【最終選考作品】めざわり(著:下田悠子)
夕焼けチャイムに起こされて今日も絶望する。俺はあの音が今、なによりも憎い。正しい人間であれば朝からの活動が終了し、ようやく自由な時間がスタートしますよ、一日お疲れ様でした、ちゃんとした生活者の皆さんであればそうであるはずですよね? そうですよね? そう耳元で暴力的に叫ばれている気分になる。この音に外の世界の時間の流れを感じさせられて、今日も生産的な行いを何も成さなかった自分に対する自己嫌悪が始まる。クソだ。よりにもよってどうして大学の近くに家を借りたのだ。あいつらの声がうるさい。駅前の居酒屋で飲めばいいものを、あいつらはわざわざコンビニで酒を買って河川敷で飲む。あいつらは数年後、自分が就職できず引きこもって退学するなんて未来を微塵も予想していない。ここにいるぞ。お前らは数年前の俺だ。俺だってあのコンビニで酒を買ってあの河川敷で吐くまで飲んでいたのだ。その俺が今こうなっているのだから、お前らだって他人事じゃねえんだぞと窓から叫びたくなる。
死にたい。
どこでこうなった。
たいして頭良くないのに進学したのが間違っていたのか。東京に来たのが間違っていたのか。Fラン大学だからか。じゃあ、あいつらはどうして就職できた? 俺から見ても「コイツ大丈夫か?」って感じだったアホな奴が就職できて、俺が選ばれなかったのは何でなんだ。病んでると思われたくなくて無理をして参加した飲み会では散々な言われようだった。「ニートが遅れて来んなよ」「バイトは働いてるって言わない」「こっちは所得税払ってんだよ」。ダメージを受けてることを悟られたくなくて気持ち悪い顔で笑っていた。いよいよバイトも行けなくなって、正真正銘のニートになった。これで満足か? 俺が今唯一世の中の役に立てていることといえば、あいつらの「下」でいることであいつらの自己肯定感を高めることぐらいである。散々馬鹿にして気持ちよくなったくせに礼も言わずに帰りやがった。きっちり金はとりやがって。死ね。
インターホンが鳴る。ネットで何も買っていないんだから宅配業者ではない。どうせいつものように受信料をカツアゲしに来たのだ。また鳴る。無視する。また鳴る。無視する。布団にくるまって諦めるのを待つ。
ドンドンドンドンドン‼
「テツ――‼ 哲‼ て――つやあああ――――‼」
玄関のドアをぶっ叩きながら叫ぶ女の声に俺はぎょっとして飛び起きる。
「てっちゃ――ん、いるんでしょ――?」
が、少し考えて、布団にもぐる。嵐が去るのを息を殺して待つほかない。
「テツ――‼ いないの――⁉ 大丈夫? 生きてる? ……テツ? いないの? ねえ! あっ、大家さーん! 大家さんですよね⁉」
その声に、逃げられないと確信し、観念した俺は玄関を開けた。
笑顔で姉のカオリが立っている。
「よ。お邪魔しまーす」
姉が俺を突破して部屋に上がり込んできた。こんなことなら受信料カツアゲの方がマシだった。
「ちょ、ちょ、ちょ、待って! 何で⁉ なに⁉」
「久しぶりだな! 弟よ」
「いいから、ちょ待って何で」
姉が紙袋を見せて笑顔で言う。
「いろいろ、持ってきた」
「じゃなくて、来るなら電話ぐらい」
「ここ家賃いくら? 駅前スーパーあるし駅からまあ近いし便利……えっ、キッチン、二口だし。え――あたしずっと一口のとこ住んでたのに。え――大学生のくせに生意気。あ、大学生やめたんだっけ」
姉はこうやって一方的に言いたいことを喋り続ける。この人は会話をしない。会話をしているようで一人で喋っているだけなのである。
「お願いだから帰ってくれる」
「東陽武蔵線ってはじめて乗ったんだけど」
「は?」
「来るとき。ほら、帰宅ラッシュだから? ホームけっこう混むでしょ。並んでたんだけど。で、よく見たら、列の先頭んとこにこう、マルがみっつあって、わかる? 三列になって並んでくださいって、書いてあるの。でも、なぜか、こう、二列でこうダア――って長い列になってて。わかる? 真ん中、空いてんのね、こうやって」
