に思っていた。
田村さんに続くように、他の人も別れを惜しんでくれる。
それが私にはいつもしんどい。相手がどんなに良い人でも。薄情だとわかっていても。
別れ方の正解がわからないのだ。
プレゼントや寄せ書きの入った紙袋はずっしりと重かった。指が限界を迎えかけたとき、それまで黙っていた堀内くんが突然、言った。
「た、高木さん、もう会うことはないと思いますけど、お、お元気で!」
その場にいた全員の視線が、堀内くんを鋭く射抜く。
パートさんたちが、「堀内くん、なんでそんな寂しいこと言うの!」と叱っている。
私はぷっと吹き出して、酔った勢いに身を委ねることにした。
「はい。みなさん、今までありがとうございました。お元気で!」
堀内くんに便乗したフリで、そのままタクシーに乗り込む。
こういう別れのほうがずっといい。
騒がしい駅前から遠ざかるにつれて、やっと深い息を吐くことができた。
一人暮らしの玄関先で、ぼとりと荷物を手放す。倒れた紙袋から、寄せ書きの文字が少しだけ見えてしまう。
感謝の言葉、哀愁の言葉、激励の言葉。
どこまでが本当で、どこまでが建前?
文章の長さと別れを惜しむ気持ちは比例しないのに、世の中はどうも勘違いをしている。
それでも、私はひとりひとりにお礼のメッセージを送った。寄せ書きに返事をするように、書いてくれた人の顔を思い浮かべながら。
指の動きだけで作られる、当たり障りのない感謝。
私自身が、嫌いな建前に生かされているのだ。飲みすぎたせいか、頭がズキズキ痛む。
順々にお礼の言葉を送信し、最後のひとりになったとき、ふと手が止まった。
堀内くんの寄せ書きをじっと眺める。揺れる線や、バランスの悪い字画が、彼の雰囲気そのものだった。
「あまりお話する機会はありませんでしたが、高木さんはいつもテキパキと仕事ができてすごいなと思ってました。お元気で。堀内光一」
堀内くんは、私が仕事しているところを見たことがあるのだろうか。ていうか、光一って名前だったんだ。
どうメッセージを送ればいいか、悩んでいる指が動かない。適当でいいのに、適当がわからない。
「もう会うことはないと思いますけど」
堀内くんの声が何度もリピートされる。
なんで。
なんでそんなにハッキリと言えるの。
なんで私は本当のことを言われて悔しいの。
書きなぐるように文字を打ち込んで、送信ボタンを押す。
そうしてやっと、堀内くんの呪いみたいな声が鳴りやんだ。
待ち合わせをしていた居酒屋に、彼は二十分遅れでやってきた。
「高木さん、お、遅れてすみません」
「大丈夫です。先に一杯飲んじゃいましたけど」
私は空になったジョッキを持ち上げ、笑ってみせた。半個室の向かいに、息を荒くした堀内くんがおずおずと腰をかける。
「最後になりませんでしたね」
「えっ?」
「『もう会うことはない』って堀内さん言いましたけど、そうなりませんでしたね。あ、ビールでいいですか?」
堀内くんは怯えたように頷いた。
最後になるはずだったあの日。私はお礼の文章もそこそこに、彼を飲みに誘った。理由は自分でもわからない。反抗心。好奇心。似ているようで、どれとも違う。
挨拶を交わす程度の相手から「飲みに行きませんか?」なんて、彼はどんなふうに思っただろうか。
「残業してたんですか?」
製造の仕事は恐ろしく朝が早い。始発なんて当たり前。そのぶん早く帰れるはずだけど、「定時なら」という条件付きだ。
「あ、はい。今日もけっこうミスしちゃって……遅れてすみませんでした」
「全然。来てくれてありがとうございます。はい、乾杯しましょ。かんぱーい」
ごつん、と薄黄色の海に白い波が揺れる。
「堀内さん、なんで誘われたのか、不思議に思ってるでしょう」
「あ、は、はい」
「ですよね。『高木さん、僕に気があるのかも』なんて、ちょっとは考えました?」
「えっ! あ、実は……少し」
「うん。それはありません。安心してください」
きっぱり言うと、堀内くんはほっとしたようにビールをごくごくと喉に流した。
本当に正直者だな。
私も遅れてビールをあおる。職場以外で堀内くんと会うのはもちろん初めてだ。その非日常っぽさとアルコールが、少し自分を図太くする。
「堀内さんって……嘘ついてやろうとか思わないんですか?」
「ぼ、僕けっこう嘘つきますよ」
その発言こそが嘘っぽい。
「本当ですか? そうは見えないけど……もっとうまく嘘つけたら怒られる回数減りますよ、絶対」
「あー……やっぱり僕が怒られまくってるのって、売り場の人も知ってますよね……」
売り場は百貨店の一階。厨房は地下二階だから、もはや別の職場と言ってもいい。それなのに、入社四年目になっても成形や焼成の時間を守れない堀内くんの噂は、パンの香ばしい香りと一緒に売り場まで伝わってきていた。知られていないと思っていたなら、それはそれでびっくりだ。
堀内くんはまるでビールに話しかけるように、ぽつりと呟いた。
「……僕、うまく言葉を作れないんです」
「咄嗟に言葉が出てこないってことですか?」
「パニックになると、何て答えるのが正解なのか、わからなくて……」
この人は実働八時間のあいだ、ずっとパニックなんだろうか。分刻みの仕事に追われていたら、そうなってしまうのかもしれない。
じゃあ、そうじゃないときは?
