【最終選考作品】天藤教授の研究(著:遠藤駿二)
アデリーペンギンの雄は気に入った雌に小石を差し出す。あなたと一緒に巣を作りたい、繁殖したい、という意図を含んだ彼らなりの求愛行動だ。ストレートかつ純粋で実に愛くるしい。
では、もし私がアデリーペンギンだとしたら。果たしてどんな小石ならば受け取るのだろうか。
何度となく繰り返した妄想にまた取り組みながら神楽坂駅の改札口を出る。どんな小石だったら私は受け入れるのか、全く想像がつかない。何度考えてみても差し出された小石を後生大事に受け取る自分の姿がイメージできないのだ。たとえそれが希少なダイヤモンドの塊だったとしても、鏡面のように丁寧に磨き上げられた黒曜石だったとしても、心の琴線には触れない。
指定された待ち合わせ場所は神楽坂のビストロだった。駅から徒歩五分、ディナータイムの予算目安は五千円~七千円。講義室くらいの広さがあって、テーブル席もカウンター席も潤沢に用意されている。店構えはフランスの街並みの一角によく馴染むような木造りで、手書きの黒板ボードが本日のおすすめメニューを通行人に推薦する。店内照明はフォークの影がハッキリ見えるくらい明るく、各座席が開けていて、男女二人で飲んでいてもクローズドな雰囲気になりづらいお店。
食事をするお店選びは人間の雄が最初に行う求愛行動とも言える。受け取る側の雌はこの段階でアリかナシかを冷酷に判断するのが一般的だ。まぁ、神楽坂のビストロはアリの部類なのでしょう。ぶっちゃけ私からすれば一万円を超えるようなお店じゃなかったら何でもいいのだけれど。
アラサー同士の恋愛は合理的だ。人間にとっての恋愛適齢期を僅かに過ぎた男女による恋愛というものは実に分かりやすい。特にマッチングアプリでの出会いとなると、対面で会うまでに余計なセッションを必要としないから楽だ。趣味、好きな食べ物、アクセスしやすい最寄り駅、お酒が飲めるか飲めないか。これだけの情報が揃えば後はピタゴラスイッチを押すみたいにトントン拍子で顔合わせがセッティングされていく。接触に当たって雄側の熱烈な求愛行動を必要としない点は実に合理的だ。私のように雌側が警戒心の薄い個体であればある程、さらにコトは早く進んでいく。
日曜日の午後六時に現地直接集合。神楽坂駅のトイレでそれなりにメイクも髪もチェックしたけど、秋風が強かったから店内でもう一度リチェックがしたかった。だから十分前に店に着くように調整したのに、お相手は先に待っていた。
フロアスタッフに「矢崎で予約してると思うのですが」とお相手の名字を告げると、あちらでお待ちです、とすんなり通されてしまう。お相手は横顔しか見えないが、スマホを触らずメニュー表に視線を落としていた。待ち合わせ十分前に着いて女性を待ち構えている精神的な余裕がある辺り、素敵な男性。なのだろう。
「あ、こんばんは。矢崎です」
お相手は私を見るなり立ち上がって、スマートなお辞儀で出迎えてくれた。先に来ているのに着いていたのは下座。真っ直ぐ揺らがない視線、上がった口角、清潔感のある肌。シンプルな薄手のタートルネックにジャケット。素敵な男性なのだろう。どの切り口から考えてみても素敵な男性と判定できるのだろう。一般的には。
「加瀬です。よろしくお願いします。今日はご予約ありがとうございました」
「いえいえ、とんでもない。まさか十分前にいらっしゃるとは思わなかったんで、ちょっと油断してましたよ。お早いんですね。あ、そっち、鞄の置く場所ありますか?」
「椅子の下に籠がありました。大丈夫です」
私が座ると、お相手はやや緊張気味にメニューを差し出してくれた。
「これ見ながら待ってたんですけどね、色々と美味しそうなのがありますよ。牛タンペコリーノ、鶏の白レバームース、アンチョビグラタンとか。あ、もちろん焼き鳥も。今日のお店選びのメインテーマですから」
今日の、というのはどういう意味だろう。次があるという意味なのか、これまで散々デートしてきた中での一回に過ぎない、という意味なのか。明るい照明の下で私の顔を真正面から見ても気落ちしていないあたり、少なからず印象良く思ってくれてはいそうだけど。
