【最終選考作品】松風荘の暗がりで(著:御子柴あやな)


「死ねばいいのにね」
 耳のすぐそばで声を聞いた時、私は初め自分の心が()れて、音になったのかと思った。だってそれはずっと、私が泣きながら考えていたことなのだ。顔を上げると隣に見知らぬ少年が立っていて、夕方の光が横顔をオレンジ色に染めていた。
 だれ、と(つぶや)く私の声と、部屋の中から急に大きな音で漏れ始めたテレビの音が重なった。まただ。私は悲しい気持ちでアパートの扉を見やる。古く分厚いテレビは最近ずっと調子が悪くて、急に音量が最大になったり、聞こえないほど小さくなったりする。おんぼろアパートの玄関扉は()(やぶ)れそうなほど薄く、はた迷惑な騒音を周囲に(にじ)ませていた。全ての音を(しゃ)(だん)したくて、私はしゃがみ込んだまま両耳を(ふさ)ぐ。()びの浮いた外階段の下で膝を抱えると、ゴミと虫の()(がい)が絡まり合ってそばに落ちているのが見えた。
「どうして泣いてるの?」
顔を伏せたままの私の隣に、少年が一緒になって座る。学校の制服みたいな黒いズボンは、ところどころ汚れ、擦り切れていた。
「お母さんが
 涙と吐き気のせいで、自分の声は空気が抜けるみたいな音をしていた。頭の半分で「この子、誰だろう」と記憶を()()りながら答える。
「お母さんがたくさん、吐いちゃって。ずっと片付けてたの。お酒の(にお)いすごくて、気持ち悪くて。でもお母さん寝ちゃったから、私だけ片付けてて。それで、なんかもう私も吐きそうで、嫌になって」
 つっかえながら、私は見知らぬ少年に言葉を漏らす。住人以外は気味悪がって誰も足を踏み入れようとしない建物の暗がりで、この子は私の隣に座っている。それだけで自分の話がちゃんと相手に届くような気がした。その子は耳のあたりで切りそろえた髪を(かす)かに揺らして、私の言葉に(あい)(づち)を打つ。夕方から夜へ変わっていく空は、オレンジと紫と灰色が混じり合って、電線の向こう側に広がっていた。
 貧困家庭という言葉から想像できるおおよそすべての要素は、うちに当てはまっていると思う。母子家庭、スナック勤めの母、古くて今にも傾きそうなアパート。私の記憶にある限りお母さんが普通の、昼間の仕事に出ていたことはただの一度も無い。母は夜仕事に出掛け、明け方帰ってくる。そして日中は眠って過ごす。ずっと長い間、母親とはそういうものだと思っていた。だから小学校に入るまで、よその家のお母さんが夕方には仕事を終えて帰ってくるようにしていたり、そもそも主婦と呼ばれ一日中家にいる人が存在するだなんて、全く知らなかった。
 私のお母さんは陽気で人懐こくて、がりがりに()せていることを除けば美人な方だと思う。でもアルコールの臭いが日中も抜けず、厚く塗ったファンデーションが毎日顔のどこかで粉を吹いていた。子どもの私の目にも大丈夫かな、と心配になるようなところがたくさんあって、軽いノリや成り行きですぐうちに人を泊めてしまうのも、悪い(くせ)のひとつだった。うちのアパートにやってきても(ひる)まないのはホステス仲間や知り合いの中でも、貧乏暮らしをしている人に限られていた。全ての音が(つつ)()けの六(じょう)二間のアパートで、大人たちの酒盛りが続く夜は布団をかぶってもなかなか眠れない。お母さんは、人といっしょにいるのが好きだから。夜通し続く大人たちの()()を聞きながら、湿って冷たいせんべい布団の中で、私は毎日おまじないのように自分に言いきかせた。寂しさで眠れない時間にも、疲れた体はちゃんと終わりを持ってきてくれるのだった。