「堀内さん」
「は、はい」
「今まで、彼女いたことってありますか?」
「えっ!? え、あ、ありま……せん」
「それ! そういうとこです!」
「え!?」
堀内くんの身体が強ばった。大きな声を出してしまったことを反省して、咳払いをする。
「嘘はよくないかもしれないけど、取り繕うのは必要だと思います!」
「で、でもどうすれば……」
「たとえば、『もう会うことはないと思う』なんて普通は言いません。実際そうだとしても、そんなこと言われたら悲しいです!」
そこまで口にして、はたと我に返る。
「そ、そうですよね……すみません」
悲しい? 私は今、悲しいと言った?
「……高木さん?」
堀内くんの声が、ジョッキの中でこもっている。
私は外に出た言葉を拾うように、ビールの残りを飲み干した。ぬるい苦みが胃の奥へ流れていく。「悲しい」と口走ったのは、あくまで一般論だ。私じゃない。
「とにかく、なんでも正直に言うのが誠意とは限りませんから!」
「は、はい……」
戦々恐々としている堀内くんが、急にいたたまれなくなる。これじゃあ私も怒鳴っている店長と変わらない。せっかくの再会なのに、来なきゃよかったと思わせるのは申し訳ない。
「すみません。怒ってるわけじゃないんです。こんな話してても楽しくないですね。もうどんどん飲みましょ」
意味もなく、堀内くんのジョッキに自分のをぶつけてみる。
堀内くんは共通の話題を探した結果、やはりと言うべきか、「パン」に行き着いたようだった。どこの店のどのパンがおいしいとか、そんな話ばかりしていた気がする。
酔った私がアニメが好きだと漏らすと、「お、おすすめとかありますか?」
と訊いてきた。何個か挙げるとスマホで検索しながら、「今度、観てみます」とぶきっちょな笑顔を作った。
でも不思議と信じられた。その言葉が、きっと社交辞令じゃないってことを。
堀内くんと別れたあと、メッセージを送ろうか悩んでやめた。私の言葉にどう返すか試すような、テストみたいな形になるのが嫌だった。
置きっぱなしのスマホが震えたのは朝。目覚ましよりも三十分早い時間だった。感謝を伝えるのは早ければ早いほど良い、と思っているのは私だけだったのかもしれない。
「今日はありがとうございました! 楽しかったです。また誘ってください」
もう昨日なんだけど。しかも、次も私が誘う前提になっている。
スッキリした文章には、堀内くんらしさの欠片もない。
「楽しかった」が本音かどうか、メッセージだけじゃもうわからない。
堀内くんに嘘をつくことなんて勧めなければよかった。少しだけ後悔して、スマホの画面を伏せて置いた。
新しい派遣先でも、私はそれなりにうまく立ち回れた。
定型文とその応用だけで、円滑なコミュニケーションは出来上がる。仕事中だけじゃなく、それ以外の時間も私は接客の皮を被ってしまう。いつか息が苦しくなるとわかっているのに、愛想笑いせずにはいられない。
「高木さんって、前は新宿の店舗にいたんですよね?」
斉藤さんに訊かれたのは閉店後の更衣室だった。ロッカーが隣同士の彼女とは、年が近いせいもあってよく話す。
「一年くらいですけどね」
「製造の堀内って人、知ってます?」
どきりとした。前髪チェックの仕草で、動揺を鏡の向こうに押しこめる。
「うん。知ってますよ」
「あの人、いつも怒られてるって本当ですか? 私と同期なんですけど、あんまり話したことはないんですよね」
「あー……怒られてはいた、と思います」
同期というのがにわかに信じられなかった。堀内くんの貫禄は、たぶん新人よりもずっと薄っぺらい。
「あの人、会社では有名人なんですよ。悪い意味で、ですけど」
なぜか胸の奥がチリッと痛む。
それに気づかないふりをして、私は曖昧に笑った。
以前、堀内くんが食パンを焦がして、その日の分を全部ダメにしてしまったことがある。運悪く予約も入っていて、事情を説明したときのお客さんの残念そうな顔が、その日じゅう心に引っかかっていた。
でも、その日だけだ。
