【佳作】しゃかしゃか(著:松あかり)

ミーティングルームはやたらと空調が効いていて、今朝、迷いに迷ってヒートテックに貼ったカイロは完全に蛇足だったと後悔した。家から駅までの道中には絶対に必要だったのだけれど、ネットでまとめ買いしたよく知らないメーカーのカイロはやたらと火力が強く、夜に差し掛かろうとしているいまも、その威力は衰えない。
たっぷり加湿されたオフィスは一日中しっとりと暖かく、なかでも日中にクライアントを迎え入れることの多いミーティングルームは入念に保温されていた。
とっくにカイロの存在意義は消失し、腰のあたりに汗をかいて気持ちが悪い。部屋には私一人だから手を服の中に突っ込んで思い切り剥がしても問題はないのだけれど、ワンピースでそれをやるのは裾を捲り上げなければならず、さすがに憚られた。
急遽決まった週明けの商談に向けて企業調査をして資料を揃えるには、週末の今日、残業をする必要があった。本来であれば営業事務一課である私が資料の準備をし、営業一課の担当者と打ち合わせをする流れなのだけれど、何せ今回はとにかく時間がない。だから、資料作成を含む準備を、定時を過ぎた十八時半から営業担当の南くんといっしょにすることになっていた。
その前にコンビニで甘いものでも買おうとオフィスを出たら、エレベーターで南くんと乗り合わせた。そして「軽く飯食ってきます」と報告を受けたのが十八時前。私がオフィスに戻り、ミーティングルームに入ってパソコンとモニターを繋ぎ、デカフェを淹れてコンビニで買ったブラウニーを食べ終えても、扉をノックする音は鳴らない。この時点で十八時二十分。溜まっていた立替清算と請求書の整理を終え、約束の時刻を過ぎても南くんが来る気配はない。オフィスからいちばん近いうどん屋なら十五分、次に近いファーストフード店なら二十分、定食屋が立ち並ぶ通りまで出ても三十分あれば、オフィスが入っているこのビルの十二階まで戻って来られるはずだ。
南くんに連絡を入れようと社内チャットを開く。めいっぱい指に力を入れて文字を打ち込んでも、キーが沈む音は南くんには届かない。そうはわかっていても、Enterがキーボードにめり込む勢いで思い切り叩いて、でも文末にはお辞儀している絵文字を付けることは辞められない。
打合せしながら飲むつもりだったデカフェはすっかり冷めた上に、まだ半分以上残っている。一口飲むとお腹の底が水泳の授業で消毒槽に入ったときのような心許なさを訴え、南くんへの恨みを一層募らせた。
いつからか、私はボンボンショコラをデスクの引き出しに常備するようになった。クライアントからの返信が来ないとき、請求書の確認が回って来ないとき、そして南くんに頼んだ仕事が期日になっても提出されないとき。私は引き出しからボンボンショコラを一粒取り出して口に放り、しばらく舌の上でチョコレートを転がすように楽しんだら、一嚙みする。中からウイスキーがじゅわっと零れ出すのが、なんとも言えない快感。仕事中に摂取する微量のアルコールは気持ちを昂らせ、仕事をする上で起きたもやもやを忘れさせてくれた。
待たせる側の人間は思慮が浅くて羨ましい。スマホを触り興味のないショート動画を見、情報をスワイプして直感で選別し、数分後には忘れている生活の豆知識を仕方なくインプットするという一連の苦痛。不必要にスマホを触ることで必然的にモバイルバッテリーを持ち歩かなければいけないことへのストレス。彼らはこんな経験をしていないから平気で人を待たせられるのだ。
今だってそう、私一人でクライアントのカンパニーサイトをモニターに写し、企業理念や事業内容に目を通している。これ私一人がインプットしても意味ないんだけど、とか呟いてみながら。
冷えたデカフェは捨てることにした。勿体ないけれど、三六五日人手が足りない会社を体調不良で休むことはできない。戦力としては私一人休んだくらいではそう変わらないのだけれど、イレギュラーな事態は少しだけ、でも確実にさまざまな業務に支障をきたす。
