【最終選考作品】虚構の代替品(著:あみに)
いつだって冬は寒い。今年の冬は例年よりさらに寒かった。デパートの外商が持ってきたハイブランドのコートを冷たい風にはためかせ、クリスマスに向けて美しく飾られた表通りを私は歩いていた。コートの色はスモーキーピンク。今季の人気カラーらしい。
黒いロングヘアが風にはためきひらひらと揺れる。顔にかかった髪を退けて、私は表通りから一本入った道へと進路を変え、歩いていった。
庶民的な店がぽつぽつと並ぶ一角まで来て、私はカラカラと鈴を鳴らして目的のガラス扉を押し開いた。
待ち合わせ場所に指定した喫茶店へ入り、一人ですと店員に告げる。空いている店内で、お好きな席へどうぞと返され、私は通路に置かれたラックから適当に新聞を取り窓際の席へと向かった。かつかつと、履いているハイヒールの音が鳴る。足にぴったりフィットするようにオーダーメイドした逸品だ。
今日は薄化粧をしている。淡い色の口紅に、ブラウンのアイシャドウ。年齢のわりに大人びた格好をしているのは、今日が特別な日だからだ。
なんてことないチェーンの喫茶店。小洒落たカフェとは違い、漫画やスポーツ新聞が置いてある庶民的な店だ。
窓に面したカウンター席について一応メニューを開き確認してみるが、特にリニューアルされた様子はなく、いつもと変わりなかった。コーヒー、紅茶、それから様々なアレンジドリンク。
近くを通りかかった店員にホットコーヒーを頼み、鞄から古びたノートを取り出した。本当は紅茶の方が好きなのだけれど、と思いながらノートをめくる。
丁寧に扱わなければページがバラバラになってしまいそうなほど使い込まれたノート。三分の二ほど使われたそれは、日記帳だ。
その年の日記帳を鞄に入れて、私はいつも持ち歩いていた。革の表紙がついた立派なノートだ。使い込まれた革は、手によく馴染む。白紙になる手前のページは、二日前の日付で止まっていた。私は何度も読み返したそこを、もう一度読み始めた。
『だいぶ寒くなってきた。制服のスカートだと脚が冷たくなるけど、まだ自転車で通学する。お母さんは送迎の車を出すって言うけど、こうして自転車に乗って、景色を見ながら体を動かすのが好き。
もうすぐ期末テストだから、たくさん勉強することがある。お父さんはまた学年一位を期待してるみたいだけど、順位はどうでもいい。学ぶことが楽しい。
最近は特に、世界史が好き。ヨーロッパ史だけじゃなくて、アメリカ史、中国史、各地の歴史を学ぶと地理や天候に関することにも興味が湧くし、不思議な共通点があったりしてとても楽しい!
今日も本屋さんに寄って歴史の本を一冊買おうと思ったけど、明後日は誕生日パーティ。明日のうちにテストの勉強を片付けておかないと。いつもの喫茶店でコーヒーを飲んで、勉強して帰ろう。あそこが一番落ち着く。
まだ少し早いけど、今日はもう寝よう。明日からはさらに忙しい。』
読み終えて、私は周りの人に不審がられない程度に、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
そこには何の変哲もない日常が描かれているだけだったが、そこから先の白紙部分が、私にとって最も重要だったのだ。
ノートを鞄にしまい、私は持ってきた新聞を開いた。
待ち合わせ時間まであと少し。パラパラとあてもなく新聞をめくっていたら、読者投稿欄の記事が目に留まった。
『我が家のクローン事情』
ペットのクローン技術が一般に普及して随分経ちます。
我が家でも、保存していたペットの細胞から死んでしまった文鳥のクローンを再生することにしました。
去年、息子が可愛がっていた文鳥が病気で死んでしまいました。名前はぴーすけです。よく、ぴーすけぴーすけ、と人の声を真似てさえずりました。
動かなくなったぴーすけを見て途方にくれる息子に、私は声をかけることができませんでした。小学校に入学したばかりの子供に、死という概念は難しすぎました。
