【佳作】山姥(著:小林温書)


「ゆうりちゃんにお願いがあるんだけど」
 帰りの会が終わり、ランドセルを背負って四年二組の教室を出ようとすると、後ろの席の(はな)()ちゃんに声をかけられた。
「これからみんなで、『山姥(やまんば)』の家を見に行こうって話してるんだけど、ゆうりちゃんも来ない?」
 なんとなく、予想はしていた。昼休みに、華里ちゃんのグループが遠巻きに私のほうをちらちら(うかが)いながら、
「やっぱ、誘う?」「えー、でも」と話しているのが聞こえたからだ。
「ほら、大勢で行けば怖くないしさ。ピアノ辞めたんでしょ、時間あるよね」
 お願い、と顔の前で手を合わせて、華里ちゃんはこてん、と首をかしげて私を見た。華里ちゃんの頭についたふわふわのリボンが揺れる。地味な私と違って、華里ちゃんはおしゃれで可愛(かわい)くて、いつもたくさんの友達に囲まれている。
「いいよ」私は答えた。
 華里ちゃんはにっこりと微笑(ほほえ)むと、「いいって!」とドアのところに固まっていたグループの子たちを振り返った。
「山姥」というのは、私たちの通う小学校の近くに住む(ろう)()のことだ。ぼさぼさの白髪頭に、(しわ)だらけのやせこけた手足、ぎょろっとした目。昔話に出てくる山姥そっくりの見た目をしているから、このあたりの子供たちはみんな、彼女のことをそう呼んでいる。
「山姥」は、時々、学校前の道に現れて、遠くの方から、グラウンドではしゃぐ子供たちをじいっと見る。またある時は、登下校中の子供たちを、離れたところから、じいっと見る。まるで、「喰ってやろうか」と言わんばかりに、じいっと。子供たちには気味悪がられていたし、大人たちもこれを嫌がって、学校のPTAもたびたび問題として取り上げた。けれど、学校側は「なにをするでもないのだから、放っておきましょう」という姿勢だった。
「山姥」はかなり長い間、ああした奇行を繰り返しているらしい。四年二組の担任で、長年この学校で先生をしている(おさ)()先生は、「山姥」問題には慣れっこのようで、
「ああいうのは、刺激しないのが一番ですから」
 騒ぐ大人たちをぴしゃりと黙らせた。
 実際、「山姥」は見てくるだけで、こちらに危害を加えることはなかった。私やみんなも、次第に「山姥」を無視することに慣れていった。が、関わらないことがかえって、「山姥」にまつわる色々な、良からぬ想像や(うわさ)をふくらませた。
「夜になるとね、家の中から声が聞こえてくるんだって。子供が歌ってるみたいな、高い声。隣のクラスの子が聞いたって言ってたの。きっと、どこかの子供が(かん)(きん)されてて、山姥に気づかれないように、助けを求めてるんじゃないかって」
 山姥の家に向かいながら、華里ちゃんは楽しそうに話す。
「だからさ、本当に子供が中にいないか、確かめてみよう、ってことになったの」

「山姥」の家は、お洒落(しゃれ)()(れい)な家の並びから少し外れたところに、ぽつんと建っていた。ひびだらけの小さな家屋に、不釣り合いなほど広い庭。手入れとは無縁のそこは、雑草が茂るに任せて伸び放題になって、小さな虫が飛び回っている。門の横の表札は汚れて文字が薄れ、そこになんと書いてあったか、読み取ることはできなかった。
 私と華里ちゃんのグループは、庭を囲むブロック(べい)(すき)()から、様子を窺った。
 家に人のいる気配はない。「山姥」は留守なのかもしれない。
「誰か、中入ってみてよ」
 グループのうちの一人が言った。
 みんなの目が、その「誰か」を探すように泳いで、止まる。
「ゆうりちゃん」
 華里ちゃんがこてん、と首をかしげて、私を見た。
「ちょっと見てきてくれるかな」