派遣社員の私は、堀内くんが生地の配分を間違えたって、パンを焦がしたって、別の派遣先がある限りはどうしたって生きていける。
彼を悪く思えないのは、きっと、私が堀内くんの被害者じゃないからだ。
半分くらいは、今度こそもう会うことはないだろうと思っていたのに。
堀内くんを誘ったのは、斉藤さんの話を聞いた直後だった。
約束の当日、早番のあとで前回と同じ居酒屋に向かうと、すでに堀内くんは席に着いていた。飲み物も頼まず、そわそわした様子でメニューをめくり続けている。
「待たせてすみません。飲んでて大丈夫だったのに」
腰を下ろすと、堀内くんは過剰に背筋を正した。まるで上司と向かい合っているみたいな面持ちだ。
「何か頼みたいものありました?」
「あ、いえ、何でもいいです」
メニューを見ていたのは所在のなさを紛らわせるためか。小さくため息をつき、適当に何品か注文する。
堀内くんが私と同じビール党なのは意外だった。優柔不断すぎて他を選べないだけかもしれないけど、周りに飲める人がいないから、素直に嬉しい。
「今日は定時に帰れたんですか?」
訊くと、堀内くんは白い泡を上唇に乗せたままうつむいた。
「いや、ちょっとだけ……残業しました」
「それって、サービス残業ですよね?」
べつに咎めているわけじゃないのに、堀内くんはまるで怒られているような表情をした。
「あ、でも、僕がミスしちゃうのが悪いんで……」
「辞めようとか、思わないんですか?」
枝豆をさやから押し出しながら、何でもないふうに尋ねる。青っぽいにおいがふわりと鼻を抜ける。
毎日誰かに怒られて、裏でも誰かに疎まれて、残業したって誰も褒めてはくれない。そんな状況、私には無理だ。
堀内くんは泡を指で拭って、ぎこちなく笑った。
「僕みたいに何もできない人間じゃ、転職できませんよ」
無意識に頷いてしまった。しかも二回。面接でパニックになっている様子が容易く想像できてしまうのが悲しい。
「あー……でも、このままじゃクビになっちゃうかも、ですね」
堀内くんが言った。本気でそう思っている声で。
「正社員はそうそうクビになんてなりませんよ。辞めたくないなら、しがみついたもん勝ちです」
「しがみつく……」刺身用の小皿に、醤油と呟きがぽとんと落ちた。「高木さんは、どこに行ってもうまくやれそうで、羨ましいです」
それはきっと、堀内くんの本心だろう。
刺身の盛り合わせに添えてあるワカメに箸を伸ばす。ゆらゆら海を漂う姿が浮かんで、なんだか自分のようだと思った。
「……私、ひとつの職場に長くいられないんです。時間が経てば経つほど、こわくて」
「えと、こわい? た、高木さんが?」
その反応に笑いそうになった。
高木さんにこわいものなんてあるのかと思っている顔だ。失礼にもほどがある。
「長くいると自然と距離が近くなって、悪いところも見えてくるでしょう。そうすると不安なんです。自分がどう思われているかって」
「高木さんが悪く言われるなんて想像もつかないですけど……」
「勝手に思ってるだけなんです。被害妄想ですけど。だから、いつも一年くらいで派遣先を変えてもらうんですよ。逃げるみたいに。今回もそうでした」
何を言えばいいかわからない、という顔で堀内くんが黙り込んだ。
空気を読めずにいつも怒られているけど、私にとってはこれが正解だ。聞いてくれるだけでいい。
「前に、堀内さんに言った言葉、やっぱり取り消します」
「前に……な、なんでしたっけ」
堀内くんは心配そうな上目遣いでこちらをうかがう。
「『なんでも正直に言うのが誠意とは限らない』って、あれです。嘘をつかないことは、堀内さんの誠実さな気がします」
「いや、でも……言っちゃいけないことまで口走っちゃうんです」
自覚はあったのか。咀嚼していたサーモンとともに言葉を飲み込む。
「……そのほうがいいですよ。嘘まみれの誠実さなんかより、よっぽど」
どんなに上手く調理したって、素材そのものの味には勝てっこない。私だって、煮魚より焼き魚より、やっぱり刺身が一番好きだ。
堀内くんは腑に落ちない顔で、すっかり気の抜けたビールを見つめている。