それに私だって困るのだ。資料の修正、見積書の作成、請求書の処理。やろうと思えば社歴の浅い契約社員でもできる仕事だけれど、私がやらないとだめなのだ。他で替えが効くと思われたら、私はどんな顔で社員証を首から提げ、会社から支給された最新のMacを立ち上げればいいかわからない。
いつの間にか南くんのことを考えていた。まさにいま、私を待たせている張本人である。
最初にちゃんと南くんを認識したのは、彼らの期を迎え入れた三年前の春に行われた歓迎会だ。自己紹介の際、ぴかぴかの白い歯が覗く口から某有名私立大学の名前が出たとき、綺麗にきまったいま風のセンターパートと飄々とした立ち居振る舞いに納得がいった。会の最中も緊張しっぱなしで肩が角ばっている同期たちを尻目に、南くんは課長や部長の空いたグラスを見つけては店員を呼び、スマートに注文をこなしていた。
そんな南くんをおじさん社員たちは気に入った様子で、その前の年の忘年会までその役割を担っていた私のことなど頭にはなさそうだった。その後も私が存分に目を光らせて見つけた空いた皿やグラスは、手を伸ばした瞬間に南くんの長い腕によって回収され続けた。「主役なんだから偉そうに座ってればいいんだよ」とご機嫌に笑う部長のグラスに瓶ビールを注ぐ南くんの表情からは、打算的な表情は見えなかった。
結局、二次会を含む四時間超の飲み会でへべれけになった上司たちはラグビーで鍛えたという南くんの肉体に支えられながらタクシーに乗せられ、私はただ呆然と、南くんの終始惚れ惚れする立ち回りを眺めているだけだった。酒が弱いのに目下の人間の前では見栄をはりたがる中堅社員をむりやりタクシーに押し込んだあと、南くんは参加者の輪の端にいる私のところへ寄ってきた。斜め上から降り注ぐ視線をおそるおそる目で辿ると、少しだけ頬が赤らんだ南くんの顔があった。
「ああいうこと、これまで倉橋さんがやってきてくれたんですよね。これからは僕がやるのでなんでも言ってください」
私の返事を待つ前に「お疲れさまでした」と言って駅に向かう南くんの後ろ姿に無性に腹がたち、最寄り駅に着くとこれまで通り過ぎるだけだった牛丼屋へ一目散に向かった。カウンター席でつゆだくの牛丼をかきこみ、やけに味の薄い緑茶を飲み干すと、涙が出そうになった。
何もわからないくせに。入社したばかりの人間に〝ああいうこと〟と片付けられてしまうそれらは私にとっては足ることで、私があの場にいることを許してくれることなのに。慣れない場所でも器用に立ち回れて、一瞬で人に好かれるような人間に簡単に手を伸ばしてほしくなかったのに。
本当は早く家に帰りたかったし大してお腹は空いていなかったけれど、奪われたものを埋める何かが必要だった。何かに満たされていることを実感したかった。その手段が食べ物しか思い浮かばなかったことが情けなくてまた目頭が熱くなったけど、ちょうどそのタイミングで隣に座ったサラリーマンの酒臭さによって、すんでのところで涙が引っ込んだ。
例の宣言通り、次の日から、私の役割はいとも簡単に南くんの手によってどんどん奪われていった。コピー機の紙が切れたことに気づいた次の瞬間には備品が収納されているロッカーが開く音がして、顔を向けると南くんがA4用紙の束を手にしていた。お客さんに出すペットボトルの水のストックがなくなりそうで庶務課へ報告に行くと、すでに南くんが連携したあとだった。
コーヒーメーカーの豆が切れることも、ウォーターサーバーの水が枯れることもなくなった。その代わり、私のデスクに忍ばせたボンボンショコラの数はみるみる減っていき、週に一度はデパ地下へ足を運ぶ必要があった。しばらくそんな生活をしていたら、会社でウイスキーの香りが鼻孔をくぐる快感は徐々に効力を失い、家でハイボールを呷る頻度と体重が増え、体重計に乗るたびに南くんの自信満々な顔が頭に浮かぶようになった。
