【最終選考作品】小晦日(著:夜澄大曜)
小晦日。こつごもり。十二月三十日。大晦日の前日。
私はその言葉を常連客のハビさんに教えてもらった。
ハビさんはスペイン出身の四十代男性で、大学で海外文学を教えている。
やや面長で、眼鏡をかけており、大きな瞳が子どもみたいにきょろきょろ動く。
ハビさんは、日本語の研究者の顔も持っていて、よく私にクイズを出してくる。
日本人より難しい言葉を知っていることが自慢なのだ。
私がアルバイトをしているレストランは、駅前商店街から少し離れた住宅地の中にあった。オーナーシェフの田口さんが胸を張って「うちは洋食屋」と言うとおり、イタリア料理だろうがスペイン料理だろうが節操なくメニューに取り込んで、親しみやすい味と料金で提供していた。立地条件が優れているとは言えないのにそれなりに繁盛しているのは、純粋に田口さんの料理の腕が良かったからだ。テレビ局の取材を受けたこともあるらしい。
十二月に入ると、田口さんはお客さんに気づかれない程度に照明を落として、冬を招く用意を済ませた。それから、壊れて動かなくなったエアコンの代わりに、店の中央に石油ストーブを運び入れた。鼻をくすぐる独特の甘い匂いと、小さなプラスチック窓からチラチラと見える青い灯は、私に幼い記憶を呼び起こさせた。
「年末は、いつまでお店をやっていますか?」
ハビさんに訊かれて、私はこう答えた。
「小晦日のお昼までです」
1.
「おはようございまーす」
裏手からお店に入ると、トマトソースの食欲をそそる匂いがした。事務室に、オーナーシェフの田口さんと、奥さんの燈子さんがいた。
「おはよう、サキちゃん」
田口さんは体格が大きく、口の周りを覆う泥棒髭と相まって、初対面のときは怖かった。でも、目がつぶらで、よく見ると優しい顔立ちをしている。性格もとても穏やかだ。
燈子さんは切れ長の瞳が素敵な和風美人で、ふたりが並んでいると、申し訳ないけれど、『美女と野獣』という表現がピッタリだなと思ってしまう。
このお店には、ランチタイムとディナータイムの二つの営業時間帯があり、燈子さんはランチから夜の時間の仕込みまでを手伝って、夕方にアルバイトと入れ替わりで帰宅する。アルバイトは、私のほかにもうひとり、男子学生の倉本さんがいる。十七時から二十三時までの夜間シフトを交替で担当するのだ。
「サキちゃん、こんなに毎日シフトに入って大丈夫?」
燈子さんは、希望シフトを入力したカレンダーをタブレット端末で見ていた。
何とはなしに、自分のお腹を手でさすっている。
ゆったりお腹が膨らんでいるのは、そこに二人目の赤ちゃんがいるからだ。
「倉本さんから相談のメモをいただいて。二十日頃に仙台の実家に帰るそうです」
「でも、サキちゃんだって帰省するでしょう。実家、長野だっけ? 人手のことなら気にしないでね。妹とか、適当に呼ぶから」
「あ、いえ、大丈夫です。今年は戻らない予定でして……」
「えっ」
田口さんが横から入ってきて大きな声を出した。
「親御さんが寂しがるよ! 東京に残って何するの? あ、まさか彼氏と――」
早合点して言う田口さんの腕を、軽く燈子さんがはたいた。
「セクハラ。SNSに投稿されるよ」
「ごめんね、いまのなし! サキちゃんがいてくれたらウチとしては助かるよ」
どうやら二人は、私が恋人と過ごすと思っているようだ。
なんでそうなっちゃうんだろう。影も形もないんですけど。
私は曖昧に笑って、二人の勘違いを否定しなかった。
ひとりで過ごしたい気持ちを説明する方が面倒だった。
誰かに理解してもらえる自信もない。
でも、もしかしたら――
あの人なら、分かってくれるかもしれない。
夜、『彼女』はいつもひとりで店にやってくる。
年齢は、三十歳前後だろうか。
縁の細い眼鏡、額を出したセミロングの髪、下がり眉。
物静かで理知的な雰囲気を漂わせている。
たぶん、会社帰りに寄っているのだろう。アクセサリーに遊びがあっても、基本的には柄の控えめなブラウスを着ていた。
