【佳作】ひとの煙(著:藤みのる)


 そびえ立つ一本の長い煙突は、建物の比率と比べるとはるかに細長く、今まで見たどんなものよりも、高く遠く異質なものに見えた。
 煙突から煙が生まれたかと思うと、空に浮遊する目には見えない粒子たちが瞬く間に包み込んで、消し去っていく。(りん)は、捉えたと思った煙を見失う(たび)に、がっかりした。
 (しょう)ちゃんなのに。ついこないだまで一緒にいたのに。
 凛は、煙突から出ては消えていく煙を、ただひたすらじっと目を凝らして追いかけ続けた。
「ぜったい忘れんから、大丈夫」
 凛と一緒に煙突を眺めていた(あつ)()が言った。だが、凛の(のう)()にはその言葉が響かない。というより、凛は意図的にその言葉を排除した。
 どうせすぐに、忘れるくせに。
 数日後にはけろっとしている篤人の様子が、凛の頭の中に容易に浮かんだ。
「凛ちゃん、篤人君、こっちおいで」
 火葬場の出入り口から、翔ちゃんの母である()()()が呼んだ。
 凛は、その声も届いていないふりをした。もうすっかり夕方で、いつもの凛にとってはとうに帰る時間だが、今日だけは関係なかった。時空にぽっかりと穴が開いたような、途方もない空間が果てしなく続いているような不思議な感覚だった。
「翔ちゃんは、どこに行くん
 凛は、篤人に聞くわけでもなく疑問を宙に投げかけるように、ただつぶやいた。
「星になるんや」
 篤人がそう返事をすると、凛は肩を落とした。
「ばか。嘘ばっかりや」
 凛は篤人を置き去りにして、奈津子がいる所へ駆けた。
 火葬場の入口で待っていた奈津子に吸い寄せられるように、凛は奈津子と共に待合室に入った。奈津子も含めて中にいた大人たちは皆、()(ふく)を着てしんみりしていた。時折、鼻をすする音が凛の耳に届いたが、その音はいつもより大きく(はん)(すう)した。
 凛は、この場にいる大人たち全員が、九歳にして煙になった翔ちゃんがどこに行ったのか、知っているような気がした。凛は翔ちゃんの行方(ゆくえ)を知りたいのに、大人たちには聞けなかった。大人たちは、とうの昔にそういったものを受け入れている気がして、慣れっこな気がして、それが嫌だった。
 凛はまだ、実感すらない。なにもない。今日が終わって、眠りについて、明日目が覚めたら、いつものように病院に翔ちゃんがいる気がした。それは、これからもずっと変わらないと思っていた。

 翔ちゃんは、病弱だった。同級生の凛や篤人よりも一回り小さい翔ちゃんは、いつも病院のベッドにいた。
 凛は、男の子なのに自分より背が低く(きゃ)(しゃ)な翔ちゃんに対して、「何故こんなに小さいのか」という疑問を持っていたが、誰にもその疑問を投げかけることなく、心の奥にしまっていた。
 翔ちゃんは小学一年生の頃は、皆と一緒に学校に通っていたらしいが、半年もすると休みがちになり、次第に学校よりも病院のベッドで過ごすことが多くなった。二年生にもなると、学校には一度も顔を出すこともなく、三年生になってもそれは変わらなかった。
 一方で凛は、三年生になる頃に近畿地方の海沿いの小さな町に引っ越してきた。凛が住んでいた所は隣の県だったが、同じような田舎(いなか)に見えても、凛にとっては何もかもが違って見えた。それは町並みだけじゃなく〝人〟もそうだった。似たような方言を使っているようで、イントネーションが微妙に違った。
 凛が転校してきた初日、クラス中の女の子が物珍しそうに凛の机の周りを囲んで質問攻めにした。「どこから来たん?」「ペットは飼っとる? うちには(しば)(いぬ)がおるんやで」「あだ名は何がええ?」「なんで引っ越してきたん?」「シール交換しよや」まっとうな質問から脈略のないものまで、色んなクエスチョンが凛の周囲を駆け巡った。凛が次から次へと生まれる疑問を必死に対処していくと、誰かがクスクスと笑った。凛は瞬時にイントネーションの違いを笑われていると理解した。それから凛は、なるべくイントネーションの違いがわからないように単語で返すことに努めた。
 凛が転校してきて二日目の放課後。凛はまだクラスに()()めず、一人ランドセルを背負って教室を出ようとした所、先生が思いついたように頼みごとをした。
「凛ちゃん、これ、翔君の所に届けてくれんかな? そうや! 篤人君もお家近かったやんな?」
 先生は、サッカーボールを抱えて今にもグラウンドに飛び出しそうな篤人に向かって、声を上げた。篤人は、先生と凛を交互に見て、けだるそうに溜息をついた。