クローン再生した雛のぴーすけを連れて家に帰ると、息子は喜びました。ぴーすけだ! と叫んで私の手から鳥籠を受け取り、その日から大切に世話をしました。
羽の色も鳴き声も、かつてのぴーすけと同じでした。
オスの文鳥は、雛の羽が抜けて大人の羽に生え変わると、それぞれの個体ごとにオリジナルソングを作り、さえずり始めます。クローンのぴーすけにもその時期がやってきました。息子は、ぴーすけがいつさえずり始めるのかと、毎日首を長くして待っていました。
ある日、息子が学校に行っている間に、ぴーすけがさえずり始めました。ぴっぴー、ぴっぴー、と目覚まし時計を真似したようなさえずり方でした。
私は学校から帰ってきた息子に、ぴーすけがさえずり始めたことを話しました。
すると息子は喜び、ぴーすけを籠から出して腕にとまらせ、さえずるのを待ちました。
ぴっぴー、ぴっぴー、とさえずり始めたぴーすけを見て、息子は顔を曇らせ、ぴーすけを腕から払い落としました。ぴーすけは羽ばたきましたが、床に落ちてしまいました。
今まで大切に育ててきたぴーすけです。私は息子の行動に驚きました。
「何するの!」
「お母さん、こいつぴーすけじゃないよ! だってぴーすけぴーすけ、って言わないもん!」
「そんなこと言ったって、ぴーすけと同じ姿でしょ?」
「でも、違う。絶対に違うよ!」
その後息子はぴーすけに近づこうとしませんでした。私と主人は話し合って、クローンのぴーすけに全く別の名前をつけて飼うことにしました。その際、息子にはこの文鳥はぴーすけのそっくりさんで、実はぴーすけではないことを説明し、勘違いさせてしまったことを謝りました。
今では息子と文鳥は仲良く暮らしています。小学校二年生になった息子は、ぴーすけのお墓を作りました。
クローン技術には賛否両論あるかと思います。ですが我が家では、ペットの細胞を冷凍保存してクローンとして再生することは、二度とないでしょう。
P.N桜文子さん(37)主婦
ちょうど記事を読み終わった時、こちらに近づいてくる足音がした。
「お待たせ」
「お父さん」
私はにっこりと笑って、残っていたコーヒーを飲み干した。好きではない苦味と酸味が口に残る。ああ、好きじゃない。むしろ飲みすぎて嫌いになった。
「行こうか。母さんは車で待っているよ」
父は伝票を手に取ると、レジの方へ歩いていった。黒いクレジットカードで支払いを済ませているのを横目に、私は新聞を元の棚に戻す。
「今日はいつもより良いレストランに行くよ。お前の誕生日だからな、豪勢にいこう」
店の外につけられた黒い車には、いつもよりおしゃれをした母が乗っていた。白手袋をした運転手がドアを開けてくれ、私は後部座席へと乗り込む。隣に座る母が、私を見て言った。
「もっと良い喫茶店を使っていいのよ。ホテルのラウンジでもいいわ」
「ここのお店が好きなの」
はにかんでそう答え、私は助手席の父を見た。父は振り向いて朗らかに笑い、顔の皺を深くさせた。
「はは、中学生の時から変わらないな。いつもここで勉強していた」
私の年にしては随分と年齢が高い両親だと、周りからは思われることだろう。実際にそうだ。
緩やかに車が発進する。何不自由ない生活と、「私」を愛してくれる両親。
窓の外を流れる夜景を見ながら、私はいつも持ち歩いている鞄を撫でた。中身のノートが手に硬い感触を残す。
「私」が十七歳までつけていた日記帳。暇があれば私は一人でこのノートを読み返す。
「こうして十八歳の誕生日を祝えて幸せだよ」
「ありがとう、お父さん。私もよ」
裕福な両親の元に生まれ、某有名小学校に入学。小学校三年生の時ピアノコンクールにて優勝。中学進学後はバレーボール部に所属、全国大会で優勝。高校入学後は勉学に専念し、学年トップを維持。そして高校二年生、十七歳最後の日。
下校中に居眠り運転の車に撥ねられ、誕生日前日に彼女はその生涯を終えた。
「長かったわね……」
母が誰にともなくしみじみと呟く。父はその言葉を聞かなかったふりをして、立派なスーツの袖から覗く高級な腕時計を見た。
「少し遅くなってしまったな……ディナーを楽しもう」