ついに十九時を回ろうとしている。競合会社の実績などをデータを学習しないよう設定されている社内AIに読み込ませ、さらにそれをExcelにまとめてもらう。表だけではわかりにくいのでWordにも文章として残しておく。
AIの導入が社内に周知されたとき「ついにうちもやっとか」と周囲は喜んでいたが、私は怖くなった。つい一年前は一日かけてやっていた仕事が、最先端の技術に奪われる。「またか」と呟いた私の声はたぶん誰にも拾われていなかったと思う。
南くんからの返信はまだない。『何時に戻ってきますか?』『いまどこですか?』『大丈夫ですか?』同期宛てのメッセージでさえ言いたいことを何重にもオブラートに包んだうえ、何度も慎重に読み返してから送るのに、いまばかりはむきだしの感情が私の指を動かす。
送った三連のメッセージを眺めていると、ポケットの中のスマホが震えた。画面に『営業二課部長 甲野』と表示された瞬間、心臓がグンと押し付けられたような感覚を覚えた。コールを五回ほど見送ったあと、息を吐いて通話ボタンをタップする。
「お疲れさまです、倉橋です」
「月曜の資料ってまだできてない感じ?」
「あ、いま準備しているところです」
スマホ越しに大袈裟な溜息が聞こえた。
「忙しいのはわかるけど、できるだけ定時内に終わらせてくれないと。ほら、社長、時間外勤務にうるさいから」
「すみません」
「それに南くんだっていくつも案件抱えて忙しいんだから効率よくやらないと。そのへんの進行管理は倉橋さんの仕事でしょ? もっと考えて動いてよ」
「すみません。以後気を付けます」
言い終わると同時に通話が切られた。ツーツーという音を一通り聞いたあと、私はチョコレートを忍ばせている引き出しを開けた。
ウイスキーの効力がなくなってからというもの、ボンボンショコラを切らしていたけれど、チョコレートがアンガーマネジメントに良いらしい、というネットの情報を得てまたデパ地下へ出向き、今度はまるいミルクチョコレートの詰め合わせを買った。
箱に残されていた三つすべて包装紙を剥がし、口へ放る。その甘みを舌で感じながら二つ目、さらに三つ目。明日の朝に目の当たりにするであろう体重を想像し、溜息が出る。
デスクに置いたスマホが振動した。明るくなった画面に『すみません! 大丈夫です! もう少々お待ちください!』というメッセージの通知が表示される。南くんからだ。返信はせずに、スマホの画面を伏せて机に置く。
待っている人がどういう気持ちかまったくわかっていないのだ、待たせる側の人間は。
こちらが欲しい情報は〝いまどこにいるのか〟と〝何時に到着するのか〟の二点のみで、慌てて入力した形だけの謝罪ではない。大丈夫かどうか聞いたのは本当に心配する気持ちもあったけど、半分は皮肉だ。想像力の欠如、という言葉が頭に浮かんだ。先輩が人の少なくなったオフィスの一人で過ごすには広すぎるミーティングルームで待たされていることも、上長に理不尽な説教を食らっていることも、何一つ想像しようとしない。冷めたデカフェやチョコレートの包装紙で散らかったデスクのことも何一つ、南くんには知ったこっちゃないのだ。
ゴミとなった包装紙をまとめてくしゃくしゃにしてポケットに入れようと手をつっこんだら、ビニール素材の何かに手が触れた。取り出してみると、未開封のカイロ。家を出る前に念のためとポケットに入れた、貼らないタイプのものだ。今日は例年よりも寒いと、朝の天気予報で言っていた。そんな日でも出番がなかったのだから、家にある大量の未開封のカイロは棚の奥の奥に押し込まれ春を迎えるだろう。
取り出した貼るカイロを再びポケットに入れる。オフィスから駅まで、駅から家までの道のりは休日を迎える喜びでいっぱいで、ポケットの中に入っているもののことなど思い出さないだろう。