 先生の一声によって、凛と篤人は町で一番大きな病院へ向かった。病院は、篤人の家から600m程しか離れておらず、そう時間もかからないのに、篤人はつまらなさそうにサッカーボールを()りながら歩いた。
 二人が病院に着き、翔ちゃんのいる病室に向かうためにエレベーターのボタンを押すと、看護師に止められた。
「お父さんとか、お母さんの面会? 面会の許可は取ったん?」
 凛と篤人は互いを見合わせた。そういったものがわかっていない二人は、看護師に教えられるがまま面会申込書に名前を書いた。
 篤人はめんどくさそうに、ひらがなで「たけだあつと」と、なぶり書きの汚い字を書いた。その文字は、なんでこんなことをしなきゃいけないのか、本当はサッカーをやりたかったのに。という気持ちがそのまま表れていた。一方で凛は、小さく「やなぎりん」と書いた。転校したばかりの、先への不安が表れているような小さな字だった。
 凛と篤人は早々に病室に入った。篤人は何も言わず、翔ちゃんのいるベッドのカーテンを勢いよく開けた。
 シングルサイズのベッドの隣に、棚と小さなテレビがあるだけのこぢんまりとした空間に、小さな翔ちゃんがいた。翔ちゃんは、さかなの図鑑を見ていたが「えっ」と驚いてすぐに閉じ、二人を見上げた。翔ちゃんのぎょろっとした目が、図鑑の表紙に載っているさかなみたいだと凛は思ったが、口にしなかった。翔ちゃんが普段より目を大きく見開くのも無理はなかった。篤人は何も声をかけず、いきなり翔ちゃんの病室のカーテンを開けたもんだから、翔ちゃんにとっては、全く予想がつかない出来事だった。
「同じクラスの篤人やけど、先生に頼まれたから」
 篤人はぶっきらぼうにランドセルを開けて、プリントを差し出した。同じクラスと言えど、篤人と翔ちゃんは友達ではないことが、凛はわかった。
「篤人君が? なんで? あ、ありがとう」
 翔ちゃんは、驚きながら受け取った。
「俺、近所に住んどるから」
 篤人はそれだけ言うと「じゃ」と、すぐに病室を出ていった。
 凛は慌てて、「えっと、近所に引っ越してきた凛です」とだけ言って、軽く()(しゃく)をしてから小走りに篤人についていった。
 この日が、凛と翔ちゃんが初めて出会った日だった。
 それ以来学校の先生は、宿題やら連絡のプリントやら、何かあると凛と篤人に届けるように頼んだ。時には、翔ちゃんに全く関係のないプリントすら頼むこともあった。体育の授業で必要な水着のことや、運動会についての注意事項が書かれたプリント。学校に来ない翔ちゃんにこれを届けて何になるんだろうと、凛は思ったが、先生に逆らうことなく届け続けた。
 篤人は、病院で生活している翔ちゃんに対して最初こそ優しかったものの、数か月もすると態度が荒々しくなった。病院へ行くのがめんどくさいことを隠さなくなり、病室に着くとすぐさま翔ちゃんのご飯のデザートを奪った。プリントを届けに来た当然の対価だと言わんばかりの態度だった。だが、篤人のそんな態度に翔ちゃんは何も言わなかった。翔ちゃんが悪いわけじゃないのに、申し訳ない気持ちがあったのかもしれない。でもそれが篤人をつけあがらせた。そのうち篤人は、自分の宿題を翔ちゃんにやらせるようになった。学校で授業を受けていない翔ちゃんが、何で篤人より勉強ができるのか凛には不思議だったが、そういったところも篤人が翔ちゃんにイライラする要因だったかもしれない。
 篤人は時々、不自然に翔ちゃんに八つ当たりした。機嫌の悪い日の篤人は、病室に来るや(いな)や翔ちゃんのベッドにランドセルを投げつけた。プリントを自分で取り出せ、という篤人なりの合図でもあった。
「もうちょっと優しくしてくれてもいいやん」
「俺は学校に行って、サッカーのクラブチームにも入っとる。お前は寝とるだけやん。肩でも叩け」
 そう言って、勝手にテレビ用のテレフォンカードを入れて、お笑い番組をつける様は、自分の家でくつろいでいるようだった。
 凛は帰り道ではいつも「もうちょっと翔ちゃんに優しくしてや」って言うのが日課だった。でも決まって篤人は「しとるやん」って返した。「嫌なんやったら、私一人で届ける」と凛が言うと、決まって篤人は黙った。しばらくすると何事もなかったように、自分の好きなサッカー選手の話をして話題を変えた。
 翔ちゃんの病院へ行くのがめんどくさいはずなのに、篤人は先生に頼まれると必ず翔ちゃんの病院へ行った。
 ある日、いつものように病院に行って篤人がカーテンを開けると、翔ちゃんがいるベッドの隣に、奈津子がいた。
「いつもありがとう。翔に友達ができて嬉しいんよ」
 奈津子はそう言ったが、凛は返事に詰まった。篤人はいつもとは違い、(れい)()ただしく笑顔を奈津子に向けて同意したが、凛は明確に「違う」という感情が()()えた。篤人と翔ちゃんの関係は凛にとって、「友達」とは思えなかった。篤人の翔ちゃんへの態度を止めきれない自分も、翔ちゃんの友達じゃないと思った。
 でも凛はそのことは言わなかった。奈津子は、なんとなく涙ぐんでたし、いつもより少し病室が静かな気がして、そんな空気感のなか正直に言うのはなんとなくバツが悪かった。
 私達の関係は何なんだろうと、凛は帰り道に冷静に考えたが、答えは出なかった。だが、凛にとって確かなことは「友達ではない」ということだった。
 病院へ行くのは、近所に住んでいるから仕方のないことで、先生から頼まれた任務であり義務感がそこにあった。それに、凛が病院に通う一番の理由は、「()(わい)(そう)だから断れない」だった。
 凛は翔ちゃんのことを()(びん)に思っていた。学校にも行けないし、体も自分よりも小さい。友達はいなくて、篤人からはいじめとは言わないまでも、ろくな扱いは受けていなかった。
 凛は時々、自分が翔ちゃんだったらどうしようと、思うことがあった。何が楽しいんだろう。こんな人生なら嫌だ。心の底では、そんなおそろしいことを考えていたもんだから、友達とはいえなかった。