いやいや、考え過ぎだ。集中せよ。今はこの恋愛活動に集中。
「楽しみです。美味しそうなお店を選んでくれてありがとうございます」
私も改めてお相手の顔をまじまじと覗き込む。塩顔のイケメン。三十五歳なのに年齢を感じさせず、体型に自信があるからこその薄手のタートルネック。清潔、真面目、スマート、人当たり柔らか。人間の雄として全く問題ない。これまでの人生で様々な恋愛を経て、多少適齢期を過ぎたにせよ、いつかは必ず適当な雌と巡り合って合体に至る雄。求愛の準備は須く整っていて、あとは雌がそのシグナルを受け取れるかどうかだ。
「すごい綺麗な方で緊張します。プロフィール写真でも美人な方だと思ってたんですけど、思ったよりもずっと綺麗です」
自信に満ちた眼差しがストレートな愛情表現と一緒に私を射貫こうとする。さすが大手コンサル勤めのエリート。ちっとも厭らしくなく女性を褒めるのに慣れている。
なのになぁ。肝心の私が素直に受け取れないのだから仕方が無い。
一杯目をビールで乾杯すると、お相手はくにゅっと笑って、私がマッチングアプリの趣味欄に登録していた【動物】について会話の糸口を突いてくれた。
「そういえば動物が好きってプロフィールにありましたけど、ワンちゃんとか飼われてるんですか?」
「いえ、特に。動物はそうですね、好きなんですけど、私の場合は一般的な好きとちょっと変わっているというか。可愛いのが好きっていうよりも、単に観ているのが好きなんです。職業病的なところもあってなのかも知れません」
「あ、そうですよね! 大学で助教されてるんですもんね。僕、大学で研究職やってる人とこうしてお会いするの初めてなんで新鮮ですよ。その若さで助教ってことは相当努力されたんじゃないですか?」
ごく自然に私を持ち上げてくれる。会話を滑らかに続けてくれる。賢く聡い人だ。すぐに雌を捕まえられる雄だ。
なのにトキメキを感じない私。雌として大事な部分が欠落しているのは疑いようがない。
「私は学生の頃に通っていた大学に戻ってきましたので。そういうパターンですと、上の教授陣も知り合いですし研究内容も一本化されていますから、ある程度昇進は早いのかも知れません」
「いやいや、加瀬さんの努力ですって。熱意をもって勉強続けて博士号まで取るなんてすごいですよ! 今は何の研究をされてるんですか?」
「蚊です」
「へ?」
坦々と上っていた階段の段差が急に狭くなって前につんのめってしまったように、お相手の想定していた会話プランも求愛行動も音を立てて崩れたのが分かった。またこのパターンだ。
「えーとですね、あ、」
私が補足する前に、焼き鳥の盛り合わせが会話をぶった切るように提供された。お相手は躊躇なく「僕がやります」と未使用の箸で串から砂肝を外す。つくねもネギマも外していく。私はビールを一口飲み直す。どうせ上手くいきっこない恋愛に付き合わせてしまった申し訳なさと、自分の奥底に押し留めている感情とが気泡になって空気中に抜けていく。
もし天藤教授がここにいたらどうするのだろう。「加瀬くん、恋愛を理屈で考えちゃいけないよ」なんて、自分たちの研究を全否定するような事を平気で言ってきそうだ。あの人はそういう無神経さがある。
「私の専門は脳回路構造学です。生き物は何をもってして知覚、思考、行動をするのか。どういう基準で喜ぶのか、悲しむのか。逆にどこが破綻すれば感情も破綻してしまうのか。そういうのを研究しています」
何度も言い慣れたフレーズ。自分でお相手に説明しながら、天藤教授のコトを考えてしまう。ダメだ、集中、集中。
「という事は、恋愛も研究対象になるんですか?」
お相手はぐいっと身を乗り出して、挑発するように唇の端を歪めた。やっぱりだ。リズムが狂ったことで私の事を過剰に意識している。雄の狩猟本能が呼び起こされて逆に食いつく形になっている。
「ある種そうです。でも、人間の求愛行動ほど参考にならないものはありませんね」
