【入選】B駅行き愚者のバス(著:遠窓ヒスイ)

「またこの人か」と思って、私はおばさんを見上げた。
次のバス停で降りるために、私は座ったまま手を伸ばして、降車ボタンに触れる。車内には音が響き、全てのボタンが一斉に灯る。怪物の、沢山の赤く光る眼のようである。
バスが停車し私が立ち上がると、前に立つおばさんは、すかさず差し込むように体を捻じり、私の残した空席に腰かけた。バスは私だけを降ろして、次のバス停へと向かう。私は職場へ向かって歩き出す。このおばさんは、毎朝の黒い染みのような憂鬱だった。
別にどうということは無いはずだった。おばさんは、私が毎朝ぴったりこの時間のバスに乗り、このバス停で降りるということを知っていて、毎朝私の面前に立っているというだけである。見たところ年齢は五十代かそれくらい。社会的な規範からいっても、まだ席を譲る必要性もないだろうから、私にはなにも不都合が無い。ただ、毎朝私の残した席に座られるだけ。しかし、私はそれが気に入らなかった。
このバスは、A駅からB駅の間を運行している。私はA駅の始発で乗り込み、おばさんはその途中駅から乗り込んでくる。B駅はこの辺りでも一番大きな駅で、皆ここを目指しているのだから、私のように途中下車をする人などは居ないに等しかった。それなりに混みあう車内で、おばさんにとって私は丁度都合の良い存在である。
だが、席を狙うおばさんの隙のない眼つき、私の前の位置を人を押しのけてでも死守しようとする卑しさ、あるいはバスの中でのほんの数十分を「何としてでも座りたい」がために、こんな惨めなことをする彼女の、肉体の乏しさを私は憎んでいた。他の人は構わない。ただ、このおばさんにだけは、私のあとに座ってほしくなかった。誰かが、おばさんが乗り込むより手前のバス停で、私の前に立ったとき、私は心の中で応援した。どうか、おばさんよりも先にあなたが座ってくれますように。私の空席は、なにも知らない誰かに偶々訪れる幸運でなければならなかった。おばさんの座るそのときのために席を温める、予定された役割ではなく。
その日、私の前に立ったのはスーツ姿の女性だった。年齢は三十代といったところか。つり革につかまって、雑居ビルの看板だの、街路樹だの、やたらに車間の狭い対向車だの、目まぐるしく変わる窓の外を見ている。丁度よかった。おばさんと席を争ってもらうのに丁度いい。
例えばこれが男性であると、男性のほうからおのずとおばさんに席を譲ってしまうというのが今までの経験だった。一応のレディーファーストの精神か、または、ただ単におばさんの情熱を帯びた無言の圧力に屈しているだけかもしれなかった。おばさんに勝つためには「座りたい」という信念がなくてはならない。そもそも体力のある男性は、B駅までの数十分、立って過ごしても構わない人が大半のようである。少なくともこのおばさんの代わりに座った場面を、私は見たことがない。
では、この女性はどうか。スーツを着ているということは通勤だ。足元は7センチのヒール。この後仕事を控えている。朝からなんて、なるべく疲れたくはないだろうから、目の前の席が空けば迷わず座るだろう。もしかしたらいいものが見られるかも知れない。そう思うと、私の頭にかかっていた、朝もやのような眠気が次第に晴れていくような心地がした。
少し経ってバスが停車した。件のおばさんが乗り込んでくるのが見える。私は寝ているかように俯きながら、さり気なく様子を窺う。
まず、おばさんは運転手に定期券をちらつかせながら車内を見渡し、すぐに私の席に近づいた。次に、つり革を摑むと、スーツの女性の隣に差し迫り、半歩分の足を女性に向かって突き出した。
私は横目で女性を見上げた。彼女は「意味が分からない」といった怪訝な表情を浮かべている。それもそうだった。何も事情を知らなければ奇妙に映ることだろう。車内に空いているつり革など他にもあるのだし、わざわざ彼女の隣を陣取るのは不可思議である。しかし女性は、持ち前の都会人らしい作法で、にじり寄るおばさんについて放念し、無視をきめることにしたようだった。
そのまま数分バスに揺られている間にも、おばさんは隙を見せなかった。自分が不利になりそうな要素を徹底的に排除するのが、この間、おばさんの清廉な務めであるかのように。