ふと、今日は何時に帰れるだろうかと時計を見る。十九時四十分。二時間後にオフィスを出るとすると帰宅は二十三時近くなる。家に帰ったら何を食べようか。冷蔵庫には冷凍うどん、豆腐、納豆、卵、ヨーグルト。どの食材も今日の私を満たしてくれるものではない。外食はできるだけしたくないけれど、夢中で牛丼をかきこんだあの日から、仕事終わりの遅い時間にチェーン店へ入ることへのハードルはかなり下がってしまった。
「倉橋さんいまから飯ですか?」
数か月前の昼過ぎ、コンビニへ行こうとビルを出たところで南くんに声をかけられた。
「そうだよ。何か急ぎの用があれば聞くけど」
「いやそうじゃなくて。僕いま外出から戻って来たんですけど昼飯まだで。よかったらいっしょにどうすか?」
南くんが髪の毛を整えるために腕を上げたとき、うっすら煙草の匂いが漂った。南くんはヘビースモーカーらしく、一日に数回は喫煙所に向かう。毎回必ず誰かといっしょに行くから、一度のたばこ休憩にたっぷり二十分は使っていた。
「あーでも午後イチで会議なんだよね」
いいともだめともつかない曖昧な返事を、私はさまざまな局面で使っている。そのことを、なぜだか南くんに見抜かれる気がして目を逸らした。
「じゃあ、ぱぱっと近場で食べましょう。なんの気分ですか?」
いいともだめとも言えない質問に私はなんでもいいと答えるほかなく、南くんがよく部長と行くらしい和定食屋の暖簾をくぐることになった。五年ここに勤めている私の知らない店だった。メニューを選んで定食の盆がテーブルに届く間にした会話といえば今朝ネットニュースになっていた人気俳優の不倫スキャンダルと南くんが最近機種変更したという最新スマホの性能についての話で、話題の提供はどちらも南くんだった。オフィスに戻れば仲の良い同期も可愛がっている上司もいるのになぜ私を誘ったのかと不思議に思っていたけれど、商談終わりに仕事以外の話ができる適当な相手が欲しかったのかと腑に落ちた。
テーブルの向かいで生姜焼きを大盛りの白米にのせ豪快に口に運ぶ南くんを視界の端に捉えながら、私は脂ののった焼きサバの身をほぐすことに集中していた。
「僕いま二十四歳なんですけど、大学の同期が一人結婚したんですよ」
「へー早いね、けっこう」
「ですよね、僕なんか焦っちゃって。勢いでマッチングアプリ入れちゃいました」
意外だった。へー、南くんってシュッとしてるしなんでも器用にこなすからアプリに頼らずとも彼女ができそうなものなのに。思わずそんな言葉が口をついて出そうになったから、ふーんとかへーとかそんなようなことを言って、慌ててサバの身を口に運んだ。
「まあ入れただけで使ってはないんですけどね。倉橋さんって結婚願望とかあるんですか?」
予想外のパスが回ってきて、よく嚙まずにサバを飲み込んだ。
「……私はないかな。けっこう一人の時間好きだし」
「倉橋さんしっかりしてますもんね。一人で生きていけそう」
南くんの言葉に引っかかり、愛想笑いをしてお茶で喉を潤した。褒められているような気もするし強烈な皮肉な気もする。
「南くんはすぐ結婚できそうだけどね。誰にでも好かれそうだし」
えーそうですか? と南くんが笑う。こういう類の言葉は言われ慣れてきているのだろう。
「倉橋さんはどうですか?」
「だから私は結婚願望ないから」
「そうじゃなくて。倉橋さんって僕のこと嫌いですよね?」
お茶とサバの脂で潤っていた喉が一瞬で乾き、粘膜が張り付いたような感覚になった。
「え? なんで?」
「なんですかね、なんとなくだけど、そんな気がして」
南くんはデザートの八朔を豪快に食べている。果汁で手や口がべとべとになることは全く気にしていない。
私は南くんはみんなに好かれていると思っていた。でもその〝みんな〟には私は入っていただろうか。考えたことがなかった。社内に嫌いな人間は何人もいる。あからさまにルッキズム思考で態度で女性差別を示してくる四十代のバツイチ社員や、営業事務課を見下してくるわりに単価の低い案件ばかりとってくる年下の営業職同性社員。嫌なことを言ってきたりしてくる人間のことは嫌いだ。でも南くんは、そうじゃない。異様なくらい気が利くところが鼻につくし、爽やかで誰にも隙を見せないところが苦手。でもそれは嫌いとは違う。