話しながら、この子はどうしてさっき「死ねばいいのに」なんて私の心の中を見透かしたようなことを言ったのだろう、と考える。明確に、例えばお母さんに向けたものなのか、古い家や環境に向けたものなのか私自身にもわからない、それは呪いの言葉だ。外階段の下でこっそり泣く時、この言葉はあとからあとから(あふ)れてくるのだった。もしかしたらこの子も、私と同じような境遇なのかもしれない。これまでずっとこの子の存在を知らなかったけれど、このアパートの住人ならまともな暮らしをしているはずがないのだ。うちみたいに、私みたいに。
「死ねばいいのにね、ああいうの」
 不意に少年が道路の方へと目を向ける。道路、と言っても密集した住宅地の間を()うそれは、車が通れるほどの幅は無く、自転車やバイクがせいぜいといったところだ。その細い道に並んで、うちのアパートをコンクリート(べい)の陰から(のぞ)き込む人影が見えた。頭が三つ並んで、塀の高さギリギリのところで可笑(おか)しそうに揺れている。私はあっと思い、どぶ色に汚れた壁へ身を寄せた。歯がゆさと恥ずかしさと口惜しさが全部混じり合ったような苦い気持ちが、胃の奥にじわっと広がる。そんな私に構うことなく、男の子は塀の方をふうん、というように眺めた。
「同じ学校の子? 同級生?」
「わかんない、知らない子たち。でも、誰かに聞いてうちを見に来たんだと思う。たぶん同い年」
 あたりはどんどん暗くなって、近くの電灯が三つの頭をちかちかと照らし始めた。三人は何かに満足したのか、あるいはただ()きたのか、ごにょごにょと聞き取れない話し声を残し、やがてその場を去っていった。私は消えてなくなりたいくらいの恥ずかしさで顔を伏せる。見知らぬ男の子に、本当に希少な私の話を聞いてくれる相手にこれから説明しなければならないことを思うと、また涙が滲みそうだった。
「このアパート、すごく古いでしょ。たまにああやって、同じ学校の子とか面白がって見に来るの。どんだけ古くてボロボロなのか。それで『まじでお化け屋敷みたいだな』って言って帰ってくんだ」
 発端は、一か月くらい前の出来事だ。もともと私の周りには友達なんていなかったけれど、なにかのきっかけでクラスの女の子と話す機会があった。その時、私は何気なくうちのアパートのトイレが未だに()み取り式だということを話してしまったのだ。その場にいた全員がぎょっとした顔で私を見た。「本当に? 今どき?」それから面白半分で臭いがやばそうとか、トイレに(はな)()さんいそうとか、私の居心地の悪い方向に話はどんどん進んでしまった。
「いつのまにかみんなで盛り上がって、あの塀の所からこそこそ見るようになったんだ。だんだん他のクラスの子の間でも、なんか変な流行(はや)りみたいになっちゃって。こうやって、たまに見に来る」
 私だって、よその家と比べるまでもなくこのアパートがおんぼろなことはよくわかっている。昭和から平成に変わりもう十年が過ぎようという今の時代、汲み取り式のトイレなんて地域の集会所くらいでしか見たことがない。自分のうち以外では。男の子は面白くなさそうに小さく鼻を鳴らし、私の顔を(のぞ)き込んで「大丈夫?」と目を細めた。その距離の近さや、声のトーンに思わず息を止める。そして自分の髪が油じみていることが、急に恥ずかしくなった。
「ここ、だいぶボロいよね。君のとこにも台所には給湯器って無いでしょ?」
「うん、無い水しか出ない」
「なんかさ、今の家はだいたい風呂と同じように台所や洗面所もお湯が出てくるようになってるんだって。便利だよね」
「うん、知ってる。あの、あなたは」
 同い年くらいの知らない子に対してどう呼びかけたらいいのかわからず、すごく堅い「あなた」なんて使ってしまう。こんなの、教科書に出てくる(ぎょう)()の良い主人公みたいだ。男の子は私のどぎまぎした話し方を気にする風もなく、小首をかしげて見せた。なに、と目顔で続きを促す。