 大丈夫、なにかあったらすぐ助けるから。ランドセルを押された拍子に、ほとんど壊れた門の木戸から、荒れ放題の庭に足を踏み入れてしまう。やるしかない。いくら「山姥」の家でも、人の家に勝手に入るのは良くない。でも、ここで華里ちゃんの言うことを聞かないのは、もっと良くない気がする。
 一歩、二歩、三歩。恐る恐る足を進める。踏まれた草ががさがさと鳴って、そのたびに、「山姥」が今にも血相を変えて飛び出してくるのではないかと(おび)える。どうにか家屋の前に辿(たど)り着くと、破れた(しょう)()()から中を(のぞ)いた。昼間だというのに、部屋の中は薄暗くて、よく見えない。
 誰もいないみたい。
 そう言って華里ちゃんたちを振り返ろうとしたとき、障子戸ががらり、と開いた。突然のことに、私は動けなかった。向こうで、華里ちゃんたちの叫び声と逃げていく足音が聞こえた。見捨てられた、と理解する前に、むっと腐った(たたみ)(にお)いがした。
 目の前に、「山姥」が立っている。あのぎょろっとした大きな目が、知っているよりもずっと近くにあって、私を見ていた。「山姥」の口が何かを言いかけるように、開いた。色の悪い唇と唇の間に、糸が引いているのが見えた時、やっと私の足は動いた。
 一目散に駆け出す。ランドセルから何かがぶちっと切れたような音がしたが、構わず庭を走り抜け、木戸の外へ出た。
「山姥」は追いかけてこなかった。

 家へ走り着いた時、ちょうど、お母さんが妹をピアノ教室に送ろうと、車にキーを差し込んでいるところだった。
「ゆーちゃん、なにがあったの」
 ただならぬ娘の様子に、お母さんはぎょっとして駆け寄ると、私の(ほお)を白い手で挟んだ。久しぶりの、温かい感触に、思わず涙がこぼれそうになる。今更ながら、自分が恐怖を感じていたのだと理解する。
「ゆーちゃん、給食袋どうしたの?」
 見ると、ランドセルの横に掛けてあった給食袋がなくなっていた。「山姥」から逃げる時、なにかがランドセルから切れたと思ったのは、給食袋だったのだと気づく。「山姥」の家の庭に、落としてきてしまったのだ。
 お母さんが小学校の入学祝いに作ってくれて、ずっと大切に使ってきたピンクの女の子らしいやつ。袋と中のランチョンマットを同じ(がら)の布で作ってあって、取り出すたびにワクワクした。おしゃれなんか分からない私でも、それを持っているだけで可愛くなれた気がしたし、華里ちゃんと話すようになったのも、華里ちゃんがその給食袋を()めてくれたのがきっかけだった。
「こんな可愛いの作れるなんて、ゆうりちゃんのお母さん、天才!」
 おしゃれな華里ちゃんにそう言われて、すごく嬉しかった。今日、「山姥」の家へ行く仲間に誘われたのも、きっと、そのおかげだと思っていた。もっと華里ちゃんと仲良くなれると思っていた。でも、私は置いていかれた。わざとじゃない、と信じたいけれど。
 目の前の、不思議そうなお母さんの顔を見る。
 色々な感情が沸き上がってきて、私はどう説明すればいいか分からなかった。
「お母さん、ピアノ遅れちゃう」
 車の後部座席の窓が開いて、妹が顔を出した。
「ゆーちゃん、ごめん。帰ってきたらお話聞くね」
 お母さんは私の顔から手を離し、再び車に乗り込もうと、私に背を向けてしまった。
 いつも、こうだ。
 妹のピアノ教室は遠い。妹にはピアノの才能があるから、近くのピアノ教室から、もっといい先生がいる教室に移ったのだ。お母さんは妹のピアノレッスンに付き合って、帰ってくる頃には夜になっている。私は一人でご飯を済ませ、二人の帰りを待つ。リビングの真ん中には、妹が練習で使う大きなピアノが置いてある。前は私も使っていた。私は、そのピアノを弾いちゃいけない気がして、部屋の隅の方で、じっとうずくまって、二人を待つ。やっと帰ってくると、二人ともくたくたで、話そうともしない。それなのに、妹は鬼のような(ぎょう)(そう)でピアノに向かい、長い名前の外国の人が作った、難しい曲を勢いよく弾き始める。お母さんは私に、もう寝なさい、と言って、自分は寝ないで妹の練習に付き合う。お母さんが私の話を聞く時間はない。