このとき私がなんて返事したかは覚えていないし、オフィスに戻る道中をどう過ごしていたかも記憶にない。たしかなのは、この日以降も南くんの私への態度は変わらなかったし、私もそうだった。でも私の気のせいでなければ、もしくは自意識過剰でなければ、八朔を一生懸命食べている南くんの目は、少しだけ寂しそうに見えて戸惑った。
ミーティングルームの外からきゅっきゅっとテンポの速い足音が聞こえたと思ったら、突然勢いよく扉が開かれ、息を切らした南くんの姿が現れた。もう帰って来ないと思って、作り終えた資料をチャットで南くんと部長に共有したところだった。
「本当にすみません」
「もう来ないかと思った。大丈夫?」
「すみません、本当に、ごめんなさい」
「いいから頭上げてよ」
人に待たされるのも嫌いだけど、まっすぐ謝られるのはもっと嫌いだ。頭を下げるというよりも項垂れている南くんの姿は、いつもよりも小さく見えて、なんだかこちらが申し訳ない気持ちになる。
「何もなくてよかったよ。なんか事故とか事件とか、そういうことに巻き込まれたかと思った」
嘘ではなかった。作業しながらも「どこにいるの?」「大丈夫?」などとメッセージを入れていたけれど返信がなく、私は途中から本気で南くんの安否を心配していた。
「え、もしかしてだけど、お酒飲んでる?」
椅子に座り肩で息をする南くんの頬は赤く、目が充血している。半期に一度行われる部の飲み会で、時々目にする姿だった。
「あの、ドトールに行ったら二課の海部部長がクライアントといて、そこに偶然鉢合わせて。海部部長が俺のこと紹介してくれたんですけど、そのときにこれから飲み行くからいっしょに来いって言われて。まだ仕事があるんでって断ろうとしたんですけど、なんかそういう雰囲気じゃなくて。一杯で帰りますって言ったんですけど帰るタイミング失って。二人は二軒目に行くかってなったからそこで抜けさせてもらって、それで、いまです。本当にすみません」
海部部長のことは私もなんとなく知っている。仕事はできるが少し強引なところがあると、二課の社員が嘆いているのを何度か聞いたことがある。
「大変だったね。でもまあ、資料もできたしいいよ。今日は帰ろう。チャットでExcelとWordもいっしょに送っておいたから見といて。修正点あったら月曜の朝イチで直すから」
はい、と力なく返事をするだけで、南くんは立とうとしない。初めて見る南くんの姿に動揺し、意味もなく部屋を見渡してしまう。
「倉橋さん、部長に怒られましたよね? 俺の仕事の進行管理も倉橋さんの仕事だって」
「え、なんで?」
「さっき部長から電話があって、なんかよくわからないんですけど何かあったらいつでも相談しろよって、急に。それで倉橋さんの名前が出てきて」
「なんて言ってたの?」
「さっき倉橋にはびしっと言っといたから、みたいな。で、よくよく話を聞いたらスケジュール管理ができてないからどうとかって…」
「そっか」
「倉橋さんは怒らないんですか?」
「私が? 部長に?」
「僕にです。遅れてくるし、準備は全部倉橋さん任せだし、何も悪くないのに部長色々言われて。倉橋さん優しいから言い返さなかったと思いますけど」
南くんはわかっていない。本当に優しい人なら、本当に南くんを大切な後輩だと思っているなら、今回の南くんの行動について目を見て話して、いっしょに改善点を探ろうとするのだ。
「これ見て」
ポケットに手を入れ、さっきくしゃくしゃに丸めたチョコレートの包装紙を取り出した。
「ストレスを発散するいちばん楽な方法。南くんを待ってる間、ブラウニーとチョコ三つも食べちゃった」
