【最終選考作品】紫色の向こう側へ(著:片山史奈)
初恋の人のスーツ姿は眩しかった。何度も夢に見たあのしーくんの姿が、そこにある。黒いスーツに合わせられた藤色のネクタイに、しーくんらしいなと頬が緩む。私が着ている振袖の紫色の袖口と、しーくんのネクタイ。この色を選んで正解だったと、心の中でガッツポーズをした。一週間前からずっと今日のことを考えていた。新たな門出と、彼との再会への期待。心がざわざわと揺れ袖口を握りしめた。今朝は殊更冷え、晴れ着の群れは賑やかに白い息を吐いている。写真撮影のためにグレーのマフラーを外したしーくんは首をすくめて友達と顔を見合わせる。少し長めの前髪がさらりと揺れた。
『二十歳の集い 会場』と書かれた看板の右にしーくんと金髪の男性、左にウルフカットの男性が立ち、ピースをする。「いち足すいちはー?」撮影者を買って出た誰かの親が、おどけてそう言う。「にー」三人の新成人は照れたように緩んだ顔でそう答えた。目を細めて柔らかに笑うその顔を、一月の清らかな日差しが照らした。大人びたその顔に、会えなかった時間の長さを悟る。成人式の会場となった文化センターは少し古ぼけた建物だ。毎日大学に向かうときに横を通る文化センター。普段寂れた様子のその建物が一番鮮やかになるのが今日なのだと思った。その汚れた外壁さえも、しーくんを引き立てるために存在しているかのようだった。
「俺らの中で地元残ったの紫月だけよなー。紫月も東京来ればよかったのに」
金髪が歩きながら尋ねた。
「東京かー、春休みに遊びに行くから案内してよ」
しーくんの声だ。昔とあまり変わらない、少し高めだけど落ち着いた声。
「いいよいいよ、可愛い子紹介してあげよっか? そういやトモキ、この前カナちゃんご飯に誘ってなかった? あれからどうなったん?」
ウルフカットが茶化すように言う。
「なんと付き合うことになりました! 一番乗りは俺か。紫月はどうなの? さぞかしモテモテなんでしょうねえ?」
隣の金髪がへらへら笑いながら、しーくんを軽く小突く。そんなタイプの友達がしーくんにいるなんて、なんだかしっくりこなかった。
「残念ながらまだいねーよ」
笑いながらそう答えている。そんな彼に、少し安心している自分がいた。
しーくんの視線がふとこちらに向けられた。どうしようどうしよう、目が合っちゃった。まだお話しする心の準備はできていないというのに。そんな胸の高鳴りをよそに視線は私を通り過ぎて、金髪とウルフカットに戻った。当然だ。私は人混みの中にいるのだから、見つけてもらえると期待してしまった自分に恥ずかしくなった。
「山崎舞花さんですね。こちらご案内と記念品です」
大きな花があしらわれた赤色の振袖を着た受付の彼女は、アナウンサーのようなはっきりとした声でそう言いながら封筒を手渡した。お祝いの言葉の書かれた紙、市のゆるキャラのキーホルダーとボールペン、そして式次第。式次第には、成人式に参加する新成人全員の名前があいうえお順に書かれていた。「竹内紫月」、しーくんの名前は数百人もの中でも一瞬で見つけられた。
「たけうちしづきです。しづきの〝し〟は紫って漢字なんだよ。だから、僕の色は紫なんだ」
最初に話したときの言葉だ。私たちが通っていた小学校はこの市にある十二校の小学校のうち一番児童数が少ない学校だ。一学年四十人ほどで、クラスは一つだけ。そんな教室の中で、誰よりも静かなのに誰よりも印象に残る男の子がいた。それがしーくんだ。しーくんはいつもスケッチブックを持っていて、例えば校庭に気になる花があるとそこに寝ころんで、じっと見ながら絵を描くのだ。完成した絵はその花とは程遠くて、スケッチブックの中にはしーくんの見ている不思議な世界が広がっている。小学校入学から卒業まで、私の思い出は紫色一色だ。八年前のあの時が忘れられない。
「聞いたよ。頭良い中学校に行っちゃうんでしょう?」
ジャングルジムに登りながら私は隣のしーくんに言う。制服の胸元に「卒業おめでとう」と書かれたリボン徽章をつけたままの二人はジャングルジムで遊んでいた。遊具で遊ぶのも今日が最後なのかな、と思いながら。運動場の真ん中辺りで、保護者達が笑いあっている声がかすかに聞こえた。四月から始まる中学校生活の話をしているのだろうか。それとも小学校六年間の思い出を話しているのだろうか。