「あの、このアパートに住んでるんだよね。一階の人?」
 全部で六部屋あるこの(まつ)(かぜ)(そう)は、上の一部屋を私たち母娘が借りている。二階にある残り二部屋は誰かが倉庫として借りているらしく、人の出入りはほとんどなかった。一階のガスメーターが動いている部屋は左角のひと部屋しかなくて、そこにはずいぶん年を取ったお(ばあ)さんが暮らしているはずだ。その人はほとんど外に出ることが無く、私も詳しいことはわからなかった。前に朝早く、ゴミ捨ての袋を引きずっているのを見かけたことがある。髪の毛が全部白くて、肌着みたいな薄い服のままよろよろと歩いていた。なんとなく声をかけてはいけないような、あまり関わりたくないような感じのするお婆さんだった。これまで気づかなかったけれど、この子はあのお婆さんのうちで暮らしているのだろうか。
 男の子が「うん」とも「違う」とも取れる(あい)(まい)な仕草で笑う。ちょうどその時、階上から「いちごー」と私を呼ぶ声が聞こえた。お母さんだ。かつんかつん、とヒールの音が鉄の階段を降りてくる。
「いちごー、あのさお母さんさ、もう出掛けるんだけど。どこにいるー?」
 私はさっと立ち上がって下から顔を出した。昼間からホステス仲間とお酒を飲んで、帰って来たかと思えば居間で盛大に吐いてそのまま寝てしまって。言いたいことは山ほどあったし、体調は大丈夫なのかとも聞きたかった。でも私は降りてきた母がいつもどおりゆるんだ笑顔を浮かべているのを見つけると、何も言う気がなくなってしまう。何を言いたかったのか、言うべきだったのか、すべて頭の中で置き去りになる。
「ここだよ」
「あーいたいたぁ。ごめんね、なんかお母さんうち帰って来てからのこと全然覚えてなくてさ。(いちご)が片付けとかしてくれたんでしょ? ありがとねー」
「いいよ、別に。それよりすごい酔ってたけど、大丈夫なの? これから仕事行くの?」
「今日は絶対出ないと、ママに(しか)られちゃう。ほんとはさぁ、昨日も早引きで帰ってくるつもりだったんだよ。でも出がけに(さい)(とう)さんとアキちゃんが来ちゃって、それでそのままアキちゃんちに泊まることになったの。ごめんね」
 母は自分が吐いたことを覚えているのかいないのか、階段を降りると私を腕の中に抱き寄せた。そして犬やぬいぐるみにするような感じで、ぐりぐりと頭を()でる。私は香水の(にお)いが()み込んだ薄いワンピース越しに、突き出た()(こつ)や腰骨の固さをなんとも悲しい気持ちで感じていた。「それじゃあ夜の間はちゃんと(かぎ)かけとくのよ」なんてもっともらしいことを言って、母はおんぼろアパートから夜の飲み屋街へ出かけていく。
「あっ」
 私は母のべたべたしたスキンシップを少年に見られてしまったことに気付き、小さく声を上げた。勢いよく、階段下を振り返る。
「あれ?」
 しかしそこに男の子の姿はなく、いつも通り闇とゴミの溜まった暗がりが、ぽっかりと街灯の弱い光に照らされているだけだった。

その日から、少年と時々階段下で話すようになった。彼は夕方そこにいることが多くて、私はぽつぽつといろんなことを話した。自分のことやアパートのこと、学校のことや、空腹のこと。
「ゴキブリってさ、絶対に頭いいよね」
 話すのはだいたいいつも私の方で、少年は時々相槌を打ちながら、でも退屈な様子は見せずに聞いてくれた。
「その場に完全に適応してるっていうかさ。うちに住んでるやつらは、私とかお母さんに見つかってもぜんぜん普通なの。『あ、ども』みたいな感じで目の前を余裕で歩いてくんだよね」
 男の子は「そうだね」以外の返事をすることはあまりなかった。でも、私にはそれで十分だった。自分のことを話しても驚いたり(おお)()()(まゆ)()を寄せたりしない相手に、すごく、すごく安心していたのだ。