窓際の席に座り、ビールをグラスで頼む。ワインでもコーヒーでもなく、ビール。小さいけれどはっきりと聞き取れる声で「グラスビールください」と言う。それからメニューを手に取って、もう暗記できるほど読んでいるはずなのに、隅から隅までゆっくりと視線を巡らせる。泡の立ったグラスをテーブルに置くと、彼女は「どうぞ」と私が言う前にそれを口に運ぶ。頬の筋肉が緩み、瞳に明るい色が射す。それから軽やかな声でいくつもの注文を告げる。
まず、サラダ。次にパスタ類。それから肉。最後にデザート。魚は食べない。スープは飲まない。注文する料理名を一通り並べたあと、「お願いします」と思い出したように付け加える。
料理が運ばれるまで、紺色の革カバーがついた大きな手帳を開いて、何かを書き付けている。そうしているとき、癖なのだろう、首筋に添って垂れる黒髪を空いた手で指に絡めて弄ぶ。手を休めて、黒目がちな瞳を窓の外に向けることもある。レストランは閑静な住宅地の一角にあって、心を和ませる自然にも目を見張る夜景にも縁遠い。それでも彼女は知らない街を走る電車の窓から外を眺めるように、ときおり視線の角度を変えながら、街灯の光が無愛想なコンクリート塀を照らす風景を見ていた。
私が一品目の料理を運んでいく頃には、最初に頼んだグラスビールはもう空になっている。それ以上はアルコールを飲まない。私は彼女が食べている仕草が好きだった。たくさんの料理をゆっくりと食べる。決してがつがつしない。けれど上品というわけでもない。一口食べるたびに、さざなみのように顔のどこかに暖かな表情が映る。目に。頬に。額に。口元に。とても幸せそうな顔をする。決して鏡にも写真にもうつらない表情だ。きっと誰の顔も、そんな表情の一つや二つを持ち主には秘密のまま持っている。
彼女の注文には偏りがあった。サラダはトマトのスライスを好んだ。細長い皿に、ざっくりとスライスしたトマトを載せただけのものだが、彼女はときには二人前注文し、ドレッシングの類をほとんど何もつけずに食べた。田口さんが知り合いの農家から仕入れているトマトは、糖分が多く、とても甘い。塩を少しだけつけて食べるのが、私は好きだ。
パスタなら、カルボナーラ。田口さんの作るカルボナーラは、生クリームのまろやかな甘味よりもニンニクとバターの風味が濃厚で、私にとっては少々味がくどいと思えるくらいだったが、彼女はこれをフォークとスプーンを器用に操って、ほとんど舌を休めずに食べる。肉料理では、ポルペットーネ。牛挽肉にハーブを効かせた、この店の看板メニューだ。嚙むと微かなミントの風味が口の中に広がる。醤油ベースのソースは後味があっさりしていて、女性客に人気がある。むしろこれは和風ハンバーグと呼ぶ方が適切なのではないかと思う。ただ、私にはハンバーグとミートローフとポルペットーネの厳密な違いがよく分からない。
食事を締めるデザートには、ストロベリーの乗ったタルトを選ぶことが多い。フォークを使わず、手に取って指をべたべたにしながら少しずつかじって、最後に行儀悪く指を舐める。
自分の時間を自由に楽しんでいる大人の女性。
こんな風になりたい、と心の底から思った。
その夜も、二十時頃に彼女がやってきた。
ちょうど空いたばかりの窓際の二人席に案内した。田口さんは熱心なアンティーク家具のコレクターで、広くはない店内に、ほどよく歳を取った無国籍の家具が並んでいる。彼女が席に着くと、テーブルも椅子も本来の持ち主であるかのように馴染んで見えた。
「グラスビールください」
彼女がいつものように言った。
私が厨房に戻り、サーバーからビールを注いでいると、店の入り口が開いて男が入ってきた。
年の頃は三十歳くらい、長身でよく陽に焼けていて(冬なのに!)、髪を短く刈り込み、脇の絞られたスマートなスーツがよく似合っていた。店の前で脱いだのか、タクシーで来たのか、コートを手に提げている。
顔立ちが平坦で、見ている間にも細部の印象が薄れていくほどだった。シャツのボタンを胸の辺りまで開け、意識的に軽薄な演出をしているように思えた。
こう言ってはいけないけど、生理的に苦手なタイプかもしれない。
「いらっしゃいませ。空いているお席にどうぞ」
お声がけした私を無視して、店内を見回す。
そして、彼女に向かって手を挙げた。
え、待ち合わせ? この人と?