天藤教授が学部生だった私に向けて言ったセリフを繰り返す。淡々としていながらも探求心を深く根差しているあの感じ。天藤教授は何を考えているか未だにさっぱり摑めない。なるほどそこが魅力的とも言える。
「加瀬さん、面白いですね。僕、こんなに不思議な魅力を持った人にお会いするの初めてです。加瀬さんといるとワクワクします」
「そう言っていただけると嬉しいですが、私は不思議な人じゃないですよ。至って普通です」
本心からそう思う。天藤教授に比べたら凡人も凡人だ。だけどお相手は完全にスイッチが入ってしまったようで、私が引いた姿勢をみせてもお構いなしのご様子だった。
ごめんなさい、ちっともあなたは不思議じゃないんです。
「なんか、加瀬さんにどんどん興味が湧いてきます。今日はたくさんお話し聞かせて下さいね」
お相手が念を押すのと同じだけの作用力で私の心は離れていく。テーブルの上からも、神楽坂からも、現実世界からも。
頭の中の天藤教授が語り掛けてくる。「加瀬くん、これも一つの説立証だよ。焼き鳥が求愛行動に加点することはない」だとかバカ真面目に頷いてくる。うるさいっての、既婚者のくせに。
天藤教授が既婚者だと知ったのは私が学部三年生に上がって、ゼミ生として正式に研究室所属してからだった。結婚指輪を嵌めていないし生活習慣がまるでだらしないからてっきり未婚だと思っていたのに、年末の忘年会で奥様があっさり登場したのだ。酔っぱらって歩けなくなった天藤教授を外車で迎えに来てくれた、所帯じみた様子のない綺麗な奥様だった。私たちにお菓子の差し入れをしてくれたのち、天藤教授の頬を何度か引っ叩いて後部座席に突っ込んでいた。ご迷惑おかけして申し訳ございません、とガキンチョの私達に敬語で謝ってくれた。でも天藤教授を介抱する横顔が恋する乙女のそれだったので、私は完敗だと強く思い知らされることとなった。
あぁ、嫌な思い出だ。
「ここの焼き鳥、美味しいですねぇ」
お相手の声で現実に引き戻される。私はビールをもう一度呷って、失礼の無いような笑みで取り繕う。
「天藤博士はラボに居ると思いますけど」
学術研究棟の廊下で学科職員の田崎さんにそう伝えると、彼は顎先を少し引いて「そうですか」といかにも嫌そうに頷くのだった。
「大丈夫ですよ、蚊はちゃんと管理してますから」
「いやいや分かってます。研究室の皆さんがちゃんとしてるのは分かってるんですけど、ですけど、どうも苦手で。見るだけでもう」
学科職員の田崎さんは三十代後半の男性。性格も年齢も詳しいところは知らない。男でも苦手な人は苦手なんだな、と私は新たな知見を得るだけ。
気落ちしながらラボへと向かう田崎さんの背中を見送り、私は授業のために講義棟へと向かう。本当は天藤博士が受け持つ授業なのだが、研究に没頭し過ぎて今週分は全部私に丸投げしてきた。研究熱心な姿勢は尊敬できるが、社会性の無さは頂けない。
講義室には学生が揃っており、皆静かに机に着いて私の到着を待っていた。この授業の受講者は一年生がメイン。高校という檻から放たれて自由を謳歌したい年頃のはずなのに、思いのほか静かなのが意外だった。ひょっとしたら小中高と教師から社会性協調を強制され続けることで反骨精神や自由意志が削がれていくのかもしれない。教育という洗脳が完了した状態で自由にして良いと野に放たれても、なにが自由なのか、どうしたら楽しいのか、よく分からないのだろう。ストックホルム症候群に似た傾向でもある。それに、SNS社会でナチュナルに育ってきた世代の彼らにとっては、出る杭は打たれるを身に染みて感じ取っている側面も否めない。昔の若者よりも悪目立ちを嫌い、リスクを避ける傾向にあるのかもしれない。また、そもそもウチの大学が国公立で偏差値の高い優秀な学生が揃っている事も忘れてはならない。家庭環境もまた精神発達に大きな影響を与える。
あぁ、ダメだ。またしょうもない事を考えてる。
私が教壇に立つと室内は一層静かに冷え切った。みな迷いも無く私を注視している。私がこれから授業を始めると思っている。ひょっとしたら私がこの場でデスサバイバルを宣言するかもしれないのに。
まぁ、そんな事は万に一つもない。