「このあいだ学校にゴキブリが出たんだけど、もう大騒ぎ。クラスの女子とかきゃーって怖がって。ゴキブリの方もすごい速さで逃げてくんだよね。自分を攻撃しそうな相手だって、ちゃんとわかってるのかな」
 私は少年の名前を聞くことはしなかった。本当は気になっていたけれど、名前の話をすると自分の『苺』という可愛(かわい)すぎる響きについて説明しなくてはいけない。そんな気がしていた。それにお互いを「君」「あなた」と呼ぶのはなんとなく本の中に出てくる登場人物みたいで、自分たちを特別だと思えた。
「学校の他の子たちってさ、こういう場所のことなんにも知らないんだよね。面白がって見に来るけど、それだけ。中に入ってみなよ、なんて言ったらきっとすぐに逃げ出す」
「そうかもしれないね」
「勝手だよね、みんなさ。人を好き勝手バカにして、自分たちは安全で()(れい)な場所にいるわけじゃん。家にお金があって、お父さんもお母さんもちゃんとしてて。そういうとこの子たちに、私たちのことなんて絶対、わかんない」
 私のどうしようもない言葉の数々を、少年はいつも寂し気な表情をして聞いていた。みんないろんな自由を持っているのに、私たちには最初からそれがない、とか。自由な子たちには不自由な私たちのことがわからないし、逆に私たちはみんなの自由がわからない、という話を。
「例えば今日の晩ご飯何が食べたい? って聞かれて、好きな物をリクエストできるってすごくない? うちはいつもカップラーメンしかないよ。誕生日プレゼント何が欲しい? って聞かれて、お店の(たな)から好きな物を選べるって、すごい話だよね」
「本当だね」
「みんなこの不便さを知らないなんて、びっくりする。そんなの、(つら)いことなんて一つもないじゃん。びっくりするよ」
 周囲のすべてを(うらや)む時、私はいつもこの階段下で世界を呪い始める。男の子の前では口に出さなかったけれど、話しながら何度も「死ねばいいのに」と唱えていた。私が持っていない全ての物を持っているみんな、死ねばいいのに。羨ましくて苦しいこの気持ちを、私は具体的な言葉で表す方法を知らなかった。
「君は」
 時折、男の子は私へ真っ直ぐ視線を注いだ。真っ黒い瞳は夜の手前で留まる周囲の景色ごと、全て飲み込んでしまいそうな色をしていた。
「ここを出ていこうと思ったことはない?」
「え無理だよ、だってまだ中学生だよ。普通に働けないし、それに」
 少年に見つめられる時、決まって私はどぎまぎと言葉に詰まった。そしてなぜだか、早く自分の部屋へ帰らなくてはいけないような焦りに似た気持ちになるのだった。
「それに、私がいなくなったら、お母さん一人になっちゃうもん。それは無理だよ」
「そうか、お母さんか」
 時折その子は私じゃない何かを見ているような顔をする。深い瞳は(のぞ)き込むと底が見えず、表情ぜんぶを暗く、でも楽し気に見せていた。
「やっぱり、死ねばいいのにね」
 私と同じ呪いの言葉を、少年は口にする。それは私とはぜんぜん違う、歌うような調子だった。

 母が左頬を赤く()らして帰って来たのは、陽が暮れて夜に差し掛かろうとする頃だった。スナックが休みのその日、家で帰りを待っていた私は扉が壊れるんじゃないかというほど乱暴な音に、文字通り飛び上がった。音とともに泣いて転がり込んできた母は、そのまま床に突っ伏す。
「お母さん、どうしたの」
駆け寄って呼びかけると、母は(よど)んだ目で私を見上げた。()(しょう)()げた顔をぐしゃぐしゃに濡らし、かすかに開いた唇から(うめ)きに似た声が()れている。その様子に、私は一瞬にして(あん)(たん)とした気持ちになった。まただ。きっとまた、男に捨てられたのだ。