レストランまでは少し距離があった。車内で母が話しかけてくる。
「その口紅もアイシャドウもよく似合っているわね。たくさん試した甲斐があったわ」
「そうね、お母さん。選ぶのも楽しかったわ。我儘を聞いてくれてありがとう」
私はニコッと笑って隣の母を見る。いつもは外商経由だが、今回はデパートまで出向いて、わざわざカウンターで購入したのだ。一般客の少ない時間帯だったからゆっくり見て回れて、とても……
とても、苦痛だった。
化粧品を用意しましょうと母に言われたとき、「彼女」ならどうするかを真っ先に考えた。この出来事は日記にはなかった。おそらく「彼女」は自分で選びたいと言う。それも、なるべくたくさんある中から。
「お母さん、私デパートに行って選びたい」
母は驚いたようだったが、すぐに「あなたらしいわね」と笑ったので、正解を選べてよかったと心の底から安堵した。
色選びも大変だった。「彼女」が好きな色はピンク。しかし、化粧品でピンクなんて選択肢が多すぎる。
こういうときは母を利用するのがいいと、私は学んでいた。
「お母さん、これとこれだとどっちがいいと思う?」
「そうねぇ……こっちかしら」
母が選んだのは、二つ持っているうちの淡いピンク色の方だった。
「じゃあ、リップはこれにする。あとはアイシャドウだね」
「何色がいいかしらね」
母はすごく楽しそうだ。期待を裏切らないように振る舞わないといけない。
「お母さんのおすすめの色はある?」
「ブラウンね。目元が上品に見えるわよ」
そう言う母の目元はブラウンだった。こういうのは指摘していかないと。
「お母さんも今日、ブラウンのアイシャドウだね」
「そうなの! お気に入りの色なのよ、これ」
「じゃあ、私もブラウンにしようかな」
そして、ベーシックな色ゆえにブラウンも数が多い。母に聞くという手法でなんとか化粧品選びをした私は、くたくたに疲れて帰宅した。
父が連れてきてくれたのは、超がつくほど高級なフレンチのフルコース。きちんとテーブルマナーを守ってそれをいただき、私は両親とのディナーを楽しんだ。これは私にとって特別なディナーだ。
十八年間、彼女の形跡をたどって生きてきた。正確には十七年と364日だ。物心ついた時にはひたすら彼女の日記を読み、彼女の好みを把握し、彼女の歩んだ人生をそっくり模倣した。両親がそれを求めていることを、幼い頃に私は知った。
彼女の形跡を辿ることは、唯一の生きるすべだった。
小学生になりたての頃、両親が言い争う声で目が覚めたことがある。あの日のことは忘れられない。
暗い廊下の先、明かりの付いたリビングのすりガラスの扉越しに、二人の声が聞こえてきた。
「あの子、全然英語ができないのよ。見て、この点数! やっぱり失敗だわ」
抑え気味な、しかし感情的な母の声がする。私はリビングから少し離れた闇の中で足を止めた。
「そんなことを言うな…まだ可能性はある」
少し疲れたような父の声が答えた。
「作り直すべきよ」
「無理だ、もう前回みたいに処理はできない……二回目は怪しまれる。それに、育て上げるまでに何年かかると思う? 俺たちの年齢を考えろ」
「でも……」
私は息を止めて、震える体を自分の腕で抱き締めながら部屋に戻った。ここにいることが両親に知れたら、終わりだと思った。
幾度となく聞かされた思い出話と、渡された日記帳。この時までその重要性を理解していなかった自分の愚かさに、今更ながら気づいた。
彼女にならなければ、彼女を演じきらなければ消される。ひとつ前の「私」は消されたのだ。
それまで己の思うがままに生きてきた。早期教育とやらで通わされている英語教室は好きでなかったからあまり勉強しなかったし、食べ物の好みも素直に告げてきた。しかし、それはとても危険なことだったのだ。
静かに部屋へ戻り、机のスタンドを一番暗くして付けて、私は引き出しに仕舞ったままだった日記帳を取り出した。そして、そのまま夜が明けるまで読み耽った。読めない漢字はすぐに調べて読み進めた。