 バタン。車のドアが閉まり、発車音が聞こえた。
 遠ざかっていく我が家のナンバーを見て、私はまた、自分が置いていかれたのだと気づいた。

 ブロック塀越しに覗くと、相変わらず庭は荒れ放題で、家の障子戸は破れていた。けれど、昨日とひとつ違っていたのは、庭の木と木の間に、ひものようなものが結ばれていて、そこにピンク色の布のようなものが二つ、並んで干されてあることだった。
 私は再び、「山姥」の家に来ていた。
 間違いない。あれは私が昨日落としていった給食袋と、その中のランチョンマットだ。「山姥」が(せん)(たく)したのだろうか。
 むさくるしい初夏の庭に、ひどく不釣り合いな二つの布は、まぶしく揺れている。
 私はふっと息を吸うと、壊れた木戸を恐る恐る開けた。庭へと足を踏み入れる。
 取り返しに行くんだ。もし見つかって、責められるようなことがあっても、「あれは私の大切な物なんです」と言ってわかってもらおう。もし、返すのを(こば)んだり、話が通じず襲ってくるようなことがあれば、その時は()みついてでも
 がらり、と障子戸が開いた。
「山姥」と目が合う。私は勢い込んでいた分、間抜けな恰好(かっこう)で固まっていた。
「学校は?」
 その言葉が「山姥」の口から発せられたものだと気づくのに、しばらくかかった。その声があまりにも若々しくて、澄んでいて、目の前の汚い(ろう)()とはおよそかけ離れたものだったからだ。そもそも、「山姥」が話せるなんて、知らなかった。
「祝日で、なくて」
 思わず答えてしまう。「山姥」はおもむろに私の横をすり抜けると、ひもにかかった布二つを、ぱんぱんと両手で挟んだ。そうして乾いているのを確認すると、縁側へ行って、(てい)(ねい)にたたみ始めた。その手つきは、しばらく一線を退いていた職人が、久しぶりに復帰して仕事の感触を徐々に思い出していくような、たどたどしさの中に手慣れたものがある。
「もう落とすんじゃないよ」
 渡された給食袋は、温かかった。さっきまで陽を浴びていたからだろう。アイロンもかけていないのに、袋には(しわ)ひとつなく、中を開けるとふわりと、(せっ)(けん)の香りが広がった。
「桃、好き?」
 私が(うなず)くと、山姥は立ち上がって障子戸の向こうに消えていった。
 給食袋は取り返した。逃げる絶好のチャンスだ。けれど、私はなんとなくそんな気にならず、大人しく待っていた。「山姥」はなかなか帰ってこない。私は、思い切って障子戸を開けると、家の中に入っていった。
 むっと腐った畳の匂いがした。四(じょう)くらいの和室があって、そこが「山姥」の寝床であるらしい。くしゃくしゃの布団が敷いてある。その向こうはフローリングの床になっていた。床には(から)の缶詰やごみが散乱していた。虫の()(がい)まで転がっている。
 狭い部屋だった。およそ、子どもなんて監禁するスペースはないように思える。
 その中に、ピアノが一台置かれていた。
 あまりにも場違いで、一瞬、私は自分の目を疑った。古いけれど、それは確かに木でできたピアノだった。ほこりまみれの部屋の中で、それだけが、黒々と美しく光っている。
 定期的に誰かによって手入れされているような、そんな温かい輝きだった。
 奥の台所で、「山姥」は包丁を持ったまま放心していた。一瞬、「桃はお前だ」とか言いながら斬りかかってくるんじゃないかと考えたが、私が近づくと「山姥」は「腐ってた」と、半分黒くなった桃を、ばつが悪そうに捨てた。