いよいよだった。私が降車ボタンに指先で触れる。ランプは音を立てて光る。バスが次第に速度を緩めたとき、おばさんは殆ど、横の女性にぶつかるようにして位置を取った。いつもなら、私が立ち上がればそのままおばさんが体を捻じ込み、なんてことない表情で座席に腰を下ろすことだろう。しかし今日であれば、あるいは。
バスが停車した。ため息のような空気圧の音がして、扉がひらく。私は席を立ちあがる時、普段よりもゆっくりと、さらにおばさんに私のカバンを当てて進行の邪魔をするように、女性とおばさんの間を通り抜けた。私は降車のきわ、後ろ目で結果を追う。
勝った。女性はヒールの爪先を、おばさんよりも僅かに先に進め見事、座席に落ち着いたようである。音を立てて扉が閉まる。バスが遠ざかる。
その日は一日、なんだか浮ついたような心地で過ごした。どうしようもない種類の喜びだった。
◆
次の日は、最近では珍しい土砂降りで、車内はいつもより混雑していた。肌がべたべたする湿気、生乾きの服の臭い、傘から滴る埃に汚れた水。人の熱気と交わって、空気は重く蒸されている。
バスが停車し、いつものようにおばさんが乗り込んできた。昨日のようにはいかないだろう。あんなに運の良い日は滅多にない。今日はまたいつも通り、この席はおばさんに占拠される。
私がうんざりして顔を上げた時だった。なんと、おばさんが二人に増えているではないか。私の見間違えだろうか。夢か、湿気の見せた幻か。しかしもう一度よく見ても、私の目の前には、やはりおばさんが二人並んで立っているのだった。
思えば、今までおばさんの顔をまじまじと見たことはない。なんとなくの低めの背丈、白髪の混じる短い髪、つり革を摑むやせぎすの手首で、ああ、あのおばさんだと判断していた。
私は、二人のおばさんをよく見比べた。よく見れば、当たり前だが違う顔だ。ただ概して同じ造形だった。私はもともと人の顔を覚えるのは遅い方だし、これでは区別がつかなくても仕方がない。そのまま、おばさんの持ち物に視線を滑らせる。一人は黒いリュックサック、もう一人は、赤いトートバッグを持っていた。
私は、どちらのカバンにもよく見覚えがあった。ということはつまり、二人いたのだ。私の席を狙うよく似たおばさんが、二人。
昨日、スーツの女性と席を争って座れなかったのは、黒いリュックのおばさんの方だ。人の顔の見分けがつかないので、私はよく持ち物で人を判断する。
カバン、靴、時計など、服よりも変える頻度が低い小物、こっちのほうがその人を決定づける要素に富んでいた。かたや人間ときたら、大体似たような肌の色の上に、これまた似たようなパーツがついているだけで分かりにくい。人の顔も、もっとカバンのように赤や緑や紫色だったり、目鼻の数だって、配置だっていろんなパターンがあればいいのにと思う。その方が単純で分かりやすい。
私は、どちらのカバンにも席を取られたことがある。黒リュックにも、赤バッグにも。本当は『取られている』わけではないので、これは正しくない表現だが、心情としてはこちらのほうが近かった。
黒おばさんと赤おばさんは、互いの足元を牽制しあうように見つめている。おそらく私が気がつかなかっただけで、今までもこのような場面があったのだろう。蒸し暑い車内で、ここだけ細い糸のようなピンとした冷たさが張りつめていた。
私は降車ボタンに触れた。音と共にランプが光る。私に視線がぐっと集まったのが分かった。見られている。私の足を、腰を上げるその瞬間を。
バスが止まる。勢いが急だったため、私たちは少し前のめりになった。私はゆっくりと腰を上げて立ち上がる。おばさん二人は、私にぶつかるようにして、静かに席を取り合う。
どちらも同じだった。黒でも、赤でも。私はどちらのおばさんも、同じだけ嫌いだった。だから、戦いに勝った黒おばさんが席に座ったところを見ても、どうでも良かった。
ただ、変な争いに巻き込まれてしまったな、と思った。
◆
二人のおばさんについて見分けがつくようになってから(といっても相変わらず顔ではなくカバンの色だが)、毎回、二人同時に乗ってきているわけではないことを知った。