「うん。中学受験した」
しーくんが伏し目がちにそう言う。
「努力の成果だね! おめでとう!」
できる限りの明るい声でそう伝えながらも、私の心は空っぽだった。このまま私たちは同じ中学校で過ごすものだとばかり思っていた。しーくんはするするとジャングルジムを登っていく。離れていく背中が、違う誰かの背中に見えた。
「もっと早く言ったらよかったよね。ごめん。今日、父さんが話してるの聞いたんでしょ? 舞ちゃんに伝えなきゃって思ってたけど、いざ言おうと思うと言葉が出なくて」
痛みをこらえるような声が降ってきた。あと少しで、しーくんのいる頂上だ。私は登るスピードを速めた。
ごん。
鈍い音が響いた。おでこをぶつけてしまったみたいだ。
「あはは、卒業式の日に、たんこぶができちゃうなんて」
少し痛くて目が潤んだけれど、私はジャングルジムの頂上のしーくんの向かいに座る。
「大丈夫?」
しーくんが慌てたように私の隣に移る。私と比べて少しだけ大きい手が優しく、おでこに触れた。思わず目を閉じる。温かかった。
「しーくん! 大丈夫、大丈夫だから!」
恐る恐る目を開くと、しーくんが私の顔をじっと見ていた。心臓が跳ねる。私も、しーくんの顔を見つめた。ホー、ホケッ……「ホケキョ」と上手に鳴けていない不器用なウグイスの声が響いた。
「紫月、そろそろ帰るぞー」
気づけばジャングルジムの下に、しーくんの両親が来ていた。しーくんはハッとしたように「もう帰らなきゃ」とつぶやき、四つ折りにされた紫色の折り紙をポケットから出す。
「これ、あげる」
「ありがとう。今見ていい?」
その質問には答えずにしーくんは、「舞ちゃん、あのね……」ともごもご話して目を伏せた。
「やっぱり次に会った時にする」
そして、登るときと同じようにするするとジャングルジムを降りていった。両親に手を引かれたしーくんが、私を見上げる。
「舞ちゃん、ありがとう。またね」
その姿が見えなくなるまで手を振ってから、紫色の折り紙を開いてみた。白い面には、「大人になった舞ちゃん」の文字と不思議な絵。「舞」の文字だけたどたどしかった。辞書で探して、真似して書いてくれたのだろう。私らしき女性は、紫色のノースリーブワンピースを着て緑色の触角のようなカチューシャを付け、なんと宇宙にいた。
ポケットからハンカチを取り出した。涙が出るのはきっと、おでこの痛みがぶりかえしたせいだ。
紫色の折り紙は、今でも机の鍵付きの引き出しの中にある。それを見るといつも、なんとなくおでこに触れてしまう。それから結局しーくんには会えず、言いかけた言葉の続きは聞けずじまいだ。
「舞花、小学生のころに竹内紫月くんっていたでしょう、舞花と仲良くしていたあの子。智子ちゃんママから聞いたんだけど、竹内くん南の方のおじいちゃんの家から中学校通ってるんだって」
中学校の懇談から帰ってきた母の声を、数学の宿題をする背中で聞いた。ふうん、と流したけれどペンを動かす手は止まっていた。
ホールに整然と並べられたパイプ椅子のうちの一つに腰を下ろす。一度座ってしまうと振袖の着崩れが怖くて、座ったまま人々を眺めた。知っている人たちが全員見違えるほど大人になっていて、知人なのに他人のようで、私だけパラレルワールドに迷い込んだようだった。大学で知り合った友達は示し合わせたように皆県外出身だったので、ここにはいない。
「あれ? まいまいだ!」
パラレルワールドから、そんな明るい声で現実に引き戻された。その顔を見て、ざわざわしていた気持ちは平静を取り戻していく。高校の頃の同級生のゆっぴーこと結衣だった。出身の市が同じということで仲良くなった親友だ。
「ゆっぴー! 高校卒業ぶりだね。雰囲気変わったなー。髪切ったんだね」
高校一年生の最初の日、前に座るポニーテールの女の子がくるりと後ろを向いて話しかけてきた。高い位置で結ばれた長い黒髪が、ぴょこぴょこと揺れていた。それ以降彼女は、メモ帳にとりとめのないことを書いて授業中に渡してきたり、教室を移動するときに突然しりとりを始めたりした。宿題が難しくて挫けそうな時も、将来への不安も、なんとなく気分が晴れない時も、結衣と話せばまた前を向けた。