 結局、私たちはサバ缶を食べることになった。家にまともな食べ物がそれくらいしかなかったのだ。よく知らない人の家で生の果物を食べるよりは、加工食品の方が安全だと思って私は安心したくらいだったが、「山姥」は私に桃を()けなくてがっかりしたらしい。
 しおしおとサバをつつく髪の薄い後頭部を見て、私は前に図書室で読んだ「山姥とサバ売り」という昔話を思い出した。
 売り物のサバを全部食べつくした悪い山姥が、最後にはサバ売りの男の知恵によって、退治されてしまう話。その本の、サバをむしゃむしゃと(むさぼ)る山姥の挿絵が怖くて、以来読んでいないけれど、今、目の前で加工されたサバを食べる「山姥」は、その本の中の山姥とは全然違う、と思った。そう思うとなんだか可笑(おか)しさがこみ上げてきて、私はくっくっという腹から昇ってくる笑いをかみ殺すのに苦労した。
「あんた、名前は」
 そう聞かれて、私はとっさに「ゆり」と答えた。本名を教えなかったのは、「山姥」を信用しきっていない、というのもあったけれど、実を言うと、私は自分の「ゆうり」という名前が、男の子みたいで好きじゃなかった。「華里」みたいに、もっと可愛(かわい)くて女の子らしい名前が欲しかった。せめて真ん中の「う」がなかったら、もっと可愛いかったんじゃないか。ずっとそう思っていたから。
「山姥」はまるで幽霊を見るような顔で、私を見ていた。
「お名前は」
 今度は私が尋ねた。少し考えてから、「山姥」はぽつりと(つぶや)いた。
「なんだっけ」
 サバは美味(おい)しかった。

「良かった、無事だったんだ!」
 次の日の朝、教室に入るや(いな)や、華里ちゃんたちが駆け寄ってきた。
「ごめんね。ウチら、ちゃんと助けようと思ったんだけど、ついびっくりしちゃって」
 ごめんね、ごめんね、と(まゆ)を寄せて繰り返す華里ちゃんに、「いいよ」と私は言った。ほっとした。自分が、本当に捨てられたわけじゃないんだ、とわかって。
「ありがとう。ゆうりちゃんは優しいなあ」
 こっち来ておしゃべりしようよ。置いていかれた時は不安で、怒りたいような泣きたいような気持ちになった。でも、華里ちゃんに手を取られて、みんなの輪の中に連れられると、そんなことどうでもいい、という気持ちになった。
「ねえ、あのあと、『山姥』どうだったの。なんかされた?」
 みんなの期待に満ちた(まな)()しが向けられる。
「給食袋をつかまれて」
 おー、とみんなから歓声が上がる。嬉しくて、(ほお)が熱くなる。
「もうだめだ、と思った。でも、袋のひもが切れてくれて、助かったの」
 眼は血走ってて、口からはよだれが出ていて、(くさ)かった。
 良くない、と思いながらも、私は巧妙に「山姥」を悪役にした物語を作り出す自分を止められなかった。給食袋の温かったこと。ごみ部屋の中の美しいピアノのことと。サバ缶の美味しかったこと。そういうものは一切語らなかった。言ったところで、みんなには伝わらないだろう、とも思った。
 その日の放課後、私はまた一人で、「山姥」の家へ行った。嘘の物語を語った罪悪感もあったけれど、それだけじゃなかった。
 ピアノを弾いてもいいか、と聞くと、「山姥」は少し戸惑った様子をしていた。けれど最後には頷いて、ピアノの周りのごみを片付けて、私が座りやすいようにした。そして、ピアノの重い(ふた)を持ち上げると、中にかぶさっていた(えん)()色の布を取り去った。白と黒の整然とした(けん)(ばん)の並びがその下から現れて、私は思わずため息をこぼした。自分の家にあるピアノより、ずっと小さかったけれど、ずっと美しかった。
 恐る恐る鍵盤に手を触れる。ポーンという音が返ってくる。
 深い音だった。まるで木の精霊が息をするような。
 久しぶりに弾くピアノの感触に、私は震えるように、ある気持ちを実感していた。