多少の変動はあるが、月曜には黒おばさんだけが、そして金曜には赤おばさんしかいないのだ。その間の火・水・木には二人が乗っていることが多い。その場合も、横並びになることは、よほど車内が混みあっていない限り殆どなく、大概どちらかが私の前、もう一人はその対角で目を光らせている。
と、こういった具合に。小規模な生態調査のようである。渡り鳥研究家が、ハクチョウがいつの季節にどこにいるのかを観測するように、私はいつのまにかおばさんたちの行動パターンを理解していた。
特徴があるから、憶えやすい。彼女たちはいつも同じカバンを持って、同じバス停から乗り込んで、同じ席を取り合って……。ここまで思って私は「私もそうだからかも知れない」と初めて気がついた。私も、いつも同じカバンで同じような席にいるから、簡単に憶えられてしまったのだ。
一瞬でわかってしまうから、乗り込んだら即座に私の席の前に立つのだ。となれば、攪乱が効くかもしれない。私が私だと、おばさんたちにバレなければいい。
私は、次の月曜日いつもとは違う色のカバンを持ち、眼鏡を掛けた。座る場所も、出口から少し遠い奥まった場所に移動する。このカバンはひと回り小さく、いつもより荷物が入らなかったし、眼鏡のせいでいつも付けているコンタクトよりも視界はぼやけていて、おまけに出口から遠いとなると降車時には人を搔き分けなければならないという、これらすべての点で私に不都合だったが、これも、なにもかも、おばさんに席を取られないためなら、それでよかった。
おばさんたちのためではなく、他の誰かに不意に訪れる幸福になりたい。純粋な願いだ。私はそのためにできる限りを尽くすのみである。
しかし、私の見通しはどうやら甘かった。黒おばさんが乗り込んできたとき、おばさんは車内を見渡して、少しの間は私を見逃したものの、すぐに足はまっすぐこちらに向いた。顔を、憶えられている。この人は持ち物ではなく、私の顔を憶えている。私の、これといって特徴のない顔を。
行きずりの人を顔だけで判別できるなど特殊能力だ。きっと私は、おばさんがカバンを交換していたら、二人が入れ替わっていることなど気づけない。
敢え無く、私の空席はおばさんに明け渡された。もう諦めることしかできないのだろうか。苛立ちで首元が熱く感じたそのとき、脳に住む、理性の双子が私に囁く。
「私のあとの空席がどうなろうと、最初から気にする必要はないし、いちいちこんなことでストレスを感じることこそ損だ。非合理的だ。そんなことよりも、もっと建設的なことを考えましょう。毎日、晩御飯の献立で頭を悩ませているじゃない。こういう隙間の時間を、上手に活用したらいいのに」
それもそうだ。自分がこんな損までして、人に嫌がらせをする必要なんてない。
私は次の日から、強い意識が必要だったが、なんとかおばさんたちのことを気にしないよう努めた。始めは、その見知った姿格好が視界の端に入るだけでも不快だったが、窓の外の歩行者や、時折散歩で通りかかる犬の姿を見て、気を紛らわせる日々を重ねていくうち、次第におばさんのことがどうでもよくなってきた。
おばさんたちはその間も相変わらず、惑星の運行のように定められて私の前まで来た。二人並んだ時も、私はどちらの敵にも、味方にもならないように振る舞った。これは占いだ。黒と赤、どちらが勝つか、その日の運勢を適当に賭けてみる。
もし黒が勝ったら嫌いなあの人から電話がかかってこない、赤が勝ったら、かかってくる。黒が勝ったら帰りに雨が降る、赤だと晴れる。こんなように。
信憑性に関しては、甲羅の亀裂と同等だったが、この新しい試みはなかなか私を楽しませた。これだ、と思った。自分の中の悪意との正しい付き合い方。しかし、それにもやがて飽きた。
◆
その日の黒おばさんは、いつもと少し様子が違った。月曜日のことである。赤は月曜日には現れないので、今日は黒一人だけだった。
黒おばさんはなにやら、そわそわと私の頭の上のほうを眺めたかと思えば、窓の外に目線を移したり、カバンに何度か手をやってやめたり、要するに不審だった。