聞いても無駄である。俺の返答などこの人は求めていないのだから。
「で、ホーム狭いでしょ、どんどん列長くなっちゃって。あれ思うんだけどさ、三人目の責任だと思うんだよね。こう、こう、こういて、この人ね。この人がちゃんと先頭の真ん中に並べばさ」
俺は姉が持ってきた紙袋を恐る恐る覗き込む。
「……姉ちゃん、これは何」
「……お母さんから電話あって。大学クビになってニートになってるから、カオリ近いんだから見てきてって。お母さん行けないからって、あ、お母さん、また腰やっちゃったって」
「うん、それはわかった。わかったんだけど、これは何?」
「だからまともに食べてないだろうからって、心配だって、それ、姉ちゃんの会社のだから」
俺は紙袋にパンパンに詰められた物たちを、触れてはいけないものに触れるように一つずつ取り出す。サプリメントらしき瓶。「開運の水」という怪しげなラベルが貼られたペットボトルの水。でっかい水晶。
「ヒャッ!」
宇宙人のようなデザインの気味の悪い人形と目が合い、思わず情けない声を上げてしまった。
「これうちの会社のマスコット。身代わりになってくれるんだよ?」
青い目をした人形がこっちを見ている。動けない。これが世に言う金縛りなのか。
俺が固まっていると、姉が正座をして改まった感じで話し始めた。
「テツ。今どき、就職できなかったとか、引きこもりとか、いっぱいいるんだから。テツだけじゃないの。大丈夫。大事なのは、これから、テツがどう変わるか、だと思うな。姉ちゃん、手伝うからさ、頑張ろう?」
「なに、怖い。怖い怖い」
「それは姉ちゃんの会社のだから、大丈夫あんたから金とんないって」
「明らかおかしーじゃん! 何⁉ マルチ⁉ 霊感商法⁉」
「まずは、体を健康な状態に戻そう? それで、少しずつモノの見方とかも」
「いい! いい大丈夫! 帰って!」
俺は呪物たちを紙袋に押し戻し、姉も玄関に押し戻した。
「明日も来るからね」
「来るな!」
ゾンビの襲来から身を守るように勢いよく玄関のドアを閉めた。姉、襲来。ゾンビの方がマシだったかもしれない。
姉が健康食品だかなんだかを扱う会社に就職したことは聞いていたが、その詳細まで知らなかった。持参した呪物を見るに、あれはどう見ても普通ではない。アウトな香りが漂っていた。あれは、弱った人々から金を巻き上げる商売に加担しているに違いない。
俺は姉がそのような世界の住人になったことに、驚いていなかった。姉は、「いいひと」だ。昔から性善説を信じており、疑うことを知らない。大学ではボランティアに精を出し、人を助けることに喜びを見出していた。そんな姉が、あのタイプの団体に「騙された」であろうことは容易に想像がついた。姉の目は、あれらの商品の効果効能を、心の底から信じて疑わない人の目をしていた。弟を想う姉の善意100パーセントの「施し」だった。
俺に比べて優秀だった姉の今の姿を見て、俺は安心している。
俺の方が「まとも」じゃないか。
俺は姉が自分よりも「下」であることに安堵し、自己肯定感を高めると、いつも通りゲームをして、明け方眠りについた。
◆
朝日のような光が目を刺激する。俺は目を閉じたまま布団の中からカーテンに手を伸ばし、その光を遮る。再び光が暴力的に俺を起こそうとする。カーテンに手を伸ばす。遮っても遮っても、光が俺の目をこじ開けようとする。眠い目をこすって窓に背を向けると、思いがけぬ光景に俺は飛び起きた。カーテンを開けていた犯人がいた。姉が台所で何かを作っている。
「どうやって入ったんだよおお」
「鍵開いてたよ。できた! はいこれ運んで」
「何時だと思ってんだよぉ!」
青汁のようなドロドロとした不気味な飲み物を混ぜながら、笑顔で姉が振り返る。
「テツ、まずはね、朝起きて、夜寝る。これ基本。姉ちゃん、これから毎日出勤前に来るから」
朝起きて、夜寝る? うるせえ。ごもっともなことを言うな。
てか、来るって言った? これから? 毎日?