 私と妹はもともと同じピアノの教室で習っていた。同じ時期に入会して、同じ先生に教えてもらっていた。いつからだろうか。妹はめきめきと上達していった。先生は妹は天才だ、逸材だと言った。()み込みが早い。今から訓練すれば、プロになるのも夢じゃない。お母さんはすごく喜んだ。平凡な一家から、天才ピアニストが出るかもしれない。その奇跡に酔いしれて、妹に厳しい練習を課した。妹も、お母さんの期待に応えた。そして去年のジュニアコンクールで最年少入賞を果たし、新聞にも名前が載った。ピアノを弾くたび、妹と比べられた。なんでこんなこともできないんだ、妹はできるのに。そんな簡単な曲ばかり弾くな、もっと向上心を持て。そう言われるうち、だんだんピアノを弾かなくなってしまった。ピアノ教室にも行かなくなり、しばらくしてお母さんに聞いたら、「退会手続きしといたよ」と言われた。みんな、私がピアノを嫌になったと思ったみたいだった。
 私は本当は、今でもピアノが好きだった。
 ランドセルから学校の音楽の教科書を取り出してめくる。散々開いたページは、すぐにひっかかって出てきた。授業で歌ったある合唱曲の楽譜が載っている。私の大好きな曲だった。この曲を発表会で弾きたいと言ったとき、ピアノの先生は(あき)れたように言った。「もっと難しい曲を弾かなきゃ意味ないのよ」
 たぶん、その時からだと思う。ピアノ教室に行かなくなったのは。
 楽譜を見ながら、一音ずつ音を拾っていく。音の羅列がだんだん曲になっていく様を、「山姥」は私の後ろからじっと聞いていた。そして、(にわか)に「我慢できない」とでも言うように和室の押入れのほうへ向かうと、散々色々散らかした(あげ)()、ぼろぼろの本を一冊持ち出してきた。

 雲よりたかく まだとおく 勇気一つを友にして

「山姥」は歌っていた。高く、澄んだ声で。こんな老婆のどこにそんな力があるのかと思うくらい、若々しく。最初は驚いたけれど、私はなんだか楽しくなってきて、気づいたら一緒に歌っていた。「山姥」の家から聞こえたという、子どもが歌うような高い声とは、「山姥」の歌う声だったのかもしれない。歌いながら、そんなことを思った。
「そこはもっと強く」「ここはテンポを落として」「だんだん音を大きくして」
「山姥」はぼろぼろの本を見ながら、私のピアノを指導した。私が間違えたり、止まったりしても、怒ったり、溜息をついたりはしなかった。この時の「山姥」は、山姥というより、髪を振り乱した楽しそうなヴェートーベンみたいに見えた。そう、ヴェートーベン。「山姥」にはどう考えても音楽の素養がある。教えるのも上手(じょうず)だ。
「山姥」はどんな人生を歩んできたのだろう。
 ちらりと彼女の持つ本の表紙を見る。大分薄れてはいたが、そこにペンで書かれたような文字が読み取れた。「山姥」の名前かもしれない、そう思ったが、すぐにそれが間違いだと気づく。表紙には「教員用 みんなのうた」と書かれていた。その文字の上にはさらに、学校の名前が書いてあった。
 私の通う学校だった。

「山姥」の家を出る時、夕方だというのに外は明るかった。日が大分伸びてきたらしい。涼しい風が、ピアノを弾いて火照(ほて)った体に心地よい。
「そこまで送っていく」と言って、「山姥」は私と一緒に木戸を抜けて、信号のある交差点の所まで出てきた。私は誰かに「山姥」と一緒にいるところを見られたらどうしよう、とひやひやしながら歩いた。幸い、道を行く人に知っている顔は見当たらない。ちょうど青信号が点滅し始めているところで、私は、
「じゃあ」
 と(あい)(さつ)もそこそこに走り出した。その時、向こうからトラックがやってきた。運転手もこちらに気づいていたし、私の足なら、トラックが信号の所へたどり着く前に、十分、向こうへ渡りきることができた。けれど、次の瞬間、私は強い力で引き戻された。目の前を、トラックが通り過ぎていく。