私はぼんやりと眠るようにして、気取られないようにおばさんの様子を観察していたが、ふいに私の手になにかが触れた。薄くて硬くて、チクチク痛い。驚いて目を開くと、おばさんは私になにかを差し出していた。それは小さなお菓子のようだった。中身は見えない。文字の印字されていない、小さな銀色の包装に包まれている。そのギザギザの袋の綴じ口が、私の指の側面を掠め、刺激を与えていたのだ。
おばさんは頑なに私と目を合わせようとはしなかった、無言で、このチンケな賄賂を差し出している。
私は失望した。賄賂がこんな得体の知れないお菓子だったからではない。おばさんが賄賂をなんてものを差し出したこと自体に、私は落胆していた。彼女はもっと図々しいのではなかっただろうか? おばさんはきっと私に自分が認知されていることを分かっている。分かったうえで、毎度私の席の前を確保し、人を押しのけ、多少無理があっても強引に座る。それは、私にどう思われてもいいからではなかったのか。
私にとって彼女は、押し迫る壁のようなもの、または災害などのような、人間性の外にあるものだった。災害は、交渉など卑しい人間の真似事などするべきではない。柔らかく腐った阿りをするべきではない。人間じゃなかったから、私は今まで彼女をなんとか許すことができていたのに。このとき私は、初めて心の底から彼女を呪った。
だからといって、突き返すのも違う気がした。私は、差し出され続けるお菓子の包装紙を見る。私はおばさんに対して、それを受けとる、拒否するという能動的態度を示したくなかった。私はおばさんの差し出すものをそのまま無視した。降車ボタンに触れる、バスを降りる。残された座席はそのままおばさんに渡った。
翌日火曜日、黒おばさんはまた私に賄賂を差し出した。懲りない。私は昨日のようにまた無視しようとしたそのとき、私は黒おばさんの背後に赤おばさんがいることに気がついた。
赤は黒おばさんと背中合わせになるようにして立っているが、顔はしきりに私の座席を窺っていた。そのとき、私はふと思いついた。手元に押し付けられるお菓子の包装を見る。これを、受け取ってみたらどうなるだろうか。
私は指にチクチク触るそれを、手の中に納めた。黒おばさんは相変わらず無言のまま、持つべきものが無くなった自分の手を引きあげる。私はそのとき、チラと赤の様子を観察していた。赤は間違いなくその瞬間を見ていた。
私しか降りないバス停の名が車内放送で示されたので、私はボタンに手を掛ける。そして降車のきわ、黒に向かって、しかしむしろその言葉を赤おばさんに聞かせるようにして、「どうぞ」と言って席を立った。その時、黒は私を見た。一瞬、私たちの視線は交わって、しかし間もなく離れる。私はバスを降りた。明日、どうなるかが少しだけ楽しみだった。
◆
次の日の水曜も、黒おばさんは同様のお菓子を差し出してきた。私は、素性の知らない人から貰ったものなど当然食べる気はないので、昨日の賄賂はそのままゴミ箱に捨てていたが、しかしそんなこととは関係なしに、今日も私はその指に触れるものを手の内に納めた。
赤おばさんは、昨日と同じような位置からやはりこちらを見ている。敢えて、例えばもっとお菓子を見えやすいように受け取ったりして、アピールをするようなことはしない。不自然だし、なにより赤おばさんはどんな些細な動作でも見逃さないだろうという嫌な確信があったからである。
私は、また黒に「どうぞ」と言って席を明け渡した。黒は何もいうことは無く、しかしいつもより余裕のある動作でそこに座る。赤はその間、少しも動かなかった。しかし、目だけはしっかりと黒おばさんに向けられている。私はそのままバスを降りた。
次の木曜日、やはり同じようなやり取りがあり、席は黒に譲られた。私は、もしかしたら見当はずれだったかもしれないと思った。赤は以前として動かない。この日も席は、黒おばさんが座った。
しかし、次の日の金曜日。黒が乗ってくることのない日。赤は私の前まで来ると、思い切ったようになにか差し出した。
やっと来た、と思った。私はこの時を待っていたのだ。
赤おばさんは黒と違って、真っすぐに私の目を見ていた。私はそこで初めてまともに正面から、赤おばさんの顔を見た。これといった特徴のない顔だ。それでもよく見て、何かを見出そうとすれば、顔のほくろが他の人よりも多少多いかも知れなかった。それも、ほくろなのか顔の染みなのか、老いによって少しずつその境界は崩れ始めている。目元には初老の皺が刻まれている。皺の間にはよれたファンデーションがわだかまっている。敢えて挙げられるのはこれくらいだった。