彼女の考えていたこと、将来の夢、好きなこと、嫌いなこと、その日やっていたこと、小学校での生活、中学生になってからの部活、高校生になってからの過ごし方。
台本を読む役者のように、全てを頭に叩き込んだ。そして、必死でそのように振る舞った。
ピアノコンクールで優勝するために、どれだけ練習しただろうか。ピアノの先生には熱心だと褒められたが、命がかかっていれば誰だって熱心になるだろう。
中学生のとき、バレーボール部が全国大会で優勝できたのは偶然だった。さすがにチーム競技をコントロールすることはできないし、この年齢になってしまえば、「消される」ことはないだろうと思っていた。両親も高齢になってきたからだ。しかし油断はできない。味方は誰もいないのだから。
日記の試練は小学校から始まっていた。小学校の算数のテストが満点ではなかった、と言って号泣したというエピソードが書いてあったからだ。
まず、日記帳の日付に近い算数のテストで一問だけ間違える。テストの答案が返ってきたあとは、子役並みの演技をしなくてはいけなかった。
泣くときは、悲しいことや怖いことを想像しながら……悲しいこと……怖いこと……
私は、自分が「始末」される光景を想像して母の前でわんわん泣いた。
「次のテストで頑張りましょう」
母はそう言って私の頭を撫でた。少しホッとしたように見えたのは、かつての「彼女」も同じように泣いたことがあるからだろう。
中学生のときは部活と勉強の両立が大変だった。全国大会常連校なので練習は厳しく、時間も取られる。しかし、そんな中でも「彼女」は成績上位をキープし続けていた。私はいつも眠い目をこすりながら必死で勉強していた。一体彼女はどんな状態で勉強していたのだろう? 彼女をトレースすればするほど、その胆力に感嘆した。
高校生活で学年一位を維持することは、大変だったけれど自分一人の力でできることだったから、バレーボール部の大会ほど運に左右されることはなかった。ただ、トップレベルの進学校なので、バレーボールと同様にハードではある。でもそれは、「彼女」の頭脳が優秀なおかげでかなり助かった。「私」は記憶力も理解力も抜群にいい。
大学は、日本のトップの大学にするか海外の大学にするか、この頃から両親と話し始めた。母は日本の大学に進んでほしいようだけれど、父は海外大学を推していた。「私」は英語もできたので、選択肢はいくらでもある。
父は、世界史のある分野で権威のある教授がいるという海外の有名大学がいいんじゃないかと言っていた。その教授とは知り合いで、たまにオンラインチャットで話すことがあるらしい。
「彼にならお前を預けても安心できる」
父が優しく笑いながら言った。
私、本当は物理学を学びたい。その本心が言えたら、どんなによかっただろうか。
「お父さんの知り合いなら、私も安心して留学できるよ」
私はこう言うしかないのだ。
日記帳には、高校一年生のとき父にゴルフを教わったとの記述があった。だから、いつかは連れていかれるだろうと覚悟していた。このエピソードは、めずらしく「彼女」が失敗する話だ。どうもゴルフは苦手だったらしい。それなら思い切り失敗すればいいと、舐めてかかったのが私のミスだった。
父に連れていかれた打ちっぱなしで、フォームや打ち方を教えてもらい、初めてのひと振り。父が見ているし、素人の振り方でそんなに飛ばないだろうと適当に打ったつもりだった。
それが、まっすぐ正面のネットまで一直線。私はしまったと思って父の顔を見た。案の定、呆然としている。たまたまだからと必死に言い訳をして、それからはわざと外して打つようにした。
「彼女」に追いつかなくてはいけないし、「彼女」を追い越してもいけない。この絶妙なバランスの上で、私は生きている。
日記を読み込んでおいて本当によかったと思ったのが、十七歳の誕生日パーティだった。友達を十人も呼んでのホームパーティ。あらかじめ人間関係を整えておかないと、こんな人数は呼べない。無差別に招待状を送ればいくらでも人は来るだろうが、それでは意味がないのだ。仲が良い十人。それが重要。