「本日は天藤博士に代わり、私が代理で授業を進めます。まずは出欠から。アプリをオンにしますので各自出欠をお願いします」
淡々とパソコンを操作する学生たち。性格も容姿も性別も年齢も違う個体なのに、行動は一様に同じ。単体生物の集団に餌となる有機物を与えると一匹の例外なく鞭毛が一斉に回転し出すのとよく似ている。生物の行動なのに数式で表現できてしまうようだ。人間ほど複雑に高度に発達した生物でも、外部的に操作する事は案外簡単なのかもしれない。
授業を終えると同時に学生たちは続々と講義室を出ていく。私に追加質問をぶつけてくる学生はいない。私の授業内容が特段素晴らしいとは思っていないけれど、疑問の一つも持たないのは疑問だ。
研究室に戻ると、入り口の前でスーツを着た男性二人組が立ち往生していた。私に気が付くと、助け舟を得たとばかりに二人揃って前かがみの姿勢になる。
「すいません、こちらの研究室の方でしょうか?」
「はい。脳回路構造学の加瀬と申します」
「あ、脳回路の! いやいや助かりました。私、中央新聞の田代と申します。実は天藤教授に三時から取材を申し込みさせて頂いていたんですが、いらっしゃらないようでして」
上位者らしき方から差し出された名刺を受け取り、本物であることを確かめる。
「三時ですね?」
「はい、ちょうど今です。あ。いやもう五分ばかり過ぎてしまっております」
あの人はどうせまた忘れているのだろう。私はドアに拳を翳し、トントトン、トントトン、と異質なノックを叩いた。
田代さんが気まずそうに鼻の下を伸ばしている。私も変人と思われているが、構うまい。これは天藤教授が取り決めた暗号ノックなのだ。天藤教授が研究に籠っている時は大事な用事がある時だけ、この暗号ノックを鳴らす。すると、出てくる。
ドアが開く。寝癖ボサボサの天藤教授がのっそりと立っている。この行動形式もまた、数式で表せそうだ。天藤教授の意思や体調や周囲環境に関係なく、暗号ノックが鳴れば彼はドアを開ける。そういう風に理が定まっている。
「先生、中央新聞の方ですよ」
天藤教授は考え込み、頭の中の引き出しから本日午後三時の予定をようやっと引っ張り出してきた。
「おぉ、すみません。すっかり忘れてました。ささ、中へどうぞ」
中央新聞の記者二人が部屋の中に入ると同時に「うあ」と驚きに近い呻き声を発した。それもそうだ、ラボの実験室にはクリアケースが大量に並べられていて、その一つ一つに相当数の蚊が飼育されている。遠くから見ると黒い靄が壁全体を覆っているように目に映るほどだ。
「大丈夫ですよ、逃げませんから」
「え、あ、いやすみません。噂には聞いていたんですが、実際に目にするとすさ、凄まじいですね。ちょっと鳥肌が」
田代さんは引き攣った笑い顔で背筋を伸ばした。初見だったらこうなるのも無理はない。
待機学生がいなかったので私が代わりにお茶を出して、インタビューらしくなるように教授室の机配置を整える。
田代さんはさすがプロの記者だけあり、いざレコーダーとペンを取り出したら目つきがキリっと変わった。蚊の存在は一瞬で意識の外に追いやっている。
天藤教授は何故か鼻先を指で必死に撫でている。
「先生、鼻どうしたんですか?」
「ん? なんかね、刺されちゃったみたい。どれか逃げたのかな? アハハ」
見れば鼻先がポツリと赤い。蚊の存在が再び脳内に舞い戻ってきたようで、田代さんは苦笑いをした。取材補助と思われるもう一人の男性は完全にビビっているらしく、背後に気をやったり目を泳がせたりと落ち着かない。
「えー、先生。それでは録音開始させて頂いてもよろしいでしょうか? はい、ありがとうございます。では、天藤教授、本日は貴重なお時間頂きましてありがとうございます。先生が研究なさっている蚊について、お話伺えればと思っております、よろしくお願い致します」
流暢に田代さんが切り出す。天藤教授は好々爺のようにうんうん頷くだけ。
「先生、今回、蚊の繁殖を防ぐための新しい仕組みを開発されたのだとか。先生のチームが得た研究成果を踏まえて詳しくお聞きしてもよろしいですか?」