私はひどく動揺して、グラスビールを乗せたトレイを危うくひっくり返してしまうところだった。
彼女は近づいてくる男に、柔らかい微笑を向けた。男は彼女の向かいに座ると、店内を値踏みするように見回してから、「悪くないね」と言った。なんだか気取った感じの、粘っこさのある話し方だった。
私は彼女の手元にビールのグラスを置いた。
いつもと違って、彼女はすぐに飲もうとしなかった。
2.
年末が近づき、大学のキャンパスが閑散としてきた。
地方出身者の多くは、年内最後の授業が終わったらすぐに帰省してしまう。
私はその日、一般教養の授業に出たあと、バイトまでの空き時間を持て余していた。
喫茶店でゆっくり過ごすほど長くはなくて、キャンパス内の自販機でホットコーヒーを買い、ベンチに座って飲むことにした。
がっちり防寒しているから、じっとしていれば寒さはしのげる。
スマホに電話がかかってきた。
誰かと思えば、都内で働いている年の離れた姉だ。
出たくなかったけれど、たぶん出るまでかけ直してくる。
「サキ、何のことか分かるよね」
第一声が、もう怒っていた。
「まあ、なんとなく」
「お父さんカンカンだし、お母さんはサキが東京に行ったら変になったって、泣きそうな声で心配するし……」
一通りお説教をしたあと、姉はこんな風に会話を締めた。
「とにかく、帰省してね。こっちに電話がかかってくるんだから」
長野の実家は、祖父母、両親、姉が二人、兄が一人という大所帯だった。
父は地元の大企業に勤めていて、ヒラから専務まで上り詰めた努力と忍耐の人。
部下たちに求める規律を家族にも適用し、みんな父が理想とする家族像の中で、何かしらの役割を与えられていた。
たとえば私は、「お調子者の末っ子」。
父からすれば四人目の子だし、まったく厳しくはなかった。
でも、とても息苦しかった。そこからはみ出せない暗黙の空気があった。
自分ではない何かとして、息を潜めて日々を過ごしていた。
母は昭和どころか江戸時代かと思うくらいに父に従順で、早起きしてごはんを作り、掃除して、洗濯した。柔らかい装置みたいに、毎日、毎日、毎日。
私は東京の大学に進学し、一人暮らしを始めた。少しもホームシックにならなかった。
恋愛は当然だけど、友達付き合いも極力したくない。ずっと、ひとりでいたい。
「雪だるまみたい」
笑い声がしたと思ったら、前田陸人が隣に座っていた。
国文学科の同級生だ。さっぱりした中性的な顔立ちで、いつも人懐っこい笑みを浮かべている。同じく同級生の塩野杏奈によれば、明るい性格と清潔感のある服装が、女子に人気があるらしい。でも私は、こちらに半歩踏み込んでくる彼の話し方が苦手だ。
私は身をよじるようにして、ちょっと陸人から距離を取った。
「メリークリスマス、サキちゃん」
そうだ、今日はクリスマスイブだった。
「……メリークリスマス、陸人くん」
声に警戒心が滲んでいたかもしれない。
「杏奈ちゃんから、帰省しないって聞いたよ。鍋パーティー、来るよね?」
陸人や杏奈は都内に実家があり、東京居残り組で十二月三十日に忘年会を計画していた。
そうと知らずに帰省しないことを杏奈に話してしまい、忘年会に誘われたのだけど、行きたくなくて、真正面から断るのも気が引けて、ずっと返事をスルーしていた。まさか、こんな形で援軍が出てくるとは思わなかった。
「えーと、その日、バイト入れちゃって……」
「サキちゃんのバ先、おしゃれなレストランだっけ。シフト、何時から何時?」
「夕方五時から夜の十一時まで。片付けがあるからプラス三十分くらいかな。いつも混んでるから、めちゃ疲れてさ、帰ったらすぐに寝ちゃうんだよね」
バイト明けからの参加は無理だと匂わせる。
「そっかあ……」
陸人は芝居がかった動作でうなだれた。
ちょっと申し訳ないと思いつつ、諦めた様子を見て安堵した。
「ちなみにサキちゃんのお店、何が美味しいの?」
「カルボナーラかな。ちょっと味が濃いけど、そういうの好きそうだよね」
口に出してから、余計なことを言ったと後悔した。
「美味しそう。今日、みんなで行って食べてもいい?」
「へっ?」
自分でも驚くくらい、大きな声が出た。
「杏奈ちゃんたちと、クリスマスだからみんなで夕飯食べようって話をしてたんだよ」
なんでいつも集団行動?