私が顔をじっと見すぎていたのか、おばさんは顔でも私に手元を見るように示した。手をずいと近づけて、顔を顰める。私は従って、目線を手元に下ろした。
赤おばさんの賄賂は紙だった。名刺くらいのサイズの小さな紙。私はとりあえず受け取って何が書いているのか確認する。パッと見の情報量の多さから、名刺でないことは明らかだった。名刺じゃなくて良かった。こんなにケチ臭く人と席を取り合っているような人間が、堂々と所属と本名を明かしても構わないのであれば、この尊大な怪物に勝てるものなどいないのである。
ともかく、私はその紙を見た。コンビニの引換券のようだった。対象商品を規定の数買うと、後日ペットボトルのお茶や、カップラーメンなどと引き換えられるといったキャンペーンの紙が貰えることがある。おばさんが渡しているのはその種類だった。
財布にゴチャゴチャと挟めていたのか、赤おばさんの顔同様、いくつも薄い皺がついている。引き換え対象商品、ペットボトルの水。期間は丁度今日から翌週の終わりまで。私は受け取った紙をカバンの中に仕舞った。
黒おばさんから貰う、食べられない菓子よりはよっぽど有用な賄賂だった。私は仕事帰りにコンビニに寄って、貰った水をなんとなしに飲みながら、次に二人が乗ってきたら、今度は赤おばさんに「どうぞ」と声を掛けようかと考えた。
◆
二人が揃ったタイミングは、次の週の火曜日だった。
黒おばさんはその吝嗇さ故に、赤おばさんのいない、つまり確定で座ることのできる日には賄賂は必要ないと判断したようだ。昨日の月曜日、黒おばさんは一人で乗ってきたため、私にあの不気味なお菓子を渡してこなかった。一向に構わないが、彼女のこんな貧しい現金さも併せて嫌悪の対象だった。
しかし今日は、黒おばさんの隣に、赤おばさんが迫っている。黒は赤おばさんの存在を認識してから、いつものように私にお菓子を差し出した。私はそれをすぐには取らず、黒おばさんにもハッキリ分かるように、隣に並ぶ赤おばさんを仰ぎ見る。
赤おばさんは黒を一瞥し、財布の中からなにやら取り出して、私に向けた。今度も名刺ほどの紙だった。ハンバーガー割引券。よくもまあ、こんなものを取っておけるものだ。私であれば、貰ったその日に失くしてしまうだろう。
私は黒と赤の贈与品を見比べ、ハンバーガーの割引券を選んで取った。ハンバーガーを買うような予定はないし、別に好きでもないので割引券に惹かれた訳ではない。これもお菓子同様にゴミ箱行きだ。しかし、黒おばさんには赤の賄賂を見せつけておく必要があった。こうすれば、黒はもっと別の賄賂を持ってくるだろう。今度はこれが、私の新しい遊びになった。
翌日、黒おばさんは商店街の五百円分の商品券を私に手渡した。赤おばさんはまたコンビニの引換券である。私は二つを見比べた。赤おばさんの引換券は、ポテトチップス一袋と引き換えができる。黒おばさんは五百円分の金券。私は金券を受け取って、黒おばさんを席に座らせた。
こういったやり取りは、この後何度か続いた。自分の懐をなるべく痛めないように、かつ相手よりも価値で上回れるものを、おばさんたちは考えて私に比較をさせた。
しかし、これは物に留まって、直接的に現金を渡してくるには至らなった。この辺りで変化は終わりだろう。これからは似たり寄ったりのつまらない価値選択になる。もし新しいものが見たいなら、新しいことをしなくてはならない。
ある日、黒おばさんが肩に虫を乗せていた。ほんの小さな蛾のような羽虫だ。きっとバス停待ちの際にでもついて、そのまま気づかず連れてきてしまったのだろう。私は二人がそれぞれ差し出すものではなく、黒おばさんの肩の蛾をティッシュで摑み取り、それをもって黒おばさんに「どうぞ」と席を明け渡した。このことは、単純な有用性の枠から外れた法則不明のものに、二人には映ったに違いない。
それからというもの、おばさんたちはありとあらゆるもの、葉っぱや、本や、殻付きの落花生、瓶の蓋、紅茶のティーバッグ、ハンカチなど、細々としているという共通項があるだけのものを次々と試した。