「思い切ってショートカットにしちゃった! まいまいは最近どんな感じ? 今でも絵を描いてるの?」
「うん。大学でも油絵サークル入ったんだ」
「どんな絵を描いてるの?」
スマホを取り出して、去年描いた絵を見せる。白いスカートの女性が果物の入ったバスケットを抱えている絵。自分史上最高傑作だ。私は昔からずっと絵を描いている。絵とは私の心の表現方法でもあり、それはしーくんもそうだった。
司会の人が何か言って、ホールのざわめきが次第に消えていった。知らない人が代表挨拶で決意表明をして、知らない人が厳かにお祝いの言葉を贈った。しーくんは群衆の中で、真っすぐ前を向いていた。
「これより歓談の時間となります」
司会者が次のプログラムを告げる。これからは好きな時間に帰っていいようだ。
「結衣こっち来て! 一緒に写真撮ろ」
五人ほどの友達に引っ張られ、結衣は流されるように人込みに消えていった。親友に友達が多いのは嬉しいことのはずなのに、なんだか少し寂しかった。しーくんだけはこの世界で唯一の、元の世界の住人だ。そう思いたかった。
パラレルワールドに取り残された私は時間を持て余していた。誰か私に話しかけてくれないだろうか、と受け身な自分に苛つく。自分から声をかけに行けばいいのに、足が言うことを聞かないのだと心の中で言い訳した。本当は、変化した同級生と何を話せばいいのか分からないだけだ。何もせず座っているだけでは不自然なので、式次第を読んでいるふりをした。
「山崎さんだよね。俺のこと覚えてる?」
背後から突然声をかけられて心が跳ねた。黒縁眼鏡が印象的だったその人は、もう眼鏡をかけていなかった。
「うーんと、部長だった三村くんでしょう」
「惜しいー、三浦です……」
三浦くんは高校時代の仲のいい異性のうちの一人で、部活が同じ美術部でよく話した。下の名前は京也か京太のどちらかだったと思う。
「バイト何してるの?」「サークルとか入ってる?」「今日寒いね」
せっかく話しかけに来てくれた三浦くんとの会話を続けるために、必死に話題を探した。話題探しに思考を奪われると、会話が疎かになる。
「久しぶりに話せて、なんか懐かしいね」
もう話題が尽きてしまって、会話の空白を埋めるようにそう伝える。しーくんと話せたら会話なんて尽きないのに、と考えてしまった。「誰か来てほしい」と思いつつ、結局来て欲しかったのはしーくんだけだった、そんな自分にあきれる。三浦くんは通りかかった友達に声をかけて、どこかに行ってしまった。私の会話はきっと空回りしていた。
「あれ紫月くんじゃない? 紫月くーん、おーい! ……あ、行っちゃったあ」
近くに立つくらげみたいな髪型の女子が、友達と話すしーくんに向けて高く手を振っていた。くらげの隣にいるのは多分、萌子ちゃんだ。萌子ちゃんはしーくんと同じ私立の中学校に進学したらしい、小学生の時のクラスメイトだ。当時しーくんと萌子ちゃんは同じ塾に通っていた。萌子ちゃんは用もないのにしきりにしーくんに話しかけていて、私はちくちくする胸を押さえながら萌子ちゃんに聞いたことがあるのだ。
「萌子ちゃんってもしかして、しーくんのこと好き?」
萌子ちゃんは目を丸くした後、けらけら笑いながらこう返したのだった。
「しーくん? しづのこと? えーそんなことあるわけないじゃーん。しづみたいなお子ちゃまじゃなくて、あたしは鈴木先生みたいな大人のイケメンがタイプなの」
鈴木先生というのは塾の若い先生だ。おかえり、と塾の玄関で児童を受け入れる涼やかな横顔は、少しだけ今のしーくんに似ていた。
「紫月くんってさあ、文化祭の時にバンドでボーカルしてたじゃん。あんな歌声聞かされたら好きになっちゃいそう」
くらげがうっとりしながらそう言う。しーくんがバンド? ボーカル? どうしても私には、ステージに立つ姿が想像できなかった。聞き逃さぬよう耳をそばだてる。
「えーそうかな? あたしにはあいつの良さが分かんないなー」