「苺ぉもう、なんなのよぉ、わけわかんないよ。だってさ、しょうがないじゃん、私だって頑張ってるのにさぁ」
 数か月に一度、こういうことがある。私は(こわ)()って冷たくなる体を無理やり動かして、大丈夫、と背中をさすった。抱き起こそうとしても母は子どものように床から離れない。アルコールのすえた(にお)いがいつもよりきつかった。
「お母さん、ここじゃ寒いから。布団に行こ」
「だってぇ、だってさしょうがないじゃんかぁ。私だって自由になりたいわよ。私は私のままで昔からなんにも変わらないのにさ」
 伸ばした手を振り払われる。涙で(にじ)んだ目元は黒く淀み、マスカラの(せん)()がぼろぼろ(こぼ)れ落ちていた。こんなのいらない、と母がバッグから何かを取り出して投げ捨てた。プラスチックが床にぶつかる音がして、場違いに軽い音をたてる。
「写真撮ろうって誘ったら、シワが目立つだろ、とか言うんだよ。でかい娘もいるくせに(とし)()()が無いとか。ねぇ、最低だよね」
母は床に転がる使い捨てカメラを忌々(いまいま)しそうに(いち)(べつ)した。それはひと月くらい前に「ママに(もら)ったの」と嬉しそうに話していた『写ルンです』だ。母をこれ以上刺激したくなくて、私はそれを拾い上げてポケットにしまった。
「なんでみんな『母親なんだからしっかりしろ』なんて言うの? 私は私のままなのに、子どもができたからってみんながしっかりなんてできるはずないじゃんかぁ」
「なに、なんの話」
「だからぁ、私が母親失格だってみんな責めるわけ。いつまでそんなフラフラしてるんだって責めるの、私を。私は変わりたくなんてないのに、変わらなきゃダメだって言うんだよ」
 どろりと耳に絡むような声に、私は動けなくなる。男だ、男に何か言われたのだ。だからこんなことを言い出したんだ。今は母を責めず、刺激せず、寝かせなくてはならない。この前みたいに胃の中を全部吐き出されるのはあまりに辛かった。
しかし母へ伸ばした指先は素直に動かず、細かく震える。今は呼びかけちゃダメだとわかっているのに、(のど)から(かす)れた声が出た。
「誰かに何か言われたの。彼氏が私とお母さんのこと、何か言ったの」
「苺さぁ
 母は(さけ)(くさ)い息を吐きながら、じろりと私をねめつけた。
「苺もそう思ってるの? そりゃそうだよね、まともな暮らしさせてないもんね、全部お母さんが悪いんだよね。全部私がちゃんとしてないから悪いんだって、苺もそう思ってるんでしょ。苺も、私のこと母親失格だって思ってるんでしょ」
「な、なに、それ」
 私は口を金魚みたいにぱくつかせながら、意味のない言葉を(つぶや)く。自分の感情を表し始めたら、際限なく母を責めてしまいそうだった。頭の中に否定の言葉が湧いて、顔が熱くなる。今すぐ声になって飛び出しそうなたくさんの感情を、私は拳を握り締めて押し留めた。言えるものなら、母を指さして怒鳴ってしまいたい。私が毎日どんな思いをして周囲を呪っているのか。誰がそうさせているのか。そんなこと、お母さんはひとつも考えたことは無いだろう、と。しかし私は、叫ぶ代わりに掠れた声で言うのが精一杯だった。
「それ、お母さんだけは言っちゃダメじゃん」
 なんとかそれだけを(しぼ)り出して、玄関戸を開くと私は外へ飛び出した。一瞬、母が私を呼ぶ声が聞こえた気がしたけれど、それだけだった。階段を駆け下りていつもの暗がりでしばらく涙の流れるままに任せていたけれど、やはり、それだけだった。母が私を追って外に出てくることは無い。日はとっぷりと沈み、夜の入り口が私を待っていた。いつまで待ってもアパートの扉が開くことは無く、母は、私を追いかけてきてくれない。
「もういやだ、もう、みんな」