部屋を見回すと、謎の水晶みたいな石が各所に配置され、姉直筆の格言が書かれた紙が貼ってある。『健全な精神は健全な肉体に宿る』。勘弁してくれ。
トイレに逃げ込むと、俺はまた情けない声を上げて腰を抜かした。
「ひぃっ」
昨日の人形と目が合った。俺にはもう逃げ場がない。
小さなテーブルに二人分の朝食を並べられてゆく。納豆や、何かが焦げたものなどが次々に置かれる。思い出した。この人は料理が出来ない。
「セロトニンっていうのはね別名幸せホルモンといって心のバランスを整える作用のある伝達物質でセロトニンが不足すると精神のバランスが崩してキレやすくなったり激しく落ち込んだり今の君みたいになっちゃうからね、ちゃんと脳内で分泌されると、こう、パワー? やる気が! 出るから。だから、食事はトリプトファンを多く含む大豆製品とか……レバー! 食べれたっけレバー。あと、バナナ」
俺は真っ黒に焦げた、何かの塊を箸でつついた。
「これは何……」
「ああ、サンマもいいんだよ」
元・サンマらしきそれを箸で恐る恐るつまみ上げる。グリルに入れて焼くだけなのにこうなってしまうのは、姉の意識があっちこっちに飛んでいるからだ。このような品数を同時進行で作れるような人ではないことは、幼い頃から見ているからわかる。姉は躊躇なくサンマを食べ進める。
「いきなり就活行け――! とか言わないからさ、まずは頭と体を健康にさ」
姉は青汁らしきドロドロ液体をグイッと飲んで、ドン! とテーブルに置くと、俺の目をまっすぐ見て言った。
「大丈夫。姉ちゃん味方だから」
その濁りのない瞳が怖いんだよ。姉の会社の人事の人も、「コイツはイケる」と確信したことだろう。人を健康にする、幸せにする、その助けをする仕事。そう謳っているんだろう。姉はずっと、そういう人になろうとしていたのだから、ある意味、天職なのかもしれない。そして、俺は今、とんでもないことに気づいてしまった。俺の左手首。青い数珠のブレスレットがついている。恐ろしくなって姉を見ると、姉の手首にも同じブレスレットがついていた。
「おそろいだよ」
◆
毎朝毎晩、姉が訪ねてくるようになり、俺の部屋はますます姉仕様に変化していった。俺は抵抗することなく、姉の好きなようにさせた。喋る気力はなかったが、姉は一人でいつまでも喋り続けられる人なので、喋らせておいた。姉の発するエネルギーにかえって気力を奪われ、疲れていた俺は夕焼けチャイムなんぞでは起きなくなった。その代わり、アパートの外から姉の足音が聞こえると飛び起きるようになった。野生動物はこうやって危険を察知するのだろうなと思った。
いつものように姉が帰った後、長崎の母親に電話をした。母親に電話をするのは抵抗があったが、姉の現在の状況を母親に知らせておく必要があると思ったのだ。退学してしばらくは頻繁に電話がかかってきていたが、俺が母親の起きている時間に活動していないので無視することが続き、電話もかかってこなくなっていた。妙に緊張した俺はベッドの上で正座していた。