高校に入ってからなんとか勉強の隙間時間を捻出し、友達との時間を作った。一緒に買い物に行ったり、映画を見たり、カフェでおしゃべりしたり。「彼女」に擬態するためとはいえ、家族から解き放たれるこの時は私にとってかけがえのない時間ではあった。ただ、ホームパーティで親に何を言われるかわからないので、表面上は「彼女」らしい態度は崩さなかった。
友達への誕生日プレゼントは欠かさない。クリスマスにはちょっとした贈り物。バレンタインデーには可愛らしい友チョコ。彼氏との悩みを聞いたり、勉強を教えたり、友達の友達を誘ってカラオケに行ったり。とにかく人との交流を増やすのに必死だった。
そして、誕生日当日。集まった友達はちょうど十人。過不足なく彼女と同じ。
飾り付けたリビングでパーティをしながら、みんなが私を祝ってくれる。プレゼントもたくさんもらった。
でも今日は私の誕生日ではない。「彼女」の誕生日だ。それも、最後の。
つつがなくパーティは終わり、私は疲れてため息をついた。
これが、十七歳の誕生日の出来事だった。
こうして、危ういながらもなんとか彼女のレールを辿り、今まで過ごしてきた。
しかしそれも、今日まで。彼女は死に、そして私が生まれる。
初めて迎える誕生日のディナーは、言葉で言い表せないほど美味しかった。両親は、じっくりと料理を味わう私を見ながら、嬉しそうにワインを楽しんでいた。私と両親、それぞれ違う喜びを嚙み締めながら、フレンチのコースは進んでいった。
「食後のお飲み物はいかがなされますか?」
食べ終わった後、テーブル付きのウエイターが聞きにくる。父はいつものように答えた。
「コーヒーを」
全員分。そう続けようとした父の言葉を遮り、私は言った。
「ひとつ、紅茶にしてください」
両親が私を見る。ひどく驚いた顔をしていた。それがどういう意味なのか、私には想像することしかできない。娘がおかしくなったと思ったのか、それとも単に好みが変わったことにびっくりしただけなのか。ウエイターは御辞儀をして去っていった。両親は何も言わずに私を見ていた。そんな両親を、私は笑顔で見返した。いつもの人懐っこい笑顔とは違う、私自身の少し冷たい笑み。
今日から先が、やっと私の人生。ハイヒールではなくスニーカーを履き、スモーキーピンクではなくブラックのコートを着る。世界史ではなく物理を学び、そしてコーヒーではなく紅茶を飲む。
人のクローン技術が汎用化されて、今年で二十年になった。今や人のクローンは一般に普及し、自らの遺伝子情報を保存しておく人がほとんどだ。
DNAの端についた、寿命を決定付ける遺伝子を安全に操作する方法も確立された。ともすれば癌の原因になるそれは、人の手で無限に伸ばすことはできなかったけれど、消費された分を安全にもとの長さへ戻すことは十分に可能だった。これで、「DNAを保存した時点の年齢分、クローンの寿命は短くなる」という宿命から人類は、いやクローンは解き放たれたのだ。
あと十年もすれば、記憶すら保存し復元できるようになるという。その保存は資金力のある富裕層から広まっていくだろうが、この両親は記憶の保存を望むだろうか。娘を失い、そしてまた得た。しかしそれは虚構だったのだ。そう遠くないうちに、彼らは十七年と364日の努力が無駄だったと知るだろう。あるいは、十七年と364日だけ夢を見られたことに感謝するだろうか。
それとも、もしかしたら。ほんの僅かな希望が頭を掠める。
お父さんとお母さんは、新しく生まれたこの私を、愛してくれるだろうか?
あまりに儚い望みは、培養器の中で再生された私の脳内で霞のように漂い、忘れることはあってもついぞ消えることはなかった。
運ばれてきた紅茶を飲み、その香りに満足しながら私は喫茶店で読んだ新聞を思い出した。コーヒーに手を付けず戸惑ったままの二人を置いてけぼりにして、絶妙にベルガモットが香る上質なアールグレイを味わう。
もう少しして両親がこの世からいなくなったら、私も新聞の読者投稿欄に投稿してみようか。
「我が家のクローン事情」って。
【おわり】