 泣きながら声を絞り出す。お母さんは今、男に振られて()(ぼう)()()になっているだけだ。そう自分に言い聞かせても、込み上げてくるしゃっくりを止めることはできなかった。ふと、私のあとを引き取って背中の方から声がした。
「みんな、死ねばいいのにね」
 驚いて弾かれたように振り返る。そこにはいつもの少年が、いつもと同じ穏やかな表情で立っていた。心なしか瞳に浮かぶ光はいつもよりおぼろげで、淡い。夢の中で出会ったような心地がして、私はぐいと目元を手の甲で(ぬぐ)った。この子に泣いているところを見られるのはこれで二度目だ。
「また、悲しいことがあったの?」
 少年が(うなず)く私の隣に膝をつく。座り込んだ暗がりで膝を並べていると、初めて会った日のように言葉が解けていくようだった。泣いている時に誰かがそばにいると、保つべきいつもの自分が守れなくなる。
「うん私、いつも自分では頑張ってるつもりなのに、嫌になるよ。私はお母さんと一緒になんとかやってくしかないのに。それなのにお母さんに否定されたら、どうしたらいいわけ? もう全部逃げたくなる、全部、私は周りの子が持ってるもの全部持ってないの」
「うん」
「ちゃんとした親も、ちゃんとした家も、私には最初から無い。それなのにお母さんまで私を要らないみたいに言ったらさ、本当に何にもなくなっちゃうじゃん。こんなことしかないなら、もう私は」
 一瞬言葉を切ると、少年が私の顔を覗き込んだ。涙と鼻水でみっともなく濡れたところを見られたくなくて、腕に額をくっつける。体を小さく折り曲げた反動で、自分の口から思考も追いつかずにいた本音が零れていった。
「こんなことしかないなら、もうどうにかなりたい。このまま毎日が続くなんて耐えられない、それならいっそ、私はどうにかなりたいよ」
 言葉を音にして夜にさ迷わせながら、自分自身「どうにかなるって、どういうこと」と気持ちが整理できずにいた。逃げたい、という願いをこれ以上どう強く表現したらいいのかわからなかった。この階段下でいつも全てを「死ねばいいのに」と呪っている私は、自分自身にその言葉を使うことを避けて通る。「死にたい」とは怖くて言えなかった。母が追いかけてきてくれないことを知ってなお、私はどこにも行く勇気がない。
 そうだよね、とすぐ隣で少年が言う。その声に笑みが混じっているような気がして、私は顔を上げた。暗がりの中で、細められた(そう)(ぼう)に射すくめられる。
「そうだよね。それならさ、辛いならもうどうにかなってしまえばいいんだよ」
「どうにか、ってごめん、なに?」
 自分で外に出した言葉のはずなのに、少年の声で繰り返すそれは暗い何かが滲んでいて、私を(おび)えさせた。男の子は同じ温度で繰り返す。
「どうにかなってしまえば、いいんだよ。そうすれば君の辛いことも無くなるでしょ。お腹が()いて眠れない辛さも、周りに馬鹿にされる(くや)しさも、母親が君を見てくれない悲しさも」
 その子は私を正面から見据え、顔をゆっくり傾けた。右頬に影ができて、それが次第に濃く赤黒くなっていく。
「そうすれば、カビの生えたパンの味も、腐った野菜のことも、(なぐ)られる痛みもさ、全部、わからなくなるよ」
 私は見開いた両目が凍り付いたように動かなくなって、その場で悲鳴を飲み込んだ。いつもの通り笑う顔の、右半分がみるみるうちにどす黒く変色していく。ひどく殴りつけられたような(あざ)が、整った顔立ちを()(さん)なものにしていた。さっきまで、こんなもの無かったはずなのに。息を呑んだまま硬直し、私は身じろぎすることもできなかった。
「消えてなくなってしまえば、それで、終わりなんだよ」