「……はっ、もしもしオカン、あ、俺。……え? どちら様って……俺だよ。はっ、ちげーよ詐欺じゃねーよ。……いや悪かったよ……勝手に大学辞めたのは。でもこれ以上留年するわけ……いやオカンわかんないかもしんないけどさ、今ほんと就職厳しいんだって。え? やって、やってるって。ホントに。いや、じゃなくて、ねーちゃん来たんだけど。うん。うん。オカンがね、聞いたよ。なんかいろいろ差し入れ持ってきたけど……オカン、知ってんの? え? 何をって、だから……ねーちゃん、なんかヤバい会社入っとう……え? いやだから……マルチだかスピリチュアルだかよくわからんけど……え? だから……なんか、うさんくさい健康食品とか、変なセミナー……セミナーってわかる? とかを、売らせる会社。え? ……いやだから俺は……今は充電期間? てゆーか……は? じゃなくてさあ、ねーちゃんが…………あーあーあーはいはいわかったわかったから! ハイ!」
スマホをベッドに投げつけると、すぐにメッセージの通知音が連続で鳴った。
『ようわからんけど、アンタよりマシね』
『カオリは仕送りくれよるよ』
『健康食品も立派な仕事やろう』
『こないだ、アクセサリーば送ってくれたと♪』
続いて送られてきたのは、あの数珠のブレスレットの写真だった。母親の手首に、あのブレスレット。世間のことを何もわかっていない、田舎の年寄りにこんなものを送りつける姉に怒りが湧いてきた。何も知らずに、立派な仕事だと信じている母親の無知っぷりにも腹が立った。『アンタよりマシね』……。どこがマシなんだ。何もわかっちゃいない。俺の方がよっぽど「マシ」だ。
◆
「テツくん。テツくん」
最悪の目覚めだ。目を開けると、あの人形と目が合った。姉が俺の目の前にあの人形を動かしている。この人形をイメージしたであろう変な声色で姉が続けた。
「おはよう! 今日もボクが、君の悪い気を吸い取るよ! フフッ」
俺はただ、力無く笑った。
姉が作ったマズい飯を今日も食う。食卓には、あの気持ちの悪い人形も列席している。無になって、ただただ、箸をすすめる。味も感じない。
わかってる。「いいひと」だ。善意でしかないのだ。だからタチが悪い。高校の頃、付き合っていた彼女と別れたのがバレた時、勝手に彼女のところに行って勝手に俺の良さをプレゼンし、復縁を頼み込んでいたことがあった。俺が部活で足を怪我して帰って来たときには、「姉ちゃん部活の子の手当てで慣れてるから」と、得意げに俺の足に保冷剤を当てたまま包帯をぐるぐるに巻きつけるという応急処置を施したこともった。翌朝、俺の足は凍傷になって水脹れが大量発生し、ただの捻挫だったはずの足は地面に体重をかけられなくなっていた。病院に行って先生に怒られたのは俺だ。「君、コレもう少し放っといたら足切断になってたんだよ? わかってる?」俺に言うなと思った。もう忘れかけていたが、昔からこうやって的外れなお節介で配慮や気遣いのバリケードをぶち破ってきた人なのだ。
かと言って、姉の言うことなすこと、全てが間違っているわけではないというのが余計に腹が立つ。朝、カーテンを全開にして「太陽の光を浴びろ」と言うのも、この、俺に必要な栄養素をふんだんに含んでいるであろう朝食を摂取することも、きっと「正しい」のだ。いっそのこと、もっと非科学的で悪質な信仰にのめり込んでくれた方が反撃しやすいのに、と思う。絶妙に正しいことを言う。
でも俺は知っている。姉が姉の考える「いい人」を貫くのは、姉自身の自尊心を維持するためだ。俺のことを助けて、自分の存在意義を確かめようとしているのだ。この人は。
「あっ忘れてた!」
姉がカバンからファイルを取り出す。
「これ」
嫌な予感は的中した。姉から渡されたパンフレットのような紙の表紙には、『ポジティブ&リラックス 思考トレーニングで憂鬱な毎日を抜け出そう』と胡散臭い文字列が並んでいた。
「これ、姉ちゃんの会社のセミナーだから、行ってみよう!」
俺は、パンフレットを受け取って、箸を置いた。