「えぇ、うん。僕が考えたのは、蚊の恋を邪魔するという何とも非道な技術です。蚊は、そうですね、例えば、」
天藤教授がおもむろに立ち上がり、実験室の壁に並んだ蚊の飼育箱の一つを手に取ると、記者二人は思わず後ずさりした。
「大丈夫ですよ。逃げませんから」
逃げとるやないかい、という彼らの心のツッコミが聞こえてくるようだ。天藤教授は透明な飼育箱越しに記者たちと目を合わせる。
「蚊はですね、交尾の際、相手の羽音を触覚で探すんです。蚊は相手の羽の振動数に合わせて自分の触角の振動数を調整していき、やがて完全に同調させる。そうすることによって互いの存在を認識し、発見し、出会い、交尾に至るわけです。つまり蚊にとっては、羽音が恋の囁きなんです」
「恋の囁きですか。蚊の」
うへぇ、と付き人記者が顔を歪ませた。
「そうです。そして僕はその恋の囁きが聞こえなくなる技術を研究しました。蚊の触角を動かすホルモンを抑制する物質を特定したんです。この物質を体内に注入する事によって、蚊は相手の音が聞こえなくなり、出会えなくなるのです。少し前に、子が雄しか生まれない遺伝子を持つ蚊を繁殖させて蚊の世界を雄だらけにし、繁殖を食い止めるという技術も研究されていました。ご存じですかね? あぁ、そうですよね、割と有名な話だから。うん、で、あれはあれで非道ですが、僕のはもっと非道じゃないかな。なんせ、彼らの言葉を通じなくさせるんですから、相手は近くにいるのに出会えない、聞こえない。バベルの塔より酷い擦れ違いが起きるわけです。それは最初から恋人がいない世界よりももっと残酷な世界だと思います」
蚊がぴろぴろと飼育箱内を飛び回る。この個体はまだホルモン抑制処理を施していないものだが、いずれ実験に使われる。そうすればこの小さな箱の中でも相手を見つけることができなくなる。相手はちゃんとそこにいるのに。
田代さんは目の前の蚊に顔を落とした。
「なんだか、皮肉ですよね。蚊も蚊で、一生懸命やってるだけなのに」
「恋愛をしたいのは我々と同じなんですけどね。実は蚊の肉体そのものに大した害はありません。ただ、彼らは厄介な病気を媒介してしまう。それは人間にとって脅威であり、脅威は叩かねばなりません。命に優劣はない。人間もまた、一生懸命やってるんです」
一つの真理なのか。天藤教授の言葉は夜になったら輝き出す恒星のように、あやまたず真っ直ぐ相手の心に届く。中央新聞の記者二人にもそれは同様の効果を示したようで、二人は蚊の生理的な嫌悪感を忘れるほど先生の話に夢中になっていった。
インタビューが終わると、天藤教授が「お腹減った」とボヤき始めた。コンビニで何か買ってきましょうか、と提案すると「あそこのコンビニは飽きた」と駄々をこねる。オッサンのくせに。
「どっか食べに行こうか? なんか、どっか」
今日の授業は全て終わっているので予定としては問題ないのだが、まだ五時前だ。夕食には早い。
「どっかって、先生の場合はその、どっか、をちゃんと決めなきゃダメでしょう。こないだだってお寿司屋さんに入ったと思ったら蒸しエビ一皿だけ食べてすぐに立ち上がって、隣のラーメン屋に駆け込んだじゃないですか。あれ、学生の間でドン引きされてましたからね?」
「うん。僕の耳にも届いてる。天藤蒸しエビ事件だ、って」
「自覚してるならちゃんとして下さい。いいですよ、ご飯は付き合いますんで何を食べるかだけ最初にハッキリさせて下さいね」
私が強く要望すると、天藤教授は顎に手を置いて考え出す。名探偵コナンみたいなポーズで如何にも真面目に夜ご飯のコトを考えている。脳回路構造学の権威と言われた人がその頭脳をフル回転させるには余りにも些細なテーマだ。長考になりそうだったので「決まったら教えて下さい」と言い残して自分のデスクに戻ろうとしたら、天藤教授が「あ」と素っ頓狂な声を上げた。
「そういえば、加瀬くんの恋愛はどうなったの?」
ビールグラスについた泡のリングを思い出す。動物が好きなんですよね、と私にパスを出しながら恋愛のステップをしっかり踏もうとした初対面のお相手。焼き鳥の五本セットが運ばれてくるまでの時間が苦痛だった。