「けっこうするよ? 居酒屋とかにしなよ」
食事は何点かを頼むことが前提で、一皿の量もそんなに多くない。お腹いっぱい食べてアルコールも飲むと、すぐに五千円を超えてしまう。
社会人にはリーズナブルでも、学生の財布に優しいお店ではない。
「大丈夫、クリスマスだし、ちょっとくらい」
「杏奈ちゃん、今日、学校に来てなくない? なんか用事あるんじゃない?」
必死に抵抗する私に、陸人がスマホを掲げる。
「ダルいから家にいたけど、出てくるって」
早すぎる。話をしながら連絡を取っていたのか。
私の負けだった。
陸人と杏奈、それにもうひとり学科の女子が、十九時頃にお店にやってきた。
「いらっしゃいませ」
出迎えた私を見て、杏奈が嬉しそうに手を振った。
ぱっつん前髪のボブが似合う、ゆるふわ系の女子だ。
私の視線に殺気を感じたのか、「ごめんね」と小さく片手を上げる。
「サキちゃん、それ制服?」
陸人が無遠慮な視線で私の服装を見回した。
「自前だけど」
「似合うね、そういう格好」
「……ありがとう」
このお店には制服はなく、その代わりに、上は白のシャツ、下はスカートでもパンツでも良いから黒というルールがある。私はいつも、袖が膨らんだ白のブラウスと、動きやすい黒のパンツを合わせていた。
三人はちょっと落ち着かない様子で席に座ると、グラスビールとピザ、お勧めしたカルボナーラのパスタ、それに季節のサラダを注文した。
「君たち、国文学科の学生?」
隣の席にいたハビさんが気さくに陸人たちに声を掛けた。
「あっ、ハビ先生! あたし、シェイクスピアの授業を一般教養でとってます!」
杏奈が答えて、同じ席で食事をすることになった。
すごい、あっという間に楽しそうに話している。とても真似できない。
ちょいちょいと杏奈に手招きされて席に行くと、スマホの画面を見せられた。
メモアプリに、短い文が書いてある。
『働いてるサキちゃんカッコいいね、って! りくとが』
陸人を見ると、黙ってニコニコしていた。
自分の生活を浸食された苛立ちが先に立ったが、ほんの少し、嬉しい気持ちも湧いた。
二十時を過ぎると、勤め人の団体客がやってきて忙しくなった。
あまり話す時間が取れないまま、二十二時頃、陸人たちは席を立った。
なんと、ハビさんが全員分を奢るという。
陸人たちは、レジ前の混雑を避けるためにか、ハビさんを残して先に外に出ていた。
「太っ腹なサンタさんですね。クリスマスイブなのに、ご家族はいいんですか」
確か、ハビさんはキリスト教徒だったはずだ。
「明日が本番だから」
四人でワインを三本開け、ハビさんもすっかり上機嫌だった。
「良い学生たちだね。僕も忘年会に誘われちゃったよ」
「――ハビさん、お店が年内いつまで営業しているか、彼らと話しました?」
「え、小晦日の昼まででしょ? ……言ってはいけなかった?」
私の表情で、ハビさんは何かを察したらしい。
「忘年会に行きたくなくて、その日にバイトがあるって言っていたんです!」
私は思わず小声でハビさんを責めた。
「なんでそんなことを……。同級生との交流は、学生の本分だよ。僕もどちらかというと人見知りな性格だったけど、大学で親友をたくさん作ることができた」
「Una golondrina no hace verano.です。私は、ひとりでいる時間が何より好きなので」
それはスペインの諺だ。
一羽のツバメが来たからといって、夏になるわけではない――
ひとつの事例を他の物事に当てはめてはならないという意味で、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の記述に由来するという。