短い沈黙に、彼なりに気を遣ってくれたのかもしれない。ジョッキの残りを一気に飲んだ堀内くんは、こう言った。
「あ、あの。でも、こっちの厨房の人も、売り場の人……田村さんとかも、高木さんに会いたがってます」
「……ん?」
論旨がずれているような気がして、首をかしげる。
「僕が高木さんと飲みに行ったって言ったら、みんなも会いたいって……」
「えっ、堀内さん、みんなに私と会ったこと言ったんですか?」
「はい……あぁっ!? も、もしかして言っちゃまずかったですか!?」
堀内くんは椅子ごと後ずさった。私は首を横に振る。
その様子に安心したのか、椅子を戻した堀内くんは追加のビールを頼んだ。
「本人がいないところで言う『会いたい』は、きっと本心じゃないかな……あっ、高木さんがどう思うかは別として、ですけど」
不自然な動きの目線が、それでも一生懸命に何かを伝えようとしていた。
本人がいないところで言う本心。
そんなの、本当なら知りようがない。
だけど、この人は──堀内くんは、誰かの愚痴や悪口なんてひとつだって口にしたことがない。怒られてばかりで、どこかで発散しなければやっていけないような毎日を、正直に、真っすぐに生きている。
そういう人の言葉を、私は信じてみたかったのかもしれない。
「堀内さん、職場の人のこと、好きなんですね」
「はい。怒られてばっかりですけど……怒られなくなったら終わりだっていうのもわかってますから……」
だからってサービス残業がまかり通っていいはずはないけど、と言いかけて、やめる。堀内くんの選択に、私が口をはさむ権利はない。
「そういえば、寄せ書きに『高木さんはいつもテキパキと仕事ができてすごい』って書いてましたけど、いつ見たんですか?」
わずかに肩を震わせた堀内くんは、ためらいながらぽつりと話し始めた。
「前に……食パンを焦がしてしまったとき、高木さんがお客様に謝ってるのを見て……謝らないといけないのは僕なのに、すごいなって……」
「それだけ?」
「いや、売り場を覗いたときとかも、いつも動きに無駄がないというか……そもそも、僕には接客って絶対無理ですから」
またもや頷いてしまった。堀内くんが売り場に立ったら、怒鳴り声を発する人が店長からお客さんに変わってしまうかもしれない。
でも、そうか。そんなふうに思っててくれたんだ。
他の誰かなら傷つけてしまうかも、と心配になってしまうのに。堀内くんなら許されそうな気がしてしまうのは、私の甘えだろうか。
「堀内さん」
「は、はい」
「初任給で何買いました?」
「え! あ、あの風俗に行きました」
以前、店長が面白おかしく話していたままの答えだった。私は思わず安堵の混じった笑い声をあげる。
「私はいいですけど、女の子に言ったら普通はアウトですよ」
堀内くんは「すみません」と、恥ずかしそうに縮こまった。
笑いすぎて濡れた目尻を拭って、私は聞こえるかわからない音量でそっと告げる。
「でも、そのままでいいです。堀内さんは」
もう何回目か数えてもいない乾杯。判決を言い渡す裁判官のように中ジョッキを振り下ろすと、頬まで泡が飛び跳ねた。ビショビショになったテーブルを拭こうとすると、ジョッキの底を縁どったビールの輪っかが出来ていた。
何かを許すような、薄黄色の丸だった。
退勤のタイムカードを切って、上りのエレベーターに斉藤さんと乗り込んだ。閉店後は、三基ある従業員用エレベーターはいつもぎゅうぎゅうに混んでいる。奥の壁に張り付くように息を潜めていると、斉藤さんに小声で名前を呼ばれた。
「このあいだ、高木さんに堀内さんの話したでしょう?」
狭い空間では意味がないだろうけど、内緒話みたいな囁きに、同じように相槌を打つ。
「噂ですけど、堀内さん異動になるっぽいですよ」
え。
「異動? 異動ですか?」
声の大きさを忘れて訊くと、「うん。春の人事異動」と斉藤さんが頷いた。
異動か。よかった。クビじゃなくて。
なぜホッとしているのか不思議になった。思考が止まりかけたとき、エレベーターの扉が開く。