萌子ちゃんは口調と声色こそ昔のままだけれど、芯のある大人の雰囲気を纏っていた。幼いころのませた雰囲気に、体が追いついてきたようだった。サンゴ色の振袖と、黒髪に輝く金色の髪飾り。足元はブーツだった。
「そうか萌子、紫月くんと幼馴染なんだっけ」
幼馴染という言葉に胸が痛くなる。「しーくんの幼馴染」という特別な称号は今、萌子ちゃんの物なのだ。
「やめてよ、腐れ縁の間違いだって」
そう言い返す萌子ちゃんは、照れたように頬を膨らませる。しーくんとの関係を尋ねられてけらけら笑う萌子ちゃんはもうそこにはいなかった。アニメで「あんたなんて」と言い放つ、素直になれない女の子のイメージが頭に浮かんだ。萌子ちゃんのことを妬んでしまえたら良かったのに、しーくんの隣にはパズルのピースのように萌子ちゃんがぴったりはまる気がした。自分でもどうしてなのか分からなかった。
「あたししづに頼まれて文化祭の様子の動画撮ってたんだよね。見る?」
好きだよ、好きだよ、君のこと宇宙一愛してる。ずっと好きだったんだよ君のこと。君との日々が過去になっても、君との日々は忘れないよ。
スマホのスピーカーを介して、しーくんの歌声が聞こえてきた。高校生の時に流行った、中堅バンドのラブソング。メロディーもバンド演奏も聞き惚れてしまうのに、歌詞が薄っぺらくて勿体ない曲だ。当時コンビニでも飲食店でも至る所で流れていた、誰でも知っている曲だ。唯一無二のしーくんが、量産型の浅い愛をそんな透き通った声で歌っているのが不釣り合いだった。スマホから歓声が沸き上がる。しーくんって、そんなクラスの人気者みたいな感じだったっけ。物静かで、休憩時間はよく一人か、私と一緒にいることが多かったしーくん。住む世界が変わってしまったようだった。小学生の時は、同じ世界にいたはずなのに。
幼い私は自由帳に目や鼻、口、髪型や輪郭をそれぞれ十種類描き、番号をふる。
「しーくん、輪郭、何番?」「三番!」「目は?」「えっと、六番!」
番号に従って、私はおかしな人の絵を描いていく。
「舞ちゃん、見せて見せて」「まだだめ!」
描いているうちから笑いがこみ上げる。
「まだだめなの?」「いいよ! ジャーン、牙の生えたツインテールのおじさんができた!」「なにそれ!」
二人でお腹が痛くなるまで笑った。業間休みの教室にいるのは私としーくんの二人だけで、ここは私たちの世界だった。
「次僕にもやらせて! じゃあ輪郭は何番?」
名前の知らない謎の遊びだ。あの自由帳は一体どこに行ってしまったのだろうか。
歓談の時間はまだ残っていたが、昼も近くなりちらほらと帰る人が出てきた。私ももう帰ってしまおうか。これ以上ここにいても近くて遠いしーくんを見て苦しくなるだけだ。ざわめきの残るホールを出て、一階への階段を降りる。一段降りるたびに、今日という日がフェードアウトしていった。玄関の自動ドアはぎこちなく開き、私を外へと押し出した。スズメの群れが私に驚いて、チュンチュン騒ぎながら飛び立つ。
文化センターのすぐ外には運動場があり、子供たちの遊び場所や夏祭りの会場になる。今日はここが出席者用の駐車場として開放されていた。運動場の端には取ってつけたように遊具が設置してあり、カラフルな色に塗られた新しい遊具は冬の空の下ではやけに派手に見えた。
虹色に塗られた陽気なジャングルジムに目を向ける。ブランコに座りながら見上げるそのジャングルジムに、八年前の私たちの姿が重なった。
成人式は案外、あっさりと終わってしまった。煮え切らない気持ちを抱えながら見たスマホは、母からのメッセージを受信していた。
「舞花、いつ頃帰るようになるかな? 迎えに行くから時間教えてね」「帰って着替えたらじーちゃんばーちゃんとお寿司食べに行こうかと思うんだけど」
帰ってしまうと、晴れ着ともお別れか。レンタルした振袖は、今日一日しか着ていないのに返却が名残惜しかった。濃い紫に咲く白や黄色、赤の花がもし私の気分とリンクしていたら、きっとその花は全部萎れている。しーくんに、見てもらいたかったな。褒めてもらいたかったな。あわよくば、可愛いねって言ってもらいたかったな。
「さっき終わったところ。もう出発していいよ」
そう返すとすぐに返事が来る。
「じゃあこれから行くからね。二十分くらい待っててね」