 翔ちゃんに、宿題や連絡事項が書かれたプリントを届けるようになって一年ほどたった頃、凛も面倒に思うようになってきた。たまに体調不良を(よそお)って、病院に行かなくなった。凛が行かないと、篤人も行かなかった。
 そういう日が続くと必ず、奈津子から家に電話がかかってきた。
「翔ちゃんのお母さんが、少しでもいいから会ってほしいって言ってたで」と凛は、母の()()から聞かされた。
 奈津子から連絡が来ると、凛は仕方なく病院に行った。でもまたしばらくすると行かなくなくなる。を繰り返した。凛には凛なりに他に考えることが多かったし、やる事だってあった。
 凛も学校に慣れてきて、放課後に一緒に遊ぶ友達のようなものができた。凛は学校の子たちともっと遊びたかったし、翔ちゃんにばかり構ってられなかった。凛は、隣県から転校してきたとはいえ、方言が微妙に違うことを恥ずかしいと思っていた。皆と同じように似せるのに必死になってイントネーションを真似(まね)た。友達らしい人を作って馴染んでいる様にみせかけていたが、放課後の遊びの誘いに「翔ちゃんの病院にいかなきゃいけないから遊べない」と言うのが嫌だった。決まってノリが悪いってことになって、いい子ぶってるとまで言われた。そういうことを言われるもんだから、凛は翔ちゃんのことを時折、うっとうしいと思うこともあった。
 プリントを届けに、翔ちゃんの病室にいくと、最近の翔ちゃんは学校のことをよく聞くようになってきた。体育で何をしたのかとか、学校で何が流行(はや)っているのかとか。
 男の子たちは、カードゲームばかりやっていると凛がいうと、次に病院に行く頃には、カードゲームを全てそろえて翔ちゃんは待っていた。カードゲームのことをあまり知らない凛が見ても、レアなカードが(たく)(さん)あることが容易にわかった。キラキラと輝くカードに篤人が食いつくと、翔ちゃんは「これもあるよ」と嬉しそうに笑いながら見せた。
 翔ちゃんと篤人はカードゲームに夢中になって、面会時間のギリギリまで遊ぶようになった。凛はさらに面倒に感じた。凛にとっては、カードゲームはつまらなかったし、女の子同士で遊ぶようなものじゃないし、全く興味を持てなかった。でも、カードゲームを通して、翔ちゃんと篤人が仲良くなっている気がして、それはいいと思った。相変わらず篤人は翔ちゃんに乱暴だが、前よりも翔ちゃんが笑うことが増えた。
 何度やっても翔ちゃんが勝つことに篤人はイライラして、ゲームの途中でカードをぐしゃぐしゃにした。「今のはなし! ずるすんな!」と自分勝手な要望を突きつけるが、それでも翔ちゃんは「ずるなんてしてないやん」とけらけら笑っていた。
 これなら篤人をたしなめなくてもいい。凛の中にあった小さな罪悪感も表に出なくて済む。凛はどこかでそう思っていた。