 言いながら少年が手を伸ばす。いつも着ている学生服の(そで)(ぐち)には(せき)(かっ)(しょく)に乾いた血がこびりつき、手の甲にはたくさんの傷跡が浮かんでいた。目の前で半身におぞましい(へん)(ぼう)を現す少年は、それでも変わらず穏やかにほほ笑んでいる。
「一人じゃ、怖いよね」
 その子は私を安心させるように、優しく言う。全身が硬直して後ずさりすることもできず、私は恐怖に身を震わせた。もうすぐ額と額がくっついてしまいそうな距離で男の子が笑う。この少年に捕まってしまえば、本当に全てが終わる。本能が警鐘を鳴らし続けていた。()()がった喉から悲鳴をあげることもできず、私は頭の中で叫んだ。お母さん、助けて、と。いくら叫んでも答えが返ってくることは無いと知っている。それでも、私には名前を呼べる存在が、母しかいなかった。全てを諦める絶望しか、私にはなかった。
 強張る体がほんの少し動き、ポケットの中に固い何かを見つける。私はとっさにそれを取り出すと、自分の顔の前へ突き出した。なにを考える間もなく、指にかかったプラスチックのボタンをぐっと押し込む。
 かしゃり、と軽すぎる音がして一瞬の(せん)(こう)が闇の中に現れた。母の使い捨てカメラだ。フラッシュが視界いっぱいに散って、白い光が(まぶた)に焼き付く。恐怖にぎゅっと目をつぶり、何かが私を『どうにか』しにやってくる、その瞬間に怯えた。
「あ、え?」
 しかし何の感触も音も無いまま、三秒の間が過ぎた。私はおそるおそる両目を開き、周囲を視界に入れた。ぎくしゃくと腕が動く。震える肩を、自分自身で強く抱いた。目に見えるのは、蜘蛛(くも)の巣がいくつも固まってゴミを張り付けている階段裏と、ちかちか点滅する街灯の弱い明かりだけだった。そこには誰も、何の影もない。初めから私一人だけがここにいたのだと言うように、あの少年はどこにもいなかった。遠くから犬の吠える声が聞こえ、夜に音があったことを思い出す。私は立ち上がることもできずへたり込んだまま、(ぼう)(ぜん)と犬の声や、行き交う車の音を聞いていた。自分が変わらず松風荘の暗がりに存在し続けているのだと確かめた。
「いちごー、ねぇ、苺どこにいるのー?」
 上の方から、私を呼ぶ声が聞こえる。緊張や反省の欠片(かけら)も無いいつも通りの声に、私は泣きたい気持ちでのろのろと立ち上がった。きっと母は、入り口から顔だけ覗かせて私を探している。うん、ともああ、とも聞こえる声を出して、私は階段下から抜け出した。手にはしっかり、お守りのように使い捨てカメラを握り締めたままで。

 その夜以来、少年の姿を見ることは決して無かった。あれからずいぶん時が過ぎ、松風荘も今はもう存在しない。建物が壊された跡地は駐車場になっているらしいが、私は退去して以来、一度も訪れていない。
 あの少年は誰だったのか、彼と過ごした日々はいったい何だったのか。あの夜を境に思い出は(あい)(まい)にぼやけ、記憶の中にそこだけ(うす)(ずみ)を垂らしたように正体を見失っていった。誰かと時間を共有し、いろいろなことを話したはずなのに、今はもうそのほとんどを思い出せない。わかるのは、記憶の空白にある何かを私はたぶん好きだった、ということだけだ。その感覚だけが薄く胸に残っている。
私は大人になって、決して易しくはない自分の人生を日々『どうにか』している。いつの頃からかはわからないけれど、私には奇妙な(くせ)ができていた。時折思い出したように(たん)()の奥を覗いて、底にしまってある一枚の写真を眺めるのだ。何かに呼ばれるように、私はいつも(とう)(とつ)にその写真を手に取る。自分でもわからない懐かしさで胸を満たしながら。
 その写真には、何も写っていない。荒いプリントの中に見えるのは汚れた階段裏と溜まったゴミと、誰かの瞳のような真っ黒い暗がりだけだった。

【おわり】