二十分。このまま帰っていいのだろうか。この先何年も、私はしーくんへの気持ちを燻ぶらせ続けるのだろうか。この二十分を逃すと、次会えるとしたら小学校の同窓会かもしれない。しーくんはきっとその時、優秀な社会人になっている。
「今取り組んでいるプロジェクトが佳境に入ったんだ。同窓会には参加できそうにない」
困ったように嬉しそうに言うしーくんの顔が浮かんだ。それなのに、まだ足は動かなかった。このまま静かに帰ってもいいかもしれない。山崎舞花は小学生の時に一緒に絵を描いた女の子で、卒業式の日にジャングルジムの上で見つめ合った女の子。その後は何も知らない。それで、いいのだ。
スマホがメッセージの着信を知らせた。母からだった。
「一度きりの成人式だから後悔せんようにね」
きっと母は私のしーくんへの思いなんて知らないし、これもきっと「精一杯この時間を楽しんで帰ってね」という意味合いなのだと思う。後悔は、したくない。帰るつもりだった私の足は、このメッセージで回れ右、会場へと踏み出した。綿菓子を引き延ばしたような雲が、澄んだ空に一つ浮かんでいた。
歩みは自然と速くなる。厚底の草履の鼻緒が、じわりと足に食い込んだ。心を決めても、会場に近づくにつれて不安は膨らむ。心の中に、今のしーくんを受け止めるのが怖い自分がいた。
しーくんはどこにいるのだろう。『二十歳の集い 会場』の看板前には誰もいない。文化センターのエントランスには何人かいたがしーくんの姿は見えなかった。まだホールの中にいるのかな。もう帰っちゃったかな。そう思いながらホールに向かう二階へ上がった時、この市出身だという彫刻家が作った抽象的な形のオブジェの近くに紫のネクタイが見えた。ここまでくると、もう躊躇っている場合じゃない。どうにでもなれと腹をくくる。
「あの、ひ、久しぶり」
「舞花ちゃん」
しーくんはちょうど、友達と別れたところのようだった。小学生のころは私の方が少し高かった視線は、今ではしーくんのほうが何センチも高い。目を合わせようとして戸惑って、視線は虚空を彷徨った。
「振袖、可愛いね。似合ってる」
私が欲しかった言葉だ。耳が熱くなる。もうそれだけで、これまでの不安もしーくんとの距離も、消えた気がした。どの振袖だったらしーくんに気づいてもらえるかなと悩みながら選んだ振袖。しーくんの色は紫だから。「大人になった舞ちゃん」の絵の私は紫色の服を着ていたから。私は赤を提案する両親を振り切ってこの振袖を選んだのだ。
「し、紫月くん…も、スーツ、かっこいいよ」
言葉は尻すぼみになり、最後の方は口の中で溶けただけだった。なんだか恥ずかしくて、あははと笑って次の言葉を探す。
「えっと、えーっと、しー、紫月くんは最近、何してるのか、ね?」
薄紫のネクタイを見た。今の私は誰が見ても明らかな程に動揺しているし、語尾がなんだかおかしい。心臓がばくばくうるさかった。綺麗に磨かれたしーくんの革靴を見る。
「大学生。経済学部」
「私も、経済学部なの。どこの大学?」
しーくんが答えたのは、県内トップの大学だった。模試の志望校判定がD判定で、諦めた大学だった。
「山崎さんね、数学、苦手でしょう。ここの大学は入試に数学必須なのよねえ。無理して受験するより、先生はこっちの国語と英語で受験できる大学をおすすめするな」
進路面談の時、高校の先生がオブラートに包んで言った「実力不足」。私は今の大学に不満は持っていない。先生は優しいし、一緒にランチする友達もいる。それでも、高校の時にもっと努力していれば、現在私はしーくんと同じ大学に通えていたのだ。
「やっぱり紫月くん、頭良いねー。私なんかとは大違いだよ。あ、ほら、授業、難しくない? ちんぷんかんぷんなんだよなー」
自分で言っていて痛々しい。どうしてこんなことを言ってしまったのかと自分を責めた。早口になっているのも余計に惨めさを加速させていた。今の自分はいつもの自分ではない気がする。しーくんは「そっか」とだけ言った。