「うちか、池袋の店舗じゃないかって言われてて。もしうちに異動してきて、職場の空気悪くなったら嫌ですよねぇ」
更衣室で外した前掛けには、油のシミがぽつぽつとついていた。洗濯しようと、くしゃっと丸めて手提げに入れる。
まだ異動が決まったわけじゃない。でも、ここで彼を嘲ってしまったら、それはもう本心になってしまう。
制服のボタンに手をかけたまま、すでに遅すぎるタイミングで言った。
「私は……堀内さんのこと、嫌いじゃないです」
斉藤さんはちょうどセーターに頭を通したところだった。襟ぐりから覗く瞳が、大きく見開かれた気配がする。
「おどおどしてちょっと挙動不審なところとかけっこう面白いですよ。仕事はできないかもしれないけど……前の職場も言うほど雰囲気悪くなかったですし、あの、とにかく絶対悪い人じゃないです」
まくしたてるように続けると、すぽん、とセーターを着終えた斉藤さんが、突然スイッチを入れたみたいに笑いだした。
早口すぎた? それとも、堀内くんをフォローしたのがおかしかった?
呆気に取られた私が固まっていると、
「高木さんって、意外と熱い人だったんですね。すごい必死」
斉藤さんは屈託なく言った。予想外の指摘に口の端が強ばる。
うつむいて着替えに意識を向けると、「でも」と言う声が隣から聞こえた。
「高木さんがそんなに言うなら、そうなんでしょうね。ちょっと見てみたいなぁ。挙動不審な堀内さん」
作業靴からスニーカーに履き替える斉藤さんの口角は、上がったままキープされている。
怪訝な眉間の皺も、不穏な空気も、どこを探したって見つからなかった。
電車を降りると、まだ春になり切っていない夜の風が首元を抜けていった。薄手のストールと一緒に、バッグからスマホを取り出す。
堀内くんとのトーク画面の最後尾には、二回目に二人で飲んだあとのやりとりが残っている。整然と並んだ文字たちを眺めながら、あぁ違うな、と感じた。
親指でボタンを押す。何回目かのコール音のあと、堀内くんの慌てた声が耳に飛び込んできた。
「も、もしもし? 高木さんですか? どうかしましたか?」
想像どおりの堀内くんらしさに、私は笑いながら答える。
「どうもしません」
電話の向こうでパニックになっているのかもしれない。「え」「あ」とモゴモゴした声がする。やっぱり可笑しい。
「堀内さん、もし、もしですよ。私と付き合えって言われたら、付き合えますか?」
少しだけ考え込むような沈黙のあと、堀内くんの息を吸う音がした。
「えっと……む、無理です。ごめんなさい」
なぜか私が振られたみたいになっている。しかも無理って。こっちだって初任給で風俗に行くような彼氏は嫌だってば。
私は堪えきれずに吹き出してしまった。
「うん。正解。私も無理です。だから、また飲みにいきましょう」
堀内くんの嬉しそうな「はい」に、自然と頬が緩む。
「今度は田村さんとかも誘って、みんなで飲みましょう」
「え……いいんですか?」
「うん。ちょっと怖いけど、会いたいです」
電話の向こうから、もう一度「はい」が聞こえた。とても柔らかい声だった。
「みんな楽しみにしてると思います。高木さんに会えるの」
その言葉に、なぜか泣きそうになる。
電話越しなのに恥ずかしくなって空を見上げると、くっきりとした満月が浮かんでいた。あの日見た、薄黄色の丸にとても良く似ている。
「堀内さん、今日は月がめちゃめちゃきれいですよ」
きれいなものをきれいだと言うだけでいい。
こんなに簡単なことのために、私はずいぶんと遠まわりをしてきたような気がする。
「あ、ちょっと待ってくださいね。ベランダから見てみます」
電話の向こうから、カラカラと窓を開ける音がした。スピーカーからシンとした空気が流れ込んでくる。
そういえば、堀内くんはどこに住んでいるんだっけ。次に会ったときにでも聞いてみようか。
そのころには、きっと春になっている。
穏やかな夜の下、堀内くんが同じ月を見上げるのを待った。
やがて耳に届いた声には、どこにも嘘が滲んでいなかった。
【おわり】