 だが、ある日ふと凛は「この状況はいつまで続くんだろう」と疑問を抱いた。凛は悪気なく恵美に聞いた。
「いつまで、翔ちゃんの病院に行かなあかんの?」
 台所で人参を切っていた恵美は、その手を止めて困ったように凛の方を振り返った。
「なんで?」
「だってめんどくさいもん」
「なんでそんなこと言うん?」
「嫌やもん、何で私が行かなあかんの? 先生が届ければええやん」
「翔ちゃんのお母さんが、凛と篤人君に届けてほしいから先生に頼んだんやって。やからそんなこと言わんといたってや」
 その日、先生からの要望ではなく、奈津子の要望だったということを凛は知った。
「なんでなん? 私らが届けなあかん意味わからん」
 どうしてわざわざ凛達に届けさせるのか、凛には理解ができなかった。先生は、翔ちゃんにとって必要のないプリントまで、凛達に届けさせていた。この前は、遠足の持ち物についてのプリントだったし、その前は家庭科の授業で必要なエプロンのことだった。宿題なら渡す意味がわかるが、翔ちゃんが(もら)っても意味のないプリントをわざわざ病院にまで行って渡すなんておかしい。しかも、それが奈津子の希望だというから、凛の中でさらに迷宮入りし、イライラした。

 いつものように病室のベッドでカードゲームをしている篤人と翔ちゃんを見ながら、凛は解決しない疑問を頭の中で巡らせた。どうして届けなければいけないのか。行き場のない疑問は、次第に凛の中で怒りに変わっていった。カードゲームをしながらへらへら笑う翔ちゃんと篤人を見るとさらに腹が立った。
「ゲームしたいんなら、篤人君だけ届ければええやん!」
 凛は突然湧いたような怒りをぶつけ、病室を出ていった。
 翔ちゃんと篤人からすると、何の前触れもなく急に怒って出ていったように見えた。篤人と翔ちゃんは理解が追いつかず、きょとんとしながら互いを見合わせた。

 それから凛は、しばらく病院へ行かなかった。凛が行かなくなると、篤人も行かなくなった。凛は、結局篤人も嫌なんだろうと思っていた。
 しかし不思議なことに、あんなに面倒に思っていたことを拒否した途端、凛の中で罪悪感が芽生えた。行くのが嫌だったくせに、行かなくなるとそれはそれでモヤモヤした気持ちになった。放課後、翔ちゃんの所へ行かずに学校の子たちとシール交換をしていると、さらにその気持ちが増した。
 かといって凛は「篤人君だけ届ければええやん!」そんなことを言って病院を出てしまったもんだから、いまさら何事もなかったかのように、また病院へ行くことができなかった。
「何があったんか知らんけど、翔ちゃんは来てほしいらしいよ。翔ちゃんのお母さんがそう言ってたで」
 恵美はそう言ったが、凛は聞かなかった。気まずくなってもう会いたくないという気持ちは、時間が経つ(たび)(ふく)らんでいたし、それに凛の中では「友達ではない」という思いもぬぐえなかった。

 それから三カ月ほどして、翔ちゃんが「亡くなった」と連絡が来た日、これでもう病院に行かなくてすむんだ、と一瞬凛の頭をよぎった。翔ちゃんが亡くなったと聞いた時の、凛の反応は薄かった。「友達ではない」と思っていたとはいえ、自分の反応の薄さに凛自身も驚いたが、凛はまだ「亡くなる」ということを深く理解していなかった。
 凛は、恵美に言われるがまま黒い服を着て、車に乗って翔ちゃんの家に向かった。