沈黙が気まずくて、ふと顔を上げるとしーくんの視線とぶつかった。こういう時は何を話せばいいのだろう。話したいことはたくさんあるはずなのに。しーくんのことを思うたび「本当に会えたら、こんな会話をしてみたい」と想像するのに。現実のしーくんを前にすると、うまく話せない。しーくんの表情は昔のような笑顔ではなくて、困惑だった。しーくんは優しいから、自虐した私をこれ以上傷つけないために何ができるか考えているのだと思った。私はまた目を逸らす。
「そうだ。紫月くん、まだ、絵描くの、好き? 私は好きなんだ」
返答を待つ時間が長く長く感じた。
「最近は、あんまり描かないかも」
私としーくんを繋ぐキーワードが消えてしまったのか。
「ごめん」
しーくんが謝る必要はないのに。どんな表情をすれば良いのか分からない私はごまかすように下を向き、バッグからスマホを取り出す。
「せっかくだし、写真! 写真撮らない?」
「いいよ」
しーくんが近づいてくる。小学生の時に一緒に絵を描いた、その距離だ。シャンプーなのか柔軟剤なのか、清潔な香りが鼻腔をかすめた。昔から変わらない、しーくんの香りだった。
「撮るよ」声が震えた。しーくんの鼓膜を揺らしているのは雑踏とシャッター音だけであってほしい。うるさいほどに鳴っている私の心臓の拍動なんかに気づいてほしくない。
「連絡先、交換しよ。その写真俺も欲しい」
震える手で写真を送信する。
「ありがと! それより萌ちゃん見てない? 今探してるんだよー。話したいことあるんだけどさ」
「萌子ちゃん? えっと、私、見てない。どこにいるんだろうね」
「そっかー残念。じゃ、俺これから探しに行くよ。バイバイ舞花ちゃん」
絵を描かない現在のしーくんは、かつて興味のなさそうにしていた萌子ちゃんを探している。しーくんはしーくんじゃないんだな、と思った。
しーくんはどんどん離れていく。振袖の群れの中に埋もれていく。勇気のある人は、本当のしーくんが好きな人は、ここで呼び止めて手を引いて、こう言うのだろう。
「行かないで。私はしーくんが好き」
そんなことをする度胸も自信もそして理由も、私にはなかった。
「バイバイ、しーくん」
聞こえないように、そうつぶやく。しーくんが振り返った。私は、ただ手を振った。小学校の卒業式の日に言いかけた言葉の続きを聞き忘れたけれど、もうそれは過去のことなのだ。
オブジェに背を向けて、吹き抜けの上から一階を眺める。人々も何もかも滲んでいた。スマホの写真を見返すと、微笑むしーくんの隣にヘタクソな笑顔の私が写っている。どうせなら、もっと可愛い姿を残したかったな。でも、これが今の私だ。「舞花ちゃん」としーくんが私を呼ぶ声が耳に残っている。昔みたいに、「舞ちゃん」って呼んで欲しかった。そういう私も「しーくん」とは呼べなかった。私の知っているしーくんは小学校卒業までのしーくんであって、現在の「紫月くん」ではない。昔のままの「しーくん」なら、きっとネクタイだけではなくて紫色のスーツを着てきたのだろう。藤色にグレーを少し溶かしたような静かな色、しーくんだから似合う一着。昔の不思議なしーくんは、八年という年月で希釈されたのだ。薄まった結果が、あの薄紫のネクタイなのだ。想い続けた「しーくん」は私が八年間で濃縮し続けた幻想でしかない。
今の紫月くんは、バンドで歌ってたくさんの友達と笑いあい、人気者の紫月くんだ。萌子ちゃんが再生した文化祭のステージを思い出す。画面は見えなかったけれど、歌う彼は、音楽で自分を表現する彼はきっと太陽みたいな笑顔なんだろうなと思った。そんな紫月くんももちろん素敵だけれど、その隣に私はいないのだ。
ここが、終着点なのかもしれないな。目の前に立つ初恋の人を「しーくん」と呼べなかった時点で、既に私はそれに気づいていたのかもしれない。そのままでいて欲しかったな。そう思う私は我儘だ。
好きだよ、好きだよ、君のこと宇宙一愛してる。ずっと好きだったんだよ君のこと。君との日々が過去になっても、君との日々は忘れないよ。
あの頃薄っぺらかった歌詞が、今日は不思議と深く感じた。
しーくんへの気持ちは紫色。思い出と憧れと、淡い恋心の名残が混ざった色だ。私の心のキャンバスにはまだ色を塗る余白がある。
紫色の振袖がひらりと揺れた。キャンバスの紫色の隣には、どんな色を塗っていこうか。きっと明るい色になる。
【おわり】