「今それ最も関係ない話ですよね? あと、私と蚊の恋愛を同列みたいに話さないで下さい。加瀬君の恋愛は、とか並べてほしくないです」
「あぁごめんごめん。で、どうだったの?」
時代が時代なら真っ先に息の根を止められるタイプの大学教授だ。私やその他の研究メンバーと信頼関係を築けているからこそ、天藤教授のキャラクターを私達側も理解しているからこそ、この人は辛うじて成り立っている。このオッサンはその自覚が足りていない。
「マッチングアプリで出会った男ですよね? ご飯に行きましたよ。神楽坂の洒落たビストロで、ビール飲みながら串から外した焼き鳥を摘まんできましたよと。それだけです。何の発展も無し」
「発展の有無はまだ形成途中さ。答えを決めるのは時期尚早だ」
「無理です。だってそれから一度も連絡返してないですもん。こっちはもう一回会いたいって思ってないですし。相手がどう考えていても、私が発展させる気ないんですから、発展は無し。確定。証明完了」
「ううむ残念だなぁ。あ、ハンバーグが良いな。大通り沿いのさ、ロイヤルホストに行けば何かしらのハンバーグあるよね? 僕、それ食べるよ」
まるでウォータースライダーが途中で滑らかに分岐するみたく、話題がころころと行ったり来たりする。本当にこのおっさんはロクでもない。理解も出来ない。今さら説教をかます余裕も意欲もない私は恋愛話を脇にどけ、素直にロイヤルホストへと向かって一緒に歩き出した。
夕暮れ時のキャンパスは美しい。銀杏並木が暮れかけの空の暖色に絡まって、自然界に存在しているとは思えない色の調和を紡ぎ出す。天藤教授がお腹が空いたというから、私も空いてきた気がする。
「加瀬君は美人なんだから。すぐに恋人は出来るさ」
天藤教授は何の気なしに言う。蚊の恋と、今日の夜ご飯と、キャンパスの美しさと、私の恋と。彼の中では全てが並列に同時処理されている。物事に執着が無いし、頑固さもない。どんな形状の岩にでも繁茂する苔のように発想が極めて柔軟だ。だから彼は世界の研究を大きく推し進めるようなブレイクスルーを連発させることができる。
「その仮説が当たらなかったらどうしますか?」
「ううん、当たらない、ってのはありえないね。恋人が出来るかどうかは命が尽きるその最後の瞬間まで分からないのだから。最後の一秒でようやく恋が実るケースだってあるのかもしれない」
「どんなケースですか、それ」
そよ風がふらりと発生して銀杏の葉を舞い落す。くるくると回転しながら地面に落下するまで、銀杏は世界の厳しさを知らない幸福な子供のように綺麗な色を保つ。落ちちゃったら、それまで。もう汚くなっていくしかない。
「そうだな、例えば、息を引き取る最期の瞬間に、繋がれた手の握力でようやっと全てを理解するとかね。恋ってのは双方向なわけだから」
「死に目に手を繋げている時点で、その恋は既に成就していると思いませんか?」
「あれ、ううむ、確かにそうだな。うん。確かに。ごめん、僕の言う事はあんまり信用しない方が良いかも知れない。これは一つのセオリーだ」
呆れるほど素直な人だ。天藤教授は私たちの目の前に落ちた銀杏の葉を拾い上げて、指先でくるくると回した。
「秋は好きな季節だね、うん」
地面に落ちた銀杏は汚くなっていくしかない、と思っていた私の仮定を一瞬で破壊してくれた。やっぱりこの人はすごい。
「私も好きですね、秋。好きだの惚れたの腫れたのと無縁な季節の気がします」
「大体の生物は春と夏で恋を終えるね。春夏秋冬がある地域に生息していて繁殖時期にピークがある生物なら、秋はその余韻、冬は次の恋の準備だと言える」
「人間は?」
「人間は年がら年中、恋をしたっていいんだ。繁殖も。そういう生き物だ」
「そういう発言、学生の前では控えて下さいね。時代的にアウトなんで」
天藤教授が私を振り向く。
「酷いなぁ、まるで誘導尋問だ」
この人は私の気持ちを知らない。何年も何年も留めていた気持ちを。それこそ最後の一息を迎える瞬間に手を握っていてやろうか。
あぁお腹が空いた、やっぱりラーメンが食べたくなってきた、と天藤教授がぼやいた。
【おわり】