「痛いよ」
 私がそう言っても、「山姥」は離してくれなかった。細い体からは考えられないような強い力で、私を抱きしめて離さなかった。(たたみ)(にお)いがする。
「山姥」は泣いていた。
 ごめんなさい、ゆり。ごめんなさい。
 狂ったように繰り返す。道行く人が、こちらを()(げん)そうに振り返った。

 家へ帰ると、お母さんと妹はすでにピアノの教室に行ってしまった後だった。薄暗い家の中に、ぽつんとピアノだけが浮かんでいる。前はこれを妹と一緒に練習で使っていた。けれど、妹が才能を()(いだ)されてからは、「ゆーちゃんはお姉ちゃんだから、(ゆず)ってね」と言われることが増えて、ついに、妹ひとりだけのものになってしまった。別に誰も「弾くな」とは言わなかった。でも、ずっと、自分はこのピアノを弾いちゃいけないんだ、と思ってきた。
 ピアノの()()に座って、蓋を開ける。鍵盤に触れると、とても冷たかった。
 椅子が高すぎる気がして、調節しようと下りた時、ふと、私は「山姥」の家で、ピアノの椅子に座る時、高さを調節しなかったことを思い出した。鍵盤は私の弾きやすい位置にちゃんとあった。私の身長は学年のちょうど平均だ。
 もしかしたら。「山姥」には、あのピアノの椅子にぴったり収まるような、子どもがいたんだろうか。「山姥」に教わった通りに、合唱曲を弾く。口ずさみながら、ここは強く、ここはゆっくり。だんだん大きく
 がちゃりと、玄関のドアが開いた。お母さんと妹の顔が(のぞ)いた。なんでこんな早い時間に二人がいるのだろう、なんて考える暇もなく、私はお母さんの白い腕に抱きしめられていた。なんだか今日は抱きしめられてばかりだ。
(あき)(もと)さんのお母さんから連絡があったの。ゆーちゃんが交差点のところで、『山姥』に襲われてるの、娘さんが見たって」
 秋元、というのが華里ちゃんの(みょう)()だと思い出す前に、もう一度強く抱きしめられた。
「この前、ゆーちゃんが走って帰ってきた時も、『山姥』に嫌なことされたんでしょ。給食袋もその時取られちゃったんでしょ。ごめんね、話聞いてあげられなくて」
 違う、と言いたかった。あの日、きちんと給食袋は返してもらった。それは今自分の部屋のタンスの奥にしまってある。なんとなく、失くしたことにしたほうがいいと思って。(せっ)(けん)の香りが消えないようにと思って。
 違う、「山姥」は悪い人じゃないよ。そう言いたかった。でも、妹のピアノレッスンを放り出してまで、お母さんが帰ってきてくれたことが嬉しくて、どうしても、言えなかった。「山姥」に抱きしめられるのより、やっぱり、お母さんに抱きしめられる方がずっと嬉しかった。

 PTA会議はすぐに開かれた。私のお母さんと、PTAの役員をしている華里ちゃんのお母さんが中心になって、学校に訴えた。実害が出たのだから、「刺激しない」などと(ゆう)(ちょう)なことを言っているべきではない、と結論が出た。今度ばかりは、担任の長見先生も、何も言えなかった。「山姥」は、警察の注意を受け、そのまま施設へ預けられることになった。あの小さな家と荒れ放題の庭も、気づいたら(さら)()になって売りに出されていた。色々と聞かれただろうに、「山姥」は本当のことは話さず、弁明もしなかったらしい。給食袋を返したこと、交差点で私を助けたこと。すべては「山姥」と私の心の中だけに横たわっていた。
 私と華里ちゃんは、「山姥」を倒したヒーローのように扱われた。二人が勇気を出したから、「山姥」の正体が明らかになったのだ、町から追い出せたのだ、と。華里ちゃんは誇らしそうだったけれど、私は喜べなかった。けれど、私が本当のことを言うことはなかった。