「…すみません」
謝ってほしかったはずなのに、いざ面と向かって律儀に頭を下げられると、なんて言えばいいかわからなくなる。その反面、気まずい沈黙を埋めようと、喋ることはまとまっていないのに、止めどなく言葉が溢れてきそうになる自分もいた。
「南くんが来るまでは、頭の中で酷いこと言ってたの。遅刻してる上にロクに返事もしないなんて、私が一人でどんな気持ちで作業しているかなんて考えてないんだろうな、想像力が欠けているって」
「……仰る通りです」
「でも、南くん目の前にしたら言えないの、怒れないの。いい人って思われたいから。ずるいの、私」
時計の針が動く音がやけに大きく聞こえる。
「南くんさ、前に、嫌われてますかって私に言ったの覚えてる?」
「覚えてます」
「私、南くんのこと嫌いじゃない。南くんといっしょに仕事をしているときの自分が嫌いなの」
頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいる南くんを尻目に、私のお喋りは止まらない。
「南くんがひょいって、なんでもなさそうな顔してやっちゃうことを、私は誰かに見てもらって、感謝されたくてやってたの。たまにだけどちゃんと見てくれる人はいて、あ、大丈夫だ、まだこの会社にいていいんだって安心できたの。それ以外、誇れることがなかったから」
あの、と南くんが私の言葉を遮る。
「なんでもなさそうな顔でやってるってなんですか? 僕、何かしてました?」
「いちいち意識してもないんだよ、たぶん。無意識に周りを見て動けて、それに誰かが見ていてくれているかも、なんて打算的に考えてないんだよ。私はズルいからそういうことばっかり考えちゃうの」
「いっしょですよ、俺も」
「え?」
「今日の俺がそうです。部長に仕方なく連れてかれたのは本当ですけど、内心ちょっとラッキーって思ってました」
「そうなの?」
「今日海部部長といっしょだったクライアント、かなりの大口っていう噂だけ知ってて。こんなところで会えるなんて俺ツイてるなって。最近あんまり商談上手くいってなかったから、ここで太いパイプ繋げてもらおうって。打算的でしょ。目の前の商談相手よりも、初対面のまだ成約もとれていない権力をとったんです」
「そっか」
「倉橋さんが言ってることも、そう見えてるだけで実際はたぶんそうじゃないです。同期がでかい案件任されてると焦るし、ミスしたら会社の損失よりも周りからどう思われるかってそればっかり。まっさきに自分の保身を考えるような人間です」
いつだかの、南くんの寂しそうな目を思い出す。私の気のせいではなく、そうさせる何かがあったのだろう。ちゃんと話を聞かなかった私は上司失格だ。
二十一時を知らせるチャイムが響く。蛍の光。久しぶりに聴いたなあと呟くと、南くんが僕もですと言った。
「仕事のこと考えるのはおしまい。どうせまた、月曜になったらいやっていうほど考えなきゃいけないんだし」
手をパンと叩いて労働終了の合図を鳴らすと、南くんが少しだけ笑った。
ビルの外に出ると冷気混じりの風が体を覆った。南くんがぶると身震いをして両腕をさする。寒いのダメなんですよね、と呟く南くんの口からは白い息が出ている。
そういえば、とポケットを探り、一日手持無沙汰だったカイロを取り出す。
「これあげる」
「えっでも倉橋さんも寒いですよね」
「腰に貼ってるんだ。やけに温度高くて昼間は暑いくらいだったんだけど、今はちょうどいいの」
「じゃあ遠慮なくいただきます。ありがとうございます」
ビニールの包装が剥がされたカイロが、南くんの手の中に大事そうに包まれている。
「意味ないってわかってても、昔からカイロ振っちゃうんですよね」
南くんはそう言って、しゃかしゃかと小さなマスカラを奏で始めた。大きく骨ばった手に挟まれ、されるがままに縦へ横へ小刻みに揺れるカイロがなんだかおかしくて、私は思わずふふっと笑った。
【おわり】