 木のお(ひつぎ)に入った翔ちゃんを見た時、ようやく凛は「亡くなる」というものの近くに来た気がした。
 元々青白かった翔ちゃんが、もっと青白い顔をして、目をつぶってお棺の中に眠っていた。青白いけれど、すぐに目を覚まして起き上がってもおかしくないくらい、自然にそこに眠る翔ちゃんを見て、凛はやっぱりまだ「亡くなった」という実感はなかった。
 お坊さんのお(きょう)を大人たちのように静かに聞いても、凛にとってはよくわからない言葉の連続だったし、大人たちを真似てお(しょう)(こう)をしても、これに何の意味があるのかもわからなかった。
 次の日には、翔ちゃんが入った木のお棺を追って車に乗り、火葬場に向かった。凛はいまだに翔ちゃんが「亡くなった」という実感はなく、まだ生きているような気がして、ここまでの長い儀式みたいなものの方が、つくりものみたいに思えた。
 火葬場に着くと篤人がいて、「よう」といつもと大して変わらないように凛を呼んだ。篤人もまた凛と同じように、わかっているようできっとわかっていない。それでも、決まり事のようなつくりもののような儀式が進行していくにつれて、「亡くなる」というものに凛は近づいていった。
 翔ちゃんが入った木のお棺が()(そう)()に入れられたとき、凛は突然、無性に(むな)しくなった。
 明確にはわからない感情が芽生えたが、それから逃げるように外に出て、煙突を篤人と眺めた。
 煙が出ていくのが見えると、「翔ちゃんの人生はこれで終わり」そう言われた気がして、急に嫌になった。人の人生というものがわからなくて、突然こわくなった。