読んでいた小説に出てきたフレーズを覚えていたのだ。
いつも日本語クイズを出題されていたから、そのお返しだった。
ハビさんはしてやられたという風に笑った。
田口さんと閉店作業をしているとき、電話が鳴った。
「もしもし、席の予約をしたいんですが。二十九日って、まだお店、やってます?」
妙に粘っこさを感じる声を聞いただけで、『彼女』の連れの男だと分かった。
彼は日時と人数を言い、そのあとに特別な日だからケーキを用意してもらうことはできるかと訊いた。
「できればケーキにメッセージを書いてもらいたいんです」
「かしこまりました、あまり長くなければ大丈夫です」
それから彼は愛情を伝えるシンプルな言葉を選び、女性の名前を口にした。
私は初めて彼女の名前を知った。
「どうしたの」
電話を終えた私を見て、田口さんが心配そうな顔をしていた。
「電話、席のご予約でした」
「すごーく怖い顔をしてるよ」
「常連の女性のお客様、分かります? おひとりで来て、たくさん食べる……」
「ああ、うん。最近、お連れ様がいるね」
「その人と一緒にいるとき、雰囲気がぜんぜん違いますよね。ビールじゃなくてワインを飲むし、ぜんぜん量を食べないし、男の人に合わせてムリをしているみたいな……」
男と一緒に楽しそうに笑っていても、ひとりで食事をとっているときのような、あの滲んで広がっていくような幸せの気配は、すっかり褪せて消えていた。
田口さんがレジの売上を数えながら苦笑した。
「なんでそれでサキちゃんが不機嫌になるの」
「……最近、あの人が、違う人になっちゃったみたいな気がして」
私は『彼女』を勝手に未来の自分のあるべき姿のように思っていた。
だから、最近の彼女を見ているのが苦しかった。
田口さんは息をつくようにして笑った。
「なくなったりしないよ。『自分』ってね、相手によって形は多少変わるけど、ぜんぜんなくならないから」
田口さんはそれで話を切り上げて、フロアの点検に入った。
その言葉が、ずっと耳の奥に残った。
3.
十二月二十九日、年内の夜の営業は今日で最後だ。
燈子さんがお店に来て、洋菓子を作っていた。
年始に親戚に配るのだという。
「そういえばサキちゃん、どうするの? 忘年会」
「……まだ決めてないんです」
燈子さんには、悩みを話していた。
行けたら行くというところで話は止まっていて、陸人たちから返事を催促してくることもない。日に日に気が重くなって、ただでさえ親しみのなかった小晦日という単語が、すっかり忌々しいものになってしまっていた。
燈子さんは笑った。
「嫌なら行かなくていいよ。友達なんて、人生にひとりかふたりいれば十分」
「燈子さんのお友達って、どんな人ですか?」
そう訊くと、燈子さんは目で仕込みをしている田口さんを指した。
「え、だって……」
「関係も変わっていくから。私の場合は、いい方にね」
そう言って、悪戯っぽく笑った。
『彼女』と男は、予約時間に少し遅れて店にやってきた。
二人ともいつもよりドレスアップしている。
男は珍しくネクタイを締め、そのシンプルな紺の色が、真っ白なシャツによく映えていた。彼女は襟ぐりの深い黒いワンピースを着て、薄いピンクのショールを首に巻いていた。どこかで一杯やってきた後らしく、ふたりとも頬が赤くなっている。少し潤んだ瞳に酔いの兆候が見て取れ、華やいだ街の雰囲気を纏っていた。窓際のテーブルまで案内した私は、甘い香水の匂いを嗅いだ。でも、それがふたりのどちらから漂ってくるのか分からなかった。二人はいつもよりずっと高いワインを頼み、その代わり食べ物はあまり注文しなかった。