私は、自分の欲しいものではなく、そして物品の内容にかかわらず、恣意的に「どうぞ」の先を決める。それを受けて、またおばさんたちのアプローチが変わる。今まで何が私に選ばれたのか、これから何が選ばれるのか。私は適当に決めているだけだというのに、傾向を必死に解釈しようとする様が哀れだった。
◆
私がいつものように、おばさんたちの差し出す物品を検分していると、急にゴンと響く振動が床に伝わった。なにかと思って、人の隙間から状況を窺う。するとまたゴンとなにかで床を突いている音がした。それから人の服と服の隙間に、老人が見えた。老人の杖が、床を突いていたのだ。乗り込んだ直後が一番大きな振動で、それからは小さな揺れが、老人が動くたびに床を走っている。
老人は優先席の前に立ち止まった。明らかな社会的弱者だ。老いている上に、杖まで突いている。優先席のなかでも、最も優先されるべき一人。しかし、優先席を陣取るサラリーマンたちは居眠りのふりを続けていた。
老人は席を譲られるべきだった。誰もいないのか、このなかに。少しでも老人より元気な人間は。そんなのは見た目だけでは分からないという。しかし、本当だろうか。優先席に座る五人が五人、本当に全員優先席が必要な人間なのだろうか。他の席の人はどうだ。老人に近い普通の席は。誰も、誰も譲らないのか。
老人は席を譲られるべきだった。優先席がだめなら、私が譲るしかない。私はおばさんたちの貢ぎ物を無視して手を伸ばし、老人の腕に軽く触れた。
「ここ、よければどうぞ」
老人はその言葉に反応して、無言で席に腰かけた。
私はおばさんたちの衝撃を受けたような、その奥に落胆を滲ませる僅かな表情変化を楽しんだ。私は、この老人を助けたいから席を譲ったのではない。『社会的に』正しい行いだから席を譲ったのだ。別に老人のことなどは心底どうでもよかった。社会規範をある程度守らないと私の気がすまないというだけ。優先席に座りながら、席を譲らない人々など論外だ。社会の義務を放棄している。
このバスは人の醜さの煮凝りのようなものを積んでいる。私が正しくあらねばならないと思った。この醜さに染まらないために。一日くらいは、早めに席を立ってやってもよいだろう。
しかし、それでは終わらなかった。老人はそれから毎日この同じ時間のバスを利用するようになった。しかも、優先席ではなく必ず私の前に立って。おばさんたちと同じバス停で乗り込んでくるため、私が席を立ったとき、おばさんなら老人の代わりにここに座ることができただろうに、おばさんの図々しさも、この弱者の前には歯が立たないようだった。老人からは、くらくらするほどの加齢臭がした。甘い腐敗と死の臭い。きっと人は生きながらに段々と細胞が腐っていく。この嫌悪感は殆ど死への忌避と言って良かった。他の乗客は当然のように知らんぷりを決めて、自分の席からは動かない。
私は流石に我慢がならず、この日老人が乗ってきても眠ったふりをして席を譲らなかった。優先席の他の人、延いては私の隣に座るお前が席を譲ってくれと願って。しかし、老人はあろうことかそんな私の脚を杖でつついた。私はこの老人に一度席を譲ってしまったことを後悔していた。
◆
次の日、おばさんは立ってつり革を摑んでいる私を見つけて、僅かに目を見張った。
でも、もうおばさんにも関係ないはずだ。結局あの席には老人が座ることになったのだから。
私は初めから座席には座らないことにした。初めからこうするべきだった。これでやっと全員が不幸になれる。
始発から乗る私は、席に座らずつり革を摑む。席はあっという間に埋まっていった。その様子を私はただ立って眺める。もう途中下車する人間はいなくなり、空席も生まれない。乗り込んできた二人のおばさんは、そのまま諦めたように私の隣のつり革を摑んだ。
老人が来た。杖の音がゴンと響く。誰も席を譲ろうとはしない。優先席も、その他の人も、誰一人として。老人は立っている私の姿を認めて、怒りの表情を向けた。私はそれに応えて微笑む。
扉が空気圧の音を立てて閉まった。私たち全員は横並びになって一様にバスに揺られた。車内はひどく蒸している。
【おわり】