 翔ちゃんを捕まえようと煙突から生まれる煙を追いかけていたのに、篤人が「星になるんや」とか馬鹿なことを言うもんだから、その言葉を拒絶するように奈津子のいる所にまた戻った。
 だがすぐに凛は、(こう)(かい)した。
 皆が慣れたように振る舞っている空気感から逃げたかったのに、どうしてまた来てしまったんだろう。
 凛は、翔ちゃんの人生のあっけなさの説明を誰かにしてほしいくせに、大人たちには聞きたくない。本当は、一から手取り足取り教えてほしいのに、聞くのがこわい。
 何で病気だったのか、なんで生きて、こんなに早く、子どものまま死んでしまったのか。なんで友達がいなかったのか。なんで翔ちゃんだけ学校に行けなかったのか。なんで私はあの時、プリントを届けに行かなかったのか。色んな気持ちが、凛の中でぐるぐる回って、複雑で騒がしい。それらが合わさって膨らむと、いつの間にか怒りに変わって頭が爆発しそうになった。
「翔と友達でいてくれてありがとうね。翔は、凛ちゃんのこと大好きやったから、ありがとうね」
 奈津子が言った言葉を「違う」と凛は反射的に跳ね返した。
 凛の瞳から、ぽろぽろと涙が流れた。それは凛が翔ちゃんに対して泣く初めての涙だった。あふれ出たその涙に凛自身驚いた。
「友達じゃない。友達じゃなかった。私は好きでもなんでもなかった。ごめんなさい」
 凛は、自分でも混乱している感情を吐き出した。閉ざされた、硬い扉をめい一杯広げて叫んだが、思ったよりその扉が重く、出てきたのは小さい声だった。
 凛は病院に行くのが面倒だったし、翔ちゃんと一緒にいて楽しいと思ったこともなかった。相変わらず凛は翔ちゃんを(あわ)れんでいた。篤人の翔ちゃんへの態度をたしなめながらも、心の奥底ではずっと、篤人と同じ気持ちだった。凛の小さな体の中で、明確に言語化できなくても、そういった感情を凛は確かに自覚していた。
 翔ちゃんが煙になって、今こうして涙が出るのも、憐れみだ。翔ちゃんの小さな生命の火は、ろうそくよりもあっけなく、何事もなかったように一瞬で消えるもんだから、人の存在の重みのなさが、凛は異様に虚しかった。それを何の説明もなしにすんなりと()み込んで受け入れることは、凛にはできない。その一方で、友達じゃないと心の底で思っていることも、憐れんでいることも最低だと自覚しながらも、どうしようもなかった。
 友達なんかじゃなかった。と泣きながら訴える凛を、奈津子は抱きしめた。
「凛ちゃんと、篤人君が来てくれた日はね、翔はよく眠れてたんやで。『痛い』とか『薬飲みたくない』って言わんかった。早く元気になって、二人と学校に行きたかったんやと思う。凛ちゃんがどう思ってても、翔にとっては友達やったのは、ほんとうやから。翔はいつもね、凛ちゃんと篤人君の話をしてた。『一緒にいるだけで楽しい』って、笑ってたんやで。翔にとって凛ちゃんと篤人君は大事な友達やった。やから、泣かんといてな。本当にありがとうね」
 奈津子は、小さな黒い(かばん)から()(れい)に折りたたまれたノートの切れ端を取りだして、凛に見せた。
「りんちゃん、あつとくん、ありがとう。たのしかった」
 震えてゆがんだ小さな字が書かれていた。翔ちゃんの生命の火が尽きる直前に書かれたものだということが、文字のゆがみから見て取れた。
「翔がほんとうに最後の時入らん力振り(しぼ)って書いたんやで。最後にどうしても、友達やった二人に伝えたかったんやと思う。よかったら、持っといてやってくれんかな」
 奈津子はこらえていた涙を手で隠しながら、凛にノートの切れ端を渡した。
 凛は、その切れ端を受け取ると、溜まっていたものをすべて吐き出すようにめいっぱい泣いた。と同時に、自分のゆがんだ心の目を(さげす)んだ。
 凛が「友達じゃない」と思っていた関係は、翔ちゃんにとっては「友達」だったのかもしれない。つまらないと勝手に決めつけた翔ちゃんの日々は、楽しかったのかもしれない。虚しいと勝手に決めつけた、翔ちゃんの人生は、本当は幸せだったかもしれない。少し風が吹いたら、飛んでしまいそうであっけないと思っていた翔ちゃんの命は、なによりも(とうと)かったのかもしれない。翔ちゃんの人生が憐れなんかじゃなくて、自分の小さな目が憐れだった。色んな事を勝手に決めつけて、みくびった自分は何て愚かなんだろう。情けないんだろう。小さいんだろう。翔ちゃんは、思っていたよりもずっと大人で、あの煙突のように高く遠い人だった。翔ちゃんがいなくなってから気づいても、もう遅い。これまで(たく)(さん)の時間があったのに、もっと翔ちゃんを楽しませることだってできたかもしれないのに、何もしなかった。
 凛は、奈津子の腕に隠れるように、顔をうずめて泣いた。
「ごめんなさい。病院に行きたくないって言ってごめんなさい。もう、翔ちゃんに会えんのに、ごめんなさい」
 奈津子は優しく凛の頭を()でた。
「翔はね、きっと生まれ変わるから、大丈夫。きっとまた会えるんよ」
生まれ変わる?」
「そう、生まれ変わる。人がああやって煙になって天まで戻ったら、また生まれてこれるんよ。そしたらまた、会ってやってね」
 凛はまた、めいっぱい泣いた。奈津子が言った言葉に、凛は(うなず)けなかった。生まれ変わりというものがあったとしても、それはもうたぶん、翔ちゃんじゃない。一緒にいるだけで楽しいと思ってくれた翔ちゃんじゃない。何もしてあげた記憶なんてないのに、友達だと思ってくれた翔ちゃんじゃない。
 凛はいまになって、翔ちゃんと友達だったのかもしれないと思った。篤人と翔ちゃんの関係だって友達だったのかもしれない。単純で綺麗なものばかりが、友達というわけじゃない気がした。こんなにころっと感情が変わる時点で友達じゃないかもしれないけど、翔ちゃんと友達でいさせてほしいと、凛は心底願った。

 凛はもう一度、煙突の方に駆けた。長い煙突の先から、細長い煙がはるか遠く天まで登っていくのを見つめた。翔ちゃんの行方(ゆくえ)を心配しながら、翔ちゃんのこれからの行方に楽しいことが沢山あるようにと、心の底から祈った。
 ふと隣を見ると、篤人の目が潤んでいた。篤人の涙を、凛は信じれた。そっと、篤人の手を握った。
 その日の夕焼けは、いつもより色濃かった。色づいた雲の(すき)()から見える空は、遠すぎて誰も知りようがない。その透き通った先の見えない空のおかげで、翔ちゃんの行方にも希望が持てた気がした。

【おわり】