「……心配だよね。知らない人ばっかだもんね。大丈夫。みんないい人だからね!」
俺が沈黙していると、人形を手に取って、人形に言わせるように奇妙な発声で言った。
「……一緒にいこうか? フフッ」
「やめてくれる」
「……ん?」
「やめてって言ってるの。心配してもらって悪いんだけどさ、変な世界引きずりこまないでくれる」
「……テツくん、イライラにはビタミンB2だよ! フフッ」
「なんなんだよこれ。何変なもんハマってんだよ!」
俺はそう言って、姉が持ってきたパンフレットを投げた。
「ねえちゃんの仕事立派なの? 人騙してんでしょ? 俺そんなんなるんだったら社会でない方がよっぽどマシなんだけど! ねえちゃん洗脳されてんだよ! わかんないの? 父さんと一緒だよ。似てんだよ! 騙されやすいんだよねえちゃんは!」
「父さん」と言った瞬間、姉の表情が険しくなったのがわかった。それでもお構いなしに俺は続けた。
「騙されて借金作ってさ、工場閉鎖して、ただの馬鹿でしょ! ……まあ俺もそのダメ遺伝子継いでるからこうなってんだけど。……だいたい、俺はねえちゃんと違って三流大学だし? 卒業できたところでまともな就職できたかもわかんないし。コミュ力もないし。キモいんだよ就活。みんな同じカッコして思ってもない定型文言って。特技もない資格もないし語学力もないし愛想も悪い、こんなクソがどうしたって無駄なの。セロトニン朝食って何? 毎日こんなまずいもん食わされてたら逆にビョーキになるわ! 開運の水ってなに? ただ水道水なんじゃないのそれ。それともなに? カモだと思った? 馬鹿親の息子だし」
姉は黙って俺を見ていた。姉の真顔を見たのは、初めてかもしれない。部屋の中が音を失い、外の車の走行音だけが聞こえた。
静寂を破るように姉が立ち上がった。戸惑う俺をよそに、食器を手早くまとめると、台所の流しに朝食を乱暴に捨てた。姉が持ってきた「開運の水」の蓋を開け、流しにドボドボと流していく。無言の姉の背中に、俺は動揺していた。
「……ごめ、ねえちゃん言いすぎたごめ……」
「……知っとるさ」
「え?」
「知っとるさ! お父さん馬鹿ばい、人ば信じて、騙されて、借金ば返すため、働きすぎて死んで! お母さんはなんも言わんし! 働くって言ったのにうちら二人東京行かせて、大学出してさ、馬鹿ばい」
「……」
「お父さん見て思ったとよ。誰かが助けてくれるって思ったらダメさぁ。人は一人たい。自分で生きんばダメとよ。自分で健康に気ぃつけんばいけんとさぁ。自分で稼いでいかんばいけんとって。自分の心は自分で守らんばダメと。……生き抜く力ば欲しかよぉ。うちは」
姉は、手首のブレスレットを外すと、床に叩きつけた。
「なんか信じらんば、強くなれんとさ!」
俺が何も言えないでいると、姉はセミナーのパンフレットを回収し、カバンと上着を持って玄関で靴を履きながら言った。
「ヒトは誰も助けてくれんとよ。自分ば助けてくれるとは自分しかおらんと」
「……」
「あんたはなんね。自分の自尊心くらい自分で維持せんば!」
玄関を出ていった姉が走り去る足音が、遠のいていった。
◆
俺は台所の前に座ったまま、蛇口からドツ……ドツ……ドツ……、と、水が漏れ落ちる音を聞いていた。立ち上がれなかった。夕焼けチャイムの音が聞こえて来て、もう日が暮れていることに気付いた。姉があんな顔を見せたのは、初めてだった。