私は忙しなくテーブルとキッチンを往復しながら、彼女たちのテーブルを常に意識していた。男からは、いいタイミングでケーキを運ぶように指示を受けていたが、いいタイミングとはいつなのか。男が何か合図をしてくるのだとすれば、それを見逃してはならない。気がつけば男に共犯者のような親密な感情を抱いていて、それが自分でもおかしかった。今日の二人は、話し声のトーンが低くて、なんだか雰囲気が重たく感じられた。
私が他のテーブルにビーフシチューを運んでいったとき、店内に男の大きな声が響いた。男はいつもの粘っこい口調で彼女を罵ると、コートを手に立ち上がり、店を出て行った。安っぽいドラマのような出来事に、一瞬、店内に沈黙が満ちた。彼女は呆然とした顔で、テーブルの上に虚ろな視線を落としていた。ポルペットーネはナイフで切り分けられたあと一切れも食べられていなかったし、ワインのボトルも半分も空けていなかった。男がお代のつもりで置いていったのだろう、一万円札が数枚、テーブルの隅に無造作に置かれたままになっている。
どれほど経ったあとだろう。彼女がゆっくりと冷め切ったポルペットーネを食べ始めた。少しも幸せそうじゃなかった。けれど泣くこともしなかった。まるきり表情を欠いて、その食べ方も、ただ皿から口へ物を運ぶという表現がぴったりくるような、どことなく機械的な印象があった。
「サキちゃん」
田口さんが私を小声で呼んだ。顎で指し示したその先に、チョコレートケーキがあった。どうする、と田口さんが目で問いかけてくる。
おそらくこれは、サプライズのプレゼントだった。彼女は用意されていることを知らないはずだ。少し迷ったけれど、ケーキを手に取って、テーブルに運んだ。空になった皿と、すっかり手をつけていないワインボトルと入れ替わりに、ケーキだけをテーブルの上に載せた。ちゃんとホワイトチョコレートで書かれたメッセージが彼女に見えるように角度を整えて。
「お連れの方からです」
と私は言った。なぜか、声が震えていた。
彼女は、じっとケーキの表面を見ていた。表情は変わらなかった。だから、嬉しかったのか悲しかったのか、よく分からない。ただ、涙が頬を伝って、次々に落ちていった。フォークを手に取り、端から削りとるようにして口に運ぶ。
何も話さなかった。涙は止まらなかった。その顔に、ゆっくりとあの表情が蘇っていく。彼女自身もきっと知らないあの表情。ワンホールのチョコレートケーキを半分ほどたいらげて、それでも彼女は食べ続けた。乱暴にフォークでメッセージを壊しながら。行儀悪くスポンジをぼろぼろテーブルの上にこぼしながら。口の端にチョコレートの塊をくっつけながら。とてもきれいだった。彼女のバッグのあたりから着信音が聞こえた。彼女はそれを取らなかった。
私は石油ストーブの傍に立って、その姿を見ていた。彼女の向かいの席に座りたいと思う。そして一言、何か言葉をかけたいと思う。たとえば恋愛映画で、不幸な偶然や勘違いで別れた恋人同士を再会させるための一言を発する、冴えない友人みたいに。誰もが望んでいるハッピーエンドの一歩手前で、一瞬だけスポットライトを浴びる彼や彼女のように。
私は言葉を探す。彼女はもうほとんどケーキを食べ尽くそうとしている。もう涙は痩せて乾いている。彼女がふと目を上げる。視線が私と重なる。
彼女はにこりと笑った。
「――グラスビールください」
じわりと私の胸に温かい気持ちが満ちた。
なくなったりしない。ずっと、そこにあるんだ。
私は目礼して身を翻した。
厨房に向かって少し早足で歩きながら、小晦日の鍋パーティーに参加することをどう伝えようか考えていた。
【おわり】