 お母さんも、華里ちゃんも、みんな、勝手だ。自分の見たいものしか見ない。でも私は、その「みんな」に愛されないと生きていけないのだと、その時ようやく気づいた。
 長見先生に、「山姥」の過去について尋ねたのは、それからしばらくしてからだった。
「『山姥』は、ここの先生だったんですか」
 私の言葉に、長見先生は職員室の椅子から振り返った。先生はしばらく考えた後、自分のデスクの引き出しから、一枚の古い写真を取り出して、私に見せた。写真の中では校庭に並んだ教員たちが笑顔を作っていた。その中に、若かりし頃の長見先生が映っているのを、私は見つけた。その長見先生の横にいる人物を見て、私ははっとした。髪型も、服装も全く違くて、一瞬分からなかったけれど、それは若い頃の「山姥」だった。
「私と()(さか)先生は、同期だったのよ」
 長見先生はなつかしそうに目を細めた。
「いい先生だった。音楽の先生で、子どもたちにとても(した)われていた。歌うことが大好きで、ピアノも上手だった。みんなに音楽の楽しさを知ってほしいって、いつも話していた」
 そういえば、「山姥」と一緒に歌ったとき、楽しかったな、と私は思い出した。
「保坂先生には娘さんがひとりいて、その子もこの学校に通っていたの。ピアノの上手な子でね、音楽会とかで娘さんがピアノを弾くたびに、保坂先生、すごく誇らしそうだった。でもね」
 その娘さん、亡くなっちゃったの。私は思わず息を()み込んだ。
「事故だったの。そこの交差点で、トラックに()ねられて。それからなの、保坂先生がおかしくなっちゃったのは」
 娘が死んでも、保坂先生は教師を辞めなかった。でも、時折、子どもたちがグラウンドで遊ぶところや、登下校する様子をじいっと見つめるようになったという。
(つら)かったんだと思う。自分の娘が生きていたら、あの中に今もいたはずなのにって。どこかにいるんじゃないかって、探さずにはいられなかったんだと思うの」
 ある日、保坂先生はひとりの生徒に()()を負わせてしまった。その生徒は帰り道、車道を横切って帰ろうとしたところを保坂先生に見つかった。保坂先生はその子の腕をつかんで、車道から連れ出した。その子をつかむ保坂先生の力があまりにも強かったらしい。後日、その子の親が学校に乗り込んできた。学校は、保坂先生が故意にやったわけではないと弁護したが、保坂先生はなんの弁明もせずに、黙って学校の先生を辞めてしまった。保坂先生はいっそうおかしくなってしまった。ただ遠くの方から、何をするわけでもなく、前にも増して子どもたちをじいっと見つめた。夫が出ていっても、娘の(ぶつ)(だん)が夫の実家に移されても、急激に髪が白くなり「山姥」と呼ばれるようになっても、ただじいっと見つめた。
「保坂先生が学校を辞められてしばらくは、私もお見舞いに行ったりしたけど、ピアノがね、ぽつんとあるの。娘さんが弾いてたやつ。保坂先生ね、ずっとそれを(みが)いてるの。誰も弾く人がいないのに、ずっと。だから、気持ちを切り替えるために、ピアノを売りに出したらどうか、って提案したの。そしたら、保坂先生、まるで鬼のような顔をして叫んだの。なんてこと言うの、出ていって、って。それ以来、家を訪ねていくことはなくなった」
 私は、なにも言えずに長見先生の話を聞いていた。私は、「山姥」になんてことをしたのだろう。ただ子供のことだけを考えていた「山姥」を、なんて(ざん)(こく)な形で裏切ってしまったのだろう。
「その、保坂先生の娘さんの名前、なんて言ったんですか」私は聞いた。
「ユリちゃん、って言ったわ」
 家へ帰ると、私はタンスの奥にしまってあった、あの給食袋を出した。石鹸の香りは、もう、ほとんどしなかった。

【おわり】