父が亡くなった頃を思い出していた。俺が小6。姉は中3だった。今から考えれば、姉だって子どもだったのに、通夜や告別式の時もバタバタと忙しそうに母親や親戚を手伝っていた。母親が泣いているのは見たけど、姉が泣いているのは見なかった。姉の面倒見の良さ及びお節介が加速したのは、この頃だった。姉はいつも、気持ち悪いぐらいの笑顔だった。辛くなかったはずがないのに。
セミナーも、数珠も、人形も、水も。俺に胡散臭いなんて言われなくても、姉はそんなことわかっていたんだ。そんなことわかってるけど、姉の〝よすが〟となっていたんだ。
生きるために、強く、生き抜くために。
一人で、自分の足で、立てるように。歩けるように。
何かにすがりついてでも、そうあることを選んだんだ。
あの人形と目が合う。不思議と、可愛らしく見えてきて、俺は微笑した。コイツを信じる気にはなれないし、コイツで金稼ぎをしている姉はやっぱりどうかと思う。けど、姉ちゃんを支えてくれてありがとな、と素直に思った。
俺は、まだ開いていない「開運の水」の蓋を開けると、一気に飲み干した。やっぱりただの水だ。ただの水だけど、何でだろう、力が漲ってきて、俺は立ち上がって台所の流しで顔を洗った。玄関を出て、いつも酒を飲んでいた河川敷へ向かった。沈んでいく夕日に向かって、河川敷を全速力で走った。つまずいて、土手に転がる。転がったまま、空を見上げた。右手を掲げると、ブレスレットに西陽が当たって、キラキラと輝いた。
◆
姉のパンプスの音がコツコツと近づいてきては、遠ざかる。近づいて、また遠ざかる。躊躇っている姉を迎え入れるように、俺は自分から玄関を開けた。姉が遠慮がちに入ってきて顔を上げた。二週間ぶりに見た俺の顔から無精髭が消えていることに気づいて、ぎょっとしている。姉を部屋に入れると、俺は再び台所に立った。姉が毎朝用意していた朝食を、姉の分も用意する。姉はテーブルに置いてある俺の履歴書と、ハンガーにかかったリクルートスーツを静かに見ていた。
朝食を並べてみせると、あんぐりと口を開けて、俺の顔を何度も見た。
「……あんたが、作ったん?」
「……ん。いただきます」
「……あ、待って!」
姉と同じメニューなのに、どう見ても見栄えのいい俺の朝食を、姉はスマホで撮影した。
嬉しそうにスマホを置くと、「いただきます」と食べ始めた。
「……うまい」
「ふつうだろ」
「料理、どこで覚えたん」
「バイトで、厨房いた。……フェードアウトしたけど」
「お母さんよりうまいな」
「おかんは料理下手やろう」
「……高校んとき、覚えてる? 弁当が。白飯におかずがチャーハン」
「……いや、あれはマシだった。一回白飯に海苔弁だった」
「あれは、いよいよ我が家もヤバいとこまで来たなと思ったね」
「笑ったけどな、あれは」
「我が家のピンチなのに、あの人ずっと適当だったな」
「うちらにはあの人の適当遺伝子が足らんな」
「……行けるか? 面接」
「何歳だと思ってんの」
「……うちの、開運パンツ! 赤いの……穿く?」
「穿かん」
食器の音が、穏やかに鳴り響く。
二人の間に、あの人形が、ブレスレットを首にかけて座っている。
「テツ」
「ん?」
「───大丈夫。姉ちゃん、味方だから」
スーツに着替えて、俺はゆっくりと自転車を漕ぎ出した。後ろに乗っている姉が、俺の後頭部に向かって言う。
「では、あなたの長所を教えてください」
「……はい、私は、何事も前向きに捉えることができ……何事にも……粘り強く」
「嘘言うな」
「ないわ長所なんて」
「……セミナー行くか?」
「